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『パステル』 -5-」(2008/05/11 (日) 22:22:22) の最新版変更点

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<p align="left"> <br />  「ふざけないでっ!」<br /><br /><br /> 突然の喝破に、雛苺は身体を震わせ、猫のように首を竦めた。<br /> 不思議な『パステル』の効能について、洗いざらいを話し終えたときのことだ。<br /><br /> あのパステルを使えば、良かれ悪しかれ、真紅の人生を狂わすことになる。<br /> 下手をすれば、一生の恨みを買うことにさえも。<br /> だからこそ、隠し事なんて、したくなかったのだ。<br /> いい返事を得たいがためと邪推されるのは、雛苺の本意ではなかったから。<br /><br /> 半身を起こした真紅が、脚に落ちたタオルを掴み、雛苺に投げつけようと腕を振り上げる。<br /> その瞬間、夢で見た病室でのシーンが、脳裏に甦って――<br /> 雛苺の怯えた瞳が、水銀燈の悲しげな眼差しと重なり、真紅の激情は急速に冷めていった。<br /><br />  「――ごめんなさい。お客さまに対して、声を荒げてしまうなんて……<br />   ダメね、私。腕を失くしてから、たまに、自分を抑えられなくなるの」<br />  「風が吹けば、地面から埃が舞い上がるし、水面には漣が生まれるわ。<br />   それは、真紅のココロが凍ってないことの証しなのよ」<br /><br /> だったら、いっそ氷結してしまえば、楽になれるのだろうか……。<br /> 真紅は再び、ソファに仰臥して深く息を吐くと、雛苺へと頸を巡らせた。<br /> その表情には、もう一喝したときの険しさなど、欠片もなかった。<br /><br />  「ねえ、雛苺。貴女、本気で、私の右腕を元どおりにできると信じているの?」<br />  「う、うゆ……」<br />  「羨ましいほど幸せなのね。そんなのは、おとぎ話だわ。ただの夢物語よ」<br /><br /> 描いた絵が現実になるパステルだなんて、童話じゃあるまいし。<br /> 理性も分別もある大人なら、誰もが、馬鹿げたフィクションだと一笑に付すだろう。<br /><br /> 真紅は苦労を重ね、社会的な成功を勝ち取ってきた、理知的な大人の女性だ。<br /> その課程で、無邪気なココロに、現実というヴェールを幾重にも被せてきたはずである。<br /> お気楽な子供っぽさを、弱さと思い込んで。<br /><br /><br />  「貴女の気づかいは、嬉しく思っているわ。本当よ」<br /><br /> 長い沈黙の末に、優しく紡がれた言葉。<br /> 真紅は、余裕ある温かな笑みを、雛苺に向けていた。<br /> さながら、落ち込む我が子を宥めようとする、母親みたいに。<br /><br />  「でもね――私は、このままで構わないのよ。<br />   一生、片腕のままで、自らを縛めながら暮らさなければいけないのだわ」<br />  「そんな……どうしてなの?」<br />  「贖罪だから。あの子を傷つけたことへの、私なりの罪滅ぼしよ」<br /><br /> 穏やかではない単語に、雛苺は固唾を呑んだ。<br /> そこまでの覚悟をさせるほど、真紅は水銀燈に、酷い仕打ちをしたのだろうか。<br /> 気にはなる。……が、これ以上、無思慮な真似もできなくて――<br /><br />  「ヒナ……そろそろ、おいとましなきゃ。<br />   紅茶、美味しかったのよ。ごちそうさまでしたなの」<br /><br /> 雛苺はデイパックを手に、立ち上がった。<br /> ぺこりと一礼して、応接間を出ようとした、その矢先。<br /><br />  「お待ちなさい」<br /><br /> 凛とした真紅の声が、小柄な娘を、その場に縫い止める。<br /> 振り返ると、宝玉を想わす蒼眸に、ひた……と。雛苺は捉えられた。<br /><br />  「もし、よければ――なのだけれど」<br /><br /> そう呟く真紅の声音は、震えていた。<br /> よほど耳を澄まさなければ分からないほど、微かに。<br /><br />  「いまの私を、描いてみてちょうだい。ありのままの私を」<br />  「ホントに、いいの?」<br />  「ええ。でも、貴女の腕が確かならば……って条件つきなのだわ」<br />  「うい! それなら大丈夫なのっ。ヒナ、こう見えても美大生なのよー」<br />  「ウソ……てっきり、中学生の1人旅かと思ってた」<br />  「ぶー。失礼しちゃうなのっ。そりゃあ、ヒナはちっちゃいし、<br />   子供っぽいって、みんなからよく言われるけど――」<br /><br /> 普通、女の子は若く見られると嬉しいものだ。<br /> しかし、それも程度の問題。度を越せば、ただの侮辱になってしまう。<br /> 顔を真っ赤にして反駁する雛苺を、真紅は神妙な面持ちで宥めた。<br /><br />  「ごめんなさい。確かに、不躾な言い種だったわね」<br />  「うんうん。解ってくれればいいのよー。えへへ~」<br /><br /> なんともまあ、気持ちの切り替わりが早い。真紅は文字どおり、舌を巻いた。<br /> そういう精神的な落ち着きのなさが、子供っぽさを助長しているのだが、<br /> 当の本人は、それを自覚していないようだ。<br /><br />  「それで? 私はどういうポーズをとったらいいのかしら」<br />  「少し長くなるから、楽な姿勢でいいのよ。<br />   うーっと、そうね……ソファの左端に寄って、肘かけに腕を乗せてみて」<br /><br /> 「こんな風に?」と、ソファの背もたれに、ゆったりと身体を預ける。<br /> これなら肘と背中で支えられるので、たいして疲れないだろう。<br /> でも、あまり長引くようだと、腰が痛くなりそうね……と、真紅は思った。<br /><br />  「うい! それで、あとは深く座っててくれれば、バッチリなの」<br />  「解ったわ。こうね」<br /><br /> 真紅が頷いてみせると、雛苺も首肯して、道具の準備に入った。<br /><br />  「表情も、ずっと変えずにいたほうがいいのかしら?」<br />  「顔は最後に描き込むから、その時だけ集中してくれたらオッケーなの。<br />   それまでは、普通にお喋りしてても構わないのよ」<br /><br /> 雛苺は2Hの鉛筆を手にして、スケッチブックを開いた。<br /> さすがに失敗の許されない状況で、パステルでの一発描きなんて冒険はできない。<br /> ある程度の当たりを付けてからが本番だ。<br /><br /> しん、と静まり返った室内に、紙面を走る鉛筆の音だけが、微かに聞こえる。<br /> 静かすぎるあまり、却って気が散りそうになった雛苺は、<br />  <br /> 「あ、あのね……真紅」<br /> 手を止めて、上目遣いにブロンドの乙女を見た。「少し立ち入った話、訊いてもいい?」<br />  <br />  「それは、私を描くために不可欠なこと?」<br />  「不可欠ではないけど、絵にココロを宿すためには、大切なコトなの。<br />   ヒナはいつでも、描く対象に気持ちを近づけてるのよ」<br />  「絵に、命を吹き込む……という意味?」<br />  「そんなに大それたコトじゃないけど、だいたい、そんなところなの。<br />   だから――ヒナに真紅や水銀燈のこと、教えて欲しいのよ」<br /><br /> イヤなら話さなくてもいいけど、と締め括って、雛苺はまた手を動かし始めた。<br /> 結果、聞けずじまいになったとしても、さっきの雑談から、ある程度のことは推し量れる。<br /> それで、真紅の胸にある悲しみを、絵に反映しきれるかどうかは、怪しいところだが。<br /><br /> ――暫し。沈思黙考がなされた。<br /><br /><br />  「なにから話せば、いいのかしら」<br /><br /> さり気なく紡がれた台詞は、了承の証し。<br /> いま、真紅の中では様々な想いが、ぐるぐると廻っていることだろう。<br /> 情報が茫漠としすぎていて、話題を搾りこめない苦しみが、雛苺にも伝わってきた。<br /><br />  「それじゃあ――」<br /><br /> だからこそ、雛苺は核心を衝いた。「真紅が右腕を失った理由を、聞かせてなの」<br /> それこそが真紅と水銀燈を隔てた理由であり、<br /> 彼女の苦悩を生みだしている元凶に違いないと、目星がついていたから。<br /><br /> 真紅は、悲しげに睫毛を伏せて、深く息を吐いた。<br /> 気持ちの整理をするためには、誰であれ、多少の時間を要する。<br /> その間、雛苺はスケッチを続けながら、真紅が口を開くのを待っていた。<br /><br />  「事故だったのよ」<br /><br /> やおら、真紅の語りが始まる。<br /> それが、長いモノローグの始まりだった。<br /><br />  「ちょうど、梅雨時でね。連日、激しい雨が降り続いていたわ」<br /><br /> このままでは、新たに開いた茶畑が、流されてしまうかも。<br /> 案じた真紅と水銀燈は、真紅の運転する車で、巡回に向かった。<br /> こんなことで……たかが雨ごときで、夢を潰えさせてなるものか。<br /> 2人はレインコートを着て、茶畑の補強に全力を費やした。<br /><br />  「でも、悪いことって重なるものなのね。<br />   見回りの最中だったわ。水銀燈が発作を起こして、倒れてしまったのは。<br />   あの子、苦悶で顔を歪めて……涙ながらに繰り返すのよ。<br />   『真紅……助けて』と、私の腕に縋りながら――<br /><br /> いつ発作が起きてもいいように、彼女は薬を持ち歩いてたのだけれど……<br /> でも、その時は、どんなに探しても見つけられなかったの。<br /> もしかしたら、作業中に落として、気づいてなかったのかも知れない」<br /><br /> 一刻の猶予もない。真紅は、なんとか水銀燈を助手席に押し込み、車を発進させた。<br /> 豪雨。ぬかるんだ林道。容赦なく降りてくる夜の帳。<br /> その中を、2人を乗せた車は、泥水を撥ね散らしながら、猛スピードで駆け抜ける。<br /><br />  「あのときの私は、もう……とにかく、水銀燈を助けたい一心で。<br />   他には何も、考えられなくなっていたのね、きっと」<br /><br /> ほんの一瞬の判断ミスで、真紅の運転する車は、崖の下へ――<br /><br />  「車が宙に浮いたとき、これで死ぬんだ――って思ったわ。<br />   今際に走馬灯が甦るって話ね……あれ、本当よ。<br />   私も、見たの。子供の頃から、水銀燈と歩いてきた日々の記憶を。<br />   <br />   そうしたらね、なんだか……達観したような、不思議な気持ちになったのだわ。<br />   このまま、水銀燈と一緒に人生を終えるのも、悪くないかなぁって」<br /><br /><br /> そこで意識が遠退き、目覚めたら病院のベッドに横たわっていたと、真紅は語った。<br /> 右腕を失い、両脚にも酷いケガを負っていたのだ、と。<br /><br />  「つまり、誰かが事故の現場を見てて、救急車を呼んでくれたのね」<br /><br /> 言って、安堵の笑みを浮かべた雛苺に、真紅は「いいえ」と。<br /> 苦渋に満ちた表情から、更なる悲愴を滴らせながら、首を左右に振った。<br /><br />  「居なかったわ。私たち以外には、誰も」<br />  「うゅ? そ……それじゃあ……」<br />  「――ええ、そうよ。私を運んでくれたのは、水銀燈なのだわ。<br />   激しい雨に打たれ……苦悶に喘ぎながら……それでも、私を担いで歩き続けて。<br />   麓の病院まで辿り着いたとき、彼女もまた、息も絶え絶えだったそうよ」<br /><br /> 後から看護士に聞かされたのだけれど――<br /> 真紅は、指が食い込むほどにソファの肘かけを強く握り、顔を伏せた。<br /><br />  「あと少し治療が遅れていたら、私は失血死していたんですって。<br />   私が、今こうしていられるのも、水銀燈のお陰だったのよ。<br />   それなのに、私は……<br />   <br />   右腕を失ったショックと、絶えず全身を襲う激痛に、苛立つばかりで。<br />   愚かにも、理不尽な憤りを彼女にぶつけて、突き放してしまったのだわ。<br />   私が、バカだったばかりに!」<br />  「いまからでも謝って、仲なおりするコトはできないの?」<br /><br /> 誤解は、誰にでもある。どんな聖人君主だって、過ちを犯す。<br /> そのくらいは水銀燈だって解っているだろう。謝れば、真紅を許してくれるはずだ。<br /> 雛苺は、そう信じていた。ずっと一緒に……と誓い合った2人なのだから。<br /><br /> けれども、俯いた真紅の瞼からは、大粒の雫が、ぽろ、ぽろ……。<br /> それは、あの日の豪雨のように降り続けて、彼女の胸元を濡らしてゆく。<br /><br />  「できないの。もう……手遅れなのよ」<br />  「どうして?」<br />  「水銀燈は、病室を出たっきり、行方を眩ませてしまったから。<br />   マンションは引き払われ、携帯電話も解約されていて、連絡も取れない――<br />   どんなに手を尽くしても、あの子の消息は、杳として掴めなかったのよ」<br />  「病院は? 持病を患ってるんだから、通院しなきゃ大変なのよ」<br />  「その線も辿ったわ。だけど……かかりつけの病院にも行っていないの」<br /><br /> 身辺を整理して、持病を抱えているにも拘わらず、薬も持たずに出奔。<br /> どうしても、雛苺の胸に、嫌な想像が広がってしまう。<br /> そうなるとココロの動揺が誘発されて、スケッチする手にも乱れが生じた。<br /><br />  「いまの私にできることは、毎日、駅に行くことだけ。<br />   いつか……あの子が帰ってきてくれるんじゃないかと……<br />   改札を出てくる水銀燈の姿を思い浮かべながら、待つことしかできないのよ」<br /><br /> そこで、雛苺と真紅は、巡り会ったというワケだ。<br /> ただの偶然と言ってしまえば、それまでだけれど。<br /> 女の子の心情としては、どうしても、そこに一抹の運命を見出したくなる。<br /><br /> 知り合って間もないが、雛苺には、真紅の人柄がよく理解できた。<br /> 健気で、ある意味、愚直な性格を。<br /> 片腕でいることを、贖罪と……彼女なりの罪滅ぼしと言っていたけれど。<br /> ――違う。真紅は水銀燈のために、欠落することを望み、現状を甘受しているのだ。<br /><br /> 雛苺の中で、揺らぎは収束するどころか、なおも増幅してゆく。<br /> いつにも増して、鉛筆が重い。芯先も、うまく滑ってくれない。<br /> だが、線画だけなら、大まかな構図はできている。<br /> 雛苺は息を吐いて、手を休めた。仕上げは後にしよう、と。<br /><br />  「少し休憩するの。ヒナ、ちょっとアタマが重たくて」<br />  「もしかして、風邪? ベッドで横になったほうが――」<br />  「ううん。ソファーでいいのよ。ちょっとだけ、休むだけだから」<br />  「それなら、なにか掛ける物を持ってくるわね」<br /><br /> 言って、真紅が腰を上げる。<br /> その背中を見送って、雛苺はドサリと、ソファーに倒れ込んだ。<br /><br /><br /> ◆   ◇<br /><br /><br /> 夢を見ているのだと、雛苺は、すぐに自覚できた。<br /> 彼女の前には、真紅の屋敷になかったものが、存在していたからだ。<br /><br /> 大きなテーブルと、ウサギとネズミ、それに、男が1人。<br /> それが何であるのか、思い当たるモノがあって、雛苺は「あっ」と声をあげた。<br /> よく読む『不思議の国のアリス』の中でも特に好きな、奇妙な茶会のシーンだ。<br /><br /> キチガイウサギ、居眠りネズミ、帽子屋――<br /> 雛苺は、おかしな3人の茶会に迷い込んだ、アリスの役だった。<br /> どうして、こんな夢を?<br /> 茫然と立ち尽くす雛苺を気にも留めず、居眠りネズミが、ぼそぼそと語り始める。<br /><br />  「ずぅっと昔の話だよ。井戸の底に暮らす、3人の姉妹が居たんだよ。<br />   彼女たちは絵を習っていてね、いろんな絵を、たくさん描いてたんだよ」<br /><br /> 雛苺の胸が、ドキリと一拍した。<br /> いろんな絵を描いてるなんて――雛苺のことを言っているみたいではないか。<br /><br /> そこに、帽子屋が横槍を入れてくる。<br /> 彼は自分の帽子から、トランプのカードを一枚だけ抜きだして、ニヤリ……。<br /> 「おやおや、クローバーの3だ。なんと奇遇な」<br /><br /> こんな描写あったっけ? 雛苺は首を捻って、ふと――あることに気づいた。<br /> おかしな3人。井戸の底の3人姉妹。クローバーの3。<br /> 更に、キチガイウサギは3月ウサギとも呼ばれるし……<br /> 帽子屋が時間とケンカしたのも、確か、3月だった。<br /><br /> 悉くに、3が絡んでいる。なにかを示唆しているのか。それとも、ただの偶然?<br /> 3という数字が、雛苺に童話の決まり事を思い出させる。<br /><br />  「叶えてもらえるお願いは、3つだけなの」<br /><br /> 呟くなり、どういうワケか、パステルの箱書きが瞼に浮かんできた。<br /> 虫食いになっていて判読不能だった、あの部分。<br /> あそこに、3度までと記載されていたかも知れない。<br /><br /> もし、そうであるならば。<br /><br /><br /> ◇   ◆<br /><br /><br /> 浅い眠りから帰還した雛苺は、真紅に声を掛けて、すぐに絵の仕上げを始めた。<br /> これで、2度目。<br /> 仮定が正しければ、残された猶予は、あと一度のみ……。<br />  <br />  <br />  <br />   -<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/3782.html">to be continued</a>-<br /></p>
<p align="left"> <br />  <br /> 「ふざけないでっ!」<br />  <br /> 突然の喝破に、雛苺は身体を震わせ、猫のように首を竦めた。<br /> 不思議な『パステル』の効能について、洗いざらいを話し終えたときのことだ。<br />  <br /> あのパステルを使えば、良かれ悪しかれ、真紅の人生を狂わすことになる。<br /> 下手をすれば、一生の恨みを買うことにさえも。<br /> だからこそ、隠し事なんて、したくなかったのだ。<br /> いい返事を得たいがためと邪推されるのは、雛苺の本意ではなかったから。<br />  <br /> 半身を起こした真紅が、脚に落ちたタオルを掴み、雛苺に投げつけようと腕を振り上げる。<br /> その瞬間、夢で見た病室でのシーンが、脳裏に甦って――<br /> 雛苺の怯えた瞳が、水銀燈の悲しげな眼差しと重なり、真紅の激情は急速に冷めていった。<br />  <br /> 「――ごめんなさい。お客さまに対して、声を荒げてしまうなんて……<br />  ダメね、私。腕を失くしてから、たまに、自分を抑えられなくなるの」<br /> 「風が吹けば、地面から埃が舞い上がるし、水面には漣が生まれるわ。<br />  気持ちが激しく動くのは、真紅のココロが凍ってないことの証しなのよ」<br />  <br /> だったら、いっそ氷結してしまえば、楽になれるのだろうか……。<br /> 真紅は再び、ソファに仰臥して深く息を吐くと、雛苺へと頸を巡らせた。<br /> その表情には、もう一喝したときの険しさなど、欠片もなかった。<br />  <br /> 「ねえ、雛苺。貴女、本気で、私の右腕を元どおりにできると信じているの?」<br /> 「う、うゆ……」<br /> 「羨ましいほど幸せなのね。そんなのは、おとぎ話だわ。ただの夢物語よ」<br />  <br /> 描いた絵が現実になるパステルだなんて、童話じゃあるまいし。<br /> 理性も分別もある大人なら、誰もが、馬鹿げたフィクションだと一笑に付すだろう。<br />  <br /> 真紅は苦労を重ね、社会的な成功を勝ち取ってきた、理知的な大人の女性だ。<br /> その課程で、無邪気なココロに、現実というヴェールを幾重にも被せてきたはずである。<br /> お気楽な子供っぽさを、弱さと思い込んで。<br />  <br />  <br /> 「貴女の気づかいは、嬉しく思っているわ。本当よ」<br />  <br /> 長い沈黙の末に、優しく紡がれた言葉。<br /> 真紅は、余裕ある温かな笑みを、雛苺に向けていた。<br /> さながら、落ち込む我が子を宥めようとする、母親みたいに。<br />  <br /> 「でもね――私は、このままで構わないのよ。<br />  一生、片腕のままで、自らを縛めながら暮らさなければいけないのだわ」<br /> 「そんな……どうしてなの?」<br /> 「贖罪だから。あの子を傷つけたことへの、私なりの罪滅ぼしよ」<br />  <br /> 穏やかではない単語に、雛苺は固唾を呑んだ。<br /> そこまでの覚悟をさせるほど、真紅は水銀燈に、酷い仕打ちをしたのだろうか。<br /> 気にはなる。……が、これ以上、無思慮な真似もできなくて――<br />  <br /> 「ヒナ……そろそろ、おいとましなきゃ。<br />  紅茶、美味しかったのよ。ごちそうさまでしたなの」<br />  <br /> 雛苺はデイパックを手に、立ち上がった。<br /> ぺこりと一礼して、応接間を出ようとした、その矢先。<br />  <br /> 「お待ちなさい」<br />  <br /> 凛とした真紅の声が、小柄な娘を、その場に縫い止める。<br /> 振り返ると、宝玉を想わす蒼眸に、ひた……と。雛苺は捉えられた。<br />  <br /> 「もし、よければ――なのだけれど」<br />  <br /> そう呟く真紅の声音は、震えていた。<br /> よほど耳を澄まさなければ分からないほど、微かに。<br />  <br /> 「いまの私を、描いてみてちょうだい。ありのままの私を」<br /> 「ホントに、いいの?」<br /> 「ええ。でも、貴女の腕が確かならば……って条件つきなのだわ」<br /> 「うい! それなら大丈夫なのっ。ヒナ、こう見えても美大生なのよー」<br /> 「ウソ……てっきり、中学生の1人旅かと思ってた」<br /> 「ぶー。失礼しちゃうなのっ。そりゃあ、ヒナはちっちゃいし、<br />  子供っぽいって、みんなからよく言われるけど――」<br />  <br /> 普通、女の子は若く見られると嬉しいものだ。<br /> しかし、それも程度の問題。度を越せば、ただの侮辱になってしまう。<br /> 顔を真っ赤にして反駁する雛苺を、真紅は神妙な面持ちで宥めた。<br />  <br /> 「ごめんなさい。確かに、不躾な言い種だったわね」<br /> 「うんうん。解ってくれればいいのよー。えへへ~」<br />  <br /> なんともまあ、気持ちの切り替わりが早い。真紅は文字どおり、舌を巻いた。<br /> そういう精神的な落ち着きのなさが、子供っぽさを助長しているのだが、<br /> 当の本人は、それを自覚していないようだった。<br />  <br /> 「それで? 私はどういうポーズをとったらいいのかしら」<br /> 「少し長くなるから、楽な姿勢でいいのよ。<br />  うーっと、そうね……ソファの左端に寄って、肘かけに腕を乗せてみて」<br />  <br /> 「こんな風に?」と、ソファの背もたれに、ゆったりと身体を預ける。<br /> これなら肘と背中で支えられるので、たいして疲れないだろう。<br /> でも、あまり長引くようだと、腰が痛くなりそうね……と、真紅は思った。<br />  <br /> 「うい! それで、あとは深く座っててくれれば、バッチリなの」<br /> 「解ったわ。こうね」<br />  <br /> 真紅が頷いてみせると、雛苺も首肯して、道具の準備に入った。<br />  <br /> 「表情も、ずっと変えずにいたほうがいいのかしら?」<br /> 「顔は最後に描き込むから、その時だけ集中してくれたらオッケーなの。<br />  それまでは、普通にお喋りしてても構わないのよ」<br />  <br /> 雛苺は2Hの鉛筆を手にして、スケッチブックを開いた。<br /> さすがに失敗の許されない状況で、パステルでの一発描きなんて冒険はできない。<br /> ある程度の当たりを付けてからが本番だ。<br />  <br /> しん、と静まり返った室内に、紙面を走る鉛筆の音だけが、微かに聞こえる。<br /> 静かすぎるあまり、却って気が散りそうになった雛苺は、「あ、あのね……真紅」<br /> 手を止めて、上目遣いにブロンドの乙女を見た。<br />  <br /> 「少し立ち入った話、訊いてもいい?」<br /> 「それは、私を描くために不可欠なこと?」<br /> 「不可欠ではないけど、絵にココロを宿すためには、大切なコトなの。<br />  ヒナはいつでも、描く対象に気持ちを近づけてるのよ」<br /> 「絵に、命を吹き込む……という意味?」<br /> 「そんなに大それたコトじゃないけど、だいたい、そんなところなの。<br />  だから――ヒナに真紅や水銀燈のこと、教えて欲しいのよ」<br />  <br /> イヤなら話さなくてもいいけど、と締め括って、雛苺はまた手を動かし始めた。<br /> 結果、聞けずじまいになったとしても、さっきの雑談から、ある程度のことは推し量れる。<br /> それで、真紅の胸にある悲しみを、絵に反映しきれるかどうかは、怪しいところだが。<br />  <br /> ――暫し。沈思黙考がなされた。<br />  <br />  <br /> 「なにから話せば、いいのかしら」<br />  <br /> さり気なく紡がれた台詞は、了承の証し。<br /> いま、真紅の中では様々な想いが、ぐるぐると廻っていることだろう。<br /> 情報が茫漠としすぎていて、話題を搾りこめない苦しみが、雛苺にも伝わってきた。<br />  <br /> 「それじゃあ――」<br />  <br /> だからこそ、雛苺は核心を衝いた。「真紅が右腕を失った理由を、聞かせてなの」<br /> それこそが真紅と水銀燈を隔てた理由であり、<br /> 彼女の苦悩を生みだしている元凶に違いないと、目星がついていたから。<br />  <br /> 真紅は、悲しげに睫毛を伏せて、深く息を吐いた。<br /> 気持ちの整理をするためには、誰であれ、多少の時間を要する。<br /> その間、雛苺はスケッチを続けながら、真紅が口を開くのを待っていた。<br />  <br />  <br /> 「事故だったのよ」やおら、真紅の語りが始まる。<br /> 「ちょうど、梅雨時でね。連日、激しい雨が降り続いていたわ」<br />  <br /> それが、長いモノローグの始まりだった。<br />  <br />  <br />  <br /> このままでは、新たに開いた茶畑が、流されてしまうかも。<br /> 案じた真紅と水銀燈は、真紅の運転する車で、巡回に向かった。<br /> こんなことで……たかが雨ごときで、夢を潰えさせてなるものか。<br /> 2人はレインコートを着て、茶畑の補強に全力を費やした。<br />  <br /> 「でも、悪いことって重なるものなのね。<br />  見回りの最中だったわ。水銀燈が発作を起こして、倒れてしまったのは。<br />  あの子、苦悶で顔を歪めて……涙ながらに繰り返すのよ。<br />  『真紅……助けて』と、私の腕に縋りながら――<br />  <br />  いつ発作が起きてもいいように、彼女は薬を持ち歩いてたのだけれど……<br />  でも、その時は、どんなに探しても見つけられなかったの。<br />  もしかしたら、作業中に落として、気づいてなかったのかも知れないわ」<br />  <br /> 一刻の猶予もない。真紅は、なんとか水銀燈を助手席に押し込み、車を発進させた。<br /> 豪雨。ぬかるんだ林道。容赦なく降りてくる夜の帳。<br /> その中を、2人を乗せた車は、泥水を撥ね散らしながら、猛スピードで駆け抜ける。<br />  <br /> 「あのときの私は、もう……とにかく、水銀燈を助けたい一心で。<br />  他には何も、考えられなくなっていたのね、きっと」<br />  <br /> ほんの一瞬の判断ミスで、真紅の運転する車は、崖の下へ――<br />  <br /> 「車が宙に浮いたとき、これで死ぬんだ――って思ったわ。<br />  今際に走馬灯が甦るって話ね……あれ、本当よ。<br />  私も、見たの。子供の頃から、水銀燈と歩いてきた日々の記憶を。<br />   <br />  そうしたらね、なんだか……達観したような、不思議な気持ちになったのだわ。<br />  このまま、水銀燈と一緒に人生を終えるのも、悪くないかなぁって」<br />  <br /> そこで意識が遠退き、目覚めたら病院のベッドに横たわっていたと、真紅は語った。<br /> 右腕を失い、両脚にも酷いケガを負っていたのだ、と。<br />  <br /> 「つまり、誰かが事故の現場を見てて、救急車を呼んでくれたのね」<br />  <br /> 言って、安堵の笑みを浮かべた雛苺に、真紅は「いいえ」と。<br /> 苦渋に満ちた表情から、更なる悲愴を滴らせながら、首を左右に振った。<br />  <br /> 「居なかったわ。私たち以外には、誰も」<br /> 「うゅ? それじゃあ……」<br /> 「――ええ、そうよ。私を運んでくれたのは、水銀燈なのだわ。<br />  激しい雨に打たれ……苦悶に喘ぎながら……それでも、私を担いで歩き続けて。<br />  麓の病院まで辿り着いたとき、彼女もまた、息も絶え絶えだったそうよ」<br />  <br /> 後から看護士に聞かされたのだけれど――<br /> 真紅は、指が食い込むほどにソファの肘かけを強く握り、顔を伏せた。<br />  <br /> 「あと少し治療が遅れていたら、私は失血死していたんですって。<br />  私が、今こうしていられるのも、水銀燈のお陰だったのよ。<br />  それなのに、私は……<br />  <br />  右腕を失ったショックと、絶えず全身を襲う激痛に、苛立つばかりで。<br />  愚かにも、理不尽な憤りを彼女にぶつけて、突き放してしまったのだわ。<br />  私が、バカだったばかりに!」<br /> 「いまからでも謝って、仲なおりするコトはできないの?」<br />  <br /> 誤解は、誰にでもある。どんな聖人君主だって、過ちを犯す。<br /> そのくらいは水銀燈だって解っているだろう。謝れば、真紅を許してくれるはずだ。<br /> 雛苺は、そう信じていた。ずっと一緒に……と誓い合った2人なのだから。<br />  <br /> けれども、俯いた真紅の瞼からは、大粒の雫が、ぽろ、ぽろ……。<br /> それは、あの日の豪雨のように降り続けて、彼女の胸元を濡らしてゆく。<br />  <br /> 「できないの。もう……手遅れなのよ」<br /> 「どうして?」<br /> 「水銀燈は、病室を出たっきり、行方を眩ませてしまったから。<br />  マンションは引き払われ、携帯電話も解約されていて、連絡も取れない――<br />  どんなに手を尽くしても、あの子の消息は、杳として掴めなかったのよ」<br /> 「病院は? 持病を患ってるんだから、通院しなきゃ大変なのよ」<br /> 「その線も辿ったわ。だけど……かかりつけの病院にも行っていないの」<br />  <br /> 身辺を整理して、持病を抱えているにも拘わらず、薬も持たずに出奔。<br /> どうしても、雛苺の胸に、嫌な想像が広がってしまう。<br /> そうなるとココロの動揺が誘発されて、スケッチする手にも乱れが生じた。<br />  <br /> 「いまの私にできることは、毎日、駅に行くことだけ。<br />  いつか……あの子が帰ってきてくれるのではないかと……<br />  改札を出てくる水銀燈の姿を思い浮かべながら、待つことしかできないのよ」<br />  <br /> そこで、雛苺と真紅は、巡り会ったというワケだ。<br /> ただの偶然と言ってしまえば、それまでだけれど。<br /> 女の子の心情としては、どうしても、そこに一抹の運命を見出したくなる。<br />  <br /> 知り合って間もないが、雛苺には、真紅の人柄がよく理解できた。<br /> 健気で、ある意味、愚直な性格を。<br /> 片腕でいることを、贖罪と……彼女なりの罪滅ぼしと言っていたけれど。<br /> ――違う。真紅は水銀燈のために、欠落することを望み、現状を甘受しているのだ。<br />  <br /> 雛苺の中で、揺らぎは収束するどころか、なおも増幅してゆく。<br /> いつにも増して、鉛筆が重い。芯先も、うまく滑ってくれない。<br /> だが、線画だけなら、大まかな構図はできている。<br /> 雛苺は息を吐いて、手を休めた。仕上げは後にしよう、と。<br />  <br /> 「少し休憩するの。ヒナ、ちょっとアタマが重たくて」<br /> 「もしかして、風邪? ベッドで横になったほうが――」<br /> 「ううん。ソファーでいいのよ。ちょっとだけ、休むだけだから」<br /> 「それなら、なにか掛ける物を持ってくるわね」<br />  <br /> 言って、真紅が腰を上げる。<br /> その背中を見送って、雛苺はドサリと、ソファーに倒れ込んだ。<br />  <br />  <br />    ◆   ◇<br />  <br />  <br /> 夢を見ているのだと、雛苺は、すぐに自覚できた。<br /> 彼女の前には、真紅の屋敷になかったものが、存在していたからだ。<br />  <br /> 大きなテーブルと、ウサギとネズミ、それに、男が1人。<br /> それが何であるのか、思い当たるモノがあって、雛苺は「あっ」と声をあげた。<br /> よく読む『不思議の国のアリス』の中でも特に好きな、奇妙な茶会のシーンだ。<br />  <br /> キチガイウサギ、居眠りネズミ、帽子屋――<br /> 雛苺は、おかしな3人の茶会に迷い込んだ、アリスの役だった。<br /> どうして、こんな夢を?<br /> 茫然と立ち尽くす雛苺を気にも留めず、居眠りネズミが、ぼそぼそと語り始める。<br />  <br /> 「ずぅっと昔の話だよ。井戸の底に暮らす、3人の姉妹が居たんだよ。<br />  彼女たちは絵を習っていてね、いろんな絵を、たくさん描いてたんだよ」<br />  <br /> 雛苺の胸が、ドキリと一拍した。<br /> いろんな絵を描いてるなんて――雛苺のことを言っているみたいではないか。<br />  <br /> そこに、帽子屋が横槍を入れてくる。<br /> 彼は自分の帽子から、トランプのカードを一枚だけ抜きだして、ニヤリ……。<br /> 「おやおや、クローバーの3だ。なんと奇遇な」<br />  <br /> こんな描写あったっけ? 雛苺は首を捻って、ふと――あることに気づいた。<br /> おかしな3人。井戸の底の3人姉妹。クローバーの3。<br /> 更に、キチガイウサギは3月ウサギとも呼ばれるし……<br /> 帽子屋が時間とケンカしたのも、確か、3月だった。<br />  <br /> 悉くに、3が絡んでいる。なにかを示唆しているのか。それとも、ただの偶然?<br /> 3という数字が、雛苺に童話の決まり事を思い出させる。<br />  <br /> 「叶えてもらえるお願いは、3つだけ……なの?」<br />  <br /> 呟くなり、どういうワケか、パステルの箱書きが瞼に浮かんできた。<br /> 虫食いになっていて判読不能だった、あの部分。<br /> あそこに、3度までと記載されていたかも知れない。<br />  もし、そうであるならば――<br />  <br />  <br />    ◇   ◆<br />  <br />  <br /> 浅い眠りから帰還した雛苺は、真紅に声を掛けて、すぐに絵の仕上げを始めた。<br /> これで、2度目。<br /> 仮定が正しければ、残された猶予は、あと一度のみ……。<br />  <br />  <br />  <br />   -<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/3782.html">to be continued</a>-<br />  <br />  </p>

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