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 冬は全てが眠りにつく季節だという言葉に、僕は賛同の意を示し たい。昨年の冬に、店の常連客から聞いたこと。冬は時間が止まり、 風景がいのちを失い。また来るべき春に向けて、皆眠っているのだ と。  眠りは、時間の停止を表す。そのことを実は、僕はもっと前から 聞かされていたのだけれど。  この地方に雪はあまり降らないけれど、だからこそたまにちらつ く仄かな白は余計な哀愁を際立たせる。雪は静かに舞い落ちると言 うのに、身に吹き付ける風は一体何処からやってくるのだろう―― そんなことを、もう少しでやってくる季節になればいつも考えてい る。  今、季節は秋。冬が全て眠りにつく季節ならば、秋はそこに至る まで、ゆっくりと空ろな夢を見せる時間であると僕は思っている。 周囲が完全に色を失ってしまうまでの幕間。  この季節だけ見せる樹々の黄や紅も、夏よりも遠く離れていって しまったように感じる空の青も。そして次第に冷たくなっていく空 気、その中に満たされている秋の香り。  それら全てが混ざって、僕らはゆっくりと溶けていく。  完全に覚醒している訳ではなく、かといって眠り込んでしまって いる訳でもない。空ろな、空ろな、まどろみの季節。  曖昧にやさしい空気。僕は一年の中で、秋が一番好きだ。  所在無く佇んでいると、たまに紫煙をくゆらせたくなることがあ る。だけど僕は煙草を滅多に吸わない。店を開いたのを境にめっき り本数は少なくなってしまった。紅茶にしろお酒にしろ、そういっ た自分の不摂生で味を落としてしまうのが嫌だったからだ。  まあ、一度吸っているところを君に見られて、『似合わない』と 言われてしまってから。今まで片手で数えられる位しか煙草には手 をつけていない。  七年前。君はまどろみの秋を越えて冬に至り、眠りについた。君 の時間はそこで止まり、もう僕のように年をとることも無い。  僕は君という存在と出逢ったことに何か意味はあったのだろうか と、今でも時々考える。世の中に、意味の無いことなど無いと。そ んな風に普段思っているにもかかわらず。  だから、きっと何かしらの意味はあったのだろうという結論に辿 り着いて、僕はそれについての思考を止めるようにしている。  『あなたは私のこと、忘れない?』  遠い昔に聞いた声が、浮かんできてはまた沈む。今もこうやって、 頭の何処かにある記憶は。深い深いところに沈んでしまうことはあっ も、その実消えてしまうことは無いのだろう。  『思い出す』という言葉。これはその字面の通り、自分の中にあ る記憶を『取り出す』作業だから。記憶は、確実に自分の中にある。 それはかつて、君が僕に言った通りに。    そう、巨大な引き出しがあるのだ。記憶を留めておくための、と てもとても大きな引き出しが。ひとつひとつの引き出しの容量は、 きっと無限で。それが何段にも重なっている。差し詰め君に関する 記憶は、僕の引き出しの上から二番目くらいに位置しているのか。  一番上の引き出しは、何しろ中身が取っかえ引っかえだ。一度入 れたものは外に出ない筈だけど、いつのまにかその価値が下がると、 下段の引き出しへと勝手に移動していく。だから二番目の引き出し は、自分にとって大事なものをしまっておく場所。  もう何処にしまったかわからない記憶は、多分遥か下方にあって。 引き出しのとってになかなか手をかけることが出来ないから、取り 出すことが難しい。  思い出したくもない記憶は、それが入っている引き出しに、多分 鍵がかかっている。    じゃあ。その鍵を無くしてしまったら、中身は一体どうなってし まうのだろう?  そんな、多分何の足しにもならないことに思いを巡らせながら。 あまりに客が来ないので、今日は少し店仕舞をして公園のベンチ に独り座っている。店を開いてから、ずっと変わらない性癖。  こうしていると、僕はまた思い出すのだ。僕が一番好きなこの季 節の一つ前、暑い夏の日。そんな中で、笑顔の眩しかった君の姿を。  少しだけ、センチメンタルになる。たまにはこんな日もいいかも しれなかったが、そろそろ戻ることにしよう。また気まぐれに、店 へ誰かが迷い込んでくるかもしれないから。  大きく、伸びを。見上げた空は抜けるように青く、そして何処か 寂しげで。それでいてやっぱり、とても遠くにあるように感じる。
  冬は全てが眠りにつく季節だという言葉に、僕は賛同の意を示し たい。昨年の冬に、店の常連客から聞いたこと。冬は時間が止まり、 風景がいのちを失い。また来るべき春に向けて、皆眠っているのだ と。   眠りは、時間の停止を表す。そのことを実は、僕はもっと前から 聞かされていたのだけれど。   この地方に雪はあまり降らないけれど、だからこそたまにちらつ く仄かな白は余計な哀愁を際立たせる。雪は静かに舞い落ちると言 うのに、身に吹き付ける風は一体何処からやってくるのだろう―― そんなことを、もう少しでやってくる季節になればいつも考えてい る。   今、季節は秋。冬が全て眠りにつく季節ならば、秋はそこに至る まで、ゆっくりと空ろな夢を見せる時間であると僕は思っている。 周囲が完全に色を失ってしまうまでの幕間。   この季節だけ見せる樹々の黄や紅も、夏よりも遠く離れていって しまったように感じる空の青も。そして次第に冷たくなっていく空 気、その中に満たされている秋の香り。   それら全てが混ざって、僕らはゆっくりと溶けていく。   完全に覚醒している訳ではなく、かといって眠り込んでしまって いる訳でもない。空ろな、空ろな、まどろみの季節。  曖昧にやさしい空気。僕は一年の中で、秋が一番好きだ。   所在無く佇んでいると、たまに紫煙をくゆらせたくなることがあ る。だけど僕は煙草を滅多に吸わない。店を開いたのを境にめっき り本数は少なくなってしまった。紅茶にしろお酒にしろ、そういっ た自分の不摂生で味を落としてしまうのが嫌だったからだ。   まあ、一度吸っているところを君に見られて、『似合わない』と 言われてしまってから。今まで片手で数えられる位しか煙草には手 をつけていない。   七年前。君はまどろみの秋を越えて冬に至り、眠りについた。君 の時間はそこで止まり、もう僕のように年をとることも無い。   僕は君という存在と出逢ったことに何か意味はあったのだろうか と、今でも時々考える。世の中に、意味の無いことなど無いと。そ んな風に普段思っているにもかかわらず。   だから、きっと何かしらの意味はあったのだろうという結論に辿 り着いて、僕はそれについての思考を止めるようにしている。   『あなたは私のこと、忘れない?』   遠い昔に聞いた声が、浮かんできてはまた沈む。今もこうやって、 頭の何処かにある記憶は。深い深いところに沈んでしまうことはあっ も、その実消えてしまうことは無いのだろう。   『思い出す』という言葉。これはその字面の通り、自分の中にあ る記憶を『取り出す』作業だから。記憶は、確実に自分の中にある。 それはかつて、君が僕に言った通りに。     そう、巨大な引き出しがあるのだ。記憶を留めておくための、と てもとても大きな引き出しが。ひとつひとつの引き出しの容量は、 きっと無限で。それが何段にも重なっている。差し詰め君に関する 記憶は、僕の引き出しの上から二番目くらいに位置しているのか。   一番上の引き出しは、何しろ中身が取っかえ引っかえだ。一度入 れたものは外に出ない筈だけど、いつのまにかその価値が下がると、 下段の引き出しへと勝手に移動していく。だから二番目の引き出し は、自分にとって大事なものをしまっておく場所。   もう何処にしまったかわからない記憶は、多分遥か下方にあって。 引き出しのとってになかなか手をかけることが出来ないから、取り 出すことが難しい。   思い出したくもない記憶は、それが入っている引き出しに、多分 鍵がかかっている。     じゃあ。その鍵を無くしてしまったら、中身は一体どうなってし まうのだろう?   そんな、多分何の足しにもならないことに思いを巡らせながら。 あまりに客が来ないので、今日は少し店仕舞をして公園のベンチ に独り座っている。店を開いてから、ずっと変わらない性癖。   こうしていると、僕はまた思い出すのだ。僕が一番好きなこの季 節の一つ前、暑い夏の日。そんな中で、笑顔の眩しかった君の姿を。   少しだけ、センチメンタルになる。たまにはこんな日もいいかも しれなかったが、そろそろ戻ることにしよう。また気まぐれに、店 へ誰かが迷い込んでくるかもしれないから。   大きく、伸びを。見上げた空は抜けるように青く、そして何処か 寂しげで。それでいてやっぱり、とても遠くにあるように感じる。

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