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第十四話  『Someday,someplace』」(2008/02/03 (日) 20:10:32) の最新版変更点

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<p> <br>  <br> 鼓膜が痛むほどの静寂に、戸惑いを滲ませた乙女の吐息が、解き放たれる。<br> それは、埃のように薄く鼻先を覆っていた冷気を、綿毛のごとく吹き飛ばして、<br> 入れ替わりに、奇妙な臭いのする蒸気を、ベッドの下から引き連れてきた。<br>  <br> ――なんて重たい闇。圧倒的なまでの量感に、押し潰されそうになる。<br> 彼女は深く息を吸い込んで、大きく揺れていたココロを鎮めた。<br> それにしても、何年ぶりだろう。息を吸い、ニオイを感じながら、肺を膨らませるのは。<br> こんな風に、肌で空気の重みを知るのは。<br>  <br> 夢などではない。彼女は横たわったまま、指だけを動かしてみた。<br> それから肘を曲げ、腕を上げて――ふわっと、頬を指先で撫でてみる。<br> 多少ぎこちなくはあるが、概ね、思いどおりに動かせて、じわぁ……っと充足感に満ちてくる。<br> けれど……些細なことで気をよくしたところで、彼女の頬が緩むことはなかった。<br>  <br> 下腹部と右眼窩に、激痛と熱を感じた。臓腑を弄ばれているような、不快な疼きも。<br> いったい、この不快感を生み出しているのは、なに?<br> 気持ち悪さの元凶をイライラと探っていた手が、不意に、ぬるりと滑る。<br> そして……吸い込まれるように、彼女の指は、生暖かく濡れた裂け目へと呑み込まれた。<br>  <br> ぬるり。ぬらり。<br> 肌の下で蠢いていた何かが、二の腕に絡みついてくる。<br> 子犬がじゃれて甘噛みするみたいに、無数の突起が、肌を撫で、這い回っている。<br> はたと、彼女は黒い荊の存在を思い出した。<br>  <br> 「……くっ」<br>  <br> 汚らわしい! 腕を払うと、ぞるり……。荊は、裂け目の奥へと引っ込んだ。<br> こんな――自分の体内に、得体の知れないバケモノが棲みついているなんて。<br> その事実は、乙女の潔癖を刺激して、猛烈な拒絶反応を引き起こさせた。<br>  <br> 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。<br> 自己免疫にも似た強迫観念が、彼女の胸中で限度なく生みだされ、行動を促し始めた。<br>  <br>  <br>  <br>   第十四話 『Someday,someplace』<br>  <br>  <br>  <br> ベッドの下に、槐が握っていたナイフが、転がっているはずだ。彼の腕ごと。<br> あれで荊を寸刻みにして、暖炉に放り込んでやったら、さぞかし気分も晴れよう。<br> そんな想像をしながら、彼女は半身を起こそうとする。<br> ……が、端正な顔は3秒と経たず、思うに任せぬ苦渋で埋め尽くされた。<br> 腹の傷から間断なく駆け上がってくる激痛に抗うだけで、体力の殆どを消耗したようだ。<br>  <br> それでも、異物を排除したい欲求は、抑えようがない。<br> 彼女はイモムシのように身をくねらせ、ベッドの端まで行き、そのまま転げ落ちた。<br> びちゃ……。床に散らばる肉塊と、臓物と、血腥い液体が、彼女を迎え入れる。<br> まだ温かい鮮血からは、仄かに湯気が昇っていた。<br>  <br> 腹の傷を手で塞ぎながら、闇色の絨毯に這い蹲って、もう一方の腕を動かし始める。<br> ぴちゃ……ぴちゃ……。前に進もうと血だまりを掻くのだが、掌が滑って進めない。<br> 程なく、彼女は疲れ果てて腕を止め、穢れた泉に横臥した。<br>  <br> 「――あ」<br>  <br> 途端、見開かれた双眸に捉えられ、彼女は息を呑んだ。<br> ベッドの下から――あらん限りの苦悶と未練を刻み込んだ槐の頸が、彼女を見据えていた。<br> 工房から漏れてくる光に浮かぶ、虚ろながら、不自然に透明感を湛えた瞳――<br> ふと、彼女の脳裏に、いつかどこかで見たドールアイの色カタチが甦った。<br>  <br>   『目は心の鏡――とは、つまり、目によって心が育まれる……とも言えるだろう。<br>    では、この一点の曇りもない作られた瞳に、一切の意志の介在なく世界を映すのであれば、<br>    そこに、より純粋かつ高潔な魂――至高の輝きは、培われるのだろうか』<br>  <br> きっと、おばかさんしか育たないわ。彼女はあの時、深く考えもせずに、そう答えた。<br> なぜならば、コトの善悪を規定すること自体、既に誰かの意志を介在しているのだから。<br> 善悪とは、集団生活における倫理であり、遵守されるべきもの。<br> それを蔑ろにすれば、有形無形の害を為す存在となることくらい、火を見るより明らかだった。<br>  <br> あの、独り言とも、師弟が交わす問答ともとれる話を聞かされたのは――<br> ――そう。何日も苦心して、やっと縫い上げた人形用ドレスを、見せに行ったとき。<br>  <br>   『素晴らしいドレスだ。こんなにも美しい服を着せてもらえる人形は、幸せだね』<br>  <br> 絶賛しながら、温かく大きな手で、彼女の頭を愛おしげに撫でてくれた人……<br>  <br>  <br> 「……あぁ。逢いたい…………お父様」<br>  <br>  <br> もっと、いろいろな事を教えて欲しい。<br> もっと、飽きるくらいに誉めて欲しい。<br> もっと、温かい胸に抱きしめて欲しい。<br> もっと、もっと、もっと、私だけを――<br>  <br>  <br> 痛みも、我が身を蝕む荊のことも忘れて、彼女が立ち上がったのと、ほぼ同時。<br> 夜の静けさの中、控えめにドアをノックする音が、大きく聞こえた。<br>  <br> 「ご……ごめんください、なのぉ」<br>  <br> なんだか、耳に馴染みのある声。でも、彼女の記憶にはない、女の子の声。<br> 彼女は、この身体の主である娘の記憶を、検索してみた。<br> それこそ瞬く間に、固有名詞が弾きだされた。<br> 雛苺――この娘、使えるかも。ほくそ笑み、彼女は真夜中の珍客に話しかけた。<br>  <br> 「こっち……寝室に。動けないの。お願い……こっちに、来て」<br> 「う、うい! いま行くのよ」<br>  <br> 小走りの足音が、近づいてくる。<br> なんて、おばかさん。飼い慣らされた犬でも、もっと警戒しようものを。<br> 彼女は壁際に身を隠して、笑みを噛み殺した。<br>  <br> 「きら――」<br>  <br> 小柄な体躯が踏み込んできた刹那、彼女は獲物を捕らえる獣のように飛びかかり、<br> 悲鳴をあげる間も与えず、床にしたたか叩きつけた。<br> だけでなく、娘の背中を両膝で踏みつけて、抑えつける。<br> カエルを踏みつぶしたような声が聞こえたけれど、キニシナイ。<br>  <br> 「うっふふふふ……。よく来てくれたわぁ、おちびさん。<br>  私ね、あなたに頼みがあるの。聞いてくれるぅ? 聞き入れてくれるわよねぇ?」<br>  <br> 言って、彼女は髪を鷲掴み、お間抜けな娘の顔を、血だまりに押しつけた。<br>  <br> その段になって漸く、雛苺は気づいた。目の前に、とんでもない光景が広がっていることに。<br> ――なに、これ? そこから先は、考えられない。頭が、状況の把握を拒絶していた。<br> けれど、雛苺の意に反して、身体は素直に、生理的な嫌悪感を表してしまう。<br> ごぽり……喉が鳴って、可愛らしい唇は、濁った呻きと苦い液体を迸らせた。<br> 血と吐瀉物に顔を汚され、雛苺は殺されるかもしれない恐怖におののき、啜り泣くことしかできなかった。<br>  <br>   ~  ~  ~<br>  <br> 白樺の十字架に掛けたランプが、ふたつの人影を、仄かに浮かび上がらせる。<br> スコップを扱うのは雛苺。その仕事ぶりを、彼女は冷たい眼で見張っていた。<br> 雨を吸った土は軟らかく、しかも、ここ最近、埋め戻した痕跡もあって、<br> 女の子の細腕でも、大した苦もなく朽ちかけた柩の全容を掘り出していた。<br> 柩の蓋には、ぽっかりと穴が穿たれている。人が潜り抜けるに充分な径だ。<br>  <br> 「早く開けなさい。グズは嫌いよ」<br>  <br> 彼女は含み笑いながら、胸元に抱いていた槐の頸に頬ずりをした。<br> 雛苺の戦慄く腕が伸ばされ、震える指が、柩の蓋に掛かる。<br> ――逡巡。死体なんか見たくない。と言って、彼女の命令に逆らう勇気もなく……<br> ギュッと目を閉じて、少しずつ蓋をずらし、そのまま柩の横に落とした。<br>  <br> 「……まぁあ」<br>  <br> 頭上から降ってくる彼女の溜息に、雛苺も、怖々と瞼を開く。<br> 蓋の裏には、無数の引っ掻き傷と、幾つもの茶褐色のカケラ――剥がれた爪が食い込み、<br> 柩の中では、夥しい量の黒い荊が枯れることなく、ひしめき合っていた。<br> パンドラの箱には『希望』だけが残っていたけれど、ここには『絶望』しか残っていない。<br>  <br> 「そう。そう言うコトなのねぇ」<br>  <br> 傷口から這い出ようとする荊を、鬱陶しげに腹腔内に押し戻して、彼女は独りごちた。<br> あの黒い荊は元々、この柩の主に手向けられた、普通の薔薇だったに違いない。<br> それが、エーテル・クリスタルによって腐敗を免れていた骸に根を張り、<br> 養分を吸い上げるうちに、同化してしまったのだろう。<br> 樹液を血に換え、色素を闇色に染めた荊は、いわば、ガン細胞のような突然変異体。<br> その切除によって、どんな影響が出るかなど、当の彼女にも分かるはずがなかった。<br>  <br> 分離は難しい……。だからと言って、共存なんて、まっぴら。<br> ならば、別の手段に訴える他ない。<br> 槐の頸を柩に投げ捨てて、彼女は素っ気なく言った。「埋めちゃって。全部」<br>  <br> 雛苺は、吐き気を堪えて涙ぐみながら、黙々と、かつて人間だったモノを柩に放り込む。<br> ブツ切りにされた手足や、バケツに入れた臓物を、生ゴミのように。<br> 弔うと言うよりは、片づけていると表すほうが、的確と思える風情だった。<br> 黒荊の群は、久々の肥料に嬉々としてうねり、槐の亡骸を呑み込んでいく。<br> 小骨や肉を挽き砕く音が漏れ聞こえて、雛苺は我慢できずに、棺の中に胃液を吐いた。<br>  <br> 「……あと一人くらい、入りそうね」<br>  <br> 夜闇に溶かされた彼女の笑みに、雛苺は気づいていなかった。<br>  <br>  <br></p> <hr>  <br>  <br>   第十四話 終<br>  <br>  <br>  【3行予告?!】<br>  <br> 谷間の百合、踏みつけても。あなたの場所に向かうため――<br> どうしてなの? 訊きたい。でも、訊けば未来が閉ざされそうで、恐い。<br> だから、ヒナは何でもするの。生き延びて、もう一度コリンヌお嬢様に逢うために。<br>  <br> 次回、第十五話 『All along』<br>  <br>  
<div class="main_body"> <p align="left"> <br />  <br /> 鼓膜が痛むほどの静寂に、戸惑いを滲ませた乙女の吐息が、解き放たれる。<br /> それは、埃のように薄く鼻先を覆っていた冷気を、綿毛のごとく吹き飛ばして、<br /> 入れ替わりに、奇妙な臭いのする蒸気を、ベッドの下から引き連れてきた。<br /><br /> ――なんて重たい闇。圧倒的なまでの量感に、押し潰されそうになる。<br /> 『彼女』は深く息を吸い込んで、大きく揺れていたココロを鎮めた。<br /> それにしても、何年ぶりだろう。息を吸い、ニオイを感じながら、肺を膨らませるのは。<br /> こんな風に、肌で空気の重みを知るのは。<br /><br /> 夢などではない。『彼女』は横たわったまま、指だけを動かしてみた。<br /> それから肘を曲げ、腕を上げて――ふわっと、頬を指先で撫でてみる。<br /> 多少ぎこちなくはあるが、概ね思いどおりに動かせて、じわぁ……っと充足感に満ちてくる。<br /> けれど……些細なことで気をよくしたところで、『彼女』の頬が緩むことはなかった。<br /><br /> 下腹部と右眼窩に、激痛と熱を感じた。臓腑を弄ばれているような、不快な疼きも。<br /> いったい、この不快感を生み出しているのは、なに?<br /> 気持ち悪さの元凶をイライラと探っていた手が、不意に、ぬるりと滑る。<br /> そして……吸い込まれるように、『彼女』の指は、生暖かく濡れた裂け目へと呑み込まれた。<br /><br /> ぬるり。ぬらり。<br /> 肌の下で蠢いていた何かが、二の腕に絡みついてくる。<br /> 子犬がじゃれて甘噛みするみたいに、無数の突起が、肌を撫で、這い回っている。<br /> はたと、『彼女』は黒い荊の存在を思い出した。<br /><br /> 「……くっ」<br /><br /> 汚らわしい。腕を払うと、ぞるり……。荊は、裂け目の奥へと引っ込んだ。<br /> こんな――自分の体内に、得体の知れないバケモノが棲みついているなんて。<br /> その事実は、乙女の潔癖を刺激して、猛烈な拒絶反応を引き起こさせた。<br /><br /> 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。<br /> 自己免疫にも似た強迫観念が、『彼女』の胸中で限度なく生みだされ、行動を促していた。<br />  <br />  <br />  <br />   第十四話 『Someday,someplace』<br />  <br />  <br />  <br /> ベッドの下に、槐が握っていたナイフが、転がっているはずだ。彼の腕ごと。<br /> あれで荊を寸刻みにして、暖炉に放り込んでやったら、さぞかし気分も晴れよう。<br /> そんな想像をしながら、『彼女』は半身を起こそうとする。<br /> ……が、端正な顔は3秒と経たず、思うに任せぬ苦渋で埋め尽くされた。<br /> 腹の傷から間断なく駆け上がってくる激痛に抗うだけで、体力の殆どを消耗したようだ。<br /><br /> それでも、異物を排除したい欲求は、抑えようがない。<br /> 『彼女』はイモムシのように身をくねらせ、ベッドの端まで行き、そのまま転げ落ちた。<br /> びちゃ……。床に散らばる肉塊と、臓物と、血腥い液体が、『彼女』を迎え入れる。<br /> まだ温かい鮮血からは、仄かに湯気が昇っていた。<br /><br /> 腹の傷を手で塞ぎながら、闇色の絨毯に這い蹲って、もう一方の腕を動かし始める。<br /> ぴちゃ……ぴちゃ……。前に進もうと血だまりを掻くのだが、掌が滑って進めない。<br /> 程なく、『彼女』は疲れ果てて腕を止め、穢れた泉に横臥した。<br /><br /> 「――あ」<br /><br /> 途端、見開かれた双眸に捉えられ、『彼女』は息を呑んだ。<br /> ベッドの下から――あらん限りの苦悶と未練を刻み込んだ槐の頸が、『彼女』を見据えていた。<br /> 工房から漏れてくる光に浮かぶ、虚ろながら、不自然に透明感を湛えた瞳――<br /> ふと、『彼女』の脳裏に、いつかどこかで見たドールアイの色カタチが甦った。<br />  <br />  <br />   『目は心の鏡――とは、つまり、目によって心が育まれる……とも言えるだろう。<br />    では、この一点の曇りもない作り物の瞳に、一切の意志の介在なく世界を映すのであれば、<br />    そこに、より純粋かつ高潔な魂――至高の輝きは、培われるのだろうか』<br />  <br />  <br /> きっと、おばかさんしか育たないわ。『彼女』はあの時、深く考えもせずに、そう答えた。<br /> なぜならば、コトの善悪を規定すること自体、既に誰かの意志を介在しているのだから。<br /> 善悪とは、集団生活における倫理であり、遵守されるべきもの。<br /> それを蔑ろにすれば、有形無形の害を為す存在となることくらい、火を見るより明らかだ。<br /><br /> あの、独り言とも、師弟が交わす問答ともとれる話を聞かされたのは――<br /> ――そう。何日も苦心して、やっと縫い上げた人形用ドレスを、見せに行ったとき。<br />  <br />  <br />   『素晴らしいドレスだ。こんなにも美しい服を着せてもらえる人形は、幸せだね』<br />  <br />  <br /> 絶賛しながら、温かく大きな手で、『彼女』の頭を愛おしげに撫でてくれた人……。<br /><br /><br /> 「……あぁ。逢いたい…………お父様」<br />  <br />  <br /> もっと、いろいろな事を教えて欲しい。<br /> もっと、飽きるくらいに誉めて欲しい。<br /> もっと、温かい胸に抱きしめて欲しい。<br /> もっと、もっと、もっと、私だけを――<br />  <br />  <br /> 痛みも、我が身を蝕む荊のことも忘れて、『彼女』が立ち上がったのと、ほぼ同時。<br /> 夜の静けさの中、控えめにドアをノックする音が、大きく聞こえた。<br /><br /> 「ご……ごめんください、なのぉ」<br /><br /> なんだか、耳に馴染みのある声。でも、『彼女』の記憶にはない、女の子の声。<br /> 『彼女』は、この身体の主である娘の記憶を、検索してみた。<br /> それこそ瞬く間に、固有名詞が弾きだされてきた。<br /> 雛苺――この娘、使えるかも。ほくそ笑み、『彼女』は真夜中の珍客に話しかけた。<br /><br /> 「こっちよ……寝室に。動けないのぉ。お願い……こっちに、来てぇ」<br /> 「う、うい! いま行くのよー!」<br /><br /> 小走りの足音が、近づいてくる。<br /> なんて、おバカさん。飼い慣らされた犬でも、もっと警戒しようものを。<br /> 『彼女』は壁際に身を隠して、笑みを噛み殺した。<br /><br /> 「きら――」<br /><br /> 小柄な体躯が踏み込んできた刹那、『彼女』は獲物を捕らえる獣のように飛びかかり、<br /> 悲鳴をあげる間も与えず、床にしたたか叩きつけた。<br /> だけでなく、娘の背中を両膝で踏みつけて、抑えつける。<br /> カエルを踏みつぶしたような声が聞こえたけれど、キニシナイ。<br /><br /> 「うっふふふふ……。よく来てくれたわぁ、おちびさん。<br />  私ね、あなたに頼みがあるの。聞いてくれるぅ? 聞き入れてくれるわよねぇ?」<br /><br /> 言って、『彼女』は娘の髪を鷲掴み、その困惑しきった顔を血だまりに擦りつけた。<br /> その段になって漸く、雛苺は気づいた。<br /> 目の前に、とんでもない光景が広がっていることに。<br /><br /> ――なに、これ?<br /> そこから先は、考えられない。頭が、状況を把握することを拒絶していた。<br /> けれど、雛苺の意に反して、身体は素直に、生理的な嫌悪感を表してしまう。<br /> ごぽり……。喉が鳴って、可愛らしい唇は、濁った呻きと苦い液体を迸らせた。<br /> 血と吐瀉物に顔を汚され、雛苺は殺されるかもしれない恐怖におののき、啜り泣くことしかできなかった。<br />  <br />  <br />   ~  ~  ~<br />  <br />  <br /> 苔生し、腐りかけた白樺の十字架。<br /> そこに掛けたランプが、ふたつの人影を、仄かに浮かび上がらせる。<br /> スコップを扱うのは雛苺。その仕事ぶりを、『彼女』は冷たい眼で見張っていた。<br /><br /> 雨を吸った土は軟らかく、しかも、ここ最近、埋め戻した痕跡もあって、<br /> 女の子の細腕でも、大した苦もなく、朽ちかけた柩の全容を掘り出していた。<br /> 柩の蓋には、ぽっかりと穴が穿たれている。人が潜り抜けるに充分すぎる径だ。<br /><br /> 「早く開けなさぁい。グズは嫌いよ」<br /><br /> 『彼女』は含み笑いながら、胸元に抱いていた槐の頸に頬ずりをした。<br /> 雛苺の戦慄く腕が伸ばされ、震える指が、柩の蓋に掛かる。<br /> ――逡巡。死体なんか見たくない。と言って、『彼女』の命令に逆らう勇気もなく……<br /> ギュッと目を閉じて、少しずつ蓋をずらし、そのまま柩の横に落とした。<br /><br /> 「……まぁあ」<br /><br /> 頭上から降ってくる『彼女』の溜息に、雛苺も、怖々と瞼を開く。<br /> 蓋の裏には、無数の引っ掻き傷と、幾つもの黄褐色のカケラ――剥がれた爪が食い込み、<br /> 柩の中では、夥しい量の黒い荊が枯れることなく、ひしめき合っていた。<br /> パンドラの箱には『希望』だけが残っていたけれど、ここには『絶望』しか残っていない。<br /><br /> 「そう。そう言うコトなのねぇ」<br /><br /> 傷口から這い出ようとする荊を、鬱陶しげに腹腔内に押し戻して、『彼女』は独りごちた。<br /> あの黒い荊は元々、この柩の主に手向けられた、普通の薔薇だったに違いない。<br /> それが、エーテル・クリスタルによって腐敗を免れていた骸に根を張り、<br /> 養分を吸い上げるうちに、同化してしまったのだろう。<br /><br /> 樹液を血に換え、色素を闇色に染めた荊は、いわば、ガン細胞のような突然変異体。<br /> その切除によって、どんな影響が出るかなど、当の彼女にも分かるはずがなかった。<br /><br /> 分離は難しい……。だからと言って、共存なんて、まっぴら。<br /> ならば、別の手段に訴える他ない。<br /> 槐の頸を「あげる」と、柩に投げ入れて、『彼女』は素っ気なく言った。<br /><br /> 「埋めちゃって。ぜぇんぶ」<br /><br /> 雛苺は、吐き気を堪えて涙ぐみながら、黙々と、かつて人間だったモノを柩に放り込んだ。<br /> ブツ切りにされた手足や、バケツに入れた臓物を、生ゴミのように。<br /> 弔うと言うよりは、片づけていると表すほうが、的確と思える風情だった。<br /><br /> 黒荊の群は、久々の肥料に嬉々としてうねり、槐の亡骸を呑み込んでいく。<br /> 小骨や肉を挽き砕く音が漏れ聞こえて、雛苺は我慢できずに、棺の中に胃液を吐いた。<br /><br /><br /> 「……あと一人くらい、入りそうねぇ」<br /><br /> 夜闇に溶かされた『彼女』の笑みに、雛苺は気づいていなかった。<br />  <br />  </p> <hr />  <br />  <br />   第十四話 終<br />  <br />  <br />  【3行予告?!】<br />  <br /> 谷間の百合、踏みつけても。あなたの場所に向かうため――<br /> どうしてなの? 訊きたい。でも、訊けば未来が閉ざされそうで、恐い。<br /> だから、ヒナは何でもするの。生き延びて、もう一度コリンヌお嬢様に逢うために。<br />  <br /> 次回、第十五話 『All along』<br />  <br />  </div>

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