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『愛って、なんですか?』中編」(2006/05/28 (日) 21:57:42) の最新版変更点

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<br> 私は、一過性の熱病に浮かされていたのかも知れない。<br> 突然に訪れた妖しい雰囲気に呑まれて、訳が解らなくなっていたのかも知れない。<br> 蒼星石と過ごした、濃密な時間の記憶が、私の身体を火照らせる。<br> <br> 私は、蒼星石が好き。募る想いを、押し止められない。<br> 一秒ごとに、好きになっていく。<br> 一分ごとに、会いたくて、堪らなくなる。<br> <br> 「今すぐにでも、届けたいこの思い。でも、無理ね」<br> <br> こんな身体じゃあ、彼女の元には行けない。<br> 健康な彼女の側にいても、私は足手まといになってしまうだけ。<br> 大切な人だと思うほど、苦しめてはいけないと思う気持ちも強くなる。<br> だけど、やっぱり側にいたいと願い、悩み苦しんでしまった。<br> <br> 消灯時間を過ぎた病室で、独り寝の寂しさに、枕を濡らす。<br> <br> 「ねえ、蒼星石。貴女の夢は何色? 私の夢は……真っ黒けよ。<br>  何もない、ただの闇。丁度、こんな月の出ていない夜みたいな、虚ろな色。<br>  でも、貴女にはバラ色の人生が待っているのよね。<br>  きっと、夢は桜色。前途洋々、希望に満ちあふれているのよ」<br> <br> 死にたくない。心の奥底で、私は悪あがきの叫びを放っていた。<br> 今までは、いつ死のうと構わなかったのに。<br> 今すぐにでも死が訪れて、私を楽にして欲しかったのに。<br> <br> 今になって、こんな気持ちになるなんて、思っても見なかった。<br> めぐと交わした約束どおり、ボクは翌日の日曜日も、病院を訪れた。<br> 昨日、病室で行われたことは、ボクとめぐだけの秘密。<br> 家でも、なに喰わぬ顔をして、普段と同じように生活していた。<br> だから、変なところで勘の鋭い姉さんにも、勘付かれていない筈だ。<br> <br> 「おはよう、めぐ」<br> <br> 扉をノックして、室内に入ると、彼女は胸の前で両手の指を絡め合わせて、<br> ボクの方を真っ直ぐに見詰めていた。心なし、顔が赤い気がする。<br> <br> 「今日も、顔が赤いね。具合でも悪いの? それとも、熱があるのかな?」<br> 「……バぁカ。詰まらない冗談なんか、言わないでよ」<br> <br> そんな事を言う暇があったら、側に来て、手ぐらい握って欲しい。<br> めぐの、熱を帯びて妖しく濡れた瞳が、雄弁に物語っていた。<br> ボクは――めぐの望みを叶えるべく歩み寄り、彼女のベッドに腰を降ろした。<br> 彼女は縋り付くように、ボクの手を握って、寂しげに呟く。<br> <br> 「遅かったのね。来てくれないんじゃないかって……泣きそうになってたのよ」<br> 「それについては、ゴメン。今日は、ボクも診察を受けてたんだ。<br>  最近、なんだか身体中が怠いというか――」<br> 「ちょっと、大丈夫なの?! それで、検査結果は?」<br> 「後日にならないと判らないみたい。でも、きっと平気だよ。疲れてるだけさ」<br> <br> ボクの言葉に、めぐは吐息して、不吉な言葉を返してきた。<br> その時の彼女は、まるで、運命の女神の様に見えた。<br> <br> 「幸福と悲嘆は繰り返されるものよ。裏表になってて、コインの様に、<br>  くるくる回り続けているの。次は……悲嘆が訪れなければ良いんだけどね」<br> <br> そんな事を、言うつもりは無かった。折角、昨日の約束どおりに、来てくれたのに。<br> 私は、なんて嫌な子なんだろう。軽く、自己嫌悪。<br> だけど、私の人生は常に、禍福を糾った縄だった。<br> 幸福の次は、不幸。厭なことの後には、愉しいこと、嬉しいことがあった。<br> <br> だから、今度もまた、不幸が訪れると考えてしまったのだ。<br> 蒼星石に出会い、愛して貰えた喜びに対する、大きな不幸が来る――と。<br> 縁起でもない事を言ってしまった私の口を、蒼星石は、そっ……と、唇で塞いでくれた。<br> <br> 「悲しい顔をしないで、めぐ。そんな事、言っちゃイヤだよ」<br> 「でも、私――」<br> 「めぐは、ボクと会った後、悲しんでいるの? 不幸せな気持ちになっているの?」<br> <br> そう問われて、私はちょっと思い返してみた。<br> 言われてみれば、不幸な気持ちには、なってなかった。<br> そりゃあ、思い通りに動けない不自由さは感じる。でも、悲しくはなかった。<br> こうしていれば、蒼星石が会いに来てくれる。<br> その幸せの方が、遥かに大きかったから。<br> <br> 私が小さく頭を振ると、蒼星石は私の肩に腕を回して、優しく包み込んでくれた。<br> <br> 「それなら、いつでも微笑みを見せてよ。<br>  ボクの前では、たとえ嘘でも構わないから、笑っていて欲しいんだ」<br> 「……解ったわ、そうする」<br> <br> 私は、作り笑いが巧く出来るほど器用じゃない。<br> だから、貴女に向ける笑顔は、私の心を写した鏡なの。嬉しければ、その分だけ輝くわ。<br> 今、この瞬間、私は言葉で言い尽くせない悦びに包まれ、幸福を感じていた。<br> <br> きっと、彼女は寂しいんだと思う。<br> 長い闘病生活は、めぐを一つ所に縛り付けて、彼女の時間を止めてしまった。<br> めぐは、ボクと同い年。本当なら、学校に通って、沢山の友達に囲まれながら、<br> 他愛ないお喋りに花を咲かせていた筈だ。<br> 明日、死んでしまうかも知れない――そんな事は、微塵も考えずに。<br> <br> めぐの、止まった時間を再び動かせるなら……ボクは、出来る限りの事をしよう。<br> 大好きな彼女が、望むままに。<br> <br> 「めぐは、音楽とか……好き?」<br> <br> 肩を抱き寄せたまま訊ねたボクを、めぐは訝るように見詰めた。<br> どうして、音楽が出てくるのか解らない。そんな彼女の想いが、伝わってきた。<br> 話の切り出し方が、ちょっと唐突すぎたかも知れない。<br> <br> 「なんか、さ。めぐの為に、音楽を奏でてみたくなったんだよ」<br> 「へぇ、面白そうね。蒼星石は、どんな楽器を巧く扱えるの?」<br> 「アルトリコーダーくらいかなぁ。これから練習するんだけどね」<br> 「なぁに、それ? ダメダメじゃないのぉ」<br> <br> めぐは、ころころと笑ってくれた。<br> 可愛らしい、年頃の乙女の笑顔。この眩しい表情を、もっと見たいと切に願う。<br> <br> 「だから、絶対に待っててよ。ボクは必ず、キミに演奏を聴かせるから」<br> <br> 約束だからね、と念を押すボクに、めぐはさらりと、悲しいことを言ってのけた。<br> <br> 「心配しないで。いつだって、私は此処に居るから」<br> <br> 蒼星石が、私のために演奏してくれると言った。<br> どんな曲を、奏でてくれるのかしら? ちょっと……ううん、かなり愉しみ。<br> でも、急いで。<br> 貴女が抱き寄せてくれている私の肩は、もう、死神の腕に掴まれているの。<br> だから、早く聴かせて。<br> <br> 「ねえ、知ってる? さよならは突然に訪れるものなのよ。<br>  長く入院して居ると、人の死に目に立ち会えるの。<br>  今朝まで元気だった人が、突然、あっさりと……。<br>  だから、約束を果たすつもりなら急いでね。<br>  私――いつまで生きていられるか、分からないから」<br> <br> 彼女を急かすために、そんな事を口にしてみる。<br> そして、つくづく自分のねじ曲がった性根を嫌悪する。<br> どうして、私は……いつも、こうなんだろう。<br> 蒼星石は、私を勇気づけようとしてくれているのに。<br> <br> いっそ、思いっ切り叱って欲しい。そして、優しく抱き締めて欲しい。<br> そうしたら、貴女の一言一言で、私のイヤな心は、少しずつ砕けていくから。<br> 大粒の涙と一緒に、全てのしがらみは、流れ去ってしまうから。<br> <br> けれど、貴女はただ、穏やかで、慈愛に満ちた微笑みを向けるだけ。<br> それは、水銀燈が私に向けてくれる親愛の笑みとは、少し違う。<br> 水銀燈の親愛を、母性愛と言い換えるなら、<br> 蒼星石の慈愛は、恋人同士の信愛に思えた。<br> <br> もしかしたら、私の願望が、そう見せているだけかも知れないけれど。<br> 翌日の月曜日から、ボクは金糸雀に頼み込んで、楽器演奏のスパルタ特訓を開始した。<br> 普段はドジッ娘な印象が強い金糸雀だけど、楽器の演奏に関しては天賦の才能を<br> 持っている。彼女に指導してもらえば、五日でそこそこの技量がつくと思えた。<br> <br> めぐの病室には行けないけれど、水銀燈が行ってくれる。<br> だから、不安は半分に減っていた。<br> ボクは安心して、演奏の練習に集中することが出来た。<br> <br> ボクが選んだのは、フルート。<br> アルトリコーダーの一本調子な音色は、なんとなく安っぽくて嫌いだった。<br> その点、艶のある音色に深みを感じさせるフルートなら、<br> ボクの想いを込めるに相応しい。でも、最初は音すら出せなかった。<br> <br> 「こぉんの下手くそ! かしらーっ!」<br> <br> 金糸雀の指導は、文字どおりのスパルタ特訓だった。<br> 罵声だけに留まらず、時々、メトロノームまで飛んでくる。<br> でも、それは望むところだ。<br> めぐに、ボクの想いを届けたい。だからこそ、中途半端な演奏はしたくなかった。<br> <br> 火曜日の練習前、金糸雀は一枚の楽譜を、ボクに渡してきた。<br> <br> 「ド素人の蒼ちゃんでも演奏できる曲を、カナが徹夜で作曲したかしら。<br>  曲名は『乙女の涙は乙女色』かしらー」<br> 「金糸雀…………ありがとう。本当に、ありがとう!」<br> 「ほらほら、ベソかいてる暇があるなら、とっとと練習を始めるかしら」<br> <br> 金糸雀の細やかな配慮に、思わず涙が出ちゃったけど、彼女の言う通りだ。<br> 時は待ってくれない。めぐの為にも、急がなければ。<br> 水曜日……今日も、来てくれないのね、貴女は。<br> 木曜日…………窓の外は、長月の雨。降りしきる雨は、私の心も濡らし、凍えさせていく。<br> 金曜日………………早く! 早く来て! 私の側に居て! 寒いのよ、心が!<br> <br> どうして、こんな気持ちになるのか解らない。<br> 多分、生まれて初めての感情じゃないかしら。<br> ただただ、胸が苦しくて、自由に羽ばたける翼を持たない自分が、呪わしかった。<br> <br> 「……めぐ。具合は、どぉ?」<br> <br> 今日も、水銀燈は来てくれた。<br> だけど、私の心は、窓越しに広がる無窮の空のようには晴れない。<br> 怪しい影と、暗い雲に覆われて、私の心は迷路を彷徨う。<br> 行き着く果ては、迷路の出口か。それとも冥路への入口か。<br> 夕暮れ迫る茜の空に、私の不安は掻き乱される。<br> <br> 「ねぇ……水銀燈。今日も、蒼星石は練習してるの?」<br> 「うん。めぐの為だって、頑張ってるのよぉ。毎日、夜遅くまでね。<br>  だから、めぐも蒼星石に負けないくらい、頑張らないとダメよぉ?」<br> 「頑張る……か。どうしようもなく、虚しい言葉ね。<br>  私は、夢の導くままに、魂を彷徨わせているだけ。<br>  自発的に何かをしようだなんて感情は、もう無いの。もう、疲れちゃったから」<br> <br> 折角、お見舞いに来てくれた水銀燈に、こんな事を言うのは無礼だと思う。<br> 解ってはいるけれど、それが、私の偽らぬ本音。<br> 私が本音を語るのは、水銀燈と、蒼星石にだけ。パパにだって、心の内を明かしたりしない。<br> <br> それを解ってくれているから、水銀燈も蒼星石も、私の側に居てくれる。<br> 側にいて、私の話を、黙って聞いていてくれる。いつでも――ずっと。<br> <br> 待ちわびた土曜日。今日こそ、彼女に会える。<br> 会いに行かねばならない……なんて、義務を感じてるワケじゃない。<br> ボクの方が、めぐに会いたくて、会いたくて――<br> 胸を締め付ける苦しみに悶えて、眠れない夜を過ごした日もあったくらいだ。<br> <br> 「蒼星石っ!」<br> <br> 金糸雀に借りたフルートのケースを抱えて、玄関を出ようとした時、<br> 姉さんに呼び止められた。<br> <br> 「今日は、この前の検査結果が出る日ですね。解ったら、すぐに知らせるですぅ」<br> 「うん。解ってる。電話するからさ」<br> <br> そう……今日は、先週の検査結果が出る日。身体の気怠さは、まだ続いている。<br> ボクは、なんとなく重い空気を払拭するように、明るく挨拶をした。<br> <br> 「それじゃ、行ってくるよ」<br>  ・<br>  ・<br> 診察結果を聞いた後、ボクは、めぐの病室へと向かった。<br> 足が……重い。心までもが、大きな岩のように、どっしりと重く沈んでいた。<br> でも、お見舞いにきていながら、こんな暗い態度じゃいけない。<br> ボクは努めて明るい笑顔を浮かべながら、めぐの病室に足を踏み入れた。<br> <br> 「おはよう、めぐ。なんか……久しぶりだね」<br> 「蒼星石っ!? ああ…………良かった。もう…………会えないかと」<br> 「悲しむ乙女のピンチに登場しなかったら、正義のヒロインには成れないからね。<br>  キミの笑顔を護るためなら、海底二万マイルにだって潜っていくさ!」<br> <br> 「……はぁ?」<br> <br> 感極まって溢れた涙が、彼女の一言で引っ込んでしまった。<br> 一体、なんなの?<br> <br> 「どうして、正義のヒロインが出てくるワケぇ?」<br> 「え? いつか、めぐが言ってたでしょ。ボクは、キミのヒロインだって」<br> 「……言ってないわよ。もしかして『貴女は私の天使よ』って言ったことを、<br>  勘違いしてるんじゃない?」<br> 「…………」<br> 「…………」<br> <br> なんて重い沈黙。そんな空気を打ち消したのは、意外にも、私の笑い声だった。<br> <br> 「あはははははっ! なぁに、それぇ。まぬけねぇ」<br> 「ちょっ……そんなに笑わないでよ。恥ずかしいなぁ、もぉ」<br> <br> それから暫くの間、私たちは笑っていた。<br> まるで、何かの恐怖から逃れるような、誤魔化し臭い笑いだったけれど……。<br> それでも私は――私たちは――笑うことを止めなかった。<br> <br> <br> 「キミのために練習した曲を、聴いてくれるかい?」<br> 「……勿論よ。その為に、私はこの一週間、命を繋いできたんだもの」<br> 「うん。じゃあ……ボクの友人が作ってくれた曲を演奏するね。<br>  タイトルは『乙女の涙は乙女色』だよ」<br> <br> 私と、蒼星石。二人だけの演奏会が、いま……幕を開けた。<br>
<br> 私は、一過性の熱病に浮かされていたのかも知れない。<br> 突然に訪れた妖しい雰囲気に呑まれて、訳が解らなくなっていたのかも知れない。<br> 蒼星石と過ごした、濃密な時間の記憶が、私の身体を火照らせる。<br> <br> 私は、蒼星石が好き。募る想いを、押し止められない。<br> 一秒ごとに、好きになっていく。<br> 一分ごとに、会いたくて、堪らなくなる。<br> <br> 「今すぐにでも、届けたいこの思い。でも、無理ね」<br> <br> こんな身体じゃあ、彼女の元には行けない。<br> 健康な彼女の側にいても、私は足手まといになってしまうだけ。<br> 大切な人だと思うほど、苦しめてはいけないと思う気持ちも強くなる。<br> だけど、やっぱり側にいたいと願い、悩み苦しんでしまった。<br> <br> 消灯時間を過ぎた病室で、独り寝の寂しさに、枕を濡らす。<br> <br> 「ねえ、蒼星石。貴女の夢は何色? 私の夢は……真っ黒けよ。<br>  何もない、ただの闇。丁度、こんな月の出ていない夜みたいな、虚ろな色。<br>  でも、貴女にはバラ色の人生が待っているのよね。<br>  きっと、夢は桜色。前途洋々、希望に満ちあふれているのよ」<br> <br> 死にたくない。心の奥底で、私は悪あがきの叫びを放っていた。<br> 今までは、いつ死のうと構わなかったのに。<br> 今すぐにでも死が訪れて、私を楽にして欲しかったのに。<br> <br> 今になって、こんな気持ちになるなんて、思っても見なかった。<br> <br> <hr> <br> めぐと交わした約束どおり、ボクは翌日の日曜日も、病院を訪れた。<br> 昨日、病室で行われたことは、ボクとめぐだけの秘密。<br> 家でも、なに喰わぬ顔をして、普段と同じように生活していた。<br> だから、変なところで勘の鋭い姉さんにも、勘付かれていない筈だ。<br> <br> 「おはよう、めぐ」<br> <br> 扉をノックして、室内に入ると、彼女は胸の前で両手の指を絡め合わせて、<br> ボクの方を真っ直ぐに見詰めていた。心なし、顔が赤い気がする。<br> <br> 「今日も、顔が赤いね。具合でも悪いの? それとも、熱があるのかな?」<br> 「……バぁカ。詰まらない冗談なんか、言わないでよ」<br> <br> そんな事を言う暇があったら、側に来て、手ぐらい握って欲しい。<br> めぐの、熱を帯びて妖しく濡れた瞳が、雄弁に物語っていた。<br> ボクは――めぐの望みを叶えるべく歩み寄り、彼女のベッドに腰を降ろした。<br> 彼女は縋り付くように、ボクの手を握って、寂しげに呟く。<br> <br> 「遅かったのね。来てくれないんじゃないかって……泣きそうになってたのよ」<br> 「それについては、ゴメン。今日は、ボクも診察を受けてたんだ。<br>  最近、なんだか身体中が怠いというか――」<br> 「ちょっと、大丈夫なの?! それで、検査結果は?」<br> 「後日にならないと判らないみたい。でも、きっと平気だよ。疲れてるだけさ」<br> <br> ボクの言葉に、めぐは吐息して、不吉な言葉を返してきた。<br> その時の彼女は、まるで、運命の女神の様に見えた。<br> <br> 「幸福と悲劇は繰り返されるものよ。裏表になってて、コインの様に、<br>  くるくる回り続けているの。次は……悲劇が訪れなければ良いんだけどね」<br> <br> <hr> <br> そんな事を、言うつもりは無かった。折角、昨日の約束どおりに、来てくれたのに。<br> 私は、なんて嫌な子なんだろう。軽く、自己嫌悪。<br> だけど、私の人生は常に、禍福を糾った縄だった。<br> 幸福の次は、不幸。厭なことの後には、愉しいこと、嬉しいことがあった。<br> <br> だから、今度もまた、不幸が訪れると考えてしまったのだ。<br> 蒼星石に出会い、愛して貰えた喜びに対する、大きな不幸が来る――と。<br> 縁起でもない事を言ってしまった私の口を、蒼星石は、そっ……と、唇で塞いでくれた。<br> <br> 「悲しい顔をしないで、めぐ。そんな事、言っちゃイヤだよ」<br> 「でも、私――」<br> 「めぐは、ボクと会った後、悲しんでいるの? 不幸せな気持ちになっているの?」<br> <br> そう問われて、私はちょっと思い返してみた。<br> 言われてみれば、不幸な気持ちには、なってなかった。<br> そりゃあ、思い通りに動けない不自由さは感じる。でも、悲しくはなかった。<br> こうしていれば、蒼星石が会いに来てくれる。<br> その幸せの方が、遥かに大きかったから。<br> <br> 私が小さく頭を振ると、蒼星石は私の肩に腕を回して、優しく包み込んでくれた。<br> <br> 「それなら、いつでも微笑みを見せてよ。<br>  ボクの前では、たとえ嘘でも構わないから、笑っていて欲しいんだ」<br> 「……解ったわ、そうする」<br> <br> 私は、作り笑いが巧く出来るほど器用じゃない。<br> だから、貴女に向ける笑顔は、私の心を写した鏡なの。嬉しければ、その分だけ輝くわ。<br> 今、この瞬間、私は言葉で言い尽くせない悦びに包まれ、幸福を感じていた。<br> <br> <hr> <br> きっと、彼女は寂しいんだと思う。<br> 長い闘病生活は、めぐを一つ所に縛り付けて、彼女の時間を止めてしまった。<br> めぐは、ボクと同い年。本当なら、学校に通って、沢山の友達に囲まれながら、<br> 他愛ないお喋りに花を咲かせていた筈だ。<br> 明日、死んでしまうかも知れない――そんな事は、微塵も考えずに。<br> <br> めぐの、止まった時間を再び動かせるなら……ボクは、出来る限りの事をしよう。<br> 大好きな彼女が、望むままに。<br> <br> 「めぐは、音楽とか……好き?」<br> <br> 肩を抱き寄せたまま訊ねたボクを、めぐは訝るように見詰めた。<br> どうして、音楽が出てくるのか解らない。そんな彼女の想いが、伝わってきた。<br> 話の切り出し方が、ちょっと唐突すぎたかも知れない。<br> <br> 「なんか、さ。めぐの為に、音楽を奏でてみたくなったんだよ」<br> 「へぇ、面白そうね。蒼星石は、どんな楽器を巧く扱えるの?」<br> 「アルトリコーダーくらいかなぁ。これから練習するんだけどね」<br> 「なぁに、それ? ダメダメじゃないのぉ」<br> <br> めぐは、ころころと笑ってくれた。<br> 可愛らしい、年頃の乙女の笑顔。この眩しい表情を、もっと見たいと切に願う。<br> <br> 「だから、絶対に待っててよ。ボクは必ず、キミに演奏を聴かせるから」<br> <br> 約束だからね、と念を押すボクに、めぐはさらりと、悲しいことを言ってのけた。<br> <br> 「心配しないで。いつだって、私は此処に居るから」<br> <br> <hr> <br> 蒼星石が、私のために演奏してくれると言った。<br> どんな曲を、奏でてくれるのかしら? ちょっと……ううん、かなり愉しみ。<br> でも、急いで。<br> 貴女が抱き寄せてくれている私の肩は、もう、死神の腕に掴まれているの。<br> だから、早く聴かせて。<br> <br> 「ねえ、知ってる? さよならは突然に訪れるものなのよ。<br>  長く入院して居ると、人の死に目に立ち会えるの。<br>  今朝まで元気だった人が、突然、あっさりと……。<br>  だから、約束を果たすつもりなら急いでね。<br>  私――いつまで生きていられるか、分からないから」<br> <br> 彼女を急かすために、そんな事を口にしてみる。<br> そして、つくづく自分のねじ曲がった性根を嫌悪する。<br> どうして、私は……いつも、こうなんだろう。<br> 蒼星石は、私を勇気づけようとしてくれているのに。<br> <br> いっそ、思いっ切り叱って欲しい。そして、優しく抱き締めて欲しい。<br> そうしたら、貴女の一言一言で、私のイヤな心は、少しずつ砕けていくから。<br> 大粒の涙と一緒に、全てのしがらみは、流れ去ってしまうから。<br> <br> けれど、貴女はただ、穏やかで、慈愛に満ちた微笑みを向けるだけ。<br> それは、水銀燈が私に向けてくれる親愛の笑みとは、少し違う。<br> 水銀燈の親愛を、母性愛と言い換えるなら、<br> 蒼星石の慈愛は、恋人同士の信愛に思えた。<br> <br> もしかしたら、私の願望が、そう見せているだけかも知れないけれど。<br> <br> <hr> <br> 翌日の月曜日から、ボクは金糸雀に頼み込んで、楽器演奏のスパルタ特訓を開始した。<br> 普段はドジッ娘な印象が強い金糸雀だけど、楽器の演奏に関しては天賦の才能を<br> 持っている。彼女に指導してもらえば、五日でそこそこの技量がつくと思えた。<br> <br> めぐの病室には行けないけれど、水銀燈が行ってくれる。<br> だから、不安は半分に減っていた。<br> ボクは安心して、演奏の練習に集中することが出来た。<br> <br> ボクが選んだのは、フルート。<br> アルトリコーダーの一本調子な音色は、なんとなく安っぽくて嫌いだった。<br> その点、艶のある音色に深みを感じさせるフルートなら、<br> ボクの想いを込めるに相応しい。でも、最初は音すら出せなかった。<br> <br> 「こぉんの下手くそ! かしらーっ!」<br> <br> 金糸雀の指導は、文字どおりのスパルタ特訓だった。<br> 罵声だけに留まらず、時々、メトロノームまで飛んでくる。<br> でも、それは望むところだ。<br> めぐに、ボクの想いを届けたい。だからこそ、中途半端な演奏はしたくなかった。<br> <br> 火曜日の練習前、金糸雀は一枚の楽譜を、ボクに渡してきた。<br> <br> 「ド素人の蒼ちゃんでも演奏できる曲を、カナが徹夜で作曲したかしら。<br>  曲名は『乙女の涙は乙女色』かしらー」<br> 「金糸雀…………ありがとう。本当に、ありがとう!」<br> 「ほらほら、ベソかいてる暇があるなら、とっとと練習を始めるかしら」<br> <br> 金糸雀の細やかな配慮に、思わず涙が出ちゃったけど、彼女の言う通りだ。<br> 時は待ってくれない。めぐの為にも、急がなければ。<br> <br> <hr> <br> 水曜日……今日も、来てくれないのね、貴女は。<br> 木曜日…………窓の外は、長月の雨。降りしきる雨は、私の心も濡らし、凍えさせていく。<br> 金曜日………………早く! 早く来て! 私の側に居て! 寒いのよ、心が!<br> <br> どうして、こんな気持ちになるのか解らない。<br> 多分、生まれて初めての感情じゃないかしら。<br> ただただ、胸が苦しくて、自由に羽ばたける翼を持たない自分が、呪わしかった。<br> <br> 「……めぐ。具合は、どぉ?」<br> <br> 今日も、水銀燈は来てくれた。<br> だけど、私の心は、窓越しに広がる無窮の空のようには晴れない。<br> 怪しい影と、暗い雲に覆われて、私の心は迷路を彷徨う。<br> 行き着く果ては、迷路の出口か。それとも冥路への入口か。<br> 夕暮れ迫る茜の空に、私の不安は掻き乱される。<br> <br> 「ねぇ……水銀燈。今日も、蒼星石は練習してるの?」<br> 「うん。めぐの為だって、頑張ってるのよぉ。毎日、夜遅くまでね。<br>  だから、めぐも蒼星石に負けないくらい、頑張らないとダメよぉ?」<br> 「頑張る……か。どうしようもなく、虚しい言葉ね。<br>  私は、夢の導くままに、魂を彷徨わせているだけ。<br>  自発的に何かをしようだなんて感情は、もう無いの。もう、疲れちゃったから」<br> <br> 折角、お見舞いに来てくれた水銀燈に、こんな事を言うのは無礼だと思う。<br> 解ってはいるけれど、それが、私の偽らぬ本音。<br> 私が本音を語るのは、水銀燈と、蒼星石にだけ。パパにだって、心の内を明かしたりしない。<br> <br> それを解ってくれているから、水銀燈も蒼星石も、私の側に居てくれる。<br> 側にいて、私の話を、黙って聞いていてくれる。いつでも――ずっと。<br> <br> <hr> <br> 待ちわびた土曜日。今日こそ、彼女に会える。<br> 会いに行かねばならない……なんて、義務を感じてるワケじゃない。<br> ボクの方が、めぐに会いたくて、会いたくて――<br> 胸を締め付ける苦しみに悶えて、眠れない夜を過ごした日もあったくらいだ。<br> <br> 「蒼星石っ!」<br> <br> 金糸雀に借りたフルートのケースを抱えて、玄関を出ようとした時、<br> 姉さんに呼び止められた。<br> <br> 「今日は、この前の検査結果が出る日ですね。解ったら、すぐに知らせるですぅ」<br> 「うん。解ってる。電話するからさ」<br> <br> そう……今日は、先週の検査結果が出る日。身体の気怠さは、まだ続いている。<br> ボクは、なんとなく重い空気を払拭するように、明るく挨拶をした。<br> <br> 「それじゃ、行ってくるよ」<br>  ・<br>  ・<br> 診察結果を聞いた後、ボクは、めぐの病室へと向かった。<br> 足が……重い。心までもが、大きな岩のように、どっしりと重く沈んでいた。<br> でも、お見舞いにきていながら、こんな暗い態度じゃいけない。<br> ボクは努めて明るい笑顔を浮かべながら、めぐの病室に足を踏み入れた。<br> <br> 「おはよう、めぐ。なんか……久しぶりだね」<br> 「蒼星石っ!? ああ…………良かった。もう…………会えないかと」<br> 「悲しむ乙女のピンチに登場しなかったら、正義のヒロインには成れないからね。<br>  キミの笑顔を護るためなら、海底二万マイルにだって潜っていくさ!」<br> <br> <hr> <br> 「……はぁ?」<br> <br> 感極まって溢れた涙が、彼女の一言で引っ込んでしまった。<br> 一体、なんなの?<br> <br> 「どうして、正義のヒロインが出てくるワケぇ?」<br> 「え? いつか、めぐが言ってたでしょ。ボクは、キミのヒロインだって」<br> 「……言ってないわよ。もしかして『貴女は私の天使よ』って言ったことを、<br>  勘違いしてるんじゃない?」<br> 「…………」<br> 「…………」<br> <br> なんて重い沈黙。そんな空気を打ち消したのは、意外にも、私の笑い声だった。<br> <br> 「あはははははっ! なぁに、それぇ。まぬけねぇ」<br> 「ちょっ……そんなに笑わないでよ。恥ずかしいなぁ、もぉ」<br> <br> それから暫くの間、私たちは笑っていた。<br> まるで、何かの恐怖から逃れるような、誤魔化し臭い笑いだったけれど……。<br> それでも私は――私たちは――笑うことを止めなかった。<br> <br> <br> 「キミのために練習した曲を、聴いてくれるかい?」<br> 「……勿論よ。その為に、私はこの一週間、命を繋いできたんだもの」<br> 「うん。じゃあ……ボクの友人が作ってくれた曲を演奏するね。<br>  タイトルは『乙女の涙は乙女色』だよ」<br> <br> 私と、蒼星石。二人だけの演奏会が、いま……幕を開けた。<br> <br> <br>  ~ 続く ~<br>

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