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カムフラージュ 【1】」(2008/12/30 (火) 01:04:31) の最新版変更点

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     1.    その瞬間、思わず息を呑んでいた。 ありがちなドラマのワンシーンみたいに。   息を弾ませ、控え室であるホテルの一室に飛び込んできた、可憐にして鮮烈な印象の乙女。 予想だにしていなかった衝撃で、言葉は疎か、瞬きさえも忘れてしまった僕は、 ただただマヌケに口を開いたまま、彼女の美しさに見惚れるばかりだった。   足元が覚束ないのは、立ち眩みだろうか。 それとも、この胸に感じる、締めつけるような鈍痛のせい?    「あ……えっと」   泳いでいた彼女の瞳が、僕を捉えた。躊躇いがちに、ぎこちなく笑いかけてくる。 奥ゆかしく、初々しい。けれど、どこか得体の知れなさを感じさせる仕種だ。    「すみません。あの……こちらに行くよう言われて……来ました」  「あ、ああ。待ってたよ。僕は――」  「知ってます」   彼女は、歯切れよく続ける。「現在、注目度ナンバーワンのJaMさん、ですよね」 そして、たった今パウダーブラシで塗ったように、サッと頬を上気させた。   正しくは、僕ひとりを指す名前ではない。いわゆる、ブランド名だ。 僕らが立ち上げたファッションブランド【JaM】は、ここ最近で、かなり知名度をあげている。 ファッション雑誌の取材も増えたせいで、写真を撮られる機会も多くなった。 この娘も、そんな内の一冊から、僕の顔を見知ったに違いない。     だが、まあ、そういった世間話は後にしよう。 今は、悠長に構えていられない。すべきことが山積して、時間の余裕がなかった。  「着いた早々で悪いけど、すぐ準備してくれ。とにかく急いでるんだ。   おい、柏葉! この子の着替えとメイク、手伝ってあげて」 近くにいた女性スタッフに指示を出して、腕時計を睨む。 ギリギリか? 間に合ってくれよと独りごちて、僕は他のモデルの最終チェックを始めた。 なんとしても、あのドレスを……。有終の美を飾るのは、あのドレスでなければダメなのだ。       どうして、こんなに慌てているのか。その発端は、今朝のことだ。 数日前から体調を崩し気味だった専属モデルのフランス娘が、緊急入院した―― その電話連絡を受けて、僕は愕然としたし、大袈裟ではなく頭も抱えた。 ここのところ、体調が優れない様子だったから危ぶんではいたが、よりによって今日だとは。 普段ならば、ここまで困りはしない。こっちだって、プロの看板を掲げている身だ。 病気が日を選んでくれないことなど、百も承知。準備に抜かりはない。 不測の事態に備えて、【JaM】でも現在、3名の女性モデルと専属契約していた。 だが、今回のラストを飾る予定の一着は、特別な――いわゆる、着る人間を選ぶタイプ。 この新作ドレスが似合うモデルは、病に倒れたオディール嬢だけだった。 しかも、悪いことは重なるもので、お披露目できるのは今日しかない、ときている。 幾つもの大手ブランドが、数日間にわたって新作を発表してきた、このクリスマス・コレクション。 その最終日である今日、勝負を賭けて、一気に注目を集める作戦だったのに…… いまさら、一着だけ出品を取りやめるなんて、絶対にしたくない。 国内外を問わず、情報通の著名人たちが、今年最後となるショーをチェックしているのだから。   新進気鋭の僕ら【JaM】ブランドにとって、マーケットを広げる大きなチャンスだった。 だからこそ僕は、僅かばかりでも成功に近づくために、電話をしたのだ。 共同経営者にして、いまや人生のパートナーでもある彼女に――       ――そして、彼女の手配で来てくれた助っ人が、件の娘というワケだ。 しかし率直なところ、僕は、ほとんど期待していなかった。 どうせ都合がつくのは、人材派遣会社の契約スタッフだろう…… 自分のイメージにカチッと嵌まる女の子など、そうは居ないと高を括っていた。   ところが、どうしてどうして。 訪れた娘は、僕の予想の一切合切を、根底から覆してくれる逸材だった。 まず眼を惹くのが、緩いウェーブのかかった、艶やかな鳶色のロングヘアー。 くっきりとした顔立ち。深く澄んだ青い瞳。そして、均整の取れたスタイル。 妖しい色香のヴェールを秘やかに纏った、神秘的な魅力を匂わせる女の子だ。      「チーフ。着付け、これでいいかな。チェックしてください」   柏葉に請われて、ドレスを纏った乙女の周りを、ぐるり。 さすがに几帳面な柏葉だけあって、いつもながら手抜かりがない。 僕は頷くと、続けてメイクを急ぐように言った。 それにしても、モデルの娘も慣れているのか、堂々としたものだ。 若い男に、息がかかるくらいの間近で眺め回されているのに、狼狽えもしない。 どこをとっても、合格点だ。まったくもって申し分ない。 あとは、ステージでの歩き方など、即席で教え込めばいけそうだ……。        2.    「――いやはや、間一髪だったよ」   ショーは来賓の熱気と惜しみない拍手喝采に送られながら、静かに幕を下ろした。 関係者たちの【JaM】に対する反応も、まずまず、と言ったところ。 僕が相棒に成功を伝えたのは、雑誌社の簡単な取材に応じた後のことだ。 メールでもよかったけれど、彼女の声を聞きたかったから、電話をかけた。    「来てくれた娘が、見事に代役を務めてくれたからね。嬉しい誤算だった」  『お疲れさま。あたしも、今度ばかりは肝を冷やしたわよー。   でも、概ね好評でよかった。あなたの頑張りが、成功を引き寄せたのね』  「どっちかって言うと、優秀なスタッフのお陰だよ。僕ひとりの成果じゃない。   だから、全員で掴んだ成功だな、うん」   謙遜でもなく、僕は本心から、そう思っていた。 しかし、彼女はそれを、優等生の模範解答だと言う。    『あなたが統率したからこそ、みんなも個々の力を発揮できた――とは、思わない?』  「僕は、そんなに面倒見よくないって。成功することしか、頭になかったし。   もっと面白くなりそうだってのに、こんなところで躓いてられないからね」  『へぇえ……』  「なんだよ?」  『ちょっと、ね。あたしの旦那さまも、随分と、野心家になったものだなぁーって』   もしかして、あたしの影響なのかしら?  茶化す彼女に、「そうとしか考えられないね」と。 冗談半分に切り返して、僕は腕時計に目を落とした。そろそろ、時間だ。   ホテルの広間――ショー会場の隣室を借りての、アフターパーティー。 こういう席も、顧客や業界人と繋がりを作るための、貴重な営業の場だ。 ショー自体が展示即売会みたいなものだし、この場で購入を耳打ちされることも、少なくない。 さらに広い世界を目指す者にとっては、決して疎かにできない式典だ。    「帰りが遅くなるだろうし、先に休んでていいよ。   場合によっては、このままホテルに泊まるつもりだからさ」   それだけ伝えて、僕は通話を切った。     食事は、和洋折衷のビュッフェ形式。 飲み物やデザートも、いろいろ取り揃えてあって、目移りさせられるのだが…… ひっきりなしの社交辞令に忙殺されるあまり、僕は殆ど料理に箸をつけられずにいた。   こんな時、相棒の彼女が傍に居てくれたら―― 表向きは笑顔で談笑しつつも、肚裏では、そんな弱音を吐いてしまう。 でも、彼女は、今が大事な時期だ。甘えっぱなし、頼りっぱなしじゃいられない。     挨拶の人波が落ち着くと、僕はシャンパングラスを手に、窓際のソファに座った。 ずっと喋ってばかりだったから、口の中が乾ききって、ちょっと喉も痛い。 ソファの背もたれに肘を乗せ、ガラス張りの窓の外に広がる夜景を横目に、 ゆっくりとグラスを傾け、肺腑に澱んでいた重い息を吐き出した。    「あの……ぉ」   不意に、か細い声が、会場の喧噪に呑まれまいと足掻きながら、僕の耳にしがみついた。 誰だろう? 条件反射的に愛想笑って、声のした方へと振り返った。  「あれっ? きみは――」   ソファの前に立って、不安そうに僕を見おろしていたのは、鳶色の髪の乙女。 僕のデザインしたライトグリーンのドレスに身を包んだ、あの助っ人モデルの娘だった。   白くほっそりした両腕に、ちまちまと料理を盛りつけた紙皿を携えて―― 少しばかり、くたびれた面持ちをしている。 僕と同様、つい先程まで十重二十重とカメラに囲まれていたから、気疲れたらしい。 紙皿の一方を、おずおずと差し出しながら、彼女は緊張で震える声を絞りだした。    「お料理……いかがですか? 適当に、取り分けてきましたけど」   やっと人混みから解放されて、これから軽く食事をするところか。 僕としても、なにか腹に入れたいと思っていたので、素直に腕を伸ばした。    「ありがとう。けどさ……手掴みで食べるのかい、これ」  「えっ? あ、あっ、お箸わすれたっ!」  「取ってくるよ。きみは、座って待ってて」   近くのテーブルから二人分の箸と、飲み物のグラスを持って、ソファに引き返す。 よほど自分の失態が恥ずかしかったのか、彼女は耳まで赤くして、俯いていた。    「お待たせ。飲み物は、烏龍茶でよかったかい」  「は、はいっ。すみません。なんだか、却って気を遣わせてしまったみたいで」  「気にしなくていいよ。恩人には、礼を以て尽くすものだし」  「え?」  「今日のこと。あのドレスを出せなかったら、不本意な結果で終わってたはずだ。   大成功に漕ぎ着けられたのは、きみのお陰さ。本当に感謝してる」  「そんな……ヨイショしすぎですぅ~」 あまり褒められ慣れていないのか、彼女は頬に手を当てて、へにゃへにゃと笑った。 ステージに立っているときは、堂々としていて、貫禄すら感じたけど…… こうして見る限り、素は内気な娘らしい。    「偽らざる本音だよ。そう思ってるのは、たぶん、僕だけじゃない」   ソファに腰を降ろして、僕は、手にしたグラスを差し出す。「きみの魅力に」 「……キザなのね」彼女は鼻を鳴らして、頬を上気させた。「ショーの成功に」    「――乾杯」   そっと控えめに……。挨拶がわりのキスのように軽く、ふたつのグラスが触れ合う。 堅く澄んだ音が、ひとつ。傾けられた彼女のコップの中で、氷がくるりと回った。 僕はシャンパンで、彼女は烏龍茶で口を湿らし喉を潤して、箸を手にする。 二人が最初に口に運んだ料理は、奇しくも、ほんわりと湯気の昇る小籠包だった。    「ああ、そう言えば――」   火傷しないように小籠包を嚥下して、僕は切り出した。 いきなりではないつもりだったが、隣で「ぅんっ?!」と…… 意表を衝かれたかのような呻き声が上がった。 見れば、彼女は小籠包を頬張った状態で、目を白黒させている。    「ナニやってんだよ。そんなに慌てて食べなくたって……ほら、飲み物」   身を乗り出し、彼女の醜態を覆い隠しつつ、僕は、烏龍茶のグラスを手にする。 しかし、慌てた彼女は、箸を放り出すや別のグラスをひっ掴んで、一気に飲み干してしまった。 それ、僕の飲みかけのシャンパン……って言っても、もう手遅れ。 酒を呑まそうと企んで烏龍茶を取りあげたわけじゃない、とだけ釈明しておく。    「――はふぅ。危うく死んじゃうところでした。貴方は命の恩人です」  「えっと……まあ、アレだ。不慮の事故だよな、事故……ははは」  「ホント、お餅を喉に詰まらせる事故って、毎年、お正月に聞きますよね」  「そうじゃなくて……いや、まあ……いいや、なんでも」  「ん? あ、ところで、さっき何か言いかけてませんでしたっけ」   問われて、今度は僕が、言葉を呑み込んでしまった。 なんの話だっけ? 首を傾げ、思案に沈むこと、暫し――突如として思い出した。 たぶん、そのときの僕は、頭の上に電球を灯したようなマヌケ顔をしてたはずだ。    「そうそう。自己紹介が、まだだったなぁって。僕の名前は……」   言って、ブレザーから名刺を取り出そうとした手を、彼女の手が、そっと遮る。    「知ってますよ。桜田ジュンさん……でしょう?」  「うん。雑誌のインタビュー記事かなにかで、僕の写真を見たの?」   彼女はニッコリ微笑んで、首を横に振った。    「もっと、ずぅっと前から。そう……貴方がデビューするより昔から、です」  「本当かい? きみの勘違いじゃなくて?」  「ええ。ホントですよ」   貴方は、忘れてしまったのかしら。 彼女の深い碧瞳が、語られなかった言葉の続きを、投げかけてくる。   だけど、僕は思い出せなかった。 どれだけ回想しても、この娘を記憶の中で捕まえることが、できなかった。        【2】に続く
     1.    その瞬間、思わず息を呑んでいた。 ありがちなドラマのワンシーンみたいに。   息を弾ませ、控え室であるホテルの一室に飛び込んできた、可憐にして鮮烈な印象の乙女。 予想だにしていなかった衝撃で、言葉は疎か、瞬きさえも忘れてしまった僕は、 ただただマヌケに口を開いたまま、彼女の美しさに見惚れるばかりだった。   足元が覚束ないのは、立ち眩みだろうか。 それとも、この胸に感じる、締めつけるような鈍痛のせい?    「あ……えっと」   泳いでいた彼女の瞳が、僕を捉えた。躊躇いがちに、ぎこちなく笑いかけてくる。 奥ゆかしく、初々しい。けれど、どこか得体の知れなさを感じさせる仕種だ。    「すみません。あの……こちらに行くよう言われて……来ました」  「あ、ああ。待ってたよ。僕は――」  「知ってます」   彼女は、歯切れよく続ける。「現在、注目度ナンバーワンのJaMさん、ですよね」 そして、たった今パウダーブラシで塗ったように、サッと頬を上気させた。   正しくは、僕ひとりを指す名前ではない。いわゆる、ブランド名だ。 僕らが立ち上げたファッションブランド【JaM】は、ここ最近で、かなり知名度をあげている。 ファッション雑誌の取材も増えたせいで、写真を撮られる機会も多くなった。 この娘も、そんな内の一冊から、僕の顔を見知ったに違いない。     だが、まあ、そういった世間話は後にしよう。 今は、悠長に構えていられない。すべきことが山積して、時間の余裕がなかった。  「着いた早々で悪いけど、すぐ準備してくれ。とにかく急いでるんだ。   おい、柏葉! この子の着替えとメイク、手伝ってあげて」 近くにいた女性スタッフに指示を出して、腕時計を睨む。 ギリギリか? 間に合ってくれよと独りごちて、僕は他のモデルの最終チェックを始めた。 なんとしても、あのドレスを……。有終の美を飾るのは、あのドレスでなければダメなのだ。       どうして、こんなに慌てているのか。その発端は、今朝のことだ。 数日前から体調を崩し気味だった専属モデルのフランス娘が、緊急入院した―― その電話連絡を受けて、僕は愕然としたし、大袈裟ではなく頭も抱えた。 ここのところ、体調が優れない様子だったから危ぶんではいたが、よりによって今日だとは。 普段ならば、ここまで困りはしない。こっちだって、プロの看板を掲げている身だ。 病気が日を選んでくれないことなど、百も承知。準備に抜かりはない。 不測の事態に備えて、【JaM】でも現在、3名の女性モデルと専属契約していた。 だが、今回のラストを飾る予定の一着は、特別な――いわゆる、着る人間を選ぶタイプ。 この新作ドレスが似合うモデルは、病に倒れたオディール嬢だけだった。 しかも、悪いことは重なるもので、お披露目できるのは今日しかない、ときている。 幾つもの大手ブランドが、数日間にわたって新作を発表してきた、このクリスマス・コレクション。 その最終日である今日、勝負を賭けて、一気に注目を集める作戦だったのに…… いまさら、一着だけ出品を取りやめるなんて、絶対にしたくない。 国内外を問わず、情報通の著名人たちが、今年最後となるショーをチェックしているのだから。   新進気鋭の僕ら【JaM】ブランドにとって、マーケットを広げる大きなチャンスだった。 だからこそ僕は、僅かばかりでも成功に近づくために、電話をしたのだ。 共同経営者にして、いまや人生のパートナーでもある彼女に――       ――そして、彼女の手配で来てくれた助っ人が、件の娘というワケだ。 しかし率直なところ、僕は、ほとんど期待していなかった。 どうせ都合がつくのは、人材派遣会社の契約スタッフだろう…… 自分のイメージにカチッと嵌まる女の子など、そうは居ないと高を括っていた。   ところが、どうしてどうして。 訪れた娘は、僕の予想の一切合切を、根底から覆してくれる逸材だった。 まず眼を惹くのが、緩いウェーブのかかった、艶やかな鳶色のロングヘアー。 くっきりとした顔立ち。深く澄んだ青い瞳。そして、均整の取れたスタイル。 妖しい色香のヴェールを秘やかに纏った、神秘的な魅力を匂わせる女の子だ。      「チーフ。着付け、これでいいかな。チェックしてください」   柏葉に請われて、ドレスを纏った乙女の周りを、ぐるり。 さすがに几帳面な柏葉だけあって、いつもながら手抜かりがない。 僕は頷くと、続けてメイクを急ぐように言った。 それにしても、モデルの娘も慣れているのか、堂々としたものだ。 若い男に、息がかかるくらいの間近で眺め回されているのに、狼狽えもしない。 どこをとっても、合格点だ。まったくもって申し分ない。 あとは、ステージでの歩き方など、即席で教え込めばいけそうだ……。        2.    「――いやはや、間一髪だったよ」   ショーは来賓の熱気と惜しみない拍手喝采に送られながら、静かに幕を下ろした。 関係者たちの【JaM】に対する反応も、まずまず、と言ったところ。 僕が相棒に成功を伝えたのは、雑誌社の簡単な取材に応じた後のことだ。 メールでもよかったけれど、彼女の声を聞きたかったから、電話をかけた。    「来てくれた娘が、見事に代役を務めてくれたからね。嬉しい誤算だった」  『お疲れさま。あたしも、今度ばかりは肝を冷やしたわよー。   でも、概ね好評でよかった。あなたの頑張りが、成功を引き寄せたのね』  「どっちかって言うと、優秀なスタッフのお陰だよ。僕ひとりの成果じゃない。   だから、全員で掴んだ成功だな、うん」   謙遜でもなく、僕は本心から、そう思っていた。 しかし、彼女はそれを、優等生の模範解答だと言う。    『あなたが統率したからこそ、みんなも個々の力を発揮できた――とは、思わない?』  「僕は、そんなに面倒見よくないって。成功することしか、頭になかったし。   もっと面白くなりそうだってのに、こんなところで躓いてられないからね」  『へぇえ……』  「なんだよ?」  『ちょっと、ね。あたしの旦那さまも、随分と、野心家になったものだなぁーって』   もしかして、あたしの影響なのかしら?  茶化す彼女に、「そうとしか考えられないね」と。 冗談半分に切り返して、僕は腕時計に目を落とした。そろそろ、時間だ。   ホテルの広間――ショー会場の隣室を借りての、アフターパーティー。 こういう席も、顧客や業界人と繋がりを作るための、貴重な営業の場だ。 ショー自体が展示即売会みたいなものだし、この場で購入を耳打ちされることも、少なくない。 さらに広い世界を目指す者にとっては、決して疎かにできない式典だ。    「帰りが遅くなるだろうし、先に休んでていいよ。   場合によっては、このままホテルに泊まるつもりだからさ」   それだけ伝えて、僕は通話を切った。     食事は、和洋折衷のビュッフェ形式。 飲み物やデザートも、いろいろ取り揃えてあって、目移りさせられるのだが…… ひっきりなしの社交辞令に忙殺されるあまり、僕は殆ど料理に箸をつけられずにいた。   こんな時、相棒の彼女が傍に居てくれたら―― 表向きは笑顔で談笑しつつも、肚裏では、そんな弱音を吐いてしまう。 でも、彼女は、今が大事な時期だ。甘えっぱなし、頼りっぱなしじゃいられない。     挨拶の人波が落ち着くと、僕はシャンパングラスを手に、窓際のソファに座った。 ずっと喋ってばかりだったから、口の中が乾ききって、ちょっと喉も痛い。 ソファの背もたれに肘を乗せ、ガラス張りの窓の外に広がる夜景を横目に、 ゆっくりとグラスを傾け、肺腑に澱んでいた重い息を吐き出した。    「あの……ぉ」   不意に、か細い声が、会場の喧噪に呑まれまいと足掻きながら、僕の耳にしがみついた。 誰だろう? 条件反射的に愛想笑って、声のした方へと振り返った。  「あれっ? きみは――」   ソファの前に立って、不安そうに僕を見おろしていたのは、鳶色の髪の乙女。 僕のデザインしたライトグリーンのドレスに身を包んだ、あの助っ人モデルの娘だった。   白くほっそりした両腕に、ちまちまと料理を盛りつけた紙皿を携えて―― 少しばかり、くたびれた面持ちをしている。 僕と同様、つい先程まで十重二十重とカメラに囲まれていたから、気疲れたらしい。 紙皿の一方を、おずおずと差し出しながら、彼女は緊張で震える声を絞りだした。    「お料理……いかがですか? 適当に、取り分けてきましたけど」   やっと人混みから解放されて、これから軽く食事をするところか。 僕としても、なにか腹に入れたいと思っていたので、素直に腕を伸ばした。    「ありがとう。けどさ……手掴みで食べるのかい、これ」  「えっ? あ、あっ、お箸わすれたっ!」  「取ってくるよ。きみは、座って待ってて」   近くのテーブルから二人分の箸と、飲み物のグラスを持って、ソファに引き返す。 よほど自分の失態が恥ずかしかったのか、彼女は耳まで赤くして、俯いていた。    「お待たせ。飲み物は、烏龍茶でよかったかい」  「は、はいっ。すみません。なんだか、却って気を遣わせてしまったみたいで」  「気にしなくていいよ。恩人には、礼を以て尽くすものだし」  「え?」  「今日のこと。あのドレスを出せなかったら、不本意な結果で終わってたはずだ。   大成功に漕ぎ着けられたのは、きみのお陰さ。本当に感謝してる」  「そんな……ヨイショしすぎですぅ~」 あまり褒められ慣れていないのか、彼女は頬に手を当てて、へにゃへにゃと笑った。 ステージに立っているときは、堂々としていて、貫禄すら感じたけど…… こうして見る限り、素は内気な娘らしい。    「偽らざる本音だよ。そう思ってるのは、たぶん、僕だけじゃない」   ソファに腰を降ろして、僕は、手にしたグラスを差し出す。「きみの魅力に」 「……キザなのね」彼女は鼻を鳴らして、頬を上気させた。「ショーの成功に」    「――乾杯」   そっと控えめに……。挨拶がわりのキスのように軽く、ふたつのグラスが触れ合う。 堅く澄んだ音が、ひとつ。傾けられた彼女のコップの中で、氷がくるりと回った。 僕はシャンパンで、彼女は烏龍茶で口を湿らし喉を潤して、箸を手にする。 二人が最初に口に運んだ料理は、奇しくも、ほんわりと湯気の昇る小籠包だった。    「ああ、そう言えば――」   火傷しないように小籠包を嚥下して、僕は切り出した。 いきなりではないつもりだったが、隣で「ぅんっ?!」と…… 意表を衝かれたかのような呻き声が上がった。 見れば、彼女は小籠包を頬張った状態で、目を白黒させている。    「ナニやってんだよ。そんなに慌てて食べなくたって……ほら、飲み物」   身を乗り出し、彼女の醜態を覆い隠しつつ、僕は、烏龍茶のグラスを手にする。 しかし、慌てた彼女は、箸を放り出すや別のグラスをひっ掴んで、一気に飲み干してしまった。 それ、僕の飲みかけのシャンパン……って言っても、もう手遅れ。 酒を呑まそうと企んで烏龍茶を取りあげたわけじゃない、とだけ釈明しておく。    「――はふぅ。危うく死んじゃうところでした。貴方は命の恩人です」  「えっと……まあ、アレだ。不慮の事故だよな、事故……ははは」  「ホント、お餅を喉に詰まらせる事故って、毎年、お正月に聞きますよね」  「そうじゃなくて……いや、まあ……いいや、なんでも」  「ん? あ、ところで、さっき何か言いかけてませんでしたっけ」   問われて、今度は僕が、言葉を呑み込んでしまった。 なんの話だっけ? 首を傾げ、思案に沈むこと、暫し――突如として思い出した。 たぶん、そのときの僕は、頭の上に電球を灯したようなマヌケ顔をしてたはずだ。    「そうそう。自己紹介が、まだだったなぁって。僕の名前は……」   言って、ブレザーから名刺を取り出そうとした手を、彼女の手が、そっと遮る。    「知ってますよ。桜田ジュンさん……でしょう?」  「うん。雑誌のインタビュー記事かなにかで、僕の写真を見たの?」   彼女はニッコリ微笑んで、首を横に振った。    「もっと、ずぅっと前から。そう……貴方がデビューするより昔から、です」  「本当かい? きみの勘違いじゃなくて?」  「ええ。ホントですよ」   貴方は、忘れてしまったのかしら。 彼女の深い碧瞳が、語られなかった言葉の続きを、投げかけてくる。   だけど、僕は思い出せなかった。 どれだけ回想しても、この娘を記憶の中で捕まえることが、できなかった。        [[【2】に続く>カムフラージュ 【2】]]

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