教師達の臨海学校
『教師たちの臨海学校』 ――七月初旬。薔薇学園の二年生は、毎年恒例の臨海学校に来ていました。鄙びた海辺には、学園所有の研修寮があったのです。今日は、その初日。長距離のバス移動でくたびれていた生徒や教員は、寮内に怪しい雰囲気が漂い始めた事に、全く気づいていませんでした。 「梅岡先生。今夜辺り、どうです?」内山田教頭先生が、厨房で片付けをしていた梅岡先生に声を掛けたのは、生徒達の昼食も終わって、一段落ついた頃でした。 「ブラッドレイ先生と、レイザーラモン先生も行くそうですよ」 「あ、例の件ですか。勿論、参加しますとも」竹刀を振るようなポーズを取った教頭先生に、梅岡先生は当然と言わんばかりに何度も頷きました。この二人、実は教頭が主催する親睦会『薔薇学釣遊会』の会員なのでした。勿論、教頭の口から出た両名も会員です。 「ふふふ……この先の岬は、絶好の磯釣りポイントですからね。 私なんか、これが楽しみで臨海学校に来てるようなもんですわ」 「ほっほっほ。それは私も同じですよ」二人は、今夜の釣果に期待を寄せて、ニンマリと笑ったのです。――その夜。夜中の磯場に瞬く四つの明かりが、潮風に揺れていました。今夜の釣果はいつになく好調で、みんな上機嫌でした。 マ…………ス・カ? ……キ・マ…………カ?鼻歌混じりに暗い水面のウキを眺めていた梅岡先生は、潮騒に紛れて人の声が聞こえた気がして、隣にいた教頭先生に話しかけました。 「山ちゃん、なんか言いました?」 「は? 私は何も言っていませんよ。梅ちゃんの空耳じゃないですか?」教頭先生は怪訝な顔をして、頚を横に振りました。因みに、山ちゃんとは内山田教頭のことです。釣り場ではニックネームで呼ぶ事が、薔薇学釣遊会での慣例となっていました。もしかしたら、ブラッドレイ先生かレイザーラモン先生の鼻歌が、潮風に乗って聞こえたのかも知れない。そう考えて、梅ちゃんが再び釣りに専念していると、今度はもっと明瞭に、先程の声が聞こえたのです。 マ・キ・マ・ス・カ? マ・キ・マ・セ・ン・カ?流石に気味が悪くなって、梅ちゃんは辺りを見回しました。すると丁度、山ちゃんが市販の配合餌とオキアミを混ぜ合わせたコマセを、スコップで愉しそうに掻き混ぜているのが見えました。 「撒きますか~♪ 撒きませんか~♪」お前かよ、ヂヂイ! 梅ちゃんは心の奥で、山ちゃんに罵声を浴びせました。幽霊の正体見たり、枯れ尾花――と、川柳にあるように、正体が判ってしまえば何も怖くありません。梅ちゃんは安堵に胸を撫で下ろし、コマセを投下しながら、山ちゃんに倣って独り言を呟きました。 「撒きますよ~。ついでにリールも巻きますよ~」その直後、梅ちゃんのロッドが勢い良くしなりました。どうやら、なかなかの大物みたいです。梅ちゃんは歓声を上げながら、懸命にリールを巻きました。けれど、何か様子が変です。普通ならブルブルと魚が暴れる感触が伝わって来るのですが、全くありませんでした。流木でも引っかかったのでしょうか?ゆらり――と、漆黒の水面に金色の煌めきが揺れていました。 「な、なんだこれ? 山ちゃん、網! 網もって来て」 「ほいほいほい。梅ちゃん、もっと岸に寄せて」山ちゃんに言われて、梅ちゃんはグイッとロッドを立てました。すると、砕けた波の泡が漂う海面を割って、海藻を被ったモノが現れたのです。海岸には色々なゴミが漂着します。多分、そんな何かを引っかけてしまったのでしょう。かと言って、仕掛けを切る訳にもいかず、山ちゃんは網で掬い上げました。 「や、山ちゃん……これは」 「なんとなんと。こんな物まで……」それは、精巧な造りのビスクドールでした。可哀想に、右眼が破損しています。元々は奇麗な深紅だったと思われる衣装も、長く海に沈んでいたせいか、ピンクに色褪せていました。 「こんな物まで海に捨ててしまうなんて。悲しくなるねぇ、梅ちゃん」 「全くですよ、山ちゃん。ウチの生徒には、もっと自然を大切にするよう 教育しなきゃいけませんね」 「ほっほっほ。では、最終日には海岸のゴミ拾いをしましょうか」梅ちゃんが人形を抱き上げると、人形の服から何かがこぼれ落ちました。それは青く錆びた、小さな鍵でした。 「梅ちゃん。それ、この人形のゼンマイなんじゃないの?」そう言った山ちゃんの瞳は、何かを期待する様に輝いていました。俗に言う、wktk目線です。 「あ、あのぉ――」 「……………………バッチコイ♪」 「はあぁ? ちょっと、山ちゃん――」 「……………………ガッツだぜ♪」 「つまり…………巻け、と?」聞いてはみたものの、逃れる術が無いことを、梅ちゃんは知っていました。これ以上、渋っていては冬の賞与の査定に響いてしまいます。ごくり――口の中の乾きを覚えながら、梅ちゃんは生唾を呑み込み、人形の背中に鍵を差し込み、ゆっくりと回しました。海に沈んでいたのだから、内部のゼンマイは錆びて動かないのでは?梅ちゃんの密かな願いは、残念ながら直ぐに裏切られました。 きりり……きりり……きりり……ゼンマイを巻いて、梅ちゃんは人形を岩に座らせました。けれど、何も起こりません。やはり、海水で内部機構が浸食されている様です。なぁんだ。梅ちゃんは胸を撫で下ろし、山ちゃんは小さく舌打ちしました。 「うえぇぇえぇ…………ぎも゛ぢわ゛る゛い゛」突然、真夜中の磯に不気味な声が流れました。勿論、梅ちゃんが言ったのでも、山ちゃんが悪ふざけした訳でもありません。顔を見合わせ、二人は揃って、人形に目を向けました。 「アタシを起こしたのは、アナタ?」 「ひえっ!」 「ウホッ!!」いきなり喋りだしたのが人形と判って、山ちゃんと梅ちゃんは抱き合って、ガタガタと震えました。でも、本当の恐怖はこれからだったのです。人形を岩場に置いたまま、山ちゃんと梅ちゃんは他の二人を促して寮に逃げ帰りました。勿論、本当のことは誰にも話せません。言ったところで、失笑を買うのが目に見えていたからです。もう寝よう。梅ちゃんは風呂にも入らず、浴衣に着替えました。ところが―― 「うひぇっ!」布団に脚を突っ込んだ途端、ぐっしょりと濡れたナニかが転がっていて、梅ちゃんは奇声を上げました。隣で寝ていたアーカード先生が、梅ちゃんの声を聞き付けて目を覚ましました。 「どうした、梅岡先生?」 「ふ、ふ……布団の中に、ナニか濡れた物がっ!」 「は? 何なんだ、一体?」どれ……と、アーカード先生は掛け布団を捲りました。そこには大きな水たまり以外、何も有りませんでした。 「…………梅岡先生。おもらしですか?」 「ちっ! 違う違う! 本当に、何かが転がってたんですよ!」懸命に否定する梅岡先生でしたが、その必死さが余計に胡散臭さを募らせていることに、気付いてはいませんでした。――夜には、各部屋の見回りがあります。生徒達は普段と違う環境に来て、ついついハメを外し過ぎてしまうのです。懐中電灯を手に廊下を見回っていた梅ちゃんは、部屋の中からヒソヒソと話す声を聞き付けて立ち止まりました。扉に近付いて耳をそばだてると、どうやら怪談話で盛り上がっている様子でした。 「たとえばぁ、こぉんな光景を思い浮かべてくださぁい……」水銀燈か。梅ちゃんは溜息を吐くとノックをして、扉を開けました。 「こら。消灯時間は過ぎてるんだぞ。早く寝なさい」 「えぇ~。でも、先生……まだ十時でしょぉ」 「この頃では、小学生でも深夜番組を見ているのだわ。ねえ、蒼星石?」 「そうそう。最近は深夜に面白いアニメやってて、つい見ちゃうんだよね」 「お、お前ら、屁理屈ばっかり言って……」ここは一つ、ガツンと叱ってやる。梅ちゃんは拳骨を振り上げました。すると、生徒達は急に表情を強張らせ、悲鳴を上げて布団に潜り込んだのです。減らず口を叩いていても、撲たれることを怖れるところが子供らしい。梅ちゃんは「はやく寝るんだぞ」と念を押して、部屋を後にしました。その頃、室内では――「ねぇ…………先生の背後から覗いてた人形……あれ、ナニ?」梅ちゃんは背筋に寒気を覚える様になっていました。肩凝りも酷くなる一方です。周囲の眼も、何だか余所余所しく感じられました。避けられているみたいです。けれど、それが何に起因しているのかは、相変わらず解っていませんでした。朝――昨日と同じ様に、梅ちゃんは不快感で目を覚ましました。枕と布団が、ぐっしょりと濡れているのです。若い女性を彷彿させる金髪が、枕に付着していました。 「なんなんだろうなぁ……この気怠さは」臨海学校も、今日で終わりです。そう思うと、梅ちゃんは何故か急に、磯で見たあの人形が気になり始めました。あれ以来、磯には近付いていません。もしかしたら、波に浚われてしまったかも知れない。本来なら厄介払いできて清々するところでしょうが、なんとなく、罪悪感に苛まれていました。第一、海に投棄するなど以ての外です。海岸で生徒達がゴミ拾いをしている光景を横目に、梅ちゃんは夜釣りをした磯へと、独り向かいました。あの日と変わらず、人形は岩に腰掛け、水平線を眺めていました。梅ちゃんは、不思議と胸のトキメキを感じました。まるで、かつての恋人に再会するような気恥ずかしさと、微かな不安。……少しだけ、脚が重くなりました。 梅ちゃんの足音を聞き付けたのか、人形の頭が梅ちゃんの方へ向きました。 「来てくれたのね」あの夜の様に人形が話しかけてきましたが、梅ちゃんは少しも恐怖を感じませんでした。 「今日、帰るのね」 「ああ。そういう予定だからね」見た目は不気味なジャンクでしたが、会話してみると、人形はとても理知的でした。二百年ほど、海の中を漂い続けていたそうです。 「ワタシの初恋の人に似ているわ、アナタ」 「そうなんだ? いつの話だい、それ?」 「レディの過去を詮索するなんて、デリカシーがないわね」 「ははは……手厳しいな」頭を掻き掻き、梅ちゃんは人形に問い掛けました。 「一緒に来るかい? 探せば、キミを奇麗に修理できるところが見付かるかも」 「地上は煩くてキライなの。ワタシはまた、海の中を気儘に泳ぎ続けるわ」 「そうか。残念だな。もう少し、話をしていたかったんだが」もう、帰る時間です。梅ちゃんは立ち上がって、腰を伸ばしました。 「それじゃあ、もう行くよ。元気でな」 「アナタもね。あと、鼾が酷いから耳鼻咽喉科に行くことを奨めるわ」 「えっ?」 「さよなら…………素敵な思い出を、ありがとう」そう告げて、人形は海に飛び込み、見えなくなってしまいました。人形は海流に揉まれながら、張り裂けそうになる胸を必死に押さえていました。本当は、梅ちゃんと一緒に居たかったのです。でも、自分と違って彼には天が定めた寿命があります。かつて恋心を抱いた人のように、いつかは自分の元から去ってしまいます。あんなに辛い想いをするくらいなら、いっそ最初から知らない方がマシでした。しかし、一度でも『恋』という甘く切ない禁断のリンゴを口にしてしまった人形は、それを求めずにはいられなくなっていたのです。人形の側に、イルカが近付いてきました。 「いいところへ来たわ。ワタシを遠くまで運んでちょうだい。何処へ? そうね……アナタに任せるわ。取り敢えず、今は遠くへ行きたい。そんな気分なの」イルカは人形を背に載せると、ゆったりと海の中を泳いでいきました。研修寮では、生徒達が荷物をバスに積み込んでいました。岬の方から砂浜を歩いてくる梅ちゃんを見付けて、水銀燈が話しかけました。 「先生、何処へ行ってたんですぅ? ゴミ拾いの時も居なかったし」 「ん? ああ、ちょっと散歩をな」 「? あの……先生。目の下、汚れてますよ」 「これは……向こうで、砂が目に入っちゃってさ。ははは――」水銀燈がそっと差し出したハンカチで、梅ちゃんは目元を拭ったのでした。こうして、臨海学校は今年も無事に終わりました。――翠星石のお話は、これで終わりですぅ。ご静聴ありがとうございましたです。
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