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「~第十一章~」(2006/05/01 (月) 01:20:55) の最新版変更点
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<p> <br>
<br>
~第十一章~<br>
<br>
<br>
手術は、実に五時間にも及んだ。<br>
それでも、単独で執刀していた事を考えれば、驚異的な早さである。<br>
通常ならば、少なくとも倍以上の時間を要する大手術だった。<br>
<br>
この娘にとって幸運だったのは、刺された場所が良くて、臓器の損傷が少なかった事だ。<br>
それに、金糸雀の所に運び込まれた事も――<br>
<br>
「流石に、疲れたかしら~」<br>
<br>
桶に汲んだ手水で血を流し終えた金糸雀は、棚の上の酒瓶に腕を伸ばした。<br>
くいっ……と、もろみ酒を呷る。<br>
<br>
「ふぅ~。甘露甘露……かしら」<br>
<br>
酒は百薬の長。<br>
疲れた時は、適度に飲酒して、気分を昂揚させるのが一番だ。<br>
<br>
――今夜は徹夜で、術後の経過を見守らねばならない。<br>
<br>
感染症には充分すぎるほど配慮しているが、患者は極度に免疫力が落ちている。<br>
他の患者よりも、細心の注意が必要だった。<br>
金糸雀は、麻酔の効果で眠り続けている娘を見て、ふ……と、微笑した。<br>
<br>
「あなたも、偉かったね。よく頑張ったかしら」<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
夜が明け、麻酔の効果が切れる頃だが、娘は目覚めなかった。<br>
疲労が溜まっていたのだろう。麻酔はとっくに切れているが、昏々と眠り続けている。<br>
この間に娘の包帯を替えようとして、金糸雀は、娘の肌が酷く汚れている事に気付いた。<br>
<br>
どうせ薬を塗って、包帯を替えるなら、綺麗に拭いてからの方が良い。<br>
清流の冷たい水を桶に汲んで戻ると、戸板に『診察中! 立入厳禁!』の看板を下げた。<br>
<br>
手拭いを水に浸し、娘の顔から拭き始める。<br>
顔から、首筋、肩と下がって、右腕へと拭っていった。<br>
渓流の岩にぶつかって出来た擦過傷が痛々しい。<br>
汚れを落とす為とは言え、あまり強く擦らないようにしよう。<br>
そう思って、何気なく娘の左手を掴んだとき、金糸雀の左手に電流が走った。<br>
<br>
「うぉわあっ! び、び、ビックリしたかしら」<br>
<br>
静電気でも発生したのかと、自分の左手を調べる金糸雀。<br>
そこで漸く、手の甲にある青黒い痣に【智】の文字が浮かんでいる事に気づいた。<br>
【智】とは、物事を理解し、コトの是非・善悪を弁別する心のこと。<br>
<br>
「これは……なるほど。この娘は、カナの同志なのね」<br>
<br>
娘の左腕に装着された籠手を慎重に外すと、果たして、娘の左手には【悌】の文字が。<br>
<br>
「ますます、気合いを入れなければダメかしら」<br>
<br>
――漸くにして出会えた、初めての同志。<br>
こんな所で、死なせる訳にはいかなかった。<br>
<br>
全身に軟膏を塗り、包帯を替えても、娘は起きる気配を見せない。<br>
だが、昏睡状態ではない。眼球は動いているし、瞳孔も開いていなかった。<br>
ただ眠って、夢を見ているだけ……。<br>
しかし、幾ら疲れていたって、全身をまさぐられれば嫌でも目を覚ます筈だ。<br>
ましてや、女の子なら尚のこと。<br>
<br>
「一体、この娘に何が起きているのかしら?」<br>
<br>
気の病……自閉症の一種だろうか。だとすると、少しばかり厄介だ。<br>
治療しようにも、目を覚ましてくれなければ、問診すらできない。<br>
呼び覚ますには、閉ざされた心に、強く訴えかける何かが必要だろう。<br>
多くの場合、それは肉親の呼びかけなのだが、この娘の家族など知らない。<br>
大体、どこの誰とも判明していないのだ。<br>
<br>
「ある程度の荒療治は、やむを得ず……かしら」<br>
<br>
術後の体力回復の為にも、早く目を覚まして、自力で栄養を摂取して貰わなければ困る。<br>
このままでは、いずれ衰弱死しまう。<br>
命を救う為に、今まで努力してきたのだ。ここで水泡に帰すのは面白くなかった。<br>
金糸雀は薬棚の前で、あれこれと薬を探し始めた。<br>
<br>
<br>
そこへ、戸板を穏やかに叩く音がした。急患……と言う訳ではなさそうだ。<br>
金糸雀が戸を開けると、伴天連宗の若き宣教師ベジータが立っていた。<br>
ベジータは「よう」と軽く手を挙げ、少しだけ堅い表情を崩した。<br>
<br>
「昨日の娘、どうだった? どうにも気になってな」<br>
「良いところへ来たわ、ベジータ。ひとつ、穴を掘って貰えないかしら?」<br>
「……そうか。やっぱり、助からなかったんだな、あの娘」<br>
<br>
やおら沈痛な面持ちとなったベジータを見て、金糸雀は頸を傾げた。<br>
<br>
「へ? 彼女なら生きてるわよ。掘って欲しいのは、ゴミ捨て用の穴かしら」<br>
「なんだ、そりゃ。紛らわしい事を言うなよ。俺は、てっきり――」<br>
「ふふ……ベジータは、いつも早合点しすぎなのよ」<br>
<br>
にこやかに談笑する金糸雀。しかし、その笑顔は長く続かなかった。<br>
彼女は表情を曇らせて、診察台で眠り続ける娘に顔を向けた。<br>
<br>
「だけど、今のままでは……遠からず、必要になるかも」<br>
「なんだと? どういう事なんだ」<br>
「傷は塞いだけれど、あの娘、目を覚まさないかしら」<br>
「昏睡状態ってことか?」<br>
<br>
違う……と、金糸雀は答えた。彼女は夢を見続けているだけ。<br>
多分、夢想の世界を現実と思いこんで、覚めることのない眠りに就いているのだ。<br>
そう伝えると、ベジータは腕を組み、暫しの間、思案に暮れた。<br>
<br>
「そういう時は、あれだ。叩き起こせば良いんじゃねえか?」<br>
「あのねぇ……あなた、本当に宣教師?」<br>
「宣教師にだって、いろんな奴が居るんだよ。俺は破門寸前の使いっ走りだがな」<br>
「破門された方が良いかも。あなたに宗教は似合わないかしら」<br>
「……まったくだ。自分でも、そう思うぜ」<br>
<br>
真面目な顔で肩を竦めるベジータをみて、金糸雀は吹き出した。<br>
つくづく、奇妙な外人だ。<br>
けれど、不思議と憎めない男でもあった。<br>
<br>
「いま、気付け薬を試そうと思って、探していたところだったの」<br>
<br>
金糸雀が話すと、ベジータは「だったら良い物がある」と言って、走り去った。<br>
良い物とは、一体なんなのだろう?<br>
気付けに関連していて、炭焼き小屋で手に入りそうな物といえば『木酢』ぐらいか。<br>
松の木酢液などは臭いがキツイから、充分、気付け薬の代用になる。<br>
<br>
<br>
<br>
程なく、ベジータが駆け戻ってきた。<br>
彼が手にしていたのは、一見すると甘藷(サツマイモ)に似た植物の根だった。<br>
しかし、真っ青な色をしているので、なんとなく毒々しさを感じてしまう。<br>
<br>
「あ……あの~、ベジータ。これ、なんて植物かしら?」<br>
「なんだ、知らないのか? こいつは『豊藷』ってイモでな。異国原産の植物だ」<br>
「ふぅん? どうやって使うのかしら?」<br>
「擂り下ろして、絞り汁を飲用すると強壮剤になる。味は微妙だが、効果は有るぜ。<br>
身体に降りかけると悪霊払いになるとも聞いたけど、胡散臭い民間伝承だろうさ」<br>
<br>
なるほど、あの娘が目覚めた事を前提にした『良い物』だったのか。<br>
話の流れからして、てっきり効果覿面な気付け薬を持ってくるものと思っていた。<br>
金糸雀は自嘲した。どうやら、早合点は自分も同様らしい。<br>
<br>
「ありがとう。早速、試してみるかしら」<br>
「それとな……これ、興奮剤だって聞いたから、気付けに使えるかと思って」<br>
<br>
言って、ベジータが差し出した瓢箪には『倍櫓』の二文字。<br>
どこで入手したのか知らないが、ベジータは、この薬の効果を解っていない様子だった。<br>
金糸雀は「いりません」と、素っ気なく応じて、ピシャリと戸を閉めた。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
ベジータに教えられたとおりに、金糸雀はイモを擂り下ろした。<br>
絹に包んで、乳鉢の中に、ギュッと絞る。<br>
――何やら見た目だけは美しい色の、青い汁が出てきた。<br>
<br>
「こ、これ……本当に飲ませても平気なのかしら?」<br>
<br>
発癌物質でも入ってそうな気がしたが、折角なので、娘に飲ませてみる事にした。<br>
しかし、口の中に含ませても、ちゃんと飲んではくれないだろう。<br>
こう言うときは、喉の奥に管を挿入して、流し込むに限る。<br>
金糸雀は慣れた手つきで器具を取り付けた。<br>
<br>
「さてさて、準備完了かしら。では早速、流……あっー!」<br>
<br>
乳鉢を傾けた途端、指が滑って、青い液体は娘の顔にバシャッ! と降りかかった。<br>
とどめとばかりに、乳鉢が娘の鼻を直撃する。<br>
それが功を奏したのか解らないが、娘は突然に目を見開いた。<br>
だが、様子がおかしい。<br>
痛がっている……というよりも、寧ろ、苦しんでいると表現するに相応しかった。<br>
<br>
慌てて宥めようとする金糸雀を、娘は物凄い腕力で突き飛ばした。<br>
喉に押し込まれた管をペッ! と吐き捨て、両手で顔に付着した青い汁を拭う。<br>
それが終わると、跳ね起きて、診察台の上で四つん這いになった。<br>
<br>
いつの間にか、彼女の頭から猫の耳が、にょっきりと……。<br>
そして、腰から伸びた二本の尻尾が、ふらりふらりと宙に揺れていた。<br>
<br>
――これが、噂に聞きし猫又?!<br>
娘は、驚愕に目を見開く金糸雀を睨み付けて、しゃーっ! と威嚇した。<br>
<br>
「なるほど。穢れの者に取り憑かれていたのね……だからか」<br>
<br>
金糸雀は、この娘が何故、異常なまでの生命力を宿していたのかを理解した。<br>
普通なら死んでいる筈の重傷でも生き長らえていたのは、穢れの者に取り憑かれていたからだ。<br>
死の代名詞である穢れによって命が繋がれていたとは、なんとも皮肉な話だった。<br>
<br>
だが、いつまでも驚いてはいられない。<br>
金糸雀は袖の中から、一丁の短筒を抜き出した。火縄を使用しない、薬莢方式の試作型だ。<br>
火薬の調合や、からくりの構造などにも明るい彼女は、<br>
ベジータの持つ西洋工学の知恵を吸収して、様々な機構の研究もしていた。<br>
これは試作三型・回転式六連発の短筒である。<br>
<br>
「カナが、目を覚ましてあげるかしら。かかってらっしゃい!」<br>
<br>
ぴたり……と、娘に照準を合わせる。<br>
だが、安易に撃つ訳にはいかない。彼女は、まだ生きているのだ。<br>
あの化け猫に、意識を支配されているに過ぎない。<br>
<br>
(どうすれば、あの娘から猫又を引き離せるかしら?)<br>
<br>
自慢にもならないが、金糸雀は妖怪退治など、ただの一度もやった事がない。<br>
知人に退魔師や、修験者がいる訳でもない。<br>
金糸雀は、今までに読んだ書物を、必死に思い浮かべた。<br>
<br>
(こう言うときには――)<br>
<br>
ふと、ゾンビパウダーという単語が思い浮かんだが、そんな物は用意していない。<br>
材料が揃わないから調合しようが無いし、そもそも、使う場面が違う気がした。<br>
<br>
(そうだ、おイモ! あの汁を飲ませれば効くかしら?)<br>
<br>
青い汁を浴びて目を覚ました直後、猫又は明らかに、忌避行動をしていた。<br>
あの娘の体内に青い汁を送り込むことで、憑依を解けるかも知れない。<br>
幸いにして、豊藷はまだ残っている。調合台の上に、置きっぱなしにしてある。<br>
金糸雀はイモを回収すべく、短筒を構えながら、じりじりと移動した。<br>
<br>
彼女の移動に合わせて、娘も向きを変える。<br>
時折、威嚇の唸りを上げて、飛びかかる隙を窺っていた。<br>
<br>
(あと少し…………もう、ちょっと……)<br>
<br>
娘と視線を合わせたまま、金糸雀は左手に短筒を持ち替え、右手で調合台を探った。<br>
が、おかしい。いくら手探りしても、指先はイモに触れなかった。<br>
まさか、転がって、床に落ちたのだろうか?<br>
<br>
金糸雀の焦りが、腕の動きを粗雑にさせる。<br>
大きく振った指先が、ごろり……と、何かを弾き飛ばした。<br>
<br>
(! しまった……今のが――) <br>
<br>
思わず、金糸雀は弾き飛ばした物に目を向けてしまった。<br>
猫又の娘は、その隙を見逃すことなく飛びかかってくる。<br>
<br>
「あわわわっ!」<br>
<br>
短筒を発射する間も有ればこそ……。<br>
金糸雀は、猫又の娘にのしかかられ、両肩を押さえつけられてしまった。<br>
彼女の顎が、金糸雀の喉笛に食らい付こうと伸びてくる。<br>
<br>
「こ……のぉ!」<br>
<br>
迫り来る娘の頭を右手で押し返しながら、金糸雀は猫耳の側で短筒の撃鉄を落とした。<br>
<br>
<br>
突如として耳元で起きた轟音に、猫又の娘が怯んだ。<br>
金糸雀の肩を押さえていた腕から、一瞬だけ、力が抜ける。<br>
機転が引き寄せた、絶好の好機。<br>
金糸雀は娘の身体を渾身の力で跳ね飛ばして、側に転がっていた豊藷を鷲掴みにした。<br>
<br>
ごちん! と、猫又の娘が、診察台の脚に頭をぶつける音がした。<br>
まだ、好機は続いている。<br>
金糸雀は、仰向けに倒れた娘に飛びかかり、馬乗りになった。<br>
猫又の娘が牙を鳴らして、金糸雀を威嚇する。だが、金糸雀とて怯まない。<br>
<br>
「これでも食らうかしらっ!」<br>
<br>
しゃーっ! と吼えた瞬間を見計らって、金糸雀は娘の口に豊藷を押し込んだ。<br>
娘は苦しげに呻き、じたばたと暴れる。<br>
彼女の腕が、金糸雀の頸を掴もうと空を切り続けた。<br>
<br>
そうして、互いに力押しを続けること暫し……。<br>
猫又の娘は、漸く抵抗を止めて、ぐったりとした。<br>
けれど、安堵の息を吐く間もなく、娘の身体から真っ白で、巨大な猫又が飛び出してきた。<br>
<br>
「おのれ……よくも、御前様の邪魔をしてくれたね。許さないよ、小娘っ」<br>
「なにをっ! 化け猫ごときが、ふざけないで欲しいかしら!」<br>
<br>
金糸雀は立て続けに引き金を引いた。<br>
五発の弾丸が、猫又の身体に吸い込まれていく。<br>
だが、猫又は全く意に介する様子もなく、せせら笑った。<br>
<br>
「ふふふふ……無駄無駄ぁ。そんな玩具が効くと思ってるの?」<br>
「くっ! ならば、これで……どうかしらっ!」<br>
<br>
叫んで、金糸雀は発動型特殊攻撃精霊を起動した。<br>
精霊獣召還。金糸雀の影から、氷を想わせる青を湛えた、水晶の牡鹿が躍り出た。<br>
<br>
「行けっ、氷鹿蹟!」<br>
「精霊だとっ?! なぜ……お前ごとき小娘が」<br>
<br>
まさか、金糸雀が精霊を駆使できるとは考えてもいなかったのだろう。<br>
一瞬、動きを止めた猫又の身体を、氷鹿蹟は鋭い角で跳ね飛ばしていた。<br>
<br>
<br>
<br>
=第十二章につづく=<br>
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~第十一章~<br>
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手術は、実に五時間にも及んだ。<br>
それでも、単独で執刀していた事を考えれば、驚異的な早さである。<br>
通常ならば、少なくとも倍以上の時間を要する大手術だった。<br>
<br>
この娘にとって幸運だったのは、刺された場所が良くて、臓器の損傷が少なかった事だ。<br>
それに、金糸雀の所に運び込まれた事も――<br>
<br>
「流石に、疲れたかしら~」<br>
<br>
桶に汲んだ手水で血を流し終えた金糸雀は、棚の上の酒瓶に腕を伸ばした。<br>
くいっ……と、もろみ酒を呷る。<br>
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「ふぅ~。甘露甘露……かしら」<br>
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酒は百薬の長。<br>
疲れた時は、適度に飲酒して、気分を昂揚させるのが一番だ。<br>
<br>
――今夜は徹夜で、術後の経過を見守らねばならない。<br>
<br>
感染症には充分すぎるほど配慮しているが、患者は極度に免疫力が落ちている。<br>
他の患者よりも、細心の注意が必要だった。<br>
金糸雀は、麻酔の効果で眠り続けている娘を見て、ふ……と、微笑した。<br>
<br>
「あなたも、偉かったね。よく頑張ったかしら」<br>
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夜が明け、麻酔の効果が切れる頃だが、娘は目覚めなかった。<br>
疲労が溜まっていたのだろう。麻酔はとっくに切れているが、昏々と眠り続けている。<br>
この間に娘の包帯を替えようとして、金糸雀は、娘の肌が酷く汚れている事に気付いた。<br>
<br>
どうせ薬を塗って、包帯を替えるなら、綺麗に拭いてからの方が良い。<br>
清流の冷たい水を桶に汲んで戻ると、戸板に『診察中! 立入厳禁!』の看板を下げた。<br>
<br>
手拭いを水に浸し、娘の顔から拭き始める。<br>
顔から、首筋、肩と下がって、右腕へと拭っていった。<br>
渓流の岩にぶつかって出来た擦過傷が痛々しい。<br>
汚れを落とす為とは言え、あまり強く擦らないようにしよう。<br>
そう思って、何気なく娘の左手を掴んだとき、金糸雀の左手に電流が走った。<br>
<br>
「うぉわあっ! び、び、ビックリしたかしら」<br>
<br>
静電気でも発生したのかと、自分の左手を調べる金糸雀。<br>
そこで漸く、手の甲にある青黒い痣に【智】の文字が浮かんでいる事に気づいた。<br>
【智】とは、物事を理解し、コトの是非・善悪を弁別する心のこと。<br>
<br>
「これは……なるほど。この娘は、カナの同志なのね」<br>
<br>
娘の左腕に装着された籠手を慎重に外すと、果たして、娘の左手には【悌】の文字が。<br>
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「ますます、気合いを入れなければダメかしら」<br>
<br>
――漸くにして出会えた、初めての同志。<br>
こんな所で、死なせる訳にはいかなかった。<br>
<br>
全身に軟膏を塗り、包帯を替えても、娘は起きる気配を見せない。<br>
だが、昏睡状態ではない。眼球は動いているし、瞳孔も開いていなかった。<br>
ただ眠って、夢を見ているだけ……。<br>
しかし、幾ら疲れていたって、全身をまさぐられれば嫌でも目を覚ます筈だ。<br>
ましてや、女の子なら尚のこと。<br>
<br>
「一体、この娘に何が起きているのかしら?」<br>
<br>
気の病……自閉症の一種だろうか。だとすると、少しばかり厄介だ。<br>
治療しようにも、目を覚ましてくれなければ、問診すらできない。<br>
呼び覚ますには、閉ざされた心に、強く訴えかける何かが必要だろう。<br>
多くの場合、それは肉親の呼びかけなのだが、この娘の家族など知らない。<br>
大体、どこの誰とも判明していないのだ。<br>
<br>
「ある程度の荒療治は、やむを得ず……かしら」<br>
<br>
術後の体力回復の為にも、早く目を覚まして、自力で栄養を摂取して貰わなければ困る。<br>
このままでは、いずれ衰弱死しまう。<br>
命を救う為に、今まで努力してきたのだ。ここで水泡に帰すのは面白くなかった。<br>
金糸雀は薬棚の前で、あれこれと薬を探し始めた。<br>
<br>
<br>
そこへ、戸板を穏やかに叩く音がした。急患……と言う訳ではなさそうだ。<br>
金糸雀が戸を開けると、伴天連宗の若き宣教師ベジータが立っていた。<br>
ベジータは「よう」と軽く手を挙げ、少しだけ堅い表情を崩した。<br>
<br>
「昨日の娘、どうだった? どうにも気になってな」<br>
「良いところへ来たわ、ベジータ。ひとつ、穴を掘って貰えないかしら?」<br>
「……そうか。やっぱり、助からなかったんだな、あの娘」<br>
<br>
やおら沈痛な面持ちとなったベジータを見て、金糸雀は頸を傾げた。<br>
<br>
「へ? 彼女なら生きてるわよ。掘って欲しいのは、ゴミ捨て用の穴かしら」<br>
「なんだ、そりゃ。紛らわしい事を言うなよ。俺は、てっきり――」<br>
「ふふ……ベジータは、いつも早合点しすぎなのよ」<br>
<br>
にこやかに談笑する金糸雀。しかし、その笑顔は長く続かなかった。<br>
彼女は表情を曇らせて、診察台で眠り続ける娘に顔を向けた。<br>
<br>
「だけど、今のままでは……遠からず、必要になるかも」<br>
「なんだと? どういう事なんだ」<br>
「傷は塞いだけれど、あの娘、目を覚まさないかしら」<br>
「昏睡状態ってことか?」<br>
<br>
違う……と、金糸雀は答えた。彼女は夢を見続けているだけ。<br>
多分、夢想の世界を現実と思いこんで、覚めることのない眠りに就いているのだ。<br>
そう伝えると、ベジータは腕を組み、暫しの間、思案に暮れた。<br>
<br>
「そういう時は、あれだ。叩き起こせば良いんじゃねえか?」<br>
「あのねぇ……あなた、本当に宣教師?」<br>
「宣教師にだって、いろんな奴が居るんだよ。俺は破門寸前の使いっ走りだがな」<br>
「破門された方が良いかも。あなたに宗教は似合わないかしら」<br>
「……まったくだ。自分でも、そう思うぜ」<br>
<br>
真面目な顔で肩を竦めるベジータをみて、金糸雀は吹き出した。<br>
つくづく、奇妙な外人だ。<br>
けれど、不思議と憎めない男でもあった。<br>
<br>
「いま、気付け薬を試そうと思って、探していたところだったの」<br>
<br>
金糸雀が話すと、ベジータは「だったら良い物がある」と言って、走り去った。<br>
良い物とは、一体なんなのだろう?<br>
気付けに関連していて、炭焼き小屋で手に入りそうな物といえば『木酢』ぐらいか。<br>
松の木酢液などは臭いがキツイから、充分、気付け薬の代用になる。<br>
<br>
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<br>
程なく、ベジータが駆け戻ってきた。<br>
彼が手にしていたのは、一見すると甘藷(サツマイモ)に似た植物の根だった。<br>
しかし、真っ青な色をしているので、なんとなく毒々しさを感じてしまう。<br>
<br>
「あ……あの~、ベジータ。これ、なんて植物かしら?」<br>
「なんだ、知らないのか? こいつは『豊藷』ってイモでな。異国原産の植物だ」<br>
「ふぅん? どうやって使うのかしら?」<br>
「擂り下ろして、絞り汁を飲用すると強壮剤になる。味は微妙だが、効果は有るぜ。<br>
身体に降りかけると悪霊払いになるとも聞いたけど、胡散臭い民間伝承だろうさ」<br>
<br>
なるほど、あの娘が目覚めた事を前提にした『良い物』だったのか。<br>
話の流れからして、てっきり効果覿面な気付け薬を持ってくるものと思っていた。<br>
金糸雀は自嘲した。どうやら、早合点は自分も同様らしい。<br>
<br>
「ありがとう。早速、試してみるかしら」<br>
「それとな……これ、興奮剤だって聞いたから、気付けに使えるかと思って」<br>
<br>
言って、ベジータが差し出した瓢箪には『倍櫓』の二文字。<br>
どこで入手したのか知らないが、ベジータは、この薬の効果を解っていない様子だった。<br>
金糸雀は「いりません」と、素っ気なく応じて、ピシャリと戸を閉めた。<br>
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ベジータに教えられたとおりに、金糸雀はイモを擂り下ろした。<br>
絹に包んで、乳鉢の中に、ギュッと絞る。<br>
――何やら見た目だけは美しい色の、青い汁が出てきた。<br>
<br>
「こ、これ……本当に飲ませても平気なのかしら?」<br>
<br>
発癌物質でも入ってそうな気がしたが、折角なので、娘に飲ませてみる事にした。<br>
しかし、口の中に含ませても、ちゃんと飲んではくれないだろう。<br>
こう言うときは、喉の奥に管を挿入して、流し込むに限る。<br>
金糸雀は慣れた手つきで器具を取り付けた。<br>
<br>
「さてさて、準備完了かしら。では早速、流……あっー!」<br>
<br>
乳鉢を傾けた途端、指が滑って、青い液体は娘の顔にバシャッ! と降りかかった。<br>
とどめとばかりに、乳鉢が娘の鼻を直撃する。<br>
それが功を奏したのか解らないが、娘は突然に目を見開いた。<br>
だが、様子がおかしい。<br>
痛がっている……というよりも、寧ろ、苦しんでいると表現するに相応しかった。<br>
<br>
慌てて宥めようとする金糸雀を、娘は物凄い腕力で突き飛ばした。<br>
喉に押し込まれた管をペッ! と吐き捨て、両手で顔に付着した青い汁を拭う。<br>
それが終わると、跳ね起きて、診察台の上で四つん這いになった。<br>
<br>
いつの間にか、彼女の頭から猫の耳が、にょっきりと……。<br>
そして、腰から伸びた二本の尻尾が、ふらりふらりと宙に揺れていた。<br>
<br>
――これが、噂に聞きし猫又?!<br>
娘は、驚愕に目を見開く金糸雀を睨み付けて、しゃーっ! と威嚇した。<br>
<br>
「なるほど。穢れの者に取り憑かれていたのね……だからか」<br>
<br>
金糸雀は、この娘が何故、異常なまでの生命力を宿していたのかを理解した。<br>
普通なら死んでいる筈の重傷でも生き長らえていたのは、穢れの者に取り憑かれていたからだ。<br>
死の代名詞である穢れによって命が繋がれていたとは、なんとも皮肉な話だった。<br>
<br>
だが、いつまでも驚いてはいられない。<br>
金糸雀は袖の中から、一丁の短筒を抜き出した。火縄を使用しない、薬莢方式の試作型だ。<br>
火薬の調合や、からくりの構造などにも明るい彼女は、<br>
ベジータの持つ西洋工学の知恵を吸収して、様々な機構の研究もしていた。<br>
これは試作三型・回転式六連発の短筒である。<br>
<br>
「カナが、目を覚ましてあげるかしら。かかってらっしゃい!」<br>
<br>
ぴたり……と、娘に照準を合わせる。<br>
だが、安易に撃つ訳にはいかない。彼女は、まだ生きているのだ。<br>
あの化け猫に、意識を支配されているに過ぎない。<br>
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(どうすれば、あの娘から猫又を引き離せるかしら?)<br>
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自慢にもならないが、金糸雀は妖怪退治など、ただの一度もやった事がない。<br>
知人に退魔師や、修験者がいる訳でもない。<br>
金糸雀は、今までに読んだ書物を、必死に思い浮かべた。<br>
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(こう言うときには――)<br>
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ふと、ゾンビパウダーという単語が思い浮かんだが、そんな物は用意していない。<br>
材料が揃わないから調合しようが無いし、そもそも、使う場面が違う気がした。<br>
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(そうだ、おイモ! あの汁を飲ませれば効くかしら?)<br>
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青い汁を浴びて目を覚ました直後、猫又は明らかに、忌避行動をしていた。<br>
あの娘の体内に青い汁を送り込むことで、憑依を解けるかも知れない。<br>
幸いにして、豊藷はまだ残っている。調合台の上に、置きっぱなしにしてある。<br>
金糸雀はイモを回収すべく、短筒を構えながら、じりじりと移動した。<br>
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彼女の移動に合わせて、娘も向きを変える。<br>
時折、威嚇の唸りを上げて、飛びかかる隙を窺っていた。<br>
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(あと少し…………もう、ちょっと……)<br>
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娘と視線を合わせたまま、金糸雀は左手に短筒を持ち替え、右手で調合台を探った。<br>
が、おかしい。いくら手探りしても、指先はイモに触れなかった。<br>
まさか、転がって、床に落ちたのだろうか?<br>
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金糸雀の焦りが、腕の動きを粗雑にさせる。<br>
大きく振った指先が、ごろり……と、何かを弾き飛ばした。<br>
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(! しまった……今のが――) <br>
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思わず、金糸雀は弾き飛ばした物に目を向けてしまった。<br>
猫又の娘は、その隙を見逃すことなく飛びかかってくる。<br>
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「あわわわっ!」<br>
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短筒を発射する間も有ればこそ……。<br>
金糸雀は、猫又の娘にのしかかられ、両肩を押さえつけられてしまった。<br>
彼女の顎が、金糸雀の喉笛に食らい付こうと伸びてくる。<br>
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「こ……のぉ!」<br>
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迫り来る娘の頭を右手で押し返しながら、金糸雀は猫耳の側で短筒の撃鉄を落とした。<br>
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突如として耳元で起きた轟音に、猫又の娘が怯んだ。<br>
金糸雀の肩を押さえていた腕から、一瞬だけ、力が抜ける。<br>
機転が引き寄せた、絶好の好機。<br>
金糸雀は娘の身体を渾身の力で跳ね飛ばして、側に転がっていた豊藷を鷲掴みにした。<br>
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ごちん! と、猫又の娘が、診察台の脚に頭をぶつける音がした。<br>
まだ、好機は続いている。<br>
金糸雀は、仰向けに倒れた娘に飛びかかり、馬乗りになった。<br>
猫又の娘が牙を鳴らして、金糸雀を威嚇する。だが、金糸雀とて怯まない。<br>
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「これでも食らうかしらっ!」<br>
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しゃーっ! と吼えた瞬間を見計らって、金糸雀は娘の口に豊藷を押し込んだ。<br>
娘は苦しげに呻き、じたばたと暴れる。<br>
彼女の腕が、金糸雀の頸を掴もうと空を切り続けた。<br>
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そうして、互いに力押しを続けること暫し……。<br>
猫又の娘は、漸く抵抗を止めて、ぐったりとした。<br>
けれど、安堵の息を吐く間もなく、娘の身体から真っ白で、巨大な猫又が飛び出してきた。<br>
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「おのれ……よくも、御前様の邪魔をしてくれたね。許さないよ、小娘っ」<br>
「なにをっ! 化け猫ごときが、ふざけないで欲しいかしら!」<br>
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金糸雀は立て続けに引き金を引いた。<br>
五発の弾丸が、猫又の身体に吸い込まれていく。<br>
だが、猫又は全く意に介する様子もなく、せせら笑った。<br>
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「ふふふふ……無駄無駄ぁ。そんな玩具が効くと思ってるの?」<br>
「くっ! ならば、これで……どうかしらっ!」<br>
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叫んで、金糸雀は発動型特殊攻撃精霊を起動した。<br>
精霊獣召還。金糸雀の影から、氷を想わせる青を湛えた、水晶の牡鹿が躍り出た。<br>
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「行けっ、氷鹿蹟!」<br>
「精霊だとっ?! なぜ……お前ごとき小娘が」<br>
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まさか、金糸雀が精霊を駆使できるとは考えてもいなかったのだろう。<br>
一瞬、動きを止めた猫又の身体を、氷鹿蹟は鋭い角で跳ね飛ばしていた。<br>
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<a href=
"http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/684.html">=第十二章につづく=</a><br>
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