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「『誰より好きなのに』 中編」(2008/06/30 (月) 01:23:18) の最新版変更点
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<p align="left"> <br />
<br />
抱かれている――と感じたのは、私の本心の表れだったのか。<br /><br />
ふわり。<br />
防波堤の突端から、荒れる海へと飛んだとき、私は確かに、そう感じた。<br />
強風に煽られ、大粒の雨に打たれているのに……<br />
ナニか薄膜のようなモノが、私の身体を優しく包み込んでいた。<br />
<br />
<br />
『王子さまに会うために、人魚姫は、魔女と取引をしたのよ。<br />
そして、自分の美声と引き替えに、人として生きるための両脚を得たの』<br />
<br />
<br />
なぜだか、ふと、とある物語が思い出された。<br />
聴いたのは、ずっと昔。ああ……そうそう。私たちが出逢って、すぐの頃だ。<br />
私はベッドに入っても、悪夢に魘されてばかりで、ちっとも眠れなかった。<br />
そんな私を見かねて、お母さま――真紅が、絵本を読んでくれたのだ。<br /><br />
8歳にもなった私に『人魚姫』なんてと、いまなら笑えてしまう。<br />
けれど、あの頃の私は、童話なんて知らなかった。字さえ満足に読めなかったし。<br />
だから、彼女が語ってくれる物語は、すべてが新鮮で、面白くて――<br />
いつしか、夜の訪れを待ち遠しく思うようになっていた。<br />
<br />
<br />
『人魚姫の願いは叶ったわ。彼女は、彼女なりのやり方で、幸せを求めたのね。<br />
人間として……普通の女の子として、王子さまと暮らしたかったのだわ』<br />
<br />
<br />
でも、人魚姫を待っていたのは、悲しい結末だった。<br />
失恋の痛みに打ちひしがれた彼女は、海に身を投げて、泡と消えたと言う。<br />
<br />
<br />
海の泡になる。なんだか、今の私も似たような境遇かも……なんて。<br />
思いついたそばから、そんなコトないと、即座に打ち消した。<br />
<br />
人魚姫と比べたら、私はまだ幸せだった――<br />
それだけは、自信を持って言える。<br />
だって……私は少なくとも、好きになった人たちと、一緒に暮らせたから。<br />
束の間でも、至上の愛情に満ちた時間を、過ごせたんだもの。<br /><br />
「私、幸せだったよ」<br /><br />
瞼を閉ざし、呟いた直後、顔が水に浸かり、口の中がしょっぱくなった。<br />
ようやくにして、私の身体は、海に落ちたようだ。<br />
あれこれと思い返す暇があったから、かなり長いこと宙に浮いていた気がしたけれど、<br />
実際のところは、5秒にも満たない間だったろう。<br /><br />
海の中は、温かかった。<br />
台風の影響か。あるいは外が寒すぎたから、相対的に温かく感じているのか。<br /><br />
まあ、どっちでもいい。どうせ、私の物語は、もう幕引きだもの。<br />
私の身はこの海原に抱かれ、泡と消える。普通の女の子になった、人魚姫のように。<br />
どうせだったら、遙かな沖まで流されて、深い海の底に沈んでしまいたい。<br />
そうしたら……ひょっとしたら、人魚の国に辿り着けるかも知れないから。<br />
<br />
<br />
生まれ変わるならネコがいいと思ってたけれど、人魚も、なかなか悪くないかも。<br />
こんな風に荒れた海で、いつか、運命の人に出会えるものならば――<br />
私は喜んで、その生涯を受け容れよう。<br />
そして、人魚姫よりずっと巧く、コトを運んでみせる。すべてを擲ってでも。<br />
<br />
<br />
大きな波が、十重二十重とうねり、私をもみくちゃにする。<br />
呑み込まれては浮かび、浮かんでは、また海中に呑み込まれて……<br />
そうこうする間に、耳に水が入って、右も左も、天地も、よく判らなくなる。<br />
私の三半規管は、もはや正常に機能していなかった。<br /><br /><br />
ああ……溺れるときって、こんな感じなのか。<br /><br /><br />
海中に沈んでいると、ごぼごぼ……。<br />
周りは、アタマに響くほどの潮騒で溢れていた。浜辺で聴くソレとは大違いだ。<br />
そう言えば、水は空気よりも音を伝えやすいと、学校で習ったっけ。<br />
――学校かぁ。なんだか、とても昔のことみたい。<br /><br />
ぐるぐると、暗い水中で攪拌されて、浮かび上がれない。息継ぎもできない。<br />
真っ暗……なにも……砕けた水泡さえ見えない。<br />
じわじわと、胸の中に、今更ながら恐怖が広がってきた。<br />
こんな闇にまとわりつかれて今際を迎えることに、強烈な嫌悪感を催していた。<br /><br /><br />
イヤ……怖いよ――<br />
<br />
<br />
息が苦しい。水圧に胸が締めつけられる。肺腑が空気を求めて、私に口を開かせる。<br />
吸い込んだ海水で、鼻の奥がツンとして、脳天に痛みが突き抜けた。<br />
喉が痛い。アタマが痺れて、なにがなんだか判らない。胃に海水が流れ込んでる。<br />
もう、意識が……薄れて……。<br />
<br />
<br />
おと…………さ……ま。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
『みっともないわね。しっかりなさい』<br />
<br />
<br />
誰かに、ぴしゃりと頬を叩かれた。<br />
目の前は明滅を繰り返していて、その中を、ちかちかと星が散らばっている。<br /><br />
いや……本当は、なにも無かったのかも知れない。<br />
ただ寝惚けて、そう感じただけで。<br />
だけど――<br /><br />
『目を醒ましなさい! 薔薇水晶』<br /><br />
今度は名前を呼ばれて、曖昧模糊とした私の意識は、完全に正体を取り戻した。<br />
この声……凛とした、懐かしい響き。<br />
驚きのあまり見開いた目の、その先に、彼女は佇んでいた。<br />
真っ赤なドレスが、真っ白な、ミルクのような世界の中で映えていた。<br /><br />
『真紅――お母さま』<br /><br />
呼びかけると、にこり……。『元気そうね。それに、随分と背も伸びて』<br />
彼女は聖女のように柔らかく微笑んで、後ろを振り返り。<br /><br />
『さ、貴女も、ちゃんと挨拶するのだわ』<br /><br />
――と、スカートの陰に隠れていた、小さな女の子を前に押し出した。<br />
雪のように白くて、清らかな感じの、可愛い娘だ。<br />
ふっくらとした面差しは、なんとなく、幼かった頃の私と似ていた。<br /><br />
ゆるやかにウェーブしたロングヘアーも、艶やかな白。髪飾りも、白い薔薇。<br />
どういうワケか、右眼にまで白薔薇の眼帯をしているけれど……<br />
それはむしろ、貴重なアクセントとして、あどけない可愛らしさを引き立てている。<br /><br />
少女は、両手でお母さまのスカートにしがみついて、私のことを上目遣いに窺っていた。<br />
私が子供の頃も、こんな風に、お父さまの背中に隠れてたっけ。<br />
そんなことを思いつつ、見つめ合っていると……<br />
女の子は根負けしたように、おちょぼ口を作って、ひょいと右手をあげた。<br /><br />
『おぃっす』<br />
『え? あ……おっす』<br />
『貴女たち! なんて不躾な挨拶をするの。お行儀の悪い子たちね』<br /><br />
女の子に釣られて、つい同じポーズをしてしまった私にも、お母さまの叱責が飛んできた。<br />
そうそう、この感じ。昔は毎日、礼儀作法がなってないと怒られてたのよね。<br />
当時は煩わしく思ってたけど……今は、なんだか嬉しい。<br />
私が成長して、叱られることも愛情表現のひとつだと、解るようになったからかな。<br /><br />
白い女の子は、お母さまにコツンと拳骨をもらっていた。<br />
撲たれたところを両手で押さえ、『あいたー』と戯けて、ぺこりと頭を下げた。<br /><br />
『はじめまして、おねえさま。わたし、あなたの妹です』<br />
『妹? じゃあ、あなた――お父さまたちの?』<br />
『そうよ、薔薇水晶。私たちの娘。貴女にとっては、妹なのだわ』<br />
『おなまえは、きらきしょーっていうの。きらきーって呼んでね』<br />
『ホント……に? 妹……私の?』<br /><br />
いきなりのことで、戸惑ってしまったけれど、不思議と納得もしていた。<br />
この子は、紛れもなくお父さまたちの娘で、私の妹なのだ。<br />
<br />
<br />
私の過ちで、失われてしまった、ふたつの命。<br />
その2人が、今、私の前にいる。<br />
お母さま――真紅は、変わらず美しいまま。<br />
生まれ出ることもなかった妹は、こんなにも可愛らしい少女となって……。<br /><br />
話しかけたい衝動が、私の顎をこじ開け、舌を躍らせる。<br /><br /><br />
『……ごめんなさい』<br /><br />
けれど、私の口を衝いて出たのは、その一言だけ。<br />
自分でも、もっと他に話すコトがあるだろうと苛立ってしまう一方で、<br />
罪の意識に竦んで、赦しを請うことしかできない自分の存在にも、また気づいてしまって。<br /><br />
『ずっと謝りたかった。言葉だけで許されるなんて、思ってないけど……<br />
それでも、どうしても、お母さまたちに謝りたかったの』<br /><br />
また、涙――<br />
8年間も泣かずに生きてこられたのに、今夜の私は、やたらと泣いてばかりだ。<br />
封印の眼帯を外して、自己暗示が解けてしまったから、かな?<br />
ぼろぼろと涙が零れ、粘りけのない鼻水が、ぽたぽたと垂れてくる。<br /><br />
『わ! おねえさま、ばっちいー』<br /><br />
くしゃくしゃに歪んだ私の顔を見て、きらきーが指をさして、からかう。<br />
幼心に、気を遣ってくれているのだろう。<br />
私は鼻を啜り、しゃくりあげながら、無理に笑みを作った。<br />
お母さまも、そんな私を見て、呆れたように肩を竦め、苦笑う。<br />
<br />
『まったく……ひどい顔なのだわ。いいこと、薔薇水晶。<br />
レディーはいつでも、気高く、美しくあるべきよ』<br />
『だって……お母さま……<br />
お父さまと暮らしていたかったでしょ? 幸せになりたかったでしょ?<br />
きらきーだって、産まれてきたかったよね? 友だち、欲しかったよね?<br />
それなのに、私――』<br />
<br />
のうのうと生きてきたのよ。あなたたちの未来を奪っておきながら。<br />
続くはずだった言葉は、しかし、声が詰まって言えなかった。<br />
……ううん。仮に声を出せたとしても、話せなかった。<br />
なにしろ、お母さまがハンカチで、私の顔をゴシゴシ拭くんだもの。<br /><br />
『仕方のない子ね。いくつになっても、世話が焼けるんだから』<br /><br />
涙と鼻を拭いてもらった私は、すっかり童心に還っていた。<br />
初めて、お父さまたちに逢った場面が、昨日のコトみたいに思い出される。<br /><br />
ちょうど、この港町に流れてきた日だったっけ。<br />
当座の資金と、少しの食べ物を目当てに、盗みに入った家……それが、あの工房だった。<br />
だけど、疲労と空腹で意識が散漫になり、私はドジを踏んで取り押さえられた。<br /><br />
大柄なお父さまに抑え込まれたら、子供の私など、身動きも取れない。<br />
もうダメだ。絶望のあまり自棄になって、泣き喚き、暴れた。<br />
そんな私の顔を、あの時も……お母さまは、こんな風に、荒っぽく拭いてくれた。<br />
そして、言ったのだ。「貴女、私たちの娘になりなさい」と。<br /><br />
『お母さまっ!』<br /><br />
再び会えたことが嬉しくて……本当に、本当に嬉しくて、私は真紅に抱きついた。<br /><br />
『ありがとう、お母さま。私を、あなたたちの娘にしてくれて!』<br />
『ああ、もう……せっかく拭いたばかりなのに』<br /><br />
――なんて言いつつ、真紅の声も湿っている。<br />
私を包み込むように抱きしめて、ぽんぽん……と、背中を叩いてくれた。<br />
きらきーは、少し離れたところで私たちの様子を眺めて、羨ましそうに指を銜えている。<br /><br />
『あなたも――』<br /><br />
だから、私はお母さまから離れ、初めて逢えた妹を、ギュッと抱きしめてあげた。<br /><br />
『ありがとう、きらきー。私に、会いに来てくれて』<br />
『うん。わたしもね、おねえさまに会えて、とってもうれしいよ』<br />
『私も嬉しい。これからは、ずっと一緒にいられるね』<br /><br />
この真っ白な世界は、期待してた人魚の国じゃなかったけれど。<br />
ここの方が、断然いい。お母さまや、きらきーがいるから、とても居心地がいい。<br />
安らげる場所を、どこに求めようとも、それは私が望んだ結果。<br />
<br />
<br />
私も、きらきーも、はしゃいでいた。<br />
なにして遊ぼうか……とか、これからのことばかり話をしていた。<br />
また別れることになるかもなんて、考えもしないで。<br />
<br />
ただ1人――お母さまだけは、それを知っていた。<br />
だから、きらきーを私から引き離し、強い口調で、私たちの間に見えない障壁を作った。<br />
<br />
『ダメよ。貴女は帰りなさい』<br />
<br />
<br />
『そんな……お母さま、どうして?』<br />
<br />
私には、理解できなかった。私は溺れて死んで、ここに来た。<br />
だのに、どうして追い返されなければ、ならないのか。<br />
<br />
『ここは死後の世界なんでしょ? だったら、私も――』<br /><br />
ここで暮らす資格があるはずだ。<br />
そう告げた私に、お母さまは『いいえ』と、頭を振った。<br /><br />
『薔薇水晶。貴女は、思い違いをしているわ。<br />
ここは死後の世界とは、少し違う。《九秒前の白》という、泡沫の世界よ』<br />
『九秒前の……白?』<br />
『ええ、そう。無意識の海の、底の底に、ぽつりぽつりと点在するエアポケット。<br />
行き場を失った者たちが、そっと身を寄せ合って、思い出を語り合うところよ』<br /><br />
それがつまり、死者の群れ集う場所……すなわち《あの世》ではないのか。<br />
私は、よくないアタマをフル回転させて、食い下がるけれど。<br /><br />
『ここには、私たちしか居ないわ。私たちしか入れないのよ』<br /><br />
――なぜだか解る?<br />
すぐに新たな質問を浴びせられて、答えに窮してしまう。<br />
こんなの、ずるい。答えを求めているのは、私の方なのに。<br /><br />
『どうしてっ! 私、なんで居ちゃいけないの? お母さまっ!』<br /><br />
縋りつこうと駆け出した途端、私はガラスのような障壁にぶつかって、弾き返された。<br />
私は、尻餅をついたまま、呆気に取られていた。<br />
なにが起きたのか、ちっとも解らなかった。<br />
お母さまや妹に、もう触れられないという事実の他には、なにも。<br /><br />
『立ちなさい、薔薇水晶。そして……引き返しなさい』<br />
『私――どうしても、帰らなきゃダメなの?』<br />
『ええ。落ち着くには、まだ早すぎるわ。貴女は生きて、歩き続けなさい。<br />
そして、此処を守るのだわ』<br /><br />
ここを、守る? この泡沫の世界を? 私が生きることで、ここが守られる?<br />
……意味が解らない。やっぱり、私ってバカだ。<br />
でも、抗えなかった。彼女の深く青い瞳が、私を射竦めたから。<br />
凛とした、常識も良識も兼ね備えた、母親の眼差しで。<br /><br />
お父さまが、あなたをココロの拠りどころにしているのも、解る気がした。<br />
過酷な人生を経てきたとは言え、私なんか、たかが18の小娘。<br />
まだまだ、この人には敵いそうもない。<br /><br />
了承の印に『解った』と頷いた私に、真紅は『いい子ね』と頷き返してくれた。<br />
2人とも、満面の笑みで、見送ってくれようとしている。<br />
だから、行かないと。彼女たちのためにも、歩き出さないと。<br /><br />
『薔薇水晶。しっかり生きなさい。そして……彼――槐のこと、よろしくね』<br />
『げんきでね、おねえさまっ!』 <br />
『お母さま……きらきー…………ありがとう』<br />
『私たちこそ、ありがとう。久しぶりに貴女に会えて、嬉しかったのだわ』<br />
『ありがと、おねえさま。またきてね』<br /><br />
ありがとう。<br /><br />
その言葉は、私に、この身が震えるほどの勇気をくれた。<br />
卑屈に赦しを求めるだけだった私に、もう一度、歩きだす気力を与えてくれた。<br />
お父さまにも、このことを伝えたい。ありがとうって、言ってあげたい。<br /><br /><br />
『いつか……また』<br /><br />
私の呟きは、再会の約束。<br />
いつのコトになるかは判らないけれど、きっと。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
彼女たちに背を向けて、一歩を踏み出すと、膜のようなナニかを抜ける感覚があった。<br />
それが、なんだったのかは判らない。<br />
いきなり急激な水流に呑まれて、それを考える暇もなかった。<br /><br />
けれど、荒れた海に戻ってきたのかと言うと、そうではない。<br />
ここは確かに海だけれど、現実の海とは、また違った。<br />
ワケも分からず、水の勢いに翻弄されるがまま。<br />
したたかに水を飲んで、私はまた、気を失いかけた。<br /><br /><br />
朦朧とする意識。思うに任せない身体。<br />
起きているのか、夢を見ているのか、その境界さえ曖昧で。<br />
ただただ、漂うだけ。ほとんど人形状態の私。<br /><br />
そこに、いきなり、力強いナニかが押し込まれてきた。<br />
2度、3度、それが繰り返されて……肺が、まるで風船のように膨らまされる。<br />
もしかして、これは――<br />
<br />
<br />
思った直後、アタマの奥に、プチノイズが生じた。<br />
それは意識の繋がった音だったのか。私は断続的に、胃に溜め込まれた海水を吐いた。<br />
喉がヒリヒリする。噎せ返って苦しくなり、また嘔吐を繰り返す。<br /><br />
そんな私の半身を、誰かの力強い腕が、抱き起こしてくれた。<br />
目が霞んで、おまけに暗い中なので、相手の姿がよく見えない。<br />
だけど、私には判っていた。私を支えてくれる大きな手が、誰のものか。<br /><br />
「薔薇水晶! 薔薇水晶! しっかりするんだ。目を開けておくれ」<br /><br />
必死になって呼びかけてくれる声を聞いて、私の意識は、急速に目覚めていった。<br /><br />
「……お……と……さま」<br />
「あぁ、薔薇水晶! よかった。気がついてくれて……本当に、よかった」<br /><br />
私たちはまだ、防波堤の中程にいた。<br />
打ち寄せる波は届かないけれど、大粒の雨には、打たれっぱなしだ。<br />
私はもちろんのこと、お父さまも、全身ずぶ濡れだった。<br /><br />
「私……どうして」<br />
「きみは、こんな時化の海に飛び込んだんだ。まったく……なにを考えてる。<br />
もう少し、ぼくが来るのが遅れていたら、助からなかったかも知れないんだぞ」<br />
<br />
身を投げたバカな私を、お父さまは懸命に、助けてくれたのね。<br />
自分も溺れてしまうかも知れないのに、海に飛び込んで――<br />
気を失った私を防波堤まで引き上げ、人口呼吸まで、してくれたなんて。<br /><br />
「ごめんなさい、お父さま。あの…………ありがとう」<br />
「――困った子だ」<br />
<br />
頬を緩めて、お父さまは、冷え切った私を抱っこしてくれた。「さあ、帰ろう」<br />
<br />
<br />
帰る。そう、私は帰ってきた。<br />
お母さまに――真紅に諭されて、お父さまの元へと。<br /><br />
お姫さまみたいに抱き上げられながら、私は回想していた。<br />
あの妙にリアルで、摩訶不思議な夢のことを。<br />
九秒前の白。お母さまと妹が居た世界。<br />
<br />
<br />
『彼――槐のこと、よろしくね』<br />
<br />
<br />
別れ際の、彼女の爽やかな声が、耳に甦る。<br />
私は、さっきまで見ていた夢について、つまびらかに語った。<br /><br />
「不思議な話だ」<br /><br />
聞き終えたところで、お父さまが唇を開く。<br />
その口元には、魅せられたような、浮ついた笑みがあった。<br /><br />
「それが本当なら、ぼくも、娘に――雪華綺晶に会ってみたいな」<br /><br />
轟々と吹き荒れる風の中で、その言葉だけが、不自然にハッキリと聞き取れた。<br />
それは、直後に起きることへの、注意を促す暗示だったのか。<br />
びょぉう……。風が裂ける叫びが、やけに近く聞こえた、次の瞬間――<br /><br />
「危ないっ!」<br /><br />
お父さまの絶叫。投げ出され、濡れたアスファルトに叩き付けられた、私。<br />
雷鳴にも似た、耳を聾する音が打ち鳴らされ、地面が重々しく揺れた。<br />
<br />
<br />
<br />
いったい、なにが起きたの?<br />
激痛で軋む身体に鞭を打って、私はやっと、半身を起こした。<br />
そして――<br /><br /><br />
「お……父さ……ま?」<br /><br />
私が目にしたのは、強風に煽られて倒れた電柱と。<br />
その下敷きになった、お父さまの姿だった。<br /><br />
「あ、あ、あぁ…………お父さま! お父さまっ!」<br /><br />
呼びかけ、這うように近づくけれど、お父さまは俯せたまま、ピクリとも動かない。<br />
コンクリート製の電柱は、お父さまの胴を、がっちりと路面に挟み込んでいた。<br /><br />
「お父さまっ! イヤ……お父さまっ!」<br /><br />
電柱をどかそうとしたけれど、私だけじゃ動かせっこない。<br />
圧迫された腹部に――シャツに、夜目にもわかる紅い染みが広がっていく。<br />
私は、ただただ狼狽えるばかりで。<br /><br /><br />
「誰か――お願い! 誰でもいいから手を貸して!<br />
お父さまを助けてっ! お願いだから――」<br /><br /><br />
嵐の中、腰が抜けたように座り込み、お父さまの手に縋り付いて叫んでた。<br />
そんなことしか、私には……できなかった。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
後編につづく<br />
<br />
</p>
<p align="left"> <br />
<br />
抱かれている――と感じたのは、私の本心の表れだったのか。<br /><br />
ふわり。<br />
防波堤の突端から、荒れる海へと飛んだとき、私は確かに、そう感じた。<br />
強風に煽られ、大粒の雨に打たれているのに……<br />
ナニか薄膜のようなモノが、私の身体を優しく包み込んでいた。<br />
<br />
<br />
『王子さまに会うために、人魚姫は、魔女と取引をしたのよ。<br />
そして、自分の美声と引き替えに、人として生きるための両脚を得たの』<br />
<br />
<br />
なぜだか、ふと、とある物語が思い出された。<br />
聴いたのは、ずっと昔。ああ……そうそう。私たちが出逢って、すぐの頃だ。<br />
私はベッドに入っても、悪夢に魘されてばかりで、ちっとも眠れなかった。<br />
そんな私を見かねて、お母さま――真紅が、絵本を読んでくれたのだ。<br /><br />
8歳にもなった私に『人魚姫』なんてと、いまなら笑えてしまう。<br />
けれど、あの頃の私は、童話なんて知らなかった。字さえ満足に読めなかったし。<br />
だから、彼女が語ってくれる物語は、すべてが新鮮で、面白くて――<br />
いつしか、夜の訪れを待ち遠しく思うようになっていた。<br />
<br />
<br />
『人魚姫の願いは叶ったわ。彼女は、彼女なりのやり方で、幸せを求めたのね。<br />
人間として……普通の女の子として、王子さまと暮らしたかったのだわ』<br />
<br />
<br />
でも、人魚姫を待っていたのは、悲しい結末だった。<br />
失恋の痛みに打ちひしがれた彼女は、海に身を投げて、泡と消えたと言う。<br />
<br />
<br />
海の泡になる。なんだか、今の私も似たような境遇かも……なんて。<br />
思いついたそばから、そんなコトないと、即座に打ち消した。<br />
<br />
人魚姫と比べたら、私はまだ幸せだった――<br />
それだけは、自信を持って言える。<br />
だって……私は少なくとも、好きになった人たちと、一緒に暮らせたから。<br />
束の間でも、至上の愛情に満ちた時間を、過ごせたんだもの。<br /><br />
「私、幸せだったよ」<br /><br />
瞼を閉ざし、呟いた直後、顔が水に浸かり、口の中がしょっぱくなった。<br />
ようやくにして、私の身体は、海に落ちたようだ。<br />
あれこれと思い返す暇があったから、かなり長いこと宙に浮いていた気がしたけれど、<br />
実際のところは、5秒にも満たない間だったろう。<br /><br />
海の中は、温かかった。<br />
台風の影響か。あるいは外が寒すぎたから、相対的に温かく感じているのか。<br /><br />
まあ、どっちでもいい。どうせ、私の物語は、もう幕引きだもの。<br />
私の身はこの海原に抱かれ、泡と消える。普通の女の子になった、人魚姫のように。<br />
どうせだったら、遙かな沖まで流されて、深い海の底に沈んでしまいたい。<br />
そうしたら……ひょっとしたら、人魚の国に辿り着けるかも知れないから。<br />
<br />
<br />
生まれ変わるならネコがいいと思ってたけれど、人魚も、なかなか悪くないかも。<br />
こんな風に荒れた海で、いつか、運命の人に出会えるものならば――<br />
私は喜んで、その生涯を受け容れよう。<br />
そして、人魚姫よりずっと巧く、コトを運んでみせる。すべてを擲ってでも。<br />
<br />
<br />
大きな波が、十重二十重とうねり、私をもみくちゃにする。<br />
呑み込まれては浮かび、浮かんでは、また海中に呑み込まれて……<br />
そうこうする間に、耳に水が入って、右も左も、天地も、よく判らなくなる。<br />
私の三半規管は、もはや正常に機能していなかった。<br /><br /><br />
ああ……溺れるときって、こんな感じなのか。<br /><br /><br />
海中に沈んでいると、ごぼごぼ……。<br />
周りは、アタマに響くほどの潮騒で溢れていた。浜辺で聴くソレとは大違いだ。<br />
そう言えば、水は空気よりも音を伝えやすいと、学校で習ったっけ。<br />
――学校かぁ。なんだか、とても昔のことみたい。<br /><br />
ぐるぐると、暗い水中で攪拌されて、浮かび上がれない。息継ぎもできない。<br />
真っ暗……なにも……砕けた水泡さえ見えない。<br />
じわじわと、胸の中に、今更ながら恐怖が広がってきた。<br />
こんな闇にまとわりつかれて今際を迎えることに、強烈な嫌悪感を催していた。<br /><br /><br />
イヤ……怖いよ――<br />
<br />
<br />
息が苦しい。水圧に胸が締めつけられる。肺腑が空気を求めて、私に口を開かせる。<br />
吸い込んだ海水で、鼻の奥がツンとして、脳天に痛みが突き抜けた。<br />
喉が痛い。アタマが痺れて、なにがなんだか判らない。胃に海水が流れ込んでる。<br />
もう、意識が……薄れて……。<br />
<br />
<br />
おと…………さ……ま。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
『みっともないわね。しっかりなさい』<br />
<br />
<br />
誰かに、ぴしゃりと頬を叩かれた。<br />
目の前は明滅を繰り返していて、その中を、ちかちかと星が散らばっている。<br /><br />
いや……本当は、なにも無かったのかも知れない。<br />
ただ寝惚けて、そう感じただけで。<br />
だけど――<br /><br />
『目を醒ましなさい! 薔薇水晶』<br /><br />
今度は名前を呼ばれて、曖昧模糊とした私の意識は、完全に正体を取り戻した。<br />
この声……凛とした、懐かしい響き。<br />
驚きのあまり見開いた目の、その先に、彼女は佇んでいた。<br />
真っ赤なドレスが、真っ白な、ミルクのような世界の中で映えていた。<br /><br />
『真紅――お母さま』<br /><br />
呼びかけると、にこり……。『元気そうね。それに、随分と背も伸びて』<br />
彼女は聖女のように柔らかく微笑んで、後ろを振り返り。<br /><br />
『さ、貴女も、ちゃんと挨拶するのだわ』<br /><br />
――と、スカートの陰に隠れていた、小さな女の子を前に押し出した。<br />
雪のように白くて、清らかな感じの、可愛い娘だ。<br />
ふっくらとした面差しは、なんとなく、幼かった頃の私と似ていた。<br /><br />
ゆるやかにウェーブしたロングヘアーも、艶やかな白。髪飾りも、白い薔薇。<br />
どういうワケか、右眼にまで白薔薇の眼帯をしているけれど……<br />
それはむしろ、貴重なアクセントとして、あどけない可愛らしさを引き立てている。<br /><br />
少女は、両手でお母さまのスカートにしがみついて、私のことを上目遣いに窺っていた。<br />
私が子供の頃も、こんな風に、お父さまの背中に隠れてたっけ。<br />
そんなことを思いつつ、見つめ合っていると……<br />
女の子は根負けしたように、おちょぼ口を作って、ひょいと右手をあげた。<br /><br />
『おぃっす』<br />
『え? あ……おっす』<br />
『貴女たち! なんて不躾な挨拶をするの。お行儀の悪い子たちね』<br /><br />
女の子に釣られて、つい同じポーズをしてしまった私にも、お母さまの叱責が飛んできた。<br />
そうそう、この感じ。昔は毎日、礼儀作法がなってないと怒られてたのよね。<br />
当時は煩わしく思ってたけど……今は、なんだか嬉しい。<br />
私が成長して、叱られることも愛情表現のひとつだと、解るようになったからかな。<br /><br />
白い女の子は、お母さまにコツンと拳骨をもらっていた。<br />
撲たれたところを両手で押さえ、『あいたー』と戯けて、ぺこりと頭を下げた。<br /><br />
『はじめまして、おねえさま。わたし、あなたの妹です』<br />
『妹? じゃあ、あなた――お父さまたちの?』<br />
『そうよ、薔薇水晶。私たちの娘。貴女にとっては、妹なのだわ』<br />
『おなまえは、きらきしょーっていうの。きらきーって呼んでね』<br />
『ホント……に? 妹……私の?』<br /><br />
いきなりのことで、戸惑ってしまったけれど、不思議と納得もしていた。<br />
この子は、紛れもなくお父さまたちの娘で、私の妹なのだ。<br />
<br />
<br />
私の過ちで、失われてしまった、ふたつの命。<br />
その2人が、今、私の前にいる。<br />
お母さま――真紅は、変わらず美しいまま。<br />
生まれ出ることもなかった妹は、こんなにも可愛らしい少女となって……。<br /><br />
話しかけたい衝動が、私の顎をこじ開け、舌を躍らせる。<br /><br /><br />
『……ごめんなさい』<br /><br />
けれど、私の口を衝いて出たのは、その一言だけ。<br />
自分でも、もっと他に話すコトがあるだろうと苛立ってしまう一方で、<br />
罪の意識に竦んで、赦しを請うことしかできない自分の存在にも、また気づいてしまって。<br /><br />
『ずっと謝りたかった。言葉だけで許されるなんて、思ってないけど……<br />
それでも、どうしても、お母さまたちに謝りたかったの』<br /><br />
また、涙――<br />
8年間も泣かずに生きてこられたのに、今夜の私は、やたらと泣いてばかりだ。<br />
封印の眼帯を外して、自己暗示が解けてしまったから、かな?<br />
ぼろぼろと涙が零れ、粘りけのない鼻水が、ぽたぽたと垂れてくる。<br /><br />
『わ! おねえさま、ばっちいー』<br /><br />
くしゃくしゃに歪んだ私の顔を見て、きらきーが指をさして、からかう。<br />
幼心に、気を遣ってくれているのだろう。<br />
私は鼻を啜り、しゃくりあげながら、無理に笑みを作った。<br />
お母さまも、そんな私を見て、呆れたように肩を竦め、苦笑う。<br />
<br />
『まったく……ひどい顔なのだわ。いいこと、薔薇水晶。<br />
レディーはいつでも、気高く、美しくあるべきよ』<br />
『だって……お母さま……<br />
お父さまと暮らしていたかったでしょ? 幸せになりたかったでしょ?<br />
きらきーだって、産まれてきたかったよね? 友だち、欲しかったよね?<br />
それなのに、私――』<br />
<br />
のうのうと生きてきたのよ。あなたたちの未来を奪っておきながら。<br />
続くはずだった言葉は、しかし、声が詰まって言えなかった。<br />
……ううん。仮に声を出せたとしても、話せなかった。<br />
なにしろ、お母さまがハンカチで、私の顔をゴシゴシ拭くんだもの。<br /><br />
『仕方のない子ね。いくつになっても、世話が焼けるんだから』<br /><br />
涙と鼻を拭いてもらった私は、すっかり童心に還っていた。<br />
初めて、お父さまたちに逢った場面が、昨日のコトみたいに思い出される。<br /><br />
ちょうど、この港町に流れてきた日だったっけ。<br />
当座の資金と、少しの食べ物を目当てに、盗みに入った家……それが、あの工房だった。<br />
だけど、疲労と空腹で意識が散漫になり、私はドジを踏んで取り押さえられた。<br /><br />
大柄なお父さまに抑え込まれたら、子供の私など、身動きも取れない。<br />
もうダメだ。絶望のあまり自棄になって、泣き喚き、暴れた。<br />
そんな私の顔を、あの時も……お母さまは、こんな風に、荒っぽく拭いてくれた。<br />
そして、言ったのだ。「貴女、私たちの娘になりなさい」と。<br /><br />
『お母さまっ!』<br /><br />
再び会えたことが嬉しくて……本当に、本当に嬉しくて、私は真紅に抱きついた。<br /><br />
『ありがとう、お母さま。私を、あなたたちの娘にしてくれて!』<br />
『ああ、もう……せっかく拭いたばかりなのに』<br /><br />
――なんて言いつつ、真紅の声も湿っている。<br />
私を包み込むように抱きしめて、ぽんぽん……と、背中を叩いてくれた。<br />
きらきーは、少し離れたところで私たちの様子を眺めて、羨ましそうに指を銜えている。<br /><br />
『あなたも――』<br /><br />
だから、私はお母さまから離れ、初めて逢えた妹を、ギュッと抱きしめてあげた。<br /><br />
『ありがとう、きらきー。私に、会いに来てくれて』<br />
『うん。わたしもね、おねえさまに会えて、とってもうれしいよ』<br />
『私も嬉しい。これからは、ずっと一緒にいられるね』<br /><br />
この真っ白な世界は、期待してた人魚の国じゃなかったけれど。<br />
ここの方が、断然いい。お母さまや、きらきーがいるから、とても居心地がいい。<br />
安らげる場所を、どこに求めようとも、それは私が望んだ結果。<br />
<br />
<br />
私も、きらきーも、はしゃいでいた。<br />
なにして遊ぼうか……とか、これからのことばかり話をしていた。<br />
また別れることになるかもなんて、考えもしないで。<br />
<br />
ただ1人――お母さまだけは、それを知っていた。<br />
だから、きらきーを私から引き離し、強い口調で、私たちの間に見えない障壁を作った。<br />
<br />
『ダメよ。貴女は帰りなさい』<br />
<br />
<br />
『そんな……お母さま、どうして?』<br />
<br />
私には、理解できなかった。私は溺れて死んで、ここに来た。<br />
だのに、どうして追い返されなければ、ならないのか。<br />
<br />
『ここは死後の世界なんでしょ? だったら、私も――』<br /><br />
ここで暮らす資格があるはずだ。<br />
そう告げた私に、お母さまは『いいえ』と、頭を振った。<br /><br />
『薔薇水晶。貴女は、思い違いをしているわ。<br />
ここは死後の世界とは、少し違う。《九秒前の白》という、泡沫の世界よ』<br />
『九秒前の……白?』<br />
『ええ、そう。無意識の海の、底の底に、ぽつりぽつりと点在するエアポケット。<br />
行き場を失った者たちが、そっと身を寄せ合って、思い出を語り合うところよ』<br /><br />
それがつまり、死者の群れ集う場所……すなわち《あの世》ではないのか。<br />
私は、よくないアタマをフル回転させて、食い下がるけれど。<br /><br />
『ここには、私たちしか居ないわ。私たちしか入れないのよ』<br /><br />
――なぜだか解る?<br />
すぐに新たな質問を浴びせられて、答えに窮してしまう。<br />
こんなの、ずるい。答えを求めているのは、私の方なのに。<br /><br />
『どうしてっ! 私、なんで居ちゃいけないの? お母さまっ!』<br /><br />
縋りつこうと駆け出した途端、私はガラスのような障壁にぶつかって、弾き返された。<br />
私は、尻餅をついたまま、呆気に取られていた。<br />
なにが起きたのか、ちっとも解らなかった。<br />
お母さまや妹に、もう触れられないという事実の他には、なにも。<br /><br />
『立ちなさい、薔薇水晶。そして……引き返しなさい』<br />
『私――どうしても、帰らなきゃダメなの?』<br />
『ええ。落ち着くには、まだ早すぎるわ。貴女は生きて、歩き続けなさい。<br />
そして、此処を守るのだわ』<br /><br />
ここを、守る? この泡沫の世界を? 私が生きることで、ここが守られる?<br />
……意味が解らない。やっぱり、私ってバカだ。<br />
でも、抗えなかった。彼女の深く青い瞳が、私を射竦めたから。<br />
凛とした、常識も良識も兼ね備えた、母親の眼差しで。<br /><br />
お父さまが、あなたをココロの拠りどころにしているのも、解る気がした。<br />
過酷な人生を経てきたとは言え、私なんか、たかが18の小娘。<br />
まだまだ、この人には敵いそうもない。<br /><br />
了承の印に『解った』と頷いた私に、真紅は『いい子ね』と頷き返してくれた。<br />
2人とも、満面の笑みで、見送ってくれようとしている。<br />
だから、行かないと。彼女たちのためにも、歩き出さないと。<br /><br />
『薔薇水晶。しっかり生きなさい。そして……彼――槐のこと、よろしくね』<br />
『げんきでね、おねえさまっ!』 <br />
『お母さま……きらきー…………ありがとう』<br />
『私たちこそ、ありがとう。久しぶりに貴女に会えて、嬉しかったのだわ』<br />
『ありがと、おねえさま。またきてね』<br /><br />
ありがとう。<br /><br />
その言葉は、私に、この身が震えるほどの勇気をくれた。<br />
卑屈に赦しを求めるだけだった私に、もう一度、歩きだす気力を与えてくれた。<br />
お父さまにも、このことを伝えたい。ありがとうって、言ってあげたい。<br /><br /><br />
『いつか……また』<br /><br />
私の呟きは、再会の約束。<br />
いつのコトになるかは判らないけれど、きっと。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
彼女たちに背を向けて、一歩を踏み出すと、膜のようなナニかを抜ける感覚があった。<br />
それが、なんだったのかは判らない。<br />
いきなり急激な水流に呑まれて、それを考える暇もなかった。<br /><br />
けれど、荒れた海に戻ってきたのかと言うと、そうではない。<br />
ここは確かに海だけれど、現実の海とは、また違った。<br />
ワケも分からず、水の勢いに翻弄されるがまま。<br />
したたかに水を飲んで、私はまた、気を失いかけた。<br /><br /><br />
朦朧とする意識。思うに任せない身体。<br />
起きているのか、夢を見ているのか、その境界さえ曖昧で。<br />
ただただ、漂うだけ。ほとんど人形状態の私。<br /><br />
そこに、いきなり、力強いナニかが押し込まれてきた。<br />
2度、3度、それが繰り返されて……肺が、まるで風船のように膨らまされる。<br />
もしかして、これは――<br />
<br />
<br />
思った直後、アタマの奥に、プチノイズが生じた。<br />
それは意識の繋がった音だったのか。私は断続的に、胃に溜め込まれた海水を吐いた。<br />
喉がヒリヒリする。噎せ返って苦しくなり、また嘔吐を繰り返す。<br /><br />
そんな私の半身を、誰かの力強い腕が、抱き起こしてくれた。<br />
目が霞んで、おまけに暗い中なので、相手の姿がよく見えない。<br />
だけど、私には判っていた。私を支えてくれる大きな手が、誰のものか。<br /><br />
「薔薇水晶! 薔薇水晶! しっかりするんだ。目を開けておくれ」<br /><br />
必死になって呼びかけてくれる声を聞いて、私の意識は、急速に目覚めていった。<br /><br />
「……お……と……さま」<br />
「あぁ、薔薇水晶! よかった。気がついてくれて……本当に、よかった」<br /><br />
私たちはまだ、防波堤の中程にいた。<br />
打ち寄せる波は届かないけれど、大粒の雨には、打たれっぱなしだ。<br />
私はもちろんのこと、お父さまも、全身ずぶ濡れだった。<br /><br />
「私……どうして」<br />
「きみは、こんな時化の海に飛び込んだんだ。まったく……なにを考えてる。<br />
もう少し、ぼくが来るのが遅れていたら、助からなかったかも知れないんだぞ」<br />
<br />
身を投げたバカな私を、お父さまは懸命に、助けてくれたのね。<br />
自分も溺れてしまうかも知れないのに、海に飛び込んで――<br />
気を失った私を防波堤まで引き上げ、人口呼吸まで、してくれたなんて。<br /><br />
「ごめんなさい、お父さま。あの…………ありがとう」<br />
「――困った子だ」<br />
<br />
頬を緩めて、お父さまは、冷え切った私を抱っこしてくれた。「さあ、帰ろう」<br />
<br />
<br />
帰る。そう、私は帰ってきた。<br />
お母さまに――真紅に諭されて、お父さまの元へと。<br /><br />
お姫さまみたいに抱き上げられながら、私は回想していた。<br />
あの妙にリアルで、摩訶不思議な夢のことを。<br />
九秒前の白。お母さまと妹が居た世界。<br />
<br />
<br />
『彼――槐のこと、よろしくね』<br />
<br />
<br />
別れ際の、彼女の爽やかな声が、耳に甦る。<br />
私は、さっきまで見ていた夢について、つまびらかに語った。<br /><br />
「不思議な話だ」<br /><br />
聞き終えたところで、お父さまが唇を開く。<br />
その口元には、魅せられたような、浮ついた笑みがあった。<br /><br />
「それが本当なら、ぼくも、娘に――雪華綺晶に会ってみたいな」<br /><br />
轟々と吹き荒れる風の中で、その言葉だけが、不自然にハッキリと聞き取れた。<br />
それは、直後に起きることへの、注意を促す暗示だったのか。<br />
びょぉう……。風が裂ける叫びが、やけに近く聞こえた、次の瞬間――<br /><br />
「危ないっ!」<br /><br />
お父さまの絶叫。投げ出され、濡れたアスファルトに叩き付けられた、私。<br />
雷鳴にも似た、耳を聾する音が打ち鳴らされ、地面が重々しく揺れた。<br />
<br />
<br />
<br />
いったい、なにが起きたの?<br />
激痛で軋む身体に鞭を打って、私はやっと、半身を起こした。<br />
そして――<br /><br /><br />
「お……父さ……ま?」<br /><br />
私が目にしたのは、強風に煽られて倒れた電柱と。<br />
その下敷きになった、お父さまの姿だった。<br /><br />
「あ、あ、あぁ…………お父さま! お父さまっ!」<br /><br />
呼びかけ、這うように近づくけれど、お父さまは俯せたまま、ピクリとも動かない。<br />
コンクリート製の電柱は、お父さまの胴を、がっちりと路面に挟み込んでいた。<br /><br />
「お父さまっ! イヤ……お父さまっ!」<br /><br />
電柱をどかそうとしたけれど、私だけじゃ動かせっこない。<br />
圧迫された腹部に――シャツに、夜目にもわかる紅い染みが広がっていく。<br />
私は、ただただ狼狽えるばかりで。<br /><br /><br />
「誰か――お願い! 誰でもいいから手を貸して!<br />
お父さまを助けてっ! お願いだから――」<br /><br /><br />
嵐の中、腰が抜けたように座り込み、お父さまの手に縋り付いて叫んでた。<br />
そんなことしか、私には……できなかった。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/3869.html">後編につづく</a><br />
<br />
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