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6回目」(2006/12/13 (水) 02:58:38) の最新版変更点

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<p>1947.4.20  深夜<br> <br> <br> 薔薇水晶に先導されて、薄暗く、入り組んだ壕内を進む。<br> 天井に設けられた電球の間隔が広くて、隅々まで電灯が届かないのだ。<br> まるで、ウサギの巣穴みたい。歩きながら、真紅は思った。<br> <br> 「ここが……貴女の部屋」<br> <br> 前を行く薔薇水晶が足を止め、ブーツの踵を軸に、くるりと振り返る。<br> 彼女が差し示す先には、物々しい鉄扉が、鈍色の輝きを放っていた。<br> <br> 「元々、部屋数が少ないから……相部屋になる。それでも良い?」<br> 「イヤとは言えないでしょう。寝泊まりできれば構わないわ」<br> <br> キッパリと言い切ったところで、真紅は泣き腫らした瞼を細めた。<br> <br> 「……と言いたいところだけど、私も女の子なのでね。<br>  同居人は、男? だとしたら、お断りよ。廊下で眠った方がマシなのだわ」<br> 「潔癖……見かけどおりね。安心して……ここは女の子だけの居住区だから」<br> <br> 薔薇水晶は唇を吊り上げ「ごゆっくり」と、嘲りにも似た笑みを浮かべる。<br> その態度が、なんとなく気に入らなくて、真紅は踵を返すと宛われた個室の扉を開けた。<br> キュルキュルと、蝶番が耳障りな音を立てる。</p> <br> <p> 扉の隙間から流れ出るのは、埃っぽい空気と、甘ったるい人いきれ。<br> 女性の部屋にありがちなニオイが、真紅の鼻を突いた。<br> 換気されているものの、地下ということもあって、空気の流れが悪いのだろう。<br> ちょっと吸い込んだだけで、真紅は息を詰まらせた。<br> <br> 「ちょっとの辛抱よ」<br> <br> 鼻先を手で覆って、小声で、自分に言い聞かせる。<br> 「仮眠したら、直ぐにあの子たちを追いかけないと」<br> <br> <br> 夜明けまで、あと数時間。<br> 槐には、まだまだ話を聞きたかったが、仲間たちのことも気懸かりだった。<br> 車長として経験の浅い蒼星石では、咄嗟の機転が働くまい。<br> その一瞬が生死を分けるのが、戦場という環境だ。<br> <br> (私が戻るまで、戦闘が始まらなければ良いのだけれど……<br>  こちらの都合を考えてくれるほど、甘い敵ではないわよね)<br> <br> 真紅は薄暗い室内に踏み込んで、即座に固いベッドに横たわった。<br> いつからだろう。着の身着のままで眠ることに、慣れてしまったのは。<br> 『即座に行動できるように』という、一秒すら争う戦場では当然の配慮ながら、<br> 最初は違和感を覚えて、なかなか寝付けなかったものだ。<br> それなのに、今は――衣服が汚れることにすら、無頓着になりつつある。<br> <br> 「こんなにも、だらしなくなった私を、あなたはどうお思いになりますか……お父様」</p> <br> <p> ブーツも脱がずに寝転がる、ふしだらな娘と軽蔑する?<br>   それとも……たくましく成長したと、褒めてくれるのかしら?<br> <br> いずれにせよ、皮肉以外の何物でもない。<br> 貶す権利も、褒め称える資格も、今や戦争の首謀者となり果てた父には無いのだから。<br> もしも対面して、そんな戯言を並べようものなら、断固として拒絶するだろう。<br> <br>   『あなたなんかに――』<br> <br> その一言を皮切りに、これまでの鬱憤が堰を切った様に、唇から迸る筈だ。<br> 大好きな存在を罵倒しなければならない苦痛に苛まれながら、<br> それでも攻撃的な言葉を浴びせ続け、同時に、自分の心をも傷つけ続けるのだろう。<br> <br> <br> (……止めましょう。考えたところで、詮無いことだわ)<br> <br> パン生地を思わせる枕に頭を載せると、ふにゃりと沈み、カビ臭さが立ち上る。<br> こんな状況で、本当に眠れるのだろうか?<br> 眉を顰めた真紅は、額に腕を翳して、瞼を閉ざした。<br> <br> ……が、懸念したとおり、待てど暮らせど睡魔は訪れない。<br> 半身を起こすのも億劫なくらい、身体は疲れ切っているのに、だ。<br> 気持ちを落ち着かせようと深呼吸すれば、澱んだ空気を吸い込んで、余計に胸が悪くなる。<br> 悶々としていた彼女の耳が微かな歌声を捉えたのは、何度目かの寝返りをうった直後だった。<br> <br> 「換気口を伝わって聞こえるのね。この旋律は…………エーデルヴァイス」<br> </p> <br> <p> 英語の発音では、エーデルワイス。小さくて白い花は、スイスの国花でもある。<br> 真紅はベッドを抜け出て、天井ちかくにある通気口の真下に寄り、耳をそばだてた。<br> か細いけれど、淀みなく、きりりと通る美しい声だ。<br> <br> 「素敵な歌声ね。なぜかしら……不思議と、魅了されるわ。<br>  どうせ眠れないのだし、出発まで歌を聴かせてもらうのも、一興というものね」<br> <br> 通気口を伝って聞こえるくらいだから、それほど遠くはあるまい。<br> この息が詰まる部屋に居るのも厭だったので、真紅は躊躇いなく、通路に出た。<br> しかし、右と左、どちらから聞こえてくるのだろう?<br> 身動きを止め、澄ませた耳に届いたのは、歌声ではなく男の声だった。<br> <br> <br> 「あれ? 真紅……」<br> 「っ?! あなたは、確か……ジュン、だったわね」<br> 「どうしたんだ、こんな所で。迷ったのか?」<br> <br> 真紅に声を掛けたのは、レジスタンスと行動を共にしていた少年だった。<br> 埃にまみれた見窄らしい格好ではなく、白衣を纏って、どこぞの機関の研究員みたいだ。<br> 改めて、ジェット技術を学びに、はるばる日本から来た技術者なのだと実感する。<br> けれど、真紅が目を見張った理由は、彼の変貌ぶりにではなく、彼の隣にあった。<br> <br> 「ジュン。そちらは?」<br> <br> 不躾と承知しつつも、真紅はジュンの隣に立つ、黒髪の美しい娘を矯めつ眇めつした。<br> 彼と同様、膝まである丈の長い白衣を私服の上に引っかけている。<br> </p> <br> <p> 彼女の視線を感じて、娘は恥ずかしげに身を捩ったものの、気後れすることなく、<br> ジュンに紹介される前に、自ら名乗った。<br> <br> 「こんばんわ……あ、この時間だと『おはよう』になるのかな?<br>  まあ、いいや。私は、柿崎めぐ。桜田くんと共に、日本から来たのよ」<br> 「柿崎は、僕の同僚なんだ。元々、僕らは民間の航空機会社の技術見習いでね。<br>  将来を嘱望されて抜擢……と言うと聞こえがいいけど、実際には人材不足なのさ。<br>  僕ら以外は爺さんばっかりだから、長旅に耐えられないんだよな」<br> 「たとえ冗談にしても、その見方はひねくれ過ぎよ、桜田くん」<br> <br> 軽口を叩いて肩を竦めるジュンを、めぐが溜息混じりに諫めた。<br> <br> 「結菱社長も、柴崎専務も言ってたじゃない。<br>  戦争はもうすぐ日本の敗北で終わるから、戦後の復興の為に、技能を磨いてこいって」<br> 「う……まあな」<br> <br> 鈴の音を思わせるめぐの声に、ジュンは口ごもって、唇を尖らせる。<br> そんな彼の様子を、不甲斐なさげに眺めていた真紅は、ふと、歌声のことを思い出した。<br> もしかしたら、この、めぐという娘が声の主だったのかも……。<br> <br> 「ねえ、今さっき歌っていたのは、貴女なの?」<br> 「? なんのこと」<br> 「僕たちは、ずっと一緒に居たけど、柿崎は歌ったりしてないぞ」<br> <br> 怪訝そうに眉根を寄せた二人だったが、寸間を得ず、めぐは手を打ち鳴らした。<br> <br> 「桜田くん。ひょっとして、彼女のことじゃないかな」<br></p> <br> <p> ジュンも思い当たったらしく「ああ!」と歯を見せる。<br> <br> 「うん……きっと、そうだ! なんだよ真紅、彼女の歌が聴きたいのか?」<br> 「え、ええ。寝付けないものだから」<br> 「そっか。だったら付いて来いよ。すぐそこだから、案内してやるよ」<br> <br> 言って、先に出たジュンの腕に、めぐがするりと腕を絡めた。<br> 「私も付いてこうっと。あの娘の歌は好きだから」<br> 「うん、僕もだ。あいつの歌を聴くのも、久しぶりだな」<br> <br> そうするのが当たり前であるかのように、二人は自然な態度で寄り添って歩く。<br> 真紅の眼には、職場の同僚と言うより寧ろ、恋人同士に映った。<br> <br> (私……もしかして、邪魔なのかしら?)<br> <br> 二人の背中を、ぼんやりと眺めながら、真紅は少し遅れて足を踏み出した。<br> <br> <br> <br> とある一室の前で、二人の足が止まる。彼女が宛われた部屋から20mほど離れた場所だ。<br> 閉ざされた鉄扉の隙間から、幽かに、くぐもった歌声が滲みだしてくる。<br> ジュンが呼びかけつつドアを叩くと、内側から元気のいい返事があった。<br> <br> 「はいなのー。いますぐ開けますなのよ」</p> <br> <p> 鉄扉が内側へと引き込まれ、愛くるしい笑みを湛えた娘が、ぴょこんと顔を覗かせた。<br> 真紅の幼なじみの、雛苺だ。<br> 午前四時を過ぎた頃であるのに、この娘は疲労の色ひとつ見せていない。<br> 雛苺が背にした薄暗い室内からは、依然としてエーデルワイスの歌が漏れ聞こえてくる。<br> <br> 「こんな時間まで起きてたのか、雛苺。あんまり感心しないな」<br> 「ぶー。ジュンとめぐだって、夜更かししてるクセにっ」<br> 「あのな、僕たちは遊んでるワケじゃないんだぞ。アレを完成させるために――」<br> 「ヒナだって、遊んでるんじゃないのよー」<br> <br> 子供の口喧嘩みたいな応酬が始まると、めぐが「まあまあ」と、間に割って入った。<br> そして、室内を親指でさしながら、めぐは雛苺に笑みを向けた。<br> <br> 「今日は、彼女……調子よさそうね。歌を聴かせて欲しいんだけど、いいかな?」<br> 「雛苺。私からも、お願いするわ」<br> <br> ジュンの後ろから進み出た真紅を一瞥すると、雛苺は瞬く間に表情を曇らせた。<br> <br> 「みんなで聴いてくれた方が、あの子も喜ぶから大歓迎なのよ。<br>  だけど……真紅の服は……」<br> 「あ、そっか。あいつ、軍服を見ると怖がるんだっけ」<br> <br> 雛苺に相槌を打ったジュンは、やおら自分の白衣を脱いで、真紅の肩にふわりと掛けた。<br> <br> 「これ、羽織っておけよ。ボタンを掛けておけば、服も目立たないだろ」<br> 「あ…………ありがとう」</p> <br> <p> 控えめに礼を言うと、真紅は戦車兵の黒い軍服を恥じるように、白衣の端を掻き寄せた。<br> 俯いた彼女の頬が、うっすら色付いて見えたのは、光の加減だろうか。<br> それとも、服越しにとは言え、肩に触れた異性の手の温もりを意識したのか。<br> <br> 「さっさと入れよ、真紅。元々は、お前が歌を聴きに来たんだからな」<br> <br> 対して、ジュンはいつもと変わらず、不躾な口調で促す。<br> 馴れ馴れしく“お前”呼ばわりされて、真紅は咎めるように彼を睨んだ。<br> ……が、文句を言うことはなく、ぷいっと顔を背け、室内へと姿を消した。<br> <br> <br> めぐは、辛うじてジュンにだけ届くような小声で、そっ……と囁いた。<br> 「優しくするのは、私だけにして欲しいなぁ」<br> 「え? なんだって?」<br> 「……ううん、なんでもなーい。さっ、私たちも行こう♪」<br> ジュンは釈然としない顔のまま、めぐに手を引かれて、雛苺の部屋に踏み込んだ。<br> <br> <br> 室内は、真紅の部屋と同様、澱んだ空気に満ちていた。お世辞にも、清潔とは呼べない。<br> けれども、部屋の奥に置かれたベッドに腰掛け、美声を奏でる娘は、目を見張るほど美しく――<br> 例えるなら、エーデルワイスの花のような、白くて可愛らしい女性だった。<br> 『掃き溜めに鶴』とは、正しく彼女のような存在を言うのだろう。<br> 真紅は、まるで人魚の歌に魅入られた船乗りのように、白い娘の元に引き寄せられていった。<br> <br> 徐に、歌が止む。娘は、どこか虚ろな眼差しを、真紅に向けていた。<br> 「――貴女は……だぁれ?」<br> <br> 訊ねる彼女の右眼は、血に塗れた包帯で覆われていた。<br></p> <br> <p>――同時刻 スターリングラード某所<br> <br> <br> 煌々と照明の点された室内には、異様な雰囲気が漂う。<br> 薬品の匂いと、饐えた臭い。ガラス管を渡ってゆく気泡が、こぽこぽと笑う。<br> ある場所では、しゅうしゅうと立ち昇った蒸気が、室内に溶けていく。<br> 別の箇所では、ぽん! ぽん! と、何かが吹き出る音が響いていた。<br> 立ち並ぶ巨大な七つの円筒水槽は、見る者に水族館を彷彿させるだろう。<br> けれど、水槽の中には、生物の影など全くない。<br> ただ、薄気味悪い液体が満たされているだけ。<br> <br> <br> その部屋の一角。<br> 純白の診察台の上に、息を呑むほど美しい娘が、全裸で横たわっていた。<br> 瞼は閉ざされているものの、胸の双丘は、規則正しく緩やかに上下している。<br> 健やかな寝息を立てる娘の様子を、診察台の脇に立ち、見下ろす人影が――ふたつ。<br> どちらも白衣を纏い、口元にはマスクを着用していた。<br> <br> 「いよいよですね、フォッセー博士」<br> <br> メガネを掛けた黒髪の人物が、たどたどしいフランス語で、対面する人物に話しかける。<br> フォッセー博士と呼ばれた若い女性は、こくりと頷いて、返事をした。<br> <br> 「あなたの協力には、本当に感謝しているわ。<br>  いよいよ…………あの人の理想である『アリス』の時代が、幕を開けるのよ」<br> <br> 二人の会話を、夢の終わりを告げるヒバリの声と聞いたのか――<br> 娘の瞼が、す……っと見開かれた。<br></p>
<p>1947.4.20  深夜<br /><br /><br /> 薔薇水晶に先導されて、薄暗く、入り組んだ壕内を進む。<br /> 天井に設けられた電球の間隔が広くて、隅々まで電灯が届かないのだ。<br /> まるで、ウサギの巣穴みたい。歩きながら、真紅は思った。<br /><br /> 「ここが……貴女の部屋」<br /><br /> 前を行く薔薇水晶が足を止め、ブーツの踵を軸に、くるりと振り返る。<br /> 彼女が差し示す先には、物々しい鉄扉が、鈍色の輝きを放っていた。<br /><br /> 「元々、部屋数が少ないから……相部屋になる。それでも良い?」<br /> 「イヤとは言えないでしょう。寝泊まりできれば構わないわ」<br /><br /> キッパリと言い切ったところで、真紅は泣き腫らした瞼を細めた。<br /><br /> 「……と言いたいところだけど、私も女の子なのでね。<br />  同居人は、男? だとしたら、お断りよ。廊下で眠った方がマシなのだわ」<br /> 「潔癖……見かけどおりね。安心して……ここは女の子だけの居住区だから」<br /><br /> 薔薇水晶は唇を吊り上げ「ごゆっくり」と、嘲りにも似た笑みを浮かべる。<br /> その態度が、なんとなく気に入らなくて、真紅は踵を返すと宛われた個室の扉を開けた。<br /> キュルキュルと、蝶番が耳障りな音を立てる。</p> <br /><p>扉の隙間から流れ出るのは、埃っぽい空気と、甘ったるい人いきれ。<br /> 女性の部屋にありがちなニオイが、真紅の鼻を突いた。<br /> 換気されているものの、地下ということもあって、空気の流れが悪いのだろう。<br /> ちょっと吸い込んだだけで、真紅は息を詰まらせた。<br /><br /> 「ちょっとの辛抱よ」<br /><br /> 鼻先を手で覆って、小声で、自分に言い聞かせる。<br /> 「仮眠したら、直ぐにあの子たちを追いかけないと」<br /><br /><br /> 夜明けまで、あと数時間。<br /> 槐には、まだまだ話を聞きたかったが、仲間たちのことも気懸かりだった。<br /> 車長として経験の浅い蒼星石では、咄嗟の機転が働くまい。<br /> その一瞬が生死を分けるのが、戦場という環境だ。<br /><br /> (私が戻るまで、戦闘が始まらなければ良いのだけれど……<br />  こちらの都合を考えてくれるほど、甘い敵ではないわよね)<br /><br /> 真紅は薄暗い室内に踏み込んで、即座に固いベッドに横たわった。<br /> いつからだろう。着の身着のままで眠ることに、慣れてしまったのは。<br /> 『即座に行動できるように』という、一秒すら争う戦場では当然の配慮ながら、<br /> 最初は違和感を覚えて、なかなか寝付けなかったものだ。<br /> それなのに、今は――衣服が汚れることにすら、無頓着になりつつある。<br /><br /> 「こんなにも、だらしなくなった私を、あなたはどうお思いになりますか……お父様」</p> <br /><p>ブーツも脱がずに寝転がる、ふしだらな娘と軽蔑する?<br /> それとも……たくましく成長したと、褒めてくれるのかしら?<br /><br /> いずれにせよ、皮肉以外の何物でもない。<br /> 貶す権利も、褒め称える資格も、今や戦争の首謀者となり果てた父には無いのだから。<br /> もしも対面して、そんな戯言を並べようものなら、断固として拒絶するだろう。<br /><br />   『あなたなんかに――』<br /><br /> その一言を皮切りに、これまでの鬱憤が堰を切った様に、唇から迸る筈だ。<br /> 大好きな存在を罵倒しなければならない苦痛に苛まれながら、<br /> それでも攻撃的な言葉を浴びせ続け、同時に、自分の心をも傷つけ続けるのだろう。<br /><br /><br /> (……止めましょう。考えたところで、詮無いことだわ)<br /><br /> パン生地を思わせる枕に頭を載せると、ふにゃりと沈み、カビ臭さが立ち上る。<br /> こんな状況で、本当に眠れるのだろうか?<br /> 眉を顰めた真紅は、額に腕を翳して、瞼を閉ざした。<br /><br /> ……が、懸念したとおり、待てど暮らせど睡魔は訪れない。<br /> 半身を起こすのも億劫なくらい、身体は疲れ切っているのに、だ。<br /> 気持ちを落ち着かせようと深呼吸すれば、澱んだ空気を吸い込んで、余計に胸が悪くなる。<br /> 悶々としていた彼女の耳が微かな歌声を捉えたのは、何度目かの寝返りをうった直後だった。<br /><br /> 「換気口を伝わって聞こえるのね。この旋律は…………エーデルヴァイス」<br />  <br />  <br /> 英語の発音では、エーデルワイス。小さくて白い花は、スイスの国花でもある。<br /> 真紅はベッドを抜け出て、天井ちかくにある通気口の真下に寄り、耳をそばだてた。<br /> か細いけれど、淀みなく、きりりと通る美しい声だ。<br /><br /> 「素敵な歌声ね。なぜかしら……不思議と、魅了されるわ。<br />  どうせ眠れないのだし、出発まで歌を聴かせてもらうのも、一興というものね」<br /><br /> 通気口を伝って聞こえるくらいだから、それほど遠くはあるまい。<br /> この息が詰まる部屋に居るのも厭だったので、真紅は躊躇いなく、通路に出た。<br /> しかし、右と左、どちらから聞こえてくるのだろう?<br /> 身動きを止め、澄ませた耳に届いたのは、歌声ではなく男の声だった。<br /><br /><br /> 「あれ? 真紅……」<br /> 「っ?! あなたは、確か……ジュン、だったわね」<br /> 「どうしたんだ、こんな所で。迷ったのか?」<br /><br /> 真紅に声を掛けたのは、レジスタンスと行動を共にしていた少年だった。<br /> 埃にまみれた見窄らしい格好ではなく、白衣を纏って、どこぞの機関の研究員みたいだ。<br /> 改めて、ジェット技術を学びに、はるばる日本から来た技術者なのだと実感する。<br /> けれど、真紅が目を見張った理由は、彼の変貌ぶりにではなく、彼の隣にあった。<br /><br /> 「ジュン。そちらは?」<br /><br /> 不躾と承知しつつも、真紅はジュンの隣に立つ、黒髪の美しい娘を矯めつ眇めつした。<br /> 彼と同様、膝まである丈の長い白衣を私服の上に引っかけている。<br />  <br />  <br /> 彼女の視線を感じて、娘は恥ずかしげに身を捩ったものの、気後れすることなく、<br /> ジュンに紹介される前に、自ら名乗った。<br /><br /> 「こんばんわ……あ、この時間だと『おはよう』になるのかな?<br />  まあ、いいや。私は、柿崎めぐ。桜田くんと共に、日本から来たのよ」<br /> 「柿崎は、僕の同僚なんだ。元々、僕らは民間の航空機会社の技術見習いでね。<br />  将来を嘱望されて抜擢……と言うと聞こえがいいけど、実際には人材不足なのさ。<br />  僕ら以外は爺さんばっかりだから、長旅に耐えられないんだよな」<br /> 「たとえ冗談にしても、その見方はひねくれ過ぎよ、桜田くん」<br /><br /> 軽口を叩いて肩を竦めるジュンを、めぐが溜息混じりに諫めた。<br /><br /> 「結菱社長も、柴崎専務も言ってたじゃない。<br />  戦争はもうすぐ日本の敗北で終わるから、戦後の復興の為に、技能を磨いてこいって」<br /> 「う……まあな」<br /><br /> 鈴の音を思わせるめぐの声に、ジュンは口ごもって、唇を尖らせる。<br /> そんな彼の様子を、不甲斐なさげに眺めていた真紅は、ふと、歌声のことを思い出した。<br /> もしかしたら、この、めぐという娘が声の主だったのかも……。<br /><br /> 「ねえ、今さっき歌っていたのは、貴女なの?」<br /> 「? なんのこと」<br /> 「僕たちは、ずっと一緒に居たけど、柿崎は歌ったりしてないぞ」<br /><br /> 怪訝そうに眉根を寄せた二人だったが、寸間を得ず、めぐは手を打ち鳴らした。<br /><br /> 「桜田くん。ひょっとして、彼女のことじゃないかな」<br />  <br /> ジュンも思い当たったらしく「ああ!」と歯を見せる。<br />  <br /> 「うん……きっと、そうだ! なんだよ真紅、彼女の歌が聴きたいのか?」<br /> 「え、ええ。寝付けないものだから」<br /> 「そっか。だったら付いて来いよ。すぐそこだから、案内してやるよ」<br /><br /> 言って、先に出たジュンの腕に、めぐがするりと腕を絡めた。<br /> 「私も付いてこうっと。あの娘の歌は好きだから」<br /> 「うん、僕もだ。あいつの歌を聴くのも、久しぶりだな」<br /><br /> そうするのが当たり前であるかのように、二人は自然な態度で寄り添って歩く。<br /> 真紅の眼には、職場の同僚と言うより寧ろ、恋人同士に映った。<br /><br /> (私……もしかして、邪魔なのかしら?)<br /><br /> 二人の背中を、ぼんやりと眺めながら、真紅は少し遅れて足を踏み出した。<br /><br /><br /><br /> とある一室の前で、二人の足が止まる。彼女が宛われた部屋から20mほど離れた場所だ。<br /> 閉ざされた鉄扉の隙間から、幽かに、くぐもった歌声が滲みだしてくる。<br /> ジュンが呼びかけつつドアを叩くと、内側から元気のいい返事があった。<br />  <br /> 「はいなのー。いますぐ開けますなのよ」<br />  <br /> 鉄扉が内側へと引き込まれ、愛くるしい笑みを湛えた娘が、ぴょこんと顔を覗かせた。<br /> 真紅の幼なじみの、雛苺だ。<br /> 午前四時を過ぎた頃であるのに、この娘は疲労の色ひとつ見せていない。<br /> 雛苺が背にした薄暗い室内からは、依然としてエーデルワイスの歌が漏れ聞こえてくる。<br /><br /> 「こんな時間まで起きてたのか、雛苺。あんまり感心しないな」<br /> 「ぶー。ジュンとめぐだって、夜更かししてるクセにっ」<br /> 「あのな、僕たちは遊んでるワケじゃないんだぞ。アレを完成させるために――」<br /> 「ヒナだって、遊んでるんじゃないのよー」<br /><br /> 子供の口喧嘩みたいな応酬が始まると、めぐが「まあまあ」と、間に割って入った。<br /> そして、室内を親指でさしながら、めぐは雛苺に笑みを向けた。<br /><br /> 「今日は、彼女……調子よさそうね。歌を聴かせて欲しいんだけど、いいかな?」<br /> 「雛苺。私からも、お願いするわ」<br /><br /> ジュンの後ろから進み出た真紅を一瞥すると、雛苺は瞬く間に表情を曇らせた。<br /><br /> 「みんなで聴いてくれた方が、あの子も喜ぶから大歓迎なのよ。<br />  だけど……真紅の服は……」<br /> 「あ、そっか。あいつ、軍服を見ると怖がるんだっけ」<br /><br /> 雛苺に相槌を打ったジュンは、やおら自分の白衣を脱いで、真紅の肩にふわりと掛けた。<br /><br /> 「これ、羽織っておけよ。ボタンを掛けておけば、服も目立たないだろ」<br /> 「あ…………ありがとう」<br />  <br /> 控えめに礼を言うと、真紅は戦車兵の黒い軍服を恥じるように、白衣の端を掻き寄せた。<br /> 俯いた彼女の頬が、うっすら色付いて見えたのは、光の加減だろうか。<br /> それとも、服越しにとは言え、肩に触れた異性の手の温もりを意識したのか。<br /><br /> 「さっさと入れよ、真紅。元々は、お前が歌を聴きに来たんだからな」<br /><br /> 対して、ジュンはいつもと変わらず、不躾な口調で促す。<br /> 馴れ馴れしく“お前”呼ばわりされて、真紅は咎めるように彼を睨んだ。<br /> ……が、文句を言うことはなく、ぷいっと顔を背け、室内へと姿を消した。<br /><br /><br /> めぐは、辛うじてジュンにだけ届くような小声で、そっ……と囁いた。<br /> 「優しくするのは、私だけにして欲しいなぁ」<br /> 「え? なんだって?」<br /> 「……ううん、なんでもなーい。さっ、私たちも行こう♪」<br /> ジュンは釈然としない顔のまま、めぐに手を引かれて、雛苺の部屋に踏み込んだ。<br /><br /><br /> 室内は、真紅の部屋と同様、澱んだ空気に満ちていた。お世辞にも、清潔とは呼べない。<br /> けれども、部屋の奥に置かれたベッドに腰掛け、美声を奏でる娘は、目を見張るほど美しく――<br /> 例えるなら、エーデルワイスの花のような、白くて可愛らしい女性だった。<br /> 『掃き溜めに鶴』とは、正しく彼女のような存在を言うのだろう。<br /> 真紅は、まるで人魚の歌に魅入られた船乗りのように、白い娘の元に引き寄せられていった。<br /><br /> 徐に、歌が止む。娘は、どこか虚ろな眼差しを、真紅に向けていた。<br /> 「――貴女は……だぁれ?」<br /><br /> 訊ねる彼女の右眼は、血に塗れた包帯で覆われていた。<br />  <br />  <br />  <br />  <br /> ――同時刻 スターリングラード某所<br />  <br /> 煌々と照明の点された室内には、異様な雰囲気が漂う。<br /> 薬品の匂いと、饐えた臭い。ガラス管を渡ってゆく気泡が、こぽこぽと笑う。<br /> ある場所では、しゅうしゅうと立ち昇った蒸気が、室内に溶けていく。<br /> 別の箇所では、ぽん! ぽん! と、何かが吹き出る音が響いていた。<br /> 立ち並ぶ巨大な七つの円筒水槽は、見る者に水族館を彷彿させるだろう。<br /> けれど、水槽の中には、生物の影など全くない。<br /> ただ、薄気味悪い液体が満たされているだけ。<br /><br /><br /> その部屋の一角。<br /> 純白の診察台の上に、息を呑むほど美しい娘が、全裸で横たわっていた。<br /> 瞼は閉ざされているものの、胸の双丘は、規則正しく緩やかに上下している。<br /> 健やかな寝息を立てる娘の様子を、診察台の脇に立ち、見下ろす人影が――ふたつ。<br /> どちらも白衣を纏い、口元にはマスクを着用していた。<br /><br /> 「いよいよですね、フォッセー博士」<br /><br /> メガネを掛けた黒髪の人物が、たどたどしいフランス語で、対面する人物に話しかける。<br /> フォッセー博士と呼ばれた若い女性は、こくりと頷いて、返事をした。<br /><br /> 「あなたの協力には、本当に感謝しているわ。<br />  いよいよ…………あの人の理想である『アリス』の時代が、幕を開けるのよ」<br /><br /> 二人の会話を、夢の終わりを告げるヒバリの声と聞いたのか――<br /> 娘の瞼が、す……っと見開かれた。<br />  <br /></p>

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