『貴女のとりこ』 第十回
『貴女のとりこ』 第十回両手を器にして、巴は飽くことなく水を汲んだ。指の間から、ちょろちょろと漏れた水が、二の腕を伝って肘の先から落ちる。けれど、肌が濡れることは、少しも嫌ではない。寧ろ、気持ちよくすらあった。存分に喉が潤され、些かお腹がタポタポいう感じになると、次は顔を洗う番だった。本当は、頭からザブッと浴びたかったけれど、それをするには洗面台が狭すぎる。やむを得ず、洗顔と、両腕の汗を流す程度にしておいた。それだけとは言え、肌のベタベタ感が解消されて、寝惚けていた思考がスッキリする。「はぅ…………気持ちいい。まるで、生まれ変わった気分」どうせなら、全身の汗を拭いたい。そんな欲求に駆られた瞬間、巴は、ふと思い付いた。「そうだわ。スカートを水に濡らして、タオル代わりにすれば良いのよ」生地がごわごわして、拭き心地は悪かろう。が、肌のベタ付きとむず痒さを我慢し続けるよりは、数倍マシだ。どうせ、暫くは――もしかしたら、もう二度と――穿く事も無いだろうし……。なによりも、雪華綺晶に触られまくった身体を、一刻も早く清めてしまいたかった。漆黒の世界で、巴は床に這い蹲り、さっき脱ぎ捨てた衣服を、手探りで捜し当てた。そして、スカートで顔や腕の水滴を拭うと、また壁伝いに洗面台へと取って返し、当初の目的を遂行する。巴は、汗で湿ったスカートを折り畳んで、流水に浸した。右肩の怪我を庇いながら身体を拭くのは、想像以上に大変な仕事だった。けれど、重労働を終えて汗ばんでいた肌がサッパリすると、そんな苦労もどこかへ吹っ飛んでしまった。人の心理とは不思議なモノで、ひとつの問題が片づくや、他の問題の解決法を思い付いて、連鎖的に解消できることが間々ある。すっかり気持ち悪さが払拭されて、リラックスした巴の頭にも……ある考えが閃いた。(扉の下の隙間から、助けを求める手紙を出したら良いかも!)紙なら、トイレットペーパーが有る。インクなら、既に用意が出来ている。あと必要なものは、間違いなく文章を書くための、照明だけ。巴は、壁と洗面台の位置関係から、簡易ベッドの方向を見当づけて、闇の中を這って進んだ。時々、じっと身動きを止めて耳を澄ます。雪華綺晶の寝息が聞こえる方角を確かめて、再び、四つん這いで進み始める。両手は、絶えず前方の床を調べ回り、指先に当たる何かを捜し続けていた。そろそろ、ベッドの側まで来たかと思った矢先、右手の指先が、固い物に触れた。巴の心臓が、ドキン! と跳ねる。触れた感じからして、金属ではなかった。ひとつ、唾を飲み込み、巴は慎重に両腕を伸ばしていく。やっと見付けたのに、焦ってどこかに弾き飛ばしたりしたら元の木阿弥だ。(落ち着いて。慎重に…………慎重に…………)やっとの想いで、手に馴染んだ携帯電話を握り締めた瞬間、巴は胸の底から安堵の息を吐いた。宇宙ステーションでロボットアームを操るオペレーターも、こんな緊張を強いられているのかしらと考えたら、ちょっとだけ笑みが零れた。――でも、これはまだ序章にすぎない。(……落としちゃった時に、壊れてなければ良いんだけど)バックライトのボタンに親指を添えて、巴は祈った。(お願いっ! 点いてちょうだい―― お願いだから! もう一度、わたしに光を与えて!)念を込める様に、ぐっ! と、ボタンを押す。巴の手の中で、拍子抜けするほどアッサリと、光が迸った。「やったわ、壊れてない!」となれば、直ぐにでも計画の実行に移らねば。バッテリーの容量には、まだ余裕がある。しかし、いつ壊れるとも限らない。いま出来ることは、可能な内に済ませてしまうのが良策だった。バックライトで照らして、トイレットペーパーを、ロールごと確保すると、巴は鉄扉の前に行き、両膝をついた。ペーパーを適当な長さに引っぱり出して、床に広げる。あとは、指先にインクを付けて、文字を書いて行くだけ。だが……それが問題だ。巴の身体が、極度の緊張と恐怖に、戦慄き始めた。巴は、何度も深呼吸を繰り返して、少しでも恐怖心を和らげようと努めた。早くしなければ、雪華綺晶が目を覚ましてしまう。早く、目的を遂げなければ。右腕を折り曲げて、人差し指を、鎖骨の傷口に宛う。骨が露出しているのか、指先に固い感触があった。右手首に、左手を添えて、しっかりと固定する。はあっ、はあっ、はあっ、はあっ…………。はっ、はっ、はっ、はっ、はっ…………。呼吸は乱れ、全身の毛穴が開いて、汗が滲み出してきた。(怖い。痛いのはイヤ)――でも、やらねばならない。生き延びたければ、やるしかない。ある種の強迫観念に取り付かれて、巴は他の発想に辿り着けずにいた。今度こそ、息の根が止まるまで雪華綺晶をデッキブラシで殴りつけて、その血を利用するなんて冷酷な手段を、思い付ける状態ではなかった。巴は意を決して、息を呑むと、右の人差し指で生乾きの傷を抉った。「ぁんっ……くぅぅっ!」とてつもない激痛に全身を蹂躙されて、背を仰け反らせる巴。歯を食いしばって堪えたものの、喉の奥から苦悶が漏れ出してくる。双眸から止めどなく溢れる体液が、頬を流れ、顎の先から胸の間に流れ落ちた。ぐちゅり……。引き抜いた指先に、粘っこい血液が、たっぷりとこびり付いている。再び、出血が始まっていた。「……っかはっ! はぁっ! はぁっ! はぁっ!」漸く、詰めていた息を吐き出して、巴は肩で荒々しい呼吸を繰り返した。しかし、まだ終わりではない。巴はギュッと目を瞑って、涙に滲む視界を明瞭にすると、痛みに震える右の手首に左手で握り締めて、薄い紙の上に血文字を綴り始めた。紙の吸収性が良すぎて、文字の縁が、じわじわと滲んでしまう。大きめに書かなければダメだ。複雑な漢字も、文字が潰れてしまうから使えない。巴は失敗した部分を千切って捨てると、傷口から滴る血を指先に付け、バックライトの角度を調節して、思い付くまま感情を書き殴った。 桜田くん わたしは、ここに居ます 助けて 早く助けにきて おねがい自らの血でしたためた、ジュンへの手紙。彼は、読んでくれるだろうか? ううん……この際、彼でなくても構わない。誰でもいいから、この伝言を目にして欲しい。こんな生き地獄から、救い出してくれるなら、誰でも――トイレットペーパーの手紙を二つに折って、僅かに強度を持たせる。そう細工してから、巴は慎重に、鉄扉の下の数ミリしかない隙間に押し込んでいった。する……するる……。彼女の切望が込められた手紙が、順調に送り出されていく。地獄から、現世へと――もしかしたら、扉の向こうにも地獄が広がっているかも知れないけれど、巴にとって、そんな事は、どうでもよかった。まずは、この部屋から出ることだ。他の問題など、全て後回しで構わない。(わたし……生きて帰れるのかな)携帯電話が発する淡い光に照らし出される、扉の下の隙間。全ての手紙を呑み込んだ箇所を、巴は暫くの間、じっと見つめていた。が、ふと思い付いて、もう一度、手紙を書き始めた。次の機会が有るとは、限らないから。これで、最後になるかも知れないから。だから――――正直な気持ちを、書き残しておこう。今までずっと、伝えたいのに言えなかった、この想いを。 桜田くん わたし 柏葉巴は あなたのことが 大好きです 今も―― そして これからも ずっと―― あなただけを あいしています 会いたいな 大好きな あなたに きっと また会えるよね 「……やっぱり、恥ずかしい」改めて読み返してみると、巴は顔から火が出るような思いがした。でも、捨ててしまおうなんて、考えたりはしない。稚拙な表現しか出来ないけれど、彼への想いは込めたつもりだ。今まで、ずっと……この小さな胸に閉じ込めてきた、切なる想いを。だったら、なんとしてでも、伝えなければならない。恥なんて、かなぐり捨てて、届けなければならない。ここで手紙を捨ててしまったら、彼への未練を断ち切ることに等しいのだから。鉄扉の向こうに、輝かしい未来が広がっていると信じて――この想いを、未来へと送り出そう。長々と血文字の書き記された紙を、するすると扉の下に滑らせていく。途中で何度も引っかかって、破れそうになったけれど、なんとか無事に、全てを送り出すことが出来た。(彼が読んだら…………どう思うかな?)多分、彼は、わたしの気持ちに気付いている。そんな確信が、巴には有った。だって、十年以上も寄り添いあった、幼なじみだから。今更、思慕の情を口にしなくても、分かり合えていると思っていた。でも……それは身勝手な思い込みだったのかもしれない。状況に甘えて、積極的になれなかった。人の思念なんて、所詮、空気みたいなもの。そこに有って、そこに無い。目に見えるカタチにしなければ、伝わらない。気付いてもらえないのに――(もっと、あけすけな態度で、彼に接していたら良かったの?)考えて、巴は吐息混じりの苦笑を漏らした。それが出来る性格ならば、他のことでも苦労はしていなかっただろう。しかし、今までは今まで。これからは、これから。その気さえ有れば、人生、幾らでもやり直せる。(ここから出られたなら…………わたし、きっと)携帯電話のディスプレイでバッテリー残量を確かめながら、巴は、決意を新たにした。だが、突如として、巴は急激な目眩に襲われた。一向に止まない頭痛が、更にガンガンと痛んで、身動きする気力すら奪っていく。今にも胃の中身を吐きそうだ。とてもじゃないが、立ち上がれそうにない。巴は蹲ったまま、額に手を当てて、頭痛に耐え続ける事しか出来なかった。(なにこれ…………頭が……割れそう。痛、い……痛いよ…………桜田くん)意識が朦朧として、気を緩めた途端、気絶してしまいそうな激しい頭痛。こんな症状は、産まれて初めてだった。バックライトの明かりが、ぼんやりと霞んで見える。(なんで? どうして、こんな――)質の悪い水を飲んだから? 有り得ない。水あたりならば、腹痛が先だ。となると、やはり重度の熱中症なのだろうか?それとも、傷口から破傷風菌などの病原菌が入ったのか?いずれにしても、変化が急激すぎる。通常ならば、潜伏期などを経る筈だ。それが無かった。全身の筋肉が弛緩したみたいに、気怠い。まるで……麻酔をされたかの様だった。「桜田……くん。助……けて」自分の身体に、何が起きているのか解らない。全く、何も――――否。…………ひとつだけ。たった一つだけ、朦朧とする意識の中で、解ることが有った。「桜……田く……ん。ご……めんな……さい。 わたし……もう、貴方……に会えな……いよぉ。 こ……んなにも……会い……たい…………のに――――」 桜田くん―― わたし、柏葉巴は……貴方のことが大好きでした。 もう一度―― たった一度で良いから、会いたかったなぁ―― 大好きな、貴方に―― さようなら…………桜田くん。 わたし、本気で愛してたの―――― ~第十一回に続く~
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