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『甘い恋より 苦い恋』」(2006/10/08 (日) 10:41:30) の最新版変更点

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<p><br>  『甘い恋より 苦い恋』<br> <br> <br>   あなたが好きなの。<br> <br> とある水曜日。彼と彼女は二人っきりで、放課後の教室に居た。<br> グラウンドで行われている野球部の練習を、彼らは並んで見下ろしていた。<br> 何も話さず、ただ……デッサン用の石膏像みたいに。<br> <br> <br> 長い長い沈黙を破ったのは、彼女の、硬い声。<br> 振り向くと、彼女の銀髪と思い詰めた表情が、黄昏色に染め上げられていた。<br> 昼が終わる寸前。夜が始まる瞬間。<br> 丁度、あの一瞬の美しさを、一点に凝縮したような――<br> <br> キュッと引き締められていた彼女の唇が、いま一度、言葉を紡ぐ。<br> <br> <br>   私と――――付き合って下さい。<br> <br> 普段の猫撫で声とは打って代わって、決然とした口振り。<br> 彼は眼鏡の奥で、意外そうに瞼を見開いてから、静かにかぶりを振った。<br> 喉にこみ上げてくる苦い汁を、懸命に呑み込みながら。<br> <br> 潤んだ紅い瞳が揺らぎ、どうして……と訴えかけている。肩を戦慄かせ、当惑している。<br> ごめんな、とだけ告げて、彼は彼女に背を向けた。泣き顔など見たくない。<br> 教室のドアを閉めると同時に、椅子を蹴り、机をひっくり返す音が聞こえたけれど――<br> <br> <br> 彼は振り返りもせずに、教室から遠ざかった。<br> 彼女は、恋愛の対象ではないのだから。<br> <br></p> <hr> <p><br> ある朝、彼の下駄箱の中に、手紙が入っていた。<br> ハート型のシールで封をされた、明らかにソレと判る代物だった。<br> 今時、こんな古風な真似をする娘に心当たりがあった彼は、<br> ちょっとだけ周囲に目を配り、人気の無いのを確かめて、封を開ける。<br> <br> 淡いピンク色の便箋に、几帳面そうな文字が綴られていた。<br> 文章を走り読みして、彼は……ひとつ頷く。<br> やはり、彼女だ。<br> あの、楽器の演奏が大好きな、可愛らしい女の子。<br> <br> <br>   あなたが大好きです。私の彼氏になってほしいかしら。<br> <br> 勝負球は、見事なまでのストレート。策士を自称する彼女にしては、珍しい。<br> 実は今も、どこかから様子を覗き見ているのかも知れない。<br> <br> 彼は便箋を折り目正しく畳んで、封筒に入れた。<br> そして、差出人の下駄箱に、そっと投函する。<br> 気持ちは嬉しい。だが、受け取れない想いもあるのが、現実。<br> <br> <br> だから――――これが、残酷な返答。拒絶の証明。<br> 彼女もまた、彼にとって恋愛の対象にはなり得ない。<br> <br></p> <hr> <p><br> また、ある晴れた土曜の午後。<br> 毎週の行動パターンを忠実になぞって、彼は公園のベンチに座り、<br> コンビニで買った菓子パンを囓っていた。<br> 姉が部活で不在なので、土曜の昼食は専ら、外食に頼っている。<br> <br> ふと、隣に人の気配。<br> 目だけ動かして見ると、長い髪の女の子が両手を後ろに組んで、佇んでいた。<br> 緋翠の瞳が美しい、クラスメートの彼女。今日は、双子の妹を従えていない。<br> そのせいか、なんだか所在なさげに、モジモジしていた。<br> <br> <br>   あああ……あの、ですね…………もし良かったら――<br> <br> どもりながら、彼女が声を発したのは、それからタップリ20分は経った頃だった。<br> 菓子パンを食べ終えた彼が、ベンチを立って去ろうとした直後のこと。<br> 彼女はトマトみたいに赤面しながら、ナプキンで包んだ弁当箱を差し出した。<br> 一人分にしては量が多い。一緒に食べないかというお誘いなのだろう。<br> 菓子パン程度では腹の足しにならなかったので、彼はありがたく誘いを受けた。<br> <br> <br>   なんなら、毎週つくってやってもいいですよ?<br> <br> 食べ終えて、美味かったよと一応のお世辞を告げた彼に、彼女は照れながら言った。<br> けれど、親切の押し売りを嫌う彼は――<br> <br> <br> 好きにすりゃいいさ。ぶっきらぼうに答え、彼女を置き去りにした。<br> 背後で、悲しそうに目を伏せた娘のことなど、お構いなしに。<br> <br></p> <hr> <p><br> たまたま。<br> そう――彼女との遭遇は、本当の偶然だった。<br> 放課後、空が茜色に染まる頃。誰も居ないだろうと思って、<br> 学校の中庭を通り抜けようとしたとき、庭木の中から出てきた彼女に鉢合わせたのだ。<br> 多分、根元の雑草を抜いていたから、草の陰に隠れて見えなかったのだろう。<br> <br> <br>   珍しいね。キミが、こんなところに来るなんて。<br> <br> 彼女は、双子の姉とは逆様のオッドアイに笑みを湛えながら、彼に話しかけた。<br> この学校で、彼女を知らぬ者は居ない。器量よしの娘だ。<br> 彼女とクラスメートであることを羨む輩もいるが、彼には関係なかった。<br> だって、彼女は同級生。それ以上でも、それ以下でもない。<br> <br> <br>   あのさ……たまには、一緒に帰らない? もうすぐ終わるからさ。<br> <br> 土で汚れた手を背に隠し、何かを期待する眼差しで見つめてくる彼女。<br> 何故、彼女がそんなにも熱っぽい目で自分を見るのか、彼には解らなかった。<br> <br> 理解不能。返答に窮して、ふと下げられた視線の先には――<br> ボタンひとつ分、開かれているブラウスの胸元から、ちらりと見える下着。<br> 他の男子生徒ならば、眼の色を変えて凝視するだろう、扇情的な景色だった。<br> 暑いから、そうしたのだろうが、多分、彼女は気付いていないのだろう。<br> 見えていることに。<br> <br> <br> 悪いな。はしたない格好の娘とは、一緒に歩きたくないんだ。<br> 言い訳がましく悪態を吐いて、彼は彼女の脇をすり抜け、その場を去った。<br> 呼び止めようと伸ばされた彼女の腕に、気付かないまま。<br> <br></p> <hr> <br> 午後になって、曇天から滴が落ち始めた。天気予報は大当たり。<br> それにしても、雨の日はどうして、こんなに鬱陶しいのだろう。<br> 空に立ちこめた暗雲が、呼吸と共に胸の中にまで入り込んで、蓄積していくのだろうか。<br> なんとも、イヤな気分だった。<br> もやもやした苛立ちを押し留め、彼は独り、帰途に就く。<br> <br> <br> ――と、昇降口で、幼なじみの顔を見かけた。<br> 今日は珍しく、ストレートの金髪を結っていない。<br> 降ろした髪も似合っているが……なにか、心境の変化でもあったのだろうか。<br> <br> 声をかけると、恨めしげに空を睨んでいた彼女は、ちょっとだけ驚いた顔をして、<br> 彼の姿を見るや表情を和らげた。<br> <br> <br>   傘を忘れてしまったの。ちゃんと鞄に、入れたつもりだったのだけど。<br> <br> そう言えば、彼女は今朝、遅刻ギリギリに教室へ飛び込んできた。<br> 寝坊でもして、家を飛び出してきたから、うっかり忘れたのだろう。<br> <br> 送ってやるから、入っていけよ。<br> 雨の中、ひとつの傘の下で、彼と彼女は肩を寄せ合い、歩く。<br> 子供の頃から、ずっと一緒に歩んできた彼女は、なんだか……とても小さく見えた。<br> 実際、彼女は小柄だし、彼は成長して、身長も伸びた。だからかも知れない。<br> <br> <br> 会話と呼べないくらい、素っ気ない言葉のやりとりをする間に、彼女の家に着いた。<br> そして、素っ気ない挨拶を交わして、別れる。<br> いつの頃からだろう。それが当たり前になってしまったのは。<br> 昔はもっと、多くのことを話し合えたのに。<br> 時を忘れて、お喋りして、笑い合えたのに。<br> <br> <br> 幼なじみ。その近すぎる関係が、二人の心を隔ててしまう原因かも知れない。<br> 曲線と、漸近線。そんな感じだろうか。<br> 時という極限を経て、限りなく近付きつつも、決して交わらない関係。<br> 長い歳月を費やしても、恋愛の対象になるとは限らないのが人の縁。<br> <br> <br> パタン……。<br> <br> 扉が閉ざされる小さな音が、彼の思考を妨げた。<br> 胸の奥で、じわりと滲み出した苦い感情に眉を顰めて、彼は再び、歩き始める。<br> <br> <br> 今日の雨は、いつになく冷たい。<br> だから、雨の日はイヤなんだ。<br> 呟いた彼の吐息が、雨の中に、白く溶けていった。<br> <br> <hr> <br> 穏やかな休日の午後。約束の時間までは、まだ余裕がある。<br> 目的もなく、ぷらぷらと歩いていた彼に駆け寄る、小さな影。<br> 少女は小さな手で、彼のジーンズを掴んだ。<br> <br> <br>   お兄ちゃんっ! こんにちわなのっ!<br> <br> そばで聞いたら耳鳴りがするほど甲高く、元気のいい声。<br> お隣の家のおチビさんだった。まだ幼稚園児で、来年から小学校にあがる。<br> この無邪気なお嬢ちゃんは、不思議と、彼に懐いていた。<br> 懐かれるような心当たりなど、彼には無かったのだけれど。<br> <br> 今日も元気だね。自然に零れた微笑みを向けながら、彼女の柔らかな髪を撫でる。<br> 彼女は気持ちよさそうに目を細め、ニコニコしていた。<br> そんな仕種が可愛らしいと思う。でも、この娘は幼すぎて、恋愛の相手にはならない。<br> 無垢な幼女に性欲の捌け口を求める変質者もいると聞くが、<br> 彼には、その思考が理解できなかった。<br> <br> <br> 気を付けて帰るんだぞ。そう言い聞かせ、小さな背中を軽く押す。<br> うん! と頷き、駆け出す彼女。短めのスカートが風に靡いて、ちらりとパンツが見えた。<br> 不可抗力であったにせよ、どうにも気恥ずかしい。<br> <br> もしかして、自分にも変質者の素地があるのだろうか?<br> ない――とは言い切れない。ただ、目覚めていなかっただけなのかも……。<br> 彼は、頭をコツンと叩き、妙な想像をうち消した。<br> <br> <hr> <br> 2時間後。<br> 駅の上りホームで電車待ちをしていた彼は、下りホームに立つ彼女を眼にした。<br> お嬢様学園で知られる、私立女子高の制服を着た、美貌の持ち主だった。<br> 緩くウェーブがかった、白く長い髪が、ひときわ目を惹く。<br> そして、右眼を隠す白薔薇の眼帯も。<br> 大人しそうで、綺麗なヒトだとは思う。<br> けれど、恋愛感情は抱かない。抱けない……と言う方が正解か。<br> あの眼帯に底知れない恐ろしさを感じて、気圧されてしまうから。<br> <br> 一体、眼帯の下は、どうなっているのだろう。<br> 興味本位から、そんなことを考えてみた。<br> 眼窩とは、植物の育成に最適の環境だと、どこかで見聞きした憶えがある。<br> 37度前後に保たれた温度。湿度や養分にも、こと欠かない。<br> <br> あの眼帯をむしり取り、眼窩に薔薇の種を蒔けば、さぞかし綺麗な華が咲くだろう。<br> それとも、予想に反して、醜くおぞましい花が咲くか?<br> 試してみたい。嗜虐的な妄想で歪んだ口元が、自嘲へと変わる。<br> <br> ああ……やっぱりか。<br> そして、彼は気付く。やはり、自分は変質者だったんだ、と。<br> 綺麗なモノを汚して喜ぶ、猟奇的な変質者。<br> 嫉妬と暴力でしか、羨望を表現できない出来損ない。いわば、ジャンク。<br> <br> やがて、電車は到着し、二人は互い違いの方角へと引き裂かれる。<br> この駅を利用する限り、また会うこともあるだろう。<br> その度に、猟奇的な自分の存在に目覚めていくのだろう。<br> <br> <br> まあ、それでもいいさ。<br> 妄想を鼻先で笑い飛ばし、彼はこれから会う、愛しい人へと想いを馳せた。<br> <br> <hr> <br> 夕暮れ時の街は、静か。どこからか美味しそうな匂いが、漂ってくるだけ。<br> マンションの一室のインターホンを押すと、十秒と要さずにドアが開かれた。<br> <br> <br> 「いらっしゃーい。よく来てくれたわ。さあ、どうぞ。あがってあがって」<br> <br> そばかすが目立つ頬を、年頃の娘みたいに朱に染める彼女は、大人の女性。<br> 部屋の空気に含まれる、仄かな色香を嗅いで、彼の胸は高鳴った。<br> いつからだろうか。こんな気持ちを、彼女に対して抱きはじめたのは。<br> <br> 趣味の合う友人同士。<br> 最初は、ただ単に、そんな関係だった。<br> それなのに、会うたびに胸の中で不思議な感情が芽生え、<br> 会えない間に、芽生えた想いが成長していった。<br> この想いは、いっときの気の迷いなんかじゃない。断じて。<br> <br> 「夕御飯、まだでしょ? すぐに用意するから、テレビでも見て待っててよ」<br> <br> そう告げて、キッチンに消えようとする彼女を追いかけて、<br> 彼は背後から、愛しい女性を抱き締めた。<br> 壊れ物を扱うように、穏やかに、丁寧に。<br> <br> 「あっ――」<br> <br> 不意打ちに驚く彼女。一挙手一投足に至るまで、全てが愛しい。<br> だから、彼は想いを言葉に変えて、彼女に伝える。いつものように――<br> <br> <br> 「甘えん坊だなぁ、ジュンジュンは」<br> <br> 確かに、彼――桜田ジュンは、甘えん坊。<br> 今までの人生は、姉の桜田のりに、かなりの部分で依存していた。<br> だからなのか、気付けば姉のような存在に憧れ、特別な感情を抱くようになっていた。<br> 他の連中は、同い年の男女と仲良くなって、恋を育もうとするのに。<br> <br> でも、それが普通なのか、おかしな事なのかなんて、どうでもいい。<br> この世はジャンクの溜まり場。<br> 無数のゴミで埋め立てた、夢の島。<br> 誰もが異常であり、それ故に正常であろうと努力する。<br> 壊れたモノを寄せ集め、不完全を補い合いながら、完全を構築する。<br> <br> <br> それが、彼らが暮らす不安定な世界。<br> <br> <br> 「僕は、シスコンなんですよ。ぶっちゃけ、壊れた子なんです」<br> 「……そんなこと、言うもんじゃないわ」<br> <br> ジュンの腕が、そっと振り解かれる。<br> だが、切なさを感じるより早く、彼の身体は再び包み込まれていた。<br> <br> <br> 「馬鹿なこと言う悪い子には、まさちゅーせっちゅ……しちゃうぞ」<br> 「す、すみません」<br> <br> 謝るジュンの頬に、優しくすり寄せられる、彼女の頬。<br> 彼女の体温が胸の奥まで染みわたり、心が暖かいもので満たされる。<br> この感触。この感覚。<br> それこそが、彼の感情を掻き立てるカンフル剤。<br> もう、彼女なしでは明日への活力すら見出せないくらいに、溺れていた。<br> <br> <br> 「今日は…………泊まっていく?」<br> 「…………はい」<br> <br> <br> 返事と同時に、ジュンは携帯電話を取り出し、慣れた手つきで操作する。<br> そして、今夜もまた――<br> <br> 「……もしもし、姉ちゃん?」<br> <br> <br> ――他愛ないウソを重ねる。<br> <br> <br>   おしまい<br>

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