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・出会いと別れ 編」(2009/02/26 (木) 01:24:22) の最新版変更点

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<p align="left"><br />  0. 【新しい】【世界】<br />  <br /> ……ここは? 一瞬、自分がどこに居るのか、分からなかった。<br /> 携帯電話のアラームに叩き起こされ、朦朧とした意識で考えること暫し。<br /> ああ、そう言えば。思い出して、不意に笑みが漏れた。<br />  <br /> 東京の大学に受かって、独り暮らしのために上京したのが、昨日の夕方。<br /> 当座の暮らしに必要な物だけバッグに詰め込んで、下宿先の有栖川荘に入ったのだ。<br /> その他の荷物は、今日中に引っ越し業者の手で運ばれる予定だった。<br />  <br /> 「もう朝ですぅ? あいたたた……」<br /> 寝袋から這い出しながら、思わず顔を顰めた。なんだか身体中が痛い。<br /> こんなことなら、布団だけでも先に送っておけばよかったと、今更ながら後悔。<br /> 携帯電話で、故郷にいる双子の妹に、おはようのメールをしておく。<br />  <br /> 最低限の身だしなみを整えて、部屋を出た。<br /> ……と、隣の206号室のドアが開かれて、やけに白っぽい妙齢の乙女が姿を見せた。<br /> 「あら?」こちらに気づいた彼女が、愛嬌たっぷりの仕種で、首を傾げる。「新しいお隣さん?」<br /> なにごとも初対面の印象が大切だ。私は姿勢を正して、軽く会釈した。<br />  <br /> 「おはようございます。205号室に越してきた翠星石ですぅ。昨日の内に、ご挨拶したかったですけど」<br /> 「……ああ。こちらこそ失礼しました。昨夜は帰りが遅かったもので。<br />  あらためて、おはようございます。私は、雪華綺晶。以後、お見知り置きを」<br />  <br /> 優雅に腰を屈めた彼女は、私の脇を通り抜けざま、<br /> 「安心なさい。ここの住人は癖のある方ばかりですけど、悪人は居ませんから」<br /> そう囁いて、いきなり私の頬に接吻してきた。「ふぇっ?!」<br /> 一瞬、なにをされたのか分からなくて、ポカンと立ち尽くしていると――<br />  <br /> 「ふふ……可愛らしいヒト」<br /> 彼女――雪華綺晶は妖艶に笑って、階下へと降りていった。<br /> この新しい世界で、私は四年間もやっていけるですかね? ちょっと不安ですよ、蒼星石……。<br />  <br />  <br /></p> <hr />  <br />  <br />  1. 【冬の】【ひまわり】<br />  <br /> 私の入居した有栖川荘には、なんとも珍しいことに、住人用の食堂が存在する。<br /> 個人所有の物件でありながら、まるで大学直轄の学生寮みたいだ。<br /> 実際、入居者はほぼ全員が学生で、大学側からも運営資金の扶助を受けているらしい。<br />  <br /> が、事情を知ると不思議でもなんでもない。ここの管理人が、理事長の娘なのだ。<br /> 私も初めて話を聞いたときは驚いた。しかも、これが妙齢の美人だったから、二度ビックリ。<br /> そんな理由から規律は厳しいけれど、裏を返せばセキュリティも堅いのだし、心強い環境と言える。<br />  <br /> まあ、ちまちました解説はともかく――今朝が、初めての食堂利用。<br /> どんなお料理が出るのか、ちょっとワクワク。足どりも軽く、食堂に踏み込みと……<br />  <br /> 「あらぁ?」食堂には先客がいた。「早いのねぇ。翠星石、だったかしら?」<br /> 声を掛けてきたのは、古参の住人。名前は、水銀燈。私より二年先輩とのこと。<br /> 昨夜、挨拶したときに、応用微生物学を専攻していると聞かされた。<br />  <br /> 水銀燈先輩は私に流し目をくれながら、持っていた1リットルの紙パックを呷った。<br /> 牛乳かと思いきや、飲むヨーグルト。まさか、それを一人で飲み切るですか?<br /> 驚き眺めていたら、不意に紙パックを突き付けられた。「貴女も、乳酸菌とりなさぁい」<br />  <br /> 「え? でも、それ先輩の飲みかけ――」<br /> 「なぁに? 私の育てた乳酸菌が飲めない、とでも?」<br /> 「そうじゃなくて、えと、そのぉ…………い、いただきマンモスですぅ」<br />  <br /> これも通過儀礼。仲間入りの儀式と割り切って、私は紙パックを受け取った。<br /> 先輩の機嫌を損ねないように、慌てて飲んだものだから、口の端からヨーグルトが垂れた。<br /> すると、水銀燈先輩は妖しく微笑みながら、私の口元を指で拭って――その指をしゃぶった。<br /> 家族でもないのに、なぜそんな恥ずかしい真似ができるのか。胸はドキドキ、一瞬で頭が沸騰。<br /> しかも「次は口うつしがいい?」なんて先輩がからかうので、私は噎せて、乳酸菌の海で溺死しそうになった。<br />  <br /> 蒼星石……お姉ちゃんは異世界への新しいドアを開いちまったみたいですよ。はふぅ……。<br />  <br />   <hr /><p> <br />  <br />  2. 【潔く】【かっこよく】<br />  <br /> やっとこ水銀燈先輩の魔手から解放されて、私は安堵の息を吐いた。<br /> ああいう距離感の掴みにくい人は、どうも苦手だ。急に近づかれてドギマギさせられる。<br /> こんな風に思ってしまうのは、私の人見知りする性格ゆえなのか……。<br />  <br /> 思えば、私は実家に居るときから、誰かの背中に匿われていた。<br /> 子煩悩なおじじ、料理上手で優しいおばば……そして、双子の妹である蒼星石。<br /> みんなと離れ、独り異郷で暮らす日が訪れるなんて、想像もしなかったことだ。<br />  <br /> ――はふぅ。まだ、たった一晩しか離れていないのに、胸が苦しい。<br /> 漠然とした怖れ……これから4年も、ちゃんとやっていけるのだろうか?<br /> 今の私は、接いだばかりの苗木のようなもの。拠り所のない心細さで、折れてしまいそうだ。<br /> けれど、熱を帯びた瞼から、弱い気持ちが零れ落ちる寸前――<br />  <br /> 「若い娘が、朝から溜息なんか吐いて……どうしたと言うの?」 <br /> 凛とした声に背中を叩かれ、私はビクッと肩を震わせた。<br /> 振り返ると、目も覚めるような美女が佇んでいた。暁光が、彼女のブロンドを輝かせる。<br />  <br /> 「あ……管理人さん。お、おはようございますですぅ」<br />  <br /> 潤んだ眼を慌てて擦りつつ、頭を下げる私に、「おはよう、翠星石」<br /> 彼女――真紅さんは、優雅に微笑みを返してきた。<br /> けれど、どこまでも深く澄んだ蒼眸は、私の瞳を鋭く射抜く。視線を逸らせず、息苦しくなる。<br />  <br /> 「ひとつ、教えてあげるわ」真紅さんは言って、私の頬をひと撫でした。<br /> 「寂しい時ほど、健気なまでに気高く生きなさい。咲き誇る薔薇のような……そんなレディーでありなさい」<br />  <br /> 静かだけれど強い語調に圧されて、私は反射的に頷いていた。<br /> 私のホームシックなどお見通し。真紅さんの鷹揚とした微笑が、そう物語っていた。<br />  <br /> 管理人さんは、とても潔くて頼もしい人なんですよ、蒼星石。私、惚れちまいそうですぅ”<br />  <br />  </p> <hr /><p> <br />  <br />  3. 【逢いたい】【逢えない】<br />  <br /> 世の中、広いかと思えば狭く、その逆もまた然り。<br /> こんな手狭なアパート(と言っても二階建てで、貸部屋は十を数えるのだが)で、<br /> 意中の人に逢えないというのも、自分の生き方について考えさせられる一幕だ。<br />  <br /> 「まさか、避けられてるですかね?」<br />  <br /> 独りごちて、小首を傾げてみる。もちろん、ただの戯れ口だ。<br /> ここで暮らし始めて、まだ一日と経っていないのに、忌避される謂れはない。<br />  <br /> 私が探しているのは、202号室の住人――金糸雀先輩の部屋だ。<br /> 昨夜、挨拶した限りでは、とっつき易そうな人だった。年齢もひとつ違い。<br /> そんな気安さから、いろいろ相談に乗ってもらいたかったのだが……。<br />  <br /> まだ寝ているのならば、叩き起こすのも気の毒か。<br /> 諦めて回れ右しようとした矢先、隣室のドアが開いて、寝ぼけまなこの娘が顔を覗かせた。<br /> この、ちょっとボケボケっとした娘は、私と同期入学の薔薇水晶だ。<br /> 私の隣人である雪華綺晶さんの妹で、この有栖川荘を選んだのも、そのツテだとか。<br />  <br /> 「おはよ、翠ちゃん。カナ先輩……探してるの?」<br /> 「ええ。でも、部屋には居ないみたいです」<br /> 「……そう言えば。水銀燈先輩と、廊下で話してた。お風呂が、どうとか……」<br />  <br /> 驚くなかれ、このアパートには共同の内風呂があるのだ! ちなみにトイレも共同。<br /> なるほど。私が管理人さんと話してる間に、水銀燈先輩がカナ先輩を連れ去ったのか。<br />  <br /> 「そうです! ばらしー、私たちも朝風呂としゃれ込むですよ!」<br /> 逢えないのなら、逢いに行くまで。私は薔薇水晶の腕を掴んで、浴室まで引きずって行った。<br />  <br /> お風呂にはジョギング帰りの雪華綺晶さんも入りに来て、凄い眺めだったですよ、蒼星石っ!<br /> どんな風に凄かったかと言うと、ああっと……残念。もう30行ですぅ。<br />  <br />  </p> <hr /><p> <br />  <br />  4. 【後悔】【しない】<br />  <br /> 「うっし! お風呂でサッパリしたし、今度こそ元気に朝ごはんですぅ!」<br />  <br /> ……と、拳を握って息巻いたまではよかったが、なにやら様子がおかしい。<br /> 厨房は暗く、静かだ。人の気配もない。まさか――もう食事の時間は終わってる?!<br />  <br /> なんという無情。ああ、でも冷蔵庫には、なにか残り物が入ってるかも。<br /> おめおめ戻る気にもならず、厨房に押し入った途端、「なにを、しているのぅ?」<br /> 柔らかな声に話しかけられて、振り向くと……<br /> 真ん丸メガネの女性が、私に柔和な笑みを投げかけていた。<br />  <br /> 「見慣れない子ねぇ。あなた、誰かのお友だち?」<br />  <br /> しどろもどろに、205号室に越してきたと告げると、女性は手を打って表情を輝かせた。<br /> 「まぁまぁまぁ……あなたが翠星石ちゃんね。私は、のり。食堂の賄い婦なのよぅ」<br />  <br /> 自宅が近所なので、住み込みではなく、毎朝ここに通ってくるのだとか。<br /> それで、昨夜は逢えなかったのか。納得。<br />  <br /> 「急いで、朝食の支度をするわね。<br />  そうだわ! 折角だもの、翠星石ちゃんも手伝ってちょうだいよぅ」<br />  <br /> なぜか嬉しそうに舌なめずり。のほほんとした見かけに合わず、強引な性格らしい。<br /> まあ、人は好さそうだし、これを契機に仲良くなっておくのも悪くないかも。<br /> 「はいですぅ」私は頷いて、気合い充分に腕まくりした。<br />  <br /> のりさんは手際が良くて、ビックリするほど料理上手だった。<br /> おばば直伝の腕前を自負する私と遜色ない。いいライバルに出逢えたものだ。<br /> 本当に、新生活は刺激に満ち溢れていて、私に後悔する暇も与えてくれない。<br />  <br /> ……蒼星石。お姉ちゃんは頑張ってるですよ!<br />  <br />  </p> <hr /><p> <br />  <br />  5. 【寒椿の下で】【君を待つ】<br />  <br /> 朝食も済んで、各人が、それぞれの今日という日に向かって行く。<br /> 私もまた、そんな一人となるべく、のりさんに「ごちそうさまですぅ」と食器を渡し、自室へと戻った。<br /> がらんとした八畳間。狭い玄関。給湯器の付いた小さな流し。空っぽの押し入れ。<br /> それが、私の新しい部屋のすべて。ちなみに、トイレと風呂は共同使用だ。<br />  <br /> 今はまだ荷物がないから茫洋として見えるけれど、すぐに手狭に感じるのだろう。<br /> 八畳間とは狭すぎず、かと言って余るほど広いわけでもない、中途半端な空間だ。<br /> タンスに冷蔵庫、テレビと、それから文机……。ベッドまで入れたら窮屈になるので断念。<br />  <br /> 「引っ越し屋さんが来るのは、そろそろですかね」<br /> カーテンも変えようか……とか、あれこれインテリアを考えながら独りごちたところに、<br /> アパートの表で車の停まる気配。やっと来た! 私は急いで部屋を飛び出した。<br />  <br /> ――が、それは宅急便のトラックだった。<br /> 我ながら、恥ずかしい早とちりをしたものだと自嘲を漏らしたところに、「まだなの――」<br /> 春風に運ばれてきた声を辿る私の瞳が、ひたむきに庭木を見つめる真紅さんを捉えた。<br /> とても、とても、思い詰めた感じの表情だった。<br />  <br /> 「管理人さん。なにしてるですか?」<br /> 「えっ? ……ああ、翠星石。別に、たいしたコトじゃないわ」<br />  <br /> 彼女が熱心に眺めていた灌木は、寒椿か、山茶花(サザンカ)か……<br /> こと植物については少しばかり博士気分な私だが、ちょっと見分けがつかない。<br /> そのくらい、この二種はそっくりさんなのだ。そう……私と、蒼星石みたいに。<br />  <br /> 「寒椿よ」私の心を読んだかのようなタイミングで、管理人さんが教えてくれた。<br /> 「ずっと昔に、あるヒトと約束したのだわ。きっと逢いに戻るから、この下で待ってて――と」<br />  <br /> そう告げた管理人さんの横顔は、とても哀しそうだったですよ、蒼星石。<br /> こんな美人を待ちぼうけさせるなんて、どんなアホ人間ですかね、まったく……。<br />  <br />  </p> <hr /><p> <br />  <br />  6. 【どきどき】【してみたい】<br />  <br /> やっと荷物が届いた。タンスと布団と、お気に入りの洋服や下着を詰めた段ボール箱が五つ。<br /> それから食器類、おばばが入学祝いにくれた包丁セット、などなど――<br /> 私としては厳選したつもりだったけれど、意外に嵩張ったものだ。<br />  <br /> 「ふえ~。こりゃ荷ほどきするのも一仕事ですぅ」<br />  <br /> ひとまずは、衣食住の“衣”をしてしまおう。そう決意した私に、聞き覚えのある猫なで声が!<br /> 「荷物が多くて、たぁいへん。早く片づけなきゃ、寝る場所がなくなっちゃうわぁ」<br />  <br /> キタ━━! 神出鬼没の、水銀燈先輩。「手伝ってあげましょうかぁ?」<br /> 正直、お引き取り願いたかった。でも、どう断れば角が立たないか思いつかない。<br /> ひとまず笑みを作って、振り向いた――が、玄関に先輩の姿はなくて。「はて、空耳でしたかね?」<br />  <br /> 私は首を捻った。すると、また「こっちよぉ。こっちこっちぃ」<br /> 今度こそ、声のした方を特定して顔を向けた私は、心停止するかと思うほど驚いた。<br /> あろうことか、押し入れの天井から、水銀燈先輩の顔が逆さに突き出ていたからだ。<br /> 彼女は、驚愕のあまり固まった私の顔が面白かったのか、ニヤニヤしていた。<br />  <br /> 「なっ、なにしてるですか、先輩!」<br /> 「タシーロ……って言うのは冗談よぉ。とりあえず、お邪魔してもいいかしらぁ」<br />  <br /> と言いつつ、先輩は私の返事も待たず屋根裏に引っ込んで、忍者みたいに軽々と降りてきた。<br /> 先輩曰く、屋根裏に細菌培養ブースを作って、管理しているのだとか。<br /> それで、たまたま私のボヤきが聞こえたらしい。ホントかウソか判らないけれど。<br />  <br /> 結局、先輩に押し切られるかたちで、手伝ってもらうことになった。<br /> その際に、さっきは死ぬほど焦ったと、うっかり喋ったのがマズかった。<br /> 水銀燈先輩は、いやらしい笑みを浮かべて。「ねえぇ、もっとドキドキしてみたい?」<br />  <br /> この一言だけでも充分にドキドキでしたが、その後…………ううん、なんでもないです蒼星石。<br />  <br />  </p> <hr /><p> <br />  <br />  7. 【大好き】【…たぶん】<br />  <br /> 「翠星石ちゃんは、食べられない物ってあるのぅ?」<br />  <br /> そう訊ねられたのは、部屋の片づけを終えて、昼食の支度を手伝っているときだ。<br /> 質問者は通いの賄い婦、のりさん。<br /> 厨房を預かる者として、入居者の食の好き嫌いを把握しておきたいらしい。<br /> なるほど、料理を作る以上は、残さず食べてもらいたいのが人情というもの。<br /> のりさんの気持ちは、私にも、よーく理解できた。<br />  <br /> 「んーと……和食に関しては、特にないですぅ」<br /> 「そうなのぅ? 正直に言ってくれていいのよ」<br /> 「ホントに、ないですよ。ぬか漬けもクサヤも大好きですぅ」<br />  <br /> おじじ、おばばが和食派だったので、私と蒼星石もまた子供の頃から和食派だ。<br /> 基本的に、好き嫌いはない。食べず嫌いなら、あるけれど。<br /> それだって、珍味と呼ばれる部類の食品だ。ここの食卓にのぼることは、まずないだろう。<br />  <br /> ちなみに、私が苦手とするのは“ピータン”とか“シュールストレンミング”とか……<br /> 早い話が、臭いのキツイ食べ物。嗅いだだけで食欲がなくなるような。<br /> 一応、のりさんに確認したが、心配いらないとのことだった。<br /> そもそも、予算的なところで珍味の類は、そうそう用意できないものらしい。<br />  <br /> 「それなら、ひと安心ですぅ」私は安堵の息を吐いて、そう答えた……のだが。<br /> 「でもね」のりさんは急に怖い顔になって、言った。「自家製の発酵食品だけは――」<br /> 意味深長に言葉を切るのは、どうして? 食中毒の心配だろうか?<br /> 首を傾げる私に、彼女は声を潜めて、耳打ちしてくれた。<br />  <br /> 「水銀燈ちゃんがね……たまに、バイオ納豆を差し入れてくれるんだけど……食べられそう?」<br />  <br /> なにやら、遺伝子組み替え食品みないな名前が出てきたですよ、蒼星石!<br /> でも、名称が仰々しいだけで、きっと普通の納豆ですよね。「……たぶん」と答えといたですぅ。<br />  <br />  </p> <hr /><p> <br />  <br />  8. 【大胆な】【告白】<br />  <br /> その晩、管理人さん――真紅さんの呼びかけで、新入居者の歓迎会が催された。<br /> 主役は、私と薔薇水晶。そして、もう一人――夕方に着いたばかりの小柄な女の子。<br /> 癖のあるショートの金髪で、頭のてっぺんに大きなリボンを着けた、フランスからの留学生だ。<br /> パッと見、幼い。実年齢と精神年齢が一致していない感じだった。<br />  <br /> 「よかったわ、みんな揃ってくれたわね」<br /> 管理人の真紅さんが、食堂に集まった面々を眺め回して、満足そうに微笑した。<br /> それに対して「そうですね」と相槌を打つのは、大学の嘱託医オディールさんだ。<br /> なんでも、理事長の引きで、フランスから招聘されたのだとか。<br />  <br /> フランス人ながら流暢な日本語を話す。これだけでも、明晰な頭脳の持ち主と分かる。<br /> 医者としても相当に優秀なのだろう。そのうち、お世話になるかもしれない。<br /> ちなみに、先に紹介したリボンの女の子――雛苺は、オディールさんの身内なのだとか。<br /> このアパートに入居したのも、遠い異国で寂しい思いをしないようにとの配慮らしい。<br />  <br /> 「そろそろ、始めましょうか」<br /> 「賛成。折角のお料理が冷めちゃうものね」<br />  <br /> そう口々に告げたのは、柿崎さんと桑田さんの院生コンビ。<br /> 二人とは、これが初対面。よって、生態も不明。この宴席で教えてもらうつもりだ。<br />  <br /> 「では、乾杯しましょう。みんな、グラスを持ってちょうだい」<br /> と言う割に、真紅さんが手にしているのは紅茶のカップ。あまりお酒は嗜まないのか。<br /> まあ、私も正体をなくすまで呑んだりはしないけれど……。<br />  <br /> やがて宴も酣となったころ、やおら、真紅さんが唇を開いた。「みんな、聞いてちょうだい」<br /> なんだか、とても思い詰めた口振りに、誰もが驚いたように口を噤んだ。<br />  <br /> 静まり返った食堂で、真紅さんは、とんでもないコトを言いだしたですよ蒼星石。<br /> 「私は……真紅は……今日を限りに、管理人を辞するわ」――って。<br />  <br />  </p> <hr /><p> <br />  <br />  9. 【薔薇色】【日の出】<br />  <br /> どうして、いきなり辞めるだなんて言いだしたのか。<br /> 今までの緩くて賑々しい空気が、まるで遙かな過去の物語みたいに感じられた。<br /> 水を打ったような静けさの中、私はふと、朝方のことを想い出していた。<br /> 切なげな瞳で、庭の寒椿を見つめる真紅さん――<br /> あのとき、もう辞めることを決めていたのだろう。確信めいた想いが、私の胸に生まれた。<br />  <br /> 「なんで、急に……そんな……」<br />  <br /> かなりの古参住人である水銀燈先輩が、真紅さんを睨み付けて、声を絞りだした。<br /> 院生の二人――柿崎さんと桑田さんも、愕然とした様子だ。まあ、それも当然の反応だろう。<br /> 私たち新しい住人と違って、先輩たちは数年間を、真紅さんと一緒に過ごしてきたのだから。<br />  <br /> 「ごめんなさい。本当に、すまないとは思っているわ」<br /> 「理由を言いなさいよ!」<br />  <br /> 水銀燈先輩がテーブルを叩いた拍子に、跳ねたグラスがフローリングの床に落ちて、割れた。<br /> 突然の大きな音に、ガラスの砕ける音が重なり、数人がビクリと肩を震わせた。<br /> 啜り泣きを始めた雛苺が、オディールさんに抱き寄せられる。オディールさんの眼も潤んでいた。<br /> つられて、私の瞼も熱くなり、鼻の奥がツンとしだした。<br />  <br /> 「待ち疲れたのよ。だから、お願い……私の好きにさせてちょうだい」<br />  <br /> そう告げた真紅さんに掴みかかろうとした水銀燈先輩を、雪華綺晶さんと柿崎さんが押し留める。<br /> 先輩は口惜しげに歯噛みして、「勝手にしなさいよ、バカっ!」<br /> 雪華綺晶さんたちの腕を振り払い、食堂を飛び出していった。<br /> うち沈んだ雰囲気のまま、歓迎会は幕引き。それぞれの部屋に戻る誰もが、無言だった。<br />  <br /> その翌朝、眠れなかったお陰で、私は出立する真紅さんを見送ることができた。<br /> スーツケースひとつ携えた彼女の後ろ姿が、春暁の光の中に融けていくのを見つめていた。<br /> 淡いオレンジ色に染まる薄雲は、まるで儚く散る薔薇の花弁みたいでしたよ、蒼星石……。<br />  <br />  </p> <hr /><p> <br />  <a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/4174.html">・動きだす日常 編</a>  に続く</p>
<p align="left"> <br />  0. 【新しい】【世界】<br />  <br /> ……ここは? 一瞬、自分がどこに居るのか、分からなかった。<br /> 携帯電話のアラームに叩き起こされ、朦朧とした意識で考えること暫し。<br /> ああ、そう言えば。思い出して、不意に笑みが漏れた。<br />  <br /> 東京の大学に受かって、独り暮らしのために上京したのが、昨日の夕方。<br /> 当座の暮らしに必要な物だけバッグに詰め込んで、下宿先の有栖川荘に入ったのだ。<br /> その他の荷物は、今日中に引っ越し業者の手で運ばれる予定だった。<br />  <br /> 「もう朝ですぅ? あいたたた……」<br /> 寝袋から這い出しながら、思わず顔を顰めた。なんだか身体中が痛い。<br /> こんなことなら、布団だけでも先に送っておけばよかったと、今更ながら後悔。<br /> 携帯電話で、故郷にいる双子の妹に、おはようのメールをしておく。<br />  <br /> 最低限の身だしなみを整えて、部屋を出た。<br /> ……と、隣の206号室のドアが開かれて、やけに白っぽい妙齢の乙女が姿を見せた。<br /> 「あら?」こちらに気づいた彼女が、愛嬌たっぷりの仕種で、首を傾げる。「新しいお隣さん?」<br /> なにごとも初対面の印象が大切だ。私は姿勢を正して、軽く会釈した。<br />  <br /> 「おはようございます。205号室に越してきた翠星石ですぅ。昨日の内に、ご挨拶したかったですけど」<br /> 「……ああ。こちらこそ失礼しました。昨夜は帰りが遅かったもので。<br />  あらためて、おはようございます。私は、雪華綺晶。以後、お見知り置きを」<br />  <br /> 優雅に腰を屈めた彼女は、私の脇を通り抜けざま、<br /> 「安心なさい。ここの住人は癖のある方ばかりですけど、悪人は居ませんから」<br /> そう囁いて、いきなり私の頬に接吻してきた。「ふぇっ?!」<br /> 一瞬、なにをされたのか分からなくて、ポカンと立ち尽くしていると――<br />  <br /> 「ふふ……可愛らしいヒト」<br /> 彼女――雪華綺晶は妖艶に笑って、階下へと降りていった。<br /> この新しい世界で、私は四年間もやっていけるですかね? ちょっと不安ですよ、蒼星石……。<br />  <br /></p> <hr />  <br />  1. 【冬の】【ひまわり】<br />  <br /> 私の入居した有栖川荘には、なんとも珍しいことに、住人用の食堂が存在する。<br /> 個人所有の物件でありながら、まるで大学直轄の学生寮みたいだ。<br /> 実際、入居者はほぼ全員が学生で、大学側からも運営資金の扶助を受けているらしい。<br />  <br /> が、事情を知ると不思議でもなんでもない。ここの管理人が、理事長の娘なのだ。<br /> 私も初めて話を聞いたときは驚いた。しかも、これが妙齢の美人だったから、二度ビックリ。<br /> そんな理由から規律は厳しいけれど、裏を返せばセキュリティも堅いのだし、心強い環境と言える。<br />  <br /> まあ、ちまちました解説はともかく――今朝が、初めての食堂利用。<br /> どんなお料理が出るのか、ちょっとワクワク。足どりも軽く、食堂に踏み込みと……<br />  <br /> 「あらぁ?」食堂には先客がいた。「早いのねぇ。翠星石、だったかしら?」<br /> 声を掛けてきたのは、古参の住人。名前は、水銀燈。私より二年先輩とのこと。<br /> 昨夜、挨拶したときに、応用微生物学を専攻していると聞かされた。<br />  <br /> 水銀燈先輩は私に流し目をくれながら、持っていた1リットルの紙パックを呷った。<br /> 牛乳かと思いきや、飲むヨーグルト。まさか、それを一人で飲み切るですか?<br /> 驚き眺めていたら、不意に紙パックを突き付けられた。「貴女も、乳酸菌とりなさぁい」<br />  <br /> 「え? でも、それ先輩の飲みかけ――」<br /> 「なぁに? 私の育てた乳酸菌が飲めない、とでも?」<br /> 「そうじゃなくて、えと、そのぉ…………い、いただきマンモスですぅ」<br />  <br /> これも通過儀礼。仲間入りの儀式と割り切って、私は紙パックを受け取った。<br /> 先輩の機嫌を損ねないように、慌てて飲んだものだから、口の端からヨーグルトが垂れた。<br /> すると、水銀燈先輩は妖しく微笑みながら、私の口元を指で拭って――その指をしゃぶった。<br /> 家族でもないのに、なぜそんな恥ずかしい真似ができるのか。胸はドキドキ、一瞬で頭が沸騰。<br /> しかも「次は口うつしがいい?」なんて先輩がからかうので、私は噎せて、乳酸菌の海で溺死しそうになった。<br />  <br /> 蒼星石……お姉ちゃんは異世界への新しいドアを開いちまったみたいですよ。はふぅ……。<br />    <hr />   <br />  2. 【潔く】【かっこよく】<br />  <br /> やっとこ水銀燈先輩の魔手から解放されて、私は安堵の息を吐いた。<br /> ああいう距離感の掴みにくい人は、どうも苦手だ。急に近づかれてドギマギさせられる。<br /> こんな風に思ってしまうのは、私の人見知りする性格ゆえなのか……。<br />  <br /> 思えば、私は実家に居るときから、誰かの背中に匿われていた。<br /> 子煩悩なおじじ、料理上手で優しいおばば……そして、双子の妹である蒼星石。<br /> みんなと離れ、独り異郷で暮らす日が訪れるなんて、想像もしなかったことだ。<br />  <br /> ――はふぅ。まだ、たった一晩しか離れていないのに、胸が苦しい。<br /> 漠然とした怖れ……これから4年も、ちゃんとやっていけるのだろうか?<br /> 今の私は、接いだばかりの苗木のようなもの。拠り所のない心細さで、折れてしまいそうだ。<br /> けれど、熱を帯びた瞼から、弱い気持ちが零れ落ちる寸前――<br />  <br /> 「若い娘が、朝から溜息なんか吐いて……どうしたと言うの?」 <br /> 凛とした声に背中を叩かれ、私はビクッと肩を震わせた。<br /> 振り返ると、目も覚めるような美女が佇んでいた。暁光が、彼女のブロンドを輝かせる。<br />  <br /> 「あ……管理人さん。お、おはようございますですぅ」<br />  <br /> 潤んだ眼を慌てて擦りつつ、頭を下げる私に、「おはよう、翠星石」<br /> 彼女――真紅さんは、優雅に微笑みを返してきた。<br /> けれど、どこまでも深く澄んだ蒼眸は、私の瞳を鋭く射抜く。視線を逸らせず、息苦しくなる。<br />  <br /> 「ひとつ、教えてあげるわ」真紅さんは言って、私の頬をひと撫でした。<br /> 「寂しい時ほど、健気なまでに気高く生きなさい。咲き誇る薔薇のような……そんなレディーでありなさい」<br />  <br /> 静かだけれど強い語調に圧されて、私は反射的に頷いていた。<br /> 私のホームシックなどお見通し。真紅さんの鷹揚とした微笑が、そう物語っていた。<br />  <br /> 管理人さんは、とても潔くて頼もしい人なんですよ、蒼星石。私、惚れちまいそうですぅ”<br />  <br /><hr />  <br />  3. 【逢いたい】【逢えない】<br />  <br /> 世の中、広いかと思えば狭く、その逆もまた然り。<br /> こんな手狭なアパート(と言っても二階建てで、貸部屋は十を数えるのだが)で、<br /> 意中の人に逢えないというのも、自分の生き方について考えさせられる一幕だ。<br />  <br /> 「まさか、避けられてるですかね?」<br />  <br /> 独りごちて、小首を傾げてみる。もちろん、ただの戯れ口だ。<br /> ここで暮らし始めて、まだ一日と経っていないのに、忌避される謂れはない。<br />  <br /> 私が探しているのは、202号室の住人――金糸雀先輩の部屋だ。<br /> 昨夜、挨拶した限りでは、とっつき易そうな人だった。年齢もひとつ違い。<br /> そんな気安さから、いろいろ相談に乗ってもらいたかったのだが……。<br />  <br /> まだ寝ているのならば、叩き起こすのも気の毒か。<br /> 諦めて回れ右しようとした矢先、隣室のドアが開いて、寝ぼけまなこの娘が顔を覗かせた。<br /> この、ちょっとボケボケっとした娘は、私と同期入学の薔薇水晶だ。<br /> 私の隣人である雪華綺晶さんの妹で、この有栖川荘を選んだのも、そのツテだとか。<br />  <br /> 「おはよ、翠ちゃん。カナ先輩……探してるの?」<br /> 「ええ。でも、部屋には居ないみたいです」<br /> 「……そう言えば。水銀燈先輩と、廊下で話してた。お風呂が、どうとか……」<br />  <br /> 驚くなかれ、このアパートには共同の内風呂があるのだ! ちなみにトイレも共同。<br /> なるほど。私が管理人さんと話してる間に、水銀燈先輩がカナ先輩を連れ去ったのか。<br />  <br /> 「そうです! ばらしー、私たちも朝風呂としゃれ込むですよ!」<br /> 逢えないのなら、逢いに行くまで。私は薔薇水晶の腕を掴んで、浴室まで引きずって行った。<br />  <br /> お風呂にはジョギング帰りの雪華綺晶さんも入りに来て、凄い眺めだったですよ、蒼星石っ!<br /> どんな風に凄かったかと言うと、ああっと……残念。もう30行ですぅ。<br />  <br /><hr />  <br />  4. 【後悔】【しない】<br />  <br /> 「うっし! お風呂でサッパリしたし、今度こそ元気に朝ごはんですぅ!」<br />  <br /> ……と、拳を握って息巻いたまではよかったが、なにやら様子がおかしい。<br /> 厨房は暗く、静かだ。人の気配もない。まさか――もう食事の時間は終わってる?!<br />  <br /> なんという無情。ああ、でも冷蔵庫には、なにか残り物が入ってるかも。<br /> おめおめ戻る気にもならず、厨房に押し入った途端、「なにを、しているのぅ?」<br /> 柔らかな声に話しかけられて、振り向くと……<br /> 真ん丸メガネの女性が、私に柔和な笑みを投げかけていた。<br />  <br /> 「見慣れない子ねぇ。あなた、誰かのお友だち?」<br />  <br /> しどろもどろに、205号室に越してきたと告げると、女性は手を打って表情を輝かせた。<br /> 「まぁまぁまぁ……あなたが翠星石ちゃんね。私は、のり。食堂の賄い婦なのよぅ」<br />  <br /> 自宅が近所なので、住み込みではなく、毎朝ここに通ってくるのだとか。<br /> それで、昨夜は逢えなかったのか。納得。<br />  <br /> 「急いで、朝食の支度をするわね。<br />  そうだわ! 折角だもの、翠星石ちゃんも手伝ってちょうだいよぅ」<br />  <br /> なぜか嬉しそうに舌なめずり。のほほんとした見かけに合わず、強引な性格らしい。<br /> まあ、人は好さそうだし、これを契機に仲良くなっておくのも悪くないかも。<br /> 「はいですぅ」私は頷いて、気合い充分に腕まくりした。<br />  <br /> のりさんは手際が良くて、ビックリするほど料理上手だった。<br /> おばば直伝の腕前を自負する私と遜色ない。いいライバルに出逢えたものだ。<br /> 本当に、新生活は刺激に満ち溢れていて、私に後悔する暇も与えてくれない。<br />  <br /> ……蒼星石。お姉ちゃんは頑張ってるですよ!<br />  <br /><hr />  <br />  5. 【寒椿の下で】【君を待つ】<br />  <br /> 朝食も済んで、各人が、それぞれの今日という日に向かって行く。<br /> 私もまた、そんな一人となるべく、のりさんに「ごちそうさまですぅ」と食器を渡し、自室へと戻った。<br /> がらんとした八畳間。狭い玄関。給湯器の付いた小さな流し。空っぽの押し入れ。<br /> それが、私の新しい部屋のすべて。ちなみに、トイレと風呂は共同使用だ。<br />  <br /> 今はまだ荷物がないから茫洋として見えるけれど、すぐに手狭に感じるのだろう。<br /> 八畳間とは狭すぎず、かと言って余るほど広いわけでもない、中途半端な空間だ。<br /> タンスに冷蔵庫、テレビと、それから文机……。ベッドまで入れたら窮屈になるので断念。<br />  <br /> 「引っ越し屋さんが来るのは、そろそろですかね」<br /> カーテンも変えようか……とか、あれこれインテリアを考えながら独りごちたところに、<br /> アパートの表で車の停まる気配。やっと来た! 私は急いで部屋を飛び出した。<br />  <br /> ――が、それは宅急便のトラックだった。<br /> 我ながら、恥ずかしい早とちりをしたものだと自嘲を漏らしたところに、「まだなの――」<br /> 春風に運ばれてきた声を辿る私の瞳が、ひたむきに庭木を見つめる真紅さんを捉えた。<br /> とても、とても、思い詰めた感じの表情だった。<br />  <br /> 「管理人さん。なにしてるですか?」<br /> 「えっ? ……ああ、翠星石。別に、たいしたコトじゃないわ」<br />  <br /> 彼女が熱心に眺めていた灌木は、寒椿か、山茶花(サザンカ)か……<br /> こと植物については少しばかり博士気分な私だが、ちょっと見分けがつかない。<br /> そのくらい、この二種はそっくりさんなのだ。そう……私と、蒼星石みたいに。<br />  <br /> 「寒椿よ」私の心を読んだかのようなタイミングで、管理人さんが教えてくれた。<br /> 「ずっと昔に、あるヒトと約束したのだわ。きっと逢いに戻るから、この下で待ってて――と」<br />  <br /> そう告げた管理人さんの横顔は、とても哀しそうだったですよ、蒼星石。<br /> こんな美人を待ちぼうけさせるなんて、どんなアホ人間ですかね、まったく……。<br />  <br /><hr />  <br />  6. 【どきどき】【してみたい】<br />  <br /> やっと荷物が届いた。タンスと布団と、お気に入りの洋服や下着を詰めた段ボール箱が五つ。<br /> それから食器類、おばばが入学祝いにくれた包丁セット、などなど――<br /> 私としては厳選したつもりだったけれど、意外に嵩張ったものだ。<br />  <br /> 「ふえ~。こりゃ荷ほどきするのも一仕事ですぅ」<br />  <br /> ひとまずは、衣食住の“衣”をしてしまおう。そう決意した私に、聞き覚えのある猫なで声が!<br /> 「荷物が多くて、たぁいへん。早く片づけなきゃ、寝る場所がなくなっちゃうわぁ」<br />  <br /> キタ━━! 神出鬼没の、水銀燈先輩。「手伝ってあげましょうかぁ?」<br /> 正直、お引き取り願いたかった。でも、どう断れば角が立たないか思いつかない。<br /> ひとまず笑みを作って、振り向いた――が、玄関に先輩の姿はなくて。「はて、空耳でしたかね?」<br />  <br /> 私は首を捻った。すると、また「こっちよぉ。こっちこっちぃ」<br /> 今度こそ、声のした方を特定して顔を向けた私は、心停止するかと思うほど驚いた。<br /> あろうことか、押し入れの天井から、水銀燈先輩の顔が逆さに突き出ていたからだ。<br /> 彼女は、驚愕のあまり固まった私の顔が面白かったのか、ニヤニヤしていた。<br />  <br /> 「なっ、なにしてるですか、先輩!」<br /> 「タシーロ……って言うのは冗談よぉ。とりあえず、お邪魔してもいいかしらぁ」<br />  <br /> と言いつつ、先輩は私の返事も待たず屋根裏に引っ込んで、忍者みたいに軽々と降りてきた。<br /> 先輩曰く、屋根裏に細菌培養ブースを作って、管理しているのだとか。<br /> それで、たまたま私のボヤきが聞こえたらしい。ホントかウソか判らないけれど。<br />  <br /> 結局、先輩に押し切られるかたちで、手伝ってもらうことになった。<br /> その際に、さっきは死ぬほど焦ったと、うっかり喋ったのがマズかった。<br /> 水銀燈先輩は、いやらしい笑みを浮かべて。「ねえぇ、もっとドキドキしてみたい?」<br />  <br /> この一言だけでも充分にドキドキでしたが、その後…………ううん、なんでもないです蒼星石。<br />  <br /><hr />  <br />  7. 【大好き】【…たぶん】<br />  <br /> 「翠星石ちゃんは、食べられない物ってあるのぅ?」<br />  <br /> そう訊ねられたのは、部屋の片づけを終えて、昼食の支度を手伝っているときだ。<br /> 質問者は通いの賄い婦、のりさん。<br /> 厨房を預かる者として、入居者の食の好き嫌いを把握しておきたいらしい。<br /> なるほど、料理を作る以上は、残さず食べてもらいたいのが人情というもの。<br /> のりさんの気持ちは、私にも、よーく理解できた。<br />  <br /> 「んーと……和食に関しては、特にないですぅ」<br /> 「そうなのぅ? 正直に言ってくれていいのよ」<br /> 「ホントに、ないですよ。ぬか漬けもクサヤも大好きですぅ」<br />  <br /> おじじ、おばばが和食派だったので、私と蒼星石もまた子供の頃から和食派だ。<br /> 基本的に、好き嫌いはない。食べず嫌いなら、あるけれど。<br /> それだって、珍味と呼ばれる部類の食品だ。ここの食卓にのぼることは、まずないだろう。<br />  <br /> ちなみに、私が苦手とするのは“ピータン”とか“シュールストレンミング”とか……<br /> 早い話が、臭いのキツイ食べ物。嗅いだだけで食欲がなくなるような。<br /> 一応、のりさんに確認したが、心配いらないとのことだった。<br /> そもそも、予算的なところで珍味の類は、そうそう用意できないものらしい。<br />  <br /> 「それなら、ひと安心ですぅ」私は安堵の息を吐いて、そう答えた……のだが。<br /> 「でもね」のりさんは急に怖い顔になって、言った。「自家製の発酵食品だけは――」<br /> 意味深長に言葉を切るのは、どうして? 食中毒の心配だろうか?<br /> 首を傾げる私に、彼女は声を潜めて、耳打ちしてくれた。<br />  <br /> 「水銀燈ちゃんがね……たまに、バイオ納豆を差し入れてくれるんだけど……食べられそう?」<br />  <br /> なにやら、遺伝子組み替え食品みないな名前が出てきたですよ、蒼星石!<br /> でも、名称が仰々しいだけで、きっと普通の納豆ですよね。「……たぶん」と答えといたですぅ。<br />  <br /><hr />  <br />  8. 【大胆な】【告白】<br />  <br /> その晩、管理人さん――真紅さんの呼びかけで、新入居者の歓迎会が催された。<br /> 主役は、私と薔薇水晶。そして、もう一人――夕方に着いたばかりの小柄な女の子。<br /> 癖のあるショートの金髪で、頭のてっぺんに大きなリボンを着けた、フランスからの留学生だ。<br /> パッと見、幼い。実年齢と精神年齢が一致していない感じだった。<br />  <br /> 「よかったわ、みんな揃ってくれたわね」<br /> 管理人の真紅さんが、食堂に集まった面々を眺め回して、満足そうに微笑した。<br /> それに対して「そうですね」と相槌を打つのは、大学の嘱託医オディールさんだ。<br /> なんでも、理事長の引きで、フランスから招聘されたのだとか。<br />  <br /> フランス人ながら流暢な日本語を話す。これだけでも、明晰な頭脳の持ち主と分かる。<br /> 医者としても相当に優秀なのだろう。そのうち、お世話になるかもしれない。<br /> ちなみに、先に紹介したリボンの女の子――雛苺は、オディールさんの身内なのだとか。<br /> このアパートに入居したのも、遠い異国で寂しい思いをしないようにとの配慮らしい。<br />  <br /> 「そろそろ、始めましょうか」<br /> 「賛成。折角のお料理が冷めちゃうものね」<br />  <br /> そう口々に告げたのは、柿崎さんと桑田さんの院生コンビ。<br /> 二人とは、これが初対面。よって、生態も不明。この宴席で教えてもらうつもりだ。<br />  <br /> 「では、乾杯しましょう。みんな、グラスを持ってちょうだい」<br /> と言う割に、真紅さんが手にしているのは紅茶のカップ。あまりお酒は嗜まないのか。<br /> まあ、私も正体をなくすまで呑んだりはしないけれど……。<br />  <br /> やがて宴も酣となったころ、やおら、真紅さんが唇を開いた。「みんな、聞いてちょうだい」<br /> なんだか、とても思い詰めた口振りに、誰もが驚いたように口を噤んだ。<br />  <br /> 静まり返った食堂で、真紅さんは、とんでもないコトを言いだしたですよ蒼星石。<br /> 「私は……真紅は……今日を限りに、管理人を辞するわ」――って。<br />  <br /><hr />  <br />  9. 【薔薇色】【日の出】<br />  <br /> どうして、いきなり辞めるだなんて言いだしたのか。<br /> 今までの緩くて賑々しい空気が、まるで遙かな過去の物語みたいに感じられた。<br /> 水を打ったような静けさの中、私はふと、朝方のことを想い出していた。<br /> 切なげな瞳で、庭の寒椿を見つめる真紅さん――<br /> あのとき、もう辞めることを決めていたのだろう。確信めいた想いが、私の胸に生まれた。<br />  <br /> 「なんで、急に……そんな……」<br />  <br /> かなりの古参住人である水銀燈先輩が、真紅さんを睨み付けて、声を絞りだした。<br /> 院生の二人――柿崎さんと桑田さんも、愕然とした様子だ。まあ、それも当然の反応だろう。<br /> 私たち新しい住人と違って、先輩たちは数年間を、真紅さんと一緒に過ごしてきたのだから。<br />  <br /> 「ごめんなさい。本当に、すまないとは思っているわ」<br /> 「理由を言いなさいよ!」<br />  <br /> 水銀燈先輩がテーブルを叩いた拍子に、跳ねたグラスがフローリングの床に落ちて、割れた。<br /> 突然の大きな音に、ガラスの砕ける音が重なり、数人がビクリと肩を震わせた。<br /> 啜り泣きを始めた雛苺が、オディールさんに抱き寄せられる。オディールさんの眼も潤んでいた。<br /> つられて、私の瞼も熱くなり、鼻の奥がツンとしだした。<br />  <br /> 「待ち疲れたのよ。だから、お願い……私の好きにさせてちょうだい」<br />  <br /> そう告げた真紅さんに掴みかかろうとした水銀燈先輩を、雪華綺晶さんと柿崎さんが押し留める。<br /> 先輩は口惜しげに歯噛みして、「勝手にしなさいよ、バカっ!」<br /> 雪華綺晶さんたちの腕を振り払い、食堂を飛び出していった。<br /> うち沈んだ雰囲気のまま、歓迎会は幕引き。それぞれの部屋に戻る誰もが、無言だった。<br />  <br /> その翌朝、眠れなかったお陰で、私は出立する真紅さんを見送ることができた。<br /> スーツケースひとつ携えた彼女の後ろ姿が、春暁の光の中に融けていくのを見つめていた。<br /> 淡いオレンジ色に染まる薄雲は、まるで儚く散る薔薇の花弁みたいでしたよ、蒼星石……。<br />  <br /><hr />  <br />  <a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/4174.html">・動きだす日常 編</a>  に続く

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