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エピローグ 『ささやかな祈り』後編」(2008/02/10 (日) 22:09:24) の最新版変更点

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<p> <br>  <br> 一瞬、呼吸が止まっていた。痛くて――――どうしようもなく胸が苦しくて。<br> 私は唇を閉じることができずに……俯いて、頻りに喘いでいた。<br> 胸元に抱き寄せた携帯電話のディスプレイに、ぽた、ぽた……雫が降る。<br> いつの間にか、自覚もないまま、涙が溢れていた。人目なんて、気にもならなかった。<br> <br> 【ありがとう】<br> 滲んでよく見えない目を擦りながら、タイトルを書き換えて、返信。<br> <br> 【お世話になりました。二人で鐘を鳴らしたこと、私、きっと忘れません】<br> <br> たったこれだけの文字数を、何分も掛かって打ち終え、送信。<br> ――直後、ふと……どこかから、聞き覚えのあるメロディが流れてきた。<br> この曲……ホイットニー・ヒューストンの『Saving All My Love For You』ね。<br> 邦題は、確か『すべてをあなたに』で、歌詞の内容は不倫相手へのメッセージだったはず。<br> <br> 誰かの使っているiPodか携帯電話の着メロが、タイミングよく聞こえてきたのかしら?<br> ――そうね。きっと、それだけのこと。<br> さて。唯一の心残りも吹っ切れたし、出国の手続きを済ませてしまいましょう。<br> 涙を拭って、ふたつのケースに伸ばした腕を引き留めるように、携帯電話が振動した。<br> 見れば……またも、彼からのメール。タイトルは【書き忘れ】ですって。<br> いまさら、なによ――<br> <br> 【あと二年、僕に時間を与えて欲しい】<br> <br> なぁに、これ。もう結論は出ているでしょうに、二年も費やして、なにがあると言うの?<br> ……バカみたい。いま一緒に来てくれないなら、2度目なんてないのよ!<br> <br> 【バカ】そうタイトルを付けて、返信した。本文も【バカ】と、一言だけ。<br> すると、また――数秒後に『Saving All My Love For You』が聞こえてきた。<br> ただの偶然? それとも――?<br> <br> どこから聞こえるのか。鳴り止まないメロディを追って、周りを見回す。<br> 邪魔な雑踏を掻き分けて、辿っている間に、また音が止んだ。<br> 見失いたくない。咄嗟に【バカ】のメールを再送する。また、あのメロディが私を導く。<br> そして、やっと――<br> <br> 「あっ!」柱の陰に身を潜めていた彼を、見つけた。<br> ここまで来ておきながら、顔を合わせずに別れるつもりだったの?<br> 本当に、バカみたい。腹立たしくて、私は彼に掴みかかっていた。「どうしてっ!」<br> <br> 彼は、バツが悪そうに、頭に手を遣った。「ごめん。なんか……気後れしちゃって」<br> <br> 「だからって、こんなの酷い! 私が、どんな気持ちで待っていたと思って――」<br> 「うん。本当に、すまなかった。どうしようもないバカだな、僕は」<br> <br> 言って、彼は、持っていたビニール袋を掲げた。「これだけは、渡しておきたくって」<br> なにかと思えば、夫婦饅頭。江ノ島のお土産なんだと、彼は微笑み、教えてくれた。<br> そして「これが僕の答えだよ」――とも。<br> <br> 「君の隣に居てあげたいんだ。いつまでも、ずっと。<br>  あ、で、でも……だからって結婚とか、そういうつもりじゃなくて……なんて言うか」<br>  <br></p> <hr>  <br> オディールさんは、揺れる瞳で、僕を見つめていた。<br> 情けない話だけれど、その目に射竦められて、僕は声も出せなくなっていた。<br> 彼女が、掠れた声を絞り出すまでは――<br> <br> 「どうして……二年なの?」<br> 「――実は、僕の受け持つクラスに、素晴らしい才能を持った生徒が居るんだけどね……<br>  ある時、彼のココロを、深く傷つけてしまったんだ。僕の軽挙妄動によって。<br>  良かれと思ってたんだ。こんなにも優秀な才能は、もっと広く評価されるべきだ、と」<br> 「……けれど、彼は注目され、批評されることを望んでいなかった?」<br> 「そうだね。彼は同年代の子たちより、感受性が研ぎ澄まされ過ぎてたんだと思う。<br>  誰よりも純粋に物事を捉え、誰よりも繊細な方法で表現できた――<br>  だからこそ、彼の造る物はどこか儚げで、それゆえにピュアな輝きを放っていたんだ」<br> 「純粋にして繊細……針の上に置かれたコインみたいに、絶妙のバランスですわね」<br> 「うん。衆目がもたらす風に揺らされたのは、コインか、針か。それは分からない。<br>  どっちにしても、彼の鋭敏な感覚は、堪えきれなかった。<br>  ココロを閉ざして、不登校になって……昨日も、君と会う前、彼を訪ねてたんだよ。<br>  これはね、僕なりのケジメなんだ。ただの独善かもしれないけど、それでも――<br>  彼に立ち直って欲しいし、立派に卒業してゆく姿を、ちゃんと見送ってあげたいんだ」<br> 「そのための、二年でしたのね」<br> 「待っててくれるかい?」<br> <br> ひとつ頷いて、彼女は鼻を啜りながら、はらはらと涙を流した。<br> <br> 「ホント、バカみたいだわ、私。早とちりして、勝手に怒って……あなたのこと、バカ、だなんて」<br> 「実際、バカだからね。もっと早く返事してあげられなくて――本当に、ごめん」<br> 「いいんです。あなたは、こうして……ちゃんと来てくれたから。<br>  でも、そうね。二年も待たされるんですもの。この場で、契約してもらわなくっちゃ」<br> <br> そう言うが早いか、彼女は泣き顔のまま、僕のネクタイを掴んで、グッと引っ張った。<br> 思わず前のめりになった僕の唇に、柔らかな感触が吸い付く。<br> とても情熱的で支配的ながら、どこか、献身的ないじらしさを感じさせるキス。<br> その瞬間、僕の胸に、江ノ島で鳴らした『龍恋の鐘』の音が、鮮やかに甦った。<br> <br> 「ふふ……もらっちゃった。契約の証」<br> 「――まいったな。こんな所で、こんなこと……心臓が破裂しそうだ」<br> 「私も。すごく、ドキドキしてます」<br> <br> 周りの人の目が気になって、正直、死にそうなほど恥ずかしい。<br> だけど、涙も拭かずにはにかむオディールさんを見ていると、幸せな気持ちが募って……<br> このまま帰したくない。そんなワガママが、喉まで出かかっている。<br> 僕は、それを言う代わりに、彼女の肩をしっかりと抱き締めて、もう一度キスをした。<br> 完全な不意打ち。オディールさんは、僕の腕の中で固まっていた。<br> <br> 「契約は、相互信頼の元に結ばれるものだよ。だから、これでカンペキだね」<br> 「…………もぅ……バカぁ」<br> <br> 彼女は、顔ばかりか肌まで朱色に染めて、また、啜り泣いた。<br>  <br> 僕を見上げる潤んだ瞳。形のいい鼻梁。キスしたばかりの唇は、ひときわ紅く濡れている。<br> 更に、その下――すらりと尖った顎のライン越しに見えた奇妙な色合いが、僕の目を惹いた。<br> オディールさんの喉に、三日月状の痣が浮いていた。気道の左右に一本ずつ、向かい合うように並んで。<br> どうやら肌が上気したときだけ現れる古傷みたいだけど……なんだろう? 歯形……みたいな?<br> <br> 僕の視線の先に気づいたらしく、彼女はさりげなく襟元を手で覆って、顔を伏せた。<br> <br> 「あ、あの……私、そろそろ行かないと」<br> 「タイムリミットか。じゃあ、仕方ないな」<br> 「ねえ。毎日とは言いませんけど……四日に一度くらいは、連絡してくれる?」<br> 「二日に一度、電話するよ」<br> <br> 僕は言って、オディールさんの手に、お土産の夫婦饅頭を渡した。<br> 彼女は、本当に嬉しそうに笑って、その包みを胸に抱いた。<br> <br> 「約束ですよ。ずっと、ずっと、夢でも現でも、いつでも待っていますわ。<br>  もしも私を裏切ったりしたら……黒い天使さんが、お仕置きに行っちゃいますからね」<br> 「おいおい……。笑顔で、さらっと恐いこと言わないでくれよ」<br> 「このくらいは契約の内でしょう? うふふ……今から、とっても楽しみです。<br>  あなたは、私に――どんな色を着けてくださるのかしら」<br> <br> どういう喩えだろう? ボディペイント? それとも、あなた色に染めて――って意味なのか。<br> うーん。いまいち、女の子の気持ちって解らないなぁ。<br> だけど、そんなコト言われて、悪い気はしない。むしろ、嬉しかった。<br> <br> 僕らは、置きっぱなしになってる彼女の荷物を取りに戻った。<br> キャスター付きのスーツケースと、機内持ち込み用と思しい黒い鞄。<br> 彼女は黒い鞄の方に、夫婦饅頭をしまい込んだ。<br> その際、チラッと――鞄の中に人形みたいな影が見えた……気がしたのは、目の錯覚かな。<br> <br> オディールさんの搭乗手続きも終わり、僕らも、いよいよ別れなければならない。<br> なのに、こんな時に限って、僕の頭は巧く働かない。<br> 気の利いた台詞のひとつも思い浮かばず、かと言って、さよならだけじゃ物足りなくて――<br> せめてもの時間稼ぎとばかりに、僕は彼女に問いかけていた。<br> <br> 「結局のところ、ローザミスティカって、なんだったんだろう。君は、どう思う?」<br> <br> なんともまあ、色気も何も、あったもんじゃない。<br> もっと、この場に相応しい話題が、ありそうなものなのに。<br> でも、彼女は、呆れたり、嫌な顔もしないで、答えてくれた。<br> <br> 「古い写真を収めたアルバムみたいなもの――では、ないでしょうか?<br>  現代風に言うと、デジタルカメラのメモリカードに、近いかもしれませんね。<br>  そこに収められていたのは、実の父に対して偏執とも言うべき愛情を抱いてしまった娘の、断片的な記憶で……<br>  ある種のパスワードに反応して、目覚めてしまったんじゃないかしら」<br> 「ローザミスティカを呑んだ雪華綺晶は、それによって狂わされた、と?」<br> 「……さぁ? ただの推測です。今となっては、確かめようもありませんし」<br> 「まあ、そうだよね」<br> <br> あれこれ気を回したところで、過去を書き換えることなど、誰にもできはしない。<br> 大切なのは、今を生きて、これからを切り開いてゆくことだ。<br> 肝心なところで思慮の足らない僕のことだから、この先も、いろいろと失敗するだろう。<br> 誰かを傷つけてしまうことも、あると思う。<br> <br> だけど、それを怖れて立ち竦みたくはない。それが、僕の生き様だから。<br> 失敗したら、次は成功するように、努力すればいい。傷つけたなら、ケアすればいい。<br> 挫折と克服。人生なんて、その繰り返し。その程度のことでしかないと、思っているから。<br>  <br> <hr>  <br>  <br> 「それじゃ、元気で」<br> 「あなたもね、梅岡センセ。例の生徒さん、立ち直ってくれるといいですわね」<br> 「頑張ってみるさ。僕だけじゃ、どうにもできない問題かもしれないけど」<br> 「迷って、挫けてしまいそうなときは、相談してください。私でも、少しなら役に立てるかも」<br> <br> ありがとう。彼は人好きのする笑みで、出国手続きに行く私を、見送ってくれた。<br> 私も、スーツケースを引いていた手を放して、小さく、バイバイ……。<br> 歩きながら、何度か振り返ってみたけれど、彼はずっと、優しい笑顔を崩さなかった。<br> そして――最後に振り返ったとき、彼が、言った。<br> <br> 「会いに行くときは、もっといいお土産を持ってくから!」<br> <br> 言って、彼は両腕を上げると、頭の上に大きな円を作った。<br> なぁに? まさか、指輪? それとも、また――夫婦饅頭でも持ってくる気かしら?<br> あの人なら、やりそうね。金箔をまぶした夫婦饅頭とか、ね。<br> <br> 「楽しみにしてますわ!」<br> <br> それは、皮肉なんかじゃない。私の偽らざる本音。本当に、楽しみで――<br> いつの間にか、私は笑っていた。ココロから幸せを感じて、笑っていた。<br> こんなこと……何十年ぶりかしら。<br>  <br>  <br> 出発を待つ機内で、鞄の中から水銀燈が囁きかけてきた。<br> 彼を繋ぎ止めている生徒の命を、いまから搾り尽くしてきましょうか、と。<br> そうすれば、くびきを解かれた彼が、すぐに私を追ってくると考えたみたい。<br> 私は――彼女の気遣いにお礼を言って、続けた。「でも、いいのよ。このままで」<br>  <br> 彼は生徒さんを傷つけたことに対して、強い責任を感じている。<br> もし生徒さんを死なせたら、彼まで自殺してしまいかねないほどに。<br> だから、これでいいの。時間なら、たっぷりあるし。私はただ、ゆっくりと実りを待てばいい。<br> 私はシートに背を沈めて、瞼を閉ざし、ささやかに――近い未来を夢中に描いた。<br>  <br>  <br>   愛しています。<br>   愛して下さい。<br>   ぐるぐると――それこそ未来永劫、二人の想いが廻るだけ。<br>   それが、私の望む世界の、すべて。<br>  <br>  <br> <hr>  <br>  <br>  『モノクローム』 完<br>  <br>  
<p> <br>  <br> 一瞬、呼吸が止まっていた。痛くて――――どうしようもなく胸が苦しくて。<br> 私は唇を閉じることができずに……俯いて、頻りに喘いでいた。<br> 胸元に抱き寄せた携帯電話のディスプレイに、ぽた、ぽた……雫が降る。<br> いつの間にか、自覚もないまま、涙が溢れていた。人目なんて、気にもならなかった。<br> <br> 【ありがとう】<br> 滲んでよく見えない目を擦りながら、タイトルを書き換えて、返信。<br> <br> 【お世話になりました。二人で鐘を鳴らしたこと、私、きっと忘れません】<br> <br> たったこれだけの文字数を、何分も掛かって打ち終え、送信。<br> ――直後、ふと……どこかから、聞き覚えのあるメロディが流れてきた。<br> この曲……ホイットニー・ヒューストンの『Saving All My Love For You』ね。<br> 邦題は、確か『すべてをあなたに』で、歌詞の内容は不倫相手へのメッセージだったはず。<br> <br> 誰かの使っているiPodか携帯電話の着メロが、タイミングよく聞こえてきたのかしら?<br> ――そうね。きっと、それだけのこと。<br> さて。唯一の心残りも吹っ切れたし、出国の手続きを済ませてしまいましょう。<br> 涙を拭って、ふたつのケースに伸ばした腕を引き留めるように、携帯電話が振動した。<br> 見れば……またも、彼からのメール。タイトルは【書き忘れ】ですって。<br> いまさら、なによ――<br> <br> 【あと二年、僕に時間を与えて欲しい】<br> <br> なぁに、これ。もう結論は出ているでしょうに、二年も費やして、なにがあると言うの?<br> ……バカみたい。いま一緒に来てくれないなら、2度目なんてないのよ!<br> <br> 【バカ】そうタイトルを付けて、返信した。本文も【バカ】と、一言だけ。<br> すると、また――数秒後に『Saving All My Love For You』が聞こえてきた。<br> ただの偶然? それとも――?<br> <br> どこから聞こえるのか。鳴り止まないメロディを追って、周りを見回す。<br> 邪魔な雑踏を掻き分けて、辿っている間に、また音が止んだ。<br> 見失いたくない。咄嗟に【バカ】のメールを再送する。また、あのメロディが私を導く。<br> そして、やっと――<br> <br> 「あっ!」柱の陰に身を潜めていた彼を、見つけた。<br> ここまで来ておきながら、顔を合わせずに別れるつもりだったの?<br> 本当に、バカみたい。腹立たしくて、私は彼に掴みかかっていた。「どうしてっ!」<br> <br> 彼は、バツが悪そうに、頭に手を遣った。「ごめん。なんか……気後れしちゃって」<br> <br> 「だからって、こんなの酷い! 私が、どんな気持ちで待っていたと思って――」<br> 「うん。本当に、すまなかった。どうしようもないバカだな、僕は」<br> <br> 言って、彼は、持っていたビニール袋を掲げた。「これだけは、渡しておきたくって」<br> なにかと思えば、夫婦饅頭。江ノ島のお土産なんだと、彼は微笑み、教えてくれた。<br> そして「これが僕の答えだよ」――とも。<br> <br> 「君の隣に居てあげたいんだ。いつまでも、ずっと。<br>  あ、で、でも……だからって結婚とか、そういうつもりじゃなくて……なんて言うか」<br>  <br>   </p> <hr>  <br>  <br> オディールさんは、揺れる瞳で、僕を見つめていた。<br> 情けない話だけれど、その目に射竦められて、僕は声も出せなくなっていた。<br> 彼女が、掠れた声を絞り出すまでは――<br> <br> 「どうして……二年なの?」<br> 「――実は、僕の受け持つクラスに、素晴らしい才能を持った生徒が居るんだけどね……<br>  ある時、彼のココロを、深く傷つけてしまったんだ。僕の軽挙妄動によって。<br>  良かれと思ってたんだ。こんなにも優秀な才能は、もっと広く評価されるべきだ、と」<br> 「……けれど、彼は注目され、批評されることを望んでいなかった?」<br> 「そうだね。彼は同年代の子たちより、感受性が研ぎ澄まされ過ぎてたんだと思う。<br>  誰よりも純粋に物事を捉え、誰よりも繊細な方法で表現できた――<br>  だからこそ、彼の造る物はどこか儚げで、それゆえにピュアな輝きを放っていたんだ」<br> 「純粋にして繊細……針の上に置かれたコインみたいに、絶妙のバランスですわね」<br> 「うん。衆目がもたらす風に揺らされたのは、コインか、針か。それは分からない。<br>  どっちにしても、彼の鋭敏な感覚は、堪えきれなかった。<br>  ココロを閉ざして、不登校になって……昨日も、君と会う前、彼を訪ねてたんだよ。<br>  これはね、僕なりのケジメなんだ。ただの独善かもしれないけど、それでも――<br>  彼に立ち直って欲しいし、立派に卒業してゆく姿を、ちゃんと見送ってあげたいんだ」<br> 「そのための、二年でしたのね」<br> 「待っててくれるかい?」<br> <br> ひとつ頷いて、彼女は鼻を啜りながら、はらはらと涙を流した。<br> <br> 「ホント、バカみたいだわ、私。早とちりして、勝手に怒って……あなたのこと、バカ、だなんて」<br> 「実際、バカだからね。もっと早く返事してあげられなくて――本当に、ごめん」<br> 「いいんです。あなたは、こうして……ちゃんと来てくれたから。<br>  でも、そうね。二年も待たされるんですもの。この場で、契約してもらわなくっちゃ」<br> <br> そう言うが早いか、彼女は泣き顔のまま、僕のネクタイを掴んで、グッと引っ張った。<br> 思わず前のめりになった僕の唇に、柔らかな感触が吸い付く。<br> とても情熱的で支配的ながら、どこか、献身的ないじらしさを感じさせるキス。<br> その瞬間、僕の胸に、江ノ島で鳴らした『龍恋の鐘』の音が、鮮やかに甦った。<br> <br> 「ふふ……もらっちゃった。契約の証」<br> 「――まいったな。こんな所で、こんなこと……心臓が破裂しそうだ」<br> 「私も。すごく、ドキドキしてます」<br> <br> 周りの人の目が気になって、正直、死にそうなほど恥ずかしい。<br> だけど、涙も拭かずにはにかむオディールさんを見ていると、幸せな気持ちが募って……<br> このまま帰したくない。そんなワガママが、喉まで出かかっている。<br> 僕は、それを言う代わりに、彼女の肩をしっかりと抱き締めて、もう一度キスをした。<br> 完全な不意打ち。オディールさんは、僕の腕の中で固まっていた。<br> <br> 「契約は、相互信頼の元に結ばれるものだよ。だから、これでカンペキだね」<br> 「…………もぅ……バカぁ」<br> <br> 彼女は、顔ばかりか肌まで朱色に染めて、また、啜り泣いた。<br>  <br> 僕を見上げる潤んだ瞳。形のいい鼻梁。キスしたばかりの唇は、ひときわ紅く濡れている。<br> 更に、その下――すらりと尖った顎のライン越しに見えた奇妙な色合いが、僕の目を惹いた。<br> オディールさんの喉に、三日月状の痣が浮いていた。気道の左右に一本ずつ、向かい合うように並んで。<br> どうやら肌が上気したときだけ現れる古傷みたいだけど……なんだろう? 歯形……みたいな?<br> <br> 僕の視線の先に気づいたらしく、彼女はさりげなく襟元を手で覆って、顔を伏せた。<br> <br> 「あ、あの……私、そろそろ行かないと」<br> 「タイムリミットか。じゃあ、仕方ないな」<br> 「ねえ。毎日とは言いませんけど……四日に一度くらいは、連絡してくれる?」<br> 「二日に一度、電話するよ」<br> <br> 僕は言って、オディールさんの手に、お土産の夫婦饅頭を渡した。<br> 彼女は、本当に嬉しそうに笑って、その包みを胸に抱いた。<br> <br> 「約束ですよ。ずっと、ずっと、夢でも現でも、いつでも待っていますわ。<br>  もしも私を裏切ったりしたら……黒い天使さんが、お仕置きに行っちゃいますからね」<br> 「おいおい……。笑顔で、さらっと恐いこと言わないでくれよ」<br> 「このくらいは契約の内でしょう? うふふ……今から、とっても楽しみです。<br>  あなたは、私に――どんな色を着けてくださるのかしら」<br> <br> どういう喩えだろう? ボディペイント? それとも、あなた色に染めて――って意味なのか。<br> うーん。いまいち、女の子の気持ちって解らないなぁ。<br> だけど、そんなコト言われて、悪い気はしない。むしろ、嬉しかった。<br> <br> 僕らは、置きっぱなしになってる彼女の荷物を取りに戻った。<br> キャスター付きのスーツケースと、機内持ち込み用と思しい黒い鞄。<br> 彼女は黒い鞄の方に、夫婦饅頭をしまい込んだ。<br> その際、チラッと――鞄の中に人形みたいな影が見えた……気がしたのは、目の錯覚かな。<br> <br> オディールさんの搭乗手続きも終わり、僕らも、いよいよ別れなければならない。<br> なのに、こんな時に限って、僕の頭は巧く働かない。<br> 気の利いた台詞のひとつも思い浮かばず、かと言って、さよならだけじゃ物足りなくて――<br> せめてもの時間稼ぎとばかりに、僕は彼女に問いかけていた。<br> <br> 「結局のところ、ローザミスティカって、なんだったんだろう。君は、どう思う?」<br> <br> なんともまあ、色気も何も、あったもんじゃない。<br> もっと、この場に相応しい話題が、ありそうなものなのに。<br> でも、彼女は、呆れたり、嫌な顔もしないで、答えてくれた。<br> <br> 「古い写真を収めたアルバムみたいなもの――では、ないでしょうか?<br>  現代風に言うと、デジタルカメラのメモリカードに、近いかもしれませんね。<br>  そこに収められていたのは、実の父に対して偏執とも言うべき愛情を抱いてしまった娘の、断片的な記憶で……<br>  ある種のパスワードに反応して、目覚めてしまったんじゃないかしら」<br> 「ローザミスティカを呑んだ雪華綺晶は、それによって狂わされた、と?」<br> 「……さぁ? ただの推測です。今となっては、確かめようもありませんし」<br> 「まあ、そうだよね」<br> <br> あれこれ気を回したところで、過去を書き換えることなど、誰にもできはしない。<br> 大切なのは、今を生きて、これからを切り開いてゆくことだ。<br> 肝心なところで思慮の足らない僕のことだから、この先も、いろいろと失敗するだろう。<br> 誰かを傷つけてしまうことも、あると思う。<br> <br> だけど、それを怖れて立ち竦みたくはない。それが、僕の生き様だから。<br> 失敗したら、次は成功するように、努力すればいい。傷つけたなら、ケアすればいい。<br> 挫折と克服。人生なんて、その繰り返し。その程度のことでしかないと、思っているから。<br>  <br>  <br> <hr>  <br>  <br> 「それじゃ、元気で」<br> 「あなたもね、梅岡センセ。例の生徒さん、立ち直ってくれるといいですわね」<br> 「頑張ってみるさ。僕だけじゃ、どうにもできない問題かもしれないけど」<br> 「迷って、挫けてしまいそうなときは、相談してください。私でも、少しなら役に立てるかも」<br> <br> ありがとう。彼は人好きのする笑みで、出国手続きに行く私を、見送ってくれた。<br> 私も、スーツケースを引いていた手を放して、小さく、バイバイ……。<br> 歩きながら、何度か振り返ってみたけれど、彼はずっと、優しい笑顔を崩さなかった。<br> そして――最後に振り返ったとき、彼が、言った。<br> <br> 「会いに行くときは、もっといいお土産を持ってくから!」<br> <br> 言って、彼は両腕を上げると、頭の上に大きな円を作った。<br> なぁに? まさか、指輪? それとも、また――夫婦饅頭でも持ってくる気かしら?<br> あの人なら、やりそうね。金箔をまぶした夫婦饅頭とか、ね。<br> <br> 「楽しみにしてますわ!」<br> <br> それは、皮肉なんかじゃない。私の偽らざる本音。本当に、楽しみで――<br> いつの間にか、私は笑っていた。ココロから幸せを感じて、笑っていた。<br> こんなこと……何十年ぶりかしら。<br>  <br>  <br> 出発を待つ機内で、鞄の中から水銀燈が囁きかけてきた。<br> 彼を繋ぎ止めている生徒の命を、いまから搾り尽くしてきましょうか、と。<br> そうすれば、くびきを解かれた彼が、すぐに私を追ってくると考えたみたい。<br> 私は――彼女の気遣いにお礼を言って、続けた。「でも、いいのよ。このままで」<br>  <br> 彼は生徒さんを傷つけたことに対して、強い責任を感じている。<br> もし生徒さんを死なせたら、彼まで自殺してしまいかねないほどに。<br> だから、これでいいの。時間なら、たっぷりあるし。私はただ、ゆっくりと実りを待てばいい。<br> 私はシートに背を沈めて、瞼を閉ざし、ささやかに――近い未来を夢中に描いた。<br>  <br>  <br>   愛しています。<br>   愛して下さい。<br>   ぐるぐると――それこそ未来永劫、二人の想いが廻るだけ。<br>   それが、私の望む世界の、すべて。<br>  <br>  <br> <hr>  <br>  <br>  『モノクローム』 完<br>  <br>  

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