あのころのように
引越しの荷物の整理に丸一日かかった。合計で二十個をこえるダンボールをつぶし、前の部屋から運んできた本や衣服や食器が、新しい部屋に置かれた本棚やタンス、キッチンにまるでパズルのように収まっていった。新しいマンションに引越したのは何か理由があったからというわけではなかった。契約の更新の時期になんとなく不動産サイトを覗いてみると、見覚えのあるマンションの写真を見つける。築十年はたっているそのマンションは白いタイル張りで、多少外観は古ぼけていたものの、間違いなく僕が大学生のころに借りていたマンションだった。写真をクリックすると空室になっている部屋の間取りを見ることができた。昔借りていた部屋はワンルームタイプの部屋だったが、空室になっているのはそのワンフロア真上にあたる2LDKだった。
次に引っ越すなら二部屋は欲しいと思っていたし、リビングが独立しているこの空室は予算を少しオーバーする以外は理想的な間取りだった。懐かしさにかられた僕は、次の休みにはその部屋を見に行っていた。
偶然、よく行く映画館でカナリアに会ったのはそれから一週間後のことだった。上映十五分前のロビーで、パンフレットを読みながらタバコを吸っていると目の前に立つ女がいる。「あんなにしつこく言ったのにまだ吸ってるかしら」顔をあげるとそこには懐かしい彼女の顔があった。「ジュン、久しぶりかしら」大学に入学してすぐにカナリアと出会った。大学生活の四年間、残すべき風景のほとんどにカナリアの姿がある。ドラマチックなシーンではない。明け方、眠い目をこすりながらスキー場へ向かう車の中、バイトの時間を気にしながら過ごした僕の部屋のベッド、そんな平凡な風景にだ。
二人で並んで映画を見た後、映画館の隣にあった喫茶店で十五分ほど昔話をして別れた。別れ際、多少ぎこちなくではあったが、お互いの電話番号の交換もした。「なんだか出会ったころに戻ったみたいかしら」はにかみながら彼女はそう言った。僕はほとんど無意識のうちに彼女の左手を見る。薬指に指輪はなかった。
カナリアから電話があったのは、引越しの片付けもおわり、ビールを飲みながらデリバリーのピザを食べ終わった午後十時すぎだった。「なにやってたかしら」と聞くので「ピザ食べてたとこ」と答える。しばらくの間、再会した時に見た映画の話をしていた。二十分ほど話したころ、「なんだかヘンな感じかしら」と彼女は言う。「ヘンな感じ? どうして?」「こうやって電話で話してるとジュンがまだあの部屋で暮らしてるような気がするかしら。ほら、いつも電話する時に使ってたクッションで壁に寄りかかってる姿が浮かんでくるかしら」
あれからどれくらいの時間が流れたのだろうか。僕は今、彼女が思い描く場所の真上で、彼女の思い描く姿で電話をしている。後ろに進めぬ人生のルール、ならもっかい出会おうふと、誰かがそんなふうに歌っていたことを思い出す。もしも今、次の休みにでも彼女を食事に誘ったら、昔のように彼女の笑顔を一番近くで見ることのできる存在に戻れるのだろうか。あのころより少しは大人になった今ならうまくやれるような気がする。丁度この部屋があのころより一部屋増えたように、懐かしくて新しい関係に戻れるのなら少し勇気をだしてみるのも悪くないかもしれない、そんなことを僕は考えていた。fin
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