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『パステル』 -11-」(2008/11/12 (水) 00:41:11) の最新版変更点

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<p align="left"> <br />  <br />  「ごめんなさいね。急いでいるのに」<br />  <br /> 騒音と熱気を吐き出すドライヤーに負けまいと、有栖川が心持ち、声を大きくする。<br /> 彼女は今、三面鏡のついた年代物のドレッサーに向かって、洗い髪を乾かしていた。<br />  <br />  「すぐに済ませるから、あと少しだけ待っててちょうだい」<br />  「気にしないでいいのよー。それほど、急いでないから」<br />  <br /> 気忙しげにドライヤーとブラシを揺らす有栖川に、雛苺は悠々と応じる。<br /> そうするように勧めたのは、雛苺だった。<br /> 3月の夜は、まだまだ冷える。湯冷めをされては困るから――と。<br />  <br />  「お友だちの家で、夕飯ご馳走になるから遅くなるって、メールしておいたし。<br />   学生になってからは、門限とかね、かなり大目に見てくれるようになったのよ」<br />  「でもねぇ。女の子が夜遅くに帰宅するなんて、ご両親はいい顔しないでしょ」<br />  「平気平気っ。終電にさえ間に合えば、ヒナは困らないんだもの~」<br />  <br /> だから、地図を書くのは、きちんと髪を乾かした後でいい。<br /> 雛苺が告げると、有栖川もそれ以上はなにも言わず、鏡へと向きなおった。<br /> さて……。雛苺もまた、気持ちを切り替えて、ぐるり見回す。<br />  <br /> 彼女たちは今、有栖川の部屋にいた。<br /> 先の勧めも、決して親切心からだけではなく、こうなることを期待しての発言だ。<br /> ここまでの展開は、まさに、雛苺の思惑どおり。<br />  <br /> 有栖川の部屋は、これが女の子の部屋かと驚くほどに質素で、家具が少なかった。<br /> ベッドとクローゼット、ドレッサー、一冊しか本が収められていないブックシェルフ。<br /> 薔薇水晶のように、ポスターなどで飾りたてていないため、壁紙の白さが目立つ。<br /> そこへ、数少ない家具の落とす影が濃く浮いて、寂寞たる空気をいや増していた。<br /> 彼女にとって、ここは寝起きするだけの場所、という認識なのかも知れない。<br />  <br /> そんな殺風景にあって、ひときわ目を惹く異彩が、ふたつ。<br /> 有栖川のパジャマと、ブックシェルフに横たわるボロボロの本の、背表紙だ。<br />  <br /> その本に眼を注いだまま、雛苺は、薔薇水晶の話を回想していた。<br /> 行き倒れていたとき、有栖川は小銭と一冊の小説しか、持っていなかったという。<br /> ――最後まで手放さないほどの本とは、どんな内容なのだろう。宗教関係?<br />  <br /> 雛苺の好奇心が、強く刺激される。<br /> それに、黙々と待っているのも無言の圧力を加えているようで、落ち着かず……<br /> 降って湧いた興味を、これ幸いと、徐に口を開いた。<br />  <br />  「この本……」<br />  「え? なぁに」<br />  「見せてもらっても、いーい?」<br />  「――ああ、それ? ええ、どうぞぉ」<br />  <br /> 有栖川の許しを得て、雛苺は慎重に、ボロボロの本を手に取った。<br /> けれども、そこに印刷されていた文字は、日本語やアルファベットではなく、<br /> また、彼女が慣れ親しんだフランス語とも異なっていた。<br />  <br /> 見憶えが、あるような……ないような……。<br /> 「うゆ?」眉間に皺を寄せた雛苺に、有栖川の微笑が、そっと向けられる。<br />  <br />  「それ、ロシア語よ。私が唯一、愛読してる小説でね」<br />  「だったら、ヒナにはチンプンカンプンなの。これ、誰の、なんて小説?」<br />  「パステルナーク。『ドクトル・ジバゴ』って、知ってる?」<br />  「うーっと……タイトルだけは、なんとなく聞いた憶えがあるなの」<br />  「いろんな言語に翻訳されてるし、映画にも、なっているわよ」<br />  <br /> 有栖川はドライヤーを止め、髪にブラシを通しながら、続ける。<br />  <br />  「激動の時代に翻弄されて、出会いと別れを繰り返す男女の物語でね――」<br />  <br /> 彼女の語るあらすじは大雑把で、お世辞にも、解りやすいとは言えなかった。<br /> が、内容は別として……<br /> 有栖川の、この小説が好きだという想いは、漠然とではあるが、雛苺にも理解できた。<br /> この人はココロのどこかで、『誰か』との再会を夢見ているのだろう、と。<br />  <br />  <br />  「お待たせぇ」<br />  <br /> ことり、と。ブラシを置く、乾いた音。<br /> 夜を憚ってか、有栖川は猫のように足音を忍ばせて、雛苺の正面に腰を降ろした。<br /> 雛苺の眼差しが、水色のパジャマと、淡黄色のカーディガンの取り合わせへと惹かれる。<br />  <br />  「そのパジャマ、とっても清楚な感じで、いい趣味なのね」<br />  <br /> お世辞でもなく、雛苺は、そう思った。<br /> 露骨に身体のラインを強調せず、と言って、子供っぽく地味な感じでもない。<br /> ただ、妙齢の女性にしては、少しおとなしすぎるだろうか。<br /> 有栖川は、そんな雛苺の機微を見透かしたかのように、眼を細めた。<br />  <br />  「もっと色っぽい、ピンクのネグリジェでも使ってると思ったぁ?」<br />  「んー。ヒナの見立てだけど、もっと似合いそうな色やデザインが、ありそうかなって」<br />  「とは言われても、肩身の狭い居候だものねぇ。分は弁えなきゃ。<br />   それに、あれこれ着飾ったところで、家事の邪魔になるだけよ」<br />  <br /> たしかに、フリルつきのドレスなんかを着ていては、マトモに洗濯などできまい。<br />  <br />  「おしゃれに、まったく興味がないワケじゃあないのね」<br />  「そこは、やっぱり女の子だもの。ファッション雑誌だって流し読んだりね。<br />   たまにはボディコンとか着て、颯爽と街を歩いてみたいとか、思ったりするわ」<br />  「スタイルいいものねー。黒のボンデージとかも、きっと似合うのよ」<br />  「はぁあ? や……やぁよ。そんなの着ないってば」<br />  <br /> と言いつつも、自身のふしだらな姿を想像したらしく、有栖川は赤ら顔でイヤイヤをした。<br /> 脳震盪をおこしてしまうのではないかと、雛苺が危惧してしまうほどに。<br /> けれど、倒れるよりも、疲れるほうが早かったようで。<br /> やおら顎を引いた彼女は、ひとつ吐息した。<br />  <br />  「あーぁ、もぉ……バカみたぁい」<br />  <br /> バカ、とは、雛苺の意地悪い冗談に対してか。<br /> それとも、一瞬でも淫らな想像してしまった自分への嘲りか。<br /> 有栖川はカーディガンのボタンを玩びながら、唇に、誤魔化すような笑みを作った。<br />  <br />  「ま、それはともかく。これね……ちょっとした思い出の品なのよ。<br />   私が退院するとき、お祝いにって、もらった物」<br />  <br /> そう言えば、と。雛苺はまた、薔薇水晶との語らいを、記憶から引っぱり出した。<br /> 2年前――どのくらいの期間かは聞きそびれたが、有栖川は入院していたのだ。<br /> 退院祝いとは、その時のことに違いない。<br />  <br />  「ばらしー? それとも、槐さん?」<br />  <br /> 順当に考えれば、この2人か。もしくは、日用品を贈るぐらい親しい間柄の者だろう。<br /> しかしながら、退院の日にパジャマを贈るというのも、考えてみれば無神経な話だ。<br /> うがった見方をすれば、ずっと入院してろと暗に仄めかしているようではないか。<br />  <br /> 槐や薔薇水晶は、そこまで思慮に欠けていたり、性格の歪んだ人たちではない。<br /> ましてや、赤の他人である医師や看護士なら、気安くプレゼントなんか渡すはずがない。<br />  <br /> では、彼ら以外の誰かが居たとして……それは、誰なのか?<br /> 雛苺が問うより早く、その答えはアッサリと、有栖川の口から紡がれた。<br />  <br />  「入院中にね、すっごく仲良くなった女の子がいたのよ。その娘が、くれたの」<br />  「やっぱり、患者さん?」<br />  「ええ。めぐ――あ、彼女の名前よ。ずいぶん長く入院してるみたいでね」<br />  <br /> めぐ。その名はなぜか、雛苺の胸をドンと打ち、大きな波紋を残した。<br />  <br />  「どんな女の子なの?」<br />  <br /> その理由を知りたくて、雛苺が訊くと、有栖川は「そうね……」と。<br /> どこか芝居がかった仕種で、腕組みをした。<br />  <br />  「身も蓋もない言い方をすると、イカレた子よ」<br />  <br /> 本当に、フォローのしようもない。どういうリアクションをすればいいのか。<br /> 戸惑う雛苺をよそに、有栖川は辛そうに目を伏せ、続ける。<br />  <br />  「でも、とても可哀想な子。生まれつき、心臓に疾患があってね。<br />   子供の頃から、あんまり学校にも行けなかったんですって。<br />   定期テストも、病室にわざわざ担任の先生が来て、受けてたそうよ」<br />  「じゃあ、友だちは――」<br />  「少ないわよね、当然。義務教育課程は、なんとか修了したらしいけど。<br />   高校の卒業式にも出られなかったって。今も、ずっと独りで病室に――」<br />  <br /> 雛苺には、考えられない生活だった。<br /> いや……想像もしたくない世界だった。<br /> 子供の頃から、独りぼっちにされることを、なにより恐れていた彼女にとっては。<br />  <br /> 雛苺が絵を描き始めたのは、ある意味、現実逃避だったのだろう。<br /> 空想の世界を描いている間だけは、けっして独りではなかったから。<br /> そんな妄想癖は、大学に進んでもなお、彼女の中で大きなウェイトを占めていた。<br />  <br /> でも、ここ数日で、彼女の創作にかける意気込みは、大きく変わりつつある。<br /> 自己満足のレベルから、誰かの歓びを生みだせる絵を描きたいと、思うようになっていた。<br />  <br />  「めぐさんは、もう何年、そういう生活をしてるの?」<br />  「ついこの間、二十歳になったと言ってたから……少なくとも、2年ぐらいかしら」<br />  「二十歳? ヒナと同じ年なのね」<br />  <br /> 瞬間、また――雛苺の胸裡が波立ち、顧みもしなかった深い部分に、綻びが生まれた。<br /> 『めぐ』と言う名の、同い年の娘。なにかを、思い出しかけている。<br /> けれど、記憶のどこに光を当てればいいのか分からず、思考は堂々めぐりをするばかりで。<br />  <br />  「フルネーム、教えてなの」<br />  <br /> せめてもの手懸かりを求めて訊ねると、すぐに答えが返ってきた。<br />  <br />  「柿崎めぐ、よ。もっとも、そう呼ばれるのも、あと少しなんだけど」<br />  「え? それ、どういう……」<br />  <br /> まさか、戒名になるからだなんて不謹慎なことを、言うつもりなのか。<br /> 表情を硬くした雛苺に、有栖川は、ひらひらと手を振って見せた。<br />  <br />  「やぁね、誤解しないで。縁起でもない意味じゃないわぁ」<br />  「うよ? じゃあ、なんなの?」<br />  「名字が変わるのよ。彼女、もうすぐ結婚するから」<br />  「と言うことは、もう普通に暮らせるぐらい、快復したのね! めでたしなのー」<br />  <br /> てっきり、めぐが退院するのだと思って、雛苺は小さく手を打ち鳴らした。<br /> しかし、対する有栖川は、息苦しそうに顔を俯けた。<br />  <br />  「そうじゃないわ。めぐは……治ってなんか、ない」<br />  「え? でも――」<br />  「彼女も、結婚するつもりなんか、なかった。どうせ死ぬんだから、って。<br />   私や彼を含めた周囲に辛く当たって、自ら遠ざかろうとまでしたのよ。<br />   でも、バレバレなのよねぇ、ただの虚勢だってことは」<br />  <br /> 人一倍の寂しがりなクセして、おバカさんなんだから。<br /> 有栖川は毒突いて、その割には、どこか嬉しそうな面持ちで続けた。<br />  <br />  「結局、熱心に通いつづけてくれる彼の想いに絆されてね……決めたんだって。<br />   残された時間のすべてを、彼を信じつづけて生きていくと」<br />  「そんなにも想われて、めぐさん、幸せなのね」<br />  「……そうね。呼んでくれる声に気づけた人は、とても幸せだわ」<br />  <br /> 言って、有栖川が、自嘲めいた笑みを浮かべる。<br /> 雛苺には、なぜ彼女が、そんな風に微笑むのか解らなかった。<br />  <br />  「有栖川さんは、めぐさんの彼氏さんに、会ったことあるの?」<br />  「ええ、あるわ」<br />  「どんな人? かっこいい?」<br />  「パッと見、さえない男よ。私より背が低いし、オタクっぽいメガネ君だしぃ。<br />   だけど、質実剛健……って言うのかしら。芯の強い感じはしたわねぇ」<br />  「めぐさんも、きっと、そういうトコに惚れたのね」<br />  「かもね。最近じゃあ、お見舞いというより、ノロケ話を聞かされに行ってるわ。<br />   柿から桜に生まれ変わるのよ――とか。ほぉんと、バカみたいよねぇ。<br />   なに言ってるんだかってカンジぃ。そう思わなぁい?」<br />  <br /> 有栖川は、肩を竦めて同意を求めてくるが、雛苺には、そんな余裕などなかった。<br /> 柿から、桜。その一言が、点々と散らばっていた記憶を、電撃的に結びつけたのだから。<br />  <br /> 柿崎めぐ――高校一年生の頃――色白で楚々とした、制服の似合う女の子。<br /> 文化祭のイベント――そして……たった一度きりの――学年のプリンセス。<br /> クラスが違ったから、それほど親しくはなかったけれど。<br /> 思い出してしまえば、閉ざした瞼の裏に、苦もなく彼女の顔を描けた。<br /> 卒業アルバムの片隅に、独りだけ外れて載せられていた、少女の微笑みを。<br />  <br /> 今にして振り返ると、あの娘を見かけなくなったのは、文化祭を過ぎたあたりから。<br /> 友人でもない子のプライベートに興味はなかったけれど……こうなれば話は別だ。<br /> 入院の時期も重なるし、同姓同名の他人という線は、かなり薄い。<br />  <br />  <br /> ――ジュンが、あの娘と交際していた。結婚するくらいに、親密だったなんて。<br /> そのことに今まで気づきもしなかった自分の鈍さを、雛苺は軽く嫌悪した。<br />  <br />  「あら、やだ……すっかり話し込んじゃって。<br />   ごめんなさぁい。急いで、駅までの地図を描いてあげるわね」<br />  <br /> 有栖川は立ち上がりかけて、ふと。「ところで、お住まいは、どこだったかしらぁ?」<br /> 雛苺が、家からの最寄り駅を告げると、彼女はコミカルなほどに、目を丸くした。<br />  <br />  「ちょっと、ウソでしょぉ! 電車一本じゃ帰れないじゃないのよ、それぇ。<br />   今からだと……ああ、ダメだわ。どんなに急いでも、乗り換えの終電に乗れない」<br />  「……え? え、えええっ?! ホントにー?」<br />  「ごめんなさい。最初に、訊いておくべきだったわね。<br />   あらかじめ知っていたら、暢気に髪なんか乾かしてなかったのに」<br />  「謝らないで。ヒナが、ちゃんと時刻表を確かめてなかったのが悪いんだもの」<br />  <br /> 我がことのように落胆する有栖川を宥めたものの、雛苺だって内心、穏やかではない。<br /> 電車で帰れないのであれば、別の交通手段に頼るか、明日の始発まで待つか、だ。<br /> 始発に乗るとなると、往路の時間から逆算して、今度はアルバイトに遅刻する。<br /> タクシーなら、駅前から乗れるだろうが、どれだけ料金が嵩むことか。<br /> 自転車を借りて、夜通しサイクリングという手段も、単独では危ないし、怖かった。<br />  <br /> こうなったら、夜中だけれど家に電話して、父親に車で迎えに来てもらうしかない。<br /> ただ、もう晩酌をすませて、寝てしまったかも知れない。その可能性は高かった。<br /> ちなみに、雛苺の母親は、車輪のついた乗り物なんか、まったく運転できない人だ。<br />  <br />  「うー。どうしよう……困っちゃったのよ」<br />  <br /> ココロが痛むけれど、薔薇水晶を叩き起こせば、車で送ってもらえそうだが……<br /> 雛苺は、気が進まなかった。もしも居眠り運転なんかされたら、それこそ困る。<br />  <br /> いっそ、バイト先には明日の朝、急病で休むと電話してしまおうか。<br /> ふとした思いつきが、急速に本気度を増してゆく。<br /> 両親は怒るだろう。食事するとは伝えたが、外泊するとまでは言ってないのだから。<br />  <br /> しかし、だ。そうしたら、電車の運行ダイヤに振り回されずに済む。<br /> 病院に立ち寄って、柿崎めぐと面会する時間だって作れる。<br /> そう思ってしまうと、雛苺の気持ちは、ズル休みへと大きく傾いた。<br />  <br /> 「あの」今夜は、泊めてもらおう。雛苺が、頼もうとした折りもおり――<br />  <br />  「仕方がないわね。せめてものお詫びに、私が、家まで送ってあげるわ」<br />  「……え? ど、どうやって?」<br />  「車で行くに決まってるじゃない。私の運転でね」<br />  「免許、持ってるの?」<br />  <br /> 訊くと、有栖川は頷いて。「半分だけ当たり。更新しないまま、失効しちゃったけどねぇ」<br /> 茶目っ気たっぷりに、ちらと舌を見せた。つまりは、無免許運転。<br />  <br />  「だ、ダメなのっ! 有栖川さんが捕まっちゃったら、ばらしーが悲しむのよ」<br />  「大丈夫よぉ。こんな夜中に、そうそう検問なんか、してないだろうしぃ」<br />  「で、でも……」<br />  「気にしない気にしなぁい。善は急げ、よ」<br />  <br /> 有栖川は手をひらひらさせ、快活に笑いながら、雛苺のデイパックを掴みあげた。<br /> 「それに、私が一緒のほうが、帰りが遅くなった言い訳もしやすいでしょ」<br />  <br /> たしかに、両親の怒り顔を思うと、独りで帰宅するのは腰が引ける。<br /> 雛苺は、有栖川の配慮に、ちからなく頭を下げた。「お願いします……なの」<br />  <br />  <br />  <br /> 連れ立って一階に降りると、雛苺は暇乞いのため、照明が点きっぱなしの応接間を覗いた。<br /> そこには槐が居た……が、彼はソファーに横たわり、寝息を立てていた。<br /> テーブルには、ウイスキーのボトルと、錫とおぼしい白銀のタンブラー。<br /> 水割りを呑んでいたのだろう。タンブラーには、角の丸まった氷が残されていた。<br />  <br />  「やぁね、先生ったら。こんなところで寝てると、風邪ひきますよ」<br />  <br /> 口を『へ』の字にしつつも、揺さぶり起こす気などは、まったくないらしく。<br /> 有栖川は、隣室から毛布を持ってきて、そっ……と彼に被せた。<br />  <br />  「これで、よしっと。さ、行きましょ」<br />  <br /> 言って、彼女はさも当然のように、テーブルに置かれたキーケースに手を伸ばした。<br /> ブルガリのロゴが入った、牛革製のキーケースだ。槐の私物に違いない。<br /> 慣れた手つき。どうやら、酔っているのを幸いと拝借した前科がありそうだ。<br /> けれど、雛苺は咎めなかった。それができる雰囲気でもなかった。<br />  <br />  <br /> ガレージのシャッターは、よほど手入れが行き届いているようで。<br /> ほとんど軋むことなく、巻き上げられていった。<br /> 夜の静寂にあっては、エンジンのアイドリング音のほうが、喧しいくらいだ。<br /> 車道まで徐行して、一旦停止。車中からのリモコン操作で、シャッターは静かに閉じた。<br />  <br />  「嫌だわ。今夜、降るなんて言ってたかしらぁ」<br />  <br /> カーナビに目的地を入力しながら、有栖川が独りごちる。「夜の雨って、嫌いよ」<br /> 雛苺は、濡れだすフロントガラス越しに暗い世界を凝視したまま、相槌を打った。<br />  <br />  「こんな中を、駅まで歩いてたら、きっとズブ濡れになってたなの。<br />   あ、そうだわ。帰りの道順は、ヒナの言うとおりに行ってもらっていい?」<br />  「近道とか、抜け道を知ってるわけ?」<br />  「ま、そんなとこなのー。まっすぐ進んで、大通りに出たら左ね」<br />  <br /> その説明に、有栖川は怪訝な顔をする。「でも、それじゃ方角が逆よぉ?」<br /> しかし、雛苺は「いいのいいのー」と微笑むだけ。<br /> 自信に満ちた笑顔に押し切られるように、車は進みだした。<br />  <br />  <br /> だが、指示どおりに車を走らせるうちに、有栖川の表情が硬くなり始めた。<br /> 彼女にも、見当がついてきたらしい。雛苺が、どこに向かおうとしているのか。<br />  <br />  「ねえ。本当に、こっちで間違いないのぉ?」<br />  <br /> 訊ねる有栖川の声には、ありありと緊張が滲んでいた。<br /> それに対する雛苺の返答は、まったく脈絡のない質問。<br />  <br />  「どこまで……逃げ続けるつもりなの?」<br />  <br /> ――沈黙。有栖川は舌を抜かれたスズメのように、押し黙っている。<br /> 雛苺はさらに、2人の間に横たわる溝を埋めるべく、言葉を並べた。<br />  <br />  「いつまで、有栖川アリスを演じているの? 過去から目を背けてるの?<br />   妄想という偽りの夢に浸っているのは、たしかに心地いいものだけど。<br />   でもね、貴女がどれほど夢に逃れようとも、アリスにはなれないのよ。絶対に」<br />  <br /> ハンドルを握る手が、僅かに震えた。車体が緩やかに横揺れする。<br /> 走行中の車内でも、有栖川の喉が鳴る音が聞こえた。<br />  <br />  「…………なんの話ぃ? 意味が、よく解らないわ」<br />  <br /> 懸命に冷静をよそおい、紡ぎだしたであろう掠れた呟きに、雛苺もまた反論する。<br />  <br />  「じゃあ、はっきり言ってあげるの。貴女、水銀燈でしょ?<br />   ヘアスタイルを変えたり、整形したり……それまでの自分を壊すのは、勇気の要るコトよ。<br />   だけど、本気で別人になりたかったのなら、躊躇ったりしないハズなの」<br />  <br /> それなのに、最も目立つ外見を、変えてすらない。<br />  <br />  「貴女は、水銀燈であることを、捨てられずにいるのね。<br />   なぜなら、それは貴女にとって、なによりも大切な――」<br />  「うるさいっ! 人違いよ! 私は有栖川アリスだってば!」<br />  「……ヒナね、真紅に見せてもらったなの。学生の頃の、貴女たちの写真を」 <br />  <br /> 「他人のそら似よ」わななき、力なく言い返した唇は、寸暇も待たず開かれる。<br />  <br />  「……なんてね」<br />  <br /> そのあとに、諦念を色濃く滲ませた溜息が、長く続いた。<br /> もしかしたら、それは、やっと偽りの仮面を脱げた安堵の吐息だったかも知れない。<br />  <br />  「最初っから、私を連れていこうって魂胆だったのね。真紅のところまで」<br />  「貴女が、そうしたいんじゃないの? 運転してるのは、水銀燈なのよ。<br />   イヤだったら、いつでも引き返せるのに、そうしないんだもの」<br />  「……それもそうよね。じゃあ帰りましょ」<br />  「んもぅ……依怙地なんだから」<br />  <br /> 雛苺に言われるまでもなく、水銀燈には解っていた。自分が、どれほど意地っ張りなのかを。<br /> たった一度だけでも会いたいと願っていながら、二の足を踏んでしまう、臆病なココロも。<br /> たった一言、声が聞きたいのに、イタズラ電話をよそおうことさえできない。<br /> ときどき、こんな風にこっそりと、真夜中のドライブをしてみたけれど。<br /> 真紅の家までは、いつだって行けずじまいだった。<br />  <br /> 薔薇水晶にローザミスティカのことを教えたのも、僅かばかりの接点を欲したから。<br /> いま、こうして雛苺の言いなりに車を走らせてきたのも、実は――<br />  <br />  <br /> 運命的な再会をした、ジバゴとラーラみたいに。<br /> 誰かのお膳立てでもいい。胸裡のどこかで、そんな偶然を期待していた。<br /> だから、どれだけアリスに成りきろうとしても、姿だけは変えられなかった。<br />  <br />  「バッカみたい。どうかしてるわ、イカレてるわ」<br />  「……それが、本心なのね」<br />  <br /> 雛苺は、柔らかい微笑みを、水銀燈に向けた。<br />  <br />  「そうそう。ヒナ、真紅の家に忘れ物しちゃってたの。<br />   だから、途中で寄ってね。きっとよ」<br />  <br />  <br />   ~  ~  ~<br />  <br />  <br /> ソファに横たわっていた槐は、ゆっくりと身を起こした。<br /> 最初から、眠ってなどいなかった。酔ってさえも。<br /> すべては、2年も続けてきた『家族ごっこ』に、終止符をうつための演技。<br /> 本当の幕切れとなるか、ただの幕間になるのかは、彼にも分からなかったけれど。<br />  <br /> みし、みし……。階段を降りてくる、忍び足。<br /> 応接間のドアが、そっと開かれ、薔薇水晶が顔を覗かせた。<br /> 子犬を思わす頼りなげな眼差しが、なにかを求めて彷徨う。<br /> そして、「行ってしまったのね」と。震える声。潤んだ瞳。<br />  <br />  「……あの人が、本当のお姉ちゃんだったら…………よかったのに」<br />  <br /> 振り絞るように言って、鼻を啜り、唇を噛みしめた娘を、槐が手招きする。「おいで」<br /> 薔薇水晶は素直に、彼の隣に腰を降ろした。<br /> 槐は、そっと……壊れ物を包み込むかのごとく、娘を抱き寄せた。<br />  <br />  「傷ついた動物は、それが束の間であっても、安住の場所を求めるものだよ。<br />   だけど、その傷が癒えれば、また旅立ってしまうんだ。彼女も……ね」<br />  「じゃあ……また傷ついちゃったら、戻ってきてくれる?」<br />  <br /> 不穏な気配を滲ませて、薔薇水晶が呟く。また、傷ついたのなら――<br /> そこまで思い詰めるほどに、娘は彼女を慕っていたのだと知って、槐は胸を痛めた。<br /> だからこそ、より強く薔薇水晶を抱きしめ、柔らかな髪に頬をすり寄せた。<br />  <br />  「これっきり、じゃないよ。彼女だって、君を忘れはしないさ。きっとね。<br />   だから、追いかけて捕まえようとしては、いけないよ。<br />   黙って見送ってあげよう。君の、素敵なお姉さんを」<br />  <br />  <br /> ……こくん。<br /> 槐の腕の中で、薔薇水晶は小さく、だが、しっかりと頷いた。<br />  <br />  <br />  <br />   -<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/4042.html">to be continued</a>-<br />  <br />  </p>
<p align="left"> <br />  <br /> 「ごめんなさいね。急いでいるのに」<br />  <br /> 騒音と熱気を吐き出すドライヤーに負けまいと、有栖川が心持ち、声を大きくする。<br /> 彼女は今、三面鏡のついた年代物のドレッサーに向かって、洗い髪を乾かしていた。<br />  <br /> 「すぐに済ませるから、あと少しだけ待っててちょうだい」<br /> 「気にしないでいいのよー。それほど、急いでないから」<br />  <br /> 気忙しげにドライヤーとブラシを揺らす有栖川に、雛苺は悠々と応じる。<br /> そうするように勧めたのは、雛苺だった。<br /> 3月の夜は、まだまだ冷える。湯冷めをされては困るから――と。<br />  <br /> 「お友だちの家で、夕飯ご馳走になるから遅くなるって、メールしておいたし。<br />  学生になってからは、門限とかね、かなり大目に見てくれるようになったのよ」<br /> 「でもねぇ。女の子が夜遅くに帰宅するなんて、ご両親はいい顔しないでしょ」<br /> 「平気平気っ。終電にさえ間に合えば、ヒナは困らないんだもの~」<br />  <br /> だから、地図を書くのは、きちんと髪を乾かした後でいい。<br /> 雛苺が告げると、有栖川もそれ以上はなにも言わず、鏡へと向きなおった。<br /> さて……。雛苺もまた、気持ちを切り替えて、ぐるり見回す。<br />  <br /> 彼女たちは今、有栖川の部屋にいた。<br /> 先の勧めも、決して親切心からだけではなく、こうなることを期待しての発言だ。<br /> ここまでの展開は、まさに、雛苺の思惑どおり。<br />  <br /> 有栖川の部屋は、これが女の子の部屋かと驚くほどに質素で、家具が少なかった。<br /> ベッドとクローゼット、ドレッサー、一冊しか本が収められていないブックシェルフ。<br /> 薔薇水晶のように、ポスターなどで飾りたてていないため、壁紙の白さが目立つ。<br /> そこへ、数少ない家具の落とす影が濃く浮いて、寂寞たる空気をいや増していた。<br /> 彼女にとって、ここは寝起きするだけの場所、という認識なのかも知れない。<br />  <br /> そんな殺風景にあって、ひときわ目を惹く異彩が、ふたつ。<br /> 有栖川のパジャマと、ブックシェルフに横たわるボロボロの本の、背表紙だ。<br />  <br /> その本に眼を注いだまま、雛苺は、薔薇水晶の話を回想していた。<br /> 行き倒れていたとき、有栖川は小銭と一冊の小説しか、持っていなかったという。<br /> ――最後まで手放さないほどの本とは、どんな内容なのだろう。宗教関係?<br />  <br /> 雛苺の好奇心が、強く刺激される。<br /> それに、黙々と待っているのも無言の圧力を加えているようで、落ち着かず……<br /> 降って湧いた興味を、これ幸いと、徐に口を開いた。<br />  <br /> 「この本……」<br /> 「え? なぁに」<br /> 「見せてもらっても、いーい?」<br /> 「――ああ、それ? ええ、どうぞぉ」<br />  <br /> 有栖川の許しを得て、雛苺は慎重に、ボロボロの本を手に取った。<br /> けれども、そこに印刷されていた文字は、日本語やアルファベットではなく、<br /> また、彼女が慣れ親しんだフランス語とも異なっていた。<br />  <br /> 見憶えが、あるような……ないような……。<br /> 「うゆ?」眉間に皺を寄せた雛苺に、有栖川の微笑が、そっと向けられる。<br />  <br /> 「それ、ロシア語よ。私が唯一、愛読してる小説でね」<br /> 「だったら、ヒナにはチンプンカンプンなの。これ、誰の、なんて小説?」<br /> 「パステルナーク。『ドクトル・ジバゴ』って、知ってる?」<br /> 「うーっと……タイトルだけは、なんとなく聞いた憶えがあるなの」<br /> 「いろんな言語に翻訳されてるし、映画にも、なっているわよ」<br />  <br /> 有栖川はドライヤーを止め、髪にブラシを通しながら、続ける。<br />  <br /> 「激動の時代に翻弄されて、出会いと別れを繰り返す男女の物語でね――」<br />  <br /> 彼女の語るあらすじは大雑把で、お世辞にも、解りやすいとは言えなかった。<br /> が、内容は別として……<br /> 有栖川の、この小説が好きだという想いは、漠然とではあるが、雛苺にも理解できた。<br /> この人はココロのどこかで、『誰か』との再会を夢見ているのだろう、と。<br />  <br />  <br /> 「お待たせぇ」<br />  <br /> ことり、と。ブラシを置く、乾いた音。<br /> 夜を憚ってか、有栖川は猫のように足音を忍ばせて、雛苺の正面に腰を降ろした。<br /> 雛苺の眼差しが、水色のパジャマと、淡黄色のカーディガンの取り合わせへと惹かれる。<br />  <br /> 「そのパジャマ、とっても清楚な感じで、いい趣味なのね」<br />  <br /> お世辞でもなく、雛苺は、そう思った。<br /> 露骨に身体のラインを強調せず、と言って、子供っぽく地味な感じでもない。<br /> ただ、妙齢の女性にしては、少しおとなしすぎるだろうか。<br /> 有栖川は、そんな雛苺の機微を見透かしたかのように、眼を細めた。<br />  <br /> 「もっと色っぽい、ピンクのネグリジェでも使ってると思ったぁ?」<br /> 「んー。ヒナの見立てだけど、もっと似合いそうな色やデザインが、ありそうかなって」<br /> 「とは言われても、肩身の狭い居候だものねぇ。分は弁えなきゃ。<br />  それに、あれこれ着飾ったところで、家事の邪魔になるだけよ」<br />  <br /> たしかに、フリルつきのドレスなんかを着ていては、マトモに洗濯などできまい。<br />  <br /> 「おしゃれに、まったく興味がないワケじゃあないのね」<br /> 「そこは、やっぱり女の子だもの。ファッション雑誌だって流し読んだりね。<br />  たまにはボディコンとか着て、颯爽と街を歩いてみたいとか、思ったりするわ」<br /> 「スタイルいいものねー。黒のボンデージとかも、きっと似合うのよ」<br /> 「はぁあ? や……やぁよ。そんなの着ないってば」<br />  <br /> と言いつつも、自身のふしだらな姿を想像したらしく、有栖川は赤ら顔でイヤイヤをした。<br /> 脳震盪をおこしてしまうのではないかと、雛苺が危惧してしまうほどに。<br /> けれど、倒れるよりも、疲れるほうが早かったようで。<br /> やおら顎を引いた彼女は、ひとつ吐息した。<br />  <br /> 「あーぁ、もぉ……バカみたぁい」<br />  <br /> バカ、とは、雛苺の意地悪い冗談に対してか。<br /> それとも、一瞬でも淫らな想像してしまった自分への嘲りか。<br /> 有栖川はカーディガンのボタンを玩びながら、唇に、誤魔化すような笑みを作った。<br />  <br /> 「ま、それはともかく。これね……ちょっとした思い出の品なのよ。<br />  私が退院するとき、お祝いにって、もらった物」<br />  <br /> そう言えば、と。雛苺はまた、薔薇水晶との語らいを、記憶から引っぱり出した。<br /> 2年前――どのくらいの期間かは聞きそびれたが、有栖川は入院していたのだ。<br /> 退院祝いとは、その時のことに違いない。<br />  <br /> 「ばらしー? それとも、槐さん?」<br />  <br /> 順当に考えれば、この2人か。もしくは、日用品を贈るぐらい親しい間柄の者だろう。<br /> しかしながら、退院の日にパジャマを贈るというのも、考えてみれば無神経な話だ。<br /> うがった見方をすれば、ずっと入院してろと暗に仄めかしているようではないか。<br />  <br /> 槐や薔薇水晶は、そこまで思慮に欠けていたり、性格の歪んだ人たちではない。<br /> ましてや、赤の他人である医師や看護士なら、気安くプレゼントなんか渡すはずがない。<br />  <br /> では、彼ら以外の誰かが居たとして……それは、誰なのか?<br /> 雛苺が問うより早く、その答えはアッサリと、有栖川の口から紡がれた。<br />  <br /> 「入院中にね、すっごく仲良くなった女の子がいたのよ。その娘が、くれたの」<br /> 「やっぱり、患者さん?」<br /> 「ええ。めぐ――あ、彼女の名前よ。ずいぶん長く入院してるみたいでね」<br />  <br /> めぐ。その名はなぜか、雛苺の胸をドンと打ち、大きな波紋を残した。<br />  <br /> 「どんな女の子なの?」<br />  <br /> その理由を知りたくて、雛苺が訊くと、有栖川は「そうね……」と。<br /> どこか芝居がかった仕種で、腕組みをした。<br />  <br /> 「身も蓋もない言い方をすると、イカレた子よ」<br />  <br /> 本当に、フォローのしようもない。どういうリアクションをすればいいのか。<br /> 戸惑う雛苺をよそに、有栖川は辛そうに目を伏せ、続ける。<br />  <br /> 「でも、とても可哀想な子。生まれつき、心臓に疾患があってね。<br />  子供の頃から、あんまり学校にも行けなかったんですって。<br />  定期テストも、病室にわざわざ担任の先生が来て、受けてたそうよ」<br /> 「じゃあ、友だちは――」<br /> 「少ないわよね、当然。義務教育課程は、なんとか修了したらしいけど。<br />  高校の卒業式にも出られなかったって。今も、ずっと独りで病室に――」<br />  <br /> 雛苺には、考えられない生活だった。<br /> いや……想像もしたくない世界だった。<br /> 子供の頃から、独りぼっちにされることを、なにより恐れていた彼女にとっては。<br />  <br /> 雛苺が絵を描き始めたのは、ある意味、現実逃避だったのだろう。<br /> 空想の世界を描いている間だけは、けっして独りではなかったから。<br /> そんな妄想癖は、大学に進んでもなお、彼女の中で大きなウェイトを占めていた。<br />  <br /> でも、ここ数日で、彼女の創作にかける意気込みは、大きく変わりつつある。<br /> 自己満足のレベルから、誰かの歓びを生みだせる絵を描きたいと、思うようになっていた。<br />  <br /> 「めぐさんは、もう何年、そういう生活をしてるの?」<br /> 「ついこの間、二十歳になったと言ってたから……少なくとも、2年ぐらいかしら」<br /> 「二十歳? ヒナと同じ年なのね」<br />  <br /> 瞬間、また――雛苺の胸裡が波立ち、顧みもしなかった深い部分に、綻びが生まれた。<br /> 『めぐ』と言う名の、同い年の娘。なにかを、思い出しかけている。<br /> けれど、記憶のどこに光を当てればいいのか分からず、思考は堂々めぐりをするばかりで。<br />  <br /> 「フルネーム、教えてなの」<br />  <br /> せめてもの手懸かりを求めて訊ねると、すぐに答えが返ってきた。<br />  <br /> 「柿崎めぐ、よ。もっとも、そう呼ばれるのも、あと少しなんだけど」<br /> 「え? それ、どういう……」<br />  <br /> まさか、戒名になるからだなんて不謹慎なことを、言うつもりなのか。<br /> 表情を硬くした雛苺に、有栖川は、ひらひらと手を振って見せた。<br />  <br /> 「やぁね、誤解しないで。縁起でもない意味じゃないわぁ」<br /> 「うよ? じゃあ、なんなの?」<br /> 「名字が変わるのよ。彼女、もうすぐ結婚するから」<br /> 「と言うことは、もう普通に暮らせるぐらい、快復したのね! めでたしなのー」<br />  <br /> てっきり、めぐが退院するのだと思って、雛苺は小さく手を打ち鳴らした。<br /> しかし、対する有栖川は、息苦しそうに顔を俯けた。<br />  <br /> 「そうじゃないわ。めぐは……治ってなんか、ない」<br /> 「え? でも――」<br /> 「彼女も、結婚するつもりなんか、なかった。どうせ死ぬんだから、って。<br />  私や彼を含めた周囲に辛く当たって、自ら遠ざかろうとまでしたのよ。<br />  でも、バレバレなのよねぇ、ただの虚勢だってことは」<br />  <br /> 人一倍の寂しがりなクセして、おバカさんなんだから。<br /> 有栖川は毒突いて、その割には、どこか嬉しそうな面持ちで続けた。<br />  <br /> 「結局、熱心に通いつづけてくれる彼の想いに絆されてね……決めたんだって。<br />  残された時間のすべてを、彼を信じつづけて生きていくと」<br /> 「そんなにも想われて、めぐさん、幸せなのね」<br /> 「……そうね。呼んでくれる声に気づけた人は、とても幸せだわ」<br />  <br /> 言って、有栖川が、自嘲めいた笑みを浮かべる。<br /> 雛苺には、なぜ彼女が、そんな風に微笑むのか解らなかった。<br />  <br /> 「有栖川さんは、めぐさんの彼氏さんに、会ったことあるの?」<br /> 「ええ、あるわ」<br /> 「どんな人? かっこいい?」<br /> 「パッと見、さえない男よ。私より背が低いし、オタクっぽいメガネ君だしぃ。<br />  だけど、質実剛健……って言うのかしら。芯の強い感じはしたわねぇ」<br /> 「めぐさんも、きっと、そういうトコに惚れたのね」<br /> 「かもね。最近じゃあ、お見舞いというより、ノロケ話を聞かされに行ってるわ。<br />  柿から桜に生まれ変わるのよ――とか。ほぉんと、バカみたいよねぇ。<br />  なに言ってるんだかってカンジぃ。そう思わなぁい?」<br />  <br /> 有栖川は、肩を竦めて同意を求めてくるが、雛苺には、そんな余裕などなかった。<br /> 柿から、桜。その一言が、点々と散らばっていた記憶を、電撃的に結びつけたのだから。<br />  <br /> 柿崎めぐ――高校一年生の頃――色白で楚々とした、制服の似合う女の子。<br /> 文化祭のイベント――そして……たった一度きりの――学年のプリンセス。<br /> クラスが違ったから、それほど親しくはなかったけれど。<br /> 思い出してしまえば、閉ざした瞼の裏に、苦もなく彼女の顔を描けた。<br /> 卒業アルバムの片隅に、独りだけ外れて載せられていた、少女の微笑みを。<br />  <br /> 今にして振り返ると、あの娘を見かけなくなったのは、文化祭を過ぎたあたりから。<br /> 友人でもない子のプライベートに興味はなかったけれど……こうなれば話は別だ。<br /> 入院の時期も重なるし、同姓同名の他人という線は、かなり薄い。<br />  <br />  <br /> ――ジュンが、あの娘と交際していた。結婚するくらいに、親密だったなんて。<br /> そのことに今まで気づきもしなかった自分の鈍さを、雛苺は軽く嫌悪した。<br />  <br /> 「あら、やだ……すっかり話し込んじゃって。<br />  ごめんなさぁい。急いで、駅までの地図を描いてあげるわね」<br />  <br /> 有栖川は立ち上がりかけて、ふと。「ところで、お住まいは、どこだったかしらぁ?」<br /> 雛苺が、家からの最寄り駅を告げると、彼女はコミカルなほどに、目を丸くした。<br />  <br /> 「ちょっと、ウソでしょぉ! 電車一本じゃ帰れないじゃないのよ、それぇ。<br />  今からだと……ああ、ダメだわ。どんなに急いでも、乗り換えの終電に乗れない」<br /> 「……え? え、えええっ?! ホントにー?」<br /> 「ごめんなさい。最初に、訊いておくべきだったわね。<br />  あらかじめ知っていたら、暢気に髪なんか乾かしてなかったのに」<br /> 「謝らないで。ヒナが、ちゃんと時刻表を確かめてなかったのが悪いんだもの」<br />  <br /> 我がことのように落胆する有栖川を宥めたものの、雛苺だって内心、穏やかではない。<br /> 電車で帰れないのであれば、別の交通手段に頼るか、明日の始発まで待つか、だ。<br /> 始発に乗るとなると、往路の時間から逆算して、今度はアルバイトに遅刻する。<br /> タクシーなら、駅前から乗れるだろうが、どれだけ料金が嵩むことか。<br /> 自転車を借りて、夜通しサイクリングという手段も、単独では危ないし、怖かった。<br />  <br /> こうなったら、夜中だけれど家に電話して、父親に車で迎えに来てもらうしかない。<br /> ただ、もう晩酌をすませて、寝てしまったかも知れない。その可能性は高かった。<br /> ちなみに、雛苺の母親は、車輪のついた乗り物なんか、まったく運転できない人だ。<br />  <br /> 「うー。どうしよう……困っちゃったのよ」<br />  <br /> ココロが痛むけれど、薔薇水晶を叩き起こせば、車で送ってもらえそうだが……<br /> 雛苺は、気が進まなかった。もしも居眠り運転なんかされたら、それこそ困る。<br />  <br /> いっそ、バイト先には明日の朝、急病で休むと電話してしまおうか。<br /> ふとした思いつきが、急速に本気度を増してゆく。<br /> 両親は怒るだろう。食事するとは伝えたが、外泊するとまでは言ってないのだから。<br />  <br /> しかし、だ。そうしたら、電車の運行ダイヤに振り回されずに済む。<br /> 病院に立ち寄って、柿崎めぐと面会する時間だって作れる。<br /> そう思ってしまうと、雛苺の気持ちは、ズル休みへと大きく傾いた。<br />  <br /> 「あの」今夜は、泊めてもらおう。雛苺が、頼もうとした折りもおり――<br />  <br /> 「仕方がないわね。せめてものお詫びに、私が、家まで送ってあげるわ」<br /> 「……え? ど、どうやって?」<br /> 「車で行くに決まってるじゃない。私の運転でね」<br /> 「免許、持ってるの?」<br />  <br /> 訊くと、有栖川は頷いて。「半分だけ当たり。更新しないまま、失効しちゃったけどねぇ」<br /> 茶目っ気たっぷりに、ちらと舌を見せた。つまりは、無免許運転。<br />  <br /> 「だ、ダメなのっ! 有栖川さんが捕まっちゃったら、ばらしーが悲しむのよ」<br /> 「大丈夫よぉ。こんな夜中に、そうそう検問なんか、してないだろうしぃ」<br /> 「で、でも……」<br /> 「気にしない気にしなぁい。善は急げ、よ」<br />  <br /> 有栖川は手をひらひらさせ、快活に笑いながら、雛苺のデイパックを掴みあげた。<br /> 「それに、私が一緒のほうが、帰りが遅くなった言い訳もしやすいでしょ」<br />  <br /> たしかに、両親の怒り顔を思うと、独りで帰宅するのは腰が引ける。<br /> 雛苺は、有栖川の配慮に、ちからなく頭を下げた。「お願いします……なの」<br />  <br />  <br />  <br /> 連れ立って一階に降りると、雛苺は暇乞いのため、照明が点きっぱなしの応接間を覗いた。<br /> そこには槐が居た……が、彼はソファーに横たわり、寝息を立てていた。<br /> テーブルには、ウイスキーのボトルと、錫とおぼしい白銀のタンブラー。<br /> 水割りを呑んでいたのだろう。タンブラーには、角の丸まった氷が残されていた。<br />  <br /> 「やぁね、先生ったら。こんなところで寝てると、風邪ひきますよ」<br />  <br /> 口を『へ』の字にしつつも、揺さぶり起こす気などは、まったくないらしく。<br /> 有栖川は、隣室から毛布を持ってきて、そっ……と彼に被せた。<br />  <br /> 「これで、よしっと。さ、行きましょ」<br />  <br /> 言って、彼女はさも当然のように、テーブルに置かれたキーケースに手を伸ばした。<br /> ブルガリのロゴが入った、牛革製のキーケースだ。槐の私物に違いない。<br /> 慣れた手つき。どうやら、酔っているのを幸いと拝借した前科がありそうだ。<br /> けれど、雛苺は咎めなかった。それができる雰囲気でもなかった。<br />  <br />  <br /> ガレージのシャッターは、よほど手入れが行き届いているようで。<br /> ほとんど軋むことなく、巻き上げられていった。<br /> 夜の静寂にあっては、エンジンのアイドリング音のほうが、喧しいくらいだ。<br /> 車道まで徐行して、一旦停止。車中からのリモコン操作で、シャッターは静かに閉じた。<br />  <br /> 「今夜、降るなんて言ってたかしらぁ」<br />  <br /> カーナビに目的地を入力しながら、有栖川が独りごちる。「夜の雨って、嫌いよ」<br /> 雛苺は、濡れだすフロントガラス越しに暗い世界を凝視したまま、相槌を打った。<br />  <br /> 「こんな中を、駅まで歩いてたら、きっとズブ濡れになってたなの。<br />  あ、そうだわ。帰りの道順は、ヒナの言うとおりに行ってもらっていい?」<br /> 「近道とか、抜け道を知ってるわけ?」<br /> 「ま、そんなとこなのー。まっすぐ進んで、大通りに出たら左ね」<br />  <br /> その説明に、有栖川は怪訝な顔をする。「でも、それじゃ方角が逆よぉ?」<br /> しかし、雛苺は「いいのいいのー」と微笑むだけ。<br /> 自信に満ちた笑顔に押し切られるように、車は進みだした。<br />  <br />  <br /> だが、指示どおりに車を走らせるうちに、有栖川の表情が硬くなり始めた。<br /> 彼女にも、見当がついてきたらしい。雛苺が、どこに向かおうとしているのか。<br />  <br /> 「ねえ。本当に、こっちで間違いないのぉ?」<br />  <br /> 訊ねる有栖川の声には、ありありと緊張が滲んでいた。<br /> それに対する雛苺の返答は、まったく脈絡のない質問。<br />  <br /> 「どこまで……逃げ続けるつもりなの?」<br />  <br /> ――沈黙。有栖川は舌を抜かれたスズメのように、押し黙っている。<br /> 雛苺はさらに、2人の間に横たわる溝を埋めるべく、言葉を並べた。<br />  <br /> 「いつまで、有栖川アリスを演じているの? 過去から目を背けてるの?<br />  妄想という偽りの夢に浸っているのは、たしかに心地いいものだけど。<br />  でもね、貴女がどれほど夢に逃れようとも、アリスにはなれないのよ。絶対に」<br />  <br /> ハンドルを握る手が、僅かに震えた。車体が緩やかに横揺れする。<br /> 走行中の車内でも、有栖川の喉が鳴る音が聞こえた。<br />  <br /> 「…………なんの話ぃ? 意味が、よく解らないわ」<br />  <br /> 懸命に冷静をよそおい、紡ぎだしたであろう掠れた呟きに、雛苺もまた反論する。<br />  <br /> 「じゃあ、はっきり言ってあげるの。貴女、水銀燈でしょ?<br />  ヘアスタイルを変えたり、整形したり……それまでの自分を壊すのは、勇気の要るコトよ。<br />  だけど、本気で別人になりたかったのなら、躊躇ったりしないハズなの」<br />  <br /> それなのに、最も目立つ外見を、変えてすらない。<br />  <br /> 「貴女は、水銀燈であることを、捨てられずにいるのね。<br />  なぜなら、それは貴女にとって、なによりも大切な――」<br /> 「うるさいっ! 人違いよ! 私は有栖川アリスだってば!」<br /> 「……ヒナね、真紅に見せてもらったなの。学生の頃の、貴女たちの写真を」 <br />  <br /> 「他人のそら似よ」<br /> わななき、力なく言い返した唇は、寸暇も待たず開かれる。「……なんてね」<br />  <br /> そのあとに、諦念を色濃く滲ませた溜息が、長く続いた。<br /> もしかしたら、それは、やっと偽りの仮面を脱げた安堵の吐息だったかも知れない。<br />  <br /> 「最初っから、私を連れていこうって魂胆だったのね。真紅のところまで」<br /> 「貴女が、そうしたいんじゃないの? 運転してるのは、水銀燈なのよ。<br />  イヤだったら、いつでも引き返せるのに、そうしないんだもの」<br /> 「……それもそうよね。じゃあ帰りましょ」<br /> 「んもぅ……依怙地なんだから」<br />  <br /> 雛苺に言われるまでもなく、水銀燈には解っていた。自分が、どれほど意地っ張りなのかを。<br /> たった一度だけでも会いたいと願っていながら、二の足を踏んでしまう、臆病なココロも。<br /> たった一言、声が聞きたいのに、イタズラ電話をよそおうことさえできない。<br /> ときどき、こんな風にこっそりと、真夜中のドライブをしてみたけれど。<br /> 真紅の家までは、いつだって行けずじまいだった。<br />  <br /> 薔薇水晶にローザミスティカのことを教えたのも、僅かばかりの接点を欲したから。<br /> いま、こうして雛苺の言いなりに車を走らせてきたのも、実は――<br />  <br />  <br /> 運命的な再会をした、ジバゴ青年とラーラみたいに。<br /> 誰かのお膳立てでもいい。胸裡のどこかで、そんな偶然を期待していた。<br /> だから、どれだけアリスに成りきろうとしても、姿だけは変えられなかった。<br />  <br /> 「バッカみたい。どうかしてるわ、イカレてるわ」<br /> 「……それが、本心なのね」<br />  <br /> 雛苺は、柔らかい微笑みを、水銀燈に向けた。<br />  <br /> 「そうそう。ヒナ、真紅の家に忘れ物しちゃってたの。だから、途中で寄ってね。きっとよ」<br />  <br />  <br />   ~  ~  ~<br />  <br /> ソファに横たわっていた槐は、ゆっくりと身を起こした。<br /> 最初から、眠ってなどいなかった。酔ってさえも。<br /> すべては、2年も続けてきた『家族ごっこ』に、終止符をうつための演技。<br /> 本当の幕切れとなるか、ただの幕間になるのかは、彼にも分からなかったけれど。<br />  <br /> みし、みし……。階段を降りてくる、忍び足。<br /> 応接間のドアが、そっと開かれ、薔薇水晶が顔を覗かせた。<br /> 子犬を思わす頼りなげな眼差しが、なにかを求めて彷徨う。<br /> そして、「行ってしまったのね」と。震える声。潤んだ瞳。<br />  <br /> 「……あの人が、本当のお姉ちゃんだったら…………よかったのに」<br />  <br /> 振り絞るように言って、鼻を啜り、唇を噛みしめた娘を、槐が手招きする。「おいで」<br /> 薔薇水晶は素直に、彼の隣に腰を降ろした。<br /> 槐は、そっと……壊れ物を包み込むかのごとく、娘を抱き寄せた。<br />  <br /> 「傷ついた動物は、それが束の間であっても、安住の場所を求めるものだよ。<br />  だけど、その傷が癒えれば、また旅立ってしまうんだ。彼女も……ね」<br /> 「じゃあ……また傷ついちゃったら、戻ってきてくれる?」<br />  <br /> 不穏な気配を滲ませて、薔薇水晶が呟く。また、傷ついたのなら――<br /> そこまで思い詰めるほどに、娘は彼女を慕っていたのだと知って、槐は胸を痛めた。<br /> だからこそ、より強く薔薇水晶を抱きしめ、柔らかな髪に頬をすり寄せた。<br />  <br /> 「これっきり、じゃないよ。彼女だって、君を忘れはしないさ。きっとね。<br />  だから、追いかけて捕まえようとしては、いけないよ。<br />  黙って見送ってあげよう。君の、素敵なお姉さんを」<br />  <br />  <br /> ……こくん。<br /> 槐の腕の中で、薔薇水晶は小さく、だが、しっかりと頷いた。 <br />  <br />  <br />  <br />   -<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/4042.html">to be continued</a>-<br />  <br />  </p>

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