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「『寝かせた恋は 甘い恋』」(2006/11/01 (水) 15:21:19) の最新版変更点
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『寝かせた恋は 甘い恋』<br>
<br>
<br>
西の空が、うら寂しげに暮れなずむ、金曜日。<br>
彼は、駅の自動改札を出るとキオスクの隣に寄って、待合い人を探した。<br>
左腕の時計に目を落とす。約束した時間には、少しばかり間がある。<br>
<br>
「早く……来すぎたか」<br>
<br>
独りごちて、彼は鼻で、ふぅ……と吐息した。<br>
遅刻せずに済んだ安堵と、彼女に会えない落胆が、綯い交ぜになった溜息。<br>
<br>
<br>
駅構内に流れる、列車の到着を告げるアナウンス。<br>
程なく、改札から人の群が押し出されてきた。<br>
満面に疲労を貼り付かせて行き交う人々の流れは、どこか緩慢で、気怠い。<br>
ずっと観察していたら、なんとはなしに気が滅入ってしまった。<br>
<br>
(……居ないな。次の電車に、乗ってるのかもな)<br>
<br>
そんな希望的観測をして、強引に気分転換を図った。<br>
湿気た顔で出迎えたら、彼女に要らない心配をかけさせてしまう。<br>
折角のムードが、白けてしまうではないか。<br>
これから、二人だけの夜が始まるというのに……まったく、無粋というものだ。<br>
<br>
小さく頭を振って、彼――桜田ジュンは、肩を落とした。「まだまだガキだよな、僕は」<br>
<br>
駅構内の喧噪に紛れて、再び、アナウンスが流れる。<br>
腕時計を確かめると、ほぼ約束どおりの時間を表示していた。<br>
今度こそ、彼女は来る。この電車に乗っている筈だ。<br>
<br>
ジュンは目を凝らして、改札に彼女の姿を探した。<br>
きっと笑顔で出迎えようと、心に決めて……。<br>
<br>
<br>
――だが、今度も彼女は来なかった。<br>
<br>
<br>
彼女は社会人。時間にはそこそこ厳格だし、遅刻することが分かっているなら、<br>
電話のひとつも入れる分別をもっている。<br>
いつもなら、待ち合わせ時間前に、連絡が入っていた。<br>
なにか急な用事ができて、電話を掛ける余裕すら無いのだろうか?<br>
<br>
「こっちから、かけてみるか」<br>
<br>
彼女の携帯電話にダイヤルしてみたが、どうやら圏外に居るらしくて、電波が繋がらない。<br>
一体、彼女は今、どこに居るのだろう?<br>
こっちに向かっている最中ならば良いが、もしも――<br>
<br>
(事故か何かに巻き込まれたりしてたら、どうしたら良いんだ?)<br>
<br>
不吉な可能性を危惧した途端、駅のアナウンスが、人身事故発生を報じ始めた。<br>
<br>
<br>
ぎくりと、ジュンは身を強張らせた。あまりにもタイミングが良すぎる。<br>
携帯電話でリダイヤルしてみたが、結果は相も変わらず。<br>
<br>
まさか……いや、そんな筈は……でも、やっぱり……。<br>
悪い予感が、縁起でもない妄想を生み、更なる焦燥を煽る。<br>
心臓はバクバクと脈打ち、過呼吸気味になって、ジュンの視界がグラリと揺れた。<br>
ひどく気分が悪い。胃が握り潰されているかの様に、キリキリ痛む。<br>
口を手できつく押さえて、吐きそうになるのを懸命に堪えた。<br>
<br>
(落ち着けよ……まだ、事故に巻き込まれたと決まったワケじゃないだろ)<br>
<br>
いくらか気分が静まったところで、ジュンは駅員を捕まえて、説明を求めた。<br>
事故の原因や、復旧見込みを訊ねたのだが、見通しは立っていないの一点張り。<br>
ジュンは諦めて、一旦、外の空気を吸いに、駅舎を出た。<br>
<br>
<br>
既に日は落ち、すっかり夜の帳が降りている。<br>
時間を確かめると、彼が到着してから四十分以上が経っていた。<br>
そろそろ、もう一度、電話してみてもいいだろう。<br>
携帯を取り出したジュンの耳に、<br>
彼と同じく、友人と待ち合わせらしい女の子二人の会話が飛び込んできた。<br>
<br>
「眼鏡を掛けた女の人が、ホームから落ちたんだって。<br>
あの子、轢かれる瞬間を見ちゃったみたい。電話の向こうで、メッチャ落ち込んでた」<br>
「うわ……やだぁ。じゃあ、今日は止めとく? 電車も動きそうにないし」<br>
<br>
<br>
轢かれた?<br>
誰が?<br>
<br>
女の人……が? それに……眼鏡を掛けてたって?<br>
眼鏡を掛けた女の人が、電車に轢かれただって?!?!<br>
それって、まさか――<br>
<br>
<br>
眼鏡を掛けた女性など、老若を問わず、どこにでも居る。<br>
彼女である可能性はあれども、確率的に、極めて低い数字だろう。<br>
だが、ジュンは慌ただしくリダイヤルの操作をして、携帯電話を耳に押し当てた。<br>
「ごめーん!」と、彼女の陽気な返事を期待、切望していたけれど、<br>
返ってくるのは不通のアナウンスだけ。『電源が切れているか、電波の――』<br>
<br>
(あーもうっ! 間怠っこしいなっ)<br>
<br>
ならばと、マンションの電話にダイヤルしてみるが、留守電に切り替わってしまう。<br>
再生される彼女の音声が、虚しく頭の中を通り抜けていく。<br>
膝がカクカクと震えて、今にも頽れてしまいそうだった。<br>
受話器の中で、ピーッと、甲高いビープ音が鳴り響いた。<br>
我に返ったジュンは、掠れて、消え入りそうな声で、彼女へのメッセージを吹き込んだ。<br>
<br>
<br>
「もしもし…………あの…………僕…………」<br>
<br>
どうにも、留守電は苦手だった。<br>
急にメッセージを吹き込めと言われても、何から伝えればいいのか分からなくなるから。<br>
すぐにでも、なにか喋らなければいけないのに――<br>
早く! 早く! 時間がなくなってしまう。<br>
<br>
「ずっと…………待ってるから」<br>
<br>
無限にも思える数秒の後、それだけを口にして、ジュンは通話を切った。<br>
彼女は、このメッセージを聞いてくれるだろうか。<br>
それとも……。<br>
<br>
<br>
不吉な妄想が、頭の中で、際限なく膨らんでいく。<br>
もしかしたら、彼女が永久に、目の前から消えてしまうかも知れない。<br>
それは彼にとって、とても恐ろしく、とても哀しいことだった。<br>
産まれて初めて、心の底から一緒に居たいと思えた女性(ヒト)なのに――<br>
彼女が居なくなってしまったら、もう二度と、恋など出来ないだろう。<br>
<br>
<br>
ガードレールに腰を預け、手の中でクヨクヨと携帯電話を玩びながら、待ち続ける。<br>
冷えてきた夜風に身震いすると、ジュンはパーカーのフードを立てて、背を丸めた。<br>
視線は、タバコの吸い殻が散らばるアスファルトの上を、当て所なく彷徨う。<br>
早く会いたい。彼女の肉声が聞きたい。心に浮かぶ思いは、ただ、それだけ。<br>
<br>
もの凄い力で背中をド衝かれたのは、彼が湿っぽい溜息を吐いた直後だった。<br>
<br>
「ごめぇん! すっかり遅くなっちゃったぁ!」<br>
<br>
威勢のいい声は、渇望していた声。<br>
振り返ると、息を弾ませ、額にうっすらと汗を滲ませたスーツ姿の彼女が居た。<br>
<br>
「今日、家に携帯電話を忘れてきちゃったのよぉ。<br>
そのうえ、ギリギリ間に合うかと思ってたら、事故で電車が止まっちゃうし。<br>
仕方なくタクシー拾おうとしたんだけど、こっちもまた事故の煽りで混――!?」<br>
<br>
ジュンはガードレールから腰を上げて、なんやかやと早口で弁解し続ける彼女を、<br>
力強く抱き締めた。彼女が息を呑む音が、ハッキリと聞こえた。<br>
<br>
「ちょ……ちょっとちょっとぉ。こんな所で、いきなり……」<br>
「よかった」<br>
「えっ?」<br>
「来てくれて……本当に、よかった」<br>
「…………ジュンジュン」<br>
<br>
「ごめんなさい」赤面した彼女――草笛みつの細い腕が、ジュンの肩を包み込んだ。<br>
彼女の方が、まだ背が高い。囁く声は、頭上から降ってきた。「心配させちゃったね」<br>
<br>
「いいよ。女性を待つのは、男の甲斐性だから」<br>
「へえぇ……言うわねぇ。カッコいいぞ、ジュンジュン♪」<br>
「からかわないでくれよ」<br>
「あははっ。ごめんごめーん。さぁ、冷えてきたし、早く行きましょ」<br>
<br>
手を繋ぎながら、彼女のマンションに続く街路を歩く二人。<br>
足の下で、ケヤキの落ち葉が、サクサクと小気味よい音を立てる。<br>
夜風に身を震わせて、みつはひとつ、くしゃみをした。<br>
<br>
「寒いのか」<br>
「うん……ちょっとね。さっき掻いた汗が、冷えたみたい」<br>
<br>
こんな時、大人の男だったら、何も言わずに着ているコートを掛けてあげるのだろう。<br>
けれど、ジュンが着ているのは、フード付きのパーカー。<br>
どうしてもっと、気の利いた上着を着てこなかったのだろうか。<br>
ジュンは、自分の子供っぽさと不甲斐なさが許せなくて、奥歯を噛み締めた。<br>
<br>
黙りこくって目を伏せ、顔を背ける少年の態度から、みつは彼の心境を察したらしい。<br>
小さく笑うと、控えめに身を寄せ、ジュンの肩に両腕を巻きつかせた。<br>
顔を近付けたことで、彼女の前髪が、さわさわとジュンの耳をくすぐる。<br>
ふうわり……と漂う大人の女性の匂いと相俟って、彼は眩暈を覚えていた。<br>
<br>
<br>
「今日は、ホントにごめんね。外で、お食事する予定だったのに」<br>
「別に……事故だったんだから仕方ないし、それに――」<br>
「それに?」<br>
「外食って、落ち着かないから、あんまり好きじゃないんだ」<br>
<br>
言って、ジュンは胸元にあった彼女の手に自らの手を重ね、優しく握り締める。<br>
少し放していただけなのに、みつの手は、もう冷え切っていた。<br>
『寝かせた恋は 甘い恋』<br>
<br>
<br>
西の空が、うら寂しげに暮れなずむ、金曜日。<br>
彼は、駅の自動改札を出るとキオスクの隣に寄って、待合い人を探した。<br>
左腕の時計に目を落とす。約束した時間には、少しばかり間がある。<br>
<br>
「早く……来すぎたか」<br>
<br>
独りごちて、彼は鼻で、ふぅ……と吐息した。<br>
遅刻せずに済んだ安堵と、彼女に会えない落胆が、綯い交ぜになった溜息。<br>
<br>
<br>
駅構内に流れる、列車の到着を告げるアナウンス。<br>
程なく、改札から人の群が押し出されてきた。<br>
満面に疲労を貼り付かせて行き交う人々の流れは、どこか緩慢で、気怠い。<br>
ずっと観察していたら、なんとはなしに気が滅入ってしまった。<br>
<br>
(……居ないな。次の電車に、乗ってるのかもな)<br>
<br>
そんな希望的観測をして、強引に気分転換を図った。<br>
湿気た顔で出迎えたら、彼女に要らない心配をかけさせてしまう。<br>
折角のムードが、白けてしまうではないか。<br>
これから、二人だけの夜が始まるというのに……まったく、無粋というものだ。<br>
<br>
小さく頭を振って、彼――桜田ジュンは、肩を落とした。「まだまだガキだよな、僕は」<br>
<br>
駅構内の喧噪に紛れて、再び、アナウンスが流れる。<br>
腕時計を確かめると、ほぼ約束どおりの時間を表示していた。<br>
今度こそ、彼女は来る。この電車に乗っている筈だ。<br>
<br>
ジュンは目を凝らして、改札に彼女の姿を探した。<br>
きっと笑顔で出迎えようと、心に決めて……。<br>
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――だが、今度も彼女は来なかった。<br>
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彼女は社会人。時間にはそこそこ厳格だし、遅刻することが分かっているなら、<br>
電話のひとつも入れる分別をもっている。<br>
いつもなら、待ち合わせ時間前に、連絡が入っていた。<br>
なにか急な用事ができて、電話を掛ける余裕すら無いのだろうか?<br>
<br>
「こっちから、かけてみるか」<br>
<br>
彼女の携帯電話にダイヤルしてみたが、どうやら圏外に居るらしくて、電波が繋がらない。<br>
一体、彼女は今、どこに居るのだろう?<br>
こっちに向かっている最中ならば良いが、もしも――<br>
<br>
(事故か何かに巻き込まれたりしてたら、どうしたら良いんだ?)<br>
<br>
不吉な可能性を危惧した途端、駅のアナウンスが、人身事故発生を報じ始めた。<br>
<br>
<br>
ぎくりと、ジュンは身を強張らせた。あまりにもタイミングが良すぎる。<br>
携帯電話でリダイヤルしてみたが、結果は相も変わらず。<br>
<br>
まさか……いや、そんな筈は……でも、やっぱり……。<br>
悪い予感が、縁起でもない妄想を生み、更なる焦燥を煽る。<br>
心臓はバクバクと脈打ち、過呼吸気味になって、ジュンの視界がグラリと揺れた。<br>
ひどく気分が悪い。胃が握り潰されているかの様に、キリキリ痛む。<br>
口を手できつく押さえて、吐きそうになるのを懸命に堪えた。<br>
<br>
(落ち着けよ……まだ、事故に巻き込まれたと決まったワケじゃないだろ)<br>
<br>
いくらか気分が静まったところで、ジュンは駅員を捕まえて、説明を求めた。<br>
事故の原因や、復旧見込みを訊ねたのだが、見通しは立っていないの一点張り。<br>
ジュンは諦めて、一旦、外の空気を吸いに、駅舎を出た。<br>
<br>
<br>
既に日は落ち、すっかり夜の帳が降りている。<br>
時間を確かめると、彼が到着してから四十分以上が経っていた。<br>
そろそろ、もう一度、電話してみてもいいだろう。<br>
携帯を取り出したジュンの耳に、<br>
彼と同じく、友人と待ち合わせらしい女の子二人の会話が飛び込んできた。<br>
<br>
「眼鏡を掛けた女の人が、ホームから落ちたんだって。<br>
あの子、轢かれる瞬間を見ちゃったみたい。電話の向こうで、メッチャ落ち込んでた」<br>
「うわ……やだぁ。じゃあ、今日は止めとく? 電車も動きそうにないし」<br>
<br>
<br>
轢かれた?<br>
誰が?<br>
<br>
女の人……が? それに……眼鏡を掛けてたって?<br>
眼鏡を掛けた女の人が、電車に轢かれただって?!?!<br>
それって、まさか――<br>
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<br>
眼鏡を掛けた女性など、老若を問わず、どこにでも居る。<br>
彼女である可能性はあれども、確率的に、極めて低い数字だろう。<br>
だが、ジュンは慌ただしくリダイヤルの操作をして、携帯電話を耳に押し当てた。<br>
「ごめーん!」と、彼女の陽気な返事を期待、切望していたけれど、<br>
返ってくるのは不通のアナウンスだけ。『電源が切れているか、電波の――』<br>
<br>
(あーもうっ! 間怠っこしいなっ)<br>
<br>
ならばと、マンションの電話にダイヤルしてみるが、留守電に切り替わってしまう。<br>
再生される彼女の音声が、虚しく頭の中を通り抜けていく。<br>
膝がカクカクと震えて、今にも頽れてしまいそうだった。<br>
受話器の中で、ピーッと、甲高いビープ音が鳴り響いた。<br>
我に返ったジュンは、掠れて、消え入りそうな声で、彼女へのメッセージを吹き込んだ。<br>
<br>
<br>
「もしもし…………あの…………僕…………」<br>
<br>
どうにも、留守電は苦手だった。<br>
急にメッセージを吹き込めと言われても、何から伝えればいいのか分からなくなるから。<br>
すぐにでも、なにか喋らなければいけないのに――<br>
早く! 早く! 時間がなくなってしまう。<br>
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「ずっと…………待ってるから」<br>
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無限にも思える数秒の後、それだけを口にして、ジュンは通話を切った。<br>
彼女は、このメッセージを聞いてくれるだろうか。<br>
それとも……。<br>
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<br>
不吉な妄想が、頭の中で、際限なく膨らんでいく。<br>
もしかしたら、彼女が永久に、目の前から消えてしまうかも知れない。<br>
それは彼にとって、とても恐ろしく、とても哀しいことだった。<br>
産まれて初めて、心の底から一緒に居たいと思えた女性(ヒト)なのに――<br>
彼女が居なくなってしまったら、もう二度と、恋など出来ないだろう。<br>
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ガードレールに腰を預け、手の中でクヨクヨと携帯電話を玩びながら、待ち続ける。<br>
冷えてきた夜風に身震いすると、ジュンはパーカーのフードを立てて、背を丸めた。<br>
視線は、タバコの吸い殻が散らばるアスファルトの上を、当て所なく彷徨う。<br>
早く会いたい。彼女の肉声が聞きたい。心に浮かぶ思いは、ただ、それだけ。<br>
<br>
もの凄い力で背中をド衝かれたのは、彼が湿っぽい溜息を吐いた直後だった。<br>
<br>
「ごめぇん! すっかり遅くなっちゃったぁ!」<br>
<br>
威勢のいい声は、渇望していた声。<br>
振り返ると、息を弾ませ、額にうっすらと汗を滲ませたスーツ姿の彼女が居た。<br>
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「今日、家に携帯電話を忘れてきちゃったのよぉ。<br>
そのうえ、ギリギリ間に合うかと思ってたら、事故で電車が止まっちゃうし。<br>
仕方なくタクシー拾おうとしたんだけど、こっちもまた事故の煽りで混――!?」<br>
<br>
ジュンはガードレールから腰を上げて、なんやかやと早口で弁解し続ける彼女を、<br>
力強く抱き締めた。彼女が息を呑む音が、ハッキリと聞こえた。<br>
<br>
「ちょ……ちょっとちょっとぉ。こんな所で、いきなり……」<br>
「よかった」<br>
「えっ?」<br>
「来てくれて……本当に、よかった」<br>
「…………ジュンジュン」<br>
<br>
「ごめんなさい」赤面した彼女――草笛みつの細い腕が、ジュンの肩を包み込んだ。<br>
彼女の方が、まだ背が高い。囁く声は、頭上から降ってきた。「心配させちゃったね」<br>
<br>
「いいよ。女性を待つのは、男の甲斐性だから」<br>
「へえぇ……言うわねぇ。カッコいいぞ、ジュンジュン♪」<br>
「からかわないでくれよ」<br>
「あははっ。ごめんごめーん。さぁ、冷えてきたし、早く行きましょ」<br>
<br>
手を繋ぎながら、彼女のマンションに続く街路を歩く二人。<br>
足の下で、ケヤキの落ち葉が、サクサクと小気味よい音を立てる。<br>
夜風に身を震わせて、みつはひとつ、くしゃみをした。<br>
<br>
「寒いのか」<br>
「うん……ちょっとね。さっき掻いた汗が、冷えたみたい」<br>
<br>
こんな時、大人の男だったら、何も言わずに着ているコートを掛けてあげるのだろう。<br>
けれど、ジュンが着ているのは、フード付きのパーカー。<br>
どうしてもっと、気の利いた上着を着てこなかったのだろうか。<br>
ジュンは、自分の子供っぽさと不甲斐なさが許せなくて、奥歯を噛み締めた。<br>
<br>
黙りこくって目を伏せ、顔を背ける少年の態度から、みつは彼の心境を察したらしい。<br>
小さく笑うと、控えめに身を寄せ、ジュンの肩に両腕を巻きつかせた。<br>
顔を近付けたことで、彼女の前髪が、さわさわとジュンの耳をくすぐる。<br>
ふうわり……と漂う大人の女性の匂いと相俟って、彼は眩暈を覚えていた。<br>
<br>
<br>
「今日は、ホントにごめんね。外で、お食事する予定だったのに」<br>
「別に……事故だったんだから仕方ないし、それに――」<br>
「それに?」<br>
「外食って、落ち着かないから、あんまり好きじゃないんだ」<br>
<br>
言って、ジュンは胸元にあった彼女の手に自らの手を重ね、優しく握り締める。<br>
少し放していただけなのに、みつの手は、もう冷え切っていた。<br>
<br>
「僕は、みっちゃんの料理が好きなんだ。この世で一番、うまいと思ってる」<br>
<br>
ジュンが照れくさそうに伝えると、みつは「それは褒めすぎよ」と苦笑した。<br>
けれど、夜目にも判るほど頬を上気させている辺り、満更でもないのだろう。<br>
みつはジュンの肩を抱いたまま、そっと呟いた。<br>
<br>
「でも……ジュンジュンにそう言ってもらえると嬉しいなあ。<br>
気持ちが舞い上がって、一週間の疲れが吹き飛んじゃう」<br>
「大袈裟だなぁ」<br>
「疲れてる時にテンション上げようと思ったら、大袈裟すぎるくらいで丁度いいのよ」<br>
<br>
そんなもんかな、とジュンは失笑した。<br>
<br>
<br>
<br>
彼女の部屋で過ごす時間は、いつでも、ゆったりと流れていった。<br>
それはきっと、心から安らぎを感じているからなのだろう。<br>
テーブルを挟んで食事をしたり、共通の趣味の話でヒートアップしたり、<br>
ソファで片寄せ合って座り、未成年だけど――ちょっとだけお酒を嗜んでみたり。<br>
<br>
ジュンにとって、この素敵で幸福な時間は、かけがえのない宝物だった。<br>
彼女と重ね合わせる時間に比べたら、100億円の札束ですら、紙きれの山でしかない。<br>
そう思えるくらいに、彼女の存在は大きくなっていた。<br>
<br>
「あら?」話の合間に、みつが電話機に目を留め、声を上げた。「留守電が入ってる」<br>
<br>
さっき、ジュンが吹き込んだものだろう。<br>
みつはソファを立って、電話機のメッセージを再生した。<br>
<br>
<br>
『もしもし…………あの…………僕…………<br>
<br>
<br>
<br>
ずっと…………待ってるから』<br>
<br>
<br>
少年からの、重く沈んだ伝言を聞いて、彼女は噴きだした。<br>
<br>
「これって、ジュンジュンよね? 随分と思い詰めてる喋り方じゃない?」<br>
「ああ……それって、さっきの人身事故のときのだ。<br>
何度も携帯にかけたけど、連絡が付かなかったから」<br>
「あ、な~るほど。それで……かぁ」<br>
<br>
笑いながら、みつは再び、ジュンの隣に腰を下ろした。<br>
そして、意味深長な眼差しで、彼の横顔を覗き込む。<br>
<br>
「私がなかなか来ないから、寂しさが募っちゃったのかなぁ?」<br>
「それも確かにあったけど……それだけじゃなかった」<br>
「ふぅん?」<br>
「馬鹿げた発想だって、笑われるだろうけど――」<br>
<br>
前置いて、ジュンはあの時の心境を、彼女に話して聞かせた。<br>
待てど暮らせど連絡が無くて、やきもきしたこと。<br>
もしかしたら、事故の被害者が、彼女かも知れないと思ったこと。<br>
<br>
「もう二度と会えなくなったら――<br>
そう考えた途端、胸が息苦しくなって、張り裂けそうになったんだ」<br>
<br>
何も映していない真っ暗なテレビ画面を眺めながら、ジュンは独りごちた。<br>
みつは何も言わず、たおやかにワイングラスを傾ける。<br>
その仕種は、話の続きを促しているようにも感じられた。<br>
<br>
「僕の周りには、幼なじみや親友の女の子が何人か居る。<br>
それって凄く恵まれてると思うし、実際、幸運なんだろうな。<br>
だけど、どの娘も本気で好きにはなれなかった。友達以上、恋人未満……そんな感じ。<br>
他人との触れ合いに不慣れだった僕は、適度に距離を置いた惰性の付き合いを望んでた。<br>
そして、愛しいと思える女性に出会えないまま、僕の中で、恋心は眠り続けていたんだ」<br>
「――――そっかぁ」<br>
<br>
黙って彼の話に聞き入っていた彼女が、張り詰めていた緊張の糸を緩めるように、<br>
静かな溜息を漏らした。「その点では、私たちって似た者同士なのね」<br>
<br>
「みっちゃんは大人だし、僕なんかよりずっと、恋愛の経験を積んでるんだろ」<br>
「長く生きてるからって、出会いの回数が多いとは限らないわよ。<br>
私はね……下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるって打算的な恋なら、したくないの。<br>
焦って、苦労を背負い込んで……結局、数年で別れるなんて人生のムダだと思わない?」<br>
<br>
そう言うと、みつは程良く酔いが回って、妖しく潤んだ瞳をジュンに向けた。<br>
<br>
「私はねぇ、もっと燃え上がるような恋がしたいの。<br>
炎の上で綱渡りをするみたいに、スリリングで情熱的な恋がしたい。<br>
だから、私も胸の奥底に、恋心を眠らせていたわ。いつか訪れる、素敵な出会いを夢見て――」<br>
<br>
それは多分、老若男女の区別なく、恋愛に対して抱く理想だろう。<br>
素敵な出会い。燃え盛る恋。めくるめく愛の日々。<br>
多くの者は、理想を現実にしようと努力し、その手に掴もうとする。<br>
行動なくして結果は得られないのだから。<br>
<br>
本来ならば、ジュンも、みつも、努力の足りない負け犬になり果てる運命だ。<br>
けれど、彼らの間には何か――他人には働かなかった不思議な力が作用していた。<br>
陳腐な表現を用いるなら、正に『運命の出会い』『赤い糸で結ばれた仲』だった。<br>
<br>
<br>
「私たちが眠らせ続けていた気持ちって、ワインみたいに熟成されているのかなぁ」<br>
<br>
みつがゆっくりとグラスを回すと、ワンテンポ遅れて、深紅の液体が波打った。<br>
ジュンも彼女に倣って、ゆらゆらとワインを攪拌する。<br>
フルーティな香りが幽かに立ちのぼったそれを、ひと口だけ呷って、言葉を返した。<br>
<br>
「ワインのことは、よく解らないよ。<br>
お茶の葉に例えたら、発酵が進んで、紅茶になってるところか」<br>
「私たちの関係は、ブレンド茶ってコトね。どんな味が出せるのかしら?」<br>
<br>
<br>
彼女の問いにジュンは、そうだなあ……と、言葉尻を濁した。<br>
本当のところ、返答はもう用意できている。気恥ずかしくて躊躇しただけだ。<br>
でも、酒の力を借りている今ならば、言えるかも知れない。<br>
<br>
グラスに残っていたワインを一気に飲み干し、ひとつ咳払いして、<br>
ジュンは徐に口を開いた。<br>
<br>
<br>
「ほろ苦くて渋みが強いけど、仄かに甘味があってスッキリした味わい、かな?」<br>
「なるほどね。私、そういう味って好きよ。大人びてて、イイ感じ。<br>
にしても、ジュンジュンってば……今夜は珍しく多弁ね。酔ってるぅ?」<br>
「……当然だろ。酒、呑んでるんだから」<br>
<br>
悪戯っぽく唇で三日月を描き、顔を寄せてくる彼女。<br>
気恥ずかしくて、ジュンは赤面しながら、逃れるように顔を背けた。<br>
――が、すぐに向き直ると、ちょっとだけ吃りながら、<br>
<br>
「あのさ――」<br>
<br>
酔った勢いに任せて、一大決心を解き放った。<br>
シラフでは絶対に口ごもってしまうだろう、大胆発言を。<br>
<br>
<br>
「少し、酔いすぎたみたいだ。<br>
汗も掻いたし……その…………一緒にシャワー、浴びないか?」<br>
「うわ……大胆ねぇ、ジュンジュン」<br>
<br>
みつは一瞬だけ目を丸くして、艶麗な笑みを浮かべた。<br>
<br>
<br>
「……もしかして、甘えちゃってる?」<br>
<br>
こくりと無言で頷いた直後、ジュンの頭は彼女の胸へと抱き寄せられていた。<br>
そこは温かく、柔らかくて……ほんのりと、酒臭い汗の匂いに満ちあふれていた。<br>
けれど、決して不快ではない。寧ろ、安らぎを感じさせてくれる。<br>
<br>
「もしかして、みっちゃんのせい? みっちゃんが生きてるせい?」<br>
「うん……きっと、そうだよ。<br>
みっちゃんが生きててくれるから、僕は明日を夢みることができる。<br>
一緒に居たいと想う気持ちが、僕に生きる希望を与えてくれるんだ」<br>
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ジュンは、みつの胸に頭を預けたまま、彼女の引き締まったウエストに腕を回した。<br>
触れ合った箇所が、あっと言う間に汗ばんでいく。<br>
暑いのは、酒気を帯びているせいだけではないだろう。<br>
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「こんなにも誰かを好きになる日が来るなんて、思ってもみなかったな」<br>
「……そうね。私も――」<br>
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みつの掌がジュンの頭を撫で、指が髪を梳いてゆく。<br>
たったそれだけでも、ジュンは背筋に痺れるような快感を覚え、惚けたように吐息した。<br>
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「ねえ、ジュンジュン」<br>
「…………ん」<br>
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「シャワー…………浴びにいこっか」<br>
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「…………うん」<br>
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二人は抱き合ったままソファを立って、千鳥足を支え合いながら、浴室に消えていった。<br>
熟成した恋の、苦くて甘い喉ごしを楽しむために――<br>
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そして……二人の創造的な夜は、更けゆく。<br>
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おしまい<br>