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・今そこにある未来 編」(2009/04/08 (水) 00:25:57) の最新版変更点

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<p align="left"> <br />  20.【穏やかな】【微笑みを】<br />  <br /> 「ひどい顔してるね」<br />  <br /> 私を見つめながら、蒼星石が言った。<br /> だから、私も彼女の鼻先に、指を突き返した。「蒼星石だって、窶れてるですよ」<br />  <br /> 「目元にチカラが感じられないです」<br /> 「キミだって、他人のことは言えないでしょ」<br />  <br /> その自覚はある。運営委員に選出されてからというもの、心身ともに憔悴気味だ。<br /> 不慣れな環境で、慣れない役目を全うしようと思えば、当前の反応だろう。<br /> 眉間になじみつつある縦皺が気になって仕方がない、今日この頃だ。<br />  <br /> 「でも……休むワケには、いかないです」<br /> もう一人の委員である水銀燈先輩に、私の分まで負担をかけられない。<br /> すべてを投げ出して逃げるなんて醜態を曝すのは、私のプライドが許さなかった。<br /> 蒼星石だって、私が無様な真似をすれば怒るに決まっている。<br />  <br /> 「なぁに、この程度のこと、余裕のよっちゃんイカですぅ」<br /> 口にしたのは、気持ちを奮い立たせるための空元気。<br /> そんな私に、「そう言うと思った」と、蒼星石が微苦笑を投げかけてきた。<br />  <br /> 「強がるのもいいけど、あんまり無茶しないようにね」<br /> 「解ってますです。蒼星石、お姉ちゃんを見くびるんじゃねーですよ」<br />  <br /> 存続を訴える活動で入院なんかしたら、有栖川荘にとってマイナスイメージになる。<br /> それに、もしそんなことになれば、私は実家に連れ戻されてしまうだろう。<br /> だから、心配ない。そう言って笑いかけると、蒼星石も――鏡に写った私も、笑みを返してくれた。<br />  <br /> くだらない独り芝居。重圧による心細さを誤魔化そうと、陳腐な演技をしただけ。<br /> でも、本当に蒼星石とお喋りできた気がして、私は少しばかりの安らぎを覚えていた。<br />  <br />  <br /></p> <hr />  <br />  <br />  21.【説得力、】【なし!】<br />  <br /> 「はーい、ちょっと注目ぅ」<br /> 水銀燈先輩が切り出したのは、みんなが顔を揃えた夕食の席でのこと。<br /> 一同の注目を浴びながら、彼女はテーブルに両手を突いて、立ち上がった。<br /> なにやら思惑があるようだが、はてさて……。<br /> この人が率先すると、どうにも嫌な予感がするのは、私だけだろうか。<br />  <br /> 「私たち、ここの存続に向けて一致団結すべきよねぇ」<br /> 「なにを今更。もう既に、みんなの意見は合致していますわよ。ねえ?」<br />  <br /> 同意を求める雪華綺晶さんに、全員が頷いた。やっぱり、離ればなれはイヤだ。<br /> 越してきて日の浅い私ですら、そうなのだから、先輩たち古参組は尚更だろう。<br /> 水銀燈先輩は、我が意を得たとばかりに、ぼよよ~んと胸を張った。<br />  <br /> 「オッケェ~ィ! だったら、明確な団結力を示してやりましょうよ」<br /> 「いいけど……具体的には、どうするかしら?」<br />  <br /> なるほど、これが本題か。ならば、もう答えは用意してあるに違いない。<br /> 案の定、カナ先輩に問いかけに、水銀燈先輩は間を置かず答えた。<br />  <br /> 「団体名を名乗るのよ。と言うワケでぇ、ここにSOS団の結成を宣言するわぁ。<br />  ちなみに、SOSは『水銀燈と おまぬけな しもべたち』の略称だから」<br />  <br /> この人、脳ミソを乳酸菌に蝕まれてるのかも……。今度ばかりは非難囂々。<br /> そんな名称では、学生たちが有栖川荘の占拠を画策していると、学園側に誤解されかねない。<br /> 悪い案ではないけれど、理事会を説き伏せるに足る説得力を持たせないと。<br />  <br /> ……で、みんなが知恵を出し合った結果――<br /> 『真紅さんに おかえりなさいと シャンパンぶっかける』SOS団、結成。 <p align="left">なぜなの、涙が止まらない。こんなことで、いいのかしらん?<br />  <br />  <br /></p> <hr />  <br />  <br />  22.【諦めに】【行こう】<br />  <br /> 困難に直面した時にこそ、その人の真価が問われるもの――<br /> じゃあ、私はどうなのだろう?<br />  <br /> 床を雑巾がけしていた手を止めて、私はふと、庭へと顔を向けた。<br /> 今日は朝から雨模様。細かな春雨が、静かに窓を叩いている。<br /> 濡れたガラス越しに仰ぐ空模様は、一面の灰色。ああ……私の心と同じだ。<br />  <br /> 昨夜、白崎さんから連絡があった。理事会との会合は、ちょうど一週間後。<br /> ちゃんと交渉役が務まるかな? 正直、憂鬱だ。不安に押し潰されてしまいそう。<br /> 会談の席で意見を求められても、しどろもどろになって終わりかもしれないし、<br /> 緊張のあまり、いきなり失神しちゃったりして。<br />  <br /> できるものならば、真紅さんのように、泰然自若としていたい。<br /> けれど、臆病で人見知りな性格が災いして、私はいつも二の足を踏むばかり。<br /> 直さなければ、とは思うものの、『三つ子の魂百まで』とも言うし……。<br />  <br /> 「はー、やれやれ。諺で自己弁護だなんて、情けないですぅ」<br />  <br /> こういうネガティブな発想が、徒に状況を悪化させているのかもしれない。<br /> いっそ、この機に勢いを借りて、自分を変えてみようか。<br />  <br /> 「――なんて、ね。思うだけで変われるのなら、とっくに変わってるですよ」<br />  <br /> そう。私は変化を恐れている。これまでの緩い満足を失うのが怖いのだ。<br /> ぬるま湯のような日常に浸って、ふやけてもなお微睡んでいたくて、<br /> 安らぎが欲しいばかりに、いつしか妥協する癖を身につけた、私――<br />  <br /> 今はまだ、無理に変わらなくてもいい。成り行きに任せておけばいい。<br /> でも、諦めたのではない。闘う決意は、もうできていた。<br /> それによって生じる変化を甘受する覚悟も……。<br />  <br />  <br /><hr />  <br />  <br />  23.【貴方への愛】【奏でる指】<br />  <br /> 私は今、猛烈にドキドキしている。なぜなら、管理人室に立ち入っているから。<br /> 当たり前だけれど、ここには真紅さんの気配が、まだ濃く残っている。<br /> ゆったりと余裕のあるソファに金糸のような抜け毛を見て、私は胸の奥に痛みを覚えた。 <br /> 正直、荒らしたくはない。このままドアに鍵をかけて、そっとしておきたい。<br />  <br /> 「なにボサッとしてるのよぉ。探すの手伝いなさい」<br />  <br /> でも、そんな感傷に浸っていたら、水銀燈先輩に叱られてしまった。<br /> 先輩と私が、ここを訪れたのは、真紅さんの行方を探る手懸かりを求めてのこと。<br /> 彼女を連れ戻すことで、有栖川荘の存続に一応の目途を立てようとの算段だった。<br />  <br /> 「……やっぱり、勝手に触れるのは気乗りしないですぅ」<br /> 「私だって、そうよ。でも、仕方がないじゃない」<br />  <br /> こうするしかない。先輩は自分に言い聞かせるように繰り返して、書架を眺めた。<br /> 実際には、別の方法だってあるのだけど、この人は意図的に無視している。<br /> 新しい管理人を置くのが、どうしても気に入らないらしい。<br /> まあ、先輩の気持ちも、解らなくはない。私も、真紅さんに帰ってきて欲しいから。<br />  <br /> 本意ではなくとも、仕方がないこともある。有栖川荘のため、みんなのため。<br /> 私もまた胸裡で言い訳して、真紅さんの執務机に取りついた。<br /> そして、引き出しから小冊子を見つけた私は、上擦った声で先輩を呼んだ。<br />  <br /> もしかしたら――わき上がる予感が、否応もなく私たちの肌を粟立たせる。<br /> けれど、それは日記とかメモではなく、五線譜を紐で綴じたもの。手書きの楽譜だった。<br /> 音楽は聴き専門の私だけれど、これが未完成曲らしいことは分かった。<br />  <br /> 彼女は、どんな気持ちで、この五線譜に音符を書いていたのだろう。<br /> 願わくば、未完成であることが、再帰の誓いであって欲しい。<br /> そして、きっと真紅さん自ら演奏して欲しいと……本気で、そう思えた。<br />  <br />  <br /><hr />  <br />  <br />  24.【羽撃く】【硝子の鳥達】<br />  <br /> およそ半日を費やして探してみたものの、手懸かりは見つからなかった。<br /> 真紅さんの行方は、杳として知れず、理事会との会合だけが日一日と近づいてくる。<br />  <br /> 「問題は、代理の管理人ですわね」<br />  <br /> 例によって食事時に、その話題が取り沙汰された。切り出したのは、雪華綺晶さん。<br /> 大人しそうな見かけに寄らず、行動力に溢れた人だと、いつも感心させられる。<br /> そこに、同じく行動派のカナ先輩が、言葉を添えた。<br />  <br /> 「それについては、カナに案があるかしら」<br /> 「どんなぁ?」<br />  <br /> 今や名実共に有栖川荘のトップである水銀燈先輩の瞳が、カナ先輩を射る。<br /> くだらない冗談でも言おうものなら、ダーツの如く箸を飛ばさんばかりの気迫だ。<br /> 私なら言葉を呑み込んでしまいそうだけど、カナ先輩は気丈に水銀燈先輩と目を合わせた。<br />  <br /> 「新規で募集しても、期限までに見つけるのは難しいと思うかしら。<br />  だけど、のりさんに代理を頼むのは、さすがに申し訳ないでしょ」<br />  <br /> 今だって、賄い婦として、月曜から金曜まで勤めてもらっている。<br /> 管理人ともなれば、週休二日どころか、住み込みを要求しないといけない。<br /> のりさんなら快諾してくれるだろう。でも、そこまで甘えたくはなかった。<br />  <br /> ……で、カナ先輩の策とは、有栖川荘の住人にして嘱託医でもある女性を担ぎ出すこと。<br /> 言われてみれば、なるほど。現状では、それがベストな選択かもしれない。<br /> なにより、オディールさんは理事長に招聘され来日した人だ。信頼度は抜群。<br /> ガラス細工のように脆く儚い私たちにとって、彼女は希望となり得る存在だった。<br />  <br /> 有栖川荘を――私たちと真紅さんの帰る巣を守るための、ささやかな抵抗。<br /> 願わくば、この決意の羽ばたきが、幸せな未来を招き寄せてくれんことを……。<br />  <br />  <br /><hr />  <br />  <br />  25.【また春が】【来たよ】<br />  <br /> はたして、オディールさんは、私たちのジャンヌ・ダルクになってくれるだろうか。<br /> その夜遅く、ほろ酔い加減で帰宅した彼女に、みんなを代表して懸案を伝えた。<br />  <br /> 「なるほどね。落としどころとしては、悪くないと思うわ」<br />  <br /> 仕事で疲れているだろうに、オディールさんは嫌な顔ひとつせずに話を聞いてくれた。<br /> 彼女としても、私たち――殊に、身内である雛苺の住環境について案じていたのだろう。<br /> そこに、この申し出。渡りに船の、持ちつ持たれつと言ったところか。<br />  <br /> 「でも……ね」<br /> 「なんです?」<br />  <br /> でも、は反意の接続詞。思わせぶりな間の置き方に、つい、私の口調もキツ目になる。<br /> 深夜を憚り潜めた声と相俟って、ややドスが利いた感じだ。<br /> それで怯んだワケでもなかろうが、オディールさんは形の良い眉毛で八の字を描いた。<br />  <br /> 「誤解しないでね。協力を惜しむつもりはないのよ。<br />  私も……みんなと暮らすここを守りたい。本当の家族みたいに思ってるから」<br /> 「たぶん、同じです。みんなも……もちろん、私も」<br /> 「貴女、けっこう献身的よね」<br />  <br /> 他愛ないお喋りで、いくらか気分が紛れたところで、「だけど――」<br /> オディールさんが口を開いた。「ひとつ問題があるわ。他でもない、就業規則のことよ」<br />  <br /> そう。彼女は嘱託とは言え、大学と正式な契約を交わした勤め人。<br /> 民間の物件である有栖川荘の管理人を務めれば、規則にある『副業の禁止』項目に抵触する。<br /> 強行すれば、私たちにも、オディールさんにとっても、嬉しくない結果となろう。<br />  <br /> だけど、なんとかしたい。来年もまた、みんなで春の訪れを喜び合いたいから。<br /> 第二の我が家とも言うべき、この有栖川荘で……。<br />  <br />  <br /><hr />  <br />  <br />  26.【白い】【自転車】<br />  <br /> 学園側との話し合いまで、残すところ、あと四日。<br /> 依然として、コレといった決定打を見出せないままだ。<br /> 気分転換でもすれば、なにか名案が浮かぶかしらと、庭いじりをしてるけど……<br />  <br /> 「そんな都合のいい展開になるのは、マンガくらいっきゃねーですぅ」<br />  <br /> あぁもう! 真紅さんのどあほう! てるてるぼーず! にんじん! <br /> 無性に悪態を吐きたくなって、それを呑み込めば、今度は涙が溢れそうになって。<br />  <br /> 「なに……植えるの?」<br /> そう話しかけられるまで、私は唇を噛みながら、スコップで庭土を掘り返してばかりいた。<br /> 手を止めて振り返れば、自転車を押しながら門を潜ってくる娘と目が合った。<br />  <br /> 「ああ、ばらしーですか。どうしたです、その自転車?」<br /> 「お買い物とか……通学用。お姉ちゃんのお友だちに……譲ってもらった」<br />  <br /> 彼女が押していたのは、いわゆるママチャリと呼ばれる自転車。<br /> 白かったボディは薄汚れ、ところどころに錆も目立つが、中古にしては程度が良い。<br /> 元の持ち主が、どれだけ大事に使っていたのかが窺える。<br />  <br /> 「雨ざらしだと、すぐ痛んじまうですよ。玄関ホールにでも入れとくですぅ」<br />  <br /> 玄関ホールは二階まで吹き抜けになっていて、なかなかの収納スペースを誇る。<br /> 薔薇水晶は頷いたが、「綺麗にしてから」と言って、庭の芝生の上に自転車を停めた。<br /> そして、屋内からバケツと雑巾を手にして小走りに戻り、車体を磨き始めた。<br /> いつもは表情の変化に乏しい娘だけど、鼻歌混じりで、随分と上機嫌だ。<br />  <br /> 何気ない日常は、巡る車輪のよう。しかし確実に愛着を育んで、私たちを離れ難くさせる。<br /> 自転車を掃除する薔薇水晶の背中に笑みを贈り、私もまた、庭いじりに戻る。<br /> 将来への悲観ではなく、咲き乱れる花々で彩られた庭を想い描きながら。<br />  <br />  <br /><hr />  <br />  <br />  27.【同じ日を】【思い出して】<br />  <br /> 朝から、南風の強い日だった。<br /> お陰で気温もぐんぐん上がり、セーターなんか着ていたら汗ばんでくる。<br /> いよいよ春一番かと思いきや、一緒にアフタヌーンティを楽しんでいた院生の桑田さん曰く。<br />  <br /> 「これで、もう春三番くらいよ」<br /> 「……それって異常気象じゃないです? なにかの前触れですかねぇ」<br />  <br /> 難問を抱えた身としては、こじつけたくもなる。気休めにもならないけれど。<br />  <br /> 「こう風が強いと、床や畳が砂埃でザラザラしちゃって嫌よね」<br />  <br /> 確かに、あれは気持ち悪い。窓を閉めていても、どこからか吹き込んでいるのだ。<br /> 風が止んだら、また雑巾がけしないと――なんて思ったところに、「思い出すわ」と。<br /> 桑田さんが、遠い目をして呟いた。「こんな風の強い日には……」<br />  <br /> なんのことやら? 訊くと、桑田さんは照れくさげに教えてくれた。<br /> 高校の卒業式の日も、春の嵐みたいな日だったのだとか。<br />  <br /> 「いきなり突風に煽られて、転んでしまったの。バッグの中身も、ブチ撒けちゃって。<br />  その時、助けてくれた男の子がいたのよ。散らばった荷物を、一緒に拾ってくれた」<br />  <br /> 彼も今日みたいな日には、同じ場面を思い返しているのかしらね、なんて。<br /> 頬を両手で包み込んで語る桑田さんは、正真正銘、恋する乙女だ。<br /> 淡い片想いを、胸の中で大切に温め続けているなんて、実に奥ゆかしい。<br />  <br /> ノックもなしに飛び込んできた恋に、私、あなたを離さないわ――<br />  <br /> 古い歌を、私は思い出した。祖母が針仕事をしながら、ラジオに合わせて歌ってたっけ。<br /> 桑田さんは、その彼とやらを離す以前に、捕まえてさえなかったみたいだけど。<br /> 理由は、敢えて訊かないままにした。<br />  <br />  <br /><hr />  <br />  <br />  28.【草桜柏】【...餅】<br />  <br /> 柿崎さん、桑田さん、オディールさんらが、私たちを仇のように凝視している。<br /> その鬼気迫る空気に呑まれ、私の身体も竦んでしまう。<br />  <br /> 決戦を明後日に控え、私たちは、食堂を会議室に見立ててディベートの練習をしていた。<br /> 事が事だけに、ぶっつけ本番とはいかないとの判断からだ。<br /> この特訓が、どれほどの役に立つかは知れないけれど、備えあれば憂いなし。<br />  <br /> 「女は度胸! なんでも試してみるですぅ」<br />  <br /> とは言ったものの、正直ここまでのプレッシャーだとは思わなかった。<br /> 顔見知りが相手だし、水銀燈先輩も味方だからと、甘く考えていたフシもある。<br /> 今からこんなコトでは、本番が思いやられてしまった。<br />  <br /> 憂鬱と絶え間ない圧迫感に否応なく曝されて、あわや失神しかけた、矢先――<br /> 玄関のドアが開かれる音がして、無駄に甲高い歓声が有栖川荘に谺した。<br /> その声は、小走りの足音を伴い、食堂へと向かってくる。<br />  <br /> 「ただいまなのー。これ、おみゃーげよ。おんまじない、なのっ」<br />  <br /> フランスの留学生、雛苺だ。短期間で、ここまで日本語に慣れたのは凄いと思う。<br /> たまにアヤシイ発音をするけれど、日常生活には差し支えないレベルだった。<br />  <br /> 少し遅れて、雪華綺晶さんも顔を覗かせた。<br /> 地理に不案内な雛苺に請われ、同伴していたらしい。両手には買い物袋を下げている。<br /> 袋を膨らませていたのは、大福やら素甘など、いわゆる餅菓子のオンパレード。<br /> どうして餅なのだろう? うにゅーっと粘り強く交渉に当たれ、とでも?<br />  <br /> しかし、満面の笑みでイチゴ大福にかぶりつく雛苺を見ていると……<br /> 実は、お前が食べたかっただけじゃないのかと、小一時間、問い詰めたくなった。<br /> でも、この休憩中だけは……おまじないとやらに、ちょっぴり期待しておこう。<br />  <br />  <br /><hr />  <br />  <br />  29.【もう】【春だよ】<br />  <br /> 今日もディベートの練習を終えた夕方、私は心労から、自室に戻るや畳に横臥した。<br /> ドアがノックされたのは、それから一分と経たない内だ。<br /> 水銀燈先輩が、明日のことで最終的な打ち合わせにでも来たのかしらん?<br /> 気怠い身体を起こして、ドアを開けると、そこには予期せぬ人物が……。<br />  <br /> 「ウソっ?!」 <br /> 「なにさ、嘘って。そんなに驚いたかい?」<br /> 心外だとばかりに、肩を竦める彼女。でも、すぐに人懐っこい笑顔になった。<br />  <br /> 「驚くに決まってるです。来るなら来るで連絡しやがれってんですよ、バカちん!」<br /> 「はは……変わりなさそうだね、姉さん。安心したよ」<br /> 「蒼星石こそ。……まあ、あがって休むです。今、お茶を煎れるですぅ」<br /> 「うん。それじゃ、お邪魔するね」<br />  <br /> 蒼星石の手荷物は少なかった。日帰り旅行のついでに、立ち寄ってみたとか?<br /> IHクッキングヒーターでお湯を沸かしながら、私はチラチラと様子を窺った。<br /> 想像だけでは埒が開かないので、単刀直入に切り出す。「独り旅してるですか」<br />  <br /> 「急に思い立ってね。そうそう、来る途中、桜が早咲きしてたよ。すっかり春だねえ」<br />  <br /> どこか白々しい口振り。この娘は不器用で、誤魔化すのが下手だ。<br /> 私が真っ直ぐに見つめ返すと、蒼星石は決まり悪そうに瞳を逸らし、鼻の頭を掻いた。<br /> 「ホント言うと、心配してたんだ。姉さんってば最近、メールで愚痴ばかり零してたから」<br />  <br /> それでか。様子を見てこいと、祖父母にも背中を押されたのかもしれない。<br /> 私としても、学園側との会合を明日にして、勇気をくれる援軍を帰したくなかった。<br /> 「蒼星石っ! 今夜は泊まってくです。もっとお喋りするですぅ!」<br /> ぎゅーっと抱きしめると、「仕方ないなぁ。よしよし」だなんて、髪を撫でられた。<br /> これじゃあ、どっちがお姉ちゃんだか分からないけど……まあ、いい。<br /> 折角だし、妹になりきって、思いっきり甘えてみよう。たまには、ね。<br />  <br />  <br /><hr />  <br />  つづく
<p align="left"> <br />  20.【穏やかな】【微笑みを】<br />  <br /> 「ひどい顔してるね」<br />  <br /> 私を見つめながら、蒼星石が言った。<br /> だから、私も彼女の鼻先に、指を突き返した。「蒼星石だって、窶れてるですよ」<br />  <br /> 「目元にチカラが感じられないです」<br /> 「キミだって、他人のことは言えないでしょ」<br />  <br /> その自覚はある。運営委員に選出されてからというもの、心身ともに憔悴気味だ。<br /> 不慣れな環境で、慣れない役目を全うしようと思えば、当前の反応だろう。<br /> 眉間になじみつつある縦皺が気になって仕方がない、今日この頃だ。<br />  <br /> 「でも……休むワケには、いかないです」<br /> もう一人の委員である水銀燈先輩に、私の分まで負担をかけられない。<br /> すべてを投げ出して逃げるなんて醜態を曝すのは、私のプライドが許さなかった。<br /> 蒼星石だって、私が無様な真似をすれば怒るに決まっている。<br />  <br /> 「なぁに、この程度のこと、余裕のよっちゃんイカですぅ」<br /> 口にしたのは、気持ちを奮い立たせるための空元気。<br /> そんな私に、「そう言うと思った」と、蒼星石が微苦笑を投げかけてきた。<br />  <br /> 「強がるのもいいけど、あんまり無茶しないようにね」<br /> 「解ってますです。蒼星石、お姉ちゃんを見くびるんじゃねーですよ」<br />  <br /> 存続を訴える活動で入院なんかしたら、有栖川荘にとってマイナスイメージになる。<br /> それに、もしそんなことになれば、私は実家に連れ戻されてしまうだろう。<br /> だから、心配ない。そう言って笑いかけると、蒼星石も――鏡に写った私も、笑みを返してくれた。<br />  <br /> くだらない独り芝居。重圧による心細さを誤魔化そうと、陳腐な演技をしただけ。<br /> でも、本当に蒼星石とお喋りできた気がして、私は少しばかりの安らぎを覚えていた。<br />  </p> <hr />   <br />  21.【説得力、】【なし!】<br />  <br /> 「はーい、ちょっと注目ぅ」<br /> 水銀燈先輩が切り出したのは、みんなが顔を揃えた夕食の席でのこと。<br /> 一同の注目を浴びながら、彼女はテーブルに両手を突いて、立ち上がった。<br /> なにやら思惑があるようだが、はてさて……。<br /> この人が率先すると、どうにも嫌な予感がするのは、私だけだろうか。<br />  <br /> 「私たち、ここの存続に向けて一致団結すべきよねぇ」<br /> 「なにを今更。もう既に、みんなの意見は合致していますわよ。ねえ?」<br />  <br /> 同意を求める雪華綺晶さんに、全員が頷いた。やっぱり、離ればなれはイヤだ。<br /> 越してきて日の浅い私ですら、そうなのだから、先輩たち古参組は尚更だろう。<br /> 水銀燈先輩は、我が意を得たとばかりに、ぼよよ~んと胸を張った。<br />  <br /> 「オッケェ~ィ! だったら、明確な団結力を示してやりましょうよ」<br /> 「いいけど……具体的には、どうするかしら?」<br />  <br /> なるほど、これが本題か。ならば、もう答えは用意してあるに違いない。<br /> 案の定、カナ先輩に問いかけに、水銀燈先輩は間を置かず答えた。<br />  <br /> 「団体名を名乗るのよ。と言うワケでぇ、ここにSOS団の結成を宣言するわぁ。<br />  ちなみに、SOSは『水銀燈と おまぬけな しもべたち』の略称だから」<br />  <br /> この人、脳ミソを乳酸菌に蝕まれてるのかも……。今度ばかりは非難囂々。<br /> そんな名称では、学生たちが有栖川荘の占拠を画策していると、学園側に誤解されかねない。<br /> 悪い案ではないけれど、理事会を説き伏せるに足る説得力を持たせないと。<br />  <br /> ……で、みんなが知恵を出し合った結果――<br /> 『真紅さんに おかえりなさいと シャンパンぶっかける』SOS団、結成。 <p align="left">なぜなの、涙が止まらない。こんなことで、いいのかしらん?<br />   </p> <hr />  <br />  22.【諦めに】【行こう】<br />  <br /> 困難に直面した時にこそ、その人の真価が問われるもの――<br /> じゃあ、私はどうなのだろう?<br />  <br /> 床を雑巾がけしていた手を止めて、私はふと、庭へと顔を向けた。<br /> 今日は朝から雨模様。細かな春雨が、静かに窓を叩いている。<br /> 濡れたガラス越しに仰ぐ空模様は、一面の灰色。ああ……私の心と同じだ。<br />  <br /> 昨夜、白崎さんから連絡があった。理事会との会合は、ちょうど一週間後。<br /> ちゃんと交渉役が務まるかな? 正直、憂鬱だ。不安に押し潰されてしまいそう。<br /> 会談の席で意見を求められても、しどろもどろになって終わりかもしれないし、<br /> 緊張のあまり、いきなり失神しちゃったりして。<br />  <br /> できるものならば、真紅さんのように、泰然自若としていたい。<br /> けれど、臆病で人見知りな性格が災いして、私はいつも二の足を踏むばかり。<br /> 直さなければ、とは思うものの、『三つ子の魂百まで』とも言うし……。<br />  <br /> 「はー、やれやれ。諺で自己弁護だなんて、情けないですぅ」<br />  <br /> こういうネガティブな発想が、徒に状況を悪化させているのかもしれない。<br /> いっそ、この機に勢いを借りて、自分を変えてみようか。<br />  <br /> 「――なんて、ね。思うだけで変われるのなら、とっくに変わってるですよ」<br />  <br /> そう。私は変化を恐れている。これまでの緩い満足を失うのが怖いのだ。<br /> ぬるま湯のような日常に浸って、ふやけてもなお微睡んでいたくて、<br /> 安らぎが欲しいばかりに、いつしか妥協する癖を身につけた、私――<br />  <br /> 今はまだ、無理に変わらなくてもいい。成り行きに任せておけばいい。<br /> でも、諦めたのではない。闘う決意は、もうできていた。<br /> それによって生じる変化を甘受する覚悟も……。<br />  <br /><hr />  <br />  23.【貴方への愛】【奏でる指】<br />  <br /> 私は今、猛烈にドキドキしている。なぜなら、管理人室に立ち入っているから。<br /> 当たり前だけれど、ここには真紅さんの気配が、まだ濃く残っている。<br /> ゆったりと余裕のあるソファに金糸のような抜け毛を見て、私は胸の奥に痛みを覚えた。 <br /> 正直、荒らしたくはない。このままドアに鍵をかけて、そっとしておきたい。<br />  <br /> 「なにボサッとしてるのよぉ。探すの手伝いなさい」<br />  <br /> でも、そんな感傷に浸っていたら、水銀燈先輩に叱られてしまった。<br /> 先輩と私が、ここを訪れたのは、真紅さんの行方を探る手懸かりを求めてのこと。<br /> 彼女を連れ戻すことで、有栖川荘の存続に一応の目途を立てようとの算段だった。<br />  <br /> 「……やっぱり、勝手に触れるのは気乗りしないですぅ」<br /> 「私だって、そうよ。でも、仕方がないじゃない」<br />  <br /> こうするしかない。先輩は自分に言い聞かせるように繰り返して、書架を眺めた。<br /> 実際には、別の方法だってあるのだけど、この人は意図的に無視している。<br /> 新しい管理人を置くのが、どうしても気に入らないらしい。<br /> まあ、先輩の気持ちも、解らなくはない。私も、真紅さんに帰ってきて欲しいから。<br />  <br /> 本意ではなくとも、仕方がないこともある。有栖川荘のため、みんなのため。<br /> 私もまた胸裡で言い訳して、真紅さんの執務机に取りついた。<br /> そして、引き出しから小冊子を見つけた私は、上擦った声で先輩を呼んだ。<br />  <br /> もしかしたら――わき上がる予感が、否応もなく私たちの肌を粟立たせる。<br /> けれど、それは日記とかメモではなく、五線譜を紐で綴じたもの。手書きの楽譜だった。<br /> 音楽は聴き専門の私だけれど、これが未完成曲らしいことは分かった。<br />  <br /> 彼女は、どんな気持ちで、この五線譜に音符を書いていたのだろう。<br /> 願わくば、未完成であることが、再帰の誓いであって欲しい。<br /> そして、きっと真紅さん自ら演奏して欲しいと……本気で、そう思えた。<br />  <br /><hr />  <br />  24.【羽撃く】【硝子の鳥達】<br />  <br /> およそ半日を費やして探してみたものの、手懸かりは見つからなかった。<br /> 真紅さんの行方は、杳として知れず、理事会との会合だけが日一日と近づいてくる。<br />  <br /> 「問題は、代理の管理人ですわね」<br />  <br /> 例によって食事時に、その話題が取り沙汰された。切り出したのは、雪華綺晶さん。<br /> 大人しそうな見かけに寄らず、行動力に溢れた人だと、いつも感心させられる。<br /> そこに、同じく行動派のカナ先輩が、言葉を添えた。<br />  <br /> 「それについては、カナに案があるかしら」<br /> 「どんなぁ?」<br />  <br /> 今や名実共に有栖川荘のトップである水銀燈先輩の瞳が、カナ先輩を射る。<br /> くだらない冗談でも言おうものなら、ダーツの如く箸を飛ばさんばかりの気迫だ。<br /> 私なら言葉を呑み込んでしまいそうだけど、カナ先輩は気丈に水銀燈先輩と目を合わせた。<br />  <br /> 「新規で募集しても、期限までに見つけるのは難しいと思うかしら。<br />  だけど、のりさんに代理を頼むのは、さすがに申し訳ないでしょ」<br />  <br /> 今だって、賄い婦として、月曜から金曜まで勤めてもらっている。<br /> 管理人ともなれば、週休二日どころか、住み込みを要求しないといけない。<br /> のりさんなら快諾してくれるだろう。でも、そこまで甘えたくはなかった。<br />  <br /> ……で、カナ先輩の策とは、有栖川荘の住人にして嘱託医でもある女性を担ぎ出すこと。<br /> 言われてみれば、なるほど。現状では、それがベストな選択かもしれない。<br /> なにより、オディールさんは理事長に招聘され来日した人だ。信頼度は抜群。<br /> ガラス細工のように脆く儚い私たちにとって、彼女は希望となり得る存在だった。<br />  <br /> 有栖川荘を――私たちと真紅さんの帰る巣を守るための、ささやかな抵抗。<br /> 願わくば、この決意の羽ばたきが、幸せな未来を招き寄せてくれんことを……。<br />  <br /><hr />  <br />  25.【また春が】【来たよ】<br />  <br /> はたして、オディールさんは、私たちのジャンヌ・ダルクになってくれるだろうか。<br /> その夜遅く、ほろ酔い加減で帰宅した彼女に、みんなを代表して懸案を伝えた。<br />  <br /> 「なるほどね。落としどころとしては、悪くないと思うわ」<br />  <br /> 仕事で疲れているだろうに、オディールさんは嫌な顔ひとつせずに話を聞いてくれた。<br /> 彼女としても、私たち――殊に、身内である雛苺の住環境について案じていたのだろう。<br /> そこに、この申し出。渡りに船の、持ちつ持たれつと言ったところか。<br />  <br /> 「でも……ね」<br /> 「なんです?」<br />  <br /> でも、は反意の接続詞。思わせぶりな間の置き方に、つい、私の口調もキツ目になる。<br /> 深夜を憚り潜めた声と相俟って、ややドスが利いた感じだ。<br /> それで怯んだワケでもなかろうが、オディールさんは形の良い眉毛で八の字を描いた。<br />  <br /> 「誤解しないでね。協力を惜しむつもりはないのよ。<br />  私も……みんなと暮らすここを守りたい。本当の家族みたいに思ってるから」<br /> 「たぶん、同じです。みんなも……もちろん、私も」<br /> 「貴女、けっこう献身的よね」<br />  <br /> 他愛ないお喋りで、いくらか気分が紛れたところで、「だけど――」<br /> オディールさんが口を開いた。「ひとつ問題があるわ。他でもない、就業規則のことよ」<br />  <br /> そう。彼女は嘱託とは言え、大学と正式な契約を交わした勤め人。<br /> 民間の物件である有栖川荘の管理人を務めれば、規則にある『副業の禁止』項目に抵触する。<br /> 強行すれば、私たちにも、オディールさんにとっても、嬉しくない結果となろう。<br />  <br /> だけど、なんとかしたい。来年もまた、みんなで春の訪れを喜び合いたいから。<br /> 第二の我が家とも言うべき、この有栖川荘で……。<br />  <br /><hr />  <br />  26.【白い】【自転車】<br />  <br /> 学園側との話し合いまで、残すところ、あと四日。<br /> 依然として、コレといった決定打を見出せないままだ。<br /> 気分転換でもすれば、なにか名案が浮かぶかしらと、庭いじりをしてるけど……<br />  <br /> 「そんな都合のいい展開になるのは、マンガくらいっきゃねーですぅ」<br />  <br /> あぁもう! 真紅さんのどあほう! てるてるぼーず! にんじん! <br /> 無性に悪態を吐きたくなって、それを呑み込めば、今度は涙が溢れそうになって。<br />  <br /> 「なに……植えるの?」<br /> そう話しかけられるまで、私は唇を噛みながら、スコップで庭土を掘り返してばかりいた。<br /> 手を止めて振り返れば、自転車を押しながら門を潜ってくる娘と目が合った。<br />  <br /> 「ああ、ばらしーですか。どうしたです、その自転車?」<br /> 「お買い物とか……通学用。お姉ちゃんのお友だちに……譲ってもらった」<br />  <br /> 彼女が押していたのは、いわゆるママチャリと呼ばれる自転車。<br /> 白かったボディは薄汚れ、ところどころに錆も目立つが、中古にしては程度が良い。<br /> 元の持ち主が、どれだけ大事に使っていたのかが窺える。<br />  <br /> 「雨ざらしだと、すぐ痛んじまうですよ。玄関ホールにでも入れとくですぅ」<br />  <br /> 玄関ホールは二階まで吹き抜けになっていて、なかなかの収納スペースを誇る。<br /> 薔薇水晶は頷いたが、「綺麗にしてから」と言って、庭の芝生の上に自転車を停めた。<br /> そして、屋内からバケツと雑巾を手にして小走りに戻り、車体を磨き始めた。<br /> いつもは表情の変化に乏しい娘だけど、鼻歌混じりで、随分と上機嫌だ。<br />  <br /> 何気ない日常は、巡る車輪のよう。しかし確実に愛着を育んで、私たちを離れ難くさせる。<br /> 自転車を掃除する薔薇水晶の背中に笑みを贈り、私もまた、庭いじりに戻る。<br /> 将来への悲観ではなく、咲き乱れる花々で彩られた庭を想い描きながら。<br />  <br /><hr />  <br />  27.【同じ日を】【思い出して】<br />  <br /> 朝から、南風の強い日だった。<br /> お陰で気温もぐんぐん上がり、セーターなんか着ていたら汗ばんでくる。<br /> いよいよ春一番かと思いきや、一緒にアフタヌーンティを楽しんでいた院生の桑田さん曰く。<br />  <br /> 「これで、もう春三番くらいよ」<br /> 「……それって異常気象じゃないです? なにかの前触れですかねぇ」<br />  <br /> 難問を抱えた身としては、こじつけたくもなる。気休めにもならないけれど。<br />  <br /> 「こう風が強いと、床や畳が砂埃でザラザラしちゃって嫌よね」<br />  <br /> 確かに、あれは気持ち悪い。窓を閉めていても、どこからか吹き込んでいるのだ。<br /> 風が止んだら、また雑巾がけしないと――なんて思ったところに、「思い出すわ」と。<br /> 桑田さんが、遠い目をして呟いた。「こんな風の強い日には……」<br />  <br /> なんのことやら? 訊くと、桑田さんは照れくさげに教えてくれた。<br /> 高校の卒業式の日も、春の嵐みたいな日だったのだとか。<br />  <br /> 「いきなり突風に煽られて、転んでしまったの。バッグの中身も、ブチ撒けちゃって。<br />  その時、助けてくれた男の子がいたのよ。散らばった荷物を、一緒に拾ってくれた」<br />  <br /> 彼も今日みたいな日には、同じ場面を思い返しているのかしらね、なんて。<br /> 頬を両手で包み込んで語る桑田さんは、正真正銘、恋する乙女だ。<br /> 淡い片想いを、胸の中で大切に温め続けているなんて、実に奥ゆかしい。<br />  <br /> ノックもなしに飛び込んできた恋に、私、あなたを離さないわ――<br />  <br /> 古い歌を、私は思い出した。祖母が針仕事をしながら、ラジオに合わせて歌ってたっけ。<br /> 桑田さんは、その彼とやらを離す以前に、捕まえてさえなかったみたいだけど。<br /> 理由は、敢えて訊かないままにした。<br />  <br /><hr />  <br />  28.【草桜柏】【...餅】<br />  <br /> 柿崎さん、桑田さん、オディールさんらが、私たちを仇のように凝視している。<br /> その鬼気迫る空気に呑まれ、私の身体も竦んでしまう。<br />  <br /> 決戦を明後日に控え、私たちは、食堂を会議室に見立ててディベートの練習をしていた。<br /> 事が事だけに、ぶっつけ本番とはいかないとの判断からだ。<br /> この特訓が、どれほどの役に立つかは知れないけれど、備えあれば憂いなし。<br />  <br /> 「女は度胸! なんでも試してみるですぅ」<br />  <br /> とは言ったものの、正直ここまでのプレッシャーだとは思わなかった。<br /> 顔見知りが相手だし、水銀燈先輩も味方だからと、甘く考えていたフシもある。<br /> 今からこんなコトでは、本番が思いやられてしまった。<br />  <br /> 憂鬱と絶え間ない圧迫感に否応なく曝されて、あわや失神しかけた、矢先――<br /> 玄関のドアが開かれる音がして、無駄に甲高い歓声が有栖川荘に谺した。<br /> その声は、小走りの足音を伴い、食堂へと向かってくる。<br />  <br /> 「ただいまなのー。これ、おみゃーげよ。おんまじない、なのっ」<br />  <br /> フランスの留学生、雛苺だ。短期間で、ここまで日本語に慣れたのは凄いと思う。<br /> たまにアヤシイ発音をするけれど、日常生活には差し支えないレベルだった。<br />  <br /> 少し遅れて、雪華綺晶さんも顔を覗かせた。<br /> 地理に不案内な雛苺に請われ、同伴していたらしい。両手には買い物袋を下げている。<br /> 袋を膨らませていたのは、大福やら素甘など、いわゆる餅菓子のオンパレード。<br /> どうして餅なのだろう? うにゅーっと粘り強く交渉に当たれ、とでも?<br />  <br /> しかし、満面の笑みでイチゴ大福にかぶりつく雛苺を見ていると……<br /> 実は、お前が食べたかっただけじゃないのかと、小一時間、問い詰めたくなった。<br /> でも、この休憩中だけは……おまじないとやらに、ちょっぴり期待しておこう。<br />  <br /><hr />  <br />  29.【もう】【春だよ】<br />  <br /> 今日もディベートの練習を終えた夕方、私は心労から、自室に戻るや畳に横臥した。<br /> ドアがノックされたのは、それから一分と経たない内だ。<br /> 水銀燈先輩が、明日のことで最終的な打ち合わせにでも来たのかしらん?<br /> 気怠い身体を起こして、ドアを開けると、そこには予期せぬ人物が……。<br />  <br /> 「ウソっ?!」 <br /> 「なにさ、嘘って。そんなに驚いたかい?」<br /> 心外だとばかりに、肩を竦める彼女。でも、すぐに人懐っこい笑顔になった。<br />  <br /> 「驚くに決まってるです。来るなら来るで連絡しやがれってんですよ、バカちん!」<br /> 「はは……変わりなさそうだね、姉さん。安心したよ」<br /> 「蒼星石こそ。……まあ、あがって休むです。今、お茶を煎れるですぅ」<br /> 「うん。それじゃ、お邪魔するね」<br />  <br /> 蒼星石の手荷物は少なかった。日帰り旅行のついでに、立ち寄ってみたとか?<br /> IHクッキングヒーターでお湯を沸かしながら、私はチラチラと様子を窺った。<br /> 想像だけでは埒が開かないので、単刀直入に切り出す。「独り旅してるですか」<br />  <br /> 「急に思い立ってね。そうそう、来る途中、桜が早咲きしてたよ。すっかり春だねえ」<br />  <br /> どこか白々しい口振り。この娘は不器用で、誤魔化すのが下手だ。<br /> 私が真っ直ぐに見つめ返すと、蒼星石は決まり悪そうに瞳を逸らし、鼻の頭を掻いた。<br /> 「ホント言うと、心配してたんだ。姉さんってば最近、メールで愚痴ばかり零してたから」<br />  <br /> それでか。様子を見てこいと、祖父母にも背中を押されたのかもしれない。<br /> 私としても、学園側との会合を明日にして、勇気をくれる援軍を帰したくなかった。<br /> 「蒼星石っ! 今夜は泊まってくです。もっとお喋りするですぅ!」<br /> ぎゅーっと抱きしめると、「仕方ないなぁ。よしよし」だなんて、髪を撫でられた。<br /> これじゃあ、どっちがお姉ちゃんだか分からないけど……まあ、いい。<br /> 折角だし、妹になりきって、思いっきり甘えてみよう。たまには、ね。<br />  <br />  <br /><hr />  <br />  ・<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/4236.html">春の日の憂鬱 編</a>に続く

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