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「『パステル』 -13-」(2008/11/12 (水) 00:55:54) の最新版変更点
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<p align="left"> <br />
<br />
静寂だけが随所に鏤められた、茫洋たる空間。<br />
凍てつくような夜の冷気に包まれて、ソレは、眠っていた。<br />
威圧的ですらある巨体に、数多の人間を呑み込んで、ひっそりと……。<br />
ソレの正式な名称は、有栖川大学病院、という。<br />
<br />
重たい――としか喩えようのない、漆黒と気配に満ちた、1階ロビー。<br />
ハエの羽音のように、うるさく絡みついてくるのは、自動販売機のノイズ。<br />
彼女たちは硬い表情のまま、自販機の脇にあるソファーで身を寄せ合っていた。<br />
夜闇の中で、灯りに群がる昆虫のように、身じろぎもせず。<br />
<br />
「大丈夫なのよ、きっと」<br />
<br />
沈黙に押し潰されまいと、雛苺は両手をグッと握り、努めて明るく言う。<br />
だが、そんな気休めは却って、隣で項垂れている水銀燈のココロを逆撫でた。<br />
<br />
「どうして、そう言い切れるのよ」<br />
<br />
水銀燈は、僅かに顔を斜にして、雛苺を睥睨した。<br />
<br />
「安っぽい慰めなんか、聞きたくないわ。苛つくわね」<br />
「うゅ……ごめんなさい、なの」<br />
<br />
雛苺の胸に去来する、罪悪感。こうしてしまったのは、自分。<br />
独りよがりの、お節介だったのだろうか。<br />
真紅と水銀燈を、焦って引き合わせるべきでは、なかったのだろうか。<br />
こんなことに、なるくらいだったら――<br />
<br />
じわ……。雛苺の目頭が、にわかに熱を帯びる。<br />
でも、泣いたら余計に、水銀燈を怒らせてしまいそうだから……<br />
雛苺は手の甲で、ぐしぐしと瞼を擦って、涙を堪えた。<br />
<br />
<br />
そんな健気な様子を、横目に盗み見ていた水銀燈は、<br />
<br />
「謝らないでよ」<br />
<br />
俯いたまま、呟いた。気まずそうに。「謝られたら、もっと惨めになるから」<br />
雛苺は、ゆるゆると頭を振って、応じる。<br />
<br />
「だけど、ヒナも無神経すぎたの」<br />
「そうじゃなくて……私のは、ただの八つ当たりよ。貴女は悪くないわ」<br />
<br />
言って、水銀燈はアタマを抱え込み、無造作に髪を握りしめた。<br />
<br />
「私って、いつも、そう。やっぱり、逢うべきじゃなかった」<br />
「ど、どうして?」<br />
<br />
雛苺には、理解できない。「なんで、そんな風に言うの?」<br />
その問いに返ってくるのは、沈黙。<br />
真紅のこととなると、彼女の口は、途端に重くなる。<br />
<br />
それが、あの大事故に端を発していることは、雛苺にも分かる。<br />
だが、そこまで意地を張るだけの理由、確執……それが解らない。<br />
真紅を愚かだと嘲っておきながら、水銀燈もまた、気に病み続けている。<br />
<br />
「真紅と、仲直りしたいんじゃないの?<br />
ずっと一緒にって、約束したんじゃなかったなの?」<br />
<br />
ぴくり。水銀燈が、背中を震わせる。「――だから、よ」<br />
なにが、だから、なのか。<br />
雛苺が問うより先に、水銀燈は続けた。「私は、疫病神だから……」<br />
<br />
「そ、そんなの、一時の気の迷いなのよ!<br />
真紅だって悔やんでるわ。ココロにもないことを言っちゃった、って」<br />
「……おめでたいわねぇ。そんなの、体の良い、後から取って付けた口実だわ。<br />
あの子はどこかで、私を疎んじていたのよ。<br />
だから、『疫病神』だなんて罵りが、即座に口を衝いて出たんだわ」<br />
<br />
口は心の門と言うでしょう? 水銀燈の切り返しに、雛苺は言葉をなくした。<br />
なんで、ネガティブにしか考えられないの? <br />
その問いかけが、雛苺の胸中にだけ、虚しく谺する。<br />
<br />
メンタルな後遺症。トラウマ。<br />
カウンセラーですらない雛苺には、どう慰めれば良いのかも解らない。<br />
言葉を尽くせないのなら、せめて仕種で……とは、思うのだけれど。<br />
<br />
言いたいだけ言って、水銀燈はいじけたように、また上体を蹲らせた。<br />
その背中は、とても、とても、小さく見えた。<br />
誇張ではなく、その姿は無力な少女のようでさえあった。<br />
<br />
なんとか、してあげたい。<br />
たとえ、独りよがりの、お節介だったとしても……それでも。<br />
今よりは、みんなが笑顔でいられる世界を、雛苺は望んだ。<br />
<br />
(あの、パステルでなら――)<br />
<br />
脳裏に閃いた電光が、雛苺の暗く沈んだココロに、明かりを灯した。<br />
自分にできるのは、絵を描くことぐらいだ。<br />
でも、それで、水銀燈の聞こえざる慟哭を和らげてあげられるのなら……<br />
そうすることに吝かでない。<br />
<br />
<br />
「ねえ、聞いて」<br />
<br />
そっ……と。雛苺は、水銀燈の背中を撫でながら、唇を開いた。<br />
<br />
数日前、幼なじみの青年に、不思議なパステルを譲られたこと。<br />
ほんの気まぐれの旅が、真紅との邂逅をもたらしたこと。<br />
彼女に微笑んで欲しくて、モデルになってもらったこと。<br />
すべての経緯を、水銀燈に話して聞かせた。<br />
<br />
「そしたらね、真紅は本当に、絵のとおりに笑ってくれたのよー。<br />
あのパステルは、きっと本物の、魔法の道具なの」<br />
「だから……なに?」<br />
「ヒナが、描いてあげるの! 銀ちゃんを、笑顔にしてあげるのよ」<br />
<br />
水銀燈は顔を上げて、雛苺の顔を、しげしげと見つめた。<br />
そして、ふっ……と。<br />
力なく鼻先で笑って、瞳を逸らした。「遠慮しとくわぁ」<br />
<br />
どこまでも依怙地に徹するつもりなのか。<br />
これで良いのだと、自らのココロさえも騙し続けて……<br />
挙げ句、現実から乖離する虚像に縛られ、ずっと独りで泣き暮らす気なのか。<br />
<br />
そんなのは、おかしい。間違ってる。美談でも、美徳でもない。<br />
雛苺は、猛然と食ってかかろうとした。<br />
しかし、機先を制したのは、やはり水銀燈だった。<br />
<br />
「私なんかのために描く暇があるのなら、おまぬけ真紅でも描いたらいいわ。<br />
描けば現実になるんでしょぉ? あの子の右腕を、元どおりにしてみなさいよ」<br />
<br />
なるほど。やはり、禍根は、そこにある。<br />
水銀燈が恐れているのは、真紅に傷つけられることではなく――<br />
<br />
「真紅を、もう傷つけたくなかったのね」<br />
<br />
訊ねた雛苺に、水銀燈は、なにも答えない。図星だから。<br />
彼女の沈黙は、正鵠を得たことの肯定に他ならなかった。<br />
<br />
「姿を消して、別人に扮してたのは、自分を許せなかったから?」<br />
「……気に入らなかっただけよ。真紅に依存しきってた、無様な生活に嫌気がさしたの」<br />
「どっちにしても、自分に厳しい人なのね、銀ちゃんって」<br />
<br />
雛苺の言葉を、水銀燈はいつものように、鼻で嘲り飛ばす。<br />
けれど、いつものような勢いは、そこにない。<br />
もしかして、彼女なりの微笑……だったのだろうか。<br />
<br />
「仕方ないじゃない。子供の頃から、持病のせいで、ずっと疎まれてきたわ。<br />
悪いのは、周りに合わせられない私なんだって思わされてたら、卑屈にもなるわよ。<br />
独りのときは、いつも、メソメソしていたっけ」<br />
「だけど、真紅は違ったのよ。手を差し伸べてくれたのよね?」<br />
「……ええ。だけど、あのとき……疫病神と罵られたとき、私は気づいたわ。<br />
私という存在は、真紅にとって、足枷に過ぎなかったんだって」<br />
「だから、それは――」<br />
<br />
錯乱した真紅の、ただ一度の失言。<br />
声を出しかけて、雛苺は、徐に口を閉ざした。<br />
ぐるぐると、ただ虚しさが巡るだけ……。そう思ったからだ。<br />
<br />
「銀ちゃんは、自分を責めすぎなのよ。そんなの……あんまりなの」<br />
<br />
先天性の病を患ったことは、水銀燈のせいではない。<br />
真紅が右腕を失った事故にしても、諸々の不運が重なった結果だ。<br />
それなのに、彼女は、すべての非が自分にあるように思い込んでいる。<br />
ありもしない壁、錯覚の風景、進路を塞ぐ様々な幻影を生みだして、<br />
目に映る現実世界さえも、歪めてしまっている。<br />
<br />
では、どうしたらいい? 考えても、妙案など思いつかない。<br />
やはり、彼女の願いを聞き入れて、少しばかりの慰めに縋るしかないのか。<br />
<br />
「……解ったなの。ヒナ、真紅の右腕を、描いてみるのよ」<br />
<br />
本当に? 水銀燈が、無邪気な子供のように瞳を輝かせる。<br />
雛苺も、満面の笑顔で、頷き返すが――<br />
<br />
<br />
「勝手に決めないでちょうだい!」<br />
<br />
凛とした声に叩かれ、水銀燈と2人して、ビクンと肩を竦めた。<br />
そぉ~っと振り向けば、そこには、看護士に支えられた真紅の姿があった。<br />
<br />
「なんの相談をしているのかと思えば、まったく……<br />
前にも言ったでしょう、雛苺。私は、今のままで構わないのだわ」<br />
<br />
看護士が、夜だから静粛にと諫めるが、真紅は逆に「口を挟まないで!」と。<br />
桑田というネームプレートを着けた若い看護士は、気圧されて沈黙した。<br />
<br />
「貴女もよ、水銀燈。私の右腕のことなんて、貴女が気に病む問題ではないわ」<br />
「だけど、真紅――」<br />
「片腕だって、誇りさえ失わなければ、気高く生きられるわ。<br />
欠落したからと言って、すべてが終わるわけではないのよ」<br />
<br />
真紅は、看護士を促して水銀燈の前まで歩み寄ると、左手を伸ばした。<br />
そして、水銀燈の頭を、愛おしそうに撫でた。<br />
<br />
「だから、貴女も、貴女として生きなさい。胸を張って、誇り高く生きて」<br />
<br />
水銀燈は、呆けたように真紅を見上げていた。<br />
その瞳が、見る見るうちに、潤んでゆく。<br />
<br />
「だったら、私は真紅の右腕として、生きていくわ」<br />
「気持ちは、とても嬉しいわ。本当よ。貴女の想いは、なによりも尊い宝物。<br />
それは確かに、私のココロにある。だから、もう充分なのだわ」<br />
「……私が側にいると、迷惑?」<br />
「そうじゃないわ。これ以上、貴女を縛り付けて、苦しめたくないの。<br />
右腕の代わりとして生きれば、貴女にはずっと、呵責が付きまとうでしょう。<br />
私はね、水銀燈……貴女には、あの頃みたいに……<br />
もっと自由奔放な、美しいライバルであって欲しいと……そう思っているのよ」<br />
<br />
水銀燈に注がれる真紅の眼差しは、聖母のような慈愛に満ちあふれていた。<br />
「だから、ね。もういいの。贖罪に人生を費やそうだなんて、考えないで」<br />
<br />
それは、真紅自身にも向けられた言葉なのね。<br />
会話に耳を傾けながら、雛苺は、そう思った。<br />
彼女もまた、水銀燈への贖罪の意識を引きずりながら、今日まで生きてきた――<br />
どれほど時が経とうとも、決して癒えることのない痛みと苦しみを抱いて。<br />
でも、もう終わり。一緒に重荷を捨てましょう。真紅の瞳が、そう語っていた。<br />
<br />
「でも、それでは貴女の気が済まないのであれば、そうね……<br />
ときどき、気が向いたらでいいから、ティータイムに付き合ってちょうだい。<br />
取り留めのないお喋りを、一緒に愉しんでくれると、嬉しいのだけど」<br />
「…………やぁよ。誰が、そんな、おままごとなんかに」<br />
「ダメなの?」<br />
「そ、そんな哀しそうな顔したって…………ああ、もぅ。しょうがないわねぇ。<br />
だったら、ときどきと言わず、毎日でも遊んであげるから、覚悟しときなさいよぉ」<br />
<br />
どうして、覚悟しないといけないのか?<br />
涙を堪えて強がろうとするあまりに、支離滅裂になっている様子だ。<br />
真紅も、雛苺も、看護士の桑田さんも、言った水銀燈本人でさえ、失笑を禁じ得ず。<br />
暗かったロビーを、束の間、華やいだ空気が満たした。<br />
<br />
「それで」<br />
<br />
ひとしきり和んだ後、頃合いを見計らって、雛苺が切り出した。<br />
「検査の結果は、どうだったの?」<br />
<br />
歩いて、会話できるほどなのだから、大過ないことは確かだ。<br />
真紅は微笑み、しっかりと首肯して見せた。<br />
<br />
「大きな異常は、見つからなかったわ。ホーリエが受け止めてくれたお陰ね。<br />
ただ、大事をとって2、3日ほど検査入院することにしたけれど」<br />
「じゃあ、着替えとか要るのね。場所さえ教えてくれれば、ヒナが――」<br />
「ありがとう。でも、それは朝になったら、サラに電話して頼んでおくわ」<br />
<br />
話は、それでおしまい。<br />
真紅たちは桑田さんに連れられて、静まり返る病棟へと向かった。<br />
<br />
<br />
~ ~ ~<br />
<br />
<br />
割り当てられた病室は、4人部屋だった。……が、患者は、真紅だけ。<br />
<br />
「なんだか、広い部屋に独りぼっちだと、寂しい感じなのー」<br />
「あら。私にとっては、普段と大差ないわよ」<br />
<br />
気兼ねがなくていいわ。ベッドの上から、真紅が素っ気なく言う。<br />
なるほど、ものは考えようだ。<br />
他の患者がいたら、こんな風に、夜中の会話もできなかっただろう。<br />
<br />
「ところで、さっきから考えていたのだけれど」<br />
<br />
と、真紅。<br />
いたって真剣な口振りに、雛苺と水銀燈は、なにごとかとベッドを覗き込んだ。<br />
<br />
「雛苺の持っている、不思議なパステル……まだ使えるのかしら」<br />
「うい。でも、あの――もしかしたら、なんだけど」<br />
「なにか気懸かりなことでも?」<br />
「効力は、3回までかも知れないのよ」<br />
<br />
とかく、旨い話には、限度とペナルティが存在するものだ。<br />
ありがちな話だと思ったのか、真紅と水銀燈は、黙って頷いた。<br />
<br />
「試しで使って、その後に私を描いたから、残りは1回という計算ね?」<br />
「そうなの。なにを描くかは、まだ決めてないのよ」<br />
<br />
さっきは真紅の右腕を治してみると言ったが、ああも本人に反対されては描けない。<br />
それについては、水銀燈も納得しているようで、異存は出てこなかった。<br />
<br />
真紅は、「よかったわ」と吐息すると、瞑想するように、瞼を降ろした。<br />
<br />
「それなら、最後の1回で、描いて欲しい絵があるのだけれど」<br />
<br />
なにを? 小首を傾げて、雛苺は、水銀燈と顔を見合わせる。<br />
目を閉ざしたままの真紅が、2人の奇妙な様子を、気にするはずもなく。<br />
<br />
「あのパステルで、水銀燈の病気を治してあげられないかしら?」<br />
<br />
これには、雛苺も、水銀燈も、眉間に皺を刻まずにいられなかった。<br />
<br />
「んと……。ヒナもね、銀ちゃんには元気になってもらいたいのよ。<br />
でも、お医者さんじゃないから、どんな絵を描けばいいのか、解らないの」<br />
「真紅ぅ……貴女、やっぱり頭を打ってたんじゃなぁい?」<br />
<br />
――などと。水銀燈は、あからさまに眉を曇らせ、真紅の額に手を当てる始末だ。<br />
<br />
「いつにも増して、おバカさんに輪が掛かってるわ」<br />
「うるさいわね。バカって言った方がバカなのよ」<br />
「あらぁ。久々に聞けたわねぇ、その子供じみたリアクション」<br />
<br />
からかいながらも、「まぁ……確かに、バカはお互い様だわねぇ」と。<br />
水銀燈は、ふと口元に自嘲を浮かべて、雛苺へと眼を向けた。<br />
<br />
「折角だけど、謹んで辞退するわぁ。薬さえ服用していれば、私は平気だし。<br />
真紅が今のままを貫くのなら、私だって、ありのままに生きてみせるわよ。<br />
その代わり――と言っては何なんだけどぉ」<br />
<br />
もし、できるのであれば……。くどいほどに前置いて、水銀燈が切り出す。<br />
<br />
「あの娘を……めぐを、救ってあげてちょうだい。<br />
たとえ完治させられなくても、せめて、もう少しだけ猶予を与えてあげて。<br />
今、めぐに必要なのは、時間なのよ」<br />
<br />
<br />
<br />
-<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/4068.html">to be
continued</a>-<br />
<br />
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<br />
静寂だけが随所に鏤められた、茫洋たる空間。<br />
凍てつくような夜の冷気に包まれて、ソレは、眠っていた。<br />
威圧的ですらある巨体に、数多の人間を呑み込んで、ひっそりと……。<br />
ソレの正式な名称は、有栖川大学病院、という。<br />
<br />
重たい――としか喩えようのない、漆黒と気配に満ちた、1階ロビー。<br />
ハエの羽音のように、うるさく絡みついてくるのは、自動販売機のノイズ。<br />
彼女たちは硬い表情のまま、自販機の脇にあるソファーで身を寄せ合っていた。<br />
夜闇の中で、灯りに群がる昆虫のように、身じろぎもせず。<br />
<br />
「大丈夫なのよ、きっと」<br />
<br />
沈黙に押し潰されまいと、雛苺は両手をグッと握り、努めて明るく言う。<br />
だが、そんな気休めは却って、隣で項垂れている水銀燈のココロを逆撫でた。<br />
<br />
「どうして、そう言い切れるのよ」<br />
<br />
水銀燈は、僅かに顔を斜にして、雛苺を睥睨した。<br />
<br />
「安っぽい慰めなんか、聞きたくないわ。苛つくわね」<br />
「うゅ……ごめんなさい、なの」<br />
<br />
雛苺の胸に去来する、罪悪感。こうしてしまったのは、自分。<br />
独りよがりの、お節介だったのだろうか。<br />
真紅と水銀燈を、焦って引き合わせるべきでは、なかったのだろうか。<br />
こんなことに、なるくらいだったら――<br />
<br />
じわ……。雛苺の目頭が、にわかに熱を帯びる。<br />
でも、泣いたら余計に、水銀燈を怒らせてしまいそうだから……<br />
雛苺は手の甲で、ぐしぐしと瞼を擦って、涙を堪えた。<br />
<br />
そんな健気な様子を、横目に盗み見ていた水銀燈は、「謝らないでよ」<br />
俯いたまま、呟いた。気まずそうに。「謝られたら、もっと惨めになるから」<br />
雛苺は、ゆるゆると頭を振って、応じる。<br />
<br />
「だけど、ヒナも無神経すぎたの」<br />
「そうじゃなくて……私のは、ただの八つ当たりよ。貴女は悪くないわ」<br />
<br />
言って、水銀燈はアタマを抱え込み、無造作に髪を握りしめた。<br />
<br />
「私って、いつも、そう。やっぱり、逢うべきじゃなかった」<br />
「ど、どうして?」<br />
<br />
雛苺には、理解できない。「なんで、そんな風に言うの?」<br />
その問いに返ってくるのは、沈黙。<br />
真紅のこととなると、彼女の口は、途端に重くなる。<br />
<br />
それが、あの大事故に端を発していることは、雛苺にも分かる。<br />
だが、そこまで意地を張るだけの理由、確執……それが解らない。<br />
真紅を愚かだと嘲っておきながら、水銀燈もまた、気に病み続けている。<br />
<br />
「真紅と、仲直りしたいんじゃないの?<br />
ずっと一緒にって、約束したんじゃなかったなの?」<br />
<br />
ぴくり。水銀燈が、背中を震わせる。「――だから、よ」<br />
なにが、だから、なのか。<br />
雛苺が問うより先に、水銀燈は続けた。「私は、疫病神だから……」<br />
<br />
「そ、そんなの、一時の気の迷いなのよ!<br />
真紅だって悔やんでるわ。ココロにもないことを言っちゃった、って」<br />
「……おめでたいわねぇ。そんなの、体の良い、後から取って付けた口実だわ。<br />
あの子はどこかで、私を疎んじていたのよ。<br />
だから、『疫病神』だなんて罵りが、即座に口を衝いて出たんだわ」<br />
<br />
口は心の門と言うでしょう? 水銀燈の切り返しに、雛苺は言葉をなくした。<br />
なんで、ネガティブにしか考えられないの? <br />
その問いかけが、雛苺の胸中にだけ、虚しく谺する。<br />
<br />
メンタルな後遺症。トラウマ。<br />
カウンセラーですらない雛苺には、どう慰めれば良いのかも解らない。<br />
言葉を尽くせないのなら、せめて仕種で……とは、思うのだけれど。<br />
<br />
言いたいだけ言って、水銀燈はいじけたように、また上体を蹲らせた。<br />
その背中は、とても、とても、小さく見えた。<br />
誇張ではなく、その姿は無力な少女のようでさえあった。<br />
<br />
なんとか、してあげたい。<br />
たとえ、独りよがりの、お節介だったとしても……それでも。<br />
今よりは、みんなが笑顔でいられる世界を、雛苺は望んだ。<br />
<br />
(あの、パステルでなら――)<br />
<br />
脳裏に閃いた電光が、雛苺の暗く沈んだココロに、明かりを灯した。<br />
自分にできるのは、絵を描くことぐらいだ。<br />
でも、それで、水銀燈の聞こえざる慟哭を和らげてあげられるのなら……<br />
そうすることに吝かでない。<br />
<br />
「ねえ、聞いて」<br />
<br />
そっ……と。雛苺は、水銀燈の背中を撫でながら、唇を開いた。<br />
<br />
数日前、幼なじみの青年に、不思議なパステルを譲られたこと。<br />
ほんの気まぐれの旅が、真紅との邂逅をもたらしたこと。<br />
彼女に微笑んで欲しくて、モデルになってもらったこと。<br />
すべての経緯を、水銀燈に話して聞かせた。<br />
<br />
「そしたらね、真紅は本当に、絵のとおりに笑ってくれたのよー。<br />
あのパステルは、きっと本物の、魔法の道具なの」<br />
「だから……なに?」<br />
「ヒナが、描いてあげるの! 銀ちゃんを、笑顔にしてあげるのよ」<br />
<br />
水銀燈は顔を上げて、雛苺の顔を、しげしげと見つめた。<br />
そして、ふっ……と。力なく鼻先で笑って、瞳を逸らした。「遠慮しとくわぁ」<br />
<br />
どこまでも依怙地に徹するつもりなのか。<br />
これで良いのだと、自らのココロさえも騙し続けて……<br />
挙げ句、現実から乖離する虚像に縛られ、ずっと独りで泣き暮らす気なのか。<br />
<br />
そんなのは、おかしい。間違ってる。美談でも、美徳でもない。<br />
雛苺は、猛然と食ってかかろうとした。<br />
しかし、機先を制したのは、やはり水銀燈だった。<br />
<br />
「私なんかのために描く暇があるのなら、おまぬけ真紅でも描いたらいいわ。<br />
描けば現実になるんでしょぉ? あの子の右腕を、元どおりにしてみなさいよ」<br />
<br />
なるほど。やはり、禍根は、そこにある。<br />
水銀燈が恐れているのは、真紅に傷つけられることではなく――<br />
<br />
「真紅を、もう傷つけたくなかったのね」<br />
<br />
訊ねた雛苺に、水銀燈は、なにも答えない。図星だから。<br />
彼女の沈黙は、正鵠を得たことの肯定に他ならなかった。<br />
<br />
「姿を消して、別人に扮してたのは、自分を許せなかったから?」<br />
「……気に入らなかっただけよ。真紅に依存しきってた、無様な生活に嫌気がさしたの」<br />
「どっちにしても、自分に厳しい人なのね、銀ちゃんって」<br />
<br />
雛苺の言葉を、水銀燈はいつものように、鼻で嘲り飛ばす。<br />
けれど、いつものような勢いは、そこにない。<br />
もしかして、彼女なりの微笑……だったのだろうか。<br />
<br />
「仕方ないじゃない。子供の頃から、持病のせいで、ずっと疎まれてきたわ。<br />
悪いのは、周りに合わせられない私なんだって思わされてたら、卑屈にもなるわよ。<br />
独りのときは、いつも、メソメソしていたっけ」<br />
「だけど、真紅は違ったのよ。手を差し伸べてくれたのよね?」<br />
「……ええ。だけど、あのとき……疫病神と罵られたとき、私は気づいたわ。<br />
私という存在は、真紅にとって、足枷に過ぎなかったんだって」<br />
「だから、それは――」<br />
<br />
錯乱した真紅の、ただ一度の失言。<br />
声を出しかけて、雛苺は、徐に口を閉ざした。<br />
ぐるぐると、ただ虚しさが巡るだけ……。そう思ったからだ。<br />
<br />
「銀ちゃんは、自分を責めすぎなのよ。そんなの……あんまりなの」<br />
<br />
先天性の病を患ったことは、水銀燈のせいではない。<br />
真紅が右腕を失った事故にしても、諸々の不運が重なった結果だ。<br />
それなのに、彼女は、すべての非が自分にあるように思い込んでいる。<br />
ありもしない壁、錯覚の風景、進路を塞ぐ様々な幻影を生みだして、<br />
目に映る現実世界さえも、歪めてしまっている。<br />
<br />
では、どうしたらいい? 考えても、妙案など思いつかない。<br />
やはり、彼女の願いを聞き入れて、少しばかりの慰めに縋るしかないのか。<br />
<br />
「……解ったなの。ヒナ、真紅の右腕を、描いてみるのよ」<br />
<br />
本当に? 水銀燈が、無邪気な子供のように瞳を輝かせる。<br />
雛苺も、満面の笑顔で、頷き返すが――<br />
<br />
「勝手に決めないでちょうだい!」<br />
<br />
凛とした声に叩かれ、水銀燈と2人して、ビクンと肩を竦めた。<br />
そぉ~っと振り向けば、そこには、看護士に支えられた真紅の姿があった。<br />
<br />
「なんの相談をしているのかと思えば、まったく……<br />
前にも言ったでしょう、雛苺。私は、今のままで構わないのだわ」<br />
<br />
看護士が、夜だから静粛にと諫めるが、真紅は逆に「口を挟まないで!」と。<br />
桑田というネームプレートを着けた若い看護士は、気圧されて沈黙した。<br />
<br />
「貴女もよ、水銀燈。私の右腕のことなんて、貴女が気に病む問題ではないわ」<br />
「だけど、真紅――」<br />
「片腕だって、誇りさえ失わなければ、気高く生きられるわ。<br />
欠落したからと言って、すべてが終わるわけではないのよ」<br />
<br />
真紅は、看護士を促して水銀燈の前まで歩み寄ると、左手を伸ばした。<br />
そして、水銀燈の頭を、愛おしそうに撫でた。<br />
<br />
「だから、貴女も、貴女として生きなさい。胸を張って、誇り高く生きて」<br />
<br />
水銀燈は、呆けたように真紅を見上げていた。<br />
その瞳が、見る見るうちに、潤んでゆく。<br />
<br />
「だったら、私は真紅の右腕として、生きていくわ」<br />
「気持ちは、とても嬉しいわ。本当よ。貴女の想いは、なによりも尊い宝物。<br />
それは確かに、私のココロにある。だから、もう充分なのだわ」<br />
「……私が側にいると、迷惑?」<br />
「そうじゃないわ。これ以上、貴女を縛り付けて、苦しめたくないの。<br />
右腕の代わりとして生きれば、貴女にはずっと、呵責が付きまとうでしょう。<br />
私はね、水銀燈……貴女には、あの頃みたいに……<br />
もっと自由奔放な、美しいライバルであって欲しいと……そう思っているのよ」<br />
<br />
水銀燈に注がれる真紅の眼差しは、聖母のような慈愛に満ちあふれていた。<br />
「だから、ね。もういいの。贖罪に人生を費やそうだなんて、考えないで」<br />
<br />
それは、真紅自身にも向けられた言葉なのね。<br />
会話に耳を傾けながら、雛苺は、そう思った。<br />
彼女もまた、水銀燈への贖罪の意識を引きずりながら、今日まで生きてきた――<br />
どれほど時が経とうとも、決して癒えることのない痛みと苦しみを抱いて。<br />
でも、もう終わり。一緒に重荷を捨てましょう。真紅の瞳が、そう語っていた。<br />
<br />
「でも、それでは貴女の気が済まないのであれば、そうね……<br />
ときどき、気が向いたらでいいから、ティータイムに付き合ってちょうだい。<br />
取り留めのないお喋りを、一緒に愉しんでくれると、嬉しいのだけど」<br />
「…………やぁよ。誰が、そんな、おままごとなんかに」<br />
「ダメなの?」<br />
「そ、そんな哀しそうな顔したって…………ああ、もぅ。しょうがないわねぇ。<br />
だったら、ときどきと言わず、毎日でも遊んであげるから、覚悟しときなさいよぉ」<br />
<br />
どうして、覚悟しないといけないのか?<br />
涙を堪えて強がろうとするあまりに、支離滅裂になっている様子だ。<br />
真紅も、雛苺も、看護士の桑田さんも、言った水銀燈本人でさえ、失笑を禁じ得ず。<br />
暗かったロビーを、束の間、華やいだ空気が満たした。<br />
<br />
「それで」<br />
<br />
ひとしきり和んだ後、頃合いを見計らって、雛苺が切り出した。<br />
「検査の結果は、どうだったの?」<br />
<br />
歩いて、会話できるほどなのだから、大過ないことは確かだ。<br />
真紅は微笑み、しっかりと首肯して見せた。<br />
<br />
「大きな異常は、見つからなかったわ。ホーリエが受け止めてくれたお陰ね。<br />
ただ、大事をとって2、3日ほど検査入院することにしたけれど」<br />
「じゃあ、着替えとか要るのね。場所さえ教えてくれれば、ヒナが――」<br />
「ありがとう。でも、それは朝になったら、サラに電話して頼んでおくわ」<br />
<br />
話は、それでおしまい。<br />
真紅たちは桑田さんに連れられて、静まり返る病棟へと向かった。<br />
<br />
<br />
~ ~ ~<br />
<br />
割り当てられた病室は、4人部屋だった。……が、患者は、真紅だけ。<br />
<br />
「なんだか、広い部屋に独りぼっちだと、寂しい感じなのー」<br />
「あら。私にとっては、普段と大差ないわよ」<br />
<br />
気兼ねがなくていいわ。ベッドの上から、真紅が素っ気なく言う。<br />
なるほど、ものは考えようだ。<br />
他の患者がいたら、こんな風に、夜中の会話もできなかっただろう。<br />
<br />
「ところで、さっきから考えていたのだけれど」<br />
<br />
と、真紅。<br />
いたって真剣な口振りに、雛苺と水銀燈は、なにごとかとベッドを覗き込んだ。<br />
<br />
「雛苺の持っている、不思議なパステル……まだ使えるのかしら」<br />
「うい。でも、あの――もしかしたら、なんだけど」<br />
「なにか気懸かりなことでも?」<br />
「効力は、3回までかも知れないのよ」<br />
<br />
とかく、旨い話には、限度とペナルティが存在するものだ。<br />
ありがちな話だと思ったのか、真紅と水銀燈は、黙って頷いた。<br />
<br />
「試しで使って、その後に私を描いたから、残りは1回という計算ね?」<br />
「そうなの。なにを描くかは、まだ決めてないのよ」<br />
<br />
さっきは真紅の右腕を治してみると言ったが、ああも本人に反対されては描けない。<br />
それについては、水銀燈も納得しているようで、異存は出てこなかった。<br />
<br />
真紅は、「よかったわ」と吐息すると、瞑想するように、瞼を降ろした。<br />
「それなら、最後の1回で、描いて欲しい絵があるのだけれど」<br />
<br />
なにを? 小首を傾げて、雛苺は、水銀燈と顔を見合わせる。<br />
目を閉ざしたままの真紅が、2人の奇妙な様子を、気にするはずもなく。<br />
<br />
「あのパステルで、水銀燈の病気を治してあげられないかしら?」<br />
<br />
これには、雛苺も、水銀燈も、眉間に皺を刻まずにいられなかった。<br />
<br />
「んと……。ヒナもね、銀ちゃんには元気になってもらいたいのよ。<br />
でも、お医者さんじゃないから、どんな絵を描けばいいのか、解らないの」<br />
「真紅ぅ……貴女、やっぱり頭を打ってたんじゃなぁい?」<br />
<br />
――などと。水銀燈は、あからさまに眉を曇らせ、真紅の額に手を当てる始末だ。<br />
<br />
「いつにも増して、おバカさんに輪が掛かってるわ」<br />
「うるさいわね。バカって言った方がバカなのよ」<br />
「あらぁ。久々に聞けたわねぇ、その子供じみたリアクション」<br />
<br />
からかいながらも、「まぁ……確かに、バカはお互い様だわねぇ」と。<br />
水銀燈は、ふと口元に自嘲を浮かべて、雛苺へと眼を向けた。<br />
<br />
「折角だけど、謹んで辞退するわぁ。薬さえ服用していれば、私は平気だし。<br />
真紅が今のままを貫くのなら、私だって、ありのままに生きてみせるわよ。<br />
その代わり――と言っては何なんだけどぉ」<br />
<br />
もし、できるのであれば……。くどいほどに前置いて、水銀燈が切り出す。<br />
<br />
「あの娘を……めぐを、救ってあげてちょうだい。<br />
たとえ完治させられなくても、せめて、もう少しだけ猶予を与えてあげて。<br />
今、めぐに必要なのは、時間なのよ」 <br />
<br />
<br />
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-<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/4068.html">to be
continued</a>-<br />
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