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『誰より好きなのに』 前編」(2008/06/30 (月) 01:11:43) の最新版変更点

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<p align="left"> <br />  <br /> いつも、見ていた。<br /> ずっと、見つめ続けてきた。<br /> 出逢ったときから、片時だって、瞳を逸らさないで。<br />  <br />  <br />  <br />  <br />  「おとーさま」<br />  <br /> ここには、私の欲しかったものが、すべて有った。<br /> ふかふかのベッドも、美味しい食事も、愛情に満ちた温かい両親も。<br /> けれど、育ちがよくない私は貪欲で、満ち足りるということを知らずに……<br /> いつだって、あなたの広く逞しい背中に縋りつくため、なにかしらの口実を探していた。<br /><br />  「どうしたんだい?」<br /><br /> そして、あなたは――<br /> どんな時でも。たとえ仕事中であろうと、家事の途中だろうと。<br /> 私の呼びかけに振り返って、柔和に微笑み、膝に抱き上げてくれた。<br /> いかにも職人らしい傷だらけの大きな手で、私の髪や頭を撫でてくれた。<br /><br /> 私にとって至福と呼べるのは、お父さまに愛惜されることだけ。<br /> かけがえのない愛情と温もりを独り占めにできる、その瞬間こそが、最高の幸せなのだ。<br /><br />  「寂しそうな顔をしてるね。独りにして、悲しませてしまったのかな。ごめんよ」<br />  「……ううん。おとーさまがいるから、ばらしー、さびしくない」<br />  「そうか。でもね、本当に悲しいときは、我慢せずに泣いてもいいんだよ」<br />  「泣いたりしないもん」<br /><br /> あなたの前でだけは、そんな強がりを言えた。<br /> 独りぼっちは慣れっこだったのに……今では、独りで居ることが、とても怖い。<br /> 愛という概念を得てからの私は、すっかり臆病になってしまった。<br /><br /> お父さまが、私の脆弱さに気づいていなかったワケがない。<br /> すべて承知で、強情を張る私を、温かく見守ってくれていたのね……いつでも。<br />  <br />  <br />  <br />  <br /> 10年という歳月は、長いようで、意外にも速やかに過ぎ去り――<br /> 私は今年で18歳になった。相変わらず、親離れできない甘えんぼのままで。<br /> でもまあ、それは、お父さまにも言えることだけれど。<br /> 出逢った頃と変わらず、私を宝物のように、大切にしてくれている。<br /><br /> それは、幸せなこと。誰彼かまわず自慢して回りたいくらいに、嬉しいこと。<br /> だのに……歓びとは裏腹に、最近、些細なことでも鬱ぎがちになっている。<br /> 私は、他人様に誇れるほど、アタマのいい女の子じゃあないけれど……<br /> それでも、気持ちが沈む原因には、思い当たるモノがあった。<br />  <br />  <br />  <br /> ――ここのところ、お父さまは元気がない。<br /> ふと見れば、いつだって遠い眼差しをして、どこか思い詰めた顔をしている。<br /> 工房に籠もっている時間も、以前に比べたら、かなり長くなって。<br /> あなたと顔を合わせるたび、言葉を交わすたび、私の不安は駆り立てられる。<br /><br /> いつも、私の作る料理は残さず食べてくれるから、病気ではない……と思う。<br /> 仕事がはかばかしくなくて、気落ちしているだけなら、笑い話で済ませられるんだけど。<br /><br /> なんとかしてあげたい、とは思う。そして、もどかしさに唇を噛む。<br /> 家族なんだもの。遠慮しないで、私を頼ってくれたなら、喜んで手伝うのに。<br /> お父さまは決して、弱さをさらけ出してくれない。<br /> 私は、そんなにも――アテにしてもらえないほど無力で、無能なの?<br />  <br />  <br />  <br /> ――日付の変わる頃、私は今夜も、ココロを込めて煎れた紅茶を工房に運ぶ。<br /> 上陸しつつある台風が、家の窓という窓を、喧しく叩いていた。<br /><br />  「お父さま」<br /><br /> 呼びかけると、この時だけは、お父さまも作業の手を止める。<br /> 普段どおりに振り返って、穏やかに口元を緩めた。「ありがとう。いつも、すまないね」<br /> あまり、無理はしないで。そうお願いするのが、私の日課。<br /> 「していないよ」と、目尻を下げて答えるのが、あなたの日課。<br /><br />  「……うん。いい香りだ」<br /><br /> 言って、お父さまは深紅の液体を、ゆるゆると喉に流し込む。<br /> 幸せそうな顔。だけど、頬や目元には、明らかな窶れが刻まれている。<br /> どうして、たかが人形作りに、そこまで没頭するの?<br /> なぜ、死に急ぐみたいに、自分を虐げるの?<br /><br /> その想いを呑み込めば、ココロの中で、また――無力感が膨張してゆく。<br /> 私には……お父さまを止められない。窶れの元凶を、取り除いてあげることも。<br /> この虚しさこそが、先に言った、私を鬱にさせる原因なのだ。<br /><br /> やるせない気持ちで、そっと目を伏せる。<br /> 私の目線は、作業台の隅に置かれたフォトスタンドに、吸い寄せられた。<br /> 小さな長方形の窓ごしに、ブロンドの美女が、笑いかけている。<br /><br /> ――真紅。お父さまの師匠の娘で、私のお母さまでもあった人。<br /> 2人は同い年で、お父さまの方が、ぞっこん惚れていたって聞かされた。<br /> 彼女がイギリスに留学したときも、足繁く会いに行ってた……って。<br /> 物静かで、口数の少ない人だけれど、その実、一途で情熱的な求道者なのよね。<br />  <br />  <br />   彼の熱意に当てられたのね、きっと。<br />   クラッと眩暈がして、気づいたら恋に落ちていたのだわ――<br />  <br />  <br /> ――とは、在りし日の、お母さまの談。<br /> 彼女の大学卒業を待って、2人はめでたく結婚した。<br /> 22歳の仲睦まじい若夫婦を、誰もが羨み、祝福してくれたと言う。<br /><br /> お父さまたちは、この海辺の街に移り住んで、工房と直売の店舗を構えた。<br /> 堅実かつ聡明な真紅の助力で、2人の蜜月は順風満帆だった……らしい。<br /> その頃のことは、伝え聞くばかりで、よく知らない。<br /> 2人の甘く幸せな生活に、私が加わったのは、それから程なくしての話だから。<br /><br /><br /> 打ち明けると、私は……お父さまたちの、本当の娘ではない。<br /> 別の街で路上生活をしていた孤児で、私が8歳のとき、養子として迎えられた。<br /> 本当の両親なんか、顔も憶えていない。当然、名前も付けてもらってない。<br /> 戸籍とか『なにそれ、美味しいの?』って、知識レベルでしかなかった。<br /><br /> その頃の私が持っていたのは、生き抜くための技能……スリングによる投石術だけ。<br /> 闇夜でも正確に石礫を当てるところから、仲間たちに付けられた綽名は、ノクトゥルネ。<br /> 標的を、ただの一撃で夢の世界に誘うから『夜想曲』とはね。<br /> 今にして思うと、背中がムズ痒くなって仕方がない。<br /><br /> それまでの私の人生は、言葉から想起されるような、清廉潔白な生き様じゃなかった。<br /> 食べるために盗みも働いたし、イタズラ目的で近づいてくる輩を半殺しにして、金品を奪いもした。<br /> そういった悪行が原因で住処を追われ、この街まで逃れてきたのだ。<br /><br /> 喩えるなら、道端の物陰に蹲って、絶えず周りを威嚇し続けているノラ猫。<br /> 身もココロも汚れきって、怯えながら、付け入る隙を窺うばかりの生活しか知らなかった、私。<br /> あなたたちは、そんな私に、そっと手を差し伸べてくれた。過去や素性を、詮索もせずに。<br /> 『薔薇水晶』という、ステキな名前まで、プレゼントしてくれた。<br />  <br />  <br />  初めて知った他人の温かさ。安心して眠りに就ける夜の心地よさ。飢えも渇きもない生活。<br /> 育ちの悪い私に対する、お母さまの躾や教育は厳しくて、反撥もしたけれど……<br /> それでも、汚濁と屎尿の臭気に満ち満ちた橋の下に比べれば、ここは別天地だった。<br /><br /> 1匹の動物にすぎなかった私は、2人の愛情によって洗い清められ、<br /> 1人の人間――ひとりの女の子として生まれ変われたのだ。<br /><br /><br /> もちろん、幸せなことばかりじゃない。悲喜こもごも、様々なことがあった。<br /> 最も衝撃だったのは、ここに来てから2年が過ぎた日のこと。<br /> ちょうど、今夜みたいな、台風の日だった。<br /> 強風に飛ばされた大きな看板から私を護るため、お母さまは、その身を楯にして――<br /> 風のように、舞台から去ってしまった。<br /><br /> おなかに宿っていた、新しい命――私の妹も連れて。<br />  <br />  <br />  <br />  <br /> あの日から、もう8年。<br /> 彼女の急逝は、私たち残された者のココロに、一生かけても癒えないだろう深い傷を残した。<br /> 私も、お父さまも……今もって、この胸に埋めようのない空隙を抱え続けている。<br />  <br /> 葬儀の席で、穏やかに微笑むお母さまの遺影を見つめながら、私は懺悔し続けた。<br /> すべて私のせい。嵐が来ているのに、私が外に出たりしたから。<br /> きっと、あれは天罰だったに違いない。<br /> 私が働いてきた悪事の清算として、彼女と赤ちゃん、2つの命が支払われたのだ。<br /> 当時は、そうとしか考えられなかった。<br /> ……ううん。今も、そうとしか考えられないでいる。<br /><br />   ごめんなさい、お父さま――<br />   ごめんなさい、お母さま――<br />   ごめんなさい、実体を持って産まれることなく消えてしまった、私の妹――<br /><br /> 私が死ねばよかったの。私なんか、ここに来なければよかったの。<br /> いっそ、どこかで野垂れ死んでさえいれば……。<br /><br /><br /> お母さまが大地に抱かれ、二度と会えない世界に旅立った、その晩。<br /> 私の過去を、お父さまに話した。お母さまを死に追いやったことを謝った。<br /> そして、こうも続けたよね。<br /> さよなら。もう、迷惑かけられないから、出ていく――って。<br /><br /> 直後、私は殴られていた。思いっ切り頬をひっぱたかれて、吹っ飛んでいた。<br /> それが、お父さまに撲たれた、最初で最後の記憶。<br /><br /> これで終わり。楽しかった日々も、なにもかも、ぶち壊し。<br /> 頬の熱さと耳鳴りの中で、そう思っていたのに……<br /> お父さまは跪いて、子供のように泣きじゃくりながら、私を力強く抱きしめた。<br /><br />  「バカなことを言うな! どこにも行かせるものか。<br />   誰がなんと言おうと、きみは薔薇水晶だ。ぼくたちの大切な娘なんだ!」<br /><br /> 普段は寡黙な、お父さまが……矢継ぎ早に迸らせた言葉の数々――<br /> あの、肺腑を衝く叱責が、私を本当の意味で、薔薇水晶にしたのだと思う。<br /> 名無しの『夜想曲』ではなく、どこにでもいる、幸せな女の子に。<br /><br /><br /> その日から――私は、もう泣かないと、お母さまと妹に誓った。<br /> 私まで悲しみ続けていたら、お父さまは、もっと辛くなってしまうから。<br /> 彼女たちの分まで愛して、支える。それが……生き残った私の使命だ。<br /><br /> 愛用していたスリングを眼帯に作り替えて、私は自らの左眼を封印した。<br /> 強くあるための、おまじない。泣かないための自己暗示。<br /> その奥に涙を押し込めて、私は、この8年を生きてきた。<br /><br />  「おいしかったよ。ごちそうさま」<br /><br /> 空になったティーカップが、差し出される。私は黙って、それを受け取る。<br /> いつもならば、このまま引き上げていた。<br /> でも、今夜は……そんな気分になれなくて。<br /><br />  「お父さま」<br /><br /> 作業に戻ろうとする背中に、そっと呼びかける。<br /> そして、お父さまが振り返るより速く、大きな背中に身体を寄せた。<br /> 私の指を離れたティーカップが、床で砕けたけれど、キニシナイ。<br /> がっしりとした肩に手を乗せ、広い背中に頬を擦りつけて……<br /> シャツに滲みたお父さまの匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。<br /><br />  「今夜はもう、お休みになって」<br />  「……薔薇水晶?」<br /><br /> 明らかな戸惑いが、僅かな挙動から伝わってくる。<br /> それを分かっていながら、私は喋ることを、やめようと思わなかった。<br /><br />  「お父さまは、つかれている。私には分かるわ。私だから分かるの」<br />  「どうしたんだい? 今日はまた、随分と甘えんぼだね。<br />   ははぁん……さては、なにか欲しいものがあるのかな?」<br />  「茶化さないで」<br /><br /> 普通に言ったつもりが、私の口調は、私自身でさえ戸惑うほど、強いものになっていた。<br /> お父さまも、らしからぬ私の様子に驚いて、口を噤む。<br /> 黙りこくった私たちの間に、がたごと……。<br /> 雨と風が、ひっきりなしに揺らす窓の喧噪が、割り込もうとする。<br /><br /> 私は、それらを――<br /> ありとあらゆる邪魔者を排除したくて、背後から、お父さまを強く抱きしめた。<br /><br />  「今、お父さまが作っている人形――」<br /><br /> 両腕に、あらん限りの力を込める。<br /> 身体を密着させながら、私はあなたの肩越しに、作業台の上を覗き見た。<br /> そこに横たわっているのは、ビスクで作られた、うら若い乙女のボディ。<br /> 膝まで届く金色のウィッグと、紺碧のグラスアイ。<br /><br />  「それ……お母さまなんでしょ?」<br /><br /> 見紛うはずもなかった。表情の一片に至るまで完璧に、お母さまを再現していた。<br /> やはり、お父さまは稀代の天才人形師。でも、才能の使いかたを間違っている。<br /> あなたの窶れは、仕事に疲れているからではない。<br /> 真紅の幻影に、今もって、憑かれているからだ。<br />  <br /> それは、ある意味、私の望みだった。夫婦仲がよい家庭に、憧れていたから。<br /> けれど……別の意味で、私が最も拒絶したい現実でもあった。<br /> お父さまの愛情が、私以外に向けられることを、いつからか嫌悪するようになっていた。<br /><br /><br />   どうして――<br />   なぜ今更、お母さまの人形が必要なの?<br />   人形のお母さまを愛そうと言うの? ここにいる、私ではなく?<br /><br /><br /> 私は、フォトスタンドの中で微笑んでいる真紅を、横目に睨みつけた。<br /> そして、ココロの中で、彼女をなじった。<br /> ……貴女は卑怯よ。<br /> お父さまへの愛を、私と競い合うこともなく、勝ち逃げしてしまうなんて。<br /> 私、これから、どうすればいいの?<br /><br /> ――解らない。考えれば考えるほど、煩悶はガン細胞のように増殖するばかりで。<br /> アタマが、どうにかなってしまいそう。<br /> ねえ、どうしたらいいの? 教えて……お母さま。<br /><br />  「私では、ダメなの? 支えにも、慰めにもならない?」<br />  「……薔薇水晶」<br />  「私は、こんなにも…………お父さまのこと、誰より好きなのに」<br />  「よさないか、薔薇水晶」<br />  「イヤっ!」<br /><br /> 私は激しく頭を振って、駄々をこねる。<br /> でも、抱きしめていた腕は、大きな手によって、そっと引き剥がされた。<br /><br /> その手を振り解いて、私はまた、しっかりと抱きつく。<br /> あなたの溜息が、私のココロを突き放そうとするように、長く尾を引いた。<br /><br />  「僕だって……きみのことを、誰より大切に想っているさ」<br />  「娘としてだけ、でしょ? 私は、ささやかな愛情を求めてるんじゃない。<br />   人形のように愛でられるのを待っているだけなんて、イヤ!<br />   一方通行の愛じゃなくて、1人の女の子として、愛して欲しいの」<br /><br /> お母さまに――真紅に勝ちたい。私は、激情に胸を焦がした。<br /> 死んだ人間には勝てないかも知れないけれど、それでも。<br /> 棄権したら、なにも掴めないまま、道端で冷たくなるだけ。<br /> 路上生活者だった頃の経験則で、イヤと言うほど、それを知っていたから。<br /><br />  「お母さまの代わりになんか、なれないし、なるつもりもない。<br />   だけど、これ以上、家族ゴッコを続けるのは、もうイヤなの!<br />   娘としてじゃなく、女として、あなたと幸せな家庭を築きた――」<br /><br /> 私の告白は、突然に遮られた。<br /> お父さまが、弾かれたように椅子を立ったから。<br /> そして、驚き、後ずさった私に、あなたは容赦なく平手を振り下ろした。<br /><br /> 左の頬が痺れ、少し遅れて、じわりと熱を帯びてきた。<br /> 撲たれた拍子にはずれた眼帯が、ぽとり……と、足元に転がった。<br /> 2度目の殴打。それは私に、二度と泣かないという誓いを破らせた。<br /> 8年もの間、ずっと溜めてきた涙が、奔流となって瞼から溢れてくる。<br /><br /> 滲んだ世界の向こうで、お父さまは、苦渋に満ちた顔をしていた。<br /> そして、気まずさに耐えかねたように、私から顔を逸らして――<br /> お母さまのフォトスタンドを、手にとった。<br />  <br /> 写真に注がれた悲しげな目が、問いかけていた。<br /> きみだったら、こんなとき、どう諭すのだろうか……と。<br /> 私は、打ちひしがれた。あなたは今も、お母さまを想い続け、頼りにしている。<br /> この8年、一緒に暮らしてきた私ではなく、既に過去の人である真紅を――<br /><br /> いたたまれなかった。本音をぶつけた私から、瞳を逸らさないで欲しかった。<br /> 恥ずかしさと、悔しさと、胸が張り裂けるほどの悲しさと。<br /> すべてが綯い交ぜになった感情を抑えきれず、私は踵を返して、その場を逃げ出した。<br /> そうするより他に、自分を保っていられる自信がなかったから。<br /><br /> 着の身着のまま、家を出た。その途端、痛いほどの豪雨に、肌を打たれた。<br /> 玄関先で、私は一度だけ、歩みを止めた。<br /> でも、あなたは追いかけて来てくれなくて――<br /><br />  「さよなら……お父さま」<br /><br /> 涙を溢れるに任せて、私は深夜の街を駆け抜けた。<br /> もう二度と、ここには戻らないつもりで。<br />  <br />  <br />  <br /> だけど、どこに行けばいいのか? 私は土砂降りの雨の中、立ち尽くした。<br /> 生きてゆくには、先立つモノが必要だ。<br /> お金……ワケありの女が、手っ取り早く、かつ確実に稼ぐとなると……<br /> やっぱり、女であることを最大限に利用して、春をひさぐしかない。<br /> そういう店なら、当面の住処も世話してくれるだろう。<br /><br /> 私は、そんな生き方をする星のもとに、生まれついたのかな。<br /> 顔も知らない実の母親も、案外、娼婦だったのかも知れない。<br /> 客と商売女の、ゆきずりの関係でできた娘――それが、私?<br /><br /> 仮定にすぎないけれど、その発想は妙に、しっくりと胸に落ち着いた。<br /> それによって、ネガティブな思考が、ドミノ倒しになって押し寄せてきた。<br /><br /> そう。私は望まれずに産まれ、厄介払いされたに違いない。<br /> 誰にとっても、私なんか必要ではなかったのだ。<br /> お父さまたちだって……捨てネコでも拾う感覚で、私を保護したのだろう。<br />  <br />  <br /> いっそ、本当にネコとして産まれていたなら、よかったのに。<br /> そうしたら、まだ幸せでいられたかも知れない。<br /> 仕事中は、お父さまの膝の上に、丸くなっていられるし。<br /> 夜は、あなたと同じベッドで眠れるから。<br />  <br />  <br />  「……馬鹿みたい。もう戻らないって、決めたのに」<br /><br /> 吹き荒れる雨風の中で、私は弱音と溜息を混ぜ合わせて、宙に投げ捨てた。<br /> その未練の塊は、もみくちゃにされ、跡形もなく散っていった。<br /><br /> もう帰れない。だけど、新しい生活を探すことも億劫で。<br /> 私の足は、海へ――港の防波堤へと、向かっていた。<br /> 遠目にも、激しく波が砕け、飛沫の散る様子が見て取れる。<br /><br />  「……あはっ。いいこと思い付いちゃった。<br />   お母さま……今から、そっち行くね。そうしたら、勝負しましょう。<br />   私は貴女に勝ってみせる。必ず勝って、生まれ変わるの。そして――」<br /><br /> 今度こそ、愛する人の隣りで、愛されながら暮らすのだ。<br />  <br />  <br />  <br /> 防波堤に近づくのは、意外に大変だった。<br /> 吹きっさらしの暴風が、華奢な私を、押し戻そうとする。<br /> 横殴りの雨と、海水の飛沫に顔を打たれて、目を開けるのも辛い。<br /><br /> けれども、その程度で、私を止めることなどできない。<br /> どうせなら、もっと荒れ狂うがいい。私は胸裡で嘲笑ってすらいた。<br /> 最後まで波瀾万丈。なんとまあ、私に相応しい幕引きだろう。<br /><br />  「すべて洗い流して。私の生きた証も、この身に染みついた咎も」<br /><br /><br /> 防波堤の先端までゆく間に、何度か、打ち寄せた波に足を取られて、転んだ。<br /> 服と言わず髪と言わず、全身びしょびしょ。打ち身と擦り傷が、痛い。<br /> その上、絶え間なく吹きつける海風に、体温を奪われ続けていた。<br /> 足元を洗う波の方が、むしろ温かく感じられる。<br />  <br />  「もっと、早く……こうすればよかった」<br /><br /> それが、ココロに浮かぶ、偽りない心境。私は10年前に、こうすべきだったのだ。<br /> あなたたち夫婦と、巡り会ってしまう前に。<br /> そうしたら、お母さま――真紅は、この世を去らずに済んだ。<br /> 妹は無事に産まれ、あなたは愛する妻子と一緒に、今も笑顔でいただろう。<br /><br /><br />  「ごめんなさい」<br />  <br />  <br /> 償いの言葉を口にして、私は暗くうねる海へと、この身を投げ出した。<br />  <br />  <br />  <br />  <br />   中編につづく<br />  <br />  </p>
<p align="left"> <br />  <br /> いつも、見ていた。<br /> ずっと、見つめ続けてきた。<br /> 出逢ったときから、片時だって、瞳を逸らさないで。<br />  <br />  <br />  <br />  <br />  「おとーさま」<br />  <br /> ここには、私の欲しかったものが、すべて有った。<br /> ふかふかのベッドも、美味しい食事も、愛情に満ちた温かい両親も。<br /> けれど、育ちがよくない私は貪欲で、満ち足りるということを知らずに……<br /> いつだって、あなたの広く逞しい背中に縋りつくため、なにかしらの口実を探していた。<br /><br />  「どうしたんだい?」<br /><br /> そして、あなたは――<br /> どんな時でも。たとえ仕事中であろうと、家事の途中だろうと。<br /> 私の呼びかけに振り返って、柔和に微笑み、膝に抱き上げてくれた。<br /> いかにも職人らしい傷だらけの大きな手で、私の髪や頭を撫でてくれた。<br /><br /> 私にとって至福と呼べるのは、お父さまに愛惜されることだけ。<br /> かけがえのない愛情と温もりを独り占めにできる、その瞬間こそが、最高の幸せなのだ。<br /><br />  「寂しそうな顔をしてるね。独りにして、悲しませてしまったのかな。ごめんよ」<br />  「……ううん。おとーさまがいるから、ばらしー、さびしくない」<br />  「そうか。でもね、本当に悲しいときは、我慢せずに泣いてもいいんだよ」<br />  「泣いたりしないもん」<br /><br /> あなたの前でだけは、そんな強がりを言えた。<br /> 独りぼっちは慣れっこだったのに……今では、独りで居ることが、とても怖い。<br /> 愛という概念を得てからの私は、すっかり臆病になってしまった。<br /><br /> お父さまが、私の脆弱さに気づいていなかったワケがない。<br /> すべて承知で、強情を張る私を、温かく見守ってくれていたのね……いつでも。<br />  <br />  <br />  <br />  <br /> 10年という歳月は、長いようで、意外にも速やかに過ぎ去り――<br /> 私は今年で18歳になった。相変わらず、親離れできない甘えんぼのままで。<br /> でもまあ、それは、お父さまにも言えることだけれど。<br /> 出逢った頃と変わらず、私を宝物のように、大切にしてくれている。<br /><br /> それは、幸せなこと。誰彼かまわず自慢して回りたいくらいに、嬉しいこと。<br /> だのに……歓びとは裏腹に、最近、些細なことでも鬱ぎがちになっている。<br /> 私は、他人様に誇れるほど、アタマのいい女の子じゃあないけれど……<br /> それでも、気持ちが沈む原因には、思い当たるモノがあった。<br />  <br />  <br />  <br /> ――ここのところ、お父さまは元気がない。<br /> ふと見れば、いつだって遠い眼差しをして、どこか思い詰めた顔をしている。<br /> 工房に籠もっている時間も、以前に比べたら、かなり長くなって。<br /> あなたと顔を合わせるたび、言葉を交わすたび、私の不安は駆り立てられる。<br /><br /> いつも、私の作る料理は残さず食べてくれるから、病気ではない……と思う。<br /> 仕事がはかばかしくなくて、気落ちしているだけなら、笑い話で済ませられるんだけど。<br /><br /> なんとかしてあげたい、とは思う。そして、もどかしさに唇を噛む。<br /> 家族なんだもの。遠慮しないで、私を頼ってくれたなら、喜んで手伝うのに。<br /> お父さまは決して、弱さをさらけ出してくれない。<br /> 私は、そんなにも――アテにしてもらえないほど無力で、無能なの?<br />  <br />  <br />  <br /> ――日付の変わる頃、私は今夜も、ココロを込めて煎れた紅茶を工房に運ぶ。<br /> 上陸しつつある台風が、家の窓という窓を、喧しく叩いていた。<br /><br />  「お父さま」<br /><br /> 呼びかけると、この時だけは、お父さまも作業の手を止める。<br /> 普段どおりに振り返って、穏やかに口元を緩めた。「ありがとう。いつも、すまないね」<br /> あまり、無理はしないで。そうお願いするのが、私の日課。<br /> 「していないよ」と、目尻を下げて答えるのが、あなたの日課。<br /><br />  「……うん。いい香りだ」<br /><br /> 言って、お父さまは深紅の液体を、ゆるゆると喉に流し込む。<br /> 幸せそうな顔。だけど、頬や目元には、明らかな窶れが刻まれている。<br /> どうして、たかが人形作りに、そこまで没頭するの?<br /> なぜ、死に急ぐみたいに、自分を虐げるの?<br /><br /> その想いを呑み込めば、ココロの中で、また――無力感が膨張してゆく。<br /> 私には……お父さまを止められない。窶れの元凶を、取り除いてあげることも。<br /> この虚しさこそが、先に言った、私を鬱にさせる原因なのだ。<br /><br /> やるせない気持ちで、そっと目を伏せる。<br /> 私の目線は、作業台の隅に置かれたフォトスタンドに、吸い寄せられた。<br /> 小さな長方形の窓ごしに、ブロンドの美女が、笑いかけている。<br /><br /> ――真紅。お父さまの師匠の娘で、私のお母さまでもあった人。<br /> 2人は同い年で、お父さまの方が、ぞっこん惚れていたって聞かされた。<br /> 彼女がイギリスに留学したときも、足繁く会いに行ってた……って。<br /> 物静かで、口数の少ない人だけれど、その実、一途で情熱的な求道者なのよね。<br />  <br />  <br />   彼の熱意に当てられたのね、きっと。<br />   クラッと眩暈がして、気づいたら恋に落ちていたのだわ――<br />  <br />  <br /> ――とは、在りし日の、お母さまの談。<br /> 彼女の大学卒業を待って、2人はめでたく結婚した。<br /> 22歳の仲睦まじい若夫婦を、誰もが羨み、祝福してくれたと言う。<br /><br /> お父さまたちは、この海辺の街に移り住んで、工房と直売の店舗を構えた。<br /> 堅実かつ聡明な真紅の助力で、2人の蜜月は順風満帆だった……らしい。<br /> その頃のことは、伝え聞くばかりで、よく知らない。<br /> 2人の甘く幸せな生活に、私が加わったのは、それから程なくしての話だから。<br /><br /><br /> 打ち明けると、私は……お父さまたちの、本当の娘ではない。<br /> 別の街で路上生活をしていた孤児で、私が8歳のとき、養子として迎えられた。<br /> 本当の両親なんか、顔も憶えていない。当然、名前も付けてもらってない。<br /> 戸籍とか『なにそれ、美味しいの?』って、知識レベルでしかなかった。<br /><br /> その頃の私が持っていたのは、生き抜くための技能……スリングによる投石術だけ。<br /> 闇夜でも正確に石礫を当てるところから、仲間たちに付けられた綽名は、ノクトゥルネ。<br /> 標的を、ただの一撃で夢の世界に誘うから『夜想曲』とはね。<br /> 今にして思うと、背中がムズ痒くなって仕方がない。<br /><br /> それまでの私の人生は、言葉から想起されるような、清廉潔白な生き様じゃなかった。<br /> 食べるために盗みも働いたし、イタズラ目的で近づいてくる輩を半殺しにして、金品を奪いもした。<br /> そういった悪行が原因で住処を追われ、この街まで逃れてきたのだ。<br /><br /> 喩えるなら、道端の物陰に蹲って、絶えず周りを威嚇し続けているノラ猫。<br /> 身もココロも汚れきって、怯えながら、付け入る隙を窺うばかりの生活しか知らなかった、私。<br /> あなたたちは、そんな私に、そっと手を差し伸べてくれた。過去や素性を、詮索もせずに。<br /> 『薔薇水晶』という、ステキな名前まで、プレゼントしてくれた。<br />  <br />  <br />  初めて知った他人の温かさ。安心して眠りに就ける夜の心地よさ。飢えも渇きもない生活。<br /> 育ちの悪い私に対する、お母さまの躾や教育は厳しくて、反撥もしたけれど……<br /> それでも、汚濁と屎尿の臭気に満ち満ちた橋の下に比べれば、ここは別天地だった。<br /><br /> 1匹の動物にすぎなかった私は、2人の愛情によって洗い清められ、<br /> 1人の人間――ひとりの女の子として生まれ変われたのだ。<br /><br /><br /> もちろん、幸せなことばかりじゃない。悲喜こもごも、様々なことがあった。<br /> 最も衝撃だったのは、ここに来てから2年が過ぎた日のこと。<br /> ちょうど、今夜みたいな、台風の日だった。<br /> 強風に飛ばされた大きな看板から私を護るため、お母さまは、その身を楯にして――<br /> 風のように、舞台から去ってしまった。<br /><br /> おなかに宿っていた、新しい命――私の妹も連れて。<br />  <br />  <br />  <br />  <br /> あの日から、もう8年。<br /> 彼女の急逝は、私たち残された者のココロに、一生かけても癒えないだろう深い傷を残した。<br /> 私も、お父さまも……今もって、この胸に埋めようのない空隙を抱え続けている。<br />  <br /> 葬儀の席で、穏やかに微笑むお母さまの遺影を見つめながら、私は懺悔し続けた。<br /> すべて私のせい。嵐が来ているのに、私が外に出たりしたから。<br /> きっと、あれは天罰だったに違いない。<br /> 私が働いてきた悪事の清算として、彼女と赤ちゃん、2つの命が支払われたのだ。<br /> 当時は、そうとしか考えられなかった。<br /> ……ううん。今も、そうとしか考えられないでいる。<br /><br />   ごめんなさい、お父さま――<br />   ごめんなさい、お母さま――<br />   ごめんなさい、実体を持って産まれることなく消えてしまった、私の妹――<br /><br /> 私が死ねばよかったの。私なんか、ここに来なければよかったの。<br /> いっそ、どこかで野垂れ死んでさえいれば……。<br /><br /><br /> お母さまが大地に抱かれ、二度と会えない世界に旅立った、その晩。<br /> 私の過去を、お父さまに話した。お母さまを死に追いやったことを謝った。<br /> そして、こうも続けたよね。<br /> さよなら。もう、迷惑かけられないから、出ていく――って。<br /><br /> 直後、私は殴られていた。思いっ切り頬をひっぱたかれて、吹っ飛んでいた。<br /> それが、お父さまに撲たれた、最初で最後の記憶。<br /><br /> これで終わり。楽しかった日々も、なにもかも、ぶち壊し。<br /> 頬の熱さと耳鳴りの中で、そう思っていたのに……<br /> お父さまは跪いて、子供のように泣きじゃくりながら、私を力強く抱きしめた。<br /><br />  「バカなことを言うな! どこにも行かせるものか。<br />   誰がなんと言おうと、きみは薔薇水晶だ。ぼくたちの大切な娘なんだ!」<br /><br /> 普段は寡黙な、お父さまが……矢継ぎ早に迸らせた言葉の数々――<br /> あの、肺腑を衝く叱責が、私を本当の意味で、薔薇水晶にしたのだと思う。<br /> 名無しの『夜想曲』ではなく、どこにでもいる、幸せな女の子に。<br /><br /><br /> その日から――私は、もう泣かないと、お母さまと妹に誓った。<br /> 私まで悲しみ続けていたら、お父さまは、もっと辛くなってしまうから。<br /> 彼女たちの分まで愛して、支える。それが……生き残った私の使命だ。<br /><br /> 愛用していたスリングを眼帯に作り替えて、私は自らの左眼を封印した。<br /> 強くあるための、おまじない。泣かないための自己暗示。<br /> その奥に涙を押し込めて、私は、この8年を生きてきた。<br /><br />  「おいしかったよ。ごちそうさま」<br /><br /> 空になったティーカップが、差し出される。私は黙って、それを受け取る。<br /> いつもならば、このまま引き上げていた。<br /> でも、今夜は……そんな気分になれなくて。<br /><br />  「お父さま」<br /><br /> 作業に戻ろうとする背中に、そっと呼びかける。<br /> そして、お父さまが振り返るより速く、大きな背中に身体を寄せた。<br /> 私の指を離れたティーカップが、床で砕けたけれど、キニシナイ。<br /> がっしりとした肩に手を乗せ、広い背中に頬を擦りつけて……<br /> シャツに滲みたお父さまの匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。<br /><br />  「今夜はもう、お休みになって」<br />  「……薔薇水晶?」<br /><br /> 明らかな戸惑いが、僅かな挙動から伝わってくる。<br /> それを分かっていながら、私は喋ることを、やめようと思わなかった。<br /><br />  「お父さまは、つかれている。私には分かるわ。私だから分かるの」<br />  「どうしたんだい? 今日はまた、随分と甘えんぼだね。<br />   ははぁん……さては、なにか欲しいものがあるのかな?」<br />  「茶化さないで」<br /><br /> 普通に言ったつもりが、私の口調は、私自身でさえ戸惑うほど、強いものになっていた。<br /> お父さまも、らしからぬ私の様子に驚いて、口を噤む。<br /> 黙りこくった私たちの間に、がたごと……。<br /> 雨と風が、ひっきりなしに揺らす窓の喧噪が、割り込もうとする。<br /><br /> 私は、それらを――<br /> ありとあらゆる邪魔者を排除したくて、背後から、お父さまを強く抱きしめた。<br /><br />  「今、お父さまが作っている人形――」<br /><br /> 両腕に、あらん限りの力を込める。<br /> 身体を密着させながら、私はあなたの肩越しに、作業台の上を覗き見た。<br /> そこに横たわっているのは、ビスクで作られた、うら若い乙女のボディ。<br /> 膝まで届く金色のウィッグと、紺碧のグラスアイ。<br /><br />  「それ……お母さまなんでしょ?」<br /><br /> 見紛うはずもなかった。表情の一片に至るまで完璧に、お母さまを再現していた。<br /> やはり、お父さまは稀代の天才人形師。でも、才能の使いかたを間違っている。<br /> あなたの窶れは、仕事に疲れているからではない。<br /> 真紅の幻影に、今もって、憑かれているからだ。<br />  <br /> それは、ある意味、私の望みだった。夫婦仲がよい家庭に、憧れていたから。<br /> けれど……別の意味で、私が最も拒絶したい現実でもあった。<br /> お父さまの愛情が、私以外に向けられることを、いつからか嫌悪するようになっていた。<br /><br /><br />   どうして――<br />   なぜ今更、お母さまの人形が必要なの?<br />   人形のお母さまを愛そうと言うの? ここにいる、私ではなく?<br /><br /><br /> 私は、フォトスタンドの中で微笑んでいる真紅を、横目に睨みつけた。<br /> そして、ココロの中で、彼女をなじった。<br /> ……貴女は卑怯よ。<br /> お父さまへの愛を、私と競い合うこともなく、勝ち逃げしてしまうなんて。<br /> 私、これから、どうすればいいの?<br /><br /> ――解らない。考えれば考えるほど、煩悶はガン細胞のように増殖するばかりで。<br /> アタマが、どうにかなってしまいそう。<br /> ねえ、どうしたらいいの? 教えて……お母さま。<br /><br />  「私では、ダメなの? 支えにも、慰めにもならない?」<br />  「……薔薇水晶」<br />  「私は、こんなにも…………お父さまのこと、誰より好きなのに」<br />  「よさないか、薔薇水晶」<br />  「イヤっ!」<br /><br /> 私は激しく頭を振って、駄々をこねる。<br /> でも、抱きしめていた腕は、大きな手によって、そっと引き剥がされた。<br /><br /> その手を振り解いて、私はまた、しっかりと抱きつく。<br /> あなたの溜息が、私のココロを突き放そうとするように、長く尾を引いた。<br /><br />  「僕だって……きみのことを、誰より大切に想っているさ」<br />  「娘としてだけ、でしょ? 私は、ささやかな愛情を求めてるんじゃない。<br />   人形のように愛でられるのを待っているだけなんて、イヤ!<br />   一方通行の愛じゃなくて、1人の女の子として、愛して欲しいの」<br /><br /> お母さまに――真紅に勝ちたい。私は、激情に胸を焦がした。<br /> 死んだ人間には勝てないかも知れないけれど、それでも。<br /> 棄権したら、なにも掴めないまま、道端で冷たくなるだけ。<br /> 路上生活者だった頃の経験則で、イヤと言うほど、それを知っていたから。<br /><br />  「お母さまの代わりになんか、なれないし、なるつもりもない。<br />   だけど、これ以上、家族ゴッコを続けるのは、もうイヤなの!<br />   娘としてじゃなく、女として、あなたと幸せな家庭を築きた――」<br /><br /> 私の告白は、突然に遮られた。<br /> お父さまが、弾かれたように椅子を立ったから。<br /> そして、驚き、後ずさった私に、あなたは容赦なく平手を振り下ろした。<br /><br /> 左の頬が痺れ、少し遅れて、じわりと熱を帯びてきた。<br /> 撲たれた拍子にはずれた眼帯が、ぽとり……と、足元に転がった。<br /> 2度目の殴打。それは私に、二度と泣かないという誓いを破らせた。<br /> 8年もの間、ずっと溜めてきた涙が、奔流となって瞼から溢れてくる。<br /><br /> 滲んだ世界の向こうで、お父さまは、苦渋に満ちた顔をしていた。<br /> そして、気まずさに耐えかねたように、私から顔を逸らして――<br /> お母さまのフォトスタンドを、手にとった。<br />  <br /> 写真に注がれた悲しげな目が、問いかけていた。<br /> きみだったら、こんなとき、どう諭すのだろうか……と。<br /> 私は、打ちひしがれた。あなたは今も、お母さまを想い続け、頼りにしている。<br /> この8年、一緒に暮らしてきた私ではなく、既に過去の人である真紅を――<br /><br /> いたたまれなかった。本音をぶつけた私から、瞳を逸らさないで欲しかった。<br /> 恥ずかしさと、悔しさと、胸が張り裂けるほどの悲しさと。<br /> すべてが綯い交ぜになった感情を抑えきれず、私は踵を返して、その場を逃げ出した。<br /> そうするより他に、自分を保っていられる自信がなかったから。<br /><br /> 着の身着のまま、家を出た。その途端、痛いほどの豪雨に、肌を打たれた。<br /> 玄関先で、私は一度だけ、歩みを止めた。<br /> でも、あなたは追いかけて来てくれなくて――<br /><br />  「さよなら……お父さま」<br /><br /> 涙を溢れるに任せて、私は深夜の街を駆け抜けた。<br /> もう二度と、ここには戻らないつもりで。<br />  <br />  <br />  <br /> だけど、どこに行けばいいのか? 私は土砂降りの雨の中、立ち尽くした。<br /> 生きてゆくには、先立つモノが必要だ。<br /> お金……ワケありの女が、手っ取り早く、かつ確実に稼ぐとなると……<br /> やっぱり、女であることを最大限に利用して、春をひさぐしかない。<br /> そういう店なら、当面の住処も世話してくれるだろう。<br /><br /> 私は、そんな生き方をする星のもとに、生まれついたのかな。<br /> 顔も知らない実の母親も、案外、娼婦だったのかも知れない。<br /> 客と商売女の、ゆきずりの関係でできた娘――それが、私?<br /><br /> 仮定にすぎないけれど、その発想は妙に、しっくりと胸に落ち着いた。<br /> それによって、ネガティブな思考が、ドミノ倒しになって押し寄せてきた。<br /><br /> そう。私は望まれずに産まれ、厄介払いされたに違いない。<br /> 誰にとっても、私なんか必要ではなかったのだ。<br /> お父さまたちだって……捨てネコでも拾う感覚で、私を保護したのだろう。<br />  <br />  <br /> いっそ、本当にネコとして産まれていたなら、よかったのに。<br /> そうしたら、まだ幸せでいられたかも知れない。<br /> 仕事中は、お父さまの膝の上に、丸くなっていられるし。<br /> 夜は、あなたと同じベッドで眠れるから。<br />  <br />  <br />  「……馬鹿みたい。もう戻らないって、決めたのに」<br /><br /> 吹き荒れる雨風の中で、私は弱音と溜息を混ぜ合わせて、宙に投げ捨てた。<br /> その未練の塊は、もみくちゃにされ、跡形もなく散っていった。<br /><br /> もう帰れない。だけど、新しい生活を探すことも億劫で。<br /> 私の足は、海へ――港の防波堤へと、向かっていた。<br /> 遠目にも、激しく波が砕け、飛沫の散る様子が見て取れる。<br /><br />  「……あはっ。いいこと思い付いちゃった。<br />   お母さま……今から、そっち行くね。そうしたら、勝負しましょう。<br />   私は貴女に勝ってみせる。必ず勝って、生まれ変わるの。そして――」<br /><br /> 今度こそ、愛する人の隣りで、愛されながら暮らすのだ。<br />  <br />  <br />  <br /> 防波堤に近づくのは、意外に大変だった。<br /> 吹きっさらしの暴風が、華奢な私を、押し戻そうとする。<br /> 横殴りの雨と、海水の飛沫に顔を打たれて、目を開けるのも辛い。<br /><br /> けれども、その程度で、私を止めることなどできない。<br /> どうせなら、もっと荒れ狂うがいい。私は胸裡で嘲笑ってすらいた。<br /> 最後まで波瀾万丈。なんとまあ、私に相応しい幕引きだろう。<br /><br />  「すべて洗い流して。私の生きた証も、この身に染みついた咎も」<br /><br /><br /> 防波堤の先端までゆく間に、何度か、打ち寄せた波に足を取られて、転んだ。<br /> 服と言わず髪と言わず、全身びしょびしょ。打ち身と擦り傷が、痛い。<br /> その上、絶え間なく吹きつける海風に、体温を奪われ続けていた。<br /> 足元を洗う波の方が、むしろ温かく感じられる。<br />  <br />  「もっと、早く……こうすればよかった」<br /><br /> それが、ココロに浮かぶ、偽りない心境。私は10年前に、こうすべきだったのだ。<br /> あなたたち夫婦と、巡り会ってしまう前に。<br /> そうしたら、お母さま――真紅は、この世を去らずに済んだ。<br /> 妹は無事に産まれ、あなたは愛する妻子と一緒に、今も笑顔でいただろう。<br /><br /><br />  「ごめんなさい」<br />  <br />  <br /> 償いの言葉を口にして、私は暗くうねる海へと、この身を投げ出した。<br />  <br />  <br />  <br />  <br />   <a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/3868.html">中編につづく</a><br />  <br />  </p>

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