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【お日さまのノート】」(2008/01/09 (水) 00:35:53) の最新版変更点

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    この空気が、とてもすきだ。  私はこんな雰囲気を、太陽のにおいに包まれたものとして捉えている。  住んでいる場所から少し離れた場所には、澄んだ小川に水がさらさらと流れていて。  その水面は、差し込む陽が反射して、そのゆらめきに光を映し続けていた。  小川は森の間を縫うようにして続いていた。もし私が小さな葉っぱの船を作って、ここに流したとしても。その船が、一体何処にたどり着くのかを私は知らない。  この細い水の尾は、何処かで行き止まってしまうのか、それとも。  森の中で、ちょっとだけ開けた場所。その真ん中に、私の家はある。  そこへと戻る途中、私はまた、新しい標を見つけた。とりもあえず、バッグからノートを取り出し、その標の位置を記しておいた。  こうやって書き残しておかなければ、忘れてしまう。  私は自分の記憶力に関して、相当の自信をもっていた。例えば、今まで何に挑戦したか、そういった回数の類は、無駄に覚えているタイプ。  けれど、実のところ――大事なことを忘れて、肝心なところでドジを踏む。そんなおっちょこちょいな自分を自覚したのは、一体いつだったのだろう。  覚えているわ。それを忘れては、いけないもの。だって私は、この森の住人なのだから。  ここは、不思議な森。  地図を持っていなくても大分歩けるようになっていたけど、この森は、どうも時間によってその表情を変える。  今だって、あの標をかつて見たことは無かった様に思う。私の視界に入らなかっただけなのかもしれないけれど。  そして、また気付く。  私のすきなにおい、太陽のにおいが、薄らいでいく。  雨、か。なるほど、天気が変わるのなら、またこの森も、その表情を変えたとして何らおかしい話はない。 「早く家に帰ろうかしら」  早足で、家に向かう。戻れなくなっては、たまらない。  そうして、家の庭に飼っているピチカート(名前を付けるって、多分大事なことだと思う)の傍らに、人影が見えた。黒いトランクを持った、少年。 「やあ、ここは君の家かい?」 「――そうよ」 「そうか。えっと、……君の名前は、なんだろう」  名前を尋ねられた。だから私は応える。 「かなりあ。金糸雀、かしら」  思った。彼が私の名前を訊くから、私もそうする。それは、当たり前のことよね? 「あなたの――お名前は、何かしら?」 【お日さまのノート】 ―――――― 「森を歩いてたら、開けた場所に出たから。あの鶏は、君の?」 「そうよ、ジュン。ピチカートって言うの。女の子よ、女の子。私の大切な相棒かしら」 「あの一羽だけ?」 「そうかしら」 「……ってことは、あの鶏が産んだ卵は、君がしっかり頂いてるってことか」  ぐ、と言葉が詰まってしまう。だってしょうがないじゃない、私は玉子焼きが大の好物なんだから。 「まあ……あんまりおもてなしは出来そうにないけれど。そうよ、あなたの言う通りかしら。おとっときの卵料理くらいなら、食べさせてあげるわ」 「いや大丈夫、気を遣わないでいいよ。そんなにお腹はすいてないから」 「そう? まあ、お夕飯まではまだ少し時間があるものね」  午後のおやつに卵料理、というのも妙な話だろう。お菓子が作れない訳でもないが、私が作ると、どうも甘くなりすぎる(私には丁度良いけど)。果たして彼がそれを気に入ってくれるかどうかはわからないし、私もあんまりお腹は空いてないし。  結局、紅茶を淹れてあげることにした。  テーブルに向かい合ってふたり、ティーカップに口をつけながら、ぽつりぽつりと言葉を零しあう。 「よくここにたどり着いたわね?」 「うん。森にちょこちょこ標があったから、それに従って歩いてきた」  ふと上を見上げると、太陽の光に照らされて、私の家の方向を指している標があったのだと言う。もっとも、ここに辿りつくまでは多少迷ったに違いないが…… 「歩いていれば、何処かにつくさ。……そうだな、僕は運が良かったんだろう」 「運?」 「そう。まあ、そんな気がするだけ」  ……。気分でどうにかなる森でもないのだろうけど、ずっと歩き続けた彼ならば、何でもないことなのかもしれない。  窓の方に視線をやった。お日さまの光は、もう明るさを保っていない。ただ、昼間ということを示し、ぼんやりと灰色を映し出しているばかりだった。 「雨がふりそうだな」  彼も私の視線を追ったのか、窓の外をみて呟いた。 「そうね。ここ暫くは、ずっと晴れていたんだけど。まだ少しは、保つんじゃないかしら」  晴れでもなく、雨でもない。すなわち、曇りの天気は、曖昧を空間に反映させるものだと私は考える。  曖昧は、ただ存在するだけで、元々在る筈の何か、をやさしく隠してくれる。  どっちともつかず、ただぼんやりとしている空気。また晴れるかもしれないという期待と、ひょっとしたらまた雨が降るのかもしれないという、少しのかなしみ。  やさしい筈の曖昧は、何かしらの不安と似ていた。 「雨は嫌いか?」  ティーカップを卓に置き、彼はぽつりと言う。もう中身は空になっているようだった。 「あんまり好きじゃないわ。雨は、空から落ちてくる涙だから。かなしいかなしいって、きっと泣いているのかしら」  雨が降ると、もっと森がくらくなってしまう。森や、森に潜む何かしらにとって、水を得られることは恵みと捉えられるかもしれない。  だから、雨が好きではないという私のこころは、独りの勝手な都合だった。 「なるほど。まあ雨が降ると、何となく暗くて、じめじめとした感じにはなるかもしれない」 「そうでしょ?」 「うん。でも、多分涙を流すのは、哀しいだけが理由ではない気もするね」  ――それは、私も知っているわ。 「ほら、あれだ。どうしても雲が覆って、少し暗くなってから雨が降るから。でも、太陽が出たまま雨が降るってことも、あるらしいよ」 「そんなことって、あるかしら」 「あるさ。きっと」  彼がそういうなら、そうなんだろう。私は思う。 「紅茶のおかわりは、如何かしら?」  丁度、私のカップの中身も空になった。 「いや、淹れてもらってばかりでも悪いし――そうだ、お礼に僕が淹れるよ。葉はあるんだろう?」 「あるにはあるけど。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかしら。キッチンはこちらよ」 ―――――  紅茶の葉は、いくつかは用意してある。 「これは、森から採ってきたもの?」 「そうよ。大概のものは、あそこに行けばあるもの」  お湯を沸かしながら彼は言い、私はそれに答える。  オレンジの実がある場所を見つけてからは、天然果汁満載のオレンジジュースを作ることが出来るようにもなった。  もっとも、私が歩き回れる範囲も、そう広くはない。森の奥に私は入り込まないし、元々足を踏み入れる必要が無い。  ここら一帯が、私の場所。それだけでいい。 「じゃあ、……これにしようかな」  葉の詰まった缶の匂いをいくつか嗅いで、選んだ様子だった。 「じゃあ、お茶請けは――そうね、あれを使おうかしら」  以前焼いておいた小さめのパンケーキを出して、お皿にちょこちょこと盛り付ける。 「はは。こりゃ、ピチカートに感謝しないとな」  温めておいたティーカップに紅茶を注ぎながら、彼は笑う。 「あんまりそれに触れないで欲しいかしら……」  もう。もともとあの娘しか居ないんだから、ひよこに孵ることはないし……  トレイにのせて、部屋のテーブルに運ぶ。さっきと同じ位置、また向かい合わせになるようなかたちで席に着いた。 「じゃあ、いただきます」 「どうぞ。僕はこっちのお菓子の方を」  少しの間うまれた、無言の時間――だったが、本当にそれは長く続かなかった。 『おいしい』  二人の声が、重なる。  彼はパンケーキの味を気に入ってくれたようだった。それがお世辞なのかどうかは推し量ることはできなかったけれど、甘すぎるのではないかと少し不安だったから、安心した。  そして、彼の紅茶。薫り高く、心が落ち着くような紅茶。 「どうしてこの葉を、選んだの?」 「さあ……何となく、香りがいいから選んだ。淹れ方は適当。紅茶が美味しくなるように」  成る程。紅茶は、葉そのものによって風味自体が変わる。  そしてその淹れ方によって、またその味は全く異なってくる。  それは、相手を思いやる心に似ている。  それを彼は知っていた。私ではない誰かに、教わったのだろう。  味の知識を、自分で確かめることが出来ないわけではない。でも、その味を試すもっと簡単な方法は、自分ではない誰かに評価してもらうことだ。 「ジュン。あなたは今まで、どのくらい歩いてきたのかしら」 「ん? どうだろう。結構歩いた気もするし、そうでも無いといったら、そんな気もする」 「そう……」  彼の言葉。それはどうしようもないほど疑いようのないことで、私はそれを黙って受け入れる。 「ちょっと、外に出ない?」 「外?」 「そうよ。大丈夫、まだ雨は降らないと願いましょう」 ――――――  少し歩いて、私達は小川にたどり着いた。 「へぇ、川が流れてるのか」 「ええ。まだ他にも水の尾は引かれているかもしれないけれど、私はそれを知らないわ」 「それを知ろうとは思わない?」 「どうかしら、……」  少し間をおいて、私は答える。 「それは、私の役割ではないから」  彼はその私の言葉に、何の反応も示さない。ただ、流れる小川の水を、じっと見つめているばかりだった。 「あ、ほら。魚が跳ねた」 「そうね。なんていう名前なのかしら……」  ほんの一瞬だったけれど、綺麗な色をしていた。 「曇りの空でも、夜じゃなければ、光があるんだな」  ――当たり前のことかもしれないけれど。  そんなことを、彼は言う。  虹色の鱗をした、魚。色は、光が無ければ確かめることが出来ない。曇りの曖昧にあっても、彼らは自らの光を、放ち続けている。 「あ、また」 「随分元気だなあ」 「ふふっ、そうね。全くその通りかしら」  私は、ここにいるだけ。そして、あなたと今、話をしている。  曖昧を曖昧と捉えるのは、人の思惑。私達に彼らの――いや、私以外の誰かの――思いを『完全に汲み取る』ことなど、出来はしない。  それでいい、と思う。そう考えるのが、この森の住人として、多分相応しいこと。 「あなたは、これからも歩き続けるのかしら?」 「うん、多分」 「適当に?」 「そう、適当に」 「あなたが言うなら、そうなのね。この森はすごく広くて、とても深いわ。それがどこまで続いて、いつ終わるのかを、知ることが出来ない」 「……いいんじゃないかな。僕は僕の思うように歩くし」 「そうしたら、また誰かと逢うことも、あるかもしれないわね」 「どうだろう」  ふたり、小川を眺め続ける。  そういえばこうやって川を眺めていたとき、ピチカートが歩いてきたんだっけ―― 『こけー』  そうそう。いかにも鶏って感じで…… 「こっこ、ここ」 「おい、君の大事な相棒がここまで来てるぞ」 「あ、あら、ピチカート? どうしたのかしら?」  どうやら、柵を抜け出してきたらしい。もっとも、柵らしい柵を作っていたわけでもないけれど。 「こけっ、ここ、こけ」 「……何か訴えてるって感じではないな」 「……そうね」  ふと、上を見上げる。曇り空の間から、すっ、と。太陽のひかりが、差し込んでいた。 「ああいうの、天使の椅子っていうのよ」 「天使の椅子?」 「そう、あの光。あの足元には、一体何があるのかしら……」  あのくらいの光だと、太陽の匂いはしないのね。  …… ―――― 「そろそろ、行くよ」  家に戻ってから、また落ち着いて。空が相変わらず曇り続ける最中、彼は言った。 「そう……じゃあ、これを持っていくといいかしら」  バッグからノートを取り出して、その内の一枚を破りとった。 「午後の地図。私は、そう呼んでいるの。これでこの辺一帯は、迷わずに進むことが出来るだろうから」  そして、出来ることなら―― 「そうね、あの小川の先。水の尾の先に、何があるか。それを確かめて欲しいかしら」  それをお願いしたら。あなたはまたそれを教えに、ここへ戻ってきてくれるかしら? 「そうだな、わかった。またいつか、逢うこともあるんじゃないかな」 「そうね。あなたが忘れていなかったらでいいけれど。そうそう、あと――雨が降りそうだから。この傘を、貸してあげるわ。この大きさなら、もし雨が降らなくても……トランクの中に、入れておけるでしょう?」  お気に入りの傘を、手渡す。これを誰かに貸すのは――そういえば、初めてだった。 「ありがとう。またふらふら歩いてみるよ」  雨が降らないことを、祈りつつ。  彼はそう呟く。午後の地図は、上着のポケットへ。傘は、黒いトランクの中にしまっていた。  家を出て、彼が森へ入っていくのを、私は見送る。  行ってしまった。彼はまた、ここにやってくるだろうか?  そんなことを考えても、先のことなんて、わかる筈もないし。  私はこの森の狭間で、この一帯で、こうやって暮らしていく。  また、待ってみようかしら。  今度のあなたは、あの水の尾の先を報せに。そして、私のお気に入りの傘を持って、顔を見せてくれるかしら。 「ねえ、どう思う? ピチカート」 「こけ、こけっ」  ……うん。またとりあえず、その卵、もらっていい?  森の中、ちょっとだけ開けた場所。その真ん中にある、私の家。  空は相変わらずの曇り空だというのに、不意に明るくなった。  天使の椅子。  その足元に、私の家が、照らされているのかしら。  少しだけ、太陽の匂いが香る。私の大好きな、におい。  ――地図はほとんど覚えているけれど、また作り直しね。  それはそれで、楽しいかもしれない。  また新しい発見が、あるのかもしれない。  あなたがまたここに来るのなら、その地図をあなたにあげよう。 「もう少しで、夕ご飯の時間かしら」  正直なところ、夕暮れにはまだ早い。  でもまあ、何となくお腹も空いてきたし、そのメニューを考えるくらいなら、許してほしいものだ。 「オムレツが、いいかしらね」  踵を返し、家の中へ戻る。新しいメニューを考えてみるのも、良いかもしれない。  考えることは、お菓子でも、いいわ。違う紅茶の、レシピでも――  それは書き残しておけば、きっと忘れないもの。  今日がそうやって、終わる。  夜が来たら眠り、眠っている間に、朝が来る。  明日の天気は、どうかしら? ――  ノートに、今日あった出来事を記しておいた。これは大事なノートだから、大事なことを書いておくの。  晴れたら、お洗濯でもしましょう。  お日さまが、いつまでも、出ていますように。  そんな些細な思い、そして大事な想いも、何となく記しておいたのだった。   

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