『貴女のとりこ』 第五回
『貴女のとりこ』 第五回ジュンと薔薇水晶が手紙を読んでいた頃、地下室では雪華綺晶が、簡易ベッドで巴と添い寝していた。じっと横たわって、身を強張らせる巴の髪を、雪華綺晶の白い指が撫でる。彼女は上機嫌に鼻歌を唄いながら、愛おしそうに隻眼を細めていた。時折、巴の耳元に鼻先を埋めて、悪戯っぽく耳を甘噛みしてくる。「ふぁぅ! い、イヤぁ……」その度に吐息交じりの鼻声を漏らして、逃れようとする巴を、雪華綺晶の両腕が引き戻す。「くふふふふ……ダメよ。じっとしていなければねぇ」「嫌よ! もうイヤ! 放してよっ」甘んじて人形の扱いを受けると覚悟したけれど、やはり、嫌悪感が勝ってしまう。年頃の乙女の潔癖さが、不自然な現実を、ひどく不潔な世界に見せていた。とても受け容れられない。こんな、汚らしい世界なんて――(まだ……汚されてない。桜田くんの為にも、汚されたくなんてないっ)雪華綺晶に玩ばれている間、巴は部屋の隅々まで視界を巡らして、得物になりそうな物を探していた。そして、トイレの水槽に立てかけてあるデッキブラシに目を付けていた。(あれで殴れば、かなりの打撃を与えられるはず)漫然と続けてきた剣道が、まさか、こんな形で役に立つとは思わなかった。芸は身を助ける――とは、よく言ったものだ。巴は、身体に絡み付いてくる雪華綺晶の両腕を払い除けて転がり、簡易ベッドから身を躍らせた。片膝を着いて、器用に着地すると、即座に立ち上がって雪華綺晶の方に向き直る。雪華綺晶は、緊張のあまり表情を強張らせている巴を見つめて、鼻で笑った。「どうして、そんなに脅えているの? おかしな人ですわね。 この素敵な楽園が、恐ろしいだなんて――」雪華綺晶は、まだベッドに横たわっていた。眠そうに左眼を瞬かせながら、険しい表情の巴を、怪訝そうに見上げている。そんな彼女の人を食った態度が、巴の激情に火を付けた。「冗談じゃないわ! わたしにとっては地獄よっ。 貴女みたいなキチガイと、こんな檻に閉じ込められているんだもの。 正気で居られる筈がないじゃない!!」NGワード『キチガイ』に反応して、雪華綺晶の金眼が、琥珀色に光った。それまでの穏やかな表情から一変して、夜叉の形相になっている。雪華綺晶は、ユラ~リと身体を起こして、ベッドから滑り降りた。「……醜い。なんて、醜いんでしょう」軽い衣擦れを立てて、ドレスの下から伸ばされた白い素足が、音もなく床を踏み締める。「巴ぇ…………あまり私を、失望させないで下さらなぁい?」「そんなの、貴女が勝手に作り上げた幻想よ! わたしは、美しくなんてないわ!」一歩一歩、雪華綺晶が接近してくる。強がりを口にしながら、じりじりと、巴は後退していった。互いの距離は、付かず離れず……。巴は身体で覚えた剣道の間合いで後ずさりながら、ある一点を目指していた。(あのデッキブラシ……あれさえ掴めれば)後ろ向きなので、本当に正しくトイレの水槽に向かっているのか判らない。しかし、僅かでも視線を逸らしたら、雪華綺晶に飛びかかられそうで怖かった。彼女は、いつか観たホラー映画のゾンビみたいに、ゆっくりと近付いてくる。巴は、雪華綺晶を睨み付けて牽制しながら、右腕を背後に伸ばし、手探りした。(確か、この辺りだった筈だけど)右腕が、右へ左へ、何度も往復する。けれど、指先は空を切るだけ。(どこ? どこなの?! もうっ! 何処にあるのよっ!!)苛立ちが焦りとなって、些細な動作ですら粗雑にさせる。過呼吸気味に喘ぎながら、巴は後ろに回した右腕を、乱暴に振り回した。何度やっても、指先には何も触れない。「どうしてっ! どうしてよっ!」焦燥が、口を衝いて出る。焦れば焦るほど、何も考えられなくなっていく。徐々に狭まっていく、彼我の距離。雪華綺晶は、怯える巴に嗜虐的な目を向けながら、歯を見せて嗤っていた。もう、これ以上は耐えられない。とうとう、巴は顔を傾け、背後を見遣ってしまった。デッキブラシは、意外なほど近くに在った。けれども、それを巴が手にするより早く、雪華綺晶が飛びかかってくる。巴は押し倒され、コンクリートの床に、強か後頭部を打ち付けてしまった。「うぁっ!」目の前に火花が散り、星が舞い踊る。束の間、どこかに行ってしまいそうな意識を引き戻す努力を強いられた。仰向けに倒れた巴の身体に、ずしり……と、重圧がかかる。続いて、両腕が踏まれる感覚。馬乗りになった雪華綺晶が、両膝で自分の腕を抑え付けているのだ。見るまでもなく、巴には、それが解った。「やぁっと捕まえましたわ。悪い子ですわねぇ」気色の悪い猫なで声と共に、雪華綺晶の両手が、巴の頬を挟み込んだ。見開いた巴の瞳と、雪華綺晶の瞳が、視線で結びつく。「暴れられて、怪我でもされたら大変ですわ。 綺麗なお人形さんに、傷が付いちゃったら、価値が下がってしますものね。 もっとも、手放すつもりなんて無いので、市場価値など関係ないですけれど」「わたしは、貴女の人形じゃないわ! 何度も言ってるでしょう!」恐怖を顔に張り付かせながら、猛然と反撥する巴。巴の頬を抑え付けたまま、にんまりと、氷の微笑を浮かべる雪華綺晶。「随分と興奮しているのね、巴ぇ。 いっそLSD-25でも使って、一気に興奮の絶頂に駆け登ってみる?」 サイケデリックで、楽しい夢が見られるかも知れませんわよ」LSD-25とは、D-リゼルギン酸ジエチルアミドという化学物質で、脳内のセロトニンの働きを抑制し、微量でも強い幻覚作用を持つ強力な合成幻覚剤だ。「本意では、ありませんけど……聞き分けのない貴女をお人形にする為には、 お薬を使って廃人にしてしまうより他に、方法がないですわね」「じょ、冗談でしょ?! そんな物、貴女が持っている筈がないわ!」「んふふふふふ…………本当に、そう思っていらっしゃるの? 今の世の中、お金があれば大概の物は手に入りますわ。 人の心ですら、例外ではありませんのよ」「それは、そうだけど――」「お薬を買い求めるくらいは、誰でもしていることでしょう? まあ、効能は違いますけどねえ。くふふふっ」薬と聞いて、巴は咄嗟に、薬物中毒患者を思い浮かべた。LSDが、どんな薬物なのか、巴は知らない。ただ、妙な薬物を使われて、生ける屍にされては堪らないという恐れが、巴の倦厭を刺激した。「薬なんてイヤよっ! 貴女の人形になるのも、絶対にイヤっ!」巴は叫んで、仰向けの身体を躍動させた。バランスを崩した雪華綺晶の膝が、僅かに浮いて、右腕に自由が戻る。一瞬だけのチャンス!無我夢中で雪華綺晶を押し退けた巴は、腕を伸ばしてデッキブラシを掴んだ。「貴女なんか――」雪華綺晶に飛びかかられるより早く体勢を整えて、巴は彼女の頭部を目がけて、デッキブラシを真一文字に振り抜いた。ブラシの部分が、さながらハンマーの如く、雪華綺晶の左側頭部を強打する。ぐしゃっ! と熟したトマトが潰れる様な音が、地下室に響き渡った。雪華綺晶は、悲鳴どころか呻き声ひとつ上げずに、床に倒れ込んだ。けれど、巴の腕は止まらない。「死んじゃえっ! 貴女なんか、死んじゃえっ!!」二度、三度と、雪華綺晶の頭にデッキブラシが振り下ろされ、その度に、びちゃっ! びちゃっ! と濡れた音が沸き起こった。トドメとばかりに、大上段に振り上げられるデッキブラシ。だが、それは打ち下ろされる直前、巴の手から滑り落ちた。乾き切った木の音が、カランカランと虚しく鳴り響く。巴は荒い呼吸を繰り返しながら、横たわったままピクリとも動かない雪華綺晶を見下ろしていた。たった今、悪夢から醒めたような、呆然とした面持ちで。その間にも、雪華綺晶の髪を、じわじわと鮮血が濡らしていく。「……き……らき…………さん?」返事は、無い。反応も、無い。 ~第六回に続く~
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