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「第十二話 『Pray』」(2007/12/30 (日) 00:15:55) の最新版変更点
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背後から肩を抱かれた雪華綺晶の耳元を、啜り泣く吐息が、通り過ぎてゆく。<br>
槐の弱々しい姿は、礫となって彼女の胸に打ち、<br>
記憶を覆っていた感情という障壁に、無数の亀裂を生んだ。<br>
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「きみを失ってから、後悔しない日なんて無かった。<br>
あの時……二年前の、あの日に戻れたらと。そればかりを考え、生きてきた。<br>
だが、それも今夜限りだ。これでやっと――僕は、償いができる」<br>
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ひび割れた感情の隙間に染み込んできた彼の囁きと体臭が、彼女の記憶を激しく揺さぶる。<br>
その化学反応にも似た衝撃は、稲妻のように細い身体を貫き、<br>
雪華綺晶の心神に何かを甦らせた。<br>
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この匂い……なんだか懐かしい。気持ちが安らぎ、すぅ……っと、頭痛が鎮まっていく。<br>
ずっと以前にも、こんな風に、心地よい温もりに包み込まれていた憶えがあった。<br>
不安や困惑や、諸々の暗い影に襲われたときには、いつだって――<br>
なにもかもが午睡の夢幻の如く溶けてしまうまで包み込んでくれた、優しい人。<br>
ひとつの単語が、彼女の胸裡に浮かび、唇から零れそうになった。<br>
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けれど、それは再び襲ってきた異変によって、妨げられる。<br>
肌の下を無数の昆虫に這い回られているような、おぞましい痛痒感に、彼女は身を捩った。<br>
端整な顔を苦渋で満たし悶える雪華綺晶の耳元に、槐が気遣わしげに囁いた。<br>
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「今度こそ、大丈夫だ。『水銀燈』に内蔵されていた賢者の石は――<br>
我が師の創り出したローザミスティカは、このとおり……僕の手にある」<br>
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槐は自らに言い聞かせて、雪華綺晶の目睫に差し出した拳を、ゆっくりと開いた。<br>
そこでは神秘的な薄紅色の光を放つ結晶が、息づくように明滅を繰り返していた。<br>
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第十二話 『Pray』<br>
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彼に全てを委ねてしまえば、この身を蝕む苦痛から逃れられる。<br>
その時の雪華綺晶は、思考停止の一歩前。藁にも縋る心境だった。<br>
貧すれば鈍する。救われるためなら、拝金主義の宗教団体にさえ、<br>
盲目的に入信しただろう。<br>
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寝室へ――槐に促されるまま立ち上がりかけて、彼女は小さな悲鳴を放った。<br>
全ての関節が、プリンのように柔らかく震えてしまって、踏ん張りが効かない。<br>
倒れる! 雪華綺晶はギュッと目を瞑り、床に叩きつけられる恐怖に身を竦めた。<br>
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……が、彼女に訪れたのは痛みと衝撃ではなく、宙を舞うような感覚。<br>
恐る恐る瞼を開いて見ると、ハッと息を呑むほど近くに、槐の顔があった。<br>
驚きのあまり、彼の両腕に抱き上げられたと理解するのに、少しの時間を要した。<br>
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「その苦しみは、きみの身体に、再び時間が流れ込み始めた証に他ならない。<br>
凍結した記憶によって堰き止められていた、膨大な量の時間が」<br>
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それが真実ならば、こうしている間も堤防は溶け続け、決壊しつつあるのだろう。<br>
槐の言葉が、彼の存在すべてが、夏日のように雪華綺晶の記憶を温めるから。<br>
二年分の時間が、一気に押し寄せてきたら……どうなってしまうの?<br>
少なくとも、今よりも体調が悪化するだろうことは、容易に察しが付いた。<br>
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もしかして……。雪華綺晶は、ひとつの可能性に思い当たった。<br>
自分は、不治の病に冒されているのではないか。<br>
二年前、延命措置として、槐に何らかの処置を施されて――<br>
その副作用で、記憶に障害を――なにも思い出せなくなっていたのでは、と。<br>
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ならば……知るべきではないのだろう。すべてが終わるまでは。<br>
でも、ここに来たのは、すべて知るため。<br>
どんな女の子で、どんな家庭で育ち……どんな恋に、胸を焦がしていたのか。<br>
どうすべき? 彼女の迷いを乗せた天秤は、僅差で、その均衡を解かれた。<br>
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「お願いです。もっと……記憶をください。あなたが与えられるだけを」<br>
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たとえ、それで雪華綺晶の名を失おうとも、個性まで喪われるわけではない。<br>
コリンヌや雛苺と過ごした、楽しい日々が消えてしまうことなど、絶対にない。<br>
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額に汗を滲ませ、苦しみに耐えながら襟を掴んでくる彼女の気迫に圧され、<br>
槐は「解った」と、深い悲しみを瞳に湛えながら、訥々と語り始めた。<br>
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「薔薇水晶…………きみはね…………もう死んでいるんだよ。二年も前に」<br>
「そんな――ウソです!」<br>
「……本当なんだ。悔しいけれど、本当のことなんだ。<br>
きみは、何の前触れもなく、急に高熱を出して倒れ――<br>
強い風に晒された花のように、儚く散ってしまった。医者を呼ぶ間もなかった」<br>
「でっ、でもっ! 私は、このとおり生きていますわ!」<br>
「違う。きみは、僕の妄執そのものだ。愛娘を守れなかった悲嘆の、象徴でしかない」<br>
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仕方がなかったんだ……と。槐は、悪戯を咎められた子供のような眼をした。<br>
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「きみの命を繋ぎ止めるためには、世界霊魂の具現である、ローザミスティカが必要だった。<br>
だが、その時にはもう『水銀燈』を二葉くんに譲ってしまった後で――<br>
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元々は、創作の手本として師より譲り受けたもので、売り物ではなかった。<br>
しかし、重要な取引先でもあったし、彼の熱意と薔薇水晶の口添えもあって……<br>
僕は、断りきれなかった。その直後……忘れもしない、4日後だったよ」<br>
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薔薇水晶が帰らぬ人になったのは。槐は語って、端整な顔を、苦渋で満たした。<br>
ローザミスティカさえ手元にあったなら……或いは、救えたかも知れないのに。<br>
当時の槐が、どれほど打ちひしがれたのかは、想像に難くなかった。<br>
きっと、四六時中、寝ても冷めても、自分を責め続けたに違いない。<br>
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「どうしても、きみを取り戻したかった。ささやかだが幸せな生活を、諦めきれなかった。<br>
だから、道具も、材料も、技術も……すべてが不完全だと承知していながら、<br>
僕は、我が師の手記を元に、ローザミスティカの精錬を試みずには、いられなかったんだよ。<br>
その成果こそ、きみが肌身はなさず持っていた世界霊魂のカケラ……エーテル・クリスタルだ」<br>
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――この、ペンダントが? 眼で訴えかける雪華綺晶に、槐も頷いて見せた。<br>
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「しかし、僕の一縷の望みなど、夢想という空に映った蜃気楼でしかなかった。<br>
どれだけ待っても、きみは眼を覚まさない。呪ったよ。無情な運命と、自分の無力を。<br>
悔しくて、悲しくて……慟哭しながら、僕は薔薇で満たした棺を、家の裏に埋めた。<br>
毎朝かかさず墓前に跪き、きみの甦生を未練がましく祈り続けてきたんだ。<br>
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そして、4ヶ月ほど前――僕は、薔薇水晶の墓に穿たれた穴を発見した。<br>
人ひとりが這って通れるくらい……まるで、セミの幼虫が這い出したような痕跡でね。<br>
墓穴を覗くことへの背徳と冒涜の情など、歓喜と期待に呆気なく押し潰されたさ」<br>
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その結果は、雪華綺晶にも推察できた。薔薇水晶の亡骸は、そこに無かったのだ。<br>
だから、槐は初めて彼女をみたとき、一寸も迷わず娘の名を呼んだ……。<br>
槐は至福の喜悦に浸りながら、雪華綺晶の髪に、そっと頬をすり寄せた。<br>
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「嬉しいよ。また、きみと暮らせる日が戻ってくるんだから。<br>
でも、その前に処置を済ませてしまわないと。<br>
記憶の甦生は、死を――それに伴う肉体の崩壊をも、思い出させてしまった。<br>
もう、腐敗が再開されている。現状では、長く保っても4日が限度だろう」<br>
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たった4日で、この身体が土に還る。想像して、雪華綺晶は身体を戦慄かせた。<br>
生きたまま、自分の肉が腐り、溶け落ちてゆく様子を見せられる。とても正気ではいられまい。<br>
槐の腕の中で震えながら、彼女は寝室に運ばれ、冷たいベッドに横たえられた。<br>
ほんのり立ちのぼった埃とカビの臭いが、長く使う者が居なかったことを物語っている。<br>
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「さあ。これを呑んで」<br>
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ローザミスティカを摘む槐の指が、雪華綺晶の唇に宛われる。<br>
こんな尖った物を呑み込んだりして、喉に刺さったりしないかしら?<br>
考えて、彼女は自らの些末な不安を、せせら笑った。<br>
どうせ先の短い身だのに。この際、害の有無など問題にして、何になるのか。<br>
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雪華綺晶は素直に、薄紅色に光るその結晶を、口に含んだ。<br>
ねっとりと唾液で包んで、舌で喉へと運び。意を決して呑み込む。<br>
それは不思議な温かさを放ちながら、つぅ……と。<br>
彼女の奥深くへと沈んでいった。<br>
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第十二話 終<br>
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【3行予告?!】<br>
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悲しい雨が、心を濡らしてゆく。止まっていた時計が今、動き出すから――<br>
夢にみる僥倖を、ひたすら追い求めている間こそが、本当の幸せなのかも知れません。<br>
だって……ゴールに近づくほど、ほら。ココロは暁光のように、白く醒めてゆくのですから。<br>
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次回、幕間3 『True colors』<br>
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