―皐月の頃 その3―
翠×雛の『マターリ歳時記』―皐月の頃 その3― 【5月5日 端午】後編宿泊先のホテルに戻るなり、泣き寝入りして、どれだけ経っただろうか。翠星石が目を覚ますと、辺りは、すっかり暗くなっていた。枕元のインテリアスタンドに付属しているディジタル時計を見遣ると、時刻は既に、20時を過ぎている。中途半端に寝たために、ちょっとだけ頭が痛い。(……ちょっと、お腹が空いたです)軽い頭痛と気怠さを押し切って、翠星石は、むくっと身を起こした。見れば、窓側のベッドが、こんもりと盛り上がっている。耳を澄ますと、雛苺の健やかな寝息が聞こえた。「もう寝てやがるですか。呆れたヤツですぅ」老人じゃあるまいし、幾らなんでも、午後八時に就寝だなんて早すぎる。今日日、小学生でも夜更かしするというのに。とは申せ、雛苺の心理が解らなくもなかった。海外に来ていながら、テレビばかり見ているのは勿体ないし、かと言って、勉強する気は起きない。しかも、同室の話し相手が泣き寝入りしているとあっては、不貞寝したくもなるだろう。一緒に夕食でも……と、雛苺を起こそうとしたが、気持ちよさげに眠っていたので、やめた。翠星石は部屋のキーを持って、静かに部屋を出ると、ビュッフェに向かった。ビュッフェまでの道すがら、翠星石はビクビクと周囲を見回しながら、やはり、雛苺かみっちゃんに付き合ってもらえば良かったと後悔していた。普段の食事は、ルームサービスを頼んでいたから、こんな思いをしなくても済んだ。しかし、ビュッフェではメニューを読み、食べたい物を注文しなければならない。ただでさえ、外人に囲まれて戦々恐々としている翠星石にとっては、そんな当たり前の事ですら、一大決心して望まねばならない大仕事だった。みっちゃんは彼女たちの隣室に宿泊していたし、この時間なら、まだ起きている筈だ。いっそ、今から引き返して、呼んでこようか……とも思ったが、翠星石は考え直した。(なにをビクついてるですか、私は。いつまでも、誰かに頼ってばかりじゃダメです。 今みたいに人見知りばかりしてたら、何年経っても自立できねぇですっ)その決意や、良し。だが、意気衝天であるのは最初だけ。いざ、その場になると畏縮して、逃げ出すのが毎度の結末だった。今度もまた、同じ事の繰り返しにならないとも限らない。――メニューの内容が、よく解らなかったら、どうしよう。――それ以前に、言葉が通じないかもしれない。いっそ、明日の朝まで何も食べずにいようかとも思ったけれど、翠星石の腹の虫は目覚めてしまったらしく、さっきから頻りに鳴いている。「なんでも良いから、少しでも食べないと、お腹が空いて眠れそうにねぇです」こんな事なら、昼間の内にスナック菓子でも買い溜めておけば良かった。そう思ったところで、後悔先に立たず。エレベーター前に誰も居ないのを、柱の影から確認して、こそこそ……っと移動。翠星石は、下に降りるボタンを押して、上の階からエレベーターが降りて来るのをジリジリと焦りながら、待ち続けた。既に、誰かが乗っていたら――なんて可能性は、微塵も考えていない。そこまでの発想をする心理的な余裕が、今の彼女には無かった。澄んだベルの音色が、人っ気のない廊下に、軽快な余韻を残す。上の階から降りてきたエレベーターの扉は、殆ど音を立てずに横滑りした。それを見届けて、足早に乗り込もうとした翠星石は、のんびりとエレベーターから降りてきた人物に気付くのが遅れて、思いっ切りぶつかってしまった。「痛っぁ……ちょっと! 気を付けてよねえ!」「ひえっ! すす、すまねぇですっ。誰も乗ってないと思っ……て」「あれあれぇ? 翠星石ちゃんじゃないの」「……ああ、みっちゃんでしたか。心停止しそうなほど、ビックリしたですぅ」 翠星石は、早鐘のような動悸を抑えようとして、無意識の内に、胸に手を当てていた。小動物みたいに警戒している彼女に、みっちゃんの好奇の目が注がれる。「珍しいね。貴女が、独りで出歩くなんて」「え……えと、これから下の――」言いかけたところで、翠星石の腹が、タイミング良く鳴った。それで全てを察したらしく、みっちゃんは小さく噴き出して、徐に、話を切り出した。「ねえ、一緒にディナーでも、どう? まだ食べてなかったんだよね、あたしも」みっちゃんが同席してくれるなら、何も臆することは無い。寧ろ、願ったりだ。折角のお誘いを断る理由などなく、翠星石は、一も二もなく同意した。窓際のテーブルで向かい合って座り、運ばれてきた軽食を摂りつつ、雑談を愉しむ二人。と言っても、殆どみっちゃんが喋るだけで、翠星石は気のない相槌を打つのみだった。彼女の表情を鬱々と翳らせている理由を、みっちゃんは雛苺から聞いて、知っている。「……なんだか元気ないね。疲れちゃったのかな?」しかし、みっちゃんは蒼星石の名を口にするほど、デリカシーのない人間ではない。さり気なく話題を振りつつ、翠星石の方から話したくなるムードを作り出そうとしていた。翠星石は、まるで居眠りしていたかの様に、びくりと身体を揺らして、顔を上げた。驚いた様子の翠星石に、みっちゃんは微笑を浮かべ、優しい眼差しを向けている。ただただ黙って、翠星石の言葉を待っていた。けれど、翠星石としても、誰彼かまわず本音を喋り散らすなんて真似は出来ない。結局、ごにょごにょと口ごもってしまった。みっちゃんは「ふうん?」と呟くと、いかにも気分転換という口振りで、がらりと話題を変えた。「翠星石ちゃんは、この後って、時間ある? それとも、もう休んじゃう?」「? え……っと。特に用事は、ねぇですぅ。それに、眠るには早ぇです」「ホントに? じゃあさ、これから……あたしに付き合わない?」言って、みっちゃんは悪戯っぽく、グラスを傾ける仕種を見せた。つまりは飲酒のお誘いである。「ちょっとのお酒を飲んで、陽気に騒げば、沈みがちな気分も優れるというものよ」「……そんなモンですか。私は、酒ってどうも苦手ですぅ」「ダメダぁメ。お酒を少しくらい嗜むようじゃなきゃあ、社会に出て苦労するわよ」みっちゃんも、多少の問題があるとは申せ、立派な社会人。これまでの人生経験に裏打ちされた意見なのだろう。「これも社会勉強よ。そんなワケだから、一杯くらい付き合いなさい」「しゃーねぇです。ホントに、一杯だけですよ」食事を終えると、二人はエレベーターで最上階の瀟洒なバーへ赴き、カウンター席に並んで座った。右も左も判らない翠星石に代わって、みっちゃんがバーテンダーに聞き慣れない言葉を連発する。程なくして、二人の前に、綺麗な色の液体で満たされたカクテルグラスが置かれた。「お酒が苦手な人でも、カクテルなら口当たりも軽いから飲み易いわよ、きっと」「……これ、なんて名前です?」「翠星石ちゃんのは、ストロベリー・フィズ。あたしのが、スイート・メモリーズ。 ささ、無駄口たたいてないで、味と香りを愉しむとしましょう」「はあ。じゃあ…………いただくです」みっちゃんの仕種に、見様見真似で従いながら、翠星石は甘い液体を喉に流し込んだ。なるほど、これなら確かに、飲みやすい。少なくとも、発泡酒よりは美味しいと思えた。「どう? やっぱり、お酒なんて口に合わないかな?」「そんなコトねぇです。これなら美味しくって、何杯でも飲めそうですぅ」「ほほぅ、それは何より……って、もう飲み干してるし。もう少し味わいなさいって」「う、すまねぇですぅ。酒を飲むペースって、よく解んねぇです」「まあ、それは人それぞれなんだけどねえ。それより、どうする? 同じ物を頼んどく?」「……う~ん。次は、みっちゃんと同じヤツが良いですぅ」「オッケー。ねえ、彼女に、あたしと同じものを。あたしにはラ・プラスをお願い」ほろ酔い加減で、二時間ほど他愛ない雑談に興じた頃――「さて、と。そろそろお開きにしようか、翠星石ちゃん。明日は飛行機の時間もあるし」みっちゃんが宴の終わりを切り出した矢先、翠星石は横目でジロリと睨み付け、やたらと間延びした口調で不平を漏らした。「まぁだ早ぇです~。この程度じゃあ、飲み足りねぇですぅ~」「はぁ?」「みっちゃんも、もっと飲むですぅ~。帰りたきゃ独りで帰れですぅ~」「……やれやれ。お酒が苦手って言うから、てっきり下戸だと思ったのに。 これは結構、いける口ねえ……参った参った」苦笑うみっちゃんに、翠星石が訝しげな眼差しを向ける。「どしたです~? お金が足りないなら、私がぁ――」「いやいや、そういう問題じゃなくて」「?」「……仕方ないわね。飲み足りないなら、あたしの部屋で飲み直しましょ。 ここでクダ巻かれても迷惑だからねえ」みっちゃんは手早くクレジットカードで支払いを済ませると、千鳥足の翠星石を支えて、自室へと引き返した。「ほらぁ、しっかりしなさいって」「私は、ちゃーんと歩いてるですぅ~。フラついてるのは、みっちゃんです~」「あたしのせいじゃないってば。そりゃあ、あたしも酔ってるけどさあ」「えぇい、つべこべ言ってねぇで、さっさとお持ち帰りしやがれですぅ~」「ばっ! バカねえ。変なこと言い出さないでよ、恥ずかしい」さり気なく爆弾発言をする翠星石を、みっちゃんは、やっとの想いで自室に連れ帰った。「みっちゃん、酒ですっ! 酒もってこいですぅ~」「ああ……はいはい。ちょっとは待ちなさいって。こりゃ予想外の出費だわ」取り敢えず、もう少しくらい飲ませて、寝かし付けてしまおう。みっちゃんはそう考えて、ルームサービスで赤白二本のワインにグラスを二つ、注文した。運ばれてきたワインを開けて、暫くは和気藹々と飲んでいたのだが――「……そーせいせきはぁ、とぉんでもねぇバカタレですぅ~。 私が会いに来てやったというのにぃ、なぁんで留守にしやがるですかぁ~」翠星石が、やおら愚痴を零し始めた。けれど、みっちゃんはイヤな顔ひとつせずに、黙って彼女の愚痴を聞いてあげている。元々、翠星石に、そうさせる事が目的だった。なんでもかんでも自分の内に押し込めて、その挙げ句、鬱々と日々を送っていたなら、いずれストレスでおかしくなってしまう。たまには、こうして不平不満をブチ撒ける事も必要なのだ。――しかし、和やかな雰囲気も、ここまでだった。「ふぃ~。なんか……暑いですぅ~。服なんか着てられねぇです~」「えっ? ちょっ! なに脱ぎ始めてるのよ!」「あぁん? ガタガタ抜かすなですぅ~」「そうじゃなくて! ちょっと待ちなさい。今すぐ、デジカメ用意するから」そんなこんなで、日付は変わってゆくのだった。
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