『約束の場所へ』 後編②
どうして、私は薔薇水晶を追わないの? 薔薇水晶は、天使のような、大切な親友じゃなかったの?じゃあ、早く追いかけて引き留めなきゃ。解っているのに、動けない。気ばかり焦って……イライラしてくる。自分への憤りを募らせ、モヤモヤした感情の遣り場の無さに当惑して、結局――「どうして、あんなコト言ったのよ」私は、水銀燈に八つ当たりしていた。我ながら、つくづく酷い女だって思う。向き直った彼女は、心底意外そうに、唇を突き出した。「嫌ぁね……なに怖い顔してるのよぅ。本当のことでしょぉ?」「水銀燈が、そう感じただけでしょ。 薔薇水晶が、私の命を縮めている証拠なんて無いじゃない!」「……私がウソを吐いてる、と?」そう切り返されると、答えに窮してしまう。私だって、確かな証拠を握っているワケじゃないから。何が――或いは、誰が――正しいのかと問われれば、返す言葉が無かった。私は……限りなく無知蒙昧だ。そして、自分の命を容易く他人に握られてしまうほど無力で、ちっぽけな存在。産み出された後は、運命という名の風に翻弄され、狭い世界を漂い続けるだけの、シャボン玉。 シャボン玉 飛んだ 屋根まで飛んだぐちゃぐちゃに乱れた感情を鎮めるべく、あまりにも有名な童謡の一節を、私は諳んじていた。この後に続く歌詞は、空へ舞い上がる前に、儚く消えてしまったシャボン玉へのレクイエム。永遠不滅のものなど無い世界で、今まで生きてこられただけでも幸福だったのだろう。けれど、運良く飛べたシャボン玉にも、消えゆくさだめは付き纏う。それは、今日か。明日か。私のために、鎮魂歌を謡ってくれる人は……居るの?私は屋根まで飛べずに『壊れて消える』のか。そう思った途端、身体の芯から湧いてくる震えを、抑えきれなくなった。水銀燈はベッドの端に座って、私の肩に掛かった髪を、そっ……と払ってくれた。彼女の指先が、ぴくりと震えたのは、私の震えを感知したからだろう。「めぐの格好、肌寒そうね」と言って、水銀燈は私の両肩を力強く引き寄せ、両腕で抱き締めてくれた。蹌踉めいた身体が、彼女の柔らかな胸に、ぽふん……と抱き留められる。「体温のない私が抱き締めたって、暖めてあげられないけど――」私の震えを止めることぐらいは出来る……と?彼女なりに、気を遣ってくれてるのかしら。心臓を奪い取ろうとしてる割には、優しいのね。でも……なんでかなぁ。こうして貰ってると、無性に安心する。水銀燈になら、私の全て(命すらも)を、あげても良いかなって思える。いつしか、私の震えは止まっていた。私は胸一杯に水銀燈の匂いを吸い込んで、まじまじと、彼女の端正な面差しを見つめた。よく考えたら、昼間の明るさの中で水銀燈の顔を間近に眺めるのは、これが初めてだわ。柔らかそうな頬の産毛までが、きらきらと輝いて見えた。「な……なによぅ」「綺麗だなって、思って。貴女でも、見つめられると照れるのね」「照れてなんかないわよ。じっとり眺められてると、気色悪いだけ。寒気がするわ」「そうなんだ? やったね、水銀燈の弱点を見っけ♪」「…………ばぁか」水銀燈は小声で吐き捨てると、私の身体を押し戻して、ベッドに寝かし付けた。私が眠っている間に、薔薇水晶と決着を付ける腹づもりなのかしら。「私を眠らせて、どうするつもり?」戯けた調子で訊いたのに、返ってきたのは冗談ではなかった。「夢を……見て欲しいの」「夢? 寝てるときに見る、アレのこと? それとも、希望って意味のユメ?」「前者の方よ。戻り得ぬ記憶を辿るには、夢の導きが必要不可欠だから」何を言っているのかしら。睡眠中に、過去の記憶を呼び覚まさせようって言うの?私はエドガー=ケイシーじゃないんだから、アカシック・リーディングなんて出来ないってば。渋る私とは対照的に、水銀燈はかなり期待している様子だった。「貴女……最近、不思議な夢を頻繁に見るんじゃなぁい?」「?! どうして、それを――」「多分、それの影響よ」水銀燈は、私の左手で鈍い輝きを放っている『薔薇の指輪』を指差して、言った。「私の中にも、めぐが夢で辿っている記憶が流れ込んでくるの」「嘘っ。だったら、私は毎晩、水銀燈に夢を覗かれてるってわけ?」「覗いてるんじゃないわ。勝手に流れ込んでくるのよぅ」「だとしても、なんか嫌だわ。精気だけを吸い取るんだとばかり、思っていたのに」「その筈なんだけどねぇ」どうしてなのかは、水銀燈にも、よく解ってないみたい。それで、原因を突き止めるべく、私に夢を見させようとしてるのね。でも、こんな朝っぱらから、眠れるかな。ちょっと自信ないわ。クラシック音楽でも聴いて、リラックスできれば話は別だけど…………あ、いいコト考えちゃった。「ね、水銀燈。寝付きが良くなるように、歌……謡ってくれない?」「はぁ? 嫌ぁよ、子守歌じゃあるまいし。なんだったら、力尽くで寝かせてあげましょうか」「冗談でも、花瓶を手にするのは止めて。それはともかく、ね? お・ね・が・い♪」「…………しょうがないわねぇ」口振りこそ嫌々ながらと言った風だったけれど、水銀燈の表情は、満更でもなさそうだった。 ♪夢魔の吐息は 微睡みの調べ 眠りの森に 私を誘う 霧に霞むは恋の道意外にも、水銀燈は美しいソプラノの持ち主だった。歌唱力も、かなりのものよ。普段の会話からしてアルト(もしくはメゾソプラノ)っぽいから、もっと下手かと思っていたんだけど……流石はラクス様ね。 ♪独り森の中 彷徨い続けても 貴方の背中に この指は触れない 切なさが止まらない水銀燈の妙なる歌声が、羽毛の様に私を包み込んでいく。心が、安らぎで満たされていく。 ♪募る想いを風に乗せ 永久の愛を 貴方に届けたい この気持ち――そして……いつしか、私は夢の世界に旅立っていた。ごとごとごと……。足元から響いてくる喧しい音が、私の浅い眠りを破る。一体、何の音なのよ。折角、気持ちよくウトウトしてたって言うのに。「お目覚め? お寝坊さぁん」とても近くで囁かれて、私は驚いて飛び起き、目を見張った。密かに想いを寄せる人の――水銀の君の微笑みが、すぐ目の前にあったから。彼女は、束帯に烏帽子を頂いた正装で、私と向かい合って座っていた。「もうすぐ、左大臣さまのお屋敷に着く頃よ。しゃんとしなさぁい」言われて、思い出した。そうそう、今夜は左大臣様の館で宴が催されるから、私も父に随伴して、出席するんだったわ。水銀の君は護衛役として父に指名され、私と共に、牛車に揺られていたのよ。牛車の周囲は、双子の侍女の他、数名の衛士が警護してくれている。私は居住まいを正すと、改めて、水銀の君の爪先から頭の天辺まで眺め回した。彼女と私は同い年の筈なのに、彼女の方が、ずっと大人びて見える。それはきっと、彼女が私よりも、ずっと多くのモノ――者、または物――に取り囲まれているから。しかも、それらに対して多大な責任を負っているから。「なぁに? 私の着付け、どこか変?」「ううん、ちっとも。寧ろ、凛々しくって素敵よ。とても似合ってるわ」「……よしてよ。好きで、こんな格好してる訳じゃないわぁ」彼女が男装する理由は、以前に聞いたことがある。つまりは、家督相続のため。女の身で、家督は継げない。が、お家断絶となれば、使用人を始め多くの者が路頭に迷う事となる。故に、彼女は男性として振る舞い、周囲の者にも(時々は、術を駆使して)そう信じさせていた。私の前でだけは、偽りの仮面を脱いでくれるけれどね。しかし、本当に感心すべきは、彼女の心意気だろう。当代随一と謳われる実力の持ち主ながら、術に頼り切ることなく、陰で努力を重ねている。その甲斐あって、今や従五位下の官位を戴くまでになっていた。彼女の昇進は、私にとっても喜ぶべきこと。だって、私たちを隔てる身分の差が、それだけ縮まるのだから。そして、いつか……二人が同じ舞台に立ったときには、私を、あの屋敷から――なに不自由ない監獄から、連れ出して欲しい。こんな私で良ければ、貴女の隣へと迎えて欲しい。それは決して、儚い願いなんかじゃないって、私は信じている。「そ、蒼星石っ!?」「な、なんなの、あれっ!」突然、牛車の外で侍女たちの緊迫した声が放たれた。水銀の君が、それまでの柔和な表情を険しくする。胸に抱いていた、将来への甘い夢と期待が、黒い影に覆われていくのを感じた。やおら響く轟音。それは、耳を劈く雷鳴。束の間、私の耳は聞こえなくなった。彼女が私に向かって、何かを叫んでいるけれど、耳鳴りに遮られて理解不能。ただ、足元が大きく傾いだのは感じられた。――倒れる。咄嗟に、理解した。突然の落雷に脅えた牛が暴れ出して、牛車が横転するのだ、と。水銀の君は、身体が竦んで動けない私を抱き上げると、御簾を蹴破って外に飛び出した。そして、まるで羽でも生えているかのように長い滞空時間を経て、ふわりと着地する。大袈裟かも知れないけど、気持ちが上擦っていた私には無窮の刻に感じられたわ。実際には、何回か瞬きする程度の時間だったんでしょうけどね。いっそ、このまま蒼い空の向こう側まで連れ去って欲しい。ふしだらな願いが頭をよぎり、耳が熱くなった。でも、彼女は私を降ろしてしまった。一分の惜しげも見せずに、手放してしまった。名残惜しくて小指を甘噛みした私の元に、双子の侍女たちが走り寄ってくる。「姫様、怪我はねぇです? 歩けるですか?」「……え、ええ。平気よ。それより――」気付けば、左大臣の屋敷の上には真っ黒な雲が渦巻いていた。暗雲が覆い被さっているのは、そこだけ。何が、どうなったのかと問うより早く、暗雲から閃光が放たれて、左大臣の屋敷に落ちた。離れていても喧噪が聞こえてくる。どうやら、火の手も上がっているらしい。この分では、死者も――私の中で、言い知れぬ感覚が芽生えた。無数の昆虫に、身体中を這い回られている様な、おぞましい感覚。どうしようもなく、嫌な予感がする。ここに居ては、いけない。「みんな、逃げるわよっ! ここから離れなきゃ!」「くくく…………もう遅いよ」聞き慣れない男の声が浴びせられたのは、みんなに指示を出して、来た道を引き返そうとした矢先だった。振り向いた私の真ん前に立ちはだかる、小柄な人影。修験者のような装束に身を包んだ少年だ。髪の質が固いのだろうか。少年の直毛は、思い思いの方向に飛び出している。不気味な少年は、好色な感じの目つきで私を眺めて、ニタリと歯を見せた。「誰なの、キミはっ!」「なっ、何者です、お前はっ!」身を挺して私を背に庇いつつ、阿吽の呼吸で狼藉者を誰何する双子姉妹。威勢のいい彼女たちに、水銀の君が、自制を促す声をかけた。「貴女たち、気を付けて。そいつは……人じゃない」「え? なに? 人じゃなかったら、なんなの?」問い返す私を一瞥して、男は低く笑いながら「よく判ったな」と、水銀の君へと目を転じた。「禍々しい妖気を隠そうともしないで、よく言う。巷を騒がす鬼め!」「お、鬼っ!? このチビ人間が、鬼なのです?」「まさか……この男が、噂の慈雲童子?」童子と呼ばれているから、てっきり悪戯な小鬼みたいな者を想像していた。でも、目の前の男は、違う。そんな可愛らしいものじゃない。邪気の塊みたいな目をしている。眉ひとつ動かさずに、人を殺める者の目だったわ。単純に、小柄な体躯で、髷のひとつも結っていないから『童子』なんて呼んだのね。衛士たちが慈雲を取り囲み、双子の侍女が得物を、水銀の君が呪符を手に、戦闘準備に入る。周囲の空気が、ぴぃん……と張り詰め、風が止んだ。息苦しくて、全身から汗が滲み出してきた。独り、慈雲だけは、四面楚歌(もしくは八方塞がり)の状況なのに、涼しい顔で薄ら笑っている。「僕の目的は、お前たちみたいな雑魚じゃない。今なら、見逃してやってもいいぞ。 あくまで立ち去らないならば、悲劇は繰り返されるけどな」慈雲は、左大臣の屋敷に向かって、顎をしゃくった。あの惨劇は、やはり、こいつの仕業だったのだ。こみ上げてくる怒りで、私の身体が震えた。そして、次の瞬間には、慈雲を怒鳴りつけていた。「何故? どうして、あんな事をする必要があるのよ!」「なぁに……簡単な話さ。左大臣に恨みがあった。それ以上の理由が要るのか?」平然と応えた慈雲を威圧する様に、水銀の君が一歩、進み出た。「貴様……先の右大臣、菅原道真公に連なる者か。それとも……公の怨念そのものか」「ふぅん? 流石は、当代随一の誉れ高い陰陽師と、言ったところか」口調こそ感嘆していたけれど、全ての言葉が、嘲りの色に染まっていた。それは、夕焼けに黄昏た空の、紅い偽りの色。「だが、僕は違うね。そもそも、怨念だったのかすら判然としないさ。 人の醜い感情は、黒くドロドロした、原油のようなものだからな。 そこに有るだけで臭気を放ち、火を注げば、呆気なく燃え上がる。周囲の物まで焦がして、燃える。 しかし、火を着けなければ、人間どもが吐き出す黒い汚物は寄せ集まり、この世の闇に流れ込む。 その掃き溜めに、ぽこり、ぽこりと浮かび上がった泡……それこそが、僕ら、鬼と呼ばれる存在だ」慈雲が、人を誑かす物の怪の眼で、自分を取り囲んだ者達を、ぐるり一瞥する。「お前たちのなかにも、鬼を産み出す汚物が溜まっているんだぜ。 そこの、銀髪の陰陽師だって例外じゃないさ。澄ました仮面の下では、何を考えている? 背に庇っている大納言の娘を、滅茶苦茶に汚してやりたい欲望に駆られているんじゃないのか?」「くっ?! ガキぃっ!」水銀の君は、普段の彼女らしからぬ悪態を吐いて、慈雲めがけて呪を込めた『気』を放った。「はははっ。図星を指されて、頭に血が上ったか!」飛んできた『気』を、片手で、いとも容易く受け止める慈雲。握った手を離すと、拳の中から黒い羽が舞い落ちた。その羽は、彼の指先から飛んだ稲妻に撃たれて、地に落ちる前に燃え尽きた。口元に浮かぶ、余裕綽々の冷笑が、なんとも憎らしい。「大したこと無いな。鬼の血族と言えども、人間の血が混ざれば、こんなものか」「なっ――」「あ、貴方っ……この人の出自を知っているの?」絶句した彼女に代わって訊ねた私に、慈雲の視線が注がれる。物の怪の冷酷な目に睨まれて、私は総毛立ってしまった。見かけは小さいのに、なんて威圧感なのよ。「少しは退屈しのぎになるかと思ったんだけどな、幻滅だよ。 余計なお喋りは、ここまでにして……さっさと目的を果たすとしよう」慈雲は、つまらなそうに吐き捨てて、右腕を天に翳した。雷を伴う暗雲が、不気味な音を立てながら、私たちの頭上に押し寄せていた。唐突に、目覚める夢。目に映るのは、真っ白な天井。ああ……ここは、病室なのね。隣で、もぞもぞと身じろぎする気配。見れば、水銀燈が寝入っていた。…………って言うか、彼女が真ん中に眠っていて、私がベッドの端に追いやられている。危うく、転げ落ちるところだったのね、私。ちょっとだけ腹立たしかったけれど、そんな事で口論している場合でもない。私は水銀燈を揺り起こして、寝ぼけ眼の彼女に、夢は見えたかと訊ねた。「ええ……ちゃぁんと見えたわ。かげろうのように、ぼんやりとだけどぉ」
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