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<p>  「あ、煙草吸ってるの?」</p> <p> 久しぶりの『再会』から暫く、僕は彼女と逢うことが結局無かった。<br> 僕と言えばあいも変わらずいつものベンチで休憩をとっていて。<br>   この日は、あまりの手持ち無沙汰に、本当に久しぶりに煙草に手<br> をつけてみた。メンソールが鼻を抜けていく。それほど強いものは<br> 吸っていなかったと言っても、久しぶりなだけにちょっと頭がくら<br> くらとする。</p> <p>   夏が終わり、秋がやってこようとしていた。陽はまだまだ長いし、<br> 残暑のせいで涼しいとも言えない気候。しかし確実に、次の季節の<br> 足音が、ひっそりと近づいている。</p> <p>   公園での彼女との二度目の邂逅は、そんな時だった。</p> <p>「久しぶりだね」</p> <p>「うん、本当に」</p> <p> 今日の彼女の出で立ちは、白色七部丈のサマーセーター、グレーで<br> チェックのシンプルな模様のついているフレアスカートというもの<br> だった。ストローマニッシュの帽子が、夏の余韻を感じさせる。</p> <p>  彼女は前と同じように、僕の隣の席に座った。</p> <p><br> 「白崎君、煙草吸うんだね」</p> <p>「うん? まあたまにだけど」</p> <p> 「駄目だよ、白崎君。煙草は身体に悪いから。それに」</p> <p> なんだか、似合わないよ――煙草呑みとしては、ちょっとショックな言葉を聞<br> かされてしまったので。僕は苦笑しながら、持っていた携帯灰皿に煙草を押し<br> 付けて火を消した。</p> <p>「あ……ごめん。気、悪くしちゃった?」</p> <p>「いや、大丈夫。身体に悪いっていうのは本当だし」</p> <p> 「ごめんね。その、なんていうか――白崎君、喫茶店のマスターでしょ? <br>   珈琲に煙草は合うかもだけど、紅茶だったりすると少し違和感あるかなって<br>   思ったの」</p> <p> 確かに。紅茶は味もさることながら、その香りを楽しむものであるから。ささ<br> やかな茶会の場に、紫煙は邪魔なものかもしれなかった。</p> <p> 「だから、白崎君がかっこ悪いとか、そういう意味じゃなくってね、」</p> <p> うん。そのフォローは、どうかと思うな。なんだ、その。恥ずかしい。</p> <p>「柿崎さん、今日は店に来る?」</p> <p><br>   懲りずに誘ってみた。何しろ前回は時間切れだったので。</p> <p> 「そうだね、お邪魔しようかな。実はちょっと探してみたんだけど、流石に<br>   ノーヒントじゃ無理だったね」</p> <p> 「そりゃそうだ。ちょっと路地っぽいところにあるし」</p> <p> じゃあ、行こうかと。僕はベンチから腰を上げた。気分は少し、はしゃいでい<br> たかもしれない。とびっきりの紅茶を淹れてあげようだなんて、考えていた。</p> <p>「めぐ、でいいよ」</p> <p> 振り返ると、彼女はまだベンチに座ったまま。微笑みながら、そんなことを言<br> うのだった。</p> <p>「承知致しました」</p> <p> 僕は前を向き直し、彼女の顔を見ないようにして返す。<br>   参った。ときめきを感じるという年でも無いだろうに、なんだか酷く気恥ず<br> かしかった。</p> <p><br> ――――――――</p> <p><br> 「ようこそ、『トロイメント』へ」</p> <p> 彼女を店へ招き入れる。店内をきょろきょろ見回しながら、カウンター席につく。</p> <p>「ここが、夢見るような喫茶店かぁ」</p> <p>「ちょっと狭いんだけどね。あと少し古めだし」</p> <p> 「ううん、いいと思うよ。とってもいい雰囲気。私は好きだな、こんな感じのお店」</p> <p>「光栄の極みで御座います」</p> <p> 一礼すると、彼女はまた零れるような笑顔を見せるのだった。</p> <p>   ふと見ると、彼女はカウンター入り口側の、一番端っこの席に腰を下ろしている。</p> <p> 「かき……や、めぐさん。もっと真ん中に座ればいいのに」</p> <p> 僕がそう言うと、『んー』と人差し指で自分の顎をさしながら彼女は言葉を返す。</p> <p> 「えっとね。今はお客さん居ないみたいだけど、もし来たら何だか<br>   悪いでしょう。だから、お仕事の邪魔にならないように」</p> <p> 「その辺は大丈夫なんだけど。とりあえず、カウンターが一度に全<br>   部埋まったことなんて無いから」</p> <p>「そうなの? 駄目じゃない、もっと頑張らなきゃ」</p> <p>「善処はしてるんだけど」</p> <p>「休みすぎなのよ、白崎君は」</p> <p> ひとしきり、談笑。結局彼女は、席を替えないまま、こう付け加えた。</p> <p> 「じゃあね、ここ。私の指定席にしていいかなあ。私専用」</p> <p> 「どうぞどうぞ。その席は、今まで座ったことのあるお客様は、ほとんどいな<br>   いから」</p> <p> やったあ、と。何だか喜んでいる彼女は、まるで子供のように無邪気な表情。</p> <p><br> 「それとね」</p> <p>「何ですか?」</p> <p> 「普段呼び捨てで呼ばれてるから。"さん"は要らないわ」</p> <p><br> ――――――</p> <p><br> 「どうぞ、お待たせしました」</p> <p>「わあ。これ、花びらが入ってるの?」</p> <p> 「そうだね。フラワーティーっていうのも、なかなかいいものだよ」</p> <p>彼女はカップに口をつけて。ほぅ、と溜息をひとつ。</p> <p>「いい香り。紅茶淹れるの、上手なんだね」</p> <p>「僕の唯一の取り柄と言ってもいいくらいかな」</p> <p> 「うーん……あと、演劇の才能もあるよ、きっと。ね? 兎さん」</p> <p> どうやらこのネタは、いつまでも引っ張られそうな気配である。</p> <p> 「そうだ、白崎君。あの本棚に入ってるのって、洋書?」</p> <p> 「そうだよ。ドイツとか、ヨーロッパにある本が多いかな」</p> <p>「そっかぁ。じゃ、これも良かったら置いてよ」</p> <p>彼女がバッグから取り出した本は――『Alice in Wonderland』。不思議の国<br> のアリスだった。</p> <p><br> 「こないだ白崎君に逢ったらね、なんか懐かしくなっちゃって。思わず<br>   買っちゃったの。散歩がてら外で読んだりもしてたから、ずっと持ち歩いてたんだ」</p> <p> 「そうなんだ……でも、いいのかい? 本が増えるのは有難いけど」</p> <p> 「大丈夫、もう読んじゃったし。それに、『不思議の国のアリス』は夢物語で<br>   しょう。このお店に置いてもらえれば、本もきっと喜ぶんじゃないかな」</p> <p><br>   彼女の言うとおり、『不思議の国のアリス』は、少女アリスの見ていた夢の<br> 話である。不思議な世界に迷い込んだ少女は、最後の最後で、家族の居る木の<br> 下で目覚めるのだ。</p> <p><br>   これをきっかけに、僕らは他愛の無いアリス談義に華を咲かせた。</p> <p> 「アリスは結局、夢から覚めてしまうけど。眠っていることに気付かなければ、<br>   いつまでもその世界に留まれたのかなあ」</p> <p> 「どうだろうね。『覚めない夢は無い』――って捉えちゃうと、少し寂しい気<br>   もするけど」</p> <p>「寂しい?」</p> <p> 「うん。けど、目覚めている時でも、夢を見ることは出来ると僕は思ってる。<br>   それは勿論、眠っているときの夢と同じように、自分では気付かないもの<br>   なのかもしれないけどね」</p> <p><br> 「……この世界で」</p> <p>「うん?」</p> <p> 「この世界でね。目覚めていれば、いいことってあるのかな」</p> <p> まただ。彼女はいつも微笑んでいるけど、時折感じるこの儚さが、どこか危う<br> い印象を抱かせる。</p> <p><br> 「あるよ、きっとある」</p> <p>「本当に?」</p> <p> 「本当さ。現に僕は、あなたに美味しい紅茶を提供しておりますので」</p> <p> 『お気に召して頂けましたか?』そんな台詞とともに、また一礼。彼女は吹き<br> 出しながら言った。</p> <p> 「ふふっ、確かにね。本当に美味しい紅茶……ありがとう、白崎君。いや、兎さん?」</p> <p> そう言われてしまっては、僕も役を崩す訳にはいかない。とことん付き合うこ<br> とにしよう。<br>   本当に、他愛の無い話だ。幸いなことに――まあ、いつものことだが――他<br> の客は来る気配が無かったので、僕等はずっと話をすることが出来た。</p> <p><br>   適当にアリス談義が終わると、彼女は本棚の方へ足を運んだ。</p> <p>「へぇ……色々あるんだね……」</p> <p>「まあ、哲学書やら小説やらね」</p> <p>「勉強家なんだね」</p> <p>そう言いながら、彼女が一冊の本を取り出す。</p> <p>「これ……ファウスト?」</p> <p>それから、一言『懐かしい』と、ぽつりと零した。</p> <p>   そんな彼女の声の一つ一つが鍵となって、僕の記憶の引き出しは開けられて<br> いく。夏の日の『再会』よりももっと前、多分それが、僕と彼女との初めての出会い。</p> <p> 「学校の図書館で読んでたもんね、白崎君。原書だったからびっくりしちゃっ<br>   たよ。辞書ひいて唸ってるんだから」</p> <p>「生意気な学生だった、ということで一つ」</p> <p> 「うふふ。でも私があなたに話しかけたのって、実はその時くらいなんだよね」</p> <p> 忘れられちゃっても当然か、と。彼女は嘯くのだった。</p> <p><br> 『ゲーテ、私も読んだよ。日本語訳だけど』</p> <p> 引き出しが開いた今の僕は、その時の言葉を鮮明に思い出せる。会話としては、<br> 一言二言交わす程度だったけれど。確かにあの時、僕は少し嬉しかったのだ。<br>   槐とは外国文学の話も出来たのだが、ほとんどの場合は周囲と話の合うこと<br> が無かったから。</p> <p><br> 「そういえばさ、……めぐ」</p> <p> 急に呼び捨てで呼べと言われても、少々戸惑うところがある。その癖彼女の、<br> 僕の呼び方は変わることが無かったし。</p> <p>「うん? 何?」</p> <p> 「前にさ。『トロイメント』の名前出したときに、意味がわかってたみたいだっ<br>   たけど。ドイツ語の勉強でもしてるの?」</p> <p>ああそれね、と。何だか可笑しそうに、彼女は返す。</p> <p> 「私もね、『ファウスト』を頑張って原書で読もうと思って、辞書引いてたの。<br>   だけど途中で挫折しちゃって。</p> <p>   それで結局、どんな単語があるのかなーって、気になったやつを調べるだけ<br>   になっちゃった。</p> <p>  『夢』っていうのをたまたま調べたら、『夢見るように』なんて単語もあるん<br>   だものね。なんだか素敵だったな」</p> <p><br> 成る程。常用で使う単語なのかどうかはわからなかったが、そのような理由が<br> あったのか。<br>   あの辺りには色々派生語があるから。『トラウマ』という単語も、しれっと<br> ドイツ語だったりする。雰囲気を崩しそうだったので、それを口にすることは<br> 無かったが。</p> <p><br> 「魂の救済……白崎君は、どう思った? あのお話は」</p> <p> そう聞かれれば、お答えするのが役者の務め。僕は息を吸い込んだ。</p> <p>「"時よ止まれ、お前はいかにも美しい!"」</p> <p> きょとん、としている彼女。……しくったか。流石にちょっと恥ずかしい。</p> <p>「白崎君……やっぱりあなた、役者の才能、あるよ」</p> <p>「ちょっと頑張ってみました」</p> <p> 照れ笑いを浮かべる僕に、ぱちぱちと拍手を送る彼女。</p> <p>  気を取り直して、僕は話し始める。</p> <p> 「ファウスト博士は悪魔の誘惑に負けてしまうけどね。<br>  君が言ったように、彼の魂は最終的には救済されたんだと思う」</p> <p> 「うん、確かにそうかもね。そして彼は永遠の眠りについた……<br>   じゃあ更に質問。白崎君にとって、『眠り』って何?」</p> <p>「眠り……?」</p> <p> 僕は、彼女の質問の意図がよくわからなかったので、答えに窮する。どうして<br> 彼女はそんなことを聞いてくるのか。<br>   暫く考えていると、また彼女が口を開く。</p> <p>「えっと、やっぱり無しで。ごめんね」</p> <p> 「いや、大丈夫だけど……じゃあ、めぐはそれをどう思ってるの」</p> <p> 彼女は紅茶に口をつけて。一呼吸置いてから、続けた。</p> <p> 「『眠った』ときから、時間は止まる。そして彼は、それを美しいと言った。<br>   ……字面だけ捉えるとね。死ぬっていうことが、彼の魂の救済だったのかな<br>   あって。彼は永遠の眠りについて、永遠の夢を見るの」</p> <p>「それって、きっと幸せなことじゃないかしら?」</p> <p><br>   彼女の中に秘められた危うさが、次第にかたちになり始める。<br>   そして。その『かたち』が作られれば作られるほど。<br>   彼女の中にある『何か別なもの』が、壊れていく。</p> <p><br>   一枚の絵を完成させていたパズルが。<br>   その端から、ゆっくりと崩れていくような……<br>   そんな感覚を抱かせる、声。<br>  <br>   僕は彼女に、何か言葉をかけなければならない。</p> <p><br> 「……それは、少し違うと思う」</p> <p>「どの辺りが?」</p> <p> 「めぐが考えることも、ひょっとしたら正しいのかもしれない。でも、そうい<br>   う問いの答えは、一つじゃ無い筈なんだ。<br>   さっきも言ったけど、生きているままに――夢を見ることだって、出来るんだから」</p> <p> そうして、無言の時間がやってくる。古時計が午後四時を知らせた<br> ところで、彼女は口を開いた。</p> <p> 「そう……うん、そうだね。ありがとう白崎君。優しいんだね、あなたは」</p> <p>「いや、そんなことは」</p> <p>「褒め言葉は素直に受け取るのが吉だよ」</p> <p>「……はい」</p> <p><br> 何だか萎縮してしまってる僕を見て、君は笑い。その姿を見て、僕も笑った。</p> <p> 「本当にありがとう、白崎君。今度は直接ここに来るから」</p> <p> だからさぼっちゃ駄目よ、と。そう言い残して、彼女は店を後にした。</p> <p><br>   カウンターに残された、『不思議の国のアリス』。<br>   僕はそれをそっと手にとって、本棚の『ファウスト』の隣に収めおく。<br>  <br>   夢を見ていた少女の物語と、最期に夢の世界へ旅立った男の詩曲。<br>   繋がりの無い二つの作品に関連性を持たせる、一つの言葉。<br>   そんなキーワードに、僕は思考を巡らせていた。</p> <p><br>   ただ。その鍵には、然してかたちが無い。<br>   それだけのことだ。</p> <p><br>   そう、それだけの、こと。</p> <p><br> ――――――――――――――――――――<br></p>

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