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「【明け空のノート】」(2008/01/09 (水) 00:38:04) の最新版変更点
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ひとつの始まりがあれば、必ず終わりがある。
けれど。
ひとつの終わりの後に、新しい始まりがあるとは限らない。
とても空気がつめたいな、と思う。つめたい空気はとてもきれいで、私はとてもすきだ。そりゃあ、長い間外に出ていれば耳が痛くなってしまうときもあるけれど、両の手に吐き出す息は、いつだってあたたかい。
森に雨が降ったあと、急にこんな、冬のようにつめたくなる日がある。
今の季節はよくわからなくて、きっと森の外に出れば……何かしらの花が咲いているのならば、今の時期がどのようなものか、知ることができるかもしれなかった。
けれど、ここは森の中。ずっと続く晴れの日もなく、いつまでも降り続く雨もない。昨日あがった雨、そして現れたお日さまは、新しい始まりを示すものなのだろうか?
さあ。冷えた空気を吸い込みすぎて、胸の中までつめたくなってしまわないように――もう家に入らなければ。
ただ、この紫に色付いた色を、私はまだ見続けていたかった。この明け方は、私の時間。始まる一日の中で、私はきっと誰よりも早く起きて、誰よりも早く眠ってしまう。
誰。誰、が誰を指しているかを、私は知っているような気がする。
夜は怖い。全てを飲み込むようでいて、先が全く見えないから。
夜は怖い。それは、ひとつの時間を終わらせるような空気を持っているから。
朝は、始まり。まだお日さまも昇っていない今、きっともう少しでそれは顔を覗かせる。それまでの、ほんの僅かの時間。お日さまが地平ぎりぎり、その下に佇んでやすんでいる僅かの時間、空は本当に不思議な色を見せてくれる。
私には、紫色に見える。でも、他のひとが見たら、もっと違う色になるかもしれない。
右眼を、ふと閉じて。十秒も経たないうちに、また眼を開いた。やっぱり、広がる色は変わらない。
一日の内で、多分十五分にも満たないこの時間のうちの十秒を、こうやって消費していくことは、少し勿体無いようにも思う。
けれど、私は確かめずには居られない。
繰り返し、繰り返し、何度見たかわからない空。新しい一日の、始まりである筈の空。
これが、遠い未来、ひょっとしたら今直ぐにでも、終わりを見せる空に変わるかもしれなかった。
それは、勿論私は望まない。
だから、私は確かめたいのだと思う。
何度眼を瞑っても、この短い、不思議な色の空は、この間だけは変わらないものなのだろうと。
また、眼を閉じる。
そうやって視界を消すと、それ以外の感覚が研ぎ澄まされていく。
ぴぃん、と張り詰めた空気。私の肌は、その冷たさを感じ取る。
ひゅっ、と吸い込んだ息が、私の口の中を冷やす。
花の匂い。冬のように冷たくても、その香りは、私に届く。
がさり。
これは森の木を、掻き分ける音。
がさり。
これは地面にある草を、踏みしめる音。
やあ。
私に、話しかける声。
眼を、開ける。
上を見なくたって、この辺りの木々はちょっと背が低いから、見渡すことが出来る。
色はやっぱり変わっていなくて、だけどいつもは何もない筈の空間に、今日は誰かが立っていた。
「……おはよう。――今日は、寒いね」
声を出す。
それが私の、今日という一日の、はじまり。
【明け空のノート】
ほう。
息を、漏らす。
存分に冷やされていたからだは、彼が淹れてくれた紅茶で温まっていった。
「……おいしいよ。ありがとう、ジュン」
「どういたしまして」
地図を見ながら、森を彷徨い。そして此処へ辿り着いた、あなた。
「や、こちらこそ助かったよ。急に寒くなったもんだから、凍えるところだった」
「明け方の森も、やっぱりつめたい?」
「そうだな。昼間とはまた、空気の質がかなり違う。道も大分変わったみたいだよ、あそこは」
――本当に、不思議な森だ。
あなたは、どこか遠い眼をしながら呟く。その眼には、何が、何が映っているのだろう?
きっとあなたはそれを語らないから、私にはそれを知る術がない。
「……明け方の地図を、私は持ってないの」
だから、あなたにそれを渡すことが出来ない。森の中で、樹々の隙間を縫ったようにあるこの場所。家、は守られている。
私は確かに森の住人で、けれど私は、森を彷徨う役割を負わない。
ただ、此処にいる。私はずっと、いつまでも、明け方の新しい色をした空を、見続けている。
「大丈夫。今までだって、なんとかなったんだから。気を遣わせちゃって、申し訳ないくらいだ」
バツが悪い風な表情を浮かべるあなた。
あなたは、そうやって歩き続ける。
私が明け方の空を見続けているのと同じ様に。
ずっと、ずっと。
「ジュン」
「どうした?」
「……お話を、しよう」
「話、か。そんなの、付き合えるまで付き合うさ」
他愛の無い、話をしよう。私が、あなたが、ここに居る。それだけでいい。
それが、こんなぽつぽつとした、たどたどしい会話で確かめられるなら、どんなに幸せなことだろうか。
「……そういえばね。家の周りに、また新しい花が咲いてたんだ……」
「花か。花は、いいな。そこにあるだけで、芳しい。どんな感じだった?」
「冬みたいにつめたい空気が続いたから……お花が勘違いしたんだね。ミスミソウが、咲いてた……」
「ミスミソウ?」
「うん……雪割りの、花。雪なんか、降ってないのに。白とか紫とか、かわいいお花をつけるの……」
「薔薇水晶に、ぴったりの色じゃないか」
「そう? ……ありがと。でも、私にはやっぱり紫かな……」
白も紫も、私はだいすきな色。どちらも、とても大切。
ただ、白、というその色に、真に似合っているのは、私ではない。
それは、この不思議な森の、本当の色を表すものだから。
「そうだな。ちょっとその花を、見てみたいな。近くに在るんだろう?」
「うん、でも……お外は、さむいよ……?」
「薔薇水晶が嫌なら、無理は言わないけど」
「……むぅ」
その言い方は、ずるいんだ。相手に答えを委ねるという、やりかた。私がここでわぁわぁ言っても仕方がないので、口をつぐむわけだけれど。
――――
もう、空に不思議な色は広がっていない。ひかりの溢れる、眩しい朝が、もう少しで森を包む。
「空気が、とてもきれいだ」
「うん……」
清々しい。さっき外に出ていた時とはまた違ったつめたさが、私の頬に触れている。
「ほら、そこ……」
「お、これかあ」
本当に家から出てすぐの一角に、ミスミソウは咲いている。
雪割りの花と呼ばれる位なのだから、もしこの花たちが雪の白色に包まれていたならば、さぞ映えるだろうにとも思う。
「少し、いただこうか」
「……いただく?」
「うん。森の恵みだから、ちょっと貰ってもバチはあたらないかと」
そう言ってあなたは、花を何本か、摘んだ。
左ポケットから紐を取り出して、器用に花を結いつけていく。
「――と。これで、できた」
「……これ……」
「髪留め。その髪には、きっとこういう花が似合うんだと思う」
あなたは私の髪に触れ、それを結んでくれた。
「……えへへ。似合う?」
「我ながら、上出来」
微笑むあなた。私もきっと今、笑みが零れている。
ああ、でも。朝日が眩しくて。私の右眼には、ちゃんと映らないの――
眼を閉じた。また開いても、きっとあなたは其処にいる。けれど、きっと居なくなる。
あなたはずっと、歩き続けるのだから。
ひとつ、留まることも覚えず。ずっと、ずっと。
眼を開けて直ぐ、あなたを見ずに、空を見上げた。
今日はきっと、いいお天気。けれど私は、お日さまが高くなりすぎる前に、眠ってしまう。
この森が、奪うから。私はもう森に呑まれているし、ここを離れる気も、もう起きない。
きっといつかあなたが、この森で。ひとつの、新しい答えを見つけたならば――
その時、いつか私は……
「ありがとう、ジュン……これ、大事にするよ」
「どういたしまして」
森で摘まれたいのちは、永遠になる。
だからきっと、この髪飾りは、このまま枯れず、いつまでも私の髪に留まることだろう。
それを花が、花自身が、喜ぶかどうかはわからないけれど。
今、森から、いのちを奪った。
それを、留めた。
今度は何を――奪われるだろう。
森の住人でないあなたは、何を、奪われるだろう。
奪えば、奪われる。
ここは、あたりまえにやさしくて、あたりまえにおそろしいもり。
きっとあなたは……それを知っているんじゃ、なかったの?
「……こうやって、一日が始まるんだね」
「そうだな」
「朝が来て、お日さまが出て、やがて色が変わり、夜がくるの……そうしてまた、空は色を変えるんだね」
「うん」
「ジュンはさ、どう……思う? どうして、一日は、始まるんだと、思う?」
繰り返し、繰り返し。毎日、毎日。
「どうして、か」
あなたは少し、考え込んだようだった。だけどそれも、そんなに長い時間ではない。
「『せかい』」
「……世界?」
「そう。僕たちの『せかい』は、そのように『ある』。きっと、誰かが決めたんだ――そんな存在は、僕たちの与り知らないところに居る、きっと。遠い誰かが、この繰り返しを生み出した」
「……その存在に、私たちは、触れることすら出来ない?」
「どうだろう」
あなたは身体を、ぐぅ、と伸ばしながら言った。
「知らないだけで、すぐ傍に居るのかも。言っただろう? 僕たちは、『与り知らない』のだと。気付かなければ、眼の前にあるものだって、無かったことになってしまう」
「……それは、少しさみしいね」
「そうか?」
「うん。少しさみしくて……少し、かなしい」
何も、無くするということ。私はただ、求めるものが、変わることのない日々が、ただあればよかった。けれどそこで、もしも私が気付けない何かが、もう私の眼の前にあったとしたら。
私は何も気付かず、――
「忘れる、ことと、少し似てるかも」
「え……?」
「僕はこうやって、長いこと歩き続けてきた気もするし……実のところ、歩く理由なんて、特に見出してない感じもする」
私はあなたのその物言いに、ひっかかりを覚えない。あなたはあなた自身の理由を、ただ漠然としか捉えていないようにも見えるのに。
けれど、それでいい。
だって、あなたは、『あなた』なのだから。
『あなた』の考えることを、その導き出した答えを、どうやって否定することが出来る?
「……忘れてしまったことは、無かったことになる?」
「ん……」
「さみしくは、ない?」
「そうなったら、さみしい、かもしれないな。けれど無かったことになったら、さみしく思うことも出来ないんだろう」
私は少し、涙が出そうになる。それは、さみしくて、かなしいと、思ったからだ。
どれほど悲しかった出来事があったとして――忘れてしまえば、それすら出来なくなる。
「ただね」
「……え?」
「似てる、と言ったけれど、忘れることと、気付かないことはやっぱり少し違うんだ。覚え続けるのも、忘れてしまうのも。はじめから何も無ければ、出来なかった筈のこと。だから――確かに、『在った』んだよ」
遠い眼。あなたは、確かにあった筈のことを、思っているの?
「世界とは、『そう』であることのすべてである……」
「お。何処かで聞いたような言葉だな」
「さあ……」
「ああ、でも、『そう』なんだな。ここに在ることが、全てだ。わからないことは、語れない。まあ、あれだよ。いくら与り知らないって言っても。この森のことは、森に居る誰かが決めている。不思議な森には、魔法使いが、よく似合う」
魔法使い、か。それは、物語に出てくるような、不思議なひと。
あなたの話を聞きながら、私はひとつのお話を思い出していた。
それは、物語。それは語り継がれ、すべてのひとには知られていなくても、何処かの誰かが――ひっそりと、こころの中に秘めている、お話。だからその物語は、確かにこの世界に、在るの。
あなたの言葉を、私は否定できない。
たとえあなたが、ほんの少し前まで、それと違う考えを持っていたと、しても。
不思議な森の外に、女の子が住んでいました。
不思議な森が、何故不思議であるかを、その女の子は知りませんでした。
知らなければ、そんな不思議も『無い』ことになります。
だから女の子は、ある日足を踏み入れてしまったのです。
絶対に入ってはいけないといわれていた森の中へ。
女の子はそして、迷ってしまい――
「……ジュンはジュンの――物語を描くと、いいよ」
「物語、か。はは、難しそうだな」
「難しくなんか、ない……」
「そうかな」
「……そうだよ」
――迷ってしまい。
女の子は、森に呑まれてしまったのです。
その森の中には。魔法使いが、住んでいました。
……
――――
「……行くの? ジュン」
「ああ。お日さまが高くならない内に、また森に入ろうと思う」
「引き止めてほしい……?」
ちょっと、未練がましく言ってみた。
「どうして」
「どうして、って……」
けれどあなたは、あんまりにも森に入ることが当たり前だと言わんばかりに、言葉を返すから。
私はそれに何も言えなくなってしまう。
ああ、あまり、疑問で返して欲しくはないの。そのやり方は、自分の答えたくなかった答えを、改めて見つめ直さなければならないものだということを知らしめて――それを、強いるものなのだから。
トランクを持ち出して、あなたが花を見に外へ出たときから、わかっていたことなのに。
「地図はないけど――気をつけて、ジュン……」
「平気さ。楽しい時間だった。ありがとう、薔薇水晶」
あなたが私の名前を呼ぶのは……今度はいつに、なるのだろう。
「ジュン――ジュンは……あなたの物語を、綴ってね」
「歩いてるだけで済むんなら、いくらでも」
「……うん。それだけで、いいの。森の中で、きっとジュンはまた、誰かと出逢うよ……」
地図はないけれど。
私は懐に忍ばせておいたものを、差し出す。
「もう……いいと思うんだよ。だから、これをあげるね」
「これは――」
これは。私には、もう必要のないもの。
一冊の、ノート。
物語が記された、紫色の表紙の、ノート。不思議な明け空の、不思議な色を映したような。
これはそろそろ、あなたに――
『返さなくちゃ、いけないから……』
聴き取られないような、小さな小さな声で呟きながら。
あなたにノートを、手渡した。
私が、森を歩き。地図を描かなくても良かった、理由。
それが、この一冊の、ノート。
私は、物語を残さなければ、いけなかったから。
これは、鍵。
この森の秘密を明かすための、……
「ジュン」
「ん?」
「また、逢えるかな」
「そうだな。ここを歩いていれば、また辿りつくこともあるかもしれないし」
「……うん。そうだね」
―――
そうして、あなたは行ってしまった。
黒いトランクに、ノートを仕舞いこんで。
不思議な明け方の空が、今はもう見えない。
繰り返し、繰り返し。それがずっと続くなら、きっと明日も、私はそれを見ることができるだろう。
あなたがくれた髪飾りに、そっと手を触れた。
永遠の、いのちになった、花のかたち。
崩れることをしらなくなった、それ。
だけど、力を込めれば、簡単にこわれてしまうの。
だから、私はそれをしない。
眼を、閉じる。
そうやって視界を消すと、それ以外の感覚が研ぎ澄まされていく。
ぴぃん、と張り詰めた空気。私の肌は、その冷たさを感じ取る。
ひゅっ、と吸い込んだ息が、私の口の中を冷やす。
花の匂い。冬のように冷たくても、その香りは、私に届く。
私の、近く。とても近い、ところから。
音が、聴こえた気がした。
今日という一日は、はじまっている。
だからこれは、ひょっとして。
いつもとは違うはじまりの旋律を――奏でているのかもしれないと。
そんなことを考えながら。私はまた、眼を開く。
不思議の森と、きれいなお日さまは。
いつだって、ここに在った。
この世界が、この瞬間だけは、永遠に、在った。
「……今日は少しだけ、長く起きてみようかな……」
誰に呟くでもなく、独りごちる。
眼を開けば。
多分、時を違えて咲いてしまった、雪割りの花が。
どこからともなく吹いた風に当てられ、ゆっくりと揺れ続けている。