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s.d.7」(2006/05/14 (日) 10:50:18) の最新版変更点

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s.d.7<br> <br>  穏やかに、時は流れる。彼女は相変わらず、週に一回程度は店に紅茶を飲み<br> にきていたし。僕は僕で、いつもの『休憩』を、病院への見舞いへあてていた。<br>  他愛ない話を。きっとあの海に行ったときから僕らは恋人同士になったけれど、<br> 二人に流れている時間の質は、きっと変わりなかった。<br>  同じ空間を、共有しているということ。だけどそれは、いつ終わりを迎えて<br> しまうかわからない。それを考えると何だか恐ろしくなるのだけれど、深く考<br> えないようにしていた。<br>  現実から眼を背けていると。誰かに指摘されてしまうのなら、確かにそれは<br> そうだったのかもしれない……<br> <br> 「めぐ、林檎食べる?」<br> <br> 「あ、ありがと」<br> <br>  お見舞い用に買ってきた林檎の皮を剥く。秋は終わり、樹々の葉はすっかり<br> 落ちてしまっていた。十二月、季節は冬。<br>  最近でこそ、林檎はスーパーなどに行けば年中手に入るものだったが、あれ<br> はもともと冬の果物である。とりもあえずいちいちそんな理由をつけて、それ<br> を手に取ったのだった。<br> <br> 「どうぞ」<br> <br> 「……器用だねえ、白崎君」<br> <br> 「取り柄ですから」<br> <br> 「そんなこと言って、それじゃ取り柄がいっぱいありすぎじゃない?」<br> <br> <br> 「まあね」<br> <br> 微笑む彼女の手元にあるのは、兎を模した林檎の一切れ。何と言うか、皮むき<br> の基本だと思うのだが。<br> <br> 「じゃあ、私もやってみようかな」<br> <br> 半分に割った林檎の片割れを受け取り、彼女も皮を剥き始める。<br> <br> 「はい」<br> <br> 「どうも……って、これ普通に剥いただけじゃあ」<br> <br> 「共食いになっちゃうじゃない、兎にすると」<br> <br> 「……参りました」<br> <br>  初めて病院を訪れたときは、確かに彼女は『病人らしい』と言えばそうだろ<br> うと言えた。パジャマにカーディガンを羽織って、点滴を打っている姿を見た<br> ときに少しもショックを受けなかったと言えば嘘になる。<br>  ただ、その笑顔だけはいつもの通りで。ひょっとしたら相当体調的に、辛<br> かったのかもしれない。だけどそんな素振りは、見受けられなかった。<br> <br> 「ごちそうさま、と」<br> <br>  手を合わせる彼女。彼女が食した"兎"は一羽だけだった。<br> <br> <br> <br> 「なんか最近、食欲がねー……病院食は、本当に美味しくないし」<br> <br> 僕は入院したことが無いのでわからないが、そんなに不味いものなのだろうか。<br> ただ、その食事を思い出したのか、心底嫌そうな感じで眉をひそめる姿を見る<br> につけて、相当よろしくないものなのだろうと考える。<br> <br> 「冬だねえ、もう」<br> <br> 「そうだね。大分冷え込んできてるよ、外も」<br> <br> なんとは無しに、窓の外を見る。心臓血管外科の病棟は七階にあって、見える<br> 街並みはまるでジオラマを見ているように小さい。<br> <br> 「雪、降らないかなあ」<br> <br> 「この地方はあまり、降らないからね」<br> <br> 「うん、それでもね。積もらなくってもいいの、ちらちら舞い落ちるくらいで。<br>  ほら、雪って綺麗じゃない? 白い結晶が、空から落ちて来るんだよ」<br> <br> 子供のように眼を輝かせる彼女に、僕は『そうだね』と返す。<br> <br> 「舞い散る雪……地面に落ちたら、きっと消えちゃうんだろうけど。<br>  花に変わることは、無いからなあ……」<br> <br> <br> <br>  季節的には、降ってもおかしくは無い。実際今日は、今年一番の冷え込みを<br>  見せていた。ただ、朝に見た天気予報によると、どうやら降る予定は無いようであった。<br> <br> 「そうだ、白崎君。あなたに紹介したい娘がいるんだあ」<br> <br> 「え?」<br> <br> 「今その娘は中学生なんだけどね。今もすごくかわいいけど、きっとすごく美<br>  人になると思うの」<br> <br> 「どうしたのさ、いきなり」<br> <br> 「うん、まあ……なんとなく、かな。あ、今はまだ手を出しちゃ駄目だよ?」<br> <br> 「言われなくても、出さないよ……」<br> <br> 「駄目。私が眠っちゃったら、白崎君寂しいじゃない。だから、一応」<br> <br> 「お生憎様。そういう心配より、まずは自分の身体のことを心配するように」<br> <br> 「ふふ、そっかあ。……うん、頑張る」<br> <br> <br> <br> 「……」<br> <br> 「白崎君、時間だいじょうぶ?」<br> <br> 「あ、もうこんな時間か……そろそろ戻ろうかな。また来るよ」<br> <br> 「うん、わかった。仕事頑張ってね」<br> <br> 「仰せの通りに……今度は、何か本を持ってくるから」<br> <br> 「本当に? ありがとう」<br> <br> <br> 手を振って別れ、病室を出る。<br> <br>  そのまま戻ってしまっても良かったのだが、何となく七階病棟のロビーにあ<br> る長椅子に腰掛け、ぼんやりとしていた。<br>  ロビーには窓があって、病室よりも大きく風景は切り取られている。雪が降<br> らないだろうか、と。少し願う。<br> <br>  今度来るときは、何の本を持ってこようか。そんなことを、ぼんやりと考えていた。<br> <br> <br> <br> 『――……! ――――!』<br> <br>  ロビーから少し離れたナースステーションが、何やら慌しくなっていた。<br> ばたばたとスタッフが走っている。<br> <br> <br>  僕は、その喧騒の中で聞こえた声を、<br> <br> <br> 『――703号室の柿崎さん、容態急変です!――』<br> <br> <br>  何処か遠い世界のものであると、感じた。<br> <br> <br>  直ぐに立ち上がり、病室へ走る。<br>  そんな。――そんな、馬鹿な!<br> <br> <br> 「すみません、中に居る患者さんは――」<br> <br> 「申し訳御座いません、今緊急の処置を行っていますので、部外者の方は中に<br>  入ることが出来ません」<br> <br>  他人? 僕は……他人では、無い。<br> <br> <br> 「僕は――僕は、彼女の恋人です!」<br> <br>  暫く部屋の前で争っていたところで、中から医者らしい人物が一人出て来た。<br> <br> 「彼女は……めぐは……」<br> <br> 「ご家族の、方ですか?」<br> <br> 「いえ、違いますが、僕は――」<br> <br> 「そうですか……ですが、柿崎さんのご家族は、今日は見えられる日ではあり<br>  ませんから……」<br> <br> <br> 「どういう、ことです?」<br> <br> 「曜日で、決まってるんですよ。最近では、ただ様子を見に来られるだけでし<br>  て……今しがた、連絡は入れたのですが」<br> <br> 「それで、彼女の容態はどうなんです!」<br> <br>  食って掛かる僕に対し、医者の反応は冷静だった。ただ、首を。横に振るだけ。<br> <br> 「ああ、あなたは……ここ最近、毎日来てらっしゃった方ですね。<br>  最期になるかもしれませんが……中へ入ってください」<br> <br> <br>  医者に促され、病室へ入る。中では人工呼吸器をつけた彼女と何やら彼女に<br> 処置を施しているらしいスタッフが三人ほど居た。<br> <br>  僕は、何を見ているんだ?<br>  さっきまで、笑いながら話をしていたじゃないか。<br>  そんなに荒い息をして……<br>  夢ならば、覚めて欲しい――<br> <br> <br>  苦しそうに息をしている彼女に対する処置が、やがて止まった。<br> <br> 「何を――」<br> <br>  病室の外で僕に話をした医者と同じように。<br>  中に居た彼らも、首を横に振った。<br> <br> 「そんな……! 諦めないで下さいよ!!」<br> <br>  騒ぎ立てる僕が、強引に外へ追い出される。<br>  そして医者は、静かに言った。<br> <br> 「もともと、心臓移植をしなければならないほど、彼女の容態は悪いのです。<br>  正直、ここまでよくもったと――」<br> <br> 「……」<br> <br> <br> <br> <br> 『私、もうすぐ死ぬんだ』<br> <br> <br> そんな風には見えなかった、彼女。辛い素振りなんてほとんど見せなかった、<br> 彼女。君は――わかっていたんだ。<br>  現実から眼を背けた僕と違って。君はいつも向き合っていた。<br>  こうなることを、他の誰よりも、僕が受け止めてあげなければならなかった<br> と言うのに――<br> <br> 「……彼女と」<br> <br> 「え?」<br> <br> 「彼女と、二人きりにさせてくれませんか。――お願いします」<br> <br> 医者は少し逡巡の素振りを見せたあと、答えた。<br> <br> 「二人きり、というのは承諾出来ません。私が付き添いましょう」<br> <br> <br> <br> ――――――<br> <br> <br> 「……めぐ?」<br> <br> 「しろさき、くん……あんなこといっちゃって、ちょっとはずかしいな」<br> <br> 苦しそうだ。呼吸が、荒い。<br> <br> 「いいじゃないか、恋人っていうのは本当だろ」<br> <br> ちょっと、彼女の顔が微笑んでいるように見える。<br> <br> 「……おしごと、は?」<br> <br> 「いいんだ、それは。無理してしゃべらないで、いいから」<br> <br> 僕は彼女の手を握る。少しだけ、握り返してくれているのがわかる。<br> その力が、あまりにも弱い。<br> <br> 「だめ……じゃない、さぼっ……ちゃ……」<br> <br> なんだって、君は。こんな時にまで、僕のことを気にかけるのか。<br> <br>  泣いてはいけない。<br>  だけど、どうしようもなく溢れてくる涙を、止めることが出来ない。<br> <br> <br> <br> <br> 「し……き、……」<br> <br> 口を動かしている彼女に、顔を近づけた。一言も、聞き漏らさないように。<br> <br> 「し……ろさき、くん、」<br> <br> 「わた……し、の……こと、わす、れ……て?」<br> <br>  駄目だ。そんなことは出来ない。僕は、忘れない、絶対に!<br> <br>  僕は首を横に振った。出来るだけ、穏やかな表情で。<br>  そんな僕を見た彼女の眼は今にも閉じてしまいそうで、<br>  それでいて、何だか微笑んでいるように見える。<br> <br> <br> 「やさ、し、い……ね、しろ、さき……くん、は」<br> <br>  眠っちゃ駄目だ、めぐ。そっちへ行っちゃ、駄目だ、<br> <br>  彼女はゆっくりと首を窓の方に向けた。<br> <br> <br> <br> <br> 「ゆ……き」<br> <br> 「え?」<br> <br> <br> 「ゆき、……きれい、だ、……ね……」<br> <br> <br>  窓の外を見る。雪は……降っていない。<br> <br>  けど。彼女の眼には、舞い散る雪が見えているんだ。<br> <br> <br> 「ああ本当だ、めぐ。綺麗な雪だよ」<br> <br> <br>  手を握る力を込める。彼女はまたこちらを向いて、また口を動かす。<br> <br>  もう、声は聞こえてこなくて。<br> <br>  だけど。彼女は確かに、<br> <br> <br> 『ごめんね、ありがとう』<br> <br> <br>  と。一筋涙を流し、言ったのだ。<br> <br> <br> ――――――――――<br> <br> <br>  病室を出る。<br>  僕は、自分の両手を見た。<br>  最期に、握る力が失われた感触がまだ残っている、この両手を。<br> <br>  めぐ、君は眠りについてしまった。<br>  僕だけがこうやって、目覚めている。<br>  僕は――<br> <br> <br>  ロビーにあるエレベーターへ向かっているところで、こちらの方へ走ってく<br> る少女にぶつかった。<br> <br> 「すっ、すみません……」<br> <br>  僕に少し頭を下げたあと、また走っていった。<br> <br>  今の娘――泣いてたな。僕の眼も今、兎のように真っ赤になっているに違いない。<br> <br> <br>  外へ出る。今年一番の冷え込みの筈が、ちっとも寒くなかった。<br>  少なくとも、今の僕にとっては。<br> <br> <br> <br>  煙草を取り出す。君に『似合わない』と言われてしまった煙草を。<br>  火を点けて吸い込むと、喉の奥が冷たくなっていった。<br>  指に挟んだ煙草の先端から、煙が空へ昇っていく。<br> <br>  ほとんど揺れることなく、真っ直ぐと空へ吸い込まれていく煙。<br>  それを追って、僕は空を見上げた。<br> <br> <br> 「雪だ……」<br> <br> <br>  空一杯の灰色の雲から舞い落ちる、雪。<br>  地面に落ちては、消えていく。<br> <br> <br>  君のいのちは、手の平から零れ落ちるように。<br>  この雪のように、消えてしまった。<br> <br> <br>  この雪は、君が降らせたのか。<br> <br>  僕はまた、涙を流して。<br> <br>  そんなことを……ただ、思っていた。<br> <br> <br> ――――――――――――――――――――――――――――<br> <br> <br>  車を走らせる。いつものように当ては無くて、適当に流している。君のことを、<br> 思い出しながら。<br>  改めて考えると、本当に時間が経ったものだ。<br> <br>  あれから七年。僕はいつも通り仕事をしながら過ごしてきたし、それはこれ<br> からも変わらないだろう。<br>  <br>  たまに今でも考えることと言ったら。君は僕と付き合っていたいくらかの時<br> 間、本当に幸せだったのかということ。<br>  それを確かめる術は、この先僕がこの世界で目覚めている限り、在りはしないのだ。<br>  <br>  僕はあれから、あの白い世界の夢を見ていない。だから、夢の中で。彼女に<br> 逢うことも無くなっていた。<br>  皮肉なものだ。この世界に彼女が居なくなった途端、彼女の姿そそのものが、<br> 夢の世界ですら消えてしまったのだから。<br> <br> 「――海へ」<br> <br>  海へ行こうと思った。ひとの少ない、秋の海へ。<br>  <br> 『感傷的な気分になりすぎるのもよくない』と。めぐが亡くなった年の冬明け<br> に帰ってきた槐に、そう言われた。<br> <br> <br> <br> <br>  それは今でもたまに言われることだし、実際僕もそうだと思っている。この<br> 先僕がどれほど想いを積み重ねていっても、それが報われないことは明らかだからだ。<br> <br>  けど。こうやってたまに思い出さなければ、記憶は沈んでいく。僕はそんな<br> 理由をつけている。<br>  これはひょっとしたら、ただの逃避なのかもしれないと。そんな考えを、頭<br> の隅っこの方へ追いやりながら。<br> <br> <br>  それは、僕の意識が見せたまやかしだったのかもしれない。<br>  ただ、車を運転する僕の横に広がっている海岸線の波打ち際に。<br> <br> <br>  小さく見える、二つの人影、<br>  その影が、あまりに君に似ているようで、<br> <br> <br>  僕は眼の前にあるカーブに対する、<br> <br>  反応が、遅れた。<br> <br> 「――――――――――――!」<br> <br>  間に合わない。<br>  時間が、止まる。<br>  いや、その瞬間、本当に時間は止まったように感じて、――<br> <br> <br> ――――――――――――――――――――――――<br> <br> <br> ―――真っ白な、世界だった。<br> <br>  そうか、僕は――また、ここに来ることが出来たのか。<br>  七年ぶりの、感覚。夢の中の実感なんて、確かなものでは無いのだろうけど。<br>  ただ。所在無くこの空間を歩いている僕が、彼女の姿を確認することは無かった。<br>  そんなに、都合よくはいかないようだ。<br> <br>  全く。夢というものは、自分が見ているものだというのに。その癖、何一つ<br> 自分の思い通りになりはしない。<br> <br>  何も無い世界で、僕は寝転んだ。何だか眠くなってきたからだ。<br> <br> ――夢の中でも、眠くなることがあるのか?<br> <br>  よくわからない。ただ今は、頭を働かせること自体が、何だか億劫だった。<br> <br>  曖昧となっていく思考の中で、君のことを思い出す。今になっても、君が幸<br> せだったのかという答えを出すことが出来ない。<br> <br> <br> 『一言、難しいって言っちゃうと――』<br> <br> <br>  声が聴こえた、気がした。<br>  でも、君はここには居ない。それはわかってる。<br> <br> <br>  本当に、難しい問題だったのだろうか?<br>  僕は。僕という人間は、君と過ごした時間、確かに幸せだった。<br> <br> <br>  君もそうだったと――僕は、信じてもいいかい?<br> <br> <br>  気付くと、僕の身体が地面の白の中へと沈み始めていた。<br> <br> <br> ――この白は、君の見ていた夢のように……白い花の花弁では、なかった。<br> <br> <br>  まるで、水の中へ身を沈めていくような感覚。でも、全然息苦しくない。<br> 可笑しな話だ。僕は"夢の中"で、"はっきりと実感を持ちながら"、沈んでいる。<br>  この中も、やっぱり白い空間のままだったけれど、何だか薄暗い。多分光が<br> 届いていないのだろう。<br> <br>  丁度、僕が身を横たえていた"水"の表面。元は、確かに地面だったところに。<br> 僕が沈むときに出来た、波紋が円を描いている。<br>  その波紋は、広がるだけ広がっていって。やがて消えてしまうだろう。<br>  その――軌跡。僕がこの世界に居た軌跡が、消える。<br> <br>  沈み行く底の方に眼線を向けてみると、そこには漆黒の闇が広がりを見せて<br> いた。何だか怖い感じがしたけれど、沈む身体を止めることは出来ない。<br> <br> 「……」<br> <br> <br> <br> <br>  また、水際を見やる。すると――<br>  水面に誰かが、浮かんでいるのが見えた。<br> <br> <br> ――めぐ。君なのか?<br> <br> <br>  その顔は、微笑んでいるような感じもしたけど、<br>  逆光のせいで、ちゃんと確かめることが出来ない。<br> <br> <br>   そうか。僕は、駄目だったんだ。<br>   その白い世界に、留まることは出来ない――<br> <br> <br>  沈みながら、僕は思う。<br> <br> <br>  水面に居る君は、新しい波紋を作らないから。<br> <br> <br>  少しだけ、寂しい――<br> <br> <br> <br> <br>

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