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【何もない話】」(2006/05/05 (金) 22:53:37) の最新版変更点

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【何もない話】<br> <br> <p> ――空に堕ちる夢を見た。<br> 「あー?」<br>  どこまでも無限に広がる空のクセに、何故か空には底が在る。<br>  自分が堕ちているという感覚がなくなったから、そう判断しただけだけど。<br> 「いや、夢だけど」<br> 「何が?」<br>  彼女が不思議そうに言うから、頭をなでた。気持ち良さそうに目を細める彼女は、猫のようだと思った。<br> 「空は何だと思う?」<br> 「空?」<br> 「そう、空」<br>  そんな彼女の意見を聞きたかった。きっと彼女からは、とても素敵な言葉が聞けると思ったから。<br> 「空イコール、堕ちるだと思う」<br> 「空は、堕ちるものなの?」<br> 「空に、堕ちる。空が、堕ちる。空で、堕ちる。そんな感じ」<br>  ……言いたいことはよく判らないけど、何となく彼女の視線から意図を読み取る。<br> 「じゃあ、僕は君にとっての空なのかな」<br> 「そうだね。ジュンは、私にとっての空かもしれない」<br>  彼女は、とても愛くるしい笑顔で言った。……ただ、それだけだった。<br> <br></p> <p> 「例えば、眠くなる時だって在る。それは、どうしてなのかな」<br> 「人間は、退屈で死ねるから。だから、じゃないかな」<br> 「退屈で死にそうだから、眠くなるの?」<br> 「そうだね。きっと、そうに違いない」<br>  人間は生きているから、停まることが出来ないんだ。退屈と言うのはつまり、停まる状態に近づくこと。<br> 「じゃあ、死んだ人間はどうなのかな」<br> 「知らない。私、死んだことないから」<br> 「そう。僕もまだ、死んだことがないよ」<br>  穏やかな時間。窓から温かい日差しが差し込む、とても緩やかな時の流れ。<br>  彼女と居るからこうなのか。あるいは、彼女が望むからこんな時間なのか。<br>  それは、自分にはわからないことだった。<br> 「薔薇水晶は、死にたい?」<br> 「ジュンが死にたいのなら、死にたい」<br> 「……僕は、わからないよ」<br> 「じゃあ、きっと私もわからない」<br> 「でも、空は飛びたいんだ」<br> 「空に、何があるの?」<br>  何があるんだろう。知らない。もしかしたら天使が居るのかもしれない。<br> 「神さまを信じる?」<br> 「神さま? 神さまの何を信じるの?」<br> 「空が素敵なところであるように」<br>  それは、彼女の願いだった。<br> <br> <br></p> <p>「ねえ、ジュン」<br> 「うん」<br> 「何を悲しんでいるの?」<br> 「何も、悲しんでなんか居ないよ」<br>  別に、空が飛びたくなっただけ。空に還ると言って、微笑んで消えた彼女に逢いたくなっただけ。<br>  ……だから僕は、悲しんでなんか居ないはず。だって、今こんなにも薔薇水晶と一緒の時間を過ごせている。<br> 「彼女に、逢いたい?」<br> 「彼女に、逢いたいよ」<br> 「空に堕ちた彼女に?」<br> 「空に堕ちた彼女に」<br> 「天使になっていそうな彼女に?」<br> 「天使になっていそうな彼女に」<br> 「――私よりも?」<br> 「薔薇水晶とは、今一緒に居るじゃないか」<br>  そういうことじゃなくて、と薔薇水晶は拗ねたように口を尖らせた。<br> 「まあ、いいかな」<br> 「うん、いいかもしれない」<br> 「空は遠いね」<br> 「こんなにも近いのにね」<br> 「それだけの話かな」<br> 「きっと、それだけの話だよ」<br>  そして、僕たちは目を瞑った。一緒に、眠りたかったから。<br> <br> 【からっぽの僕たちは、別に何でもなく、一緒に居るだけだ】<br> <br> <br> <br> <br></p> <p>  眠れない夜が続く。身体はだるいんだけど、疲れているともまた違う、精神のたるみ。<br>  何となく、胸の中がもやもやして眠れないんだ。眠りは、一番の逃避だと知っているからだろうか。<br> 「薔薇水晶は、眠れるのに」<br> 「……ん」<br>  横で眠る彼女の髪を梳く。さらさらと、まるで清らかな水みたいに指の隙間から流れていく髪。<br>  この髪は薔薇水晶の自慢で、そして彼女の自慢だった。だから、どうというわけではないのだけど。<br>  強いて言うなら、僕もこの髪の感触が好きで、さらに言うのなら、この髪に触れる人間が僕だけであることに優越感を覚える。<br> 「まあ――どうでもいいけど」<br>  いつからか、それが口癖になった。特にやりたいことがなくなったからだろうか。<br>  ぼけーっとする。日溜まりがあるだけの世界。白いカーテンに、白いベッド。その上で僕たち二人は、一緒に居る。<br>  だから、夜は違う世界に居るみたいだった。薔薇水晶は眠り、僕と違う世界に行き、そしてやさしい日溜まりは、真実を映してしまう月明かりに変わる。<br>  夜は、怖い。いつあの綺麗な星々が見惚れるほど美しいナイフを手に取るか、怖くて仕方ない。<br> 「彼女は、どうだったのかな」<br>  彼女は、昼の空に堕ちたかったのだろうか。それとも、夕暮れの空? あとは、夜の空。<br>  でもきっと、彼女は何と聞かれたって、こう答えたに違いないのだ。<br>  ――空が、好きなの。<br>  その一言だけだった。だから、空に堕ちたのだ。天使は地上に堕ちるけど、人間は空に堕ちるらしいから。<br>  まあ、これも彼女の受け売りなんだけど――<br> 「ん……、ジュン?」<br>  ああ、薔薇水晶を起こしてしまった。きっと、良い夢を見ていたに違いないのに。<br> <br> <br> <br> 「おはよう、ジュン」<br> 「うん、おはよう、薔薇水晶」<br> 「ああ、夜だね」<br> 「うん、夜だよ」<br>  そういえば、彼女は、夜を何と称していただろう。<br> 「――黒い楽園みたい」<br> 「黒い、楽園?」<br>  思わず、聞き返してしまった。何でかは、よくわからない。多分、彼女と違う答えだったと思う。<br> 「うん。真っ黒で、真っ黒で、それなのに月と星が居るの。だから、黒い楽園。月はあそこに居るしかないし、星はあそこで集まるしかないの」<br> 「それは、楽園?」<br> 「きっと幸せなんじゃないかな」<br> 「何で、幸せなの?」<br> 「空に居るから」<br>  空に居るのが、幸せ? じゃあ、彼女も、幸せを求めていたのだろうか。<br> 「薔薇水晶は、幸せ?」<br> 「私は、幸せ。でも、私は、幸せで居たくはないよ。ジュンが、幸せそうじゃないから」<br> 「僕は、幸せそうじゃない?」<br> 「私と居るのにね」<br> 「それは、どうしてかな」<br> 「……空に、堕ちればいいのかな」<br>  答えず、薔薇水晶は真っ黒な楽園を見上げた。誰もが孤独の中輝く楽園を。<br> 「あんな寂しい楽園、消えちゃえばいいのに」<br>  薔薇水晶が言うけど、だけど、別に薔薇水晶が言わなくてもきっと隠れただろう。だって、明日が来るから。<br> <br> <br> 「薔薇水晶は、空、好き?」<br> 「私の好きなものは、ジュンの好きなものだよ」<br> 「でも、彼女は好きだったよ」<br> 「――じゃあ、私も好き。大嫌いだけどね」<br>  くすくす、と幸せそうに笑う薔薇水晶は、かわいかった。<br> 「ジュンは、だから空が嫌いなの?」<br> 「夕暮れの空は、好きだけどね」<br> 「空は、嫌い?」<br> 「……夕暮れの空は、好きだよ」<br> 「――じゃあ、空、好き?」<br> 「さあ、どうだったかな」<br>  薔薇水晶の言葉は、綺麗だった。きっと、薔薇水晶の言葉はあの星々と変わらない輝きを持っている。<br>  ――からっぽの、誰もがわからない輝き。<br> 「ねえ、ジュン」<br> 「うん?」<br> 「私は、ジュンが好きだよ」<br> 「僕は、僕のことを好きでもなんでもない」<br> 「私は、ジュンが好きな薔薇水晶が好きだよ」<br> 「僕も、僕の好きな薔薇水晶が好きだ」<br> 「――私、からっぽだった彼女が好きだよ?」<br> 「そんなこと、僕は知らない」<br>  僕のその言葉を聞いて微笑む薔薇水晶<br> <br> <br> <br></p> <p>  夕暮れは切なさを運ぶ。見ているものの胸を締め付け、憂いを誘う。<br>  何がこんなに懐かしいのか。何がこんなに悲しいのか。それは、儚い光景だから、そう思うのだろうか。淡い茜色がそう思わせるのだろうか。<br> 「僕はね、いつだったか、世界が終わるんじゃないかって空を見たことがある」<br>  印象だけだった。情報がダイレクトに脳に伝わって、認識より先に理解が来た、あの赤い空。<br>  何の疑いもなく、ああ、世界が終わるんだな、と、受け入れた。こんなに綺麗な空なんだから、それも仕方ない、とも。<br> 「だから、かな。夕暮れの空を好きなのは」<br> 「ふぅん……。それで、世界は終わった?」<br> 「覚えてない。いつの間にか、夕暮れでなくなっていたからね」<br> 「そんなものなの?」<br> 「そうだったんだから、そうなんじゃないかな」<br>  実際、それだけだった。いつの間にか、世界は赤色から青色に変わっていた。全然別の色。きっと、僕は終わった世界からはみ出たんだろう。<br> 「赤色」<br> 「ん?」<br> 「赤って、結構特別な色だよね?」<br> 「そうかな」<br> 「そうだよ。私たちの中に流れている命も、赤色だよ?」<br>  血のことだろうか。血は、命なのか。依の血? ……ああ、ダメだ。上手い言葉を思いつかない。<br> 「だから、赤は刺激色なのか」<br> 「そうだね。赤は命だから、命が目から入ってくれば怖いよ」<br>  確かにそうだけど、きっとそうじゃないだろう。薔薇水晶は、そんなことを怖がるはずもないから。<br> 「そういえば、薔薇水晶って何を怖がるの?」<br> 「私の、怖がるもの?」<br>  薔薇水晶は、不思議そうに首をかしげた。僕も、同じように首をかしげる。<br>  自分で聞いておいてなんだけど、薔薇水晶に怖いものなんて、あるのか。自分に置き換えて考えてみれば、わかる。<br>  ――世界なんて、夕暮れで終わってしまう程度のものなのに。<br> <br> <br> <br> 「ああ、あったよ」<br> 「あるの?」<br> 「うん。空、飛べなくなること」<br> 「また、空?」<br> 「そう、空」<br>  いつだって空は僕たちと居る。いい加減空もうんざりしているんじゃないだろうか。<br> 「でも、薔薇水晶は空を飛べるの?」<br> 「ジュンは飛べないし、だけど、だから私は飛べるんだよ」<br> 「空を飛んで、どこに行くの?」<br> 「真白な世界」<br> 「今思ったんだけどさ、世界に真白も真黒もあるの?」<br> 「あるよ。――だって、私たちの世界だもの」<br>  薔薇水晶の言うことは、いちいちもっともだ。世界は、夕暮れ程度で終わるものだから、僕たちの世界がある。<br>  もし、夕暮れを過ぎても世界がそこにあるのなら、きっと夜が訪れるのだ。深い、黒の楽園が。<br>  ……じゃあ、僕はどこに居ればいいのだろう。この夕暮れの世界に、留まりたいとさえ思う。<br> 「ねえ、薔薇水晶。僕は、空に堕ちれると思う?」<br> 「堕ちれるよ」<br> 「ありがとう」<br>  簡潔な一言で充分だった。とても、嬉しい。<br> 「でも、ジュン。一つ知っておいて」<br> 「うん」<br> 「私はね、ジュンが傍に居てくれるなら――」<br> <br> 「――空だって、飛んでいける」<br> <br>  ああ、と思う。薔薇水晶がそういうんだから、きっと薔薇水晶は飛べるんだろう。<br>  きっと、どこまでも。<br> <br> <br> <br> 【――――】<br> <br>  彼女は微笑む。僕に向かって、どこまでも純化されて、どこか人間味を失ってしまった、その綺麗な微笑を、向ける。<br> 「ジュン」<br> 「…………」<br> 「私は、ジュンが傍に居てくれるなら」<br> 「…………」<br> <br> 「――空にだって、堕ちていける」<br> <br> 「……………………………………………………………………………………………<br>  ……………………………………………………………………………………………<br>  ……………………………………………………………………………………………<br>  ………………………………………………………………………………………ああ、」<br> <br> <br> <br> <br> <br>                            ノイズ。<br> <br> <br> <br> <br> <br> <br> <br> 「空は、何て綺麗なんだろう」<br> 「そう? 私には、穢いようにしか見えないよ」<br> 「見てきたの?」<br> 「ないしょ」<br> 「隠し事をするんだ」<br> 「そうだよ。ジュンにすら隠し事をするんだもの。なら、きっと空だって穢れてるよ」<br>  僕は、どうだろう。薔薇水晶に隠し事をしているのだろうか。そう、少し考えて、ないな、と思う。<br>  そもそも、隠し事をするようなことがないのだ。もしあるとしたら、それは自分が忘れていることで。<br> 「……でも、綺麗だなあ」<br> 「綺麗だね」<br> 「さっきと言っていること、違う」<br> 「ジュンが綺麗だというなら、それはきっと綺麗なものなんだよ」<br> 「そうなのかな」<br> 「違うと思うよ」<br> 「どっち?」<br> 「どうでもいいよ」<br> 「それ、僕の台詞」<br> 「あは、ごめん」<br>  同じようなことを、同じようなやりとりで、同じように対処していく。<br>  別段変化はない。それが、心地よくも感じるが、しかしまどろみのような気だるさも感じる。<br>  なら、今の自分に、どうすればやる気とか、そう言ったものが出るんだろう。<br> 「どうすればいいのかな」<br> 「じゃあ、そろそろ、空に堕ちる?」<br> 「堕ちれば、彼女に逢える?」<br> 「逢えるよ。……でも、そうだな」<br>  この時だけは、きっと僕たちの知っている薔薇水晶じゃなくて。<br> 「私は、ジュンに堕ちて欲しくない」<br>  なら、どうしろと言うんだ。僕は、からっぽなのに。<br> <br> <br> <br></p> <p>「からっぽになったことはある?」<br>  彼女が僕に唐突に聞いたことがあった。それはいつだったか覚えていないけれど。<br> 「からっぽ?」<br> 「えっと、何もない状態」<br> 「僕は、多分、何かがあると思うよ」<br> 「うん。よかった。ジュンは、そうだよね」<br>  それが寂しさを伴っていたことに気づいていたが、気にしなかった。僕たちの世界は、そんなことを気にしない。<br> 「世界が、赤いよ」<br> 「このまま、赤に染まったらどうなるのかな」<br> 「きっと、世界が終わるんじゃない?」<br> 「世界が終わったら、どうするの?」<br> 「私は、ジュンと一緒に居たい」<br> 「世界が終わっても?」<br> 「世界が始まる前からでも」<br> 「僕と?」<br> 「ジュンと」<br> 「……なのに、“       ”は、僕を、」<br> <br>  ノイズ。<br> <br> 「――空にだって、堕ちていける」<br>  君が堕ちていけるのなら、僕だって、きっと堕ちていけるに違いない。<br> 「それじゃあ、ばいばい」<br> 「うん、ばいばい」<br>  ホント、意味わからないけどさ。<br> <br> <br> <br> <br></p> <p>「……あ、」<br>  忘れていた何かを思い出した気がした。<br> 「どうしたの?」<br> 「頭の中で、過去が見えた気がした」<br> 「それで、どうしたの?」<br> 「ん、何もしなかった」<br> 「……つまんない」<br>  予想通りの答えを返してくれた。いつもより、少しつまらなそうな表情で。<br> 「こんな会話、つまらない」<br> 「うん、でも、きっと必要なことなんだよ」<br> 「世界に?」<br> 「そう、この物語に」<br> 「そんなの、いらないのに。私は、ジュンが居れば、何もいらないのに」<br> 「おかしなことを言うね。僕以外、誰も居ないのに」<br> 「二人だけの世界?」<br> 「二人だけしか居ない世界だよ」<br> 「……ねえ、ジュン。空に堕ちよう」<br>  薔薇水晶から誘ってきたのは、初めてだった。<br> 「もう、いいや。飽きちゃった。ジュンは、きっといつまでもここに居るつもりでしょう」<br> 「うん、そうだよ」<br> 「――それは、ダメな事だってわかってても?」<br> 「うん」<br> 「私が、頼んでも?」<br> 「だって、空を飛べる薔薇水晶と、空に堕ちるしかない僕とでは、全然違うじゃないか」<br> 「私が、ジュンに空に堕ちてほしいと思ってると思う?」<br> 「……きっと、それには答えられない」<br>  誰よりも近い他人のことなんて、誰も答えられるはずがない。自分のことが、一番よくわからないんだから。<br> <br> <br> <br>  流れる雲を数える。暇つぶし。何もすることがないし、何もしたいことがないから。<br>  私は、ジュンが居なければ何も意味がない。そんな存在。ジュンが居るから世界に意味は生まれるし、ジュンが居るから世界を認識できる。<br>  この、白い部屋と、変わらず変化する空だけの世界。それだけが、私たちの世界だったに違いなかった。<br> 「夕暮れだ」<br>  夕暮れだった。ジュンは眠っているけど、でもきっと私が夕暮れを見ているなら、ジュンだって夕暮れの夢を見ているのかもしれない。<br>  ジュンは、夕暮れを世界の終わりと例えた。それはきっと、正しい。もし一日ごとに世界が生まれ変わるとしたら、世界の終わりの象徴は、陽の沈むその時だ。<br>  だから、彼女はその空に堕ちることを選んだ。夕暮れが好きで、……夕暮れが、とても想い出深いから。<br>  でも、一歩間違えば、彼女のしたことは、想い出を穢してしまうことに他ならない。彼女とジュンが過ごした夕暮れ。<br>  彼女とジュンが出逢ったのは、とても綺麗な夕暮れの景色の中で、彼女とジュンが結ばれたのだって、忘れられない夕暮れの景色だった。<br>  ――そう、忘れられない。どんなことがあったって、忘れることなんてできない。<br>  本当に大切な想い出というのは、そういうものなんだ。私は、ずっとそう思う。<br> 「だから、見失ってしまえばいい」<br>  そんなもの。大切だから、腐っていってしまう、白亜の夢。白い白い霧に霞む夢幻。<br>  白はあかに染められる。あかい色。吐き気がするほど綺麗に見える、黒よりも黒いあか。<br>  ジュンは、あかをどう思ったのだろう。あか。あか。まっか。私は、きっとあかが嫌いなんだろうな。そう思う。<br> 「でも、そもそも、」<br>  私って、誰なんだろうね。ねえ、ジュン。横で眠るジュンの頬に触れる。とても、愛しい。<br> <br> 「……私は、だぁれ?」<br> <br>  きっと、ジュンは答えてくれない。<br> <br></p> <p>「おはよう、薔薇水晶」<br> 「おはよう、ジュン」<br> 「……ああ、夕暮れだ」<br> 「そうだよ。ジュンの好きな、回顧すべき夕暮れ」<br> 「回顧するの? 懐古じゃなくて?」<br> 「ん、回顧、かな」<br>  流れる雲を数える。空を見る。空に流れる雲を、数える。<br> 「そうだなぁ」<br>  ジュンは、いつものように、何も変わらず、空を見上げ、そして空に見入った。<br> 「過去なんて、狂う材料でしかないと思うけど」<br> 「狂うの?」<br> 「過去がなければ、狂わない」<br> 「過去があるから、甘美な夢を見れる」<br> 「狂っているから、甘美に感じる」<br> 「じゃあ、ジュンは想い出が欲しくないの?」<br> 「……薔薇水晶が居れば、別にいい」<br> 「彼女は?」<br> 「彼女は――」<br>  どうせ、答えは同じなのに。どうして私は聞いてしまうのだろう。何も、返ってこないのに。<br> 「彼女は、空に堕ちたから」<br> 「それは、答えてないよ」<br> 「彼女は、空(から)でなくなったから」<br> 「ジュンは、空(から)なの?」<br> 「何もない話だ」<br> 「……何もない、話だね」<br>  ジュンは、空に堕ちたいんだ。だけど、堕ちる空はない。ジュンは、空だから。<br> <br></p> <p>「禁忌という言葉があるよね」<br> 「やってはいけないこと」<br> 「そう、やっちゃいけないことだ」<br> 「空に堕ちるのは、禁忌かな」<br> 「地上に堕ちるのは、禁忌に触れたからだよ」<br> 「……なら、禁忌に“なる”のは」<br> 「禁忌じゃないよ」<br> 「そっか」<br> 「そうだね」<br> 「意識したことないけど、僕たちはどちらがどちらでもいいのかな」<br> 「それは違うよ。私はジュンでもいいけど、ジュンは私ではいけないもの」<br> 「それは、何故?」<br> 「ジュンは、空に堕ちたいから」<br> 「薔薇水晶は、空に堕ちたいの?」<br>  ジュンが気づくまで、この会話が続く。ずっと、続く。<br> 「――さあ? 彼女に聞いて。そんなことは」<br> 「そっか。逢いたいな」<br> 「私が居るのに、彼女に逢いたいの?」<br> 「うん」<br> 「……それだけの話なのに」<br> 「それだけの、話」<br> 「なのに、どうして、こんなに繰り返すの?」<br> 「罪だから」<br>  ……うるさいな。そんなこと言われたら、私、泣きそうになっちゃうじゃないか。バカ。<br> <br></p> <dl> <dd><br></dd> </dl>
【何もない話】<br> <br> <p> ――空に堕ちる夢を見た。<br> 「あー?」<br>  どこまでも無限に広がる空のクセに、何故か空には底が在る。<br>  自分が堕ちているという感覚がなくなったから、そう判断しただけだけど。<br> 「いや、夢だけど」<br> 「何が?」<br>  彼女が不思議そうに言うから、頭をなでた。気持ち良さそうに目を細める彼女は、猫のようだと思った。<br> 「空は何だと思う?」<br> 「空?」<br> 「そう、空」<br>  そんな彼女の意見を聞きたかった。きっと彼女からは、とても素敵な言葉が聞けると思ったから。<br> 「空イコール、堕ちるだと思う」<br> 「空は、堕ちるものなの?」<br> 「空に、堕ちる。空が、堕ちる。空で、堕ちる。そんな感じ」<br>  ……言いたいことはよく判らないけど、何となく彼女の視線から意図を読み取る。<br> 「じゃあ、僕は君にとっての空なのかな」<br> 「そうだね。ジュンは、私にとっての空かもしれない」<br>  彼女は、とても愛くるしい笑顔で言った。……ただ、それだけだった。<br> <br></p> <p> 「例えば、眠くなる時だって在る。それは、どうしてなのかな」<br> 「人間は、退屈で死ねるから。だから、じゃないかな」<br> 「退屈で死にそうだから、眠くなるの?」<br> 「そうだね。きっと、そうに違いない」<br>  人間は生きているから、停まることが出来ないんだ。退屈と言うのはつまり、停まる状態に近づくこと。<br> 「じゃあ、死んだ人間はどうなのかな」<br> 「知らない。私、死んだことないから」<br> 「そう。僕もまだ、死んだことがないよ」<br>  穏やかな時間。窓から温かい日差しが差し込む、とても緩やかな時の流れ。<br>  彼女と居るからこうなのか。あるいは、彼女が望むからこんな時間なのか。<br>  それは、自分にはわからないことだった。<br> 「薔薇水晶は、死にたい?」<br> 「ジュンが死にたいのなら、死にたい」<br> 「……僕は、わからないよ」<br> 「じゃあ、きっと私もわからない」<br> 「でも、空は飛びたいんだ」<br> 「空に、何があるの?」<br>  何があるんだろう。知らない。もしかしたら天使が居るのかもしれない。<br> 「神さまを信じる?」<br> 「神さま? 神さまの何を信じるの?」<br> 「空が素敵なところであるように」<br>  それは、彼女の願いだった。<br> <br> <br></p> <p>「ねえ、ジュン」<br> 「うん」<br> 「何を悲しんでいるの?」<br> 「何も、悲しんでなんか居ないよ」<br>  別に、空が飛びたくなっただけ。空に還ると言って、微笑んで消えた彼女に逢いたくなっただけ。<br>  ……だから僕は、悲しんでなんか居ないはず。だって、今こんなにも薔薇水晶と一緒の時間を過ごせている。<br> 「彼女に、逢いたい?」<br> 「彼女に、逢いたいよ」<br> 「空に堕ちた彼女に?」<br> 「空に堕ちた彼女に」<br> 「天使になっていそうな彼女に?」<br> 「天使になっていそうな彼女に」<br> 「――私よりも?」<br> 「薔薇水晶とは、今一緒に居るじゃないか」<br>  そういうことじゃなくて、と薔薇水晶は拗ねたように口を尖らせた。<br> 「まあ、いいかな」<br> 「うん、いいかもしれない」<br> 「空は遠いね」<br> 「こんなにも近いのにね」<br> 「それだけの話かな」<br> 「きっと、それだけの話だよ」<br>  そして、僕たちは目を瞑った。一緒に、眠りたかったから。<br> <br> 【からっぽの僕たちは、別に何でもなく、一緒に居るだけだ】<br> <br> <br> <br> <br></p> <p>  眠れない夜が続く。身体はだるいんだけど、疲れているともまた違う、精神のたるみ。<br>  何となく、胸の中がもやもやして眠れないんだ。眠りは、一番の逃避だと知っているからだろうか。<br> 「薔薇水晶は、眠れるのに」<br> 「……ん」<br>  横で眠る彼女の髪を梳く。さらさらと、まるで清らかな水みたいに指の隙間から流れていく髪。<br>  この髪は薔薇水晶の自慢で、そして彼女の自慢だった。だから、どうというわけではないのだけど。<br>  強いて言うなら、僕もこの髪の感触が好きで、さらに言うのなら、この髪に触れる人間が僕だけであることに優越感を覚える。<br> 「まあ――どうでもいいけど」<br>  いつからか、それが口癖になった。特にやりたいことがなくなったからだろうか。<br>  ぼけーっとする。日溜まりがあるだけの世界。白いカーテンに、白いベッド。その上で僕たち二人は、一緒に居る。<br>  だから、夜は違う世界に居るみたいだった。薔薇水晶は眠り、僕と違う世界に行き、そしてやさしい日溜まりは、真実を映してしまう月明かりに変わる。<br>  夜は、怖い。いつあの綺麗な星々が見惚れるほど美しいナイフを手に取るか、怖くて仕方ない。<br> 「彼女は、どうだったのかな」<br>  彼女は、昼の空に堕ちたかったのだろうか。それとも、夕暮れの空? あとは、夜の空。<br>  でもきっと、彼女は何と聞かれたって、こう答えたに違いないのだ。<br>  ――空が、好きなの。<br>  その一言だけだった。だから、空に堕ちたのだ。天使は地上に堕ちるけど、人間は空に堕ちるらしいから。<br>  まあ、これも彼女の受け売りなんだけど――<br> 「ん……、ジュン?」<br>  ああ、薔薇水晶を起こしてしまった。きっと、良い夢を見ていたに違いないのに。<br> <br> <br> <br> 「おはよう、ジュン」<br> 「うん、おはよう、薔薇水晶」<br> 「ああ、夜だね」<br> 「うん、夜だよ」<br>  そういえば、彼女は、夜を何と称していただろう。<br> 「――黒い楽園みたい」<br> 「黒い、楽園?」<br>  思わず、聞き返してしまった。何でかは、よくわからない。多分、彼女と違う答えだったと思う。<br> 「うん。真っ黒で、真っ黒で、それなのに月と星が居るの。だから、黒い楽園。月はあそこに居るしかないし、星はあそこで集まるしかないの」<br> 「それは、楽園?」<br> 「きっと幸せなんじゃないかな」<br> 「何で、幸せなの?」<br> 「空に居るから」<br>  空に居るのが、幸せ? じゃあ、彼女も、幸せを求めていたのだろうか。<br> 「薔薇水晶は、幸せ?」<br> 「私は、幸せ。でも、私は、幸せで居たくはないよ。ジュンが、幸せそうじゃないから」<br> 「僕は、幸せそうじゃない?」<br> 「私と居るのにね」<br> 「それは、どうしてかな」<br> 「……空に、堕ちればいいのかな」<br>  答えず、薔薇水晶は真っ黒な楽園を見上げた。誰もが孤独の中輝く楽園を。<br> 「あんな寂しい楽園、消えちゃえばいいのに」<br>  薔薇水晶が言うけど、だけど、別に薔薇水晶が言わなくてもきっと隠れただろう。だって、明日が来るから。<br> <br> <br> 「薔薇水晶は、空、好き?」<br> 「私の好きなものは、ジュンの好きなものだよ」<br> 「でも、彼女は好きだったよ」<br> 「――じゃあ、私も好き。大嫌いだけどね」<br>  くすくす、と幸せそうに笑う薔薇水晶は、かわいかった。<br> 「ジュンは、だから空が嫌いなの?」<br> 「夕暮れの空は、好きだけどね」<br> 「空は、嫌い?」<br> 「……夕暮れの空は、好きだよ」<br> 「――じゃあ、空、好き?」<br> 「さあ、どうだったかな」<br>  薔薇水晶の言葉は、綺麗だった。きっと、薔薇水晶の言葉はあの星々と変わらない輝きを持っている。<br>  ――からっぽの、誰もがわからない輝き。<br> 「ねえ、ジュン」<br> 「うん?」<br> 「私は、ジュンが好きだよ」<br> 「僕は、僕のことを好きでもなんでもない」<br> 「私は、ジュンが好きな薔薇水晶が好きだよ」<br> 「僕も、僕の好きな薔薇水晶が好きだ」<br> 「――私、からっぽだった彼女が好きだよ?」<br> 「そんなこと、僕は知らない」<br>  僕のその言葉を聞いて微笑む薔薇水晶<br> <br> <br> <br></p> <p>  夕暮れは切なさを運ぶ。見ているものの胸を締め付け、憂いを誘う。<br>  何がこんなに懐かしいのか。何がこんなに悲しいのか。それは、儚い光景だから、そう思うのだろうか。淡い茜色がそう思わせるのだろうか。<br> 「僕はね、いつだったか、世界が終わるんじゃないかって空を見たことがある」<br>  印象だけだった。情報がダイレクトに脳に伝わって、認識より先に理解が来た、あの赤い空。<br>  何の疑いもなく、ああ、世界が終わるんだな、と、受け入れた。こんなに綺麗な空なんだから、それも仕方ない、とも。<br> 「だから、かな。夕暮れの空を好きなのは」<br> 「ふぅん……。それで、世界は終わった?」<br> 「覚えてない。いつの間にか、夕暮れでなくなっていたからね」<br> 「そんなものなの?」<br> 「そうだったんだから、そうなんじゃないかな」<br>  実際、それだけだった。いつの間にか、世界は赤色から青色に変わっていた。全然別の色。きっと、僕は終わった世界からはみ出たんだろう。<br> 「赤色」<br> 「ん?」<br> 「赤って、結構特別な色だよね?」<br> 「そうかな」<br> 「そうだよ。私たちの中に流れている命も、赤色だよ?」<br>  血のことだろうか。血は、命なのか。依の血? ……ああ、ダメだ。上手い言葉を思いつかない。<br> 「だから、赤は刺激色なのか」<br> 「そうだね。赤は命だから、命が目から入ってくれば怖いよ」<br>  確かにそうだけど、きっとそうじゃないだろう。薔薇水晶は、そんなことを怖がるはずもないから。<br> 「そういえば、薔薇水晶って何を怖がるの?」<br> 「私の、怖がるもの?」<br>  薔薇水晶は、不思議そうに首をかしげた。僕も、同じように首をかしげる。<br>  自分で聞いておいてなんだけど、薔薇水晶に怖いものなんて、あるのか。自分に置き換えて考えてみれば、わかる。<br>  ――世界なんて、夕暮れで終わってしまう程度のものなのに。<br> <br> <br> <br> 「ああ、あったよ」<br> 「あるの?」<br> 「うん。空、飛べなくなること」<br> 「また、空?」<br> 「そう、空」<br>  いつだって空は僕たちと居る。いい加減空もうんざりしているんじゃないだろうか。<br> 「でも、薔薇水晶は空を飛べるの?」<br> 「ジュンは飛べないし、だけど、だから私は飛べるんだよ」<br> 「空を飛んで、どこに行くの?」<br> 「真白な世界」<br> 「今思ったんだけどさ、世界に真白も真黒もあるの?」<br> 「あるよ。――だって、私たちの世界だもの」<br>  薔薇水晶の言うことは、いちいちもっともだ。世界は、夕暮れ程度で終わるものだから、僕たちの世界がある。<br>  もし、夕暮れを過ぎても世界がそこにあるのなら、きっと夜が訪れるのだ。深い、黒の楽園が。<br>  ……じゃあ、僕はどこに居ればいいのだろう。この夕暮れの世界に、留まりたいとさえ思う。<br> 「ねえ、薔薇水晶。僕は、空に堕ちれると思う?」<br> 「堕ちれるよ」<br> 「ありがとう」<br>  簡潔な一言で充分だった。とても、嬉しい。<br> 「でも、ジュン。一つ知っておいて」<br> 「うん」<br> 「私はね、ジュンが傍に居てくれるなら――」<br> <br> 「――空だって、飛んでいける」<br> <br>  ああ、と思う。薔薇水晶がそういうんだから、きっと薔薇水晶は飛べるんだろう。<br>  きっと、どこまでも。<br> <br> <br> <br> 【――――】<br> <br>  彼女は微笑む。僕に向かって、どこまでも純化されて、どこか人間味を失ってしまった、その綺麗な微笑を、向ける。<br> 「ジュン」<br> 「…………」<br> 「私は、ジュンが傍に居てくれるなら」<br> 「…………」<br> <br> 「――空にだって、堕ちていける」<br> <br> 「……………………………………………………………………………………………<br>  ……………………………………………………………………………………………<br>  ……………………………………………………………………………………………<br>  ………………………………………………………………………………………ああ、」<br> <br> <br> <br> <br> <br>                            ノイズ。<br> <br> <br> <br> <br> <br> <br> <br> 「空は、何て綺麗なんだろう」<br> 「そう? 私には、穢いようにしか見えないよ」<br> 「見てきたの?」<br> 「ないしょ」<br> 「隠し事をするんだ」<br> 「そうだよ。ジュンにすら隠し事をするんだもの。なら、きっと空だって穢れてるよ」<br>  僕は、どうだろう。薔薇水晶に隠し事をしているのだろうか。そう、少し考えて、ないな、と思う。<br>  そもそも、隠し事をするようなことがないのだ。もしあるとしたら、それは自分が忘れていることで。<br> 「……でも、綺麗だなあ」<br> 「綺麗だね」<br> 「さっきと言っていること、違う」<br> 「ジュンが綺麗だというなら、それはきっと綺麗なものなんだよ」<br> 「そうなのかな」<br> 「違うと思うよ」<br> 「どっち?」<br> 「どうでもいいよ」<br> 「それ、僕の台詞」<br> 「あは、ごめん」<br>  同じようなことを、同じようなやりとりで、同じように対処していく。<br>  別段変化はない。それが、心地よくも感じるが、しかしまどろみのような気だるさも感じる。<br>  なら、今の自分に、どうすればやる気とか、そう言ったものが出るんだろう。<br> 「どうすればいいのかな」<br> 「じゃあ、そろそろ、空に堕ちる?」<br> 「堕ちれば、彼女に逢える?」<br> 「逢えるよ。……でも、そうだな」<br>  この時だけは、きっと僕たちの知っている薔薇水晶じゃなくて。<br> 「私は、ジュンに堕ちて欲しくない」<br>  なら、どうしろと言うんだ。僕は、からっぽなのに。<br> <br> <br> <br></p> <p>「からっぽになったことはある?」<br>  彼女が僕に唐突に聞いたことがあった。それはいつだったか覚えていないけれど。<br> 「からっぽ?」<br> 「えっと、何もない状態」<br> 「僕は、多分、何かがあると思うよ」<br> 「うん。よかった。ジュンは、そうだよね」<br>  それが寂しさを伴っていたことに気づいていたが、気にしなかった。僕たちの世界は、そんなことを気にしない。<br> 「世界が、赤いよ」<br> 「このまま、赤に染まったらどうなるのかな」<br> 「きっと、世界が終わるんじゃない?」<br> 「世界が終わったら、どうするの?」<br> 「私は、ジュンと一緒に居たい」<br> 「世界が終わっても?」<br> 「世界が始まる前からでも」<br> 「僕と?」<br> 「ジュンと」<br> 「……なのに、“       ”は、僕を、」<br> <br>  ノイズ。<br> <br> 「――空にだって、堕ちていける」<br>  君が堕ちていけるのなら、僕だって、きっと堕ちていけるに違いない。<br> 「それじゃあ、ばいばい」<br> 「うん、ばいばい」<br>  ホント、意味わからないけどさ。<br> <br> <br> <br> <br></p> <p>「……あ、」<br>  忘れていた何かを思い出した気がした。<br> 「どうしたの?」<br> 「頭の中で、過去が見えた気がした」<br> 「それで、どうしたの?」<br> 「ん、何もしなかった」<br> 「……つまんない」<br>  予想通りの答えを返してくれた。いつもより、少しつまらなそうな表情で。<br> 「こんな会話、つまらない」<br> 「うん、でも、きっと必要なことなんだよ」<br> 「世界に?」<br> 「そう、この物語に」<br> 「そんなの、いらないのに。私は、ジュンが居れば、何もいらないのに」<br> 「おかしなことを言うね。僕以外、誰も居ないのに」<br> 「二人だけの世界?」<br> 「二人だけしか居ない世界だよ」<br> 「……ねえ、ジュン。空に堕ちよう」<br>  薔薇水晶から誘ってきたのは、初めてだった。<br> 「もう、いいや。飽きちゃった。ジュンは、きっといつまでもここに居るつもりでしょう」<br> 「うん、そうだよ」<br> 「――それは、ダメな事だってわかってても?」<br> 「うん」<br> 「私が、頼んでも?」<br> 「だって、空を飛べる薔薇水晶と、空に堕ちるしかない僕とでは、全然違うじゃないか」<br> 「私が、ジュンに空に堕ちてほしいと思ってると思う?」<br> 「……きっと、それには答えられない」<br>  誰よりも近い他人のことなんて、誰も答えられるはずがない。自分のことが、一番よくわからないんだから。<br> <br> <br> <br>  流れる雲を数える。暇つぶし。何もすることがないし、何もしたいことがないから。<br>  私は、ジュンが居なければ何も意味がない。そんな存在。ジュンが居るから世界に意味は生まれるし、ジュンが居るから世界を認識できる。<br>  この、白い部屋と、変わらず変化する空だけの世界。それだけが、私たちの世界だったに違いなかった。<br> 「夕暮れだ」<br>  夕暮れだった。ジュンは眠っているけど、でもきっと私が夕暮れを見ているなら、ジュンだって夕暮れの夢を見ているのかもしれない。<br>  ジュンは、夕暮れを世界の終わりと例えた。それはきっと、正しい。もし一日ごとに世界が生まれ変わるとしたら、世界の終わりの象徴は、陽の沈むその時だ。<br>  だから、彼女はその空に堕ちることを選んだ。夕暮れが好きで、……夕暮れが、とても想い出深いから。<br>  でも、一歩間違えば、彼女のしたことは、想い出を穢してしまうことに他ならない。彼女とジュンが過ごした夕暮れ。<br>  彼女とジュンが出逢ったのは、とても綺麗な夕暮れの景色の中で、彼女とジュンが結ばれたのだって、忘れられない夕暮れの景色だった。<br>  ――そう、忘れられない。どんなことがあったって、忘れることなんてできない。<br>  本当に大切な想い出というのは、そういうものなんだ。私は、ずっとそう思う。<br> 「だから、見失ってしまえばいい」<br>  そんなもの。大切だから、腐っていってしまう、白亜の夢。白い白い霧に霞む夢幻。<br>  白はあかに染められる。あかい色。吐き気がするほど綺麗に見える、黒よりも黒いあか。<br>  ジュンは、あかをどう思ったのだろう。あか。あか。まっか。私は、きっとあかが嫌いなんだろうな。そう思う。<br> 「でも、そもそも、」<br>  私って、誰なんだろうね。ねえ、ジュン。横で眠るジュンの頬に触れる。とても、愛しい。<br> <br> 「……私は、だぁれ?」<br> <br>  きっと、ジュンは答えてくれない。<br> <br></p> <p>「おはよう、薔薇水晶」<br> 「おはよう、ジュン」<br> 「……ああ、夕暮れだ」<br> 「そうだよ。ジュンの好きな、回顧すべき夕暮れ」<br> 「回顧するの? 懐古じゃなくて?」<br> 「ん、回顧、かな」<br>  流れる雲を数える。空を見る。空に流れる雲を、数える。<br> 「そうだなぁ」<br>  ジュンは、いつものように、何も変わらず、空を見上げ、そして空に見入った。<br> 「過去なんて、狂う材料でしかないと思うけど」<br> 「狂うの?」<br> 「過去がなければ、狂わない」<br> 「過去があるから、甘美な夢を見れる」<br> 「狂っているから、甘美に感じる」<br> 「じゃあ、ジュンは想い出が欲しくないの?」<br> 「……薔薇水晶が居れば、別にいい」<br> 「彼女は?」<br> 「彼女は――」<br>  どうせ、答えは同じなのに。どうして私は聞いてしまうのだろう。何も、返ってこないのに。<br> 「彼女は、空に堕ちたから」<br> 「それは、答えてないよ」<br> 「彼女は、空(から)でなくなったから」<br> 「ジュンは、空(から)なの?」<br> 「何もない話だ」<br> 「……何もない、話だね」<br>  ジュンは、空に堕ちたいんだ。だけど、堕ちる空はない。ジュンは、空だから。<br> <br></p> <p>「禁忌という言葉があるよね」<br> 「やってはいけないこと」<br> 「そう、やっちゃいけないことだ」<br> 「空に堕ちるのは、禁忌かな」<br> 「地上に堕ちるのは、禁忌に触れたからだよ」<br> 「……なら、禁忌に“なる”のは」<br> 「禁忌じゃないよ」<br> 「そっか」<br> 「そうだね」<br> 「意識したことないけど、僕たちはどちらがどちらでもいいのかな」<br> 「それは違うよ。私はジュンでもいいけど、ジュンは私ではいけないもの」<br> 「それは、何故?」<br> 「ジュンは、空に堕ちたいから」<br> 「薔薇水晶は、空に堕ちたいの?」<br>  ジュンが気づくまで、この会話が続く。ずっと、続く。<br> 「――さあ? 彼女に聞いて。そんなことは」<br> 「そっか。逢いたいな」<br> 「私が居るのに、彼女に逢いたいの?」<br> 「うん」<br> 「……それだけの話なのに」<br> 「それだけの、話」<br> 「なのに、どうして、こんなに繰り返すの?」<br> 「罪だから」<br>  ……うるさいな。そんなこと言われたら、私、泣きそうになっちゃうじゃないか。バカ。<br> <br></p> <p><br></p> <dl> <dd>「最後の話。物語の終焉」<br> 「繰り返される会話。終わらない日常」<br> 「でもそれは、彼の望んだこと」<br> 「彼が罪と思うことは、彼女にとってきっと、罪であるはずがない」<br> 「彼女はきっと赦す」<br> 「それが、彼が好きになった彼女の、優しさ。……ううん。彼女の、罪なのかもしれない」<br> 「でも、彼はどうしても気づかない」<br> 「空に暗い憧憬を向けるしかない」<br> 「空に堕ちても、どうしようもないのに」<br> 「きっと天使になっても、今と変わらない」<br> 「逢いたいと願うのは、もはや祈りでしかない」<br> 「空に堕ちたいという願いだけが、彼の唯一の意志」<br> 「意識は限りなく零に近づき、共に歩むことは奇跡に等しい」<br> 「……ねえ、ほら、聞こえるでしょう。彼女の声が」<br> <br> 『ごめんな、さい。だから、だから、お願いだから、ジュン……っ』<br> <br> 「この声は、きっと彼には届かない。何かある話が、何もない話になるまで、彼は気づくことができないのか」<br> 「彼女のことを」<br> 「とても綺麗な瞳をして、とても純粋に彼を想う、彼女」<br> 「そう、彼女の名前は――」<br> <br>  世界が、夕暮れに染まる。<br> <br></dd> <dd>「……あれ、薔薇水晶?」<br> 「おはよう、ジュン」<br> 「うん、おはよう」<br> 「夕暮れだよ」<br> 「夕暮れか」<br> 「最後の夕暮れに限りなく近い、夕暮れ」<br> 「最後?」<br> 「そうだよ。……私が、そんなことを言うのは、おかしいんだけど」<br>  目を伏せながら、言った。それが、ジュンにはどうしようもなく嫌だった。心が、黒に塗りつぶされていく錯覚すら覚えた。<br> 「どうしたの?」<br> 「ねえ、ジュン。部屋から、出よう?」<br> 「え……?」<br> 「早く」<br>  彼女のその口調は、拒否を認めない、確かな意志があった。<br> 「わかった、けど」<br>  部屋から出る? とてつもない違和感を、ジュンは覚えた。<br>  部屋とは、今居る場所。でも、僕たちの世界は、それだけで完成していたはずなのに――。<br>  それが、違和感。いや、齟齬と言った方が正しい。ジュンは、気づかない。だけど、気づく人が居た。それだけ。<br> 「でも、外に何をしに行くの?」<br> 「覚えてる? 最後の夕暮れを」<br>  答えず、ジュンを優しい瞳で見た。その瞳が、ジュンは何よりも好きだった。だから、わからなかった。<br> 「……わからないよ」<br> 「あの屋上も?」<br> 「あの屋上も」<br> 「彼女の微笑も?」<br> 「彼女の、微笑みも」<br>  じゃあ、思い出してね――その言葉と共に、ドアは、開かれた。<br> <br></dd> <dd> 場面が変わる。二人は、屋上に居た。<br> 「……あ、ああ?」<br>  身体が震えた。立っていられない。足が使い物にならない。息も上手くできない。何だ、これ。何なんだ、これは――。<br> 「最後の夕暮れだよ、ジュン。世界が終わってしまうような、夕暮れ」<br> 「――薔薇、水晶?」<br> 「ねえ、思い出して。ううん。そんなこと、私が言えないんだけど。だけど、言うよ。私はジュンのことが好きだから」<br>  そして、目を瞑る。眠るときのように、静かに、安らかに。想いが、届くといいと、祈りながら。<br> 「からっぽになったことはある?」<br>  それは、あの時、“彼女”がジュンに聞いたことで。<br> 「え……」<br> 「つまり、何もない状態」<br> 「何を、言って、」<br> 「うん。よかった。ジュンは、そうだよね。ねえ、世界が、赤いよ」<br> 「違う、ダメだ、」<br> 「きっと、世界が終わるんじゃない?」<br> 「話を、聞いてくれ」<br> 「私は、ジュンと一緒に居たい」<br> 「一緒に、居てくれ……っ」<br> 「世界が始まる前からでも」<br> 「あ、ああ、」<br> 「ジュンと」<br>  ただ、“彼女”との一方的な会話が繰り返される。<br> 「だからね、ジュン――」<br>  言葉が、彼に届く。<br> 「ジュンが居てくれるのなら」<br> <br> 「私は、空にだって堕ちていける」<br> <br>  そして、“彼女”の身体が、空に堕ちた。<br> <br></dd> <dd> ジュンは、必死に手を伸ばす。身体を、動かす。<br>  何も考えない。何も考えることが出来ない。ただ、間に合いたい。もう、嫌だ。もう、失いたくなかった。<br>  思い出したのだ。“彼女”の、微笑み。空が好きで、空に憧れて。それなのに、空(から)になって、空を飛ぶことが出来ず、空に堕ちた少女のことを。<br>  ジュンは、“彼女”が好きだった。“彼女”が、好きだったのだ。<br> 「そうだよ! 僕は、僕は――君が好きなんだ!」<br>  叫ぶ。ただ、それだけを伝えたいから。<br> 「――“薔薇水晶”のことが、好きなんだ!」<br>  そして、ジュンは“彼女”の名前を思い出した。そして。<br> <br> 「――――ッ!」<br>  “彼女”を、取り戻した。<br> <br> 「あは……やっと、思い出してくれた」<br> 「薔薇、水晶……」<br> 「そうだよ。ジュンが好きだった薔薇水晶を、ジュンがそうだったらいいな、と想う薔薇水晶となったのが、私」<br> 「ここは、僕の世界なんだ」<br> 「そうだよ。だから、何もない話なの。私は、偽者。……ふふ、偽者なのに、心の底から、ジュンのことを、想っていたけど」<br> 「うん。伝わった。君のおかげで、伝わった」<br> 「――あーあ。ホントは、私だって、ずっと一緒に居たかった」<br> 「ごめん」<br> 「いいよ。ジュンのこと、好きだから、赦してあげる」<br> 「ごめん」<br>  そして、“彼女”は、笑った。<br> 「ねえ、もう、聞こえるでしょう? 薔薇水晶の、泣き声」<br> <br></dd> <dd>「うん、聞こえる」<br>  ずっと、聞こえていた。きっと、薔薇水晶は、空に堕ちて、だけど帰ってきたのだ。帰ってきてくれたのに、今度は自分が、空(から)に堕ちてしまった。<br>  それだけの、話。<br> 「ねえ、ジュン。最後のお願い。一緒に、空を飛ぼう?」<br> 「この、夕暮れを?」<br> 「そうだよ。一緒なら、きっと飛んで行ける」<br>  そう言って、“彼女”は手を差し出した。その笑顔は、何故か涙を誘った。遠い昔、どこかで見たことがあるような気がして。<br> 「――うん。行こう」<br>  だけど、ジュンはそれを無視した。……本当は、判っていたけど。それが、“彼女”の願いだったから。<br>  だから、昔と同じように、“彼女”の手を、握る。<br> 「あは、嬉しい」<br> 「僕も、嬉しいよ」<br>  幸せだった。この世界で、自分が壊れることがなかったのは、今手を握っている、“彼女”のおかげに違いないのだ。<br> 「……僕は、君のことが好きだった」<br> 「私も、ジュンのことが好きだよ」<br> 「過去形になっちゃったよ」<br> 「いいよ。しょうがないもの」<br> 「だけど、忘れないから」<br> 「知ってるよ」<br> 「空、飛べたの?」<br> 「飛べたよ。ジュンのことを捨てたくらいだもん。飛べたに決まってるじゃない」<br> 「……僕も、飛びたかった」<br> 「だから、一緒に飛ぼう」<br> 「うん。飛ぼう」<br> 「「――あの日に出来なかったことを、今、しよう」」<br> <br>  そして、二人は、空を飛んだ。<br> <br></dd> <dd>「ジュン……っ」<br>  薔薇水晶は、ずっと泣き続けていた。ずっと。薔薇水晶が空から帰ってきてから、ずっと。<br> 「お願いだから、起きてよぅ。もう、あんなこと、しないから。謝るから。ごめんなさい。ごめんなさい! だから、だから――」<br> 「……ああ、うん。いいよ、別に」<br> 「え……?」<br> 「だから、いいって。そんなに泣かれると、困る」<br>  そして。薔薇水晶は――<br> 「――ジュンっ!」<br> 「……ただいま、薔薇水晶」<br> 「おか、おかえ、」<br>  もう、言葉にならなかった。だから、泣いた。泣いて身体を抱きしめて。<br>  ジュンも、薔薇水晶の身体を抱き返したから、きっと、想いは伝わったと想う。<br> 「……ねえ、薔薇水晶」<br> 「う、あう、え……?」<br> 「空、綺麗だね」<br>  言われ、見上げる。そこには、とても綺麗な、いつだったかよりも綺麗な、茜色の夕暮れ。<br> 「うん、綺麗――」<br>  ああ、それだけなんだ。気づく。きっと、二人はそれだけで、充分。<br>  からっぽとか、そんなことはどうでもよくて。二人で居られれば、それで満たされる。<br> 「ねえ、ジュン」<br> 「うん」<br> 「幸せだよ」<br> 「僕も、幸せだよ」<br>  もう、言葉は要らなかった。ただ、唇をよせた。<br> <br> 【からっぽの僕たちだけど、でもそんなの、幸せでない理由になんて、ならない】<br> <br>  だってほら。今、こんなにも二人は笑顔で居られてるから――。<br> <br> end.<br> <br></dd> <dd> <p>【“彼女”の、話】<br> <br>  “彼女”は、空を飛んでいた。<br> 「あはは……」<br>  だから、幸せだったはずなのに。どうしてか、涙が溢れてくる。<br>  それは、どう考えたって、彼のせいだ。“彼女”の大好きな、彼が、最後の最後に、あんなことを言うから。<br> 「何で、呼ぶかなぁ、名前……」<br>  自分の、名前。彼を、苦しめて、忘れさせてしまった、名前。<br> 『僕は、僕は、君のことが好きだから――』<br>  一緒に空を飛んで、そして別れが訪れる、直前に、彼は言ったのだ。<br> <br> 『――ずっと、いつまでも好きだからな、雪華綺晶!』<br> <br>  ……もう、それだけで、充分だった。何もかも、満たされた。<br>  ここは、彼の世界。だけど、意志はある。だから、私は、彼が作った幻影かもしれない。彼が、遠い昔に失った、“彼女”の幻影。<br>  だけど、彼を想えた。薔薇水晶を想えた。二人を、大好きだと心の底から言えた。<br>  それを、彼の言葉が証明してくれたように思える。彼が、名前を呼んでくれたから。彼が、決して言葉にしていないのに、わかってくれたから。<br>  ――彼を残して、空を飛んでいってしまった、私を。<br> 「ああ、」<br>  幸せだった。だから、空を飛ぼう。世界が終わる、その時まで。<br> 「……あのね、ジュン」<br>  世界が赤く染まっていく。……もう、世界は終わる。<br> 「私は、あなたのことが――」<br> <br> 「世界で一番、好きでした」<br> <br>  そして世界には、何もなくなった。<br> <br></p> </dd> </dl>

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