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『家政婦 募集中』」(2007/02/06 (火) 02:39:09) の最新版変更点

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<p><br> <br>   『家政婦 募集中』<br> <br> <br> 電柱に貼られた、そのチラシを見たのは、五月の半ば……<br> ゴールデンウィークが終わって、すぐのことだった。<br> <br> <br> 「家政婦……か」<br> <br> 思わず口を衝いた独り言が、やたらと虚しく聞こえたのは、暗澹たる心境のせい。<br> それは、見聞きするもの全てに灰色のフィルターをかけて、色褪せさせる。<br> もう随分と長い間、原色の世界を見ていない。<br> 私はいま、人生に迷っていた。<br> <br> <br> 私の人生を動かす時計に、狂った歯車が組み込まれたのは、何時のことだったのだろう。<br> マイクロ、いや……ナノか、ピコか、フェムトか――<br> 恐ろしく微細な誤差を持った部品が、元々あった部品と付け替えられ、<br> なに食わぬ顔で動き続けていたのだ。気付かない私を、嘲笑いながら……。<br> <br> 私はさながら、病原菌に感染した病人だった。<br> 命を蝕まれていることを自覚できずに、光あふれる幸せな未来に向かっていた。<br> いや、向かっていると、思い込んでいた。<br> 自分の足元から伸びる影が、危害を及ぼす病魔だなんて、考えもせずに。<br> <br> 中学、高校、大学――<br> ここまでは順調だった。なにもかもが順調すぎて、それが当たり前になっていた。<br> <br> <br> 私の人生時計に変調が現れ始めたのは、大学2年の時だろうか。<br> 本当は、それ以前から微かな予兆がでていたのだろうけれど、<br> 私がハッキリと自覚できたのは、あれが最初だったと思う。<br> <br> 高校の時から交際していた笹塚くんとの破局。<br> なにがいけなかったのか、私には解らない。彼にも、解らなかったと思う。<br> ただ、今まで経験したことのない、不自然で大きな波が訪れたのは、確かだった。<br> 世界の全てが、繋がれた二人の手を引き裂こうとするように周り、<br> 私たちは洗濯機に放り込まれた衣類のように翻弄されて――手を放してしまった。<br> あとはもう、なにがなんだか解らず、野となれ山となれ。<br> <br> 幸せを詰め込んだ宝箱――<br> そう信じて、私が手にしていた物は、結局……ただの空き箱だった。<br> 綺麗な印刷が目を惹くけれど、その実、中身はからっぽ。<br> 幸せのカケラだと思って、躍起になって拾い集めてきたソレは、ガラクタでしかなかった。<br> プラチナ、ゴールド、エメラルド、サファイア、ルビー、オパール、アメジスト、ダイアモンド。<br> 夢中になって磨いていた貴金属や宝石は、悉く、アルミや真鍮、ガラス片だった。<br> <br> (あの時は、ホントに虚しかったなぁ)<br> <br> それまでの価値観が、根底から覆されて、私の中から『希望』の文字が失われた。<br> 地崩れに遭った木のように、ただ、谷へ奈落へと滑り落ちていくだけ。<br> 誰も、なにも……私の支えには、ならなかった。<br> <br> <br> ――そして、現在。<br> 辛うじて大学を卒業した私は、今をときめくフリーターに成り果てている。<br> いわゆる、ワーキングプア。随分とまあ、堕ちてきたものだ。<br> <br> <br> 働けど働けど、我が暮らし楽にならざり……<br> そう詠ったのは、武者小路実篤だっけ? いや、違う。石川啄木だった。<br> 最近、どうも頭の回転まで鈍くなったように思う。<br> ひょっとして、若年性の痴呆だとか…………いや、まさかね。<br> <br> 鬱々と沈みがちな気分を紛らすように、努めて顔を上げる。<br> 目の前には、相も変わらず、電柱と……家政婦募集の貼り紙があった。<br> 先方が希望する勤務時間は、丁度、バイトの合間に当てはまっている。<br> <br> 「やって……みようかな」<br> <br> 最初は、そんな軽い気持ちだった。<br> <br> <br> <br> 携帯電話で連絡を入れ、履歴書を手に訪ねた家は、私のココロを激震させた。<br> そこは、高校一年生時代に同級生だった男の子の住まい。<br> ちょっとしたトラブルで、登校拒否と引きこもりを始めたんだっけ。<br> あれ以降、彼の顔を見た憶えがない。<br> 葬儀が行われた記憶がないから、多分、まだ生きてはいるハズだけれど。<br> <br> 来ない方がよかったかな。少し、躊躇と後悔が、顔を覗かせる。<br> でも、電話でアポ取った手前、ドタキャンするのは失礼だ。<br> <br> 「あれから、もう何年も経ってるんだし……平気よ、きっと」<br> <br> 門の前で拳を握り、自分に言い聞かせる私を、周囲の人はどんな目で見たのだろう。<br> ヘンな女。きっと、そうだわ。だって、自分でも、そう思うもの。<br> <br> <br> <br> 私を出迎えてくれたのは、とても人の好さそうな女性だった。<br> 緩くウェーブのかかった髪と、まん丸で大きなメガネの奥の、愛嬌たっぷりの笑顔。<br> ずっと以前に、一度だけ会ったことがある。彼のお姉さんだ。<br> あれは……親友の巴に付き合って、プリントを届けに来た時だったかな。<br> <br> 「本当に、よく来てくれたわぁ。チラシを見て、来てくれたの?」<br> <br> 彼女――桜田のり(年齢不詳)さんは、そう言いながら、<br> ソファに座る私の前に、ティーカップを置いた。<br> 私は「ええ、まあ」と、気の利かない挨拶しか出来なくて、自分がイヤになった。<br> 昔はもっと、社交的に振る舞えたハズなのに。<br> <br> 「あ、あの……これ、履歴書です。お願いします」<br> 「はぁい。じゃあ、お預かりしますねぇ」<br> <br> 私と向かい合わせで、のりさんは優雅な仕種で、ソファに腰を降ろした。<br> あまりに上品なものだから、つい、目を奪われてしまう。<br> だが、彼女の瞳が、手にした履歴書を走るにつれて、私の緊張も高まっていった。<br> <br> 「桑田……由奈さん」<br> 「は、はひゃっ」<br> <br> それほど突然のことでもなかったのに、私の返事は裏返り、彼女の笑いを誘った。<br> <br> 「そんなに、緊張しなくても良いのよぅ。さ、お茶でも飲んで、くつろいでね」<br> <br> 言って、のりさんは自分もティーカップに唇を付けた。<br> 私に遠慮させないためだろう。彼女の細やかな配慮が、嬉しかった。<br> <br> <br> <br> それから暫くの間、私たちはお互いを理解するため、暢気に語らい合った。<br> 女の子同士で、歳の近さもあり、共通の話題は幾らでも見つけられる。<br> のりさんは気さくに接してくれるし、にこやかに私の話を聞いてくれるので、<br> ついつい、私も話を広げすぎてしまった。<br> <br> 「女子大生の就職が厳しいとは聞いていたけど、ホントそうですよ。<br>  才能とか、容貌とか、ほかの娘より傑出したものがないと、勝負にならないです」<br> 「そうよねぇ。でも、由奈ちゃんくらい可愛かったら、どこか採用してくれそうだけど」<br> 「お茶くみ係として? それとも、マスコットとして?」<br> <br> 自分でも、イヤな言い方をしたものだと思い、後悔した。<br> 素直に『可愛い』と言ってくれたことを喜べばいいのに、憎まれ口を叩くなんて。<br> ひねくれた自分の性根を垣間見て、また、自分が嫌いになる。<br> <br> 「私は……そんなのイヤ。私は、会社や上司の人形じゃないもの。<br>  ちやほやされるのは若い内だけで、30過ぎればお局様よばわりでしょ。<br>  この世は所詮、見せかけばかりの平等で、実際は男尊女卑が罷り通っているのよ。<br>  だから、女は子供を産む機械だなんて、バカなこと言う輩でも議員になれるんだわ」<br> 「あらあらぁ。居たわねぇ、そんな人が」<br> 「あれが、外国の政治家を欺くため暗愚を装う策だったとしたら、<br>  私『貴方のためなら死ねます』って平伏しちゃいますよ、ホントに」<br> <br> よほど日頃の鬱憤が堪っていたのか、一気に捲したてていた。<br> そして、急に気恥ずかしくなり、テーブルのティーカップに目を落とす。<br> 私は、ここに面接を受けに来たのに……なにしてるんだろう。<br> <br> 口を噤んだ私に、のりさんは大人の余裕を湛えた笑みを見せて、言った。<br> 「ジュン君に、会ってくれる?」<br> <br> <br> 彼の名を耳にして、私の心臓が一拍、躍った。<br> 桜田くんが登校拒否するようになった一因は、私にもあるからだ。<br> もちろん、私が仕向けたワケじゃあないけれど、やはり気後れしてしまう。<br> <br> 「巴ちゃんは今でも、よく来てくれるのよぅ」<br> <br> その声で、私は顔を上げた。「巴が?」<br> 「ええ」と、のりさんは頷いた。<br> <br> 「由奈ちゃんは、巴ちゃんと会ってないの? お友達でしょう」<br> 「高校を卒業してから、あの子とは会ってないです。別の大学に進んだので。<br>  親友と言っても、疎遠になるときは、呆気ないものですね」<br> <br> まるっきり他人事のように喋る自分に、驚かされる。<br> 私は、こんなにも変わってしまったのかと思い知らされて、愕然とした。<br> ほんの数年のことなのに、今では、海の果て、空の彼方……いや、それ以上。<br> まるで、歴史の教科書を眺めて、過去に想いを馳せている気分だった。<br> <br> でも、のりさんは……初めて会った頃と変わらぬ笑みで、私を諭す。<br> <br> 「その気になりさえすれば、距離は縮められるものよぅ。<br>  だって、みんな同じ時代を生きてるんだもの」<br> <br> 自明の理だ。それすら失念していた自分が滑稽で、私は噴き出していた。<br> と、そこへ――<br> <br> みしり、みしり。<br> 階段を踏む音が降りてきて、私たちは唇を閉ざした。<br> <br> <br> 程なく、ひとりの青年が、私たちの居る応接間に顔を見せた。<br> 高校一年の頃より、すらりと背が伸びて、顔つきは険しくなっている。<br> メガネを掛けていたけれど、間違いなく、桜田くんだった。<br> 引きこもりだから、もっと、こう……お相撲さんみたいに太った姿を想像していた私は、<br> 意外さのあまり、まじまじと彼を見つめてしまった。<br> <br> 「あ――」呻きともつかない声を漏らした彼の表情が、見る見るうちに強張り、青ざめていく。<br> なんで、お前がここにいるんだ? 彼の目が、そう問いかけてくる。<br> <br> 「ひ……久しぶりね、桜田くん。私――」<br> <br> あまり刺激しないよう、穏やかに挨拶したつもりだったけれど、<br> 彼は口元を押さえるなり、脱兎の如く走り出した。<br> のりさんは慣れているのか立ち上がらず、私に哀しげな目を向け、言った。<br> 「ジュン君の様子を、見に行ってあげて。お願いよぅ」<br> <br> 何故かは解らないけれど、私は素直に頷き、彼の後を追いかけていた。<br> <br> <br> 桜田くんは、トイレでひどく嘔吐していた。私は隣に膝をつき、彼の背を撫でさする。<br> 彼は咳き込みながらも、徐々に、呼吸を落ち着けていった。<br> <br> 頃合いを見計らって「大丈夫?」と、声を掛けてみた。<br> 本音を言うと、怖かった。彼に「うるさい!」と怒鳴られ、突き飛ばされるんじゃないかって。<br> でも、桜田くんは――寂しげで、弱々しく、疲れ切った眼差しを私に向けて、<br> 「ありがとう」と、ただ一言だけ。<br> その時、私の中に、不思議な感情が芽生えた。<br> 落ちぶれた者同士が、慰め合う相手を見付けて、縋りたかったのかも知れない。<br> それでも私は、こう思っていた。彼の側に、居てあげたい……と。<br> <br> <br> <br> <br> 桜田家で、家政婦の仕事をするようになって、三日目のこと――<br> 初めて、彼の方から声を掛けてくれた。<br> <br> 今までは、ずっと部屋に籠もりっきりか、たまに廊下で顔を合わせると、<br> 吐き気をもよおしてトイレに駆け込んでいたのだ。<br> それからすると、だいぶ打ち解けてくれた証拠だろう。<br> なんとなく、野生動物に懐かれたような喜びを覚えて、私は彼に笑い掛けていた。<br> <br> 「どうしたの、桜田くん。お腹すいた?」<br> 「……いや、その……いつも、ありがとな」<br> <br> 家事のことだろうか。それとも、彼が嘔吐する度に、介抱していることだろうか。<br> 私は「気にしなくても良いのに」と、応じる。<br> これは仕事なのだし、半分は、私が好きでやっていることだ。<br> だから、彼に感謝される謂われはない。<br> <br> 「ねえ。ちょっと、お話しましょうか」<br> <br> 仕事の手を止めて、私が提案すると、桜田くんはコクリと頷いた。<br> <br> 「貴方は座ってて。お茶、煎れるね」<br> <br> 他人の家だけれど、今では勝手しったる我が家に等しい。<br> ちょっと厚かましいかなぁ、なんて後ろめたく思いながら、焙じ茶を煎れた。<br> 私たちはソファに座って、向かい合う。けれど、彼は私を見ようとしない。<br> ばつが悪そうに、顔を背けたままだった。あの時から、ずっと。<br> <br> 「そう言えば、巴……よく来てるんですってね」<br> <br> 桜田くんとの共通の話題と言えば、高校の頃にまで遡らなければならない。<br> そうなると、どうしてもあの忌まわしい事件に言及せざるを得なくなるワケで……<br> 結局、無難に友人関係の話となる。<br> 巴の名を聞いて、彼の肩が、ぴくりと揺れた。<br> <br> 「柏葉は、このところ来てないんだ」<br> 「知ってる。ここへ面接に来た日、久しぶりに彼女の家に電話してみたの。<br>  そうしたら、海外出張だって。新卒入社なのに、バリバリのキャリアウーマンよねぇ」<br> 「そっか。凄いんだな、あいつ」<br> 「ホントよね。それに引き替え、私なんて大卒だけど内定もらえず、しがないフリーター。<br>  所詮、学歴なんて空虚な肩書きなんだわ。惨めになっちゃう」<br> 「それを言ったら、僕なんかニートだぞ。もっと惨めだ」<br> <br> いかにも哀れっぽく吐き捨てて、桜田くんは肩を竦めた。<br> でも、背けられた横顔は、微かに笑っている。自嘲めいた冗談なのだろう。<br> 知らず、私も彼と同じ仕種を真似していた。<br> <br> 「片や、学年のプリンセス。片や、ドレスのデザイナー。<br>  お互い、落ちぶれたも――あっ!?」<br> <br> 調子に乗って、うっかり禁句を口にしてしまった。<br> 慌てて、両手で口を押さえた私に、彼はゆっくりと顔を向けた。<br> <br> 「そんなに気を遣わないで良いよ。僕なら、大丈夫だから」<br> <br> 確かに、吐き気は催さなかった。でも、ココロに負った傷が癒えたわけではない。<br> ふらりふらりと、階段に向かう彼の背中を見送りながら、<br> 私は、ごめんなさい……と、囁くことしか出来なかった。<br> <br> <br> <br> <br> 勤めだしてから、一週間が過ぎた。思いの外、馴染んでる自分に驚かされる。<br> フリーターの私にとっては、五月病などアフリカあたりの風土病に等しい。<br> 無縁であるが故に気楽であり、また、ちょっとの劣等感を覚えるのも厳然たる事実。<br> どこかの会社に、正社員として雇用されていれば、今頃は、私も――<br> そんな、詮無いことを考えながら、今日も家事に勤しむ。<br> 洗濯物を干しつつ見上げた皐月の空は、夏の気配を匂わせ、どこまでも高かった。<br> <br> (意外に私、こういう生活の方が相応しかったりして)<br> <br> 人生を諦めたワケじゃない。<br> 狂った時計に引きずられて、ずるずると堕ちていくつもりなんか、無い。<br> でも、家庭に安住の地を求めるのも、悪くないかと思えた。<br> もっとも、相手が居れば……の話だけれど。<br> <br> <br> 洗濯、掃除を終えて、私はお昼の下準備でもしようと、冷蔵庫を開いた。<br> そして、いつもながら憂鬱な溜息を吐く。<br> ハッキリ言って、不健康。レトルト食品や、日持ちしそうな食べ物ばかりで、<br> 生鮮食品が乏しいんだもの。<br> 戸棚を開けても、缶詰やらパスタ、カップ麺が目立つ。<br> <br> 「仕方ないわね。いっちょ、買い物に行きますか」<br> <br> 私は支度を済ませて、階下から桜田くんの部屋に声を掛けた。<br> すると、いつもは呻くような声しか返ってこないのに、今日に限って彼が顔を見せた。<br> しかも、意外なことを口にしたから、二度ビックリ。<br> <br> 「僕も、一緒に行っていいか」<br> <br> <br> どういう風の吹き回しか。<br> いやいや、これは喜ぶべき変化かも知れない。<br> 毎日、私と……忌まわしい過去と顔を突き合わせている内に、彼の中で、<br> 気持ちの整理がつき始めているのだとしたら、大きな前進だ。<br> <br> 「平気なの?」<br> 「解らない。だけど……独りじゃ絶対にムリだから」<br> 「……うん。一緒にお出かけしよ」<br> <br> 目深に野球帽をかぶった彼と手を繋いで、私たちは町に出た。<br> 平日の午前十一時。なんだか、長閑な空気。時間の経つのが遅く感じられる。<br> たまに、通行人と擦れ違うとき、彼は強く私の手を握り、身を強張らせた。<br> その度に、私も桜田くんの手を握り返して、大丈夫だから……と囁きかけた。<br> <br> そんなことを繰り返し、騙し騙しの状態で買い物を済ませた頃には、<br> 桜田くんは、すっかり消耗しきっていた。<br> やっぱり、いきなりは辛いよね。筋力トレーニングと同じよ。<br> <br> 「少し、そこの公園で休んでいきましょうよ」<br> 「……悪い」<br> 「気にしない、気にしない。気持ち悪くなったら、言って」<br> 「平気……」<br> <br> 木陰のベンチに彼を座らせて、近くの自販機で冷たいジュースを買った。<br> それを額に当ててあげると、桜田くんが安堵の息を吐く。<br> <br> 「ひどい汗ね。これ、使って」<br> <br> 私が差し出したハンカチで汗を拭うとき、何年かぶりに、メガネを外した彼を見た。<br> <br> <br> (ウソ……やだ。結構イケメンじゃない)<br> <br> 頬に、外気とは違う熱を感じた。<br> こういうの、ショタコンって言うのかしら。ううん。違うわね、きっと。<br> だって、高校生の頃は、ただの同級生。恋愛感情は疎か、何の感情も抱いてなかった。<br> 私にとって、彼は私を取り巻く環境の一部。<br> 教室に並んだ机や、黒板、道端の電柱に等しい存在でしかなかったんだもの。<br> <br> 「ねえねえ、桜田くんっ。コン……」<br> <br> コンタクトレンズにしないかと言いかけて、思い留まった。<br> 他の女の子たちに、おいそれと見せてあげるのが、急に惜しくなったからだ。<br> 彼の素顔を眺める特権は、私やのりさんだけが持っていればいい。巴にだって、見せたくない。<br> <br> 「なんだ、コンって?」<br> 「えっ? ああ……その、ええと……なに?」<br> 「僕が訊いてるんだろ」<br> 「あっ、そうよね。そうそう! あはは――」<br> 「……お前、大丈夫かよ」<br> <br> 訝しげな瞳で私を見つめる彼に、咄嗟の思い付きを口にする。<br> <br> 「こん……今度、もう少し外出慣れしたら、映画を見にいかないかなぁーって」<br> 「……いいよ」<br> 「えっ?」<br> 「今度、一緒に行こう」<br> <br> 聞いた途端、どうしてだか解らないけれど、私は涙を止められなくなっていた。<br> 恥ずかしすぎて泣けちゃったのかな。<br> そうだわ……きっと、そういうコトなのよ。<br> <br> <br> <br> <br> それから更に一週間が過ぎて、もう半月になるのかぁ……と、改めて思う。<br> 月日の経つのは早いものね。あー、なんか年寄り臭いわ、私。<br> <br> それにしても、桜田くんの回復ぶりは、目を見張るものがある。<br> 初めてこの家に伺ったときは、私と顔を合わせることも出来なかったのに、<br> 今では真っ直ぐに目を合わせて、気軽にお喋りするほどだ。<br> もっとも……まだ、のりさんと私に限っての話なんだけどね。<br> <br> 桜田くんの変貌ぶりを日々見守り、嬉しく想う一方で、ふと、不安を感じることがある。<br> もしも巴が帰国したら、桜田くんは誰を見つめるのだろうか――と。<br> 私? それとも、巴を選ぶ?<br> <br> 分からない。<br> そもそも、巴と桜田くんが、そういう間柄である証拠などない。<br> ただ……親友として、巴の気持ちには気付いていた。<br> あの子は、桜田くんのことが好きなのだ。口に出して言ったことは、一度もないけどね。<br> だから、学級委員の仕事にかこつけて、足繁くここを訪れていた。<br> <br> <br> このまま、私は居ても良いのかしら。居続けるべきなの?<br> それとも、桜田くんの引きこもりが治って、家政婦が不要になったら、はいサヨナラ?<br> <br> 「痛いっ!」<br> <br> バカなことを考えながら料理なんかしてたから、包丁で指を切ってしまった。<br> 私の声を聞きつけた彼が、心配そうに駆けつける。<br> そして、遠慮する私をたしなめて、怪我の治療をしてくれた。<br> ――そんなに、優しくしないで。<br> 私のココロの声は、しかし、声にならない。する気もなかった。<br> <br> <br> <br> <br> 1日ごとに、私の中でナニかが膨らんでいく。<br> 今までに感じたことのない強い想いが、私を戸惑わせる。<br> そして、彼との再会から、二十日が過ぎた日のこと――<br> <br> 彼の方から、映画に誘われた。<br> <br> <br> 異存などなかった。即答でイエス。<br> 私たちは駅ビルに行って、上映時間まで喫茶店でのんびり過ごし、映画館に入った。<br> 座席は後方の、左隅。どこでも良かったワケじゃない。敢えて、そこを選んだ。<br> 上映時間の関係か、入場者数は少ない。<br> 天にまします誰かさんが気を利かせてくれたのか、私たちの周りに座る客は居なかった。<br> <br> 照明が落とされ、しつこいほどテレビCMされている映画が始まった。<br> 壮大なファンタジー小説が題材の映画らしいけれど、内容なんて、どうでもいい。<br> 作った人たちには申し訳ないけど、私の目はスクリーンを見ていないから。<br> <br> 繋いだ掌が、じわりと汗ばみだした頃、私はそっと、手を解いた。<br> どうした? 不思議そうに私を見る彼の目が、そう語った。<br> <br> 「ねえ……ちょっといい?」<br> <br> 訊いたけれど、答えは待たず、彼のメガネを外した。<br> <br> 「なにするんだよ、見えないだろ」<br> 「この距離で、私も見えないくらいのド近眼なの?」<br> 「ああ。ぼやけて、ぜんぜん分からないよ」<br> 「そう……だったら」<br> <br> <br> 私はグッと身を乗り出し、顔を近付けて……彼の唇を奪った。<br> 奇しくも、スクリーンの中で、主人公とヒロインも同じコトをしていた。<br> <br> 「これだけ近付いたら、見える?」<br> 「……うん」<br> 「じゃあ、もう一度――<br>  もっと私を見て。私だけを、見つめて」<br> <br> 気持ちを伝えたけれど、答えは待たず、彼の口を塞いだ。<br> 彼の返事を待つ間に、この幸せが指の間から零れ落ちてしまうのが、怖かったから。<br> <br> 私は、貴方だけのプリンセスになりたい。<br> 貴方は、私だけのナイトに、なってくれるの?<br> <br> 答えを知りたい……でも、やっぱり……知りたくない。<br> <br> <br> <br> <br> もうすぐ、一ヶ月が経つ。私は、幸せだ。今もガッツリ継続中。<br> 彼は、私のためにドレスを作ってくれると、約束してくれた。<br> 高校一年生の時、事件の発端となった、あのドレスを。<br> それは、彼にとって過去との決別と、新しい人生への出発を意味する。<br> <br> 私は、あのドレスを纏って、ジュンとのウェディングを迎える予定だった。<br> <br> 夢のジューンブライド。<br> ずるずると滑り落ちてきた私の人生にも、やっと……光が射し始めたみたい。<br> <br> <br> <br> <br> こよみは梅雨に入り、各地で例年にない雨量が記録され、少なからぬ被害が出ていた。<br> 地球温暖化の影響だろうか。ここ数年、世界各地で異常気象が目立つ。<br> 今日も朝から土砂降りで、さすがに仕事に行けず、私はテレビで天気予報を眺めていた。<br> 彼から電話が入ったのは、そんな時だった。<br> <br> 『ドレスが完成したんだ。雨足も弱まったし、これから見せに行くよ』<br> 「え? いいわよ、明日で」<br> 『1秒でも早く、由奈に着て欲しいんだよ』<br> 「でも、危ないわ。ドレスだって、びしょ濡れになっちゃう」<br> <br> 渋る私に「大丈夫だって」と安請け合いして、ジュンは通話を切った。<br> まったく、変なところで強情なんだから。<br> <br> とは言うものの、正直なところ、すごく楽しみだった。<br> イラストを見て、完成イメージは分かっている。早く、袖を通してみたい。<br> 私は、緩む頬をピシャピシャ叩いて、彼が来たときのために、タオルなどの用意を始めた。<br> ポットのお湯を沸かし、お風呂の用意もしておく。<br> 準備をしている時の私は、間違いなく、世界中の誰よりも幸せだった。<br> もうすぐ、ジュンが来る。濡れネズミになって、玄関のドアを潜ってくる。<br> 私は玄関に座り込んで、彼が飛び込んでくるのを待った。<br> 出迎えた時にかける言葉を考えていると、寂しいどころか、嬉しくて仕方なかった。<br> <br> <br> <br> <br> やがて10分が過ぎ、1時間になって、3時間が経った。<br> <br> けれど、どれだけ待ち続けても…………彼が来ることは、なかった。<br> <br> <br> <br> <br> その報せは、お母さんの口から伝えられた。<br> 近くを流れる河に架かる橋のひとつが、濁流によって、押し流されたという。<br> 降り続いた雨で、いつの間にか、限界水位を超えていたらしい。<br> <br> 胸が締め付けられるように痛くなって、息をするのも苦しくなった。<br> 彼の家から、私の家まで来る間に、必ず河を渡らないといけないのだ。<br> もし、件の橋が、彼を乗せたまま押し流されたのだとしたら……。<br> <br> <br> 得てして、不安というものは、最悪のカタチで現実となる。<br> あのドレスは、しっかりラッピングされた状態で、橋から少し下流の木に引っかかっていた。<br> そして、付近に、彼の姿は無かった。<br> <br> <br> <br> <br> ジュンが行方不明のまま、私の手元に渡ったドレス。<br> 純白であるべきソレは、僅かに染み込んだ泥水によって、みにくく斑に汚れていた。<br> 落ちぶれたプリンセスには、相応しい衣装かも知れない。<br> 結局、私はどこまでも堕ち続ける運命なのだろう。<br> 時計に組み込まれた、狂った歯車を取り除かない限り、ずぅっと狂いっぱなし。<br> <br> <br> 梅雨前線の勢力が弱まると、私はドレスを携え、彼の家に向かった。<br> 橋は壊れたままで、かなり遠回りしなければいけなかったけど、苦にならなかった。<br> <br> このドレスを最初に着るのは、彼の前で――<br> そう、ココロに決めていたから。<br> <br> <br> <br> 突然の訪問にも拘わらず、のりさんは寂しさ隠し、喜んで迎え入れてくれた。<br> 彼の消息が分からなくなって、もう2日。捜索は続けられているけど、進展はない。<br> 認めたくはないけど、ほぼ絶望的だった。<br> もう、彼は海まで流されて、冷たい水底に横たわっているのかも知れない。<br> 言葉にしないだけで、誰もが薄々、悪い想像を膨らませている。<br> <br> 「彼の部屋で、着替えさせてもらって、構いませんか?」<br> 「もちろんよぅ。さあ、遠慮しないでぇ」<br> <br> 最初は、自分の部屋で着替えて、彼を追いかけようと思っていた。<br> ジュンが見に来てくれないなら、私の方から、見せに行こうと。<br> <br> <br> ――でも、結局、私は行動できなかった。<br> だって、彼はまだ見付かっていない。死んでしまったと、決まったワケじゃない。<br> 早とちりで、ロミオとジュリエットになるのは馬鹿げている。<br> <br> しかし……彼が見付かるのを、ただ待ち続けることも、できなかった。<br> じっとしていると悪い妄想ばかりがココロを占めて、気が狂いそうになる。<br> 何かをしなければ……。そんな強迫観念が、更に私を苦しめた。<br> <br> そこで考えたのが、彼の部屋で、ドレスを着ることだった。<br> 彼の部屋で、彼の代わりに、彼の写真に見てもらおうと思ったのだ。<br> 汚れたプリンセスと、写真のナイト。<br> 惨めで、貧乏ったらしくて、お似合いのカップルだと思わない?<br> <br> 部屋のカーテンを閉ざし、薄暗い部屋の中で、私は着替え始める。<br> それが、虚しさ募らせる私に許された、せめてものココロの慰め。<br> <br> <br> <br> 惜しげもなく、あしらわれたフリル。<br> ふんだんに、と言って、しつこさを感じさせないリボンの群。<br> 品格と美しさを併せ持った、クラウン。<br> 独りで着るのは、意外に大変で、鏡を前に悪戦苦闘していた。<br> ドタバタうるさかったからだろう。のりさんが、手助けに来てくれた。<br> <br> ドレスのスケッチを眺めながら、あれこれ試行錯誤していると、矢庭に、外が騒がしくなった。<br> なんだろうと、二人して首を傾げていた所に、インターホンが鳴る。<br> <br> <br> 「まさか!?」<br> <br> 私と、のりさん。二人の声が見事に重なる。<br> のりさんは弾かれたように走り出して、あちこちの壁にぶつかりながら玄関に向かった。<br> でも、私は着替え中だから、人前に出られない。<br> ヤキモキしながら、階下から届く、くぐもった話し声に聞き耳を立てるしかなかった。<br> そして――<br> <br> 階段を駆け昇ってくる、軽快な足音。あれは、気が急いている時の足音。<br> 私には、すぐに分かった。だって、一ヶ月以上も聞き続けてきたんだもの。<br> 涙に曇る視界の向こう……ドアの前に立つ彼の姿を目にして、私の喉から絞り出されたのは、<br> <br> 「どうして?」<br> <br> ――とだけ。<br> それは、ありとあらゆる『どうして?』の集約。<br> どうして無茶なんかしたの? どうして、無事ならすぐに連絡くれなかったの?<br> どうして――――戻ってきてくれたの?<br> 今こそ聞きたかった。映画館で聞くのを躊躇った、ジュンの答えを。<br> <br> <br> 「言ったろ。大丈夫だ……って。由奈との約束は、どんなことでも、必ず守るよ。<br>  これからだって、きっと守っていく」<br> <br> 臆面もなく、彼が言う。<br> だから、私も照れや恥じらいをかなぐり捨てて、伝えた。<br> <br> 「こんな、見窄らしく薄汚れたプリンセスだけど、良いの?」<br> 「それを言ったら、僕だって傷だらけのナイトさ」<br> <br> ジュンは、包帯の巻かれた腕を上げ、イテテ……と涙を浮かべながら笑った。<br> 後で聞いた話だけれど、ジュンは河口の岸辺に流れ着いて、病院に収容されてたんだって。<br> まるまる二日、意識不明で、身元を確認する物を持ってなかったから、<br> 歯形を元に、歯科医の治療履歴から身元を照合したそうよ。<br> それで、生存確認の連絡が遅れたんだって。気を揉ませてくれるわ、ホントに。<br> <br> 部屋に踏み込もうとして蹌踉めいた彼を、私は駆け寄って、しっかりと両腕で支えた。<br> 高校の、学年集会の時は背けてしまった顔を、今は、真っ直ぐ彼に向けて。<br> <br> 「本当に、私で……良いの? 巴じゃなく?」<br> 「くどいな。なんで柏葉が出て来るんだ。<br>  僕は、由奈のために、そのドレスをデザインした。他の、誰のためでもない」<br> 「私の……ために」<br> 「それに、マイナスとマイナスは、かけ算すればプラスになるだろ。<br>  だったら僕らは、まさにベストカップルじゃないか」<br> <br> どうしようもない、中学生じみた冗談を言って屈託なく笑う彼に、私は抱きついていた。<br> こんな、平凡すぎる生活も、満更じゃない。<br> いい加減、肩肘はって生きるのにも疲れてたし……<br> やっと、堕ちてゆく私を受け止めてくれるヒトの胸に、安らげる場所を見付けたんだもの。<br> <br> <br> 私の涙は、少し薬品くさい彼の服に、音もなく吸い込まれていく。<br> もしかしたら、それは狂った歯車がこすれて、磨耗したカケラだったのかも知れない。<br> キラキラと落ちてゆく涙を見つめながら、彼の温もりを感じているだけで、<br> 不自然な回転が生み出していた不協和音は、徐々に、素直な旋律へと変わっていった。<br> <br> ジュンの手が、私の露わになった背を――素肌を――愛おしげに、撫でる。<br> その優しい指の感触は、得も言われぬ幸福感を、私に与えてくれた。<br> 夢みるような心地に、私を導いてくれた。<br> <br> 「さあ。僕が手伝って、ちゃんと着せてあげるから、離れて」<br> 「……うん。でも…………もうちょっとだけ――」<br> <br> のりさんが遅ればせながら顔を見せたけれど、キニシナイ。<br> <br> 私は……<br> この世で最も大切な人と、1秒でも長く、唇を重ねる。<br> 今や、彼がくれる新たな息吹こそが、私の人生時計のクォーツを振動させる源なのだから。<br> <br> <br>   貴方だけのプリンセス。<br> <br> ユメみていた日が、こんなにも早く訪れるなんて、夢にも思っていなかった。<br> 幸せすぎて怖くなるなんて、初めての経験だった。<br> だから、震えを止めて欲しくて、ジュンに囁く。きつく抱き締めて……と。<br> <br>   泥だらけのドレスを来たお姫様と、包帯だらけの勇敢な騎士。<br> <br> ふたり並んで、のりさんに撮ってもらった写真は……<br> アルバムの、一番初めのページで――幸せそうに、はにかんでいる。<br> <br> <br> <br> <br> 「すっごくいい顔してるわ」<br> <br> 高校を卒業して以来、初めて顔を合わせた親友は、満面の笑みで、そう言ってくれた。<br> 昼休みの時間帯、オフィス街の喫茶店で、再会を果たした時のことだ。<br> 窓辺のテーブルと言うこともあり、初夏の眩しい日射しが、巴の笑顔を輝かせていた。<br> <br> 巴は本当に、ココロから、彼が立ち直ってくれたことを喜んでいる。<br> そして、私たちが幸せになったことを、誰よりも祝福してくれていた。<br> もしかしたら、私に彼を取られて、悲しんでしまうかとハラハラしてたけど――<br> 杞憂だったみたい。巴は、私なんかより大人で、強い人なのね。<br> 彼に縋らなければ、もう生きていけそうもない私なんかより、ずっと強い。<br> <br> <br> 「巴も、彼のことが好きなんでしょ」<br> <br> 二人だけという気兼ねのなさが、無思慮な言葉を誘う。<br> 訊かずとも、答えは解っている。訊けば、巴を傷つけることも。<br> しかし、彼女が笑顔を崩すことはなかった。<br> <br> 「ええ、大好きよ。これからも、ずっと……大好きでいると思う」<br> 「一途なのね。どうして、その想いを伝えなかったの?」<br> 「それは…………私は、桜田くんに必要とされなかったから」<br> <br> なんの冗談かと問い返すより先に、巴の深く澄んだ瞳が、私を制した。<br> <br> 「気付いてなかったの、由奈。彼が本当に必要としていたのは、貴女なのよ」<br> 「……ウソ?」<br> 「本当よ。その証拠に、彼は由奈と再会して、殻を破ることが出来たわ。<br>  私が、どれだけ通い詰めて、励ましても、気持ちは届かなかったのにね」<br> <br> 言われてみれば、確かに、そうだった。<br> 彼の元を訪れた回数ならば、巴の方が、間違いなく多い。<br> <br> にも拘わらず、彼は私を選んでくれた。巴じゃなく、私を。<br> そして、私と一緒に居ることを、望んでくれた。<br> これ以上の喜びは、ちょっとやそっとで見付けられそうもない。<br> <br> 巴は「そういうコトなのよ」と呟いて、カップに残る冷めたコーヒーを飲み干した。<br> 本当は辛いだろうに、相変わらず気丈な人ね。<br> そんな貴女だから、たくさんの人に好かれるんだろうけど。<br> <br> <br> 「あ……わたし、そろそろ行かなきゃ」<br> <br> 巴は腕時計に目を落とし、伝票を摘んで席を立った。<br> そして、私に向けて、不器用なウインクをひとつ飛ばした。<br> <br> 「もし、由奈が桜田くんに飽きた時には、連絡して。いつでも引き取りに行くから」<br> 「巴に新しい恋人ができる方が、先じゃないかしら?」<br> 「……そうかも」<br> 「そうよ。間違いないわ」<br> <br> 私は自信たっぷりに、そう伝えた。<br> 他人の幸せを、ココロから喜ぶことができる巴だもの。きっと、素敵な人に巡り会える。<br> そうじゃなきゃ、天にまします誰かさんは、とんでもなく底意地が悪い。<br> <br> 「また――会おうね」去りゆく巴の背に、再会の約束を投じる。<br> 振り向くことなく「ええ、また今度」と答えた彼女の声は、一点の曇りもなく澄み切っていた。<br> <br> <br> <br> それから数分と経たず、彼が喫茶店に入ってきた。<br> きょろきょろして、小さく手を振る私を見付けると、足早に近付いてくる。<br> 私の腕時計は、13:00を表示している。<br> <br> 「驚いたわ。ホントに、約束の時間ぴったりね」<br> 「だから言ったろ。由奈との約束は、きっと守るって」<br> <br> どうだと言わんばかりに胸を張るけれど、息切れまでは隠せない。<br> なんだか、こっちが気の毒になってしまう。<br> でも……なにげない彼の気遣いが、とても嬉しい。<br> <br> 「もうちょっと早く着いてたら、巴に会えたのに」<br> 「そうだったのか。柏葉、元気だった?」<br> 「ええ、とっても。貴方を奪い取るって、息巻いてたわ」<br> 「ヒドイ冗談だな」<br> <br> 肩を竦めて、彼が、さっきまで巴が座っていた席に座る。<br> それを不快だとは思わなかった。だって、ほら……彼の瞳は、いつでも私を見てくれる。<br> 私が集めていたのは、貴金属に似た卑金属や、色ガラスばかりだと思っていた。<br> でも、たくさんの紛い物の中には、数える程度だけれど、本物も混じっていたのよね。<br> <br> 私はテーブルの上に両手を伸ばし、ちょん……と、彼の指先をつつく。<br> 手を握って欲しい。それが、二人だけの合図。<br> 彼の手が、まるで壊れ物を扱うかのように、私の手を柔らかく包み込んでくれた。<br> <br> 「考えてみたら、まだ一度も言ってなかった気がするわ」<br> 「なにを?」<br> 「貴方が好きです。愛…………してます」<br> <br> 偽りない気持ち。<br> こんなにも素直な想いを、こんなにも素直に伝えられる。<br> ああ、なんて気分がいいんだろう。<br> <br> 私に生まれ変わるキッカケをくれたのは、貴方。<br> 貴方と出会えなかったら、私はまだ、萎れた花みたいに下ばかり向いていたハズだ。<br> だから、今は……天にまします誰かさんの気まぐれに、感謝しておこう。<br> <br> <br> 「私、いま……すごく幸せ」<br> 「もっともっと、幸せにするよ。約束だ」<br> 「信じてる――」<br> <br> <br> だって、貴方は今まで一度も、私との約束を破ったことがないもの。<br> だから……きっと。<br> <br> <br>   幸せになろう。<br>   本当は、高校一年生の時から結ばれていた、この人と。<br> <br> <br> <br> 窓越しに見上げた、昼下がりの夏空は――<br> <br> ――雲ひとつない蒼穹なのに、雨模様だった。<br> <br> <br> <br> <br>   ~終~<br></p>
<p><br> <br>   『家政婦 募集中』<br> <br> <br> 電柱に貼られた、そのチラシを見たのは、五月の半ば……<br> ゴールデンウィークが終わって、すぐのことだった。<br> <br> <br> 「家政婦……か」<br> <br> 思わず口を衝いた独り言が、やたらと虚しく聞こえたのは、暗澹たる心境のせい。<br> それは、見聞きするもの全てに灰色のフィルターをかけて、色褪せさせる。<br> もう随分と長い間、原色の世界を見ていない。<br> 私はいま、人生に迷っていた。<br> <br> <br> 私の人生を動かす時計に、狂った歯車が組み込まれたのは、何時のことだったのだろう。<br> マイクロ、いや……ナノか、ピコか、フェムトか――<br> 恐ろしく微細な誤差を持った部品が、元々あった部品と付け替えられ、<br> なに食わぬ顔で動き続けていたのだ。気付かない私を、嘲笑いながら……。<br> <br> 私はさながら、病原菌に感染した病人だった。<br> 命を蝕まれていることを自覚できずに、光あふれる幸せな未来に向かっていた。<br> いや、向かっていると、思い込んでいた。<br> 自分の足元から伸びる影が、危害を及ぼす病魔だなんて、考えもせずに。<br> <br> 中学、高校、大学――<br> ここまでは順調だった。なにもかもが順調すぎて、それが当たり前になっていた。<br> <br> <br> 私の人生時計に変調が現れ始めたのは、大学2年の時だろうか。<br> 本当は、それ以前から微かな予兆がでていたのだろうけれど、<br> 私がハッキリと自覚できたのは、あれが最初だったと思う。<br> <br> 高校の時から交際していた笹塚くんとの破局。<br> なにがいけなかったのか、私には解らない。彼にも、解らなかったと思う。<br> ただ、今まで経験したことのない、不自然で大きな波が訪れたのは、確かだった。<br> 世界の全てが、繋がれた二人の手を引き裂こうとするように周り、<br> 私たちは洗濯機に放り込まれた衣類のように翻弄されて――手を放してしまった。<br> あとはもう、なにがなんだか解らず、野となれ山となれ。<br> <br> 幸せを詰め込んだ宝箱――<br> そう信じて、私が手にしていた物は、結局……ただの空き箱だった。<br> 綺麗な印刷が目を惹くけれど、その実、中身はからっぽ。<br> 幸せのカケラだと思って、躍起になって拾い集めてきたソレは、ガラクタでしかなかった。<br> プラチナ、ゴールド、エメラルド、サファイア、ルビー、オパール、アメジスト、ダイアモンド。<br> 夢中になって磨いていた貴金属や宝石は、悉く、アルミや真鍮、ガラス片だった。<br> <br> (あの時は、ホントに虚しかったなぁ)<br> <br> それまでの価値観が、根底から覆されて、私の中から『希望』の文字が失われた。<br> 地崩れに遭った木のように、ただ、谷へ奈落へと滑り落ちていくだけ。<br> 誰も、なにも……私の支えには、ならなかった。<br> <br> <br> ――そして、現在。<br> 辛うじて大学を卒業した私は、今をときめくフリーターに成り果てている。<br> いわゆる、ワーキングプア。随分とまあ、堕ちてきたものだ。<br> <br> <br> 働けど働けど、我が暮らし楽にならざり……<br> そう詠ったのは、武者小路実篤だっけ? いや、違う。石川啄木だった。<br> 最近、どうも頭の回転まで鈍くなったように思う。<br> ひょっとして、若年性の痴呆だとか…………いや、まさかね。<br> <br> 鬱々と沈みがちな気分を紛らすように、努めて顔を上げる。<br> 目の前には、相も変わらず、電柱と……家政婦募集の貼り紙があった。<br> 先方が希望する勤務時間は、丁度、バイトの合間に当てはまっている。<br> <br> 「やって……みようかな」<br> <br> 最初は、そんな軽い気持ちだった。<br> <br> <br> <br> 携帯電話で連絡を入れ、履歴書を手に訪ねた家は、私のココロを激震させた。<br> そこは、高校一年生時代に同級生だった男の子の住まい。<br> ちょっとしたトラブルで、登校拒否と引きこもりを始めたんだっけ。<br> あれ以降、彼の顔を見た憶えがない。<br> 葬儀が行われた記憶がないから、多分、まだ生きてはいるハズだけれど。<br> <br> 来ない方がよかったかな。少し、躊躇と後悔が、顔を覗かせる。<br> でも、電話でアポ取った手前、ドタキャンするのは失礼だ。<br> <br> 「あれから、もう何年も経ってるんだし……平気よ、きっと」<br> <br> 門の前で拳を握り、自分に言い聞かせる私を、周囲の人はどんな目で見たのだろう。<br> ヘンな女。きっと、そうだわ。だって、自分でも、そう思うもの。<br> <br> <br> <br> 私を出迎えてくれたのは、とても人の好さそうな女性だった。<br> 緩くウェーブのかかった髪と、まん丸で大きなメガネの奥の、愛嬌たっぷりの笑顔。<br> ずっと以前に、一度だけ会ったことがある。彼のお姉さんだ。<br> あれは……親友の巴に付き合って、プリントを届けに来た時だったかな。<br> <br> 「本当に、よく来てくれたわぁ。チラシを見て、来てくれたの?」<br> <br> 彼女――桜田のり(年齢不詳)さんは、そう言いながら、<br> ソファに座る私の前に、ティーカップを置いた。<br> 私は「ええ、まあ」と、気の利かない挨拶しか出来なくて、自分がイヤになった。<br> 昔はもっと、社交的に振る舞えたハズなのに。<br> <br> 「あ、あの……これ、履歴書です。お願いします」<br> 「はぁい。じゃあ、お預かりしますねぇ」<br> <br> 私と向かい合わせで、のりさんは優雅な仕種で、ソファに腰を降ろした。<br> あまりに上品なものだから、つい、目を奪われてしまう。<br> だが、彼女の瞳が、手にした履歴書を走るにつれて、私の緊張も高まっていった。<br> <br> 「桑田……由奈さん」<br> 「は、はひゃっ」<br> <br> それほど突然のことでもなかったのに、私の返事は裏返り、彼女の笑いを誘った。<br> <br> 「そんなに、緊張しなくても良いのよぅ。さ、お茶でも飲んで、くつろいでね」<br> <br> 言って、のりさんは自分もティーカップに唇を付けた。<br> 私に遠慮させないためだろう。彼女の細やかな配慮が、嬉しかった。<br> <br> <br> <br> それから暫くの間、私たちはお互いを理解するため、暢気に語らい合った。<br> 女の子同士で、歳の近さもあり、共通の話題は幾らでも見つけられる。<br> のりさんは気さくに接してくれるし、にこやかに私の話を聞いてくれるので、<br> ついつい、私も話を広げすぎてしまった。<br> <br> 「女子大生の就職が厳しいとは聞いていたけど、ホントそうですよ。<br>  才能とか、容貌とか、ほかの娘より傑出したものがないと、勝負にならないです」<br> 「そうよねぇ。でも、由奈ちゃんくらい可愛かったら、どこか採用してくれそうだけど」<br> 「お茶くみ係として? それとも、マスコットとして?」<br> <br> 自分でも、イヤな言い方をしたものだと思い、後悔した。<br> 素直に『可愛い』と言ってくれたことを喜べばいいのに、憎まれ口を叩くなんて。<br> ひねくれた自分の性根を垣間見て、また、自分が嫌いになる。<br> <br> 「私は……そんなのイヤ。私は、会社や上司の人形じゃないもの。<br>  ちやほやされるのは若い内だけで、30過ぎればお局様よばわりでしょ。<br>  この世は所詮、見せかけばかりの平等で、実際は男尊女卑が罷り通っているのよ。<br>  だから、女は子供を産む機械だなんて、バカなこと言う輩でも議員になれるんだわ」<br> 「あらあらぁ。居たわねぇ、そんな人が」<br> 「あれが、外国の政治家を欺くため暗愚を装う策だったとしたら、<br>  私『貴方のためなら死ねます』って平伏しちゃいますよ、ホントに」<br> <br> よほど日頃の鬱憤が堪っていたのか、一気に捲したてていた。<br> そして、急に気恥ずかしくなり、テーブルのティーカップに目を落とす。<br> 私は、ここに面接を受けに来たのに……なにしてるんだろう。<br> <br> 口を噤んだ私に、のりさんは大人の余裕を湛えた笑みを見せて、言った。<br> 「ジュン君に、会ってくれる?」<br> <br> <br> 彼の名を耳にして、私の心臓が一拍、躍った。<br> 桜田くんが登校拒否するようになった一因は、私にもあるからだ。<br> もちろん、私が仕向けたワケじゃあないけれど、やはり気後れしてしまう。<br> <br> 「巴ちゃんは今でも、よく来てくれるのよぅ」<br> <br> その声で、私は顔を上げた。「巴が?」<br> 「ええ」と、のりさんは頷いた。<br> <br> 「由奈ちゃんは、巴ちゃんと会ってないの? お友達でしょう」<br> 「高校を卒業してから、あの子とは会ってないです。別の大学に進んだので。<br>  親友と言っても、疎遠になるときは、呆気ないものですね」<br> <br> まるっきり他人事のように喋る自分に、驚かされる。<br> 私は、こんなにも変わってしまったのかと思い知らされて、愕然とした。<br> ほんの数年のことなのに、今では、海の果て、空の彼方……いや、それ以上。<br> まるで、歴史の教科書を眺めて、過去に想いを馳せている気分だった。<br> <br> でも、のりさんは……初めて会った頃と変わらぬ笑みで、私を諭す。<br> <br> 「その気になりさえすれば、距離は縮められるものよぅ。<br>  だって、みんな同じ時代を生きてるんだもの」<br> <br> 自明の理だ。それすら失念していた自分が滑稽で、私は噴き出していた。<br> と、そこへ――<br> <br> みしり、みしり。<br> 階段を踏む音が降りてきて、私たちは唇を閉ざした。<br> <br> <br> 程なく、ひとりの青年が、私たちの居る応接間に顔を見せた。<br> 高校一年の頃より、すらりと背が伸びて、顔つきは険しくなっている。<br> メガネを掛けていたけれど、間違いなく、桜田くんだった。<br> 引きこもりだから、もっと、こう……お相撲さんみたいに太った姿を想像していた私は、<br> 意外さのあまり、まじまじと彼を見つめてしまった。<br> <br> 「あ――」呻きともつかない声を漏らした彼の表情が、見る見るうちに強張り、青ざめていく。<br> なんで、お前がここにいるんだ? 彼の目が、そう問いかけてくる。<br> <br> 「ひ……久しぶりね、桜田くん。私――」<br> <br> あまり刺激しないよう、穏やかに挨拶したつもりだったけれど、<br> 彼は口元を押さえるなり、脱兎の如く走り出した。<br> のりさんは慣れているのか立ち上がらず、私に哀しげな目を向け、言った。<br> 「ジュン君の様子を、見に行ってあげて。お願いよぅ」<br> <br> 何故かは解らないけれど、私は素直に頷き、彼の後を追いかけていた。<br> <br> <br> 桜田くんは、トイレでひどく嘔吐していた。私は隣に膝をつき、彼の背を撫でさする。<br> 彼は咳き込みながらも、徐々に、呼吸を落ち着けていった。<br> <br> 頃合いを見計らって「大丈夫?」と、声を掛けてみた。<br> 本音を言うと、怖かった。彼に「うるさい!」と怒鳴られ、突き飛ばされるんじゃないかって。<br> でも、桜田くんは――寂しげで、弱々しく、疲れ切った眼差しを私に向けて、<br> 「ありがとう」と、ただ一言だけ。<br> その時、私の中に、不思議な感情が芽生えた。<br> 落ちぶれた者同士が、慰め合う相手を見付けて、縋りたかったのかも知れない。<br> それでも私は、こう思っていた。彼の側に、居てあげたい……と。<br> <br> <br> <br> <br> 桜田家で、家政婦の仕事をするようになって、三日目のこと――<br> 初めて、彼の方から声を掛けてくれた。<br> <br> 今までは、ずっと部屋に籠もりっきりか、たまに廊下で顔を合わせると、<br> 吐き気をもよおしてトイレに駆け込んでいたのだ。<br> それからすると、だいぶ打ち解けてくれた証拠だろう。<br> なんとなく、野生動物に懐かれたような喜びを覚えて、私は彼に笑い掛けていた。<br> <br> 「どうしたの、桜田くん。お腹すいた?」<br> 「……いや、その……いつも、ありがとな」<br> <br> 家事のことだろうか。それとも、彼が嘔吐する度に、介抱していることだろうか。<br> 私は「気にしなくても良いのに」と、応じる。<br> これは仕事なのだし、半分は、私が好きでやっていることだ。<br> だから、彼に感謝される謂われはない。<br> <br> 「ねえ。ちょっと、お話しましょうか」<br> <br> 仕事の手を止めて、私が提案すると、桜田くんはコクリと頷いた。<br> <br> 「貴方は座ってて。お茶、煎れるね」<br> <br> 他人の家だけれど、今では勝手しったる我が家に等しい。<br> ちょっと厚かましいかなぁ、なんて後ろめたく思いながら、焙じ茶を煎れた。<br> 私たちはソファに座って、向かい合う。けれど、彼は私を見ようとしない。<br> ばつが悪そうに、顔を背けたままだった。あの時から、ずっと。<br> <br> 「そう言えば、巴……よく来てるんですってね」<br> <br> 桜田くんとの共通の話題と言えば、高校の頃にまで遡らなければならない。<br> そうなると、どうしてもあの忌まわしい事件に言及せざるを得なくなるワケで……<br> 結局、無難に友人関係の話となる。<br> 巴の名を聞いて、彼の肩が、ぴくりと揺れた。<br> <br> 「柏葉は、このところ来てないんだ」<br> 「知ってる。ここへ面接に来た日、久しぶりに彼女の家に電話してみたの。<br>  そうしたら、海外出張だって。新卒入社なのに、バリバリのキャリアウーマンよねぇ」<br> 「そっか。凄いんだな、あいつ」<br> 「ホントよね。それに引き替え、私なんて大卒だけど内定もらえず、しがないフリーター。<br>  所詮、学歴なんて空虚な肩書きなんだわ。惨めになっちゃう」<br> 「それを言ったら、僕なんかニートだぞ。もっと惨めだ」<br> <br> いかにも哀れっぽく吐き捨てて、桜田くんは肩を竦めた。<br> でも、背けられた横顔は、微かに笑っている。自嘲めいた冗談なのだろう。<br> 知らず、私も彼と同じ仕種を真似していた。<br> <br> 「片や、学年のプリンセス。片や、ドレスのデザイナー。<br>  お互い、落ちぶれたも――あっ!?」<br> <br> 調子に乗って、うっかり禁句を口にしてしまった。<br> 慌てて、両手で口を押さえた私に、彼はゆっくりと顔を向けた。<br> <br> 「そんなに気を遣わないで良いよ。僕なら、大丈夫だから」<br> <br> 確かに、吐き気は催さなかった。でも、ココロに負った傷が癒えたわけではない。<br> ふらりふらりと、階段に向かう彼の背中を見送りながら、<br> 私は、ごめんなさい……と、囁くことしか出来なかった。<br> <br> <br> <br> <br> 勤めだしてから、一週間が過ぎた。思いの外、馴染んでる自分に驚かされる。<br> フリーターの私にとっては、五月病などアフリカあたりの風土病に等しい。<br> 無縁であるが故に気楽であり、また、ちょっとの劣等感を覚えるのも厳然たる事実。<br> どこかの会社に、正社員として雇用されていれば、今頃は、私も――<br> そんな、詮無いことを考えながら、今日も家事に勤しむ。<br> 洗濯物を干しつつ見上げた皐月の空は、夏の気配を匂わせ、どこまでも高かった。<br> <br> (意外に私、こういう生活の方が相応しかったりして)<br> <br> 人生を諦めたワケじゃない。<br> 狂った時計に引きずられて、ずるずると堕ちていくつもりなんか、無い。<br> でも、家庭に安住の地を求めるのも、悪くないかと思えた。<br> もっとも、相手が居れば……の話だけれど。<br> <br> <br> 洗濯、掃除を終えて、私はお昼の下準備でもしようと、冷蔵庫を開いた。<br> そして、いつもながら憂鬱な溜息を吐く。<br> ハッキリ言って、不健康。レトルト食品や、日持ちしそうな食べ物ばかりで、<br> 生鮮食品が乏しいんだもの。<br> 戸棚を開けても、缶詰やらパスタ、カップ麺が目立つ。<br> <br> 「仕方ないわね。いっちょ、買い物に行きますか」<br> <br> 私は支度を済ませて、階下から桜田くんの部屋に声を掛けた。<br> すると、いつもは呻くような声しか返ってこないのに、今日に限って彼が顔を見せた。<br> しかも、意外なことを口にしたから、二度ビックリ。<br> <br> 「僕も、一緒に行っていいか」<br> <br> <br> どういう風の吹き回しか。<br> いやいや、これは喜ぶべき変化かも知れない。<br> 毎日、私と……忌まわしい過去と顔を突き合わせている内に、彼の中で、<br> 気持ちの整理がつき始めているのだとしたら、大きな前進だ。<br> <br> 「平気なの?」<br> 「解らない。だけど……独りじゃ絶対にムリだから」<br> 「……うん。一緒にお出かけしよ」<br> <br> 目深に野球帽をかぶった彼と手を繋いで、私たちは町に出た。<br> 平日の午前十一時。なんだか、長閑な空気。時間の経つのが遅く感じられる。<br> たまに、通行人と擦れ違うとき、彼は強く私の手を握り、身を強張らせた。<br> その度に、私も桜田くんの手を握り返して、大丈夫だから……と囁きかけた。<br> <br> そんなことを繰り返し、騙し騙しの状態で買い物を済ませた頃には、<br> 桜田くんは、すっかり消耗しきっていた。<br> やっぱり、いきなりは辛いよね。筋力トレーニングと同じよ。<br> <br> 「少し、そこの公園で休んでいきましょうよ」<br> 「……悪い」<br> 「気にしない、気にしない。気持ち悪くなったら、言って」<br> 「平気……」<br> <br> 木陰のベンチに彼を座らせて、近くの自販機で冷たいジュースを買った。<br> それを額に当ててあげると、桜田くんが安堵の息を吐く。<br> <br> 「ひどい汗ね。これ、使って」<br> <br> 私が差し出したハンカチで汗を拭うとき、何年かぶりに、メガネを外した彼を見た。<br> <br> <br> (ウソ……やだ。結構イケメンじゃない)<br> <br> 頬に、外気とは違う熱を感じた。<br> こういうの、ショタコンって言うのかしら。ううん。違うわね、きっと。<br> だって、高校生の頃は、ただの同級生。恋愛感情は疎か、何の感情も抱いてなかった。<br> 私にとって、彼は私を取り巻く環境の一部。<br> 教室に並んだ机や、黒板、道端の電柱に等しい存在でしかなかったんだもの。<br> <br> 「ねえねえ、桜田くんっ。コン……」<br> <br> コンタクトレンズにしないかと言いかけて、思い留まった。<br> 他の女の子たちに、おいそれと見せてあげるのが、急に惜しくなったからだ。<br> 彼の素顔を眺める特権は、私やのりさんだけが持っていればいい。巴にだって、見せたくない。<br> <br> 「なんだ、コンって?」<br> 「えっ? ああ……その、ええと……なに?」<br> 「僕が訊いてるんだろ」<br> 「あっ、そうよね。そうそう! あはは――」<br> 「……お前、大丈夫かよ」<br> <br> 訝しげな瞳で私を見つめる彼に、咄嗟の思い付きを口にする。<br> <br> 「こん……今度、もう少し外出慣れしたら、映画を見にいかないかなぁーって」<br> 「……いいよ」<br> 「えっ?」<br> 「今度、一緒に行こう」<br> <br> 聞いた途端、どうしてだか解らないけれど、私は涙を止められなくなっていた。<br> 恥ずかしすぎて泣けちゃったのかな。<br> そうだわ……きっと、そういうコトなのよ。<br> <br> <br> <br> <br> それから更に一週間が過ぎて、もう半月になるのかぁ……と、改めて思う。<br> 月日の経つのは早いものね。あー、なんか年寄り臭いわ、私。<br> <br> それにしても、桜田くんの回復ぶりは、目を見張るものがある。<br> 初めてこの家に伺ったときは、私と顔を合わせることも出来なかったのに、<br> 今では真っ直ぐに目を合わせて、気軽にお喋りするほどだ。<br> もっとも……まだ、のりさんと私に限っての話なんだけどね。<br> <br> 桜田くんの変貌ぶりを日々見守り、嬉しく想う一方で、ふと、不安を感じることがある。<br> もしも巴が帰国したら、桜田くんは誰を見つめるのだろうか――と。<br> 私? それとも、巴を選ぶ?<br> <br> 分からない。<br> そもそも、巴と桜田くんが、そういう間柄である証拠などない。<br> ただ……親友として、巴の気持ちには気付いていた。<br> あの子は、桜田くんのことが好きなのだ。口に出して言ったことは、一度もないけどね。<br> だから、学級委員の仕事にかこつけて、足繁くここを訪れていた。<br> <br> <br> このまま、私は居ても良いのかしら。居続けるべきなの?<br> それとも、桜田くんの引きこもりが治って、家政婦が不要になったら、はいサヨナラ?<br> <br> 「痛いっ!」<br> <br> バカなことを考えながら料理なんかしてたから、包丁で指を切ってしまった。<br> 私の声を聞きつけた彼が、心配そうに駆けつける。<br> そして、遠慮する私をたしなめて、怪我の治療をしてくれた。<br> ――そんなに、優しくしないで。<br> 私のココロの声は、しかし、声にならない。する気もなかった。<br> <br> <br> <br> <br> 1日ごとに、私の中でナニかが膨らんでいく。<br> 今までに感じたことのない強い想いが、私を戸惑わせる。<br> そして、彼との再会から、二十日が過ぎた日のこと――<br> <br> 彼の方から、映画に誘ってくれた。<br> <br> <br> 異存などなかった。即答でイエス。<br> 私たちは駅ビルに行って、上映時間まで喫茶店でのんびり過ごし、映画館に入った。<br> 座席は後方の、左隅。どこでも良かったワケじゃない。敢えて、そこを選んだ。<br> 上映時間の関係か、入場者数は少ない。<br> 天にまします誰かさんが気を利かせてくれたのか、私たちの周りに座る客は居なかった。<br> <br> 照明が落とされ、しつこいほどテレビCMされている映画が始まった。<br> 壮大なファンタジー小説が題材の映画らしいけれど、内容なんて、どうでもいい。<br> 作った人たちには申し訳ないけど、私の目はスクリーンを見ていないから。<br> <br> 繋いだ掌が、じわりと汗ばみだした頃、私はそっと、手を解いた。<br> どうした? 不思議そうに私を見る彼の目が、そう語った。<br> <br> 「ねえ……ちょっといい?」<br> <br> 訊いたけれど、答えは待たず、彼のメガネを外した。<br> <br> 「なにするんだよ、見えないだろ」<br> 「この距離で、私も見えないくらいのド近眼なの?」<br> 「ああ。ぼやけて、ぜんぜん分からないよ」<br> 「そう……だったら」<br> <br> <br> 私はグッと身を乗り出し、顔を近付けて……彼の唇を奪った。<br> 奇しくも、スクリーンの中で、主人公とヒロインも同じコトをしていた。<br> <br> 「これだけ近付いたら、見える?」<br> 「……うん」<br> 「じゃあ、もう一度――<br>  もっと私を見て。私だけを、見つめて」<br> <br> 気持ちを伝えたけれど、答えは待たず、彼の口を塞いだ。<br> 彼の返事を待つ間に、この幸せが指の間から零れ落ちてしまうのが、怖かったから。<br> <br> 私は、貴方だけのプリンセスになりたい。<br> 貴方は、私だけのナイトに、なってくれるの?<br> <br> 答えを知りたい……でも、やっぱり……知りたくない。<br> <br> <br> <br> <br> もうすぐ、一ヶ月が経つ。私は、幸せだ。今もガッツリ継続中。<br> 彼は、私のためにドレスを作ってくれると、約束してくれた。<br> 高校一年生の時、事件の発端となった、あのドレスを。<br> それは、彼にとって過去との決別と、新しい人生への出発を意味する。<br> <br> 私は、あのドレスを纏って、ジュンとのウェディングを迎える予定だった。<br> <br> 夢のジューンブライド。<br> ずるずると滑り落ちてきた私の人生にも、やっと……光が射し始めたみたい。<br> <br> <br> <br> <br> こよみは梅雨に入り、各地で例年にない雨量が記録され、少なからぬ被害が出ていた。<br> 地球温暖化の影響だろうか。ここ数年、世界各地で異常気象が目立つ。<br> 今日も朝から土砂降りで、さすがに仕事に行けず、私はテレビで天気予報を眺めていた。<br> 彼から電話が入ったのは、そんな時だった。<br> <br> 『ドレスが完成したんだ。雨足も弱まったし、これから見せに行くよ』<br> 「え? いいわよ、明日で」<br> 『1秒でも早く、由奈に着て欲しいんだよ』<br> 「でも、危ないわ。ドレスだって、びしょ濡れになっちゃう」<br> <br> 渋る私に「大丈夫だって」と安請け合いして、ジュンは通話を切った。<br> まったく、変なところで強情なんだから。<br> <br> とは言うものの、正直なところ、すごく楽しみだった。<br> イラストを見て、完成イメージは分かっている。早く、袖を通してみたい。<br> 私は、緩む頬をピシャピシャ叩いて、彼が来たときのために、タオルなどの用意を始めた。<br> ポットのお湯を沸かし、お風呂の用意もしておく。<br> 準備をしている時の私は、間違いなく、世界中の誰よりも幸せだった。<br> もうすぐ、ジュンが来る。濡れネズミになって、玄関のドアを潜ってくる。<br> 私は玄関に座り込んで、彼が飛び込んでくるのを待った。<br> 出迎えた時にかける言葉を考えていると、寂しいどころか、嬉しくて仕方なかった。<br> <br> <br> <br> <br> やがて10分が過ぎ、1時間になって、3時間が経った。<br> <br> けれど、どれだけ待ち続けても…………彼が来ることは、なかった。<br> <br> <br> <br> <br> その報せは、お母さんの口から伝えられた。<br> 近くを流れる河に架かる橋のひとつが、濁流によって、押し流されたという。<br> 降り続いた雨で、いつの間にか、限界水位を超えていたらしい。<br> <br> 胸が締め付けられるように痛くなって、息をするのも苦しくなった。<br> 彼の家から、私の家まで来る間に、必ず河を渡らないといけないのだ。<br> もし、件の橋が、彼を乗せたまま押し流されたのだとしたら……。<br> <br> <br> 得てして、不安というものは、最悪のカタチで現実となる。<br> あのドレスは、しっかりラッピングされた状態で、橋から少し下流の木に引っかかっていた。<br> そして、付近に、彼の姿は無かった。<br> <br> <br> <br> <br> ジュンが行方不明のまま、私の手元に渡ったドレス。<br> 純白であるべきソレは、僅かに染み込んだ泥水によって、みにくく斑に汚れていた。<br> 落ちぶれたプリンセスには、相応しい衣装かも知れない。<br> 結局、私はどこまでも堕ち続ける運命なのだろう。<br> 時計に組み込まれた、狂った歯車を取り除かない限り、ずぅっと狂いっぱなし。<br> <br> <br> 梅雨前線の勢力が弱まると、私はドレスを携え、彼の家に向かった。<br> 橋は壊れたままで、かなり遠回りしなければいけなかったけど、苦にならなかった。<br> <br> このドレスを最初に着るのは、彼の前で――<br> そう、ココロに決めていたから。<br> <br> <br> <br> 突然の訪問にも拘わらず、のりさんは寂しさ隠し、喜んで迎え入れてくれた。<br> 彼の消息が分からなくなって、もう2日。捜索は続けられているけど、進展はない。<br> 認めたくはないけど、ほぼ絶望的だった。<br> もう、彼は海まで流されて、冷たい水底に横たわっているのかも知れない。<br> 言葉にしないだけで、誰もが薄々、悪い想像を膨らませている。<br> <br> 「彼の部屋で、着替えさせてもらって、構いませんか?」<br> 「もちろんよぅ。さあ、遠慮しないでぇ」<br> <br> 最初は、自分の部屋で着替えて、彼を追いかけようと思っていた。<br> ジュンが見に来てくれないなら、私の方から、見せに行こうと。<br> <br> <br> ――でも、結局、私は行動できなかった。<br> だって、彼はまだ見付かっていない。死んでしまったと、決まったワケじゃない。<br> 早とちりで、ロミオとジュリエットになるのは馬鹿げている。<br> <br> しかし……彼が見付かるのを、ただ待ち続けることも、できなかった。<br> じっとしていると悪い妄想ばかりがココロを占めて、気が狂いそうになる。<br> 何かをしなければ……。そんな強迫観念が、更に私を苦しめた。<br> <br> そこで考えたのが、彼の部屋で、ドレスを着ることだった。<br> 彼の部屋で、彼の代わりに、彼の写真に見てもらおうと思ったのだ。<br> 汚れたプリンセスと、写真のナイト。<br> 惨めで、貧乏ったらしくて、お似合いのカップルだと思わない?<br> <br> 部屋のカーテンを閉ざし、薄暗い部屋の中で、私は着替え始める。<br> それが、虚しさ募らせる私に許された、せめてものココロの慰め。<br> <br> <br> <br> 惜しげもなく、あしらわれたフリル。<br> ふんだんに、と言って、しつこさを感じさせないリボンの群。<br> 品格と美しさを併せ持った、クラウン。<br> 独りで着るのは、意外に大変で、鏡を前に悪戦苦闘していた。<br> ドタバタうるさかったからだろう。のりさんが、手助けに来てくれた。<br> <br> ドレスのスケッチを眺めながら、あれこれ試行錯誤していると、矢庭に、外が騒がしくなった。<br> なんだろうと、二人して首を傾げていた所に、インターホンが鳴る。<br> <br> <br> 「まさか!?」<br> <br> 私と、のりさん。二人の声が見事に重なる。<br> のりさんは弾かれたように走り出して、あちこちの壁にぶつかりながら玄関に向かった。<br> でも、私は着替え中だから、人前に出られない。<br> ヤキモキしながら、階下から届く、くぐもった話し声に聞き耳を立てるしかなかった。<br> そして――<br> <br> 階段を駆け昇ってくる、軽快な足音。あれは、気が急いている時の足音。<br> 私には、すぐに分かった。だって、一ヶ月以上も聞き続けてきたんだもの。<br> 涙に曇る視界の向こう……ドアの前に立つ彼の姿を目にして、私の喉から絞り出されたのは、<br> <br> 「どうして?」<br> <br> ――とだけ。<br> それは、ありとあらゆる『どうして?』の集約。<br> どうして無茶なんかしたの? どうして、無事ならすぐに連絡くれなかったの?<br> どうして――――戻ってきてくれたの?<br> 今こそ聞きたかった。映画館で聞くのを躊躇った、ジュンの答えを。<br> <br> <br> 「言ったろ。大丈夫だ……って。由奈との約束は、どんなことでも、必ず守るよ。<br>  これからだって、きっと守っていく」<br> <br> 臆面もなく、彼が言う。<br> だから、私も照れや恥じらいをかなぐり捨てて、伝えた。<br> <br> 「こんな、見窄らしく薄汚れたプリンセスだけど、良いの?」<br> 「それを言ったら、僕だって傷だらけのナイトさ」<br> <br> ジュンは、包帯の巻かれた腕を上げ、イテテ……と涙を浮かべながら笑った。<br> 後で聞いた話だけれど、ジュンは河口の岸辺に流れ着いて、病院に収容されてたんだって。<br> まるまる二日、意識不明で、身元を確認する物を持ってなかったから、<br> 歯形を元に、歯科医の治療履歴から身元を照合したそうよ。<br> それで、生存確認の連絡が遅れたんだって。気を揉ませてくれるわ、ホントに。<br> <br> 部屋に踏み込もうとして蹌踉めいた彼を、私は駆け寄って、しっかりと両腕で支えた。<br> 高校の、学年集会の時は背けてしまった顔を、今は、真っ直ぐ彼に向けて。<br> <br> 「本当に、私で……良いの? 巴じゃなく?」<br> 「くどいな。なんで柏葉が出て来るんだ。<br>  僕は、由奈のために、そのドレスをデザインした。他の、誰のためでもない」<br> 「私の……ために」<br> 「それに、マイナスとマイナスは、かけ算すればプラスになるだろ。<br>  だったら僕らは、まさにベストカップルじゃないか」<br> <br> どうしようもない、中学生じみた冗談を言って屈託なく笑う彼に、私は抱きついていた。<br> こんな、平凡すぎる生活も、満更じゃない。<br> いい加減、肩肘はって生きるのにも疲れてたし……<br> やっと、堕ちてゆく私を受け止めてくれるヒトの胸に、安らげる場所を見付けたんだもの。<br> <br> <br> 私の涙は、少し薬品くさい彼の服に、音もなく吸い込まれていく。<br> もしかしたら、それは狂った歯車がこすれて、磨耗したカケラだったのかも知れない。<br> キラキラと落ちてゆく涙を見つめながら、彼の温もりを感じているだけで、<br> 不自然な回転が生み出していた不協和音は、徐々に、素直な旋律へと変わっていった。<br> <br> ジュンの手が、私の露わになった背を――素肌を――愛おしげに、撫でる。<br> その優しい指の感触は、得も言われぬ幸福感を、私に与えてくれた。<br> 夢みるような心地に、私を導いてくれた。<br> <br> 「さあ。僕が手伝って、ちゃんと着せてあげるから、離れて」<br> 「……うん。でも…………もうちょっとだけ――」<br> <br> のりさんが遅ればせながら顔を見せたけれど、キニシナイ。<br> <br> 私は……<br> この世で最も大切な人と、1秒でも長く、唇を重ねる。<br> 今や、彼がくれる新たな息吹こそが、私の人生時計のクォーツを振動させる源なのだから。<br> <br> <br>   貴方だけのプリンセス。<br> <br> ユメみていた日が、こんなにも早く訪れるなんて、夢にも思っていなかった。<br> 幸せすぎて怖くなるなんて、初めての経験だった。<br> だから、震えを止めて欲しくて、ジュンに囁く。きつく抱き締めて……と。<br> <br>   泥だらけのドレスを来たお姫様と、包帯だらけの勇敢な騎士。<br> <br> ふたり並んで、のりさんに撮ってもらった写真は……<br> アルバムの、一番初めのページで――幸せそうに、はにかんでいる。<br> <br> <br> <br> <br> 「すっごくいい顔してるわ」<br> <br> 高校を卒業して以来、初めて顔を合わせた親友は、満面の笑みで、そう言ってくれた。<br> 昼休みの時間帯、オフィス街の喫茶店で、再会を果たした時のことだ。<br> 窓辺のテーブルと言うこともあり、初夏の眩しい日射しが、巴の笑顔を輝かせていた。<br> <br> 巴は本当に、ココロから、彼が立ち直ってくれたことを喜んでいる。<br> そして、私たちが幸せになったことを、誰よりも祝福してくれていた。<br> もしかしたら、私に彼を取られて、悲しんでしまうかとハラハラしてたけど――<br> 杞憂だったみたい。巴は、私なんかより大人で、強い人なのね。<br> 彼に縋らなければ、もう生きていけそうもない私なんかより、ずっと強い。<br> <br> <br> 「巴も、彼のことが好きなんでしょ」<br> <br> 二人だけという気兼ねのなさが、無思慮な言葉を誘う。<br> 訊かずとも、答えは解っている。訊けば、巴を傷つけることも。<br> しかし、彼女が笑顔を崩すことはなかった。<br> <br> 「ええ、大好きよ。これからも、ずっと……大好きでいると思う」<br> 「一途なのね。どうして、その想いを伝えなかったの?」<br> 「それは…………私は、桜田くんに必要とされなかったから」<br> <br> なんの冗談かと問い返すより先に、巴の深く澄んだ瞳が、私を制した。<br> <br> 「気付いてなかったの、由奈。彼が本当に必要としていたのは、貴女なのよ」<br> 「……ウソ?」<br> 「本当よ。その証拠に、彼は由奈と再会して、殻を破ることが出来たわ。<br>  私が、どれだけ通い詰めて、励ましても、気持ちは届かなかったのにね」<br> <br> 言われてみれば、確かに、そうだった。<br> 彼の元を訪れた回数ならば、巴の方が、間違いなく多い。<br> <br> にも拘わらず、彼は私を選んでくれた。巴じゃなく、私を。<br> そして、私と一緒に居ることを、望んでくれた。<br> これ以上の喜びは、ちょっとやそっとで見付けられそうもない。<br> <br> 巴は「そういうコトなのよ」と呟いて、カップに残る冷めたコーヒーを飲み干した。<br> 本当は辛いだろうに、相変わらず気丈な人ね。<br> そんな貴女だから、たくさんの人に好かれるんだろうけど。<br> <br> <br> 「あ……わたし、そろそろ行かなきゃ」<br> <br> 巴は腕時計に目を落とし、伝票を摘んで席を立った。<br> そして、私に向けて、不器用なウインクをひとつ飛ばした。<br> <br> 「もし、由奈が桜田くんに飽きた時には、連絡して。いつでも引き取りに行くから」<br> 「巴に新しい恋人ができる方が、先じゃないかしら?」<br> 「……そうかも」<br> 「そうよ。間違いないわ」<br> <br> 私は自信たっぷりに、そう伝えた。<br> 他人の幸せを、ココロから喜ぶことができる巴だもの。きっと、素敵な人に巡り会える。<br> そうじゃなきゃ、天にまします誰かさんは、とんでもなく底意地が悪い。<br> <br> 「また――会おうね」去りゆく巴の背に、再会の約束を投じる。<br> 振り向くことなく「ええ、また今度」と答えた彼女の声は、一点の曇りもなく澄み切っていた。<br> <br> <br> <br> それから数分と経たず、彼が喫茶店に入ってきた。<br> きょろきょろして、小さく手を振る私を見付けると、足早に近付いてくる。<br> 私の腕時計は、13:00を表示している。<br> <br> 「驚いたわ。ホントに、約束の時間ぴったりね」<br> 「だから言ったろ。由奈との約束は、きっと守るって」<br> <br> どうだと言わんばかりに胸を張るけれど、息切れまでは隠せない。<br> なんだか、こっちが気の毒になってしまう。<br> でも……なにげない彼の気遣いが、とても嬉しい。<br> <br> 「もうちょっと早く着いてたら、巴に会えたのに」<br> 「そうだったのか。柏葉、元気だった?」<br> 「ええ、とっても。貴方を奪い取るって、息巻いてたわ」<br> 「ヒドイ冗談だな」<br> <br> 肩を竦めて、彼が、さっきまで巴が座っていた席に座る。<br> それを不快だとは思わなかった。だって、ほら……彼の瞳は、いつでも私を見てくれる。<br> 私が集めていたのは、貴金属に似た卑金属や、色ガラスばかりだと思っていた。<br> でも、たくさんの紛い物の中には、数える程度だけれど、本物も混じっていたのよね。<br> <br> 私はテーブルの上に両手を伸ばし、ちょん……と、彼の指先をつつく。<br> 手を握って欲しい。それが、二人だけの合図。<br> 彼の手が、まるで壊れ物を扱うかのように、私の手を柔らかく包み込んでくれた。<br> <br> 「考えてみたら、まだ一度も言ってなかった気がするわ」<br> 「なにを?」<br> 「貴方が好きです。愛…………してます」<br> <br> 偽りない気持ち。<br> こんなにも素直な想いを、こんなにも素直に伝えられる。<br> ああ、なんて気分がいいんだろう。<br> <br> 私に生まれ変わるキッカケをくれたのは、貴方。<br> 貴方と出会えなかったら、私はまだ、萎れた花みたいに下ばかり向いていたハズだ。<br> だから、今は……天にまします誰かさんの気まぐれに、感謝しておこう。<br> <br> <br> 「私、いま……すごく幸せ」<br> 「もっともっと、幸せにするよ。約束だ」<br> 「信じてる――」<br> <br> <br> だって、貴方は今まで一度も、私との約束を破ったことがないもの。<br> だから……きっと。<br> <br> <br>   幸せになろう。<br>   本当は、高校一年生の時から結ばれていた、この人と。<br> <br> <br> <br> 窓越しに見上げた、昼下がりの夏空は――<br> <br> ――雲ひとつない蒼穹なのに、雨模様だった。<br> <br> <br> <br> <br>   ~終~<br></p>

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