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「『誰より好きなのに』 後編」(2008/06/30 (月) 01:32:37) の最新版変更点
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<p align="left"> <br />
<br />
真紅に――お母さまに、戻れと言われ……私は従った。<br />
でも、それは本当に、正しい選択だったのだろうか。<br />
お父さまを襲った悲劇も、知らず、私が持ち帰ったからじゃないの?<br />
『浦島太郎』の昔話にある、玉手箱みたいな、余計なお荷物を。<br /><br /><br />
あの物語で、太郎は箱から噴き出した白煙を浴びて、老人になった。<br />
竜宮城と現世におけるタイムラグを、一気にリセットしたからだ。<br />
では――私はいつ、その箱を開けたというのか。<br /><br />
「もしかして……《九秒前の白》のことを、打ち明けたから」<br /><br />
真紅と、きらきーの話を話したがために、この状況が引き起こされた……と?<br />
向こうで感じた幸せの、対価として。<br /><br />
「もし、そうだとしても――」<br /><br />
だったら、私のみを不幸にすればいい。私の身を傷つければいい。<br />
連帯保証人じゃあるまいし、誰かを巻き添えにする必要なんて、どこにもない。<br />
それなのに……どうして。<br />
口惜しさに唇を噛みながら、私は、目の前のベッドに視線を落とした。<br />
<br />
<br />
<br />
お父さまは、俯せの姿勢で、ベッドに寝かされていた。<br />
ここは集中治療室。見慣れない医療機器に囲まれ、お父さまは眠りに就いている。<br />
お医者さまも看護士さんも、夜明け前には、一連の処置を終えて出ていった。<br />
今は、私たちだけ……。<br /><br />
一命を取り留めたものの、お父さまの具合は依然として、予断を許さない状態だ。<br />
当たり前よね。倒れてきた電柱の、下敷きになったんだもの。<br />
<br />
折れた肋骨が背中に突き抜けていたり、椎骨が砕けたり、歪んでしまったり。<br />
数時間にも及ぶ手術で、見た目だけは元どおりだけれど……<br />
それは背骨や肋骨に沿って埋め込まれた、金属の固定具があっての話だ。<br /><br />
脊髄の損傷度合いによっては痺れが残り、悪くすれば下半身不随になるかも。<br />
お医者さまには、そう説明された。<br /><br />
「お父さま」<br /><br />
胸がはち切れそうに痛くて、喘ぐように口を開けば、溜息が零れるだけ。<br />
私には医学なんて解らない。<br />
専門家の話を鵜呑みにして、不安に苛まれながら、祈ることしかできない。<br /><br />
だけど、それでも、生きていてくれたから……<br />
わずかでも気休めの余地があるだけ、まだ救われていた。<br />
それすらできない状況になっていたら、きっと、罪悪感に押し潰されていた。<br />
今度こそ本当に、私は生きていなかったに違いない。<br /><br />
「お父さま。私……ちょっと家に戻ります。<br />
着替えとか、洗面用具とか……いろいろ持ってこないと」<br /><br />
お父さまの頬に触れて、微かな息づかいと肌の温もりを確かめた。<br />
麻酔が効いて熟睡している。どうせ聞こえてない。それでも、私は話しかけた。<br />
いつもみたいに振り向いてくれるんじゃないかしらと、淡く期待しながら。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
半日ぶりくらいで帰り着いた家の様子は、ほぼ昨夜のままだった。<br />
工房の床の、砕けたティーカップ。作業机に横たわる人形。お母さまの写真。<br />
そもそも、ドアには鍵さえ掛かってない有り様で。<br />
いかに、お父さまが必死になって追いかけてくれたかを、物語っていた。<br /><br />
私がいないと知るや、取るものも取り敢えず、外に飛び出して――<br />
そして、荒れ狂う海に身を投げた私を見つけて、命がけで救ってくれたのだ。<br />
どうしようもなくバカな、こんな私を。<br />
<br />
<br />
「ごめん……なさい」<br /><br />
また、涙。<br />
どうして8年もの間、一度も泣かずに生きてこられたのか……不思議でならない。<br />
私って、本当は、すごい泣き虫なのかも。そうとしか考えられない。<br /><br />
「ヤダな、もぅ。とにかく…………入院の支度……しなきゃ」<br /><br />
――でも、その前に。<br />
眼帯で、おまじないをしたほうが、よさそう。<br />
これから先も、コトある毎に泣いてばかりでは困るから。<br /><br />
グズグズと鼻を啜りながら、お父さまの作業机に歩み寄った。<br />
お母さまを模した人形と、お母さま本人の写真。<br />
そして、そこに、私の眼帯も並べてあった。きちんと、拾っておいてくれたのね。<br /><br /><br />
「ありがとう……お父さま」<br /><br />
私は眼帯を手にとって、握った拳を、胸に押し当てた。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
洗面所で、グシャグシャの泣き顔を洗い引き締めてから、眼帯を着けた。<br />
少しは、まともな顔になったかな……鏡を覗き込んで、微笑んでみる。<br />
その鏡像が、ふと《九秒前の白》で会った妹の顔と重なり、私は息を呑んだ。<br /><br />
髪の感じ、金色の瞳、面差し。どれをとっても、よく似ている。生き写しだ。<br />
……と、言うか。<br /><br />
「どうして、今まで忘れてたのかしら」<br /><br />
私は、しばらくの間、鏡を見つめたまま、愕然と立ち尽くしていた。<br />
あれは――『きらきしょー』とは、私の……幼い頃の姿に他ならない。<br />
正確には、子供だった私が憧れていた、理想の自分。<br /><br /><br />
腐臭の澱む、ろくに陽も当たらない路地裏に座り込んで、私は眺めていた。<br />
祭りに沸く街角を、煌びやかに着飾った子供たちが、親の手を引いて駆けてゆく様を。<br /><br />
私も、あんな風に――<br />
みすぼらしく、異臭を放つボロを纏った私には、その世界が、とても眩しく見えた。<br /><br />
汚れひとつない、洗いたての匂いのする服を着て、美味しい物を食べて……<br />
ありとあらゆる祝福を与えられた、幸せな、美しい女の子。<br />
羨望と憧憬は、飽くことなき妄想の糧。<br />
いつしか、私は自らの中に、別の人格を生みだすまでの夢想家に成長していた。<br /><br />
アリス――と言うのが、もうひとりの私の名前。<br />
お父さまたちと出逢うまで、アリスは私の、唯一の友だちだった。<br /><br />
ヘドロ臭い運河の水面に写した、自分の姿。<br />
そこに居る女の子こそが、アリス……私の分身。<br />
汚れた水に投影された、汚れた娘の鏡像だというのに、彼女はとても美しかった。<br />
<br />
<br />
<br />
アリス――『きらきしょー』の居た世界。<br />
《九秒前の白》とは、つまり私の妄想が築きあげた、仮想空間なのかしら?<br />
お母さま――真紅が言っていたことを、反芻してみる。<br /><br /><br />
『ここには、私たちしか居ないわ。私たちしか入れないのよ』</p>
<p align="left"> 『貴女は生きて、歩き続けなさい。そして、此処を守るのだわ』<br /><br /><br />
あれは、妄想を紡ぎ続けなさいと。<br />
せっかく産まれた世界を、守って生きなさい――と。そういう意味だったの?<br />
でも、それならどうして『きらきしょー』は、アリスと名乗らなかったのか。<br />
彼女と一緒にいた、お母さまは…………だぁれ? まさか、本物の幽霊?<br /><br />
解らない。こんがらがってきた。<br />
どうして私って、こうバカなんだろう。毎度のことながら、自己嫌悪。<br /><br />
「ああ……もぅ、ヤメヤメ。悩む前に、始めなきゃ。いろいろと」<br /><br />
私はコツンとアタマを叩いて、おかしな考えを追い出した。<br />
とにもかくにも、病院に持っていく荷物を、纏めなければ。<br />
それに、当分は休業するとは言え、工房とお店を掃除しておかないと。<br />
今は、私だけが、ここを守れるのだから。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
まずは、割ってしまったティーカップの片づけ。<br />
売り物のお人形を並べ直したり、ショーケースのガラスを拭いたり、箒で床を掃いたり。<br />
家事に専念しているところに、来客を告げるドアベルが鳴った。<br /><br />
「ごめんなさい。しばらくお休――あ」<br /><br />
店に入ってきたのは、隣で喫茶店を経営している、お父さまの古い親友だった。<br />
切れ長の眼をした優男ながら、ここ一番では頼りになる人だ。<br /><br />
「白崎さん……あの、昨夜は……ありがとうございました」<br />
「なぁに、気にしないでいいよ」<br /><br />
白崎さんは、人好きのする笑顔で、ひらひらと手を振った。<br />
昨夜は、この人が、すべて手配してくれたのだ。泣き喚くだけの私に代わって。<br />
その後も、お父さまの手術が終わるまで私に付き添い、慰めてくれていた。<br />
もし、この人が気づいてくれてなかったら……と思うと、ゾッとする。<br /><br />
「槐くんが一命を取り留めて、まずは、ひと安心だね」<br />
「でも……まだ、予断を許さない状況だって、お医者さまが」<br />
「彼だって若いから、回復力もあるし、きっと大丈夫だよ」<br />
「はい」<br /><br />
俯いた私のアタマを、白崎さんの手が優しく叩く。ぽふぽふぽふ……。<br /><br />
「ほらほら、落ち込んでる暇なんかないよ。君が、しっかりしなきゃ。<br />
槐くんが帰る場所は、ここしかないんだからね」<br />
「それは、解ってます……けど」<br />
「笑う門には福きたる、って言うだろう。ほぉーら、スマイルスマイル~」<br />
<br />
むにに……と両の頬を摘まれて、ムリヤリ笑顔にさせられた。<br />
知り合ったときから、こういう人だ。ちょっと強引で、戯けかたが道化っぽい。<br />
でも、気さくで、なんだか憎みきれない人。<br /><br />
白崎さんの指が離れても、私の作られた笑みは、崩れなかった。<br />
むしろ、自然と笑いが沸いてきたから不思議。<br />
思わず噴いてしまった私を見て、彼も満足そうに破顔した。<br /><br />
「掃除が終わったら、病院に行くんだろう?<br />
いろいろと持っていく物もあるだろうし、僕の車で送ってあげるよ」<br />
「白崎さん……お店は?」<br />
「心配いらない。頼れるワイフが、ちゃんと切り盛りしてくれてるからね」<br /><br />
こんな人にも、奥さんがいる。名前は、めぐ。大学の同期生だったとか。<br />
感情の起伏が激しいところはあるけど、基本的に、優しい女性だ。<br />
それに、黒髪と喫茶店のエプロンが似合う、とっても綺麗な人。<br />
お母さまが亡くなってから、この白崎夫妻には、とても良くしてもらってきた。<br /><br />
「掃除なら、僕が代わってあげるから、君は荷物を纏めておいで。<br />
おなかも空いてるだろう? 病院に行く前に、ウチで食べていくといいよ。<br />
……だけど、まずはシャワーを浴びるべきだね」<br /><br />
言われて、今更だけど気づいた。私、昨日から着替えてない。<br />
髪はバサバサだし、服はムワッと潮臭くて、とても人前に出られたものじゃなかった。<br /><br />
「打ち身が痛くて洗いにくいようなら、僕が手伝ってあげようか」<br />
「…………めぐさんに言いつけますよ」<br />
「失礼しました、お嬢様。それだけは勘弁してください」<br />
<br />
セクハラまがいの軽口も、沈みがちな私の気を紛らそうとの、配慮だったのだろう。<br />
私は身支度を整えてから、めぐさんのアドバイスに従い、当面の荷物を纏めた。<br />
白崎さんの店でお昼をご馳走になってから、彼の運転する車で、病院へ――<br />
<br />
<br />
<br /><br />
お父さまは、依然として、昏々と眠り続けていた。<br />
手術で背中を切開したから、俯せ寝のままだけれど、苦しそうな寝顔ではない。<br />
「やれやれ、いい気なものだねえ」とは、白崎さんの感想。<br /><br />
「せっかく、愛娘がお見舞いに来てくれたっていうのに」<br />
「いいんです。今まで……働き過ぎな感もあったし」<br />
「文字どおりの骨休めだったら、どんなに良かっただろうね」<br />
「……本当に」<br /><br />
何本も骨を折っている状態では、洒落にもならない。<br />
いつか……こんなコトもあったねと、みんなで笑い合える日がくればいいけど。<br /><br />
「――さて。僕は、引き上げるとしようかな」<br />
「え? 来たばかりなのに」<br />
「目を醒ましそうもないからね、彼。また日を改めて、様子見に来るよ。<br />
薔薇水晶。君は、どうするんだい。帰るなら、送ってあげるけど」<br />
「いえ、あの…………もう少し、残っています。<br />
お医者さまから、治療のことで……お話あるかも知れないし」<br />
<br />
解った、と頷いて、白崎さんは踵を返した。「だけど、無理はしないように」<br /><br />
「ありがとう、白崎さん。めぐさんにも、よろしく伝えてください」<br />
「話しておくよ。それじゃあ、また」<br />
<br />
集中治療室のドアが、そっと閉じられる。<br />
それよって、廊下から流れ込んでくる諸々の音は、すっかり遮られてしまった。<br /><br />
静かだった。まるで、この部屋そのものが《九秒前の白》と化したような――<br />
そんな錯覚をしてしまうほど、濃密な静寂が、この場を支配していた。<br />
医療機器の動作音はするけれど、それさえも、掠れて聞こえるほどに。<br />
私は、ベッドの脇にスツールを置いて、腰を降ろした。<br /><br /><br />
「どんな夢……見てるの?」<br /><br />
長い長い、眠りの時間。<br />
それが、せめて楽しい夢ならばと、願わずにはいられない。<br />
たとえば――真紅や、きらきーに出会える夢とか。<br /><br />
ああ、でも、楽しすぎるのも考えものか。<br />
夢の世界にドップリ浸かって、こっちに戻ってくれなくなったら困る。<br />
私だけでは、あの工房を守ることなんて……できっこない。<br /><br />
「せめて――私が、お母さまと同じくらい……賢かったら」<br /><br />
詮ないこととは承知の上で、泣き言を呟いてみた。<br />
もちろん、本当に泣いたワケじゃない。<br />
眼帯の封印は、神憑り的な効果を発揮して、私の涙を堰き止めている。<br /><br />
ベッドに肘を乗せ、頬づえを突いて、間近で、じっくりと寝顔を観察する。<br />
けれど、お父さまは規則ただしい呼吸を、繰り返すばかりで。<br />
頬をツンツンしても、耳に息を吹きかけてみようと、まったく反応なし。<br />
本当に、よく眠っている。憑き物が落ちたような、安らかな表情で。<br />
<br />
<br />
今だったら――<br />
そんな想いに背を押されて、私は身を乗り出して、お父さまの耳元に唇を寄せた。<br /><br />
「……槐……さん」<br /><br />
この人を名前で呼ぶのは、憶えている限り、これが初めて。<br />
だから、なのか。それだけのコトなのに、ドキドキと、胸が苦しい。<br /><br />
でも、さっきまでの不安な胸騒ぎとは、根本的に違う。<br />
嬉しかったり、楽しいときのような、フワフワする感じの――<br />
巧く表現できないけれど、とても気持ちのいい胸のざわめきだった。<br /><br />
「だいすき」<br /><br />
今まで、何度も口にしてきた言葉だけど。<br />
今ほど、想いを込めて囁いたのは……やっぱり、初めてだと思う。<br />
仰向けに眠っていてくれたなら、本気の証しをあげられたのに。<br />
人口呼吸なんかじゃない、本当のキスを。<br /><br />
……ううん。これは、これで良かったのかもね。<br />
眠っている間に、コッソリ……なんて一方通行では、満足できないもの。<br />
誰よりも、好きだから――<br />
だからこそ、もう一度、真剣に想いを伝えたい。<br />
そして、叶うものなら、しっかりと受け止めて欲しかった。<br /><br />
「今はまだ……これで、我慢しておくね」<br /><br />
お父さまが目を醒まさないよう祈りながら、私は……<br />
伸び始めの無精ヒゲを避けて、そっと、彼の頬に口づけた。<br />
<br />
<br />
病室のドアが無造作に開けられたのは、まさに、その直後。<br />
ビクン! と飛び上がった弾みで、私はスツールごと床に倒れてしまった。<br />
ノックも無しにドアを開けた、不埒な粗忽者はと言うと……<br /><br />
「おやぁ? うたた寝でもしていたのかい」<br /><br />
と悪びれる様子もない。まったく……誰のせいだと思っているのか。<br />
飄々とし過ぎるのにも程がある。私は立ち上がって、白崎さんに詰め寄った。<br /><br />
「……し、白崎さんっ! ノックぐらいしてくださいっ」<br />
「これは失敬。驚かすつもりじゃなかったんだけどね」<br />
「悪気がないなら、余計に質が悪いです」<br />
「いやはや、確かに不注意だったね。申し訳ない」<br /><br />
白崎さんはアタマを掻き掻き、眉毛で八の字を描いた。<br />
ホントにもう……困った人だ。憎めないところが、また憎たらしい。<br /><br />
それにしても、なんで戻ってきたのかしら。<br /><br />
「てっきり帰ったとばかり……どうして、また?」<br />
「それが、駐車場を出ようとした矢先に、奥さんから電話があってね」<br />
「めぐさんが?」<br /><br />
眼で続きを促すと、白崎さんはベッドに伏せるお父さまを、チラと窺った。<br /><br />
「夕飯には絶対、君を連れてこいって。君を元気づけようと、準備してたらしい。<br />
腕によりをかけて作った料理を、ご馳走してくれるそうだよ」<br />
「そんな。そこまで……甘えられない」<br />
「いやいや。僕らの間で、遠慮は無しだよ」<br /><br />
それに、と。白崎さんは、喋りかけた私を遮った。<br /><br />
「槐くんが目を醒ましたら、忙しくて休む間もなくなるだろうからね。<br />
今夜中は起きないだろうし、英気を養える内に、しっかり休んでおいた方がいい」<br /><br />
一理ある。いつも白崎さんの車で、送迎してもらえるワケじゃない。<br />
毎日、洗濯物などの荷物を抱え、病院と自宅を往復するのはキツイだろう。<br /><br />
「そういうワケだから、ご招待されてくれないかな?」<br />
「ええ。じゃあ……お言葉に甘えて」<br /><br />
食事の用意までしてくれた2人の心遣いを、無下にはできない。<br />
それに、今は誰かとお喋りしていたい気分だった。話題なんか、なんでもいいから。<br /><br />
「よし、決まりだ。この時間だと道が混むけど、ちょうどいい頃合いに着けそうかな」<br /><br />
私は白崎さんに背中を押されて、ベッドから離れた。<br />
病室の出入り口で歩を止め、一度だけ振り返る。<br />
そして、ココロの中で囁きかけた。(あなただけを、ずっと想っています――)<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
白崎邸で夜食をご馳走になり、私は自宅に戻った。<br />
よく眠れるようにと、紅茶に赤ワインを入れて、舐めるように嗜んだ。<br />
眠りが浅いとき、お父さまは、よくこうしてワイン入り紅茶を飲んでいた。<br />
それを、ちょっとばかりの興味から、真似してみたのだ。<br /><br />
……が、ちょっと分量を間違えたらしい。飲み干して、ややも待たず、顔が熱くなってきた。<br />
歩くと、足元が覚束ない。アタマも、クラクラしてる。<br />
<br />
<br />
もう寝よう――とは思うものの、なんとなく、独りでベッドに入るのが嫌で。<br />
私は工房に行って、お父さまが仕事で使っている椅子に、腰をおろした。<br /><br />
お母さまの写真と、彼女を模した人形が、もの言わず私を見つめている。<br />
もしかしたら、未成年のくせに飲酒したバカ娘に、呆れて言葉もないのかも。<br /><br />
「……なんて、ね」<br /><br />
人形は、喋ったりしない。故人は、言葉を並べたりしない。<br />
そのくらいは、分かっている。<br />
理屈では解っているけれど、でも……やっぱり。<br /><br />
「声が……聞きたいな。夢で……また、逢――かな?」<br /><br />
行けるものなら、行きたい。あの、真っ白な泡沫の世界へと。<br />
私は、酔いの怠さに抗いきれず、作業机に両腕を重ねて、突っ伏した。<br />
そのまま、じっとしていると……瞼が、とろん。<br />
まるで、直火に炙られたチーズみたいに、とろとろと垂れ下がってくる。<br /><br />
何度か、ハッと目を開くも、ことごとくが徒労に終わった。<br />
そして気づく。どうして、無理して起きようとしているんだろう、と。<br />
眠ってしまえばいい。目を閉じて、もわもわと広がる無意識に沈みかけた、その一瞬。<br /><br /><br />
『夜は眠りの時間よ。おやすみなさい』<br /><br /><br />
脳裏で囁かれた声が、優しい余韻を引く。<br />
それは、お母さまの――真紅の口振りに、間違いなかった。<br />
でも……その声音は彼女のものではなく、私の声だった。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
エピローグにつづく<br />
<br />
</p>
<p align="left"> <br />
<br />
真紅に――お母さまに、戻れと言われ……私は従った。<br />
でも、それは本当に、正しい選択だったのだろうか。<br />
お父さまを襲った悲劇も、知らず、私が持ち帰ったからじゃないの?<br />
『浦島太郎』の昔話にある、玉手箱みたいな、余計なお荷物を。<br /><br /><br />
あの物語で、太郎は箱から噴き出した白煙を浴びて、老人になった。<br />
竜宮城と現世におけるタイムラグを、一気にリセットしたからだ。<br />
では――私はいつ、その箱を開けたというのか。<br /><br />
「もしかして……《九秒前の白》のことを、打ち明けたから」<br /><br />
真紅と、きらきーの話を話したがために、この状況が引き起こされた……と?<br />
向こうで感じた幸せの、対価として。<br /><br />
「もし、そうだとしても――」<br /><br />
だったら、私のみを不幸にすればいい。私の身を傷つければいい。<br />
連帯保証人じゃあるまいし、誰かを巻き添えにする必要なんて、どこにもない。<br />
それなのに……どうして。<br />
口惜しさに唇を噛みながら、私は、目の前のベッドに視線を落とした。<br />
<br />
<br />
<br />
お父さまは、俯せの姿勢で、ベッドに寝かされていた。<br />
ここは集中治療室。見慣れない医療機器に囲まれ、お父さまは眠りに就いている。<br />
お医者さまも看護士さんも、夜明け前には、一連の処置を終えて出ていった。<br />
今は、私たちだけ……。<br /><br />
一命を取り留めたものの、お父さまの具合は依然として、予断を許さない状態だ。<br />
当たり前よね。倒れてきた電柱の、下敷きになったんだもの。<br />
<br />
折れた肋骨が背中に突き抜けていたり、椎骨が砕けたり、歪んでしまったり。<br />
数時間にも及ぶ手術で、見た目だけは元どおりだけれど……<br />
それは背骨や肋骨に沿って埋め込まれた、金属の固定具があっての話だ。<br /><br />
脊髄の損傷度合いによっては痺れが残り、悪くすれば下半身不随になるかも。<br />
お医者さまには、そう説明された。<br /><br />
「お父さま」<br /><br />
胸がはち切れそうに痛くて、喘ぐように口を開けば、溜息が零れるだけ。<br />
私には医学なんて解らない。<br />
専門家の話を鵜呑みにして、不安に苛まれながら、祈ることしかできない。<br /><br />
だけど、それでも、生きていてくれたから……<br />
わずかでも気休めの余地があるだけ、まだ救われていた。<br />
それすらできない状況になっていたら、きっと、罪悪感に押し潰されていた。<br />
今度こそ本当に、私は生きていなかったに違いない。<br /><br />
「お父さま。私……ちょっと家に戻ります。<br />
着替えとか、洗面用具とか……いろいろ持ってこないと」<br /><br />
お父さまの頬に触れて、微かな息づかいと肌の温もりを確かめた。<br />
麻酔が効いて熟睡している。どうせ聞こえてない。それでも、私は話しかけた。<br />
いつもみたいに振り向いてくれるんじゃないかしらと、淡く期待しながら。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
半日ぶりくらいで帰り着いた家の様子は、ほぼ昨夜のままだった。<br />
工房の床の、砕けたティーカップ。作業机に横たわる人形。お母さまの写真。<br />
そもそも、ドアには鍵さえ掛かってない有り様で。<br />
いかに、お父さまが必死になって追いかけてくれたかを、物語っていた。<br /><br />
私がいないと知るや、取るものも取り敢えず、外に飛び出して――<br />
そして、荒れ狂う海に身を投げた私を見つけて、命がけで救ってくれたのだ。<br />
どうしようもなくバカな、こんな私を。<br />
<br />
<br />
「ごめん……なさい」<br /><br />
また、涙。<br />
どうして8年もの間、一度も泣かずに生きてこられたのか……不思議でならない。<br />
私って、本当は、すごい泣き虫なのかも。そうとしか考えられない。<br /><br />
「ヤダな、もぅ。とにかく…………入院の支度……しなきゃ」<br /><br />
――でも、その前に。<br />
眼帯で、おまじないをしたほうが、よさそう。<br />
これから先も、コトある毎に泣いてばかりでは困るから。<br /><br />
グズグズと鼻を啜りながら、お父さまの作業机に歩み寄った。<br />
お母さまを模した人形と、お母さま本人の写真。<br />
そして、そこに、私の眼帯も並べてあった。きちんと、拾っておいてくれたのね。<br /><br /><br />
「ありがとう……お父さま」<br /><br />
私は眼帯を手にとって、握った拳を、胸に押し当てた。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
洗面所で、グシャグシャの泣き顔を洗い引き締めてから、眼帯を着けた。<br />
少しは、まともな顔になったかな……鏡を覗き込んで、微笑んでみる。<br />
その鏡像が、ふと《九秒前の白》で会った妹の顔と重なり、私は息を呑んだ。<br /><br />
髪の感じ、金色の瞳、面差し。どれをとっても、よく似ている。生き写しだ。<br />
……と、言うか。<br /><br />
「どうして、今まで忘れてたのかしら」<br /><br />
私は、しばらくの間、鏡を見つめたまま、愕然と立ち尽くしていた。<br />
あれは――『きらきしょー』とは、私の……幼い頃の姿に他ならない。<br />
正確には、子供だった私が憧れていた、理想の自分。<br /><br /><br />
腐臭の澱む、ろくに陽も当たらない路地裏に座り込んで、私は眺めていた。<br />
祭りに沸く街角を、煌びやかに着飾った子供たちが、親の手を引いて駆けてゆく様を。<br /><br />
私も、あんな風に――<br />
みすぼらしく、異臭を放つボロを纏った私には、その世界が、とても眩しく見えた。<br /><br />
汚れひとつない、洗いたての匂いのする服を着て、美味しい物を食べて……<br />
ありとあらゆる祝福を与えられた、幸せな、美しい女の子。<br />
羨望と憧憬は、飽くことなき妄想の糧。<br />
いつしか、私は自らの中に、別の人格を生みだすまでの夢想家に成長していた。<br /><br />
アリス――と言うのが、もうひとりの私の名前。<br />
お父さまたちと出逢うまで、アリスは私の、唯一の友だちだった。<br /><br />
ヘドロ臭い運河の水面に写した、自分の姿。<br />
そこに居る女の子こそが、アリス……私の分身。<br />
汚れた水に投影された、汚れた娘の鏡像だというのに、彼女はとても美しかった。<br />
<br />
<br />
<br />
アリス――『きらきしょー』の居た世界。<br />
《九秒前の白》とは、つまり私の妄想が築きあげた、仮想空間なのかしら?<br />
お母さま――真紅が言っていたことを、反芻してみる。<br /><br /><br />
『ここには、私たちしか居ないわ。私たちしか入れないのよ』</p>
<p align="left"> 『貴女は生きて、歩き続けなさい。そして、此処を守るのだわ』<br /><br /><br />
あれは、妄想を紡ぎ続けなさいと。<br />
せっかく産まれた世界を、守って生きなさい――と。そういう意味だったの?<br />
でも、それならどうして『きらきしょー』は、アリスと名乗らなかったのか。<br />
彼女と一緒にいた、お母さまは…………だぁれ? まさか、本物の幽霊?<br /><br />
解らない。こんがらがってきた。<br />
どうして私って、こうバカなんだろう。毎度のことながら、自己嫌悪。<br /><br />
「ああ……もぅ、ヤメヤメ。悩む前に、始めなきゃ。いろいろと」<br /><br />
私はコツンとアタマを叩いて、おかしな考えを追い出した。<br />
とにもかくにも、病院に持っていく荷物を、纏めなければ。<br />
それに、当分は休業するとは言え、工房とお店を掃除しておかないと。<br />
今は、私だけが、ここを守れるのだから。<br />
<br />
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まずは、割ってしまったティーカップの片づけ。<br />
売り物のお人形を並べ直したり、ショーケースのガラスを拭いたり、箒で床を掃いたり。<br />
家事に専念しているところに、来客を告げるドアベルが鳴った。<br /><br />
「ごめんなさい。しばらくお休――あ」<br /><br />
店に入ってきたのは、隣で喫茶店を経営している、お父さまの古い親友だった。<br />
切れ長の眼をした優男ながら、ここ一番では頼りになる人だ。<br /><br />
「白崎さん……あの、昨夜は……ありがとうございました」<br />
「なぁに、気にしないでいいよ」<br /><br />
白崎さんは、人好きのする笑顔で、ひらひらと手を振った。<br />
昨夜は、この人が、すべて手配してくれたのだ。泣き喚くだけの私に代わって。<br />
その後も、お父さまの手術が終わるまで私に付き添い、慰めてくれていた。<br />
もし、この人が気づいてくれてなかったら……と思うと、ゾッとする。<br /><br />
「槐くんが一命を取り留めて、まずは、ひと安心だね」<br />
「でも……まだ、予断を許さない状況だって、お医者さまが」<br />
「彼だって若いから、回復力もあるし、きっと大丈夫だよ」<br />
「はい」<br /><br />
俯いた私のアタマを、白崎さんの手が優しく叩く。ぽふぽふぽふ……。<br /><br />
「ほらほら、落ち込んでる暇なんかないよ。君が、しっかりしなきゃ。<br />
槐くんが帰る場所は、ここしかないんだからね」<br />
「それは、解ってます……けど」<br />
「笑う門には福きたる、って言うだろう。ほぉーら、スマイルスマイル~」<br />
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むにに……と両の頬を摘まれて、ムリヤリ笑顔にさせられた。<br />
知り合ったときから、こういう人だ。ちょっと強引で、戯けかたが道化っぽい。<br />
でも、気さくで、なんだか憎みきれない人。<br /><br />
白崎さんの指が離れても、私の作られた笑みは、崩れなかった。<br />
むしろ、自然と笑いが沸いてきたから不思議。<br />
思わず噴いてしまった私を見て、彼も満足そうに破顔した。<br /><br />
「掃除が終わったら、病院に行くんだろう?<br />
いろいろと持っていく物もあるだろうし、僕の車で送ってあげるよ」<br />
「白崎さん……お店は?」<br />
「心配いらない。頼れるワイフが、ちゃんと切り盛りしてくれてるからね」<br /><br />
こんな人にも、奥さんがいる。名前は、めぐ。大学の同期生だったとか。<br />
感情の起伏が激しいところはあるけど、基本的に、優しい女性だ。<br />
それに、黒髪と喫茶店のエプロンが似合う、とっても綺麗な人。<br />
お母さまが亡くなってから、この白崎夫妻には、とても良くしてもらってきた。<br /><br />
「掃除なら、僕が代わってあげるから、君は荷物を纏めておいで。<br />
おなかも空いてるだろう? 病院に行く前に、ウチで食べていくといいよ。<br />
……だけど、まずはシャワーを浴びるべきだね」<br /><br />
言われて、今更だけど気づいた。私、昨日から着替えてない。<br />
髪はバサバサだし、服はムワッと潮臭くて、とても人前に出られたものじゃなかった。<br /><br />
「打ち身が痛くて洗いにくいようなら、僕が手伝ってあげようか」<br />
「…………めぐさんに言いつけますよ」<br />
「失礼しました、お嬢様。それだけは勘弁してください」<br />
<br />
セクハラまがいの軽口も、沈みがちな私の気を紛らそうとの、配慮だったのだろう。<br />
私は身支度を整えてから、めぐさんのアドバイスに従い、当面の荷物を纏めた。<br />
白崎さんの店でお昼をご馳走になってから、彼の運転する車で、病院へ――<br />
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お父さまは、依然として、昏々と眠り続けていた。<br />
手術で背中を切開したから、俯せ寝のままだけれど、苦しそうな寝顔ではない。<br />
「やれやれ、いい気なものだねえ」とは、白崎さんの感想。<br /><br />
「せっかく、愛娘がお見舞いに来てくれたっていうのに」<br />
「いいんです。今まで……働き過ぎな感もあったし」<br />
「文字どおりの骨休めだったら、どんなに良かっただろうね」<br />
「……本当に」<br /><br />
何本も骨を折っている状態では、洒落にもならない。<br />
いつか……こんなコトもあったねと、みんなで笑い合える日がくればいいけど。<br /><br />
「――さて。僕は、引き上げるとしようかな」<br />
「え? 来たばかりなのに」<br />
「目を醒ましそうもないからね、彼。また日を改めて、様子見に来るよ。<br />
薔薇水晶。君は、どうするんだい。帰るなら、送ってあげるけど」<br />
「いえ、あの…………もう少し、残っています。<br />
お医者さまから、治療のことで……お話あるかも知れないし」<br />
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解った、と頷いて、白崎さんは踵を返した。「だけど、無理はしないように」<br /><br />
「ありがとう、白崎さん。めぐさんにも、よろしく伝えてください」<br />
「話しておくよ。それじゃあ、また」<br />
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集中治療室のドアが、そっと閉じられる。<br />
それよって、廊下から流れ込んでくる諸々の音は、すっかり遮られてしまった。<br /><br />
静かだった。まるで、この部屋そのものが《九秒前の白》と化したような――<br />
そんな錯覚をしてしまうほど、濃密な静寂が、この場を支配していた。<br />
医療機器の動作音はするけれど、それさえも、掠れて聞こえるほどに。<br />
私は、ベッドの脇にスツールを置いて、腰を降ろした。<br /><br /><br />
「どんな夢……見てるの?」<br /><br />
長い長い、眠りの時間。<br />
それが、せめて楽しい夢ならばと、願わずにはいられない。<br />
たとえば――真紅や、きらきーに出会える夢とか。<br /><br />
ああ、でも、楽しすぎるのも考えものか。<br />
夢の世界にドップリ浸かって、こっちに戻ってくれなくなったら困る。<br />
私だけでは、あの工房を守ることなんて……できっこない。<br /><br />
「せめて――私が、お母さまと同じくらい……賢かったら」<br /><br />
詮ないこととは承知の上で、泣き言を呟いてみた。<br />
もちろん、本当に泣いたワケじゃない。<br />
眼帯の封印は、神憑り的な効果を発揮して、私の涙を堰き止めている。<br /><br />
ベッドに肘を乗せ、頬づえを突いて、間近で、じっくりと寝顔を観察する。<br />
けれど、お父さまは規則ただしい呼吸を、繰り返すばかりで。<br />
頬をツンツンしても、耳に息を吹きかけてみようと、まったく反応なし。<br />
本当に、よく眠っている。憑き物が落ちたような、安らかな表情で。<br />
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今だったら――<br />
そんな想いに背を押されて、私は身を乗り出して、お父さまの耳元に唇を寄せた。<br /><br />
「……槐……さん」<br /><br />
この人を名前で呼ぶのは、憶えている限り、これが初めて。<br />
だから、なのか。それだけのコトなのに、ドキドキと、胸が苦しい。<br /><br />
でも、さっきまでの不安な胸騒ぎとは、根本的に違う。<br />
嬉しかったり、楽しいときのような、フワフワする感じの――<br />
巧く表現できないけれど、とても気持ちのいい胸のざわめきだった。<br /><br />
「だいすき」<br /><br />
今まで、何度も口にしてきた言葉だけど。<br />
今ほど、想いを込めて囁いたのは……やっぱり、初めてだと思う。<br />
仰向けに眠っていてくれたなら、本気の証しをあげられたのに。<br />
人口呼吸なんかじゃない、本当のキスを。<br /><br />
……ううん。これは、これで良かったのかもね。<br />
眠っている間に、コッソリ……なんて一方通行では、満足できないもの。<br />
誰よりも、好きだから――<br />
だからこそ、もう一度、真剣に想いを伝えたい。<br />
そして、叶うものなら、しっかりと受け止めて欲しかった。<br /><br />
「今はまだ……これで、我慢しておくね」<br /><br />
お父さまが目を醒まさないよう祈りながら、私は……<br />
伸び始めの無精ヒゲを避けて、そっと、彼の頬に口づけた。<br />
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病室のドアが無造作に開けられたのは、まさに、その直後。<br />
ビクン! と飛び上がった弾みで、私はスツールごと床に倒れてしまった。<br />
ノックも無しにドアを開けた、不埒な粗忽者はと言うと……<br /><br />
「おやぁ? うたた寝でもしていたのかい」<br /><br />
と悪びれる様子もない。まったく……誰のせいだと思っているのか。<br />
飄々とし過ぎるのにも程がある。私は立ち上がって、白崎さんに詰め寄った。<br /><br />
「……し、白崎さんっ! ノックぐらいしてくださいっ」<br />
「これは失敬。驚かすつもりじゃなかったんだけどね」<br />
「悪気がないなら、余計に質が悪いです」<br />
「いやはや、確かに不注意だったね。申し訳ない」<br /><br />
白崎さんはアタマを掻き掻き、眉毛で八の字を描いた。<br />
ホントにもう……困った人だ。憎めないところが、また憎たらしい。<br /><br />
それにしても、なんで戻ってきたのかしら。<br /><br />
「てっきり帰ったとばかり……どうして、また?」<br />
「それが、駐車場を出ようとした矢先に、奥さんから電話があってね」<br />
「めぐさんが?」<br /><br />
眼で続きを促すと、白崎さんはベッドに伏せるお父さまを、チラと窺った。<br /><br />
「夕飯には絶対、君を連れてこいって。君を元気づけようと、準備してたらしい。<br />
腕によりをかけて作った料理を、ご馳走してくれるそうだよ」<br />
「そんな。そこまで……甘えられない」<br />
「いやいや。僕らの間で、遠慮は無しだよ」<br /><br />
それに、と。白崎さんは、喋りかけた私を遮った。<br /><br />
「槐くんが目を醒ましたら、忙しくて休む間もなくなるだろうからね。<br />
今夜中は起きないだろうし、英気を養える内に、しっかり休んでおいた方がいい」<br /><br />
一理ある。いつも白崎さんの車で、送迎してもらえるワケじゃない。<br />
毎日、洗濯物などの荷物を抱え、病院と自宅を往復するのはキツイだろう。<br /><br />
「そういうワケだから、ご招待されてくれないかな?」<br />
「ええ。じゃあ……お言葉に甘えて」<br /><br />
食事の用意までしてくれた2人の心遣いを、無下にはできない。<br />
それに、今は誰かとお喋りしていたい気分だった。話題なんか、なんでもいいから。<br /><br />
「よし、決まりだ。この時間だと道が混むけど、ちょうどいい頃合いに着けそうかな」<br /><br />
私は白崎さんに背中を押されて、ベッドから離れた。<br />
病室の出入り口で歩を止め、一度だけ振り返る。<br />
そして、ココロの中で囁きかけた。(あなただけを、ずっと想っています――)<br />
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白崎邸で夜食をご馳走になり、私は自宅に戻った。<br />
よく眠れるようにと、紅茶に赤ワインを入れて、舐めるように嗜んだ。<br />
眠りが浅いとき、お父さまは、よくこうしてワイン入り紅茶を飲んでいた。<br />
それを、ちょっとばかりの興味から、真似してみたのだ。<br /><br />
……が、ちょっと分量を間違えたらしい。飲み干して、ややも待たず、顔が熱くなってきた。<br />
歩くと、足元が覚束ない。アタマも、クラクラしてる。<br />
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もう寝よう――とは思うものの、なんとなく、独りでベッドに入るのが嫌で。<br />
私は工房に行って、お父さまが仕事で使っている椅子に、腰をおろした。<br /><br />
お母さまの写真と、彼女を模した人形が、もの言わず私を見つめている。<br />
もしかしたら、未成年のくせに飲酒したバカ娘に、呆れて言葉もないのかも。<br /><br />
「……なんて、ね」<br /><br />
人形は、喋ったりしない。故人は、言葉を並べたりしない。<br />
そのくらいは、分かっている。<br />
理屈では解っているけれど、でも……やっぱり。<br /><br />
「声が……聞きたいな。夢で……また、逢――かな?」<br /><br />
行けるものなら、行きたい。あの、真っ白な泡沫の世界へと。<br />
私は、酔いの怠さに抗いきれず、作業机に両腕を重ねて、突っ伏した。<br />
そのまま、じっとしていると……瞼が、とろん。<br />
まるで、直火に炙られたチーズみたいに、とろとろと垂れ下がってくる。<br /><br />
何度か、ハッと目を開くも、ことごとくが徒労に終わった。<br />
そして気づく。どうして、無理して起きようとしているんだろう、と。<br />
眠ってしまえばいい。目を閉じて、もわもわと広がる無意識に沈みかけた、その一瞬。<br /><br /><br />
『夜は眠りの時間よ。おやすみなさい』<br /><br /><br />
脳裏で囁かれた声が、優しい余韻を引く。<br />
それは、お母さまの――真紅の口振りに、間違いなかった。<br />
でも……その声音は彼女のものではなく、私の声だった。<br />
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<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/3870.html">エピローグにつづく</a><br />
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