「『郷里』」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

『郷里』」(2007/06/16 (土) 01:17:57) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

<p><br> 『郷里』<br> <br>  白崎が横目でちらりと見た槐は、助手席で窮屈そうに座っていた。じっさい窮屈<br> なのだろう。槐は二メートルを超す大男である。が、槐の身長にあわせて車を選<br> ぶわけにもいかないから、ここは我慢してもらうほかない。<br>  槐の全身から発せられているいらだちは、なにも車内の狭さだけが原因ではな<br> かった。帰省ラッシュである。盆休み真っ盛りに、白崎たちも里帰りをはじめたとこ<br> ろ、この渋滞があった。<br>  白崎は指でステアリングを叩いた。いったい、この車はいつになったら目的地へ<br> 到着するのか。<br> 「日が沈みそうだ」<br> 「あっちじゃ、もう沈んでいるかもな」<br>  慍然として言った槐は、腕を組んだまま座席に体を沈めた。が、時計を見れば、<br> 三時を過ぎたばかりである。郷里が盆地にあるとはいえ、日没には早すぎる時間<br> だった。<br>  それでも、実家へ着くのは、日没後になると思われた。それほど車は進まない。<br> 景色に変化が見られない。退屈なこと夥しかった。<br> 「まるで進まないな」<br> 「いや、進んでいるよ。ほんのちょっとずつだけれどさ」<br> 「ぼくにはわからん」<br>  槐はアクセルを踏むまねをした。その時、槐の携帯電話が鳴った。槐は出ない。<br> 気づいていないのかと思った白崎は、槐に教えてやった。槐は口の中で小さく驚<br> きの声を発して、電話に出たのだから、やはり気づいていなかったのだろう。<br>  白崎はとくに聞き耳を立てていたわけではないが、会話は終始筒抜けだった。<br> 槐もあえて声をおさえるようなことはしなかった。聞かれて困る話でもない。なん<br> のことはない、槐たちの到着は何時くらいになるのか、その確認の電話だった。<br>  槐はすぐに電話を切った。<br> 「草笛さん、どんな感じだった」<br>  と、白崎は槐の話し相手について簡単に訊いた。<br> 「声を聞くかぎりじゃ、元気そうだった」槐は答えて「しかし、あいつ、まだ集落を出<br> ていないらしい」<br>  槐は呆れたように大きくため息を吐いた。<br>  それを見て白崎は苦笑して、<br> 「彼女、今なにやっているの」<br> 「ぼくの家にいる」<br> 「きみの家にって、なんで」<br>  白崎に訊かれて、槐は首を振った。そこまでのことを、槐もあの短い会話の中で<br> は聞いていない。槐の実家の電話をつかってかけてきたのだから、今はそこにい<br> るのだろう。どういう状況でそうなっているのかは、槐の知らないことである。<br>  彼女が帰省中でないことは、話していてなんとなく想像できた。集落から出てい<br> ないのなら実家暮らしだろうが、外へ働きに行っているのかもしれない。まさか土<br> いじりだけの生活をしているなんてことはないだろう。<br> 「OLでもやっているのかな。クリエイティブな仕事に就きたいと言っていた気がす<br> るけれど、あれはどうなったんだろう」<br> 「服飾デザイナーだな。大口叩いておいて、まったくなにをやっているんだか」<br>  槐は、今度は怒っているような言い方をした。郷里にいるかぎり、そういった仕<br> 事の勉強も就職もむずかしいに違いない。<br>  槐と白崎は、東京で小さなドールショップをやっており、これの開店当初に草笛<br> を誘ったが、その時はむげに断わられた。男二人・女一人なんて怖いわ、と、そう<br> いうふうに断わられた。<br>  ――なにも一緒に住めと言っているんじゃあ、ないんだ。<br>  と、槐が怒りながら言っていたから、白崎は当時のことをよく憶えている。白崎は<br> 最初の頃は店の方で槐と同居していたが、今は近場のアパートを借りてそこに住<br> んでいる。工房を拡げたいと槐が言ったために、突貫工事で生活スペースを削っ<br> た結果、白崎の寝床を確保できなくなったのである。さいわい、槐に比べて白崎<br> は貯蓄に余裕があったし、店も軌道にのりはじめたところだったので、そのあたり<br> は大した軋轢も生ぜずにすんだ。<br>  とりあえず、白崎と槐は、東京で自分たちの夢を叶えたことになる。<br>  その夢と草笛の夢は大差なかったのだが、いつのまにやら、三人の夢が二人の<br> 夢になってしまったようだった。彼女は単独で自分の夢を叶えたいのかもしれない。<br> が、草笛は槐や白崎と同年齢だから、二十歳台の終わりまでもう何年もないはず<br> である。だのに、ずいぶんとのんびりしているものだ、と白崎は内心ちょっと呆れ<br> た。<br>  ――ま、一緒に店をもとうとか、夢を叶えようとか、そんな約束していたわけじゃ<br> ないし、どうこう言うのは筋違いだよなあ……。<br>  白崎は首を回してから、腕を伸ばした。<br>  また車が進まなくなっている。<br>  となりの槐は、<br> 「会ったら、からかってやる」<br>  と言って、唇の端をわずかに上げた。<br>  夜のしじまに沈んだ頃になって、車はようやく集落へ入った。集落の子どもたち<br> が、これを出迎えた。車は子どもの足にあわせて、のろのろと進み、子どもたちは<br> それを追った。<br>  ここへ帰って来るのは一昨年の盆以来だから、この習慣を見るのも二年ぶりと<br> いうことになる。外部へ出て行った者が帰って来ると、子どもがそれを見物に来て、<br> 後を追いかけまわす習慣がこの集落にはある。白崎も槐もかつてしたことだっ<br> た。<br>  途中で槐の実家に着いたので、白崎はいったん車をとめ、槐をそこで降ろした。<br>  槐はドアを閉める前に、<br> 「挨拶すませたら、早くこっちに来いよ」<br>  と、白崎に言った。<br> 「よせやい。ぼくは東京からずっと運転していたんだぞ」<br>  休ませろ、と白崎は言って笑った。<br> 「じゃ、また明日」<br>  と言った白崎が右手を上げると、槐もそれをまねて、残った左手でドアを閉め<br> た。<br> <br>  槐が家の門を通ると、しばらくして陽気で満ちた声が庭先から聞えた。<br> 「よっ、槐くん、飲んでいるかい?」<br>  声の主の草笛が庭からやって来て、槐の肩を叩いた。<br> 「なにが、よっ、だ。どうして、きみが、ここにいる」<br>  玄関戸に手をかけていた槐は、それで草笛の手をのかし、庭へ向かった。縁側<br> でかるい宴会が実施されているらしかった。縁側にあつまる連中は、皆大いに酔<br> っていた。草笛はその中にあって、酔っていないほうなのかもしれない。言葉も足<br> どりもしっかりしたものだった。他の者のような醜態ではなかった。槐の父はすで<br> に酔いつぶれて居間でいびきをかいており、母の姿は見えなかった。たぶん、台<br> 所か風呂だろう。<br>  草笛は縁側の端に座り、そのとなりをビールのアルミ缶で叩いた。ここに座れ、<br> ということである。槐はそれにしたがい、草笛の差し出したビール缶を受け取って<br> プルタブを開け、一口だけ飲んだ。槐はあまり酒につよくない。<br> 「今日ねえ、カナが上のほうへ行っているのよ」<br>  と、草笛は言った。さきほどの槐の問いへの返答だった。〝上のほう〟というの<br> は、言葉どおり集落の北端にある丘の上のことで、ここらではいちばんの有力者<br> の結菱氏が屋敷をかまえている。<br>  草笛の姪の金糸雀と時計屋の息子の一樹と、それに槐の歳の離れた妹の雪華<br> 綺晶――、このあたりが、お泊りに行っている。それぞれの家に代わる代わる泊<br> まるということをしており、今日の泊まり先が、翠星石・蒼星石という双子の姉妹<br> がいる結菱の屋敷だった。夏休みだから、そういうこともあるのだろう。<br>  要するに草笛は、同居中の姪のいないのがさびしくて、槐の実家まで飲みに来<br> たのだった。<br>  ――雪華綺晶も、か。<br>  槐は嘆息した。雪華綺晶は来年中学に上がる年齢になっている。いい歳をして、<br> 幼稚なことに参加する妹だ。そして、兄が帰って来るのを知っているはずなのに、<br> なんて薄情な妹だ、とも思った。<br> 「それ、ローテーションみたいなのは、どうなっているんだ」<br> 「今日で最後。一夜ずつ泊まっていって、締めが結菱さんのお屋敷ってこと」<br>  と、草笛は言った。槐は納得してみせた。それなら、雪華綺晶は明日には帰って<br> 来る。安堵の息を一つ吐いて、槐はまた一口だけビールを飲んだ。<br>  槐は、はたとあることに思い当たった。<br> 「すると、きみは、金糸雀がよその家に泊まっているあいだじゅう、ここに来ていた<br> のか」<br>  と、槐は草笛に言った。<br>  草笛はけたたましい笑声を放つと、槐の背を平手で打った。「そんなわけないで<br> しょ」<br> 「そっちこそ、なにをしていたの。正月にも帰ってこないでさ」<br>  と、草笛は話をきりかえしてきた。<br> 「仕事に決まっている」<br>  人形を作るのが槐の仕事である。一度入り込むと、中々工房から出ない。出る<br> 気にならない。それがために、このところの盆・正月など、いっさい帰省しなかった。<br> 白崎はそれにつきあったかたちになる。彼は実質的な販売員である。<br> 「じゃ、盆も正月もずっと工房にいたんだ」<br> 「いた」<br> 「クリスマスやバレイタインや自分の誕生日も――」<br> 「いたよ。一日中入っているんじゃないから、それなりに飲み食いして盛り上がっ<br> たりはした」<br> 「白崎くんとふたりっきりで――」<br> 「そう」<br> 「あんたらホモ?」<br> 「馬鹿め!」<br>  槐は立ち上がって怒鳴った。よくもそんなことを真顔で言えたものだと思った。し<br> かし、草笛はたしかに真剣そのものといった表情で言ったが、本気で言ったので<br> なく、冗談に違いなかった。彼女の酔眼では、どうして槐がそこまで怒っているの<br> か察することはできなかったし、また槐自身も、どうして自分はこんなささいなこと<br> を怒鳴りつけているのかわからなかった。<br>  ――馬鹿め!<br>  と、槐は心の中で自分を怒鳴った。たった二口か三口、飲めぬ酒を飲んだだけ<br> で、もうこんなに酔っている。酔っているから、短気になっているのだと槐は信じ<br> た。<br>  槐は夜空を見上げた。満天の星だった。槐は、自分が久しく星を見ない生活に<br> あったことに気づいた。と同時に、集落を出ずにこの星を見続けているのだろう草<br> 笛が、むしょうにねたましく思えた。<br> 「きみは、なにをしているんだ」<br>  槐はどっかと縁側に座りなおして、草笛に訊いた。<br>  草笛はすまし顔で、<br> 「なんにも」<br> 「働きに出てはいないのか」<br> 「全然。家でだらだらしているわ。畑にも出ていないんだもの」<br>  草笛はひらひらと手を振り、ビールを飲んだ。<br>  槐は、また怒鳴りたくなった。怒鳴る代わりに、ビール缶を取り上げた。<br> 「まだ残っているのに……」<br> 「もう飲むな。それで、寝ろ。明日の夜、話したいことがあるから、きちんとしらふで<br> いるんだぞ」<br>  と、槐は、それこそ酔ったような、ひどくたよりない語気で言った。<br>  なにそれ、という草笛の質問に、槐は答えなかった。そんなことは、明日答えて<br> やればよいことだった。槐は、今度こそは羽交締めにしてでも、この女を東京へ連<br> れて行くべきだと思ったのである。突然こんな思いつきをした槐は、たしかに酔っ<br> ていたのかもしれない。<br> <br>  翌日の昼頃になって、雪華綺晶が帰って来た。名に似つかわしくなく、すっかり<br> 日焼けしていた。槐はほのかに感動した。二年ぶりに生で見る妹は、なるほど少<br> しは成長しているようだった。来年中学に上がっても、恥をかくことはないと思わ<br> れた。日焼けしていることもあって、ことさらたくましく見えたものだった。<br>  槐は、雪華綺晶との再会もそこそこにすませると、身なりを整え、白崎や他の帰<br> 郷者と合流して、結菱の屋敷へ向かった。帰郷して来た者は、例外なく結菱の屋<br> 敷へ顔見せしに行くのが、昔からの決まりだった。<br>  六人ほどの集団である。<br> 「結菱の爺さん、まだ生きているのか」<br>  途上、誰かがそんなことを言った。結菱の屋敷の主人は、正確な年齢はわから<br> ないものの、まもなく七十歳に達そうかという老人である。九十や百まで生きるの<br> がそうめずらしくないから、まだ死ぬ時期でもない若さにあると言えば、そう言え<br> た。<br> 「孫の顔を見るまでは死なんだろう」<br>  と、言う者がいた。<br>  背後で上がった声に、並んで歩いていた槐と白崎は振り返った。<br> 「孫なら、もういるじゃないか」<br>  と、白崎が言うと、<br> 「いや、あれは孫じゃなくて娘だよ。養女。だいいち、あの爺さんがいつ結婚したん<br> だ」<br>  という返事があった。双子の姉妹のことである。そういえば、結菱の爺さんが娶<br> 嫁したという話は、ついぞ聞いたことがない。集団が小さくざわめいた。年齢差か<br> ら、孫だと勝手に思い込んでいた者が、けっこういるらしかった。あるいは、そもそ<br> も幼い娘があの屋敷に住んでいることを知らなかった者も、いたかもしれない。<br>  屋敷に到着した。和洋折衷のしゃれた屋敷である。瓦葺でない屋根は、この近<br> 辺ではめずらしかった。<br>  集団は、初老の女中に出迎えられ、客間まで案内された。内部はおおむね和風<br> で、西洋の香りに乏しいものだった。<br>  客間も畳座敷だった。そこで茶と菓子を馳走され、夕方には屋敷を出た。<br>  子どもの頃は、どこまでも気むずかしい老人という印象しかなかった結菱の主人<br> が、ここ数年でずいぶんと柔和になっている。娘ができるとそうなるものなのかな、<br> と白崎は槐に耳うちした。<br>  ――さて。<br>  と、槐は考えた。自分の父親は、雪華綺晶が生まれて以後、どうだったのだろう。<br> もともとかるい性格の父で、それはもうずっと変わっていないが、以前と以後とで<br> は、やはり少しくらいは違っているのだろうか。<br> 「多少、落ち着いたか」<br>  と、槐は言った。槐は自分の父についてそう言ったが、むろん白崎にわかるはず<br> がなく、<br> 「昔から落ち着いた物腰の人だった。そこに柔らかさが加わった」<br>  と、見当違いのことを言った。<br> 「今日はうちに来るんだろう」<br>  と、槐は白崎に言った。白崎はうなずいた。今着ている服はいちおう正装なので、<br> いったん家にもどって着替える必要があった。そのまま槐の家まで連れだって行く<br> ことはできなかった。<br>  その後は無言で歩いていたが、丘のすそまで来たところで、槐は白崎に、<br> 「草笛さんを店に誘おうと思うんだ」<br>  と言った。白崎は、あっ、と一瞬驚いたが、<br> 「そうか。それはいいと思うよ。ぼくは反対しない」<br>  と言った。男ばかりの店に女が入って来たら、さぞ華やかになるに違いない。草<br> 笛の参加は白崎にとって慶祝すべきことだった。ぜひ草笛に諒承してほしいと思<br> った。<br> 「なにか、うまい文句はないかな」槐は白崎に訊いた。「手荒なことは、ちょっとした<br> くない」<br>  槐は口下手なほうだろう。ひきかえ、白崎はいくらか達者である。それで相談し<br> たのだった。<br> 「手荒とは、また物騒なことを言うなあ。まさか、縄で縛って連れ帰るわけじゃない<br> んだ。ふつうに誘えばいいだろう」<br> 「いや、最悪そういう手段に及ぶかもしれん。とにかく、ぼくは、なにがなんでも彼<br> 女を店に入れたい」<br>  と、槐は言った。<br>  ――だいたい、自堕落なのはよくない。他の誰がそうあっても、彼女だけはそう<br> あってはならん。学生時代を思い出してみろ。彼女はいつだって、皆の一等だった<br> じゃないか。視力とスポーツはからっきしだったが、勉強と裁縫と気格においては、<br> 誰だって彼女の下風に立ったものだ。めっぽう陽気で、しかし、やたらと神経質だ<br> ったじゃないか。大ざっぱなようで、じっさいに大ざっぱで、そして、ひとの心の機<br> 微には敏感な女だった。そういう性格だから、彼女は、ぼくら――いや、ぼくをひっ<br> ぱることができたのだろう。彼女は、だから今でもそうでなけりゃならんのだ。歳を<br> 食ったからなんて、そんなものは理由にならん。とにかく、彼女は自堕落であっち<br> ゃいかん。もっとしっかりしてもらわなきゃ、ぼくは困るんだ。……<br>  こういうことを、槐は、烈しい・熱っぽい口調で言った。これは、まったく草笛の事<br> 情を考えない言い分だった。槐は彼女の自堕落になった理由を訊こうと思わなか<br> ったし、また、訊かなかった。<br>  槐は高校を出てすぐに上京したから、草笛の姿や記憶といったものは、ほとんど<br> そこで停止していた。たまに帰郷した時に会ったが、彼女の生活をのぞいたこと<br> はなかった。三十歳を目前にして、昨日ようやくそのあたりを知った。<br>  自分の中のうつくしい思い出をくずされたくないという、きわめて勝手な・幼稚な<br> 理由で、槐は草笛を、東京まで連れて行こうと思ったのだった。<br> <br>  槐は、もはや物置部屋同然になっている自室に、草笛と白崎を招き入れた。槐<br> が帰って来るということで、それなりにかたづけられていたが、それもせいぜい布<br> 団を敷ける程度のものだった。槐と白崎は、部屋の荷物を廊下のつきあたりに抛<br> り出した。<br> 「酒は抜けているか」<br>  と、槐は、まず草笛に訊いた。草笛は、あれっきりなめてもいない、と言って、ち<br> ょっと舌を出し、人さし指で下唇を押さえてみせた。この上、足もとに置かれている<br> のは酒でなくてラムネである。言った草笛はむっつりと唇をつぐんだ。<br>  槐が正座になったので、白崎と草笛もそれに倣った。<br> 「ぼくの言いたいことは、だいたいわかっていると思うが、……」<br>  と、槐は腿の上の両手を回して肘をまげ、身をのりだして言った。<br> 「そんなに顔を近づけなくたって、聞えるわよ。――東京来いとか就職しろとか、そ<br> んな感じかしら」<br>  と、草笛はぎゃくに背をそらせて言った。<br> 「そのとおりだ。こっちに来い。一緒に店をやろう。きみが、そうだらだらとしている<br> のは、よろしくない」<br>  と、槐は姿勢をもどして言った。<br>  草笛は、存外あっさりと返答した。ただし、承諾したのではなく、<br> 「考えておくわ」<br>  と言った。<br>  それだけだったが、草笛のこの返答は、一顧だにされないと思っていた槐を満<br> 足させるものだった。<br> <br>  東京へ帰る日になった。<br>  草笛が集落の入口まで見送ってくれた。<br>  槐は窓から頭だけを出すと、<br> 「来いよ」<br>  と、口もとに笑をつくって、草笛に言った。<br> 「東京って空気がきたないって話だし、どうしよう」<br>  と、迷っているような言い方をした草笛の声に、槐は、自分の声をぶつけるよう<br> なかっこうで、<br> 「きみのような女はびくともせんだろう。きみの場合は、まあ、空気や水くらい、に<br> ごっているほうがいいんだ」<br>  と言った。事実、槐の記憶にある、草笛のもっともうつくしくかがやいている姿と<br> いうのは、沼を渉ったり泥をかむったり、というようなことを、好んでするところがあ<br> った。<br> 「大人になって、変に落ち着いちゃったんだろうが、それがいけない。きみはもっと<br> 行動すべきだ」<br>  と、槐は草笛に説教じみたことを言った。<br> 「また極めつけるわねえ」<br>  呆れた草笛が言うと、<br> 「最近はすっかり落ち着きがなくなっていけない」<br>  と、白崎が微苦笑して言った。<br> 「昔のクールだったあなたはどこへ行ったのかしら」<br> 「きみがもどれば、ぼくももどる。それじゃ――」<br>  槐はそう言って、首をひっこめて窓を閉めた。<br>  呆然とつっ立つ草笛を置いて、車が動きはじめた。<br>  車内で白崎が槐にむかって、彼女はきっと東京に来るだろうと言った。なんでそ<br> んなことがわかるのかと、槐が訊くと、白崎は、<br> 「今にも車に乗りそうな顔をしていた」<br>  後部座席にね、と肩越しに指さして言った。帰省の初日に槐の実家にいたのも、<br> 似たような理由があったからではなかったのか。白崎はそういう想像をはたらか<br> せ、それを槐に言った。槐は一度もそんな想像をしたことがなかったが、――だと<br> いいなあ、と口の中で言って、助手席に自分の長身を沈めた。<br> <br> <br> <br>  おしまい。</p>

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: