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「『夏の幻影、青春の反映』」(2007/05/26 (土) 18:20:29) の最新版変更点
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<p><br />
『夏の幻影、青春の反映』<br />
<br />
真っ暗闇の中で蒼星石は叫んだ。双子の姉の名を呼び、老いたる養父母を呼<br />
んだ。声は自分の耳と頭に響いたが、暗闇には響かなかった。<br />
暗闇の中で、ほの白い階段だけが、かろうじて足もとに見える。蒼星石はそこ<br />
を駆け下りていた。早く下りきってしまわないと、やがてこの階段もわずかの光さ<br />
え失い、ついになにも見えなくなると思われた。<br />
蒼星石は最初学校にいた。自分の通っている高校である。夜の学校で、教室<br />
で、部屋着を着て立っていた。空には満月があった。雲はなく、月のうつくしい夜<br />
だった。<br />
どうして自分がそんなところにいるのかを考えなかったのは、彼女が夢を見て<br />
いたからに他ならない。どんなに奇妙な状況でも、それを奇妙と感じないのが夢<br />
である。<br />
北校舎三階の教室から出、西階段を下りた。二階についたあたりで、夜が深く<br />
なった。二階から一階へ――ふと、踊り場の窓から空を見上げると、月明かりと<br />
いうものが全く消えていた。いつのまにか墨のような空になっていた。<br />
蒼星石はそこで初めて、怖れた。怖れていないものなど一つもないというほど、<br />
いろいろのことを怖れた。<br />
蒼星石は、早く家へ帰らなければと思った。それが足どりにもあらわれ、三階か<br />
ら二階へ下りていた時より、蒼星石は少し駆け足になった。<br />
――おかしい。<br />
と、蒼星石はすぐに、足もとのおかしさに気づいた。早足になっているはずなの<br />
に、ちっとも一階につかなかった。<br />
蒼星石が気づいた瞬間には、空にぶちまけられた墨は、もう校舎にまでおよん<br />
でいた。光と言う光は、今や足もとのほの白い階段をのぞいて消えてしまった。<br />
見下ろしてそこに、目指している一階は見えず、見上げてそこに、つい先ほど墨<br />
のような空を見た踊り場はなかった。窓もなかった。<br />
蒼星石はいよいよ恐怖した。階段しか見えなくなってしまった。そして、階段も<br />
見えなくなってしまうかもしれない。<br />
蒼星石は階段を駆け下りた。時々足をもつれさせながら、ひたすら駆け下りた。<br />
しかし、階段はいっこうに終わらなかった。<br />
――翠星石!<br />
蒼星石は姉の名を叫んだ。助けを求めた。<br />
反応はなかった。自分の声さえ響かなかった。<br />
蒼星石はまた姉の名を叫んだ。やはりなにも起こらず、姉はあらわれなかった<br />
ので、蒼星石は次に養父を呼んだ。養母を呼び、三度姉の名を呼んだ。叫んだ。<br />
そんなことをくりかえしてのち、おとずれた事態の変化は、階段のほの白い明<br />
かりの消えたことだけだった。<br />
階段が見えなくなって、蒼星石はまた叫んだ。誰の名を呼んだわけでもなく、た<br />
だ叫んだ。悲鳴をあげたのである。<br />
声ではあったが、言葉ではなかった。<br />
蒼星石は落ちた。落ちた、という感覚だけが首筋をなぞった。<br />
夢はそこで終わった。<br />
<br />
目を覚ました蒼星石は、夢のことをかなりはっきりと憶えていた。<br />
それだのに、変な夢を見た、と不快になるゆとりもなかったのは、自分が今翠<br />
星石に抱かれていることを、起きてすぐに知ったためである。<br />
正確に抱くというほどのものでなく、ただ普段寝床を並べて眠っているはずの<br />
姉が、どういうわけか蒼星石と同じ布団に眠っており、しかも腕が蒼星石の首に<br />
回っていた。寝床に横になっているのだから、肩にのかっていると表現するのが、<br />
より適切かもしれない。不得要領のまま、蒼星石はその腕をのかした。<br />
翠星石が目を覚ました。両手で布団を押して上体だけ起こすと、瞼をこすりな<br />
がら、だいじょうぶかと蒼星石に訊いてきた。<br />
問いの意味をつかみかねた蒼星石は、体を起こして翠星石と同じような姿勢を<br />
とり、<br />
「なにが」<br />
と、訊きかえした。翠星石が起きぬけに気づかうほど、蒼星石のだいじょうぶで<br />
ないことがあったのか。<br />
「なにって……」<br />
翠星石はまだ眠気からまぬかれていない頓狂な調子の声を発すと、あくびの<br />
合間を縫って説明した。<br />
夜中、蒼星石はとんでもない叫び声をあげてはね起きた。となりでそんな大声<br />
があがるのだから、むろん翠星石も起き、すぐに立って電気を点けた。<br />
蒼星石は怖い夢を見たと言った。夢の内容はろくに憶えておらず、怖いという<br />
感覚だけが首筋あたりに残っている、と。そう言って、両手で頭をかかえ、はなし<br />
て首筋を撫でた。<br />
蒼星石はしばらく室内に視線をただよわせていたが、やがて気をとりもどしたの<br />
か、あるいはさらに失ったのか、いきなり翠星石にとびついてきた。<br />
「それで一緒に寝てやったんじゃねえですか」<br />
翠星石は、きょとんとしている蒼星石を指さした。<br />
「甘えてくれるのは嬉しいですけれどねえ、十六歳にもなって、ちょっと情けなくも<br />
あるですよ」<br />
と言った翠星石は、真夜中に添い寝をせがんできた妹の姿を思い出して、白い<br />
歯を噛んで笑った。喋っているうちに翠星石は覚醒しきったようだった。<br />
蒼星石は、はっとして目を落とした。自分の眠っていた布団が、翠星石のもの<br />
だとわかった。翠星石が蒼星石の布団にもぐりこんで来たのではなく、蒼星石が<br />
そうしていたのである。<br />
「憶えていないや」<br />
と、蒼星石は憮然として言った。添い寝を求めたことどころか、いったん目を覚<br />
ましたことさえ憶えのないことだった。<br />
今憶えている夢と言えば、夜の学校の階段を駆け下りる夢だけである。憶えて<br />
いない夢は、憶えている夢と同じものなのか、それとも全く違う夢だったのか。<br />
どちらにしろ、一つの夜に二度も悪夢を見るなど、気分の悪いこと夥しかった。<br />
一度目の夢の内容を憶えていないのが、幸いと言えばそう言えた。<br />
「暑い、暑い」<br />
翠星石はそう言って掛け布団をのかすと、眠っているうちに停止した扇風機の<br />
電源スイッチを押して、風をあおいだ。<br />
夏休みの真っ最中である。寝床を同じに眠っていれば、汗の量の倍加されるの<br />
は仕方のないことであった。それでも養父母に影響されたおかげで、比較的涼し<br />
い時刻に起きることができていた。これでクラスメイトのように休日は昼まで、な<br />
んて習慣があったら、もっとたいへんなことになっていたに違いない。<br />
「下へ行こう」<br />
蒼星石は翠星石の腕をやんわりつかんで、立つようにうながした。翠星石は生<br />
返事をして立ち上がった。<br />
布団をかたづけ、一階の洗面所へ行った。歯磨きと洗顔をすませ、着替えるた<br />
めにまた二階へ上がった。着替えているあいだに朝食の支度が終わったらしく、<br />
一階の養母に呼ばれた。<br />
昼前になると、クラスメイトの水銀燈から電話がかかってきた。<br />
今夜、学校できもだめしをやるので、その誘いの電話だった。夜の学校に生徒<br />
は入れないはずだが、そのあたりは水銀燈の父が学校に融通を利かせてくれた<br />
らしかった。<br />
電話に出た翠星石は、朝のことを心配して、断わろうかと蒼星石に言ってきた<br />
が、怖い夢を見たからいやだ、などと断わるのは、かっこうがつかないので、蒼<br />
星石は諒承させた。<br />
<br />
きもだめしは、東西にのびる北校舎の一階を東口から西口へ通り抜けるという<br />
ものだった。<br />
水銀燈と金糸雀、蒼星石と翠星石、雪華綺晶と薔薇水晶、真紅と雛苺、……と、<br />
ひねりを入れられることもなく、いつもの取り合わせで、この順番できもだめしを<br />
することになった。じっさいに〝きも〟をためすのはこの四組だが、学校に来た<br />
のは八人でなく、みっちゃんと白崎が保護者として姿を見せていた。<br />
みっちゃんは単純に姪の金糸雀が心配でたまらず、ついて来た。<br />
白崎は槐の代役でやって来た。<br />
槐は男の癖にやたらと怖がりだった。娘二人・雪華綺晶と薔薇水晶が心配で白<br />
崎をついて行かせたが、自分は家に残った。夜の学校は、槐にとって途方もない<br />
恐怖の対象である。絶対に行くものか、だから白崎、おまえが行け、槐は白崎に<br />
そう言った。<br />
白崎は、槐の口真似をしながら、事の経緯を説明した。夜に沈んだ学校でおだ<br />
やかな笑声が上がった。<br />
蒼星石は空を見た。弓形の月が出ている。満月ではなかった。些細でも夢と異<br />
なる部分に、蒼星石は安堵した。<br />
気分をきりかえた蒼星石は、水銀燈に、<br />
「宿直の先生、いるのかな」<br />
と言った。水銀燈はちょっとのあいだ首をかたむけていたが、ああ、と得心した<br />
ふうにうなずくと、<br />
「挨拶にでも行きましょうってことね。いいのよ、そんなの。話はちゃんとつけてい<br />
るんだから」<br />
と、あっさりとそう言って、蒼星石が提案しようとしていたことを、先に制した。そ<br />
んな面倒なことをしても、自分たちの気をそぐだけだろう。<br />
先だって北校舎に入って行った水銀燈と金糸雀につづいて、蒼星石と翠星石も<br />
北校舎に進入した。<br />
蒼星石はふしぎな感慨にうたれた。<br />
夢の中では、全力で階段を駆け下りても、この北校舎一階へ行きつかなかった。<br />
それなのに、現実では無難な足どりでその一階を進んでいる。<br />
あるいは逆に、現実の北校舎は、ここから階段を駆け上っても、二階より上へ<br />
行きつかない仕組になっているかもしれない。<br />
蒼星石は、そんな想像を一瞬したが、すぐにそれをうち消し、むつと口をとがら<br />
せた。今の蒼星石には、はなはだ笑えない想像だった。<br />
「あっ」<br />
蒼星石は急に立ちどまった。西階段手前に、<br />
「誰かいる」<br />
蒼星石は言った。ひゃっ、という小さな悲鳴が背中にぶつかってきた。それから<br />
まもなく、悲鳴をあげた翠星石が蒼星石の手をほどき、背にしがみついてきた。<br />
蒼星石は自分にしがみついている翠星石の体をはなし、人影を発見した方向<br />
にまた目をもどした。しかし、もう誰の姿も見えなかった。ちょっと目を切っている<br />
うちに、人影は消えてしまった。<br />
仕方がないので、蒼星石は翠星石の手を曳いて校舎から出、ゴール地点で待<br />
っていた白崎と、先に出発していた水銀燈・金糸雀組と合流した。<br />
「誰か、校舎の中に入って来た? ええと、今さっきにさ」<br />
と、蒼星石は訊いた。<br />
「誰も入っていないわよ。見てもいないし……どうかしたの」<br />
答えて、水銀燈は催顔をつくった。<br />
「蒼星石が、誰かいるとか、言いやがったです」<br />
翠星石は蒼星石を睨んだ。<br />
「ま、さ、か、――」<br />
と、音を切りながら金糸雀が言った。右手が水銀燈の背後にかくれている。服<br />
をつかんでいるのだろう。水銀燈が呆れている。<br />
白崎は一度金糸雀を見てほのかに笑い、<br />
「幽霊を見たとか、そういうことかな」<br />
と、金糸雀の言葉を継いで言った。<br />
「いや、さあ、どうでしょう」<br />
蒼星石は首をひねった。<br />
金糸雀が足はあったのかどうかを訊いてきた。足があれば人間で、足がなけれ<br />
ば幽霊、という理屈だが、人間であっても怪奇な現象なことには変わりなかった。<br />
どちらも本来いるはずのない存在だった。<br />
蒼星石は、どうにも答えようがなかった。あった気がするし、なかった気もする。<br />
足に注目して見たわけではないので、そのあたりは曖昧だった。そもそも、足の<br />
あるなしで人影の生き死にが定まるものでもない。<br />
蒼星石は、人影を見たという自信が、だんだんなくなってきた。ほんとうは人影<br />
なんてものはなく、ただの蒼星石の勘違いかもしれなかった。そしてそれは、じっ<br />
さいに彼女の勘違いだった。以降しばらく、彼女は自分の勘違い振り回されるこ<br />
とになる。<br />
雪華綺晶・薔薇水晶組に真紅・雛苺組がきもだめしを終えて校舎から出て来た。<br />
そこでまた、蒼星石の見たという人影の話になった。<br />
しばらく喧々としていたが、白崎の柏手一つを合図に、スタート地点で皆を見送<br />
ったみっちゃんのもとへもどった。<br />
「ラーメンでも食べて帰ろうよ」<br />
と、みっちゃんが言った。彼女に屋台ラーメンを馳走され、その夜は散開となっ<br />
た。<br />
就寝時、翠星石が蒼星石の布団にもぐりこんで来た。蒼星石のせいだ、蒼星石<br />
が変なことを言うからいけない、翠星石はそういう目で蒼星石を見た。<br />
「暑いよ」<br />
と、苦笑まじりに蒼星石は言った。しかし、拒みはしなかった。自分もやってもら<br />
ったことだった。<br />
その夜の蒼星石は、いやな夢を見ずにすんだようだった。内容は全く憶えてい<br />
なかったが、朝の寝ざめが爽やかだったので、そうに違いないと思われた。<br />
昼頃には、また水銀燈から電話があった。きもだめしを兼ねた幽霊さがしの誘<br />
いだった。<br />
今度は蒼星石が電話に出たので、うしろで聞き耳をたてていた翠星石に、どう<br />
するか訊いた。<br />
翠星石は責めるような目を蒼星石にむけた。水銀燈の誘いの発端が、昨日の<br />
蒼星石の発言にあったことは明らかだった。しかし、幽霊が怖いなんて理由で参<br />
加しないのは、なんと情けないことだろう。翠星石は諒承させた。<br />
「行くよ。明日――うん、八時に東門だね。わかった」<br />
水銀燈にそう答えて、蒼星石は電話をきった。蒼星石はいつもぼそぼそと不明<br />
瞭な声で話す癖があったが、この時は明瞭な声で言った。翠星石に言って聞か<br />
せるために意識してやったことだった。<br />
蒼星石は内心のり気があった。彼女は怪奇現象の類が好きだったり、またそれ<br />
を信じていたりしたわけではなかったし、幽霊さがしに興味のあったわけでもない<br />
のに、怖がる姉を気づかわずに諒承したのは、一昨日に見た夢の内容を、なん<br />
となくたどってみたくなったためである。参加しないのはもったいないと思った。夜<br />
の学校へ入る機会など、そうあるものではなかった。<br />
蒼星石は電話をきったあと、もう一度、<br />
「明日の午後八時、東門前」<br />
と、翠星石に言った。それは昨日と同じ指定だった。<br />
<br />
翌――<br />
蒼星石と翠星石が東門前に到着した時には、ほかは皆もう来ていた。ふたりを<br />
待っていたのは、主催者の水銀燈に、真紅・雪華綺晶・薔薇水晶・白崎の計五人<br />
で、雛苺と金糸雀は、<br />
「幽霊さがしなんて、まっぴらごめん」<br />
ということで、不参加だった。金糸雀がいないのだから、むろんみっちゃんもい<br />
ない。<br />
蒼星石のとなりで、翠星石がこっそり息を吐いた。精神年齢のひとより幼い雛<br />
苺や金糸雀と並ばずにすんだ、という安心感だろう。<br />
蒼星石は声をひそめて小さく笑った。怒った翠星石が、蒼星石の足をやんわり<br />
ふんできた。怖い夢を見たからと姉の布団にもぐりこみ、怖いくせに意地はってき<br />
もだめしに参加する、蒼星石の程度もかわらない。ひとを笑えない。ごめん、と蒼<br />
星石は唇をうごかした。<br />
校内へ入った直後、蒼星石の服の袖を水銀燈が引っぱった。今日は日曜だか<br />
ら、宿直はいないはずよ、と言った。蒼星石は肩をすくめた。そんなことは、今や<br />
すっかり頭から抜け落ちていたことだった。<br />
蒼星石は水銀燈たちを件の現場へ案内したあと、職員室へ教室の鍵を取りに<br />
行くと言って、集団から離れた。職員室は南校舎西端(本館)の二階にある。<br />
翠星石と真紅がついて来た。ふたりとも怪訝な目で、先頭を進む蒼星石の背を<br />
見ている。視線に気づいた蒼星石は、教室へ行く目的を話した。<br />
「めったにない機会だから」<br />
「そう」<br />
と、そっけなく呟いた真紅は、それでもほどほどの理解を、蒼星石に示している<br />
ようだった。<br />
蒼星石はいったん水銀燈たちのもとへもどった。そうして、半時間ほど皆で幽<br />
霊の有りや無しやについて話し、時に笑声を天井へ上らせたのぼらせた。<br />
「教室へ行ってくる」<br />
と、蒼星石は言い、西階段をゆっくりと上った。翠星石と真紅がまたついて来<br />
た。<br />
なじみのある教室の前につくと、蒼星石はオンボロな鍵を開けて中へ入った。<br />
「どのあたりだったっけな」<br />
蒼星石は教室内を見わたした。自分の席の前というのが妥当だろうか。それと<br />
も、少し離れた姉の席だろうか。が、姉の席は廊下側にあり、自分の席は真ん中<br />
の列にある。満月を見ていた記憶があるから、そのどちらでもない窓際に立って<br />
いたのだろう。<br />
いちおう自分の席の横に立ってみたが、天井がひくすぎて月は見えなかった。<br />
蒼星石は窓際へ寄って行き、窓を開けて身をのりだした。<br />
月がある。<br />
こういう姿勢で月を見ていたのではなかったと思うが、どうせ見るなら、より見<br />
やすいようにしたかった。きちんとなぞりたい部分は、一階と二階を繋ぐ西階段<br />
にある。<br />
「あたりまえだけれど、ずいぶんと違うものね」<br />
と言った真紅が、自分の使っている机を指でなぞった。<br />
教室のふんいきのことである。部活なり委員会なりで、日の沈んだあとでも学<br />
校にいることが時にはある。しかし、そうした時と違い、今は校舎内に電灯の明<br />
かりもなく、せいぜい外灯がお情け程度に点いているくらいで、見知った夜の学<br />
校とは、ふんいきがかなり異なった。<br />
「そうだね」<br />
と、蒼星石は窓から上半身を出したまま同意した。<br />
「でも、ちょっと懐かしいです」<br />
と、翠星石が言った。夏休みがはじまってから、ずっと入っていなかった教室で<br />
ある。最初の登校日まで、あと四日ある。<br />
蒼星石の胸に、翠星石の言う懐かしさが宿った。それから、ほんの少しの後悔<br />
があった。<br />
――ひとりで教室まで来ればよかった。<br />
ということである。<br />
が、ついて来てしまったものは、今さらどうしようもない。<br />
蒼星石はふたりをうながして、教室を出た。<br />
夢の中で墨のぶちまけられたような空を見た、例の踊り場に到った時、蒼星石<br />
は突然足の力を失って尻もちをついた。まったく、本人にもわからない力の抜け<br />
方で、突然尻もちをついてしまった。<br />
蒼星石は、翠星石に腕を曳かれて立ち上がったあとも、しばらくのあいだ足もと<br />
を睨みつづけた。<br />
「いきなり、どうしたの」<br />
と、真紅が怪訝そうな表情をして言ったので、蒼星石は正直に、よくわからない、<br />
と答えた。<br />
真紅は上履を踊り場にすべらせた。キュッとどことなく窮屈な高音が踊り場に響<br />
いた。ちょっとすべるみたい、と真紅は言った。<br />
蒼星石も真紅を真似てみたが、特別すべるようには感じなかった。真紅なりの<br />
フォローなのだろうと蒼星石は思った。したがって、蒼星石が尻もちをついた原因<br />
は、床ではなく彼女自身にあり、<br />
――夢じゃないんだからさ。<br />
と、蒼星石は自分に呆れた。床がなくなるとか階段がなくなるとか、そんなこと<br />
があるはずない。空はちっとも墨のぶちまけられたような黒々しいものでないし、<br />
階段はほの白く奇妙に光っているもでもない。<br />
気をとりなおした蒼星石は、無難に階段を下りきった。<br />
あらわれた蒼星石たちを、一階の廊下で待っていた水銀燈が、<br />
「おかえり」<br />
と言ってねぎらい、教室の様子を訊いてきた。<br />
蒼星石は教室内で感じたことの全部を話した。記憶とふんいきの違ったのは当<br />
然のことだが、それでもひっきょう、「変わりなし」の一言に尽く。教室は教室のま<br />
ま、昼が夜になっただけで、終業式の日からちょっとも変わっていなかった。変わ<br />
られて困るところでもある。<br />
「幽霊さん、ずっと待っていたのに来ない」<br />
薔薇水晶は蒼星石の言った人影の出現箇所を指さし、そう言った。<br />
「こっちも会わなかったよ。単なるぼくの見間違えだったのだと思う」<br />
と、蒼星石は言った。<br />
昨日みっちゃんに連れて行ってもらったラーメン屋でまた夜食をとり、蒼星石と<br />
翠星石は、皆と別れた。<br />
途中、鍵を返し忘れたような気がして、蒼星石は立ちどまった。その場で服の<br />
あちこちをまさぐってみたが、鍵は出てこなかった。きっとちゃんと返したのだろう、<br />
と思い、蒼星石はとめていた足をまた動かして、帰路を辿った。<br />
ところが、困ったことに、家に帰ってから鍵が出てきたのである。<br />
「どうしよう」<br />
と、言ってくる蒼星石に、翠星石は決まりきった解答を与えた。<br />
明日にすればよい。日のあるうちに堂々と正門から入って、職員室へ行って鍵<br />
を返せばよい。<br />
翠星石も、まさか蒼星石が、今から学校へ行くなんてことはないと思いつつ、い<br />
ちおう釘を刺した。蒼星石は妙な頑なさが性格にあった。悪癖の起こる前にとめ<br />
ておかなければならなかった。<br />
「そうするよ」<br />
と言って、蒼星石は息を吐いた。残念がっているのか、ほっとしているのか、翠<br />
星石にはつかみかねた。<br />
<br />
蒼星石は、いつもより少しだけ早めに起きると、食事もそこそこに家を出た。日<br />
が昇ればそれだけ暑くなるので、なるたけ涼しいうちに用をすませたかった。<br />
職員室の前で、雪華綺晶とばったり会った。<br />
めずらしいこともあるものだと、蒼星石は思った。<br />
「部活とか、やっていたっけ」<br />
と、蒼星石は雪華綺晶に訊いた。蒼星石の憶え違いでなければ、雪華綺晶は<br />
部活動をしていなかったはずである。また補習に出るほど成績のわるいわけでも、<br />
まして呼び出しを受けるような不良生徒でもなかった。<br />
雪華綺晶は首を振った。蒼星石の知ってのとおり、雪華綺晶は帰宅部である。<br />
教師から呼び出しを受けたのでもない。ただ、ちょっと学校に用があり、帰る前に、<br />
もののついでにと、担任へ挨拶しに来ただけだった。<br />
雪華綺晶は、自分はともかく、蒼星石はどうしてこんなところにいるのかと訊き<br />
かえした。<br />
「これ。昨日、教室の鍵を返し忘れちゃって」<br />
蒼星石は雪華綺晶に鍵を見せた。<br />
「なるほど、蒼星石にも、そういうことがある」<br />
と、雪華綺晶は感心したふうな言い方をした。<br />
「そういうことって、なに。鍵を返し忘れたこと?」<br />
「あまり、忘れ物とかしませんから」<br />
「ふうん」<br />
忘れ物をしない蒼星石が忘れ物をした。鍵を返し忘れた。雪華綺晶はそんなこ<br />
とを感心した。どこに感心する要素があったのか、蒼星石にはわからなかった。<br />
ところで、雪華綺晶の言う用とはどんなものなのだろう。蒼星石は訊いた。する<br />
と雪華綺晶は、ちょっとはちょっとです、と言うだけで、詳しく説明しなかった。蒼<br />
星石もそれ以上は詮索しなかった。<br />
ふたりは途中まで一緒に帰ることにした。<br />
職員室のある本館を下りて、一階東口から出たところで、雪華綺晶はいったん<br />
立ちどまり、<br />
「空が、……」<br />
と、蒼星石に言った。空はひらけているが、明るいとは言えないものだった。暗<br />
さは北からのびて来ている。雪華綺晶は空を見て指さし、蒼星石に空の様子の<br />
おかしいことを言った。<br />
「あ――」<br />
と、声をもらしたあと、苦しげにあえいだ蒼星石は、雪華綺晶の言った空に、な<br />
にか薄暗い雲のたちこめていることを知った。雨雲に違いなかった。じきにこの<br />
地区まで達すると思われた。<br />
「予報では、快晴のはずなのですが、はずれましたね」<br />
と、雪華綺晶は言った。たしかに朝の天気予報によらば、今日は雲一つない快<br />
晴のはずで、蒼星石が家を出た時もそうだった。<br />
――予報がはずれることもある。<br />
蒼星石は陰鬱な気分になった。<br />
にわかに雨が降った。空はすっかり雲に蔽われ、色を落とした。<br />
「わっ、もう――」<br />
蒼星石は驚いて言った。<br />
雨はまたたくまでどしゃ降りになった。蒼星石と雪華綺晶は本館へもどった。蒼<br />
星石は雨具を持って来ていない。雪華綺晶もそうである。天気予報では晴れと出<br />
ていたから、持って来る理由がなかった。<br />
「通り雨ですめばいいけれど……」<br />
と、蒼星石は呟いた。<br />
ふたりは一時間ほど粘ったが、けっきょく雨はやまなかった。雪華綺晶は職員<br />
室で電話を借り、家へ連絡を入れた。一〇分ほど経つと白崎が車でむかえに来<br />
た。蒼星石は雪華綺晶と同車して、家まで送ってもらった。<br />
<br />
蒼星石がこの夜に見た夢は、以前に見た、あの墨色の空の出てくる夢だった。<br />
あの夢のつづきのようだった。そのためなのか、蒼星石は今回の夢において、こ<br />
れが夢だと認識できた。現実と思わなかった。<br />
前回は階段がなくなり、視界が全く真っ暗になったところで落ちたが、落ちた先<br />
には底があったようで、蒼星石はどこまでも落ちるということなく、ざらざらとした<br />
砂の積もる底にとどまった。蒼星石はその砂をつかんで体を起こした。<br />
視界は変わらず暗かったが、それに恐怖といったものを感じたりはしなかった。<br />
夢だとわかっていたからである。<br />
落ちた時に体をしたたかに打ちつけたらしく、腰や尻が痛かった。夢と知り、夢<br />
で痛みを感じた。こういう夢をなんと言ったか。蒼星石はふと考えたが、どうにも<br />
思い出せなかった。しかし、大して気になるようなことでもなかった。<br />
視界は暗かったが、まばゆい光をあびているような感覚がした。それはおそらく、<br />
蒼星石が今まさに起きようとしているからだった。現実はとうに朝になっていて、<br />
部屋は電気が点いているか、雨戸が開けられたがために、その光が夢にまで入<br />
り込んでいるのだった。<br />
蒼星石はその場に座ったまま目をつむった。つむって、――早く起きてしまえ、<br />
と念じた。<br />
蒼星石は目をひらいた。現実ではなく、夢の中においてである。ふいにひとの<br />
気配がしたので、目をひらかないわけにはゆかなかった。<br />
目の前に、ぼんやりと白い光があった。光源とするにはあまりにも頼りないほ<br />
のかな光だった。やがてその光は明確な輪郭を得て、ついにはひとのかたちを<br />
得た。<br />
蒼星石の知っている〝かたち〟だった。写真で見たことのある姿だった。養父<br />
母の死んだ息子に違いなかった。一樹という。<br />
幽霊だ。幽霊の出る夢を、蒼星石は今まさに見ている。蒼星石は立ち上がった。<br />
最初蒼星石を見下ろしていた一樹は、蒼星石が立つと今度は彼女を見上げた。<br />
ひどく小さな子どもだった。<br />
ふたりはじっとお互いを見つめ、それ以外のなにもしなかった。声をかけあうこ<br />
ともなかった。指先のちょっとも動かさなかった。ただ時々思い出したようにまば<br />
たきをする程度だった。<br />
蒼星石は、突然ひたいに鋭い痛みの走るのを感じた。<br />
「いたっ」<br />
と、思わず叫んでしまった時、彼女は夢から抜け出して、目を覚ました。ひたい<br />
の痛みは翠星石に叩かれたせいで走ったものだった。<br />
天井の電灯の明るさが目にぶつかって痛かったので、蒼星石はとっさに右手を<br />
動かしてかざそうとしたが、その前に、たった今蒼星石のひたいを叩いたばかり<br />
の翠星石の手にやわく当った。<br />
「やっと起きた」<br />
と、翠星石はにやにやと笑いながら言った。<br />
蒼星石は当った翠星石の手をつかんでのかすと、床に肘をついて上体を起こ<br />
した。<br />
雨の音がする。窓に目をやると、翠星石が開放したらしい窓の外で、ざあざあと<br />
雨の降っているのが見えた。昨日から降っている雨が、今日の朝になってもまだ<br />
やんでいない。<br />
時計の針は、いつもの起床時間からだいぶん過ぎた時刻を示していた。翠星<br />
石に「やっと起きた」と言われるわけだ、と蒼星石は納得した。<br />
それにしても笑っているのは解せない。理由を訊くと、翠星石は一言、<br />
「寝言」<br />
とだけ言った。どうも翠星石に笑われてしまうような寝言を言っていたらしい。蒼<br />
星石は、しかし、先ほど見た夢において自分が喋ったという記憶がなかったので、<br />
首をひねった。忘れてしまっただけかもしれない。そう思いつつ、腑に落ちないも<br />
のを感じた。かんじんの寝言の内容は、教えてほしいとたのんでも教えてもらえ<br />
なかった。<br />
蒼星石は、八月初めの登校日の朝まで、同じ夢を見つづけた。一樹の出てくる<br />
夢である。蒼星石と一樹は、いつも無言のまま、ただ突っ立ってお互いを見てい<br />
た。それだけの夢だった。<br />
そのあいだ、蒼星石はかならず翠星石に起こされた。翠星石に起こしてもらわ<br />
なければ、どうしても起きられなかった。<br />
起きるたびに、翠星石に寝言のことを言われた。登校日の朝に、翠星石は寝言<br />
の内容を教えてくれた。蒼星石はひらすら翠星石の名を呼んでいて、寝言はそ<br />
れしか聞いたことがないと、翠星石は言った。<br />
しかし、蒼星石は夢の中で翠星石の名を呼んだことなどなかった。蒼星石のと<br />
ってあの夢は、姉に助けを求めたくなるような悪夢ではなかったからである。呼<br />
んだのは、それこそ、あのきもだめし以前に見た、墨色の空の出てくる夢におい<br />
てだけだった。少なくとも、彼女が憶えている範囲ではそうだった。<br />
養父にそれらのことをあまさず話すと、彼は、ひとというのは自分の見たいと思<br />
ったものを見、あるいは、見たくないものを、見たくないゆえに見えもしないのに<br />
見る、夢に見るのも同じだ、と言った。<br />
……すると、蒼星石の見た一連の夢やきもだめしの時の人影も、その類だった<br />
のだろうか。幽霊は死者で、なるほど、蒼星石にとっていちばん身近な死者は、<br />
一樹であることに違いない。夜の学校・きもだめしに付物の出現を望んで、出て<br />
きたのが、あの人影と、夢の一樹ということだった。<br />
墨色の空の夢についてはまだわからなかったが、見たいものを見、見たくない<br />
ものを見るのがひとだと言われたばかりだったし、そもそも夢にそこまでの理屈<br />
を求めるものでもないと思った。<br />
「翠星石と一樹くんにわるいことをした」<br />
と、蒼星石は言った。もうしわけない気持ちでいっぱいだった。父は少し困った<br />
ように笑ってから、なにも謝るようなことじゃない、と言うと、<br />
「蒼星石も、ひとなみにそういうことを望むのだな」<br />
ひかえめでおとなしい、この寡欲な娘の頭を撫でた。<br />
<br />
<br />
<br />
おしまい。</p>