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「【夕暮れと夜のノート】」(2008/01/09 (水) 00:36:58) の最新版変更点
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また、雨が降るのかしら。
しばらく晴れていた天気の合間に挟まるような雨が、昨日は降り続いていた。
そして明け方にはそれもやんで、今のところは空はまだ泣いていない。ただ、それが近付いている気配だけがする。
そうなると、もう森の中へは入れない。きっといつもの夕暮れと違い、森はその表情を変えてしまうだろうから。中に入れば、迷ってしまう。森の奥へ、誘われてしまうかもしれない。
ずきん、と、右腕が痛む。
それはそれで、と考えなくもないが、やはり怖い。自分の領域から出るのは、恐ろしいことだ。
「紅茶でも、淹れようかしらね」
珍しく、自分で淹れてみようという気になる。
立ち上がる。静かなこの部屋で、椅子から立ち上がるだけのカタンという音が、やけによく響いた。
それに加えて、あの娘が寝室に繋がるドアを開けた音も。
「真紅……紅茶の時間? 私が準備するわぁ」
「水銀燈。まだ寝ていなくては駄目じゃない」
「大丈夫よぉ。少し調子が良いみたいだし」
「少し、ではいけないわ。無理は効かないでしょう」
「いいの。私が貴女に、紅茶を淹れるの。それは当たり前のこと、当たり前のことよ」
穏やかに彼女は笑う。
私はこの笑顔に弱くて、それを見たあとは、二の句を告げなくなってしまう。
「……お言葉に、甘えるわ。ありがとう、よろしくね」
またひとつ微笑み返して、彼女はキッチンへと向かっていった。
【夕暮れと夜のノート】
「お待たせぇ。はい、どうぞ」
トレイに載っていたものは、ティーカップふたつと、それに似合うお茶請け。
「ありがとう」
口を付ける。
ほ……と、吐き出した息は、温かかった。これは彼女が、彼に教えて貰った味。淹れる実践の技量として、授かったもの。
「美味しいわ」
「本当? ふふ……嬉しい」
彼女の柔和な笑みは、私の心を落ち着かせる。
この表情は、私にとっては、まだ懐かしいものだ。
つい昨日、彼女が夜の森に入るまでは。久しくこの笑顔を見ることなど、無かったのだから。
「ねぇ、水銀燈」
「なぁに? 真紅」
「……」
言いかけた言葉を、止める。彼女は私の意図が読める筈もなく、きょとんとした表情を浮かべている。
「いえ、何でも無いわ。ごめんなさいね」
お茶請けの木の実のタルトを、口に含む。夕飯の後に、元の大きさで食べるには少し重たいものだという配慮を受けてか、一口サイズに切り取られている。彼女は、そういった些細なところにまで気の利く娘だ。
「このタルト、美味しいわね」
「そうねぇ……彼にも、感謝しなくっちゃねぇ。大分残り少なくなってきたけど」
彼。彼がこの家を訪れたのは、昨日の夜のことだった。
―――
雨。
夜の森に入った彼女は、帰ってこない。
森が表情を変えてしまった――迷ったりはしていないだろうか。ひょっとしたら、奥に入りすぎて――
ならば、探しに行くべきだ。彼女が写し描きしてくれた夜の地図が、手元にある。
『お互いが帰ってこないようでも――決してそれを、追わないこと。いいわよねぇ? 真紅』
ふたりの内のひとりが居なくなるなら。残ったひとりが、この領域に留まらなければならない。
私達の家のある一帯、森の近くにある場所を。
だから彼女は、夜の地図を残しておいた。万が一、私が独りになってしまったときの為に。
ドンドン、と。玄関のドアを叩く音が、響く。
「……水銀燈?」
彼女が帰ってきたのなら、こんな風にドアを叩いたりはしない筈だった。
私達は互いに留守番をするとき、入り口に鍵をかける。だから、出かける場合は鍵を持っていく。
「誰?」
ドンドン、ドンドン。ドアを叩く音はやまない。
森、から。夜の森から、何者かがやってきた。
もし、そうであったなら――私はドアを、開けない訳には、いかなかった。
意を決し、鍵を開ける。
「きゃっ!?」
どさり、と。外に向かって開いたドアの隙間から、倒れこむ影は二人分。
「水銀燈……!」
どうやら、彼女はもう独り――丁度水銀燈に押し潰されたかたちになっている――の背を借りながら、ここまで辿り着いたようだ。
ひょこ、と、うつ伏せから顔を上げた彼が言う。
「やあ……良かったよ、開けて貰えて。ここが彼女の家なんだろう? それで、君はその、同居人だ」
「そうよ。一体、これはどういう訳かしら」
「うん、えっと、まあ。とりあえず話をするのは、彼女をどこかに横にしてからがありがたいかな」
ちょっと重い。そんなことを嘯く彼だ。
「じゃあ、そうしようかしらね。ああ、ただ」
「ん?」
「レディに『重い』だなんて、間違っても口にしては駄目。失礼よ?」
―――
テーブルで向かい合わせに座って、ふたり。
「と、まあ。何とか彼女から渡された地図を見ながら、辿り着いた訳。彼女――水銀燈、か。ここに着くちょっと前くらいに、眠ってしまった。よほど疲れていたんだろう」
「そう……」
彼――ジュンが言うに、水銀燈は、森の奥で座り込み、小雨に打たれながら泣いていたのだという。
かなしい、かなしい。みんな、消えていくんだわ――
呟く彼女を見つけ、彼が近寄る。
彼はお日さまの香りを持つ傘を持っていたから、空の涙に『あてられず』に済んだ。表情を変えた森からも、それは彼を守ってくれたことだろう。
「雨は、やんだようね」
「うん。大分小降りだったし」
「……紅茶、美味しいわ。ありがとう」
「どういたしまして」
『貴方、紅茶の淹れ方はわかるでしょう? 水銀燈を助けてくれたことにはお礼を言うわ。けど、私を驚かせたことは、また別の話よ』
私の不遜な物言いに、彼は苦笑いを浮かべるばかりだった。
ただ、どうしても――彼の淹れた紅茶が飲みたかった。それだけ。
夕暮れの時間だけ、標を辿って見つけることが出来る紅茶の葉。それを使って淹れた紅茶は、私も水銀燈も大好きなもの。つまりは、とっておき。
「暫く、彼女は寝かせておきましょう。訊きたいことは沢山あるけれど――兎に角、戻ってきてくれてよかった、本当に。それにしても、天使みたいに穏やかな寝顔ね……」
ソファに横になっている彼女の髪を、そっと撫ぜる。起きてる時と言ったら、彼女は私を色々挑発してくる――主に身体的な特徴だのなんだの――けど、根はとても優しいということを私は知っている。
これで口がもう少し良ければ、今の三割増し位には穏やかな生活を送れそうなものなのだけれど。
昔は、もっともっと昔は、根は勿論のこと、彼女は表面から素直な娘だった。
だけど、夜の地図を描かなければならなかったから、その為に森へ入って――少しずつ、彼女は変わっていった。ここには私達ふたりしか居ないというのに。いや、だからこそ彼女は、強くならなければならなかった――それは普段から彼女の言葉の節々より、感じ取っていたこと。
私を独り、残さない為。かつて私が、彼女を守る為、そうしていたのと同じように。
「ん……」
「あ――ごめんなさい、起こしてしまったわね。大丈夫? 水銀燈……」
「……真紅? 真紅なのね?」
「そうよ。私はここに居るわ。ここは、私達の家」
「うぅ、――」
「えっ?」
一瞬、何をされたのかわからなかった。彼女は私に抱きついて、ぽろぽろと涙を零していた。
「真紅……きえちゃうの。きえちゃうのよぉ……かなしい、かなしいわ」
「水銀燈……」
大丈夫、大丈夫だから、と。肩を震わせる彼女を抱きしめて、その背中を撫で続けていた。
―――
夜の森、に飲み込まれた。
彼女は暫く泣き続けていて、やっとのことで落ち着いた。
「ありがとう、ジュン。ああ――この紅茶、とても美味しい。淹れるのがとても上手なのね」
「どういたしまして。身体の方は、なんともないか?」
「そうねぇ……まだ動くとちょっと辛いけど。それでもこうして、紅茶を飲んでいられるから……」
そう言う彼女からは、いつものような険しい表情は見られなくて、穏やかに眼を閉じながら紅茶の余韻に浸っていた。
涙は、暫く見たことがなかった。
私が夕暮れの森で一度酷い怪我をして、命からがら戻ってきたあの日から。彼女は一度も、涙を零したことなどない。
右腕の古傷は、今もたまに痛む。森に飲まれそうになったことを、思い出して。
そして今は――今度は彼女が、もう飲み込まれてしまった。
きっと夜の森と、空の涙が。彼女の、強くあろうとした心を、奪っていった。
今眼の前で紅茶を飲んでいる彼女は。純真で無垢な、弱々しい水銀燈だ――
「ねえ、ジュン」
「どうした?」
「私に、紅茶の淹れ方を教えて欲しいの。私でも上手く、淹れられるかしら」
「それは構わないけど」
今までも彼女に淹れて貰っていたけど、その味について、私は特に口を出したことがない。
「満足……って訳じゃないんだけど。知識もあった方が、いいかなって思うのよぉ。ジュンはそういうこと、知ってそうだし。真紅にもっと、美味しい紅茶を飲ませてあげたいの」
あらあら。知識だけなら、多分私は彼に負けることは無いんだけど……今の素直な彼女はそれを知ることも無く、単純に私を思いやって言葉を発している。
それを受けた彼は、ちらりとこちらを見やりながら言う。
「ま、あれか。知識と実践が伴わないことって、たまにあることらしい」
「……どういう意味かしら? ジュン」
と、ここまで返すのが精一杯。
「えぇと、ごめんねぇ、真紅」
「いいわよ。その位気を遣える元気があるなら、大丈夫そうね」
―――
葉の選び方と、蒸らす時間と――彼から手解きを受けて、前に比べると随分と香り立つ紅茶を淹れられるようになっていた。ただお湯を注げば良いというものでもない。
私が今まで彼女の淹れてくれた紅茶に文句のひとつも言わなかったのは、決して彼女は、私に対してぞんざいな塩梅で紅茶を用意している訳ではなかったからだ。
まあ……でも。その思いやりに技術的なものが加われば、より幸せなティータイムを楽しめるようになることには違いない。
彼の持っていたタルトを切り出して(夜中にお菓子を食べる弊害についてはちょっと眼をつむることにした)、ささやかなお茶会を開いた。
水銀燈は、何かしらに満足したのか、部屋へ戻って眠ってしまった。
なんだかんだ言って、相当疲弊している様子だったから――起き続けるのにも、限界が来たのかもしれない。かく言う私も、少し眠い。
「ジュン」
「うん?」
「夜の森は、とても深いのかしらね」
「……どうだろう」
「あの娘は、ひょっとして見つけたのかしら。途方もなく深い森を、かたち作る何かを」
そして、夜の森へ入る強さを、奪われてしまった。
再び彼女が、あそこへ行くことは、この先あるのだろうか?
「……ジュン」
「どうした?」
「貴方は、紅茶を淹れるのが、とても上手ね。誰かに教えて貰ったの?」
「さぁ……美味しく淹れようと思うと、自然とああなるのかもしれないし」
よくわからないよ、と。彼は静かに笑って言う。
「そう……」
眼を閉じる。そうして浮かぶのは、今までここで暮らしてきた日々のこと。
「自然に身についているのは、きっと覚えていることなのね。記憶――そう、記憶。思い出すことと、忘れること。きっとどちらも、同じくらいに大切なのかもしれないわ」
「どういうこと?」
「バランスが大切なの。ふたりが居て、どちらかが覚えていて、どちらかが忘れてしまう――」
水銀燈が、私が、お互いの為に強くあろうとしたこと、や――
「そんな状況になったら。どちらかが置き去りになってしまうじゃない」
「置き去り……?」
「そうよ。記憶は、大きな川の流れのようなものだから。覚え続けていれば、その川の流れの、何処まで流されるかわからない。忘れれば、ぽつんとひとり、水に浮かんでいるだけ」
「そうすれば――ふたりは一緒に居ても、同じ場所に留まれない。ねえ、そうでしょう?」
彼は少しの間、黙り込む。
沈黙が続いてから、やがて彼は口を開いた。
「それでも……過ごした日々は、無くならない。全部無かったことにするのは、さみしいだろう? 忘れても、覚えていても――それでも観念は続いて、魂は残るじゃないか」
何となく、だけどね。
そう言いながら、紅茶に口をつけていた。
「そうね――あなたはやさしい考え方をするわ。ごめんなさいね、変なことを言ってしまって」
「や、気にしないで。本当に、なんとなくだから」
「いいの。さあ、もう寝ましょう。毛布は用意するけど、寝床はそのソファ位しか――」
「十分だよ。ありがとう」
――――
そうして、真夜中。夜はまだ、続いている。
部屋の向こうから、音がして――寝つきの悪かった私にとって、それは少し予想のついていたことで――寝室を出て、居間へ向かう。
「あ、起こしちゃったか、悪い」
「――行くのね?」
「うん。夜が明ける前に、出ようかと思って。今なら雨も降っていないし」
「じゃあ……これを持って行きなさい。夕暮れと、夜の地図」
私と水銀燈のノートを破りとり、彼に渡す。
元々書き写していたものもあったけれど、なるべく新しいものの方が良いだろう。
「いくら貴方が標を辿るといっても、地図はやっぱりあった方がいいわ。それもいつまで、役に立つかはわからないけれど」
「いや、ありがとう。助かるよ。あのタルトは……ふたりで食べてよ」
「そうするわ……ねえ、」
「ん?」
もう既に出口のドアに手をかける彼を、呼び止める。
「貴方が森の、どこを目指しているかはわからないけど……いつかきっと、また戻ってきてくれるかしら」
遠い日。怪我をした私を、ここまで運んでくれた貴方。
私の紅茶の淹れ方を、学んでいった貴方。
それを忘れて、ずっと歩き続けている、貴方。
「またここで、美味しい紅茶を、淹れて頂戴」
ちょっと困ったような風に微笑んで、彼は言った。
「約束は、あんまりしないようにしてるから――期待はしないで。けどまた、縁があったら」
―――――
時計の無い部屋でも、時間はなんとなくわかる。
「また、夜が来るわね」
「そうねぇ……雨が降らなければいいけど」
「彼は傘を持っているわ。きっと大丈夫よ」
彼女がノートを広げ、何かを書き付けていた。
「それは何かしら?」
「昨日は寝ちゃったから……日記を書こうと思って。ジュンに、紅茶の淹れ方を教えて貰ったでしょう? 大切なことだから、忘れないように書いておくわぁ」
一部が切り取られたノートの続きを、彼女が繋ぐ。
もうそれに、彼女が元々記していた夜の地図のページは、無い。
いつかはまた、夜の森へ入らなければならないだろう。
でも、暫くの間は。
こうやって穏やかな日々を送っていこう。
「そうね。それはとても、大切なこと……」
観念が続き、魂が残る限り。
これは、今はもう、貴方の言葉。
ひとつの日常を壊さないように。
確かにそれは紡がれていて、確かに在るものだから。
私達は――待っていれば、いいのだ。
静かに、静かに。
窓の外、覆われた雲の隙間から。一際紅い夕陽が、森を照らしていた。