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『パステル』 -4-」(2008/05/05 (月) 23:40:21) の最新版変更点

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<p align="left"> <br />  <br />   ◆   ◇<br /><br /><br />  「あはははっ! ねえ、見て! 真紅ぅ!」<br /><br /><br /> アタマの芯にまで響いてくる、うら若い娘の、無邪気で嬉々とした声。<br /><br />  「みんな元気に……いい感じに育ってくれてるわぁ」<br /><br /> ――ここは? はたと我に返って、真紅は静かに、ぐるり見回す。<br /> 目に飛び込んできたのは、猫の額ほどの畑と、灌木の列――<br /> 忘れるはずもない。水銀燈と2人で、山の中腹に拓いた、最初の茶畑だった。<br /><br />  「もう。どぉしたのよぉ、ボ~っとしちゃってぇ」<br /><br /> のんびりとした、それでいて気遣わしげな声に誘われ、ゆるゆると顎を引くと……<br /> 「大丈夫?」と言わんばかりの顔をした銀髪の幼なじみと、視線がぶつかった。<br /> 彼女は茶樹のそばに両の手と膝を突いて、茫然と立ち尽くす真紅を見あげていた。<br /><br /><br /> また、なのね。真紅には口の中で、そう呟いていた。<br /> 解っている。これは、女々しさというスクリーンに投影された、未練の夢幻。<br /> あの頃の記憶に、少しの希望を加味して再編集した、映画にすぎない。<br /><br /><br /><br /><br /> ――不意に、目の前の景色が、原色の自然から、人工的な空間へと切り替わる。<br /> これも、いつものこと。辿り着く先が変わったためしは、一度としてない。<br /> ここは大学の、研究室。<br /> 修士課程の卒論に追われ、あたふたしていた、人生最悪のクリスマスのシーンだった。<br /> 窓ガラスは、とっくに闇色に塗り尽くされ、星の代わりに、細かい雪が鏤められている。<br /><br /> 折角のホワイト・クリスマスなのに、ね。<br /> 真紅は机に頬杖をついて、降りしきる雪を眺めながら、小さく吐息した。<br /> ラブストーリーにありがちな、ロマンチックな状況なのに……ここには、そのカケラもない。<br /> 無情だ、と嘆かずにはいられなかった。年頃の娘が、研究室に缶詰め状態だなんて。<br /><br /> 時刻は、もう午後10時になろうとしている。<br /> 教授や他の学生は、早々に引き上げてしまって、残っているのは真紅と水銀燈だけ。<br /> マウスのクリック音。タイピングの音。すきま風の、か細い声。<br /> それらが、手狭な感のある部屋の中で競い合い、自己主張を繰り広げている。<br /><br /> そこに、やおら「あーぁ」と。<br /> 水銀燈の、溜息とも独り言ともつかない大きな喘ぎが、すべての雑音を支配下に置いた。<br /><br />  「ねえ、真紅ぅ。そろそろ、お茶しなぁい?」<br /><br /> さも倦み疲れたような、間延びした調子で言う。<br /> けれど、それは真紅も同じ。いい加減、肩が凝ったし、集中力も切れかかっていた。<br /><br /> 「悪くない提案だわ」真紅は賛意を口にして、くるりと椅子を回し、振り向く。<br /> その先では丁度、水銀燈が、持ち手つきの箱を机の上に置いたところだった。<br /><br />  「なんなの、それ? と言うか、どこから出したの」<br />  「細かいことは気にしなぁい。今夜はクリスマス・イブだからぁ……じゃじゃぁ~ん!」<br />  「ウソ……これ、デコレーションケーキじゃないのよ。それも7号サイズだなんて。<br />   まさか、私たち2人で、これ全部たべるつもり? 呆れた食欲ね、まったく」<br />  「みんなで切り分けるつもりだったけど、ちょっと出しそびれちゃってぇ。<br />   まぁ、いいじゃなぁい。アタマ使いすぎてクタクタだし、糖分補給しないとねぇ」<br /><br /> なるほど。確かに、水銀燈の言うとおり、脳が糖分を求めている……ような気がする。<br /> それに、よくよく考えたら2人とも、まだ夜食らしい夜食を摂っていなかった。<br /> いい加減、空腹だったところに美味しそうなケーキを見せられて、真紅のおなかが鳴る。<br /> 水銀燈に、いやらしい笑みを向けられ、真紅は顔を赤らめ、無造作に前髪を掻き上げた。<br /><br />  「いつの間に、こんなもの買ってたの?」<br />  「夕方に、ちょっと抜け出して、ね。それより、早く食べましょうよぉ。<br />   私はお皿とか用意しておくから、真紅は、紅茶を煎れてちょうだぁい」<br />  「……残念だわ。こうと分かっていたなら、上質の葉を用意しておいたのに」<br /><br /> 真紅は本当に口惜しそうに指を噛み噛み、備え付けのコンロに、ヤカンを乗せた。<br /> いかにも、こだわり派の彼女らしい口振りだ。<br /> 水銀燈は、幼なじみの背中に優しい笑みを投げかけて、ケーキを切り分け始めた。<br /><br /><br /> 真っ二つの半月型となったケーキと、湯気の立ち上るマグカップ。<br /> せめてものムードづくりにと、モミの木の代用として置かれた、アロエの鉢植え。<br /> それらを前に、2人――<br /> 向かい合って、プレゼントの代わりに、引きつった笑みを交換し合った。 <br /><br />  「メリークリスマス、水銀燈」<br />  「メリークリスマス……って、なぁんかバカっぽいわねぇ。侘びしいわぁ」<br />  「気分の問題よ。どんなに愉しいことでも、楽しむ気が無ければ、話にならないわ。<br />   私は、こんなクリスマスも面白いと思うけれど……貴女は、違うの?」<br />  「……ううん。そんなコトないわぁ。私も、楽しい。<br />   真紅が居てくれれば、いつだって、どんな場所だって、私は楽しいわ」<br />  「そう。でも、なんだか複雑な心境ね。光栄ですわと、喜ぶべきなのかしら」<br />  「聖夜を孤独に過ごすよりマシでしょ。素直に喜んでおきなさいよ、おばかさん」<br />  「うるさいわね。バカって言った方がバカなのよ」<br /><br /> 真紅は素っ気なく振る舞うことで、冷静な自分を、取り繕おうとする。<br /> が、フォークを持つ手の震えや、そわそわと落ち着かない肩に、動揺が現れてしまう。<br /> なんとなく気まずくて、水銀燈の顔を、まともに見られなかった。<br /><br /> 水銀燈は、子供のように素直な気持ちで、慕ってくれている。<br /> 今さっき彼女が口にした想いも、すべてが本心であることを、真紅は理解していた。<br /> 『真紅が居てくれれば、私は楽しい――』<br /> それは、水銀燈が真紅に寄せる、深い深い信頼の証しに他ならなかった。<br /><br /> 依存しすぎては、いけない。失ったときのショックが、計り知れないから。<br /> そのくらいは、水銀燈にも解っているだろう。彼女だって、いつまでも子供ではない。<br /> でも、やはり真紅を頼ってしまうのは、水銀燈が今なお病気に苦しみ続け、<br /> 脆弱さを引きずっているからなのかも知れない。<br /><br />  「ねえ、真紅」<br /><br /> いきなりの、深刻そうな声音が、場の空気を一瞬にして緊迫させる。<br /> 真紅は身じろぎを止めて、ひた……と、水銀燈を見つめた。<br /><br />  「どうかしたの? ケーキに虫でも入っていたのかしら?」<br />  「違うわよ。そうじゃなくって」<br />  「じゃあ、なに?」<br />  「……うん。なんて言うかぁ、そのぉ……私たち、ずっと今のままで――<br />   これから先も、親友のままで、いられると思う?」<br /><br /> どうして、そんなことを訊くの? 真紅は小首を傾げて、考えた。<br /> 卒業がいよいよ近づいて、ナーバスになっているとか……?<br /> その可能性は、大いに有り得た。<br /> なぜならば、彼女たちは既に、別々の企業から内定をもらっていたのだから。<br /><br /> たった独りで、未知の世界に放り出される恐ろしさは、幾ばくのものだろうか。<br /> 水銀燈みたいな、生まれながらに重篤なハンディを背負った人々にとって、<br /> それが過酷な責め苦になるだろうことは、想像に難くない。<br /><br /> 健常者には計り知れない、怖れ。<br /> その不安を、わざわざ煽って突き放したりするほど、真紅は悪趣味ではなかった。<br /><br />  「当たり前でしょう。いつまでも、変わりっこないわ」<br />  「……ホントぉ?」<br />  「本当よ。今までだって、そうだったでしょう。これからも、ずっと一緒だわ」<br />  「でも、卒業しちゃったら、離ればなれに――」<br /><br /> ありありと不安を滲ませ、涙ぐむ水銀燈に、真紅は「仕方のない子ね」と微笑みかけ、<br /> 大まじめに、あっけらかんと告げた。<br /><br />  「だったら、簡単な答えだわ。同じ仕事に就けばいいのよ。<br />   2人で会社を立ち上げましょう。商うのは……そうね。やっぱり紅茶がいいわ」<br /><br /><br /><br /><br /> ――また、目の前にあった映像が、じわじわと隅の方から黒く塗りつぶされていく。<br /> シーンの変わる刹那、真紅は毎度のコトながら、苦笑していた。<br /> 若かったとは言え、随分とまあ、向こう見ずな計画を打ち立てたものだ。<br /><br /><br /> 無論、口で言うほど簡単ではなかった。起業は、おままごとではない。<br /> 土地の確保、それに伴う資金調達など、学生の身で準備するのは、なかなかに厳しい。<br /> 祁門(キーマン)種の茶樹の品種改良も、いい結果を出せずにいたし……<br /> もう何度、挫けそうになったことか。<br /><br /> けれど……そんな苦労さえ、ささやかな喜びで、幸せな色に塗り替えてしまえた、あの頃。<br /> いまではもう、遠い日の夢物語。<br /><br /> 真紅は、今更ながら思った。あと何回、この夢幻を見続ければいいのかしら、と。<br /> いつまでも、こうして、楽しかった日々の思い出に執着し続けて……<br /> 目覚めるたびに、喪失感でココロが傷つくだけと、解っているのに。<br /><br /> でも……たとえ、ただの自虐でしかなくても――<br /> 真紅は、それでも構わないと思っていた。<br /> これは懺悔。逆十字の烙印を刻まれた日から、死ぬまで終わることは許されない。<br /> だから、真紅はいつだって、喜んで足を踏み入れる。<br /> この夢幻が、悪夢の底なし沼だろうと、躊躇わずに。<br /><br /><br /><br /><br /> 再び、真紅の視界と意識は、山の中腹に拓いた小さな畑に戻っていた。<br /> 水銀燈は、相変わらず、心配そうな顔で彼女の様子を窺っている。<br /><br />  「ごめんなさい。なんでもないわ」<br /><br /> 汚れることも厭わず、真紅は幼なじみの娘と並んで、地に膝を突いた。<br /> 土の臭いと、水銀燈の髪から靡いてくる匂いが、グッと強まる。<br /> その瞬間、懐かしさが弾けんばかりに膨らんで、胸の奥がキュッと痛くなった。<br /><br />  「本当に、よく育っているわ。すべり出しは順調ね」<br /><br /> すくすくと伸びゆく茶樹の苗木に、希望と慈しみの眼差しを注ぎながら、<br /> 真紅は、幼なじみの左手に、そっと自分の手を重ねた。<br /> もう彼女が失ってしまったはずの、右手を。<br /><br />  「ここまで来られたのは、貴女のお陰よ……水銀燈」<br /><br /> すんなりと口を衝いて出る、嘘偽りない気持ち。<br /><br />  「貴女が、品種改良を成功させてくれたからこそ、今があるのだもの。<br />   私ひとりでは、きっと辿り着けなかった。<br />   一緒に歩いているつもりだったけれど、貴女が私を、ここに連れてきてくれたのね」<br />  「なによぉ、いきなり…………気持ち悪ぅい」<br /><br /> ばかばかしい。険を孕んだ返事は、不器用な彼女の、ひねくれた照れ隠し。<br /> 長い付き合いだ。以心伝心の真似事くらいは、真紅にもできる。<br /> 挑むように悠然と微笑みかけると、水銀燈はバツ悪そうに、そっぽを向いた。<br /><br /> けれど、それも寸閑のこと。<br /> 素直な言葉に絆されたのか、水銀燈は仄かに赤らめた顔を、真紅へと戻した。<br /><br />  「ごめん……今のウソ。お礼を言わなきゃいけないのは、私の方よ」<br /><br /> 子供の頃から、ずっと――病気のせいで、学校を休みがちだった。<br /> それが元で、疎外されたり、陰湿なイジメを受けるようになって……<br /> 自分が選んだ道だけれど、水銀燈は学校に行くことを苦痛に感じていた。<br /><br /> そんな日常において、真紅だけは、水銀燈の味方だった。<br /> いつだって、嫌な顔ひとつしないで、なにかと面倒を見てくれた。<br /> もっとも、彼女が庇えば庇うほど、水銀燈への風当たりは強くなったのだけれど。<br /><br />  「小学校も中学校も、体育の授業は、いつも見学だったわ。<br />   校庭や体育館の隅っこ、プールサイド……私の居場所は、いつだって蚊帳の外。<br />   勉強も、服用してる薬の作用で集中力も続かなくて、ロクな成績じゃなかったし」<br /><br /> 「そうだったわね」真紅のあっさりした相槌に、ひとつ頷いて、水銀燈は続けた。<br /><br />  「みんなのペースに着いていけないから、だんだんと疎まれ、敬遠されるようになって……。<br />   私、いつも思ってたわ。どうせ嫌われてるんなら、早く死んじゃいたいなぁって。<br />   その方が、私も、みんなも、スッキリするじゃない。ねぇ?」<br />  「あの頃の貴女は、常に陰りを背負って生きていたわよね。<br />   だから――私は、貴女から目を離せなくなったのよ。<br />   放っておくと、いつの間にか物陰に溶け込んで、居なくなってしまいそうだったから」<br /><br /> 「そうだったわねぇ」と、今度は水銀燈が、真紅と同じ相槌を口にした。<br /><br />  「真紅はいつだって、こんな私と、歩調を合わせてくれてたわよねぇ。<br />   そして、引っ込み思案だった私に、勉強とか、いろいろなコトを教えてくれたっけ」<br />  「美味しい紅茶の煎れ方……とかね」<br /><br /> 2人は、クスクスと笑い合って、ほぼ同時に手元の苗木に視線を向けた。<br /><br />  「私にとって……真紅の存在は、いい刺激になってたのねぇ、きっと。<br />   長生きできないって言われてたのに、こうして今も生きてるんだもの。<br />   そりゃあ、定期検診は受けてるし、薬も飲み続けてるけどぉ、<br />   でも、それだけじゃないって思う。だから……ありがとう、真紅。貴女のお陰よ」<br />  「別に――お礼を言われるほど、大したことはしていないわ」<br />  「そう言うと思った。相変わらず、変なとこで強情ねぇ。バカみたい」<br /><br /> しみじみと語らいながら、真紅たちは、これからの展望に想いを馳せていた。<br /> この茶樹が充分に育ったら、次は挿し木で増やしていく予定だ。<br /> 勿論、初めての試みだけれど、失敗するなんて考えてもなかった。<br /> 2人一緒なら、望みどおりの未来を掴めると、信じていたから。<br /> 今までも。そして、これからも――<br /><br /><br /><br /><br /> ――脳内のスクリーンが漆黒になった。この妄想映画は、いつも、ここで終わる。<br /> 真紅も、それに合わせて、意識の扉を閉ざした。<br /> そうすれば、深い眠りに落ちてゆけると、知っていたから。<br /><br /> けれど、今日に限って、夢幻の幕は降ろされなかった。<br /> 彼女の眼前が不規則に明滅したかと思った途端、次なるシーンが映し出された。<br /><br /><br /> 白い蛍光灯の列。白い壁。窓から容赦なく射し込んでくる、初夏の眩い光。<br /> 風に舞う白いカーテン。白いシーツ。白いベッド。<br /> そして――<br /> リノリウムの白い床に跪いて項垂れた、幼なじみの姿。<br /> 真紅は、病室のベッドに半身を起こして、顔を伏せる水銀燈を冷たく見おろしていた。<br /><br /> 白すぎる。瞳に映るこの世界は、あまりにも白々しい潔癖に溢れていて……<br /> なにもかもが、くだらない『おままごと』のようだと、真紅には感じられた。<br /> 胸に生まれた白けた感情が、雪崩の如き暴力となって、迸りそうになる。<br /><br /><br />   いや……やめて<br /><br /><br /> これから起こることを思い出して、真紅は必死に、自らのココロを鎮めようとする。<br /> だが、再現フィルムは回り続ける。止められるものなら止めてみろと、嘲笑うように。<br /> 白い世界に眼を向けるほど。項垂れた水銀燈を、見れば見るほど。<br /> 真紅の右肩は疼き、ココロの中で沸々と、得体の知れない物質が障気を燻らせる。<br /> 彼女の正気を失わしめる、障気を。<br /><br />  「貴女のせいよ」<br /><br /> その言葉が、自分の口から吐き出されたものだなんて、真紅には信じられなかった。<br /> それほどまでに、彼女の声音は醜く変わっていた。<br /><br /><br />   やめて! 言わないで!<br /><br /><br /> 聞きたくない。言わせたくない。<br /> けれど、彼女の叫びも虚しく、血を吐くように怨詛は迸る。<br /><br />  「貴女が、私を――こんな身体にしたのよ」<br /><br /><br />   嫌っ! もう言わないで! お願いだから!<br /><br /><br />  「私は、不格好だわ。不完全だわ。貴女のせいで――<br />   貴女なんかに係わったせいでっ!」<br /><br /> 真紅は自分の中にある、理性の堤防が壊れる音を聞いた。<br /> 溢れてゆく。身体の中にある、なにもかもが流れ出して、思考が真っ白になってゆく。<br /><br />  「この疫病神っ! 出ていって! 二度と顔も見たくないわ!」<br /><br /> 真紅の放つ石礫のごとき硬い言葉が、驟雨となって、水銀燈に降り注いだ。<br /> この白々しい空間で、真紅のココロだけは、燃え盛る紅蓮の炎となって……<br /> 気づいたときには、側にあった花瓶を左手で掴み、水銀燈に投げつけていた。<br /><br /> 固いもの同士がぶつかる、鈍い音。「あぁっ」という、悲痛な叫び。<br /> 花瓶は床に落ちて砕け、生けてあった花と水を、水銀燈の周りに撒き散らした。<br /> ややも待たず、水銀燈の額に、紅い雫が流れ落ちてくる。<br /> それを眼にして、真紅の激情は、一瞬のうちに燃え尽きて、真っ白な灰に変わった。<br /><br /><br /> なんてことを、してしまったのか。真紅は、かつてないほど動揺した。<br /> 気が動転して、なにを言ったらいいのか、まったく分からなくなってしまった。<br /> そんな幼なじみを、水銀燈は……<br /> 跪いたまま、スカートが濡れるのも構わず、流れる血を拭いもせずに、じっと見つめていた。<br /><br /> その瞳に宿るのは、傷つけられたことへの怒りでも、裏切られた憎しみでもなく。<br /> もっともっと深い――きっと、一生かけても奥底まで辿り着けないほど深い闇だけ。<br /> 純粋な哀しみと怯えが、真紅に向けられていた。<br /><br /><br />  「ごめんね…………真紅」<br /><br /><br /> ――ぽつり、と。<br /> 血の気を失って白みがかった唇が、喘ぐように言葉を紡いで……<br /> 伏せられた長い睫毛の隙間から、悲しみのカケラが零れ落ちた。<br /> そして、水銀燈は静かに立ち上がり、ふらふらと病室を出ていった。<br /><br /><br /> 真紅は、引き留められなかった。口を開けども、声を出せずにいた。<br /> 咄嗟に伸ばした左腕だけが、所在なさげに揺れ……失意と共に、ガクリと下がる。<br /> さながらゼンマイの切れた人形みたいに、彼女は疲憊して、項垂れた。<br /><br /><br />  「こんな事なら――」<br /><br /> 独りごちた声が、微かに震えている。<br /> 打撲と擦り傷で思うように動かせない脚を包むシーツに、温かな水滴が、ひとつ……ふたつ……。<br /> 真紅は唇をキュッと噛みながら、大粒の涙を落とし続けた。<br /><br />  「こんな事になるなら、いっそ左腕も、なくしていれば良かったんだわ。<br />   そうしたら……あんな真似は、できなかった。あの子を傷つけずに済んだのに」<br /><br /> 言いながらも、それが詭弁だと解っていた。<br /> だが、詭弁にでも縋らなければ、気持ちを抑えきれないことも、また、理解していた。<br /> あまりにも未熟な、子供の癇癪となんら変わらない、感情の暴走。<br /> そんな瑣末なモノに翻弄されて、コツコツと築いてきた2人の信頼関係を、壊してしまった。<br /> ずっと一緒だと言っておきながら――それを自らの手でブチ壊しにしたのだ。<br /> 情けなくて、口惜しくて……<br /><br />  「無様な疫病神は、私の方だわ。私……なんて、嫌な女――」<br /><br /> 今日ほど、自分を嫌悪したことはなかった。<br /> 真紅は左手にシーツを握り締めると、自らの顔に、強く押しあてた。<br /> そして、誰に憚ることもなく、声を上げて泣き続けた。子供のように、泣きじゃくった。<br /><br /><br />   ◇   ◆<br /><br /><br /> 真っ白な闇――なんてモノが存在するかは、定かでないが、<br /> 真紅は、そうとしか表現できない物体に包まれ、横たわっていた。<br /> あるいは、ヨーグルトの溜まりに沈んだら、こんな感じなのかも知れない。<br /><br /> どれほど目を凝らそうと、瞳に映るのは、白、白、白。<br /> 左手を、顔の前に翳しているはずなのだけれど、何も見えない。<br /><br /> ――と思った直後。<br /> いきなり、姿の見えない何者かに手を握られて、真紅は短い悲鳴を上げた。<br /> 引っ張られる。もったりとしたナニかの中を、身体が浮き上がってゆく感じもする。<br /> ここに至ってようやく、真紅は『夢』という水底に横たわっていたことを悟った。<br /> ならば……底があるなら、どこかに水面も存在するはずだ。夢と現実の境界が。<br /><br /> 真紅は、腕を引かれる方へと、自分から浮上していった。<br /> ……やおら、水面を割って、顔に空気を感じた。真紅は深く息を吐き、双眸を開いた。<br /><br /><br /><br /><br /> まず眼にしたのは、不安そうに窺い見ている女の子の顔。<br /> よく見れば、彼女は両手で、真紅の左手を包み込んでいた。<br /><br />  「真紅っ! やっと目を醒ましてくれたのね。ああ……よかったなの。<br />   写真を見て泣き出したと思ったら、そのまま倒れちゃうんだもの。ビックリしたのよ」<br />  「そうだったの……ごめんなさい。客人に迷惑かけるなん――」<br /><br /> 言いながら、真紅がアタマを上げると、額から濡れタオルが滑り落ちた。<br /> 彼女は、応接間のソファに横たえられていた。<br /><br />  「急に動いちゃダメなの。もう少しだけ、休んでるのよ」<br />  「でも……」<br /><br /> と、渋る真紅を、雛苺は静かに――しかし有無を言わせない力強さで、寝かし付けた。<br /> これでは、どちらがこの家の主だか分からない。<br /><br /> けれど、真紅は表情を和らげて、雛苺に従った。<br /> 右腕のないハンディを克服しようと、強がりながら生きてきたけれど、<br /> 雛苺の前では、鎧を脱いだ素の自分に……ただの女の子に戻ってもいいような――<br /> 不思議と、そんな気持ちに、させられていた。<br /><br />  「あのね、真紅」<br /><br /> 雛苺は、そばに置いた洗面器でタオルを絞りなおして、真紅の額に乗せた。<br /><br />  「さっき……眠ってるときね、すっごく魘されてたなの。<br />   汗もビッショリだし、ホントに病気なんじゃないかしらって――<br />   もう少し起きるのが遅かったら、ヒナ、救急車を呼ぶとこだったのよ」<br />  「……ちょっと、嫌な夢を見ていたから」<br />  「水銀燈、の?」<br /><br /> 途端、真紅の目が大きく見開かれた。「どうして、分かるの?」<br /> 「だって」と、雛苺は即答した。「ずっと呼んでたもの。水銀燈……って」<br /><br /><br /> 過去、2人の間で何があったのかなんて、雛苺には解らない。<br /> しかし、真紅の右腕を奪い、水銀燈との仲を裂いた事件が、<br /> 今もって悪夢を生みだしていることは、彼女にも察しがついた。<br /><br /> 雛苺の脳裏に、あの『パステル』が思い浮かんでくる。<br /> 真紅を――他人を実験台にすることには、どうにも抵抗があるけれど。<br /><br /> 絵を描くことは、平面の向こうに更なる世界を創りだすこと。平面を扉と化すること。<br /> その扉の先に、真紅や水銀燈にとって、幸せな未来が続いているのであれば、<br /> ……やってみる価値は、充分にあると言えよう。<br /><br /><br /> 描くべきか、描かざるべきか。それが問題だ。<br /><br /><br /> ……いや。問題でも、なんでもない。<br /> 雛苺の中で、答えは、もう出ていた。<br /> たとえ、それが人道に悖る手段であったとしても――<br /> やらない善より、やる偽善。<br /> 真紅がココロの苦しみから救われるのなら、それで、いいのではないか?<br /><br />  「こんなときに、こんなお願いするのは失礼かも知れないけど。<br />   あのね、ヒナがこの町に来たのはね、絵を描くためなの。<br />   だから……」<br /><br /> ひとつ深呼吸して、雛苺は、決然と切り出した。<br /><br /><br />  「ヒナ、真紅の肖像画を描きたいの!<br />   貴女の右腕が、ちゃんとある姿を、ヒナに描かせて!」<br /><br /><br /><br /> -<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/3751.html">to be continued</a>-<br /></p>
<p align="left"> <br />  <br />    ◆   ◇<br />  <br /> 「あはははっ! ねえ、見て! 真紅ぅ!」<br />  <br />  <br /> アタマの芯にまで響いてくる、うら若い娘の、無邪気で嬉々とした声。<br /> 「みんな元気に……いい感じに育ってくれてるわぁ」<br />  <br /> ――ここは? はたと我に返って、真紅は静かに、ぐるり見回す。<br /> 目に飛び込んできたのは、猫の額ほどの畑と、灌木の列――<br /> 忘れるはずもない。水銀燈と2人で、山の中腹に拓いた、最初の茶畑だった。<br />  <br /> 「もう。どぉしたのよぉ、ボ~っとしちゃってぇ」<br />  <br /> のんびりとした、それでいて気遣わしげな声に誘われ、ゆるゆると顎を引くと……<br /> 「大丈夫?」と言わんばかりの顔をした銀髪の幼なじみと、視線がぶつかった。<br /> 彼女は茶樹のそばに両の手と膝を突いて、茫然と立ち尽くす真紅を見あげていた。<br />  <br />  <br /> また、なのね。真紅には口の中で、そう呟いていた。<br /> 解っている。これは、女々しさというスクリーンに投影された、未練の夢幻。<br /> あの頃の記憶に、少しの希望を加味して再編集した、映画にすぎない。<br />  <br />  <br />   <br /> ――不意に、目の前の景色が、原色の自然から、人工的な空間へと切り替わる。<br /> これも、いつものこと。辿り着く先が変わったためしは、一度としてない。<br /> ここは大学の、研究室。<br /> 修士課程の論文作成に追われ、あたふたしていた、人生最悪のクリスマスのシーンだ。<br /> 窓ガラスは、とっくに闇色に塗り尽くされ、星の代わりに、細かい雪が鏤められている。<br />  <br /> 折角のホワイト・クリスマスなのに、ね。<br /> 真紅は机に頬杖をついて、降りしきる雪を眺めながら、小さく吐息した。<br /> ラブストーリーにありがちな、ロマンチックな状況なのに……ここには、そのカケラもない。<br /> 無情だ、と嘆かずにはいられなかった。年頃の娘が、研究室に缶詰め状態だなんて。<br />  <br /> 時刻は、もう午後10時になろうとしている。<br /> 教授や他の学生は、早々に引き上げてしまって、残っているのは真紅と水銀燈だけ。<br /> マウスのクリック音。タイピングの音。すきま風の、か細い声。<br /> それらが、手狭な感のある部屋の中で競い合い、自己主張を繰り広げている。<br />  <br /> そこに、やおら「あーぁ」と。<br /> 水銀燈の、溜息とも独り言ともつかない大きな喘ぎが、すべての雑音を支配下に置いた。<br />  <br /> 「ねえ、真紅ぅ。そろそろ、お茶しなぁい?」<br />  <br /> さも倦み疲れたような、間延びした調子で言う。<br /> けれど、それは真紅も同じ。いい加減、肩が凝ったし、集中力も切れかかっていた。<br /> 「悪くない提案だわ」真紅は賛意を口にして、くるりと椅子を回し、振り向く。<br /> その先では丁度、水銀燈が、持ち手つきの箱を机の上に置いたところだった。<br />  <br /> 「なんなの、それ? と言うか、どこから出したの」<br /> 「細かいことは気にしなぁい。今夜はクリスマス・イブだからぁ……じゃじゃぁ~ん!」<br /> 「ウソ……これ、デコレーションケーキじゃないの。それも7号サイズだなんて。<br />  まさか、私たち2人で、これ全部たべるつもり? 呆れた食欲ね、まったく」<br /> 「みんなで切り分けるつもりだったけど、ちょっと出しそびれちゃってぇ。<br />  まぁ、いいじゃなぁい。アタマ使いすぎてクタクタだし、糖分補給しないとねぇ」<br />  <br /> なるほど。確かに、水銀燈の言うとおり、脳が糖分を求めている……ような気がする。<br /> それに、よくよく考えたら2人とも、まだ夜食らしい夜食を摂っていなかった。<br /> いい加減、空腹だったところに美味しそうなケーキを見せられて、真紅のおなかが鳴る。<br /> 水銀燈に、いやらしい笑みを向けられ、真紅は顔を赤らめ、無造作に前髪を掻き上げた。<br />  <br /> 「いつの間に、こんなもの買ってたの?」<br /> 「夕方に、ちょっと抜け出して、ね。それより、早く食べましょうよぉ。<br />  私はお皿とか用意しておくから、真紅は、紅茶を煎れてちょうだぁい」<br /> 「……残念だわ。こうと分かっていたなら、上質の葉を用意しておいたのに」<br />  <br /> 真紅は本当に口惜しそうに指を噛み噛み、備え付けのコンロに、ヤカンを乗せた。<br /> いかにも、こだわり派の彼女らしい口振りだ。<br /> 水銀燈は、幼なじみの背中に優しい笑みを投げかけて、ケーキを切り分け始めた。<br />  <br />  <br /> 真っ二つの半月型となったケーキと、湯気の立ち上るマグカップ。<br /> せめてものムードづくりにと、モミの木の代用として置かれた、アロエの鉢植え。<br /> それらを前に、2人――<br /> 向かい合って、プレゼントの代わりに、引きつった笑みを交換し合った。 <br />  <br /> 「メリークリスマス、水銀燈」<br /> 「メリークリスマス……って、なぁんかバカっぽいわねぇ。侘びしいわぁ」<br /> 「気分の問題よ。どんなに愉しいことでも、楽しむ気が無ければ、話にならないわ。<br />  私は、こんなクリスマスも面白いと思うけれど……貴女は、違うの?」<br /> 「……ううん。そんなコトないわぁ。私も、楽しい。<br />  真紅が居てくれれば、いつだって、どんな場所だって、私は楽しいわ」<br /> 「そう。でも、なんだか複雑な心境ね。光栄ですわと、喜ぶべきなのかしら」<br /> 「聖夜を孤独に過ごすよりマシでしょ。素直に喜んでおきなさいよ、おバカさん」<br /> 「うるさいわね。バカって言った方がバカなのよ」<br />  <br /> 真紅は素っ気なく振る舞うことで、冷静な自分を、取り繕おうとする。<br /> が、フォークを持つ手の震えや、そわそわと落ち着かない肩に、動揺が現れてしまう。<br /> なんとなく気まずくて、水銀燈の顔を、まともに見られなかった。<br />  <br /> 水銀燈は、子供のように素直な気持ちで、慕ってくれている。<br /> 今さっき彼女が口にした想いも、すべてが本心であることを、真紅は理解していた。<br /> 『真紅が居てくれれば、私は楽しい――』<br /> それは、水銀燈が真紅に寄せる、深い信頼の証しに他ならなかった。<br />  <br /> 依存しすぎては、いけない。失ったときのショックが、計り知れないから。<br /> そのくらいは、水銀燈にも解っているだろう。彼女だって、いつまでも子供ではない。<br /> でも、やはり真紅を頼ってしまうのは、水銀燈が今なお病気に苦しみ続け、<br /> 脆弱さを引きずっているからなのかも知れない。<br />  <br /> 「ねえ、真紅」<br />  <br /> いきなりの、深刻そうな声音が、場の空気を一瞬にして緊迫させる。<br /> 真紅は身じろぎを止めて、ひた……と、水銀燈を見つめた。<br />  <br /> 「どうかしたの? ケーキに虫でも入っていたのかしら?」<br /> 「違うわよ。そうじゃなくって」<br /> 「じゃあ、なに?」<br /> 「……うん。なんて言うかぁ、そのぉ……私たち、ずっと今のままで――<br />  これから先も、親友のままで、いられると思う?」<br />  <br /> どうして、そんなことを訊くの? 真紅は小首を傾げて、考えた。<br /> 卒業がいよいよ近づいて、ナーバスになっているとか……?<br /> その可能性は、大いに有り得た。<br /> なぜならば、彼女たちは既に、別々の企業から内定をもらっていたのだから。<br />  <br /> たった独りで、未知の世界に放り出される恐ろしさは、幾ばくのものだろうか。<br /> 水銀燈みたいな、生まれながらに重篤なハンディを背負った人々にとって、<br /> それが過酷な責め苦になるだろうことは、想像に難くない。<br />  <br /> 健常者には計り知れない、怖れ。<br /> その不安を、わざわざ煽って突き放したりするほど、真紅は悪趣味ではなかった。<br />  <br /> 「当たり前でしょう。いつまでも、変わりっこないわ」<br /> 「……ホントぉ?」<br /> 「本当よ。今までだって、そうだったでしょう。これからも、ずっと一緒だわ」<br /> 「でも、卒業しちゃったら、離ればなれに――」<br />  <br /> ありありと不安を滲ませ、涙ぐむ水銀燈に、真紅は「仕方のない子ね」と微笑みかけ、<br /> 大まじめに、あっけらかんと告げた。<br />  <br /> 「だったら、簡単な答えだわ。同じ仕事に就けばいいのよ。<br />  2人で会社を立ち上げましょう。商うのは……そうね。やっぱり紅茶がいいわ」<br />  <br />  <br />  <br /> ――また、目の前にあった映像が、じわじわと隅の方から黒く塗りつぶされていく。<br /> シーンの変わる刹那、真紅は毎度のコトながら、苦笑していた。<br /> 若かったとは言え、随分とまあ、向こう見ずな計画を打ち立てたものだ。<br />  <br />  <br /> 無論、口で言うほど簡単ではなかった。起業は、おままごとではない。<br /> 土地の確保、それに伴う資金調達など、学生の身で準備するのは、なかなかに厳しい。<br /> 祁門(キーマン)種の茶樹の品種改良も、いい結果を出せずにいたし……<br /> もう何度、挫けそうになったことか。<br />  <br /> けれど……そんな苦労さえ、ささやかな喜びで、幸せな色に塗り替えてしまえた、あの頃。<br /> いまではもう、遠い日の夢物語。<br />  <br /> 真紅は、今更ながら思った。あと何回、この夢幻を見続ければいいのかしら、と。<br /> いつまでも、こうして、楽しかった日々の思い出に執着し続けて……<br /> 目覚めるたびに、喪失感でココロが傷つくだけと、解っているのに。<br />  <br /> でも……たとえ、ただの自虐でしかなくても――<br /> 真紅は、それでも構わないと思っていた。<br /> これは懺悔。逆十字の烙印を刻まれた日から、死ぬまで終わることは許されない。<br /> だから、真紅はいつだって、喜んで足を踏み入れる。<br /> この夢幻が、悪夢の底なし沼だろうと、躊躇わずに。<br />  <br />  <br />  <br /> 再び、真紅の視界と意識は、山の中腹に拓いた小さな畑に戻っていた。<br /> 水銀燈は、相変わらず、心配そうな顔で彼女の様子を窺っている。<br />  <br /> 「ごめんなさい。なんでもないわ」<br />  <br /> 汚れることも厭わず、真紅は幼なじみの娘と並んで、地に膝を突いた。<br /> 土の臭いと、水銀燈の髪から靡いてくる匂いが、グッと強まる。<br /> その瞬間、懐かしさが弾けんばかりに膨らんで、胸の奥がキュッと痛くなった。<br />  <br /> 「本当に、よく育っているわ。すべり出しは順調ね」<br />  <br /> すくすくと伸びゆく茶樹の苗木に、希望と慈しみの眼差しを注ぎながら、<br /> 真紅は、幼なじみの左手に、そっと自分の手を重ねた。<br /> もう彼女が失ってしまったはずの、右手を。<br />  <br /> 「ここまで来られたのは、貴女のお陰よ……水銀燈」<br /> すんなりと口を衝いて出る、嘘偽りない気持ち。<br />  <br /> 「貴女が、品種改良を成功させてくれたからこそ、今があるのだもの。<br />  私ひとりでは、きっと辿り着けなかった。<br />  一緒に歩いているつもりだったけれど、貴女が私を、ここに連れてきてくれたのね」<br /> 「なによぉ、いきなり…………気持ち悪ぅい」<br />  <br /> ばかばかしい。険を孕んだ返事は、不器用な彼女の、ひねくれた照れ隠し。<br /> 長い付き合いだ。以心伝心の真似事くらいは、真紅にもできる。<br /> 挑むように悠然と微笑みかけると、水銀燈はバツ悪そうに、そっぽを向いた。<br />  <br /> けれど、それも寸閑のこと。<br /> 素直な言葉に絆されたのか、水銀燈は仄かに赤らめた顔を、真紅へと戻した。<br />  <br /> 「ごめん……今のウソ。お礼を言わなきゃいけないのは、私だわ」<br />  <br /> 子供の頃から、ずっと――病気のせいで、学校を休みがちだった。<br /> それが元で、疎外されたり、陰湿なイジメを受けるようになって……<br /> 自分が選んだ道だけれど、水銀燈は学校に行くことを苦痛に感じていた。<br />  <br /> そんな日常において、真紅だけは、水銀燈の味方だった。<br /> いつだって、嫌な顔ひとつしないで、なにかと面倒を見てくれた。<br /> もっとも、彼女が庇えば庇うほど、水銀燈への風当たりは強くなったのだけれど。<br />  <br /> 「小学校も中学校も、体育の授業は、いつも見学だった。<br />  校庭や体育館の隅っこ、プールサイド……私の居場所は、いつだって蚊帳の外。<br />  勉強も、服用してる薬の作用で集中力が続かなくて、ロクな成績じゃなかったし」<br />  <br /> 「そうだったわね」<br /> 真紅のあっさりした相槌に、ひとつ頷いて、水銀燈は続けた。<br />  <br /> 「みんなのペースに着いていけないから、だんだんと疎まれ、敬遠されるようになって……。<br />  私、いつも思ってたわ。どうせ嫌われてるんなら、早く死んじゃいたいなぁって。<br />  その方が、私も、みんなも、スッキリするじゃない。ねぇ?」<br /> 「あの頃の貴女は、常に陰りを背負って生きていたわよね。<br />  だから――私は、貴女から目を離せなくなったのよ。<br />  放っておくと、いつの間にか物陰に溶け込んで、居なくなってしまいそうだったから」<br />  <br /> 「そうだったわねぇ」と、今度は水銀燈が、真紅と同じ相槌を口にした。<br />  <br /> 「真紅はいつだって、こんな私と、歩調を合わせてくれてたわよねぇ。<br />  そして、引っ込み思案だった私に、勉強とか、いろいろなコトを教えてくれたっけ」<br /> 「美味しい紅茶の煎れ方……とかねぇ」<br />  <br /> 2人は、クスクスと笑い合って、ほぼ同時に手元の苗木に視線を向けた。<br />  <br /> 「私にとって……真紅の存在は、いい刺激になってたのねぇ、きっと。<br />  長生きできないって言われてたのに、こうして今も生きてるんだもの。<br />  そりゃあ、定期検診は受けてるし、薬も飲み続けてるけどぉ、<br />  でも、それだけじゃないって思う。だから……ありがとう、真紅。貴女のお陰よ」<br /> 「別に――お礼を言われるほど、大したことはしていないわ」<br /> 「そう言うと思った。相変わらず、変なとこで強情ねぇ。バカみたい」<br />  <br /> しみじみと語らいながら、真紅たちは、これからの展望に想いを馳せていた。<br /> この茶樹が充分に育ったら、次は挿し木で増やしていく予定だ。<br /> 勿論、初めての試みだけれど、失敗するなんて考えてもなかった。<br /> 2人一緒なら、望みどおりの未来を掴めると、信じていたから。<br /> 今までも。そして、これからも――<br />  <br />  <br />  <br /> ――脳内のスクリーンが漆黒になった。この妄想映画は、いつも、ここで終わる。<br /> 真紅も、それに合わせて、意識の扉を閉ざした。<br /> そうすれば、深い眠りに落ちてゆけると、知っていたから。<br />  <br /> けれど、今日に限って、夢幻の幕は降ろされなかった。<br /> 彼女の眼前が不規則に明滅したかと思った途端、次なるシーンが映し出された。<br />  <br />  <br /> 白い蛍光灯の列。白い壁。窓から容赦なく射し込んでくる、初夏の眩い光。<br /> 風に舞う白いカーテン。白いシーツ。白いベッド。<br /> そして――リノリウムの白い床に跪いて項垂れた、幼なじみの姿。<br /> 真紅は、病室のベッドに半身を起こして、顔を伏せる水銀燈を冷たく見おろしていた。<br />  <br /> 白すぎる。瞳に映るこの世界は、あまりにも白々しい潔癖に溢れていて……<br /> なにもかもが、くだらない『おままごと』のようだと、真紅には感じられた。<br /> 胸に生まれた白けた感情が、雪崩の如き暴力となって、迸りそうになる。<br />  <br />  <br />   いやよ……やめてちょうだい<br />  <br />  <br /> これから起こることを思い出して、真紅は必死に、自らのココロを鎮めようとする。<br /> だが、再現フィルムは回り続ける。止められるものなら止めてみろと、嘲笑うように。<br /> 白い世界に眼を向けるほど。項垂れた水銀燈を、見れば見るほど。<br /> 真紅の右肩は疼き、ココロの中で沸々と、得体の知れない物質が障気を燻らせる。<br /> 彼女の正気を失わしめる、障気を。<br />  <br />  <br /> 「貴女のせいよ」<br />  <br /> その言葉が、自分の口から吐き出されたものだなんて、真紅には信じられなかった。<br /> それほどまでに、彼女の声音は醜く変わっていた。<br />  <br />  <br />   やめて! 言わないで!<br />  <br />  <br /> 聞きたくない。言わせたくない。<br /> けれど、彼女の叫びも虚しく、血を吐くように怨詛は迸る。<br />  <br /> 「貴女が、私を――こんな身体にしたのよ」<br />  <br />  <br />   もう黙って! お願いだから!<br />  <br />  <br /> 「私は、不格好だわ。不完全だわ。貴女のせいで――<br />  貴女なんかに係わったせいでっ!」<br />  <br /> 真紅は自分の中にある、理性の堤防が壊れる音を聞いた。<br /> 溢れてゆく。身体の中にある、なにもかもが流れ出して、思考が真っ白になってゆく。<br />  <br /> 「この疫病神っ! 出ていって! 二度と顔も見たくないわ!」<br />  <br /> 真紅の放つ石礫のごとき硬い言葉が、驟雨となって、水銀燈に降り注いだ。<br /> この白々しい空間で、真紅のココロだけは、燃え盛る紅蓮の炎となって……<br /> 気づいたときには、側にあった花瓶を左手で掴み、水銀燈に投げつけていた。<br />  <br /> 固いもの同士がぶつかる、鈍い音。「あぁっ」という、悲痛な叫び。<br /> 花瓶は床に落ちて砕け、生けてあった花と水を、水銀燈の周りに撒き散らした。<br /> ややも待たず、水銀燈の額に、紅い雫が流れ落ちてくる。<br /> それを眼にして、真紅の激情は、一瞬のうちに燃え尽きて、真っ白な灰に変わった。<br />  <br />  <br /> なんてことを、してしまったのか。真紅は、かつてないほど動揺した。<br /> 気が動転して、なにを言ったらいいのか、まったく分からなくなってしまった。<br /> そんな幼なじみを、水銀燈は……<br /> 跪いたまま、スカートが濡れるのも構わず、流れる血を拭いもせずに、じっと見つめていた。<br />  <br /> その瞳に宿るのは、傷つけられたことへの怒りでも、裏切られた憎しみでもなく。<br /> もっともっと深い――きっと、一生かけても奥底まで辿り着けないほど深い闇だけ。<br /> 純粋な哀しみと怯えが、真紅に向けられていた。<br />  <br />  <br /> 「ごめんね…………真紅」<br />  <br />  <br /> ――ぽつり、と。<br /> 血の気を失って白みがかった唇が、喘ぐように言葉を紡いで……<br /> 伏せられた長い睫毛の隙間から、悲しみのカケラが零れ落ちた。<br /> そして、水銀燈は静かに立ち上がり、ふらふらと病室を出ていった。<br />  <br /> 真紅は、引き留められなかった。口を開けども、声を出せずにいた。<br /> 咄嗟に伸ばした左腕だけが、所在なさげに揺れ……失意と共に、ガクリと下がる。<br /> さながらゼンマイの切れた人形みたいに、彼女は疲憊して、項垂れた。<br />  <br /> 「こんな事なら――」<br />  <br /> 独りごちた声が、微かに震えている。<br /> 打撲と擦り傷で思うように動かせない脚を包むシーツに、温かな水滴が、ひとつ……ふたつ……。<br /> 真紅は唇をキュッと噛みながら、大粒の涙を落とし続けた。<br />  <br /> 「こんな事になるなら、いっそ左腕も、なくしていれば良かったのだわ。<br />  そうしたら……あんな真似は、できなかった。あの子を傷つけずに済んだのに」<br />  <br /> 言いながらも、それが詭弁だと解っていた。<br /> だが、詭弁にでも縋らなければ、気持ちを抑えきれないことも、また、理解していた。<br /> あまりにも未熟な、子供の癇癪となんら変わらない、感情の暴走。<br /> そんな瑣末なモノに翻弄されて、コツコツと築いてきた2人の信頼関係を、壊してしまった。<br /> ずっと一緒だと言っておきながら――それを自らの手でブチ壊しにしたのだ。<br /> 情けなくて、口惜しくて……<br />  <br /> 「無様な疫病神は、私の方だわ。私……なんて、嫌な女――」<br />  <br /> 今日ほど、自分を嫌悪したことはなかった。<br /> 真紅は左手にシーツを握り締めると、自らの顔に、強く押しあてた。<br /> そして、誰に憚ることもなく、声を上げて泣き続けた。子供のように、泣きじゃくった。<br />  <br />  <br />    ◇   ◆<br />  <br />  <br /> 真っ白な闇――なんてモノが存在するかは、定かでないが、<br /> 真紅は、そうとしか表現できない物体に包まれ、横たわっていた。<br /> あるいは、ヨーグルトの溜まりに沈んだら、こんな感じなのかも知れない。<br />  <br /> どれほど目を凝らそうと、瞳に映るのは、白、白、白。<br /> 左手を、顔の前に翳しているはずなのだけれど、何も見えない。<br />  <br /> ――と思った直後。<br /> いきなり、姿の見えない何者かに手を握られて、真紅は短い悲鳴を上げた。<br /> 引っ張られる。もったりとしたナニかの中を、身体が浮き上がってゆく感じもする。<br /> ここに至ってようやく、真紅は『夢』という水底に横たわっていたことを悟った。<br /> ならば……底があるなら、どこかに水面も存在するはずだ。夢と現実の境界が。<br />  <br /> 真紅は、腕を引かれる方へと、自分から浮上していった。<br /> ……やおら、水面を割って、顔に空気を感じた。真紅は深く息を吐き、双眸を開いた。<br />  <br />  <br />  <br /> まず眼にしたのは、不安そうに窺い見ている女の子の顔。<br /> よく見れば、彼女は両手で、真紅の左手を包み込んでいた。<br />  <br /> 「真紅っ! やっと目を醒ましてくれたのね。ああ……よかったなの。<br />  写真を見て、急に泣き出したと思ったら倒れちゃうんだもの。ビックリしたのよ」<br /> 「そうだったの……ごめんなさい。お客様に迷惑かけるなん――」<br />  <br /> 言いながら、真紅がアタマを上げると、額から濡れタオルが滑り落ちた。<br /> 彼女は、応接間のソファに横たえられていた。<br />  <br /> 「急に動いちゃダメなの。もう少しだけ、休んでるのよ」<br /> 「でも……」<br />  <br /> と、渋る真紅を、雛苺は静かに――しかし有無を言わせない力強さで、寝かし付けた。<br /> これでは、どちらがこの家の主だか分からない。<br />  <br /> けれど、真紅は表情を和らげて、雛苺に従った。<br /> 右腕のないハンディを克服しようと、強がりながら生きてきたけれど、<br /> 雛苺の前では、鎧を脱いだ素の自分に……ただの女の子に戻ってもいいような――<br /> 不思議と、そんな気持ちに、させられていた。<br />  <br /> 「あのね、真紅」<br /> 雛苺は、そばに置いた洗面器でタオルを絞りなおして、真紅の額に乗せた。<br />  <br /> 「さっき……眠ってるときね、すっごく魘されてたなの。<br />  汗もビッショリだし、ホントに病気なんじゃないかしらって――<br />  もう少し起きるのが遅かったら、ヒナ、救急車を呼ぶとこだったのよ」<br /> 「……ちょっと、嫌な夢を見ていたから」<br /> 「水銀燈、の?」<br />  <br /> 途端、真紅の目が大きく見開かれた。「どうして、分かるの?」<br /> 「だって」と、雛苺は即答した。「ずっと呼んでたもの。水銀燈……って」<br />  <br />  <br /> 過去、2人の間で何があったのかなんて、雛苺には解らない。<br /> しかし、真紅の右腕を奪い、水銀燈との仲を裂いた事件が、<br /> 今もって悪夢を生みだしていることは、彼女にも察しがついた。<br />  <br /> 雛苺の脳裏に、あの『パステル』が思い浮かんでくる。<br /> 真紅を――他人を実験台にすることには、どうにも抵抗があるけれど。<br />  <br /> 絵を描くことは、平面の向こうに更なる世界を創りだすこと。平面を扉と化すること。<br /> その扉の先に、真紅や水銀燈にとって、幸せな未来が続いているのであれば、<br /> ……やってみる価値は、充分にあると言えよう。<br />  <br /> 描くべきか、描かざるべきか。それが問題だ。<br />  <br />  <br /> ……いや。問題でも、なんでもない。<br /> 雛苺の中で、答えは、もう出ていた。<br /> たとえ、それが人道に悖る手段であったとしても――<br /> やらない善より、やる偽善。<br /> 真紅がココロの苦しみから救われるのなら、それで、いいのではないか?<br />  <br /> 「こんなときに、こんなお願いするのは失礼かも知れないけど。<br />  あのね、ヒナがこの町に来たのはね、絵を描くためなの。<br />  だから……」<br />  <br /> ひとつ深呼吸して、雛苺は、決然と切り出した。<br />  <br /> 「ヒナ、真紅の肖像画を描きたいの!<br />  貴女の右腕が、ちゃんとある姿を、ヒナに描かせて!」<br />  <br />  <br />  <br />   -<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/3751.html">to be continued</a>-<br />  <br />  </p>

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