―皐月の頃 その4―
翠×雛の『マターリ歳時記』―皐月の頃 その4― 【5月6日 立夏】僅かに開いたカーテンの隙間を縫って、眩い光が、暗がりを割って射し込んでくる。それは太陽の移動と共に位置を変え、今や、ベッドで寝息を立てていた翠星石の横顔を直撃していた。ジリジリと日焼ける頬が熱を帯びて、とても暑い。今日は立夏。暦の上では夏に入る。いわば季節の変わり目だった。「…………んぁ? もう、朝……です?」重い瞼を、しょぼしょぼと瞬かせ、起き上がった翠星石は、隣に誰かの気配を感じて、ぎょっと眼を見開いた。なんと、自分が寝ていたシングルベッドに、もう一人いるではないか。その人物は窮屈そうに縮こまって、いかにも寝苦しそうに、眉間に皺を寄せていた。「み、みっちゃん?! どうして私のベッドに、みっちゃんが居るですかっ!」おまけに、よく見れば翠星石は、一糸纏わぬ姿だった。「ひええっ……ここ、これはっ! どうして、こんな格好してるです?!」冗談ではない。翠星石は、みっちゃんからシーツを引ったくり、胸元に掻き寄せた。昨夜、なにが有ったのだろう。それこそ躍起になって思い出そうとした。瞼を閉じ、額に指を当てて、記憶を辿っていく。「ええっと……ホテルに戻ってひと眠りして、午後八時くらいに目が覚めたです。 ビュッフェに向かう途中で、みっちゃんと出会って食事に――」行ってから、どうしたんだっけ?脳内で再生される回想シーンは、そこで一旦、不鮮明になった。あの時は蒼星石のことばかり考えていて、みっちゃんの話も半分は上の空で聞き流していたから、記憶も曖昧なのだろう。食事中に交わした会話の内容を思い出すのに、暫しの時間を要した。「そうそう。あの後、最上階のバーで、一緒に酒を飲んだです。 ああ……思い出せてよかった。一瞬、健忘症になっちまったかと心配したですぅ」――と、暢気に呟いたはいいが、ふと由々しき事態であることを思い出して、翠星石は全身を桜色に染めて恥じらった。「夕食に付き合って、酒ときたら、その後は部屋に連れ込まれて……」 にゃんにゃん「だああぁ――――っ!! もう、お嫁に行けねぇですぅ!」両手で頭を抱えて悶絶する翠星石の喧しさに、隣で寝ていたみっちゃんが、煩わしそうに呻き声を上げた。「……んもぅ。なぁによぉ、朝っぱらからギャーギャーと、うっさいわねえ」みっちゃんは、シーツの痕がくっきりと残る頬を掌でさすりながら、眠たげな眼を翠星石に向けた。眼鏡を掛けていないので、ヤケに瞳が小さく見える。低血圧なのかボケボケとしていて、普段の怜悧な面影は片鱗も見出せなかった。だが、翠星石はお構いなしに、みっちゃんの胸倉に掴みかかって、ガクガクと前後に揺さぶり始める。「どうしたも、こうしたもねぇですっ! 責任取れですぅ!」「あがががが……ちょ……待っ……苦し……」「責任が取れねぇと言うなら、みっちゃんをヌッ殺して、私も死ぬですぅ!」「わ、解っ……責任……取るか……止め……」その台詞を引き出して漸く、翠星石の動きが止まった。みっちゃんは、ベッドの下に落ちていた眼鏡を拾って掛け直すと、翠星石を見詰めた。相も変わらず寝惚けた感じの冴えない顔をしているが、眼光は鋭い。「まあ、落ち着きなさい。なにか誤解があるようだけどぉ」「誤解? よくも、ヌケヌケと――」「だーかーらー、気色ばむ前に、何のことで怒っているのか教えなさいって」「そんなの、私の姿を見て解んねぇですかっ」「…………おーおー、瑞々しくて綺麗なお肌ねえ。もしかして、見せ付けてる?」みっちゃんは、シーツで胸元を隠しただけの翠星石を、矯めつ眇めつ眺め回し、時折「おっ! 良いアングル」と独り言を呟いて、頚に下げていたデジカメのシャッターを切った。無論、さらし者にされる翠星石は、堪ったものではない。「ふっ……ふざけんなですぅっ! 私は見世物じゃねえですっ!」顔を真っ赤にして、怒りに肩を震わせる翠星石。しかし、みっちゃんは焦らず騒がず身悶えず。「いやいやいや……ミロのヴィーナスと、サモトラケのニケを足して2で割れば、 こんな感じになるかしらぁってね。うん、いいね。すっごく芸術的よお」なんて事を、さらりと真顔で言うものだから、翠星石の気勢は削がれてしまった。「……や、やめるです……もう撮るなですぅ」「むふふふ……良いではないか、良いではないか」「っ! こぉんの分からんちんがぁっ!」遂に我慢の限界を超えた翠星石が、側に転がっていたワインの空き瓶を掴んでみっちゃんを殴りつけようとした矢先、いきなりドアが激しくノックされた。ビク~ン! と身体を震わせる二人。一体、誰が来たのだろうか?みっちゃんがドア越しに問い質すと、雛苺の上擦った声が返ってきた。「みっちゃん、大変なのっ! 翠ちゃんが行方不明なのよーっ」「はあ? 翠星石ちゃんなら、こっちの部屋に居るわよ。ちょっと待ってて」「?! ま、待つです、みっちゃん! 今、ドアを開けたら……」翠星石の制止も僅かに遅く、みっちゃんは何も考えていない様子で扉を開いた。雛苺は、今にも泣き出しそうな顔で、室内に飛び込んできた。しかし――「もお! 翠ちゃんってば、起きてみたら居なくなってるんだもの。 ヒナ、本気で心配し…………たの……よ?」ベッドの上で、シーツを胸に抱え込んでいる翠星石を見るや、雛苺は眼を見開き、表情を凍り付かせてしまった。「あ、あ……あのあの……ヒナ、ちっとも知らなくって…………ご、ごめんなさいなのっ!」踵を返すや、脱兎の如くドアに向かう雛苺。明らかに、この状況を誤解している。だが、雛苺がドアに辿り着く寸前、みっちゃんが立ちはだかった。「ちょぉっと待ったあ♪」「うよっ?!」「んふふふふふっ。ヒミツを知った者を、黙って逃がすとでも思ってるのかしらあ?」「あ……ああ…………あう……あうう」「この際だから、ヒナちゃんも手込めにしてあげるわあ!」「ひ、ひゃああ――っ!?」みっちゃんに背を向け、雛苺は号泣一直線の顔で翠星石に縋り付いた。翠星石は、雛苺を背後に匿い、みっちゃんをキッ! と睨んだ。「みっちゃんっ! 悪ふざけは、もう止めるですっ」「あぁん。そんな怖い顔しないでよお。ちょっとしたジョークだってば」「う、うゆー?」冗談と言われて、雛苺も翠星石の肩越しに、恐る恐る顔を覗かせた。みっちゃんは腕組みして「やれやれ……」と苦笑を洩らす。「それじゃあ、全ての真相を語って聴かせるから、ちゃんと理解してね。 まず、事の発端は昨夜……かくかくしかじか、ぬるぽぬるぽ――」と、さながら大学の講義みたいに、みっちゃんは説明を始めた。翠星石も雛苺も、それで漸く、現状が旅先のアバンチュールである事を理解したのだった。ホテルをチェックアウトして、三人は空港までタクシーで向かおうとしたものの、市街地で渋滞に捕まり、やむを得ず列車で移動する手段に切り替えた。大きな荷物を携えての列車移動は、少しばかり億劫である。駅のホームで列車の到着を待つ翠星石と雛苺の顔にも、如実に疲れの色が見えた。みっちゃんの大きなスーツケースを運ばされているのだから、仕方がない。けれど、翠星石の浮かない表情の理由は、疲労ばかりではなかった。折角、遙々と遠い国まで来たのに、目的を遂げられなかった。その事が、なんとも悔しくて、心残りだったのだ。(蒼星石…………せめて、ひと目だけでも会いたかったですぅ)重い溜息を、ひとつ吐く。やるせない気持ちで運命の皮肉を呪いながら、翠星石は後ろ髪を引かれる思いで、みっちゃんに続き、ホームに滑り込んできた列車に乗り込んだ。ドア付近の二人掛けのシートが空いていたので、雛苺とみっちゃんが座り、翠星石は吊革を握り締めつつ、車窓を流れ行く景色をつまらなそうに眺めていた。(あと二ヶ月ほどで、夏休みです。その頃には、絶対に……会いたい……です)もう、離ればなれはイヤだった。妄想にうなされ、悶々と眠れぬ夜を過ごすのは、もうたくさんだった。列車が徐に速度を落とし、幾つ目かの駅に停車した。あと僅かで空港のターミナル駅に着く。もう少しで、この国ともお別れ。ちょっとだけ感傷的な気持ちになって、翠星石は何気なく、対向ホームに目を転じた。丁度、向こうのホームにも車両が停車するところだった。何気なく…………本当に、何の気なしに眼を向けただけだった。そこに、偶然を期待していた訳ではなかった。それなのに――――対向列車の陽光に煌めく窓ガラス越しに、ショートカットにした栗色の髪を捉えて、翠星石の心臓が、ドキンと一拍した。こちらに背を向けてシートに座っているので、当然、顔は見えない。けれど、翠星石は確信していた。あれは、間違いなく彼女だ……と。翠星石は、みっちゃんと雛苺を両脇に押し退け、窓を引き上げた。そして、車窓から僅かに頭を出して、声を限りに、彼女の名を呼んだ。「蒼星石ぃ――――っ!」一度目では、気付いて貰えなかった。二度目に叫んだとき、彼女はキョロキョロと周りを見回した。そして――「蒼星石っ! こっち! こっちですぅ!」三度目正直で、蒼星石は振り返ってくれた。最も見たかった満面の笑みを浮かべて、車窓を開いてくれた。ずっと聞きたいと願っていた声で、ハッキリと応えてくれた。「姉さんっ!」「蒼星石っ!」やっと会えた。それだけで、翠星石は胸が一杯になって、何も言えなくなってしまった。嬉しすぎて、言葉が浮かんでこなかった。本当は、もっと色々と話したかったのに。本当は、もっと触れ合いたかったのに。いざとなったら、何も話せないだなんて――目に涙を浮かべ、唇を戦慄かせるだけの翠星石に向けて、蒼星石が話しかけてきた。「会えて嬉しいよ、姉さん。調査が早く済んだから、大急ぎで戻ってきたんだ。 なんとなく、間に合うんじゃないかって予感してたんだよ」美しい緋翠の瞳で、真っ直ぐに自分を見つめてくれる蒼星石。翠星石は窓から飛び降りて、今すぐ抱き付きたい衝動に駆られた。二人の距離は、ほんの数メートル。三、四歩で辿り着ける。でも、それは出来ない。二人は、お互いの居るべき場所へ帰らねばならないのだ。ぽろぽろと涙を流す翠星石の背後で、列車の扉が閉まる音がした。がくん……と揺れて、列車が走り始める。そして、蒼星石の乗る列車も、徐に走り始めた。――互い違いの方角へ。離れていく。引き離されていく。蒼星石は、遠ざかる翠星石に向かって、思いっ切り叫んだ。「帰るから! 夏休みになったら、ボクは、きっと帰るからね!」翠星石も、負けじと声を張り上げる。「待ってるですっ! ずっと待ってるから、必ず帰ってきやがれですぅっ!」遠ざかる声……遠ざかる姿……。でも、やっと会えた。今にも途切れてしまいそうに思えた心の絆が、再び、しっかりと結びついてくれた。翠星石は、それが何より嬉しかった。言葉にできない程に、喜ばしかった。お互いの姿が見えなくなっても、車窓から顔を覗かせた儘の翠星石。そんな彼女の身体を、みっちゃんの両腕が、優しく車内に引き戻した。「危ないよ。でも……よかったね。最後の最後に、妹さんと出会えて」「ホントに、めでたしめでたしなの。ヒナも、ホッとしたのよー」二人の温かさに触れて、翠星石の泣き濡れた頬に、また大粒の涙が零れだす。翠星石は、みっちゃんに縋り付いて、静かに嗚咽した。そんな彼女の背中を、ぽんぽんと叩いて、「ねえ、これ見て」みっちゃんは頸に下げていたデジカメを、翠星石に見せた。小さな液晶ディスプレイの中に、眩しい笑顔の蒼星石が居た。「さっき、脊髄反射で撮っちゃったのよねえ。 帰ったら、画像をプリントアウトしてあげるから、そんなに悲しまないで」「うよー。流石はみっちゃんなの。シャッターチャンスは逃さないのねー」「みっちゃん……ありがとです。私、モーレツに感激してるですっ!」翠星石は泣き笑いながら、デジカメを持つみっちゃんの手を、両手で包み込むと、感謝の気持ちを込めて、ぎゅっと握り締めた。その弾みで、ボタンを押してしまったのだろう。ディスプレイに映っていた画像が、二つ三つ移り変わり――「なっ?! なんです、これはっ!」やおら、ビックリ仰天。翠星石は涙を引っ込めて、両目を一杯に見開いた。彼女の驚愕ぶりを訝しんだ雛苺が、デジカメのディスプレイを覗き込むと、そこには酔った勢いでストリップ紛いの痴態を演じる翠星石の姿が撮影されていた。「うよっ!? や、やっぱりヒナの勘違いじゃなかったのっ。二人は……なのねー」「ちっ、違ぇですっ! おバカな想像すんなです。こんな画像は消去してやるですぅ!」「だだ、ダメぇっ! こんなお宝画像を消すなんて勿体ないでしょぉ!」ひょんな事から勃発した大騒動で、車内に喧噪が広がる。他の乗客たちが、うるさい外人が居るなと眉を顰める中で、三人の諍いは空港に着くまで続くのだった。そして、季節は心躍らす夏へと移ろいゆく――
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