心の扉を開けて・・・
『心の扉を開けて……』最近、ジュンが素っ気なくなったと、真紅は感じていた。周囲の目には、相も変わらず主従関係の幼馴染と映っているだろう。実際、普段の高校生活において二人は大概、そのように行動していた。今までどおりの、なにも変わらない関係。けれど、真紅には解っていた。ジュンの様子が、少し変わったことに……。 「ジュン、今日は、一緒に帰れるのかしら?」真紅がそう切り出したのは、放課後の清掃時間のことだった。しかし、ジュンは―― 「え……あ~。今日は、ちょっとなぁ」歯切れの悪い返事。今までなら、良否に拘わらず、こんな反応は示さなかった。真紅が求めている返事は二つだけ。 『いいよ。一緒に帰ろう』 『ごめん。用事があるから、先に帰ってて』その、どちらかだ。ジュンも、それは承知している筈なのに。――やはり、様子がおかしい。いつも身近にいるからこそ、どんな僅かな変化も鋭敏に感じ取れる。けれども、その理由までは推し量れなかった。真紅は、ジュンの横顔を暫し見詰めて、小さく息を吐いた。 「そう……残念ね。 今日は、帰りがけに喫茶店でお茶でもしようと思っていたのだけれど」 「悪いな。また今度、誘ってくれよ」 「……解ったわ。それじゃあ、また明日ね」清掃が終わり、掃除当番だった生徒達が一斉に帰り出す。ジュンもまた箒を片付けるなり、鞄を手にして、そそくさと教室を後にした。一体、何を急いでいるのだろう?他人のプライベートを詮索するなんて下品だと思いながらも、気付けば、真紅はこっそりとジュンの後を追っていた。ジュンが、階段に差し掛かる。上か、下か――真紅が見ていることなど全く気付かずに、ジュンは階段を登っていった。 (上? 何をしに行くのかしら?)放課後に、何の用事が有るというのだろう。ジュンは帰宅部だった筈だ。上の階は一年生のクラスになる。後輩に知り合いでも居る、と?そんな話は、聞いた憶えが無かった。上の方で、聞き慣れた音がした。屋上への扉が開かれる音…………。確証は無かったが、真紅は直感的に、ジュンが出ていったのだと思った。足音を忍ばせて、真紅は屋上の扉前までやってきた。ジュンは、屋上で何をしているのだろう? もしかして、誰かと待ち合わせ?――私の誘いを断ってまで、待ち合わせている相手とは、誰?まさか……彼女が出来たなんて事は?さっきから疑問ばかりが頭をよぎり、思考が纏まらない。一体、どうしたと言うのだろう。真紅は、不意に自分の心を襲った、得体の知れない不安に苛立った。 (何をウジウジと悩んでいるの、私は!)答えを得ることなど簡単だ。この扉を開いて、ジュンに直接、訊けばいい。そう……至って単純なことなのだ。悩む必要も無いほどに。 「この、扉さえ開いてしまえば……」ノブに伸ばす右手が、緊張で震える。手首に左手を添えて、真紅は漸く、ドアノブを握り締めた。静かに回して、ゆっくりと押し開ける。ふと、風に乗ってジュンの声が届いた。耳を澄ます真紅。彼は、誰かと喋っている。なんと言っているの? 「ジュン。あのね…………私と、付き合って欲しいの。ダメ?」 「……いいよ。僕で良ければ」真紅の視界が、一瞬にしてブラックアウトした。 (今……ジュンは…………なんて言ってた?)――水銀燈。私の幼馴染にして、いつも私の前に立ち塞がってきたライバル。その彼女が、今また自分から大切な存在を奪っていこうとしている。阻止しなければならない。それだけは、どうしても……。二人の間に乱入するべく、一気に扉を押し開けようとした真紅の脳裏に、最近の記憶が去来した。この頃、ジュンが素っ気なくなったのは、私に愛想を尽かせたからではないの?今の関係が、ずっと続いていくものと思っていた。彼は私を、ずっと見守り、支えてくれるものと信じていた。でも、それは独り善がりでしかなかったらしい。ジュンはもう、私との関係に疲れてしまったのだろう。だから、私の甘えと慢心を嘲るように、彼の心は水銀燈へと傾いてしまったのだ。――こんな傲慢な私に、ジュンと水銀燈の仲を引き裂く権利なんてない。ジュンも、水銀燈も、真紅にとって無二の親友だった。だからこそ、自分の我を通して、二人を不幸にする事が許せなかった。 「…………お幸せに、二人とも。ジュン……今まで、ありがとう」真紅は音を立てないように気を付けながら扉を閉めると、階段を駆け下りた。真紅は必死に、口元を押さえていた。そうしていないと、嗚咽が漏れてしまうから。胸が張り裂けそうに痛い。青い瞳から止めどなく溢れ出す涙。どうして、こんな事になってしまったの?考えたところで、答えなど見付からない。見付けたくもない。そもそも、考えたくもなかった。泣きながら教室へ戻って鞄を掴み、それから、何処をどう走ったのか……。真紅は学園裏の、城址公園に辿り着いていた。誰も居ない、夕暮れの公園。真紅は胸の奥から、今まで堪えていたものが怒濤の如く溢れてくるのを感じた。もう、呑み込むことなどできなかった。 「うわあぁぁぁぁぁ――――っ!!」絶叫に近い嗚咽。感情を押し止められない。真紅はただ、広い公園の真っ直中に立ち尽くし、幼子の様に泣きじゃくった。園内の木立に、真紅の泣き声が響く。辺りは夜の帳が降り始めて、街灯がちかちかと灯りだした。真紅はその場に頽れ、両手で顔を覆い、ただただ泣き続けた。どれだけ、泣き続けていたのだろう。真紅は泣き疲れて、しゃくり上げていた。まだ、胸が痛い。あれだけ泣いたというのに、涙は溢れ続けた。 (辛いの……苦しいのよ、ジュン)心の中で、ジュンに救いを求めてしまう。側にいて欲しいと、願ってしまう。この甘えが、破局を招いたと言うのに……。辛さから逃れる術は、ただひとつ。それは、ジュンへの想いを断ち切ること。恋心を捨て去って、今までどおりの親友同士に戻ること。真紅はハンカチを取り出して、ぐいっ……と目元を拭った。 (しっかりしなさい真紅! こんなの、私らしくないのだわ)深呼吸を繰り返す。しゃくり上げていたのが、徐々に静まっていく。そうそう、その調子。落ち着きなさい……落ち着くのよ、真紅。涙が止まり、続いて、身体の震えが止まった。胸はまだ苦しいけれど、それも直ぐに収まるだろう。真紅は星空を見上げて、心の扉を閉じた。 「さようなら、ジュン」翌日も、普段どおりの日常が待っていた。変わった事と言えば、ジュンと水銀燈が交際を始めたことぐらいだ。勿論、学園中を賑わす大スクープとなったのだが、心の扉を閉ざした真紅は、そんな事で感情を掻き乱されたりはしなかった。 「おめでとう、二人とも。遅すぎたくらいなのだわ」報告に来たジュンと水銀燈に、真紅はにこやかに応じ、祝福した。二人には、幸せになって欲しい。それは本心からの願いだった。通学途中で、偶然に出会っても。共に、屋上で摂る昼食でも。教室で雑談している時も。二人揃って、遅刻してきたり。どこで二人の仲睦まじい姿を目の当たりにしても、真紅は笑い続けていられた。 「貴方たちは、本当にベストカップルだわ」 「見せ付けてくれるのね、お二人さん」 「私がヤキモチを焼くとでも思っているの?」 「うふふ……本当に、仕方のない人たちね」親友達と、からかったり、ふざけ合ったりする。その日常は、とても居心地の良い時間であり、空間だった。真紅が自らの心を犠牲にしてまで求めた安らぎが、そこにある。――そう。これで良かったのよ……これで、ね。そんな、ある日のこと。授業の合間の休み時間。真紅は何とはなしに、窓の外を眺めていた。そこに、ジュンが真紅に話しかけてきた。 「なあ、真紅。今日、ちょっと時間あるかな?」 「? なんなの、いきなり」 「うん……放課後に、屋上に来てくれないか」 「どういった用件で? 私、あまり暇ではないのよ」 「それは、ちょっと……」言い淀むジュンに冷ややかな視線を向けて、真紅は肩を竦めた。 「まあ、五分くらいなら構わないのだわ。それで充分?」 「充分だよ。それじゃ、頼んだからな」それだけ言って、ジュンは再び水銀燈との会話に戻っていった。待ち合わせだなんて、どういう事だろう。 (貴方には、私なんかに構ってられる時間は無い筈だわ)その時間を、水銀燈とのデートに割り振れば良いものを。本当に、要領が悪いところは治らないのね。水銀燈も、よく不満を漏らさないものだわ。真紅は二人の様子を眺めながら、そんな事を思った。放課後、屋上に赴いた真紅は、ジュンの姿を認めて声を掛けた。 「待たせた?」 「いや……全然」 「そう。で? 私を呼び出した用件はなに?」 「えっと…………これ、なんだけどさ」差し出される小箱。奇麗にラッピングされている。これは一体、なんなのだろう? 心の扉が、どん! と叩かれた気がした。 「今日って、真紅の誕生日だっただろ?」どん! 再び、心の扉が叩かれる。 (イヤ……叩かないで) 「こんな事するのは、どうかと思ったんだけど」どん! どん! (やっと、閉じこめたのよ。思い出させないで) 「水銀燈に言われてさ。プレゼントしようと――」どん! どん! どん! (イヤ! イヤっ! イヤぁっ! もう止めてっ!!) 「誕生日、おめでとう。真紅」 「イヤああぁぁぁっ!!!」ばぁん! 真紅の中で、心の扉が開いてしまった。ジュンを愛しく想う気持ちが、胸一杯に広がっていく。溢れだす涙を、止めることが出来ない。口から発せられるのは嗚咽だけ。真紅は両手で耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んでしまった。そして、戸惑うジュンに、途切れ途切れの言葉をぶつけた。 「止めて……よ。どう……して……今更、こんな」 「真……紅」 「閉じ込めていたかったのに…………忘れていたかったのに!!」 「…………真紅」 「このまま…………貴方への愛を……消し去ってしまいたかったのに」 「そんな……真紅、ホントなのか、それ?」泣き喚く真紅に、ジュンは愕然としていた。代わりに話しかけたのは、別の人物。 「やっと、本音を口にしたわねぇ……真紅ぅ」給水塔の影から現れたのは、生涯のライバルである水銀燈だった。 「す、水銀燈! これは――」 「聞いてのとおりよぉ。真紅は、ジュンのことが、だぁい好きなの」水銀燈の嘲るような口調に、真紅の神経が逆撫でされた。今までは押し殺されていた感情が、さながら火山の噴火の様に、出口を求めて吹き出そうとしていた。真紅は頭を上げて、突き刺さるかと思える程の、鋭い視線を水銀燈に向けた。 「水銀燈! 私は、貴女が憎い! 私からジュンを奪った、貴女が憎い!」 「そぅお? なら……私を殺してでも、ジュンを奪い返してみればぁ?」水銀燈は、蹲る真紅を尻目に、ジュンの側に歩み寄って抱き付いた。 「貴女は負け犬よぉ、真紅ぅ。心を閉ざして、引きこもる事しかできない」 「違うわ! 私は貴方たちの幸せを――」 「願ってくれる、と? おこがましいわねぇ」水銀燈は、真紅を見下して、くすくす……と笑った。 「無様だわぁ……貴女。こそこそ逃げ回ってるだけの、敗北者だものぉ」 「――――っ!!」真紅は、弾かれたように跳ね起きて、屋上から走り去った。その後ろ姿を茫然と眺めていたジュンの頬を、水銀燈が抓った。 「ほぉら、ボサッとしてないで、真紅を追い掛けなさいよぉ」 「えっ?」 「ジュンだって、本当は真紅の事が好きなんでしょ?」 「でも、水銀燈の気持ちは……」 「いいのよ。私の事は……構わないで良いの」 「バカ言うなよ。そんな真似、僕には出来ない」 「あ~もうっ! つべこべ言わずに、さっさと行きなさい! 苛つくわねっ! アンタみたいな愚図は大っ嫌いなのよ! 別れてやるわ!!」 「ゴメン、水銀燈…………本当に、すまない」それが水銀燈の強がりだと言う事は、ジュンにも解っていた。けれど、これ以上、彼女の気持ちを傷付けることは出来ない。ジュンは真紅の後を追って、走り出した。ジュンの背中を見送りながら、水銀燈は溜息を吐いた。 「本気の恋だったのになぁ……私ってホント、おばかさぁん」でも、心を閉ざしてしまった親友を、放ってはおけない。フライングを犯したのは、自分なのだ。真紅の気持ちを犠牲にしてまで、自分の幸せを追求することは出来なかった。 「私って、いっつも貧乏クジねぇ。イヤになるわぁ」 戯けた口調で呟く水銀燈の頬を、一筋の涙が零れ落ちた。ジュンは全力で、真紅の後を追っていた。意外に真紅の脚が速くて、距離が縮まらない。だが、ブロンドが目印となるので、見失うことはなかった。 「真紅っ! 待ってくれっ!」呼びかけても、真紅は止まらない。声は届いているだろうに。階段を駆け下り、廊下を横切り、靴も履き替えずに玄関を飛び出していく。ジュンも、躊躇いなく追い掛け、走り続けた。学園の裏へ走り去る真紅。城址公園へ行くつもりらしい。だいぶ息が上がっていたが、ジュンは脚を止めなかった。長い長い石段を駆け上がっていく二人。真紅に疲れが見え始めた。明らかにペースが落ちている。追うジュンの脚も鉛のように重くなっていたが、徐々に差が縮まっていく。そして――――石段を登りきった所で、ジュンは真紅の身体を抱き留めた。 「やっと…………捕まえ……たぞ」 「…………ジュン……ごめ……んなさい」息も絶え絶えの二人は、その場にバッタリと倒れ込んでしまった。それから暫くして息が元に戻った頃、寝転がったまま、ジュンは口を開いた。 「水銀燈にフラれちゃったよ」苦笑しながら話すジュンの顔に、未練がましさは無かった。失恋の辛さは、当然ある。しかし、安堵を覚えていたのも事実だ。ここ最近の真紅は、表情が乏しくなる一方だった。人形の様になっていく彼女を見ることは、水銀燈だけでなく、ジュンもまた苦しかったのだ。 「水銀燈が、本気でそんな事を言う筈がないのだわ。だって彼女は――」 「分かってる。だけど、これだけは言わせてくれ」言わなければ、ジュンも、水銀燈も、真紅も、惨めなままで終わってしまう。このままでは、友情そのものが破綻してしまう。 「僕は…………真紅が好きなんだ」 「じゃあ……どうして、水銀燈と付き合ったりしたの?」 「不安だったんだよ……真紅の気持ちが、ちっとも見えてなかったんだ」 「そうね……幼馴染みという関係に甘えて、私も気持ちを伝えていなかったわ」ジュンは起き上がると、真紅に手を差し出した。 「真紅……今更だけど、僕と正式に付き合ってくれないか?」 「今はまだ、答えは出せないわね。仕切り直しよ、お友達から――」真紅は清々しい笑顔を浮かべて、しっかりとジュンの手を握った。石段の下で、水銀燈が待っていた。彼女の表情も、晴れ晴れとしている。 「戻ってきたわねぇ、負け犬さぁん」 「バカ言わないで。私が、いつ負けたと言うの?」開口一発目から毒舌を放った水銀燈を、真紅はびしっ! と指差した。 「今回は戦略的撤退をしただけよ。勝負は、これからなのだわ!」 「いいえぇ。次に勝つのも、私の方よぅ」負けじと、水銀燈はジュンにウインクしてみせた。 「今、ジュンの心を掴んでいるのは、私だものぉ」 「ふざけないで。ジュンの心は、まだ誰も掴んでいないのだわ」 「あぁら? 諦めが悪ぅい」 「油断しないことね、水銀燈。足元を掬われるわよ」ばちばちと熾烈に火花を散らし合う二人。いま、彼女達は同じスタートラインに立っていた。再び戻った、幼馴染みの、微妙な三角関係。いつかは答えを出さなければならないけれど……今はまだ、この関係を続けたい。それが、三人に共通した想いだった。ただ、誰も口には出さなかったが、三人は心の中で誓い合っていた。――今度こそ、誰も後悔しない答えを出そう……と。
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