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『約束の場所へ』 後編②」(2006/09/14 (木) 01:22:23) の最新版変更点

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<p> どうして、私は薔薇水晶を追わないの? 薔薇水晶は、天使のような、大切な親友じゃなかったの?<br> じゃあ、早く追いかけて引き留めなきゃ。解っているのに、動けない。気ばかり焦って……イライラしてくる。<br> 自分への憤りを募らせ、モヤモヤした感情の遣り場の無さに当惑して、結局――<br> <br> 「どうして、あんなコト言ったのよ」<br> <br> 私は、水銀燈に八つ当たりしていた。我ながら、つくづく酷い女だって思う。<br> 向き直った彼女は、心底意外そうに、唇を突き出した。<br> <br> 「嫌ぁね……なに怖い顔してるのよぅ。本当のことでしょぉ?」<br> 「水銀燈が、そう感じただけでしょ。薔薇水晶が、私の命を縮めている証拠なんて無いじゃない!」<br> 「……私がウソを吐いてる、と?」<br> <br> そう切り返されると、答えに窮してしまう。私だって、確かな証拠を握っているワケじゃないから。<br> 何が――或いは、誰が――正しいのかと問われれば、返す言葉が無かった。<br> 私は……限りなく無知蒙昧だ。<br> そして、自分の命を容易く他人に握られてしまうほど無力で、ちっぽけな存在。<br> 産み出された後は、運命という名の風に翻弄され、狭い世界を漂い続けるだけの、シャボン玉。<br> <br>   シャボン玉 飛んだ  屋根まで飛んだ<br> <br> ぐちゃぐちゃに乱れた感情を鎮めるべく、あまりにも有名な童謡の一節を、私は諳んじていた。<br> この後に続く歌詞は、空へ舞い上がる前に、儚く消えてしまったシャボン玉へのレクイエム。<br> 永遠不滅のものなど無い世界で、今まで生きてこられただけでも幸福だったのだろう。<br> けれど、運良く飛べたシャボン玉にも、消えゆくさだめは付き纏う。それは、今日か。明日か。<br> 私のために、鎮魂歌を謡ってくれる人は……居るの?<br> <br> 私は屋根まで飛べずに『壊れて消える』のか。<br> そう思った途端、身体の芯から湧いてくる震えを、抑えきれなくなった。<br> 水銀燈はベッドの端に座って、私の肩に掛かった髪を、そっ……と払ってくれた。<br> 彼女の指先が、ぴくりと震えたのは、私の震えを感知したからだろう。<br> <br> 「めぐの格好、肌寒そうね」と言って、水銀燈は私の両肩を力強く引き寄せ、両腕で抱き締めてくれた。<br> 蹌踉めいた身体が、彼女の柔らかな胸に、ぽふん……と抱き留められる。<br> <br> 「体温のない私が抱き締めたって、暖めてあげられないけど――」<br> <br> 私の震えを止めることぐらいは出来る……と?<br> 彼女なりに、気を遣ってくれてるのかしら。心臓を奪い取ろうとしてる割には、優しいのね。<br> でも……なんでかなぁ。こうして貰ってると、無性に安心する。<br> 水銀燈になら、私の全て(命すらも)を、あげても良いかなって思える。<br> <br> いつしか、私の震えは止まっていた。<br> 私は胸一杯に水銀燈の匂いを吸い込んで、まじまじと、彼女の端正な面差しを見つめた。<br> よく考えたら、昼間の明るさの中で水銀燈の顔を間近に眺めるのは、これが初めてだわ。<br> 柔らかそうな頬の産毛までが、きらきらと輝いて見えた。<br> <br> 「な……なによぅ」<br> 「綺麗だなって、思って。貴女でも、見つめられると照れるのね」<br> 「照れてなんかないわよ。じっとり眺められてると、気色悪いだけ。寒気がするわ」<br> 「そうなんだ? やったね、水銀燈の弱点を見っけ♪」<br> 「…………ばぁか」<br> <br> 水銀燈は小声で吐き捨てると、私の身体を押し戻して、ベッドに寝かし付けた。<br> 私が眠っている間に、薔薇水晶と決着を付ける腹づもりなのかしら。<br> <br> 「私を眠らせて、どうするつもり?」<br> <br> 戯けた調子で訊いたのに、返ってきたのは冗談ではなかった。<br> <br> 「夢を……見て欲しいの」<br> 「夢? 寝てるときに見る、アレのこと? それとも、希望って意味のユメ?」<br> 「前者の方よ。戻り得ぬ記憶を辿るには、夢の導きが必要不可欠だから」<br> <br> 何を言っているのかしら。睡眠中に、過去の記憶を呼び覚まさせようって言うの?<br> 私はエドガー=ケイシーじゃないんだから、アカシック・リーディングなんて出来ないってば。<br> 渋る私とは対照的に、水銀燈はかなり期待している様子だった。<br> <br> 「貴女……最近、不思議な夢を頻繁に見るんじゃなぁい?」<br> 「?! どうして、それを――」<br> 「多分、それの影響よ」<br> <br> 水銀燈は、私の左手で鈍い輝きを放っている『薔薇の指輪』を指差して、言った。<br> <br> 「私の中にも、めぐが夢で辿っている記憶が流れ込んでくるの」<br> 「嘘っ。だったら、私は毎晩、水銀燈に夢を覗かれてるってわけ?」<br> 「覗いてるんじゃないわ。勝手に流れ込んでくるのよぅ」<br> 「だとしても、なんか嫌だわ。精気だけを吸い取るんだとばかり、思っていたのに」<br> 「その筈なんだけどねぇ」<br> <br> どうしてなのかは、水銀燈にも、よく解ってないみたい。<br> それで、原因を突き止めるべく、私に夢を見させようとしてるのね。<br> でも、こんな朝っぱらから、眠れるかな。ちょっと自信ないわ。<br> クラシック音楽でも聴いて、リラックスできれば話は別だけど…………あ、いいコト考えちゃった。<br> <br> 「ね、水銀燈。寝付きが良くなるように、歌……謡ってくれない?」<br> 「はぁ? 嫌ぁよ、子守歌じゃあるまいし。なんだったら、力尽くで寝かせてあげましょうか」<br> 「冗談でも、花瓶を手にするのは止めて。それはともかく、ね? お・ね・が・い♪」<br> 「…………しょうがないわねぇ」<br> <br> 口振りこそ嫌々ながらと言った風だったけれど、水銀燈の表情は、満更でもなさそうだった。<br> <br>  ♪夢魔の吐息は 微睡みの調べ 眠りの森に 私を誘う 霧に霞むは恋の道<br> <br> 意外にも、水銀燈は美しいソプラノの持ち主だった。歌唱力も、かなりのものよ。<br> 普段の会話からしてアルト(もしくはメゾソプラノ)だから、もっと下手かと思っていたんだけど……流石はラクス様ね。<br> <br>  ♪独り森の中 彷徨い続けても 貴方の背中に この指は触れない 切なさが止まらない<br> <br> 水銀燈の妙なる歌声が、羽毛の様に私を包み込んでいく。心が、安らぎで満たされていく。<br> <br>  ♪募る想いを風に乗せ 永久の愛を 貴方に届けたい この気持ち――<br> <br> そして……いつしか、私は夢の世界に旅立っていた。<br> <br> <br> <br> ごとごとごと……。<br> 足元から響いてくる喧しい音が、私の浅い眠りを破る。一体、何の音なのよ。<br> 折角、気持ちよくウトウトしてたって言うのに。<br> <br> 「お目覚め? お寝坊さぁん」<br> <br> とても近くで囁かれて、私は驚いて飛び起き、目を見張った。<br> 密かに想いを寄せる人の――水銀の君の微笑みが、すぐ目の前にあったから。<br> 彼女は、束帯に烏帽子を頂いた正装で、私と向かい合って座っていた。<br> <br> 「もうすぐ、左大臣さまのお屋敷に着く頃よ。しゃんとしなさぁい」<br> <br> 言われて、思い出した。そうそう、今夜は左大臣様の館で宴が催されるから、<br> 私も父に随伴して、出席するんだったわ。<br> 水銀の君は護衛役として父に指名され、私と共に、牛車に揺られていたのよ。<br> 牛車の周囲は、双子の侍女の他、数名の衛士が警護してくれている。<br> <br> 私は居住まいを正すと、改めて、水銀の君の爪先から頭の天辺まで眺め回した。<br> 彼女と私は同い年の筈なのに、彼女の方が、ずっと大人びて見える。<br> それはきっと、彼女が私よりも、ずっと多くのモノ――者、または物――に取り囲まれているから。<br> しかも、それらに対して多大な責任を負っているから。<br> <br> 「なぁに? 私の着付け、どこか変?」<br> 「ううん、ちっとも。寧ろ、凛々しくって素敵よ。とても似合ってるわ」<br> 「……よしてよ。好きで、こんな格好してる訳じゃないわぁ」<br> <br> 彼女が男装する理由は、以前に聞いたことがある。つまりは、家督相続のため。<br> 女の身で、家督は継げない。が、お家断絶となれば、使用人を始め多くの者が路頭に迷う事となる。<br> 故に、彼女は男性として振る舞い、周囲の者にも(時々は、術を駆使して)そう信じさせていた。<br> 私の前でだけは、偽りの仮面を脱いでくれるけれどね。<br> <br> しかし、本当に感心すべきは、彼女の心意気だろう。<br> 当代随一と謳われる実力の持ち主ながら、術に頼り切ることなく、陰で努力を重ねている。<br> その甲斐あって、今や従五位下の官位を戴くまでになっていた。<br> <br> 彼女の昇進は、私にとっても喜ぶべきこと。だって、私たちを隔てる身分の差が、それだけ縮まるのだから。<br> そして、いつか……二人が同じ舞台に立ったときには、私を、あの屋敷から――<br> なに不自由ない監獄から、連れ出して欲しい。こんな私で良ければ、貴女の隣へと迎えて欲しい。<br> それは決して、儚い願いなんかじゃないって、私は信じている。<br> <br> <br> 「そ、蒼星石っ!? あれを見るですっ」<br> 「な、なんなの、あれっ!」<br> <br> 突然、牛車の外で侍女たちの緊迫した声が放たれた。水銀の君が、それまでの柔和な表情を険しくする。<br> 胸に抱いていた、将来への甘い夢と期待が、黒い影に覆われていくのを感じた。<br> <br> やおら響く轟音。それは、耳を劈く雷鳴。束の間、私の耳は聞こえなくなった。<br> 彼女が私に向かって、何かを叫んでいるけれど、耳鳴りに遮られて理解不能。<br> ただ、足元が大きく傾いだのは感じられた。<br> <br> ――倒れる。<br> <br> 咄嗟に、理解した。突然の落雷に脅えた牛が暴れ出して、牛車が横転するのだ、と。<br> 水銀の君は、身体が竦んで動けない私を抱き上げると、御簾を蹴破って外に飛び出した。<br> そして、まるで羽でも生えているかのように長い滞空時間を経て、ふわりと着地する。<br> 大袈裟かも知れないけど、気持ちが上擦っていた私には無窮の刻に感じられたわ。<br> 実際には、何回か瞬きする程度の時間だったんでしょうけどね。<br> <br> いっそ、このまま蒼い空の向こう側まで連れ去って欲しい。ふしだらな願いが頭をよぎり、耳が熱くなった。<br> でも、彼女は私を降ろしてしまった。一分の惜しげも見せずに、手放してしまった。<br> 名残惜しくて小指を甘噛みした私の元に、双子の侍女たちが走り寄ってくる。<br> <br> 「姫様、怪我はねぇです? 歩けるですか?」<br> 「……え、ええ。平気よ。それより――」<br> <br> 気付けば、左大臣の屋敷の上には真っ黒な雲が渦巻いていた。暗雲が覆い被さっているのは、そこだけ。<br> 何が、どうなったのかと問うより早く、暗雲から閃光が放たれて、左大臣の屋敷に落ちた。<br> 離れていても喧噪が聞こえてくる。どうやら、火の手も上がっているらしい。この分では、死者も――<br> 私の中で、言い知れぬ感覚が芽生えた。無数の昆虫に、身体中を這い回られている様な、おぞましい感覚。<br> どうしようもなく、嫌な予感がする。ここに居ては、いけない。<br> <br> 「みんな、逃げるわよっ! ここから離れなきゃ!」<br> 「くくく…………もう遅いよ」<br> <br> 聞き慣れない男の声が浴びせられたのは、みんなに指示を出して、来た道を引き返そうとした矢先だった。<br> 振り向いた私の真ん前に立ちはだかる、小柄な人影。修験者のような装束に身を包んだ少年だ。<br> 髪の質が固いのだろうか。少年の直毛は、思い思いの方向に飛び出している。<br> 不気味な少年は、好色な感じの目つきで私を眺めて、ニタリと歯を見せた。<br> <br> 「誰なの、キミはっ!」「なっ、何者です、お前はっ!」<br> <br> 身を挺して私を背に庇いつつ、阿吽の呼吸で狼藉者を誰何する双子姉妹。<br> 威勢のいい彼女たちに、水銀の君が、自制を促す声をかけた。<br> <br> 「貴女たち、気を付けて。そいつは……人じゃない」<br> 「え? なに? 人じゃなかったら、なんなの?」<br> <br> 問い返す私を一瞥して、男は低く笑いながら「よく判ったな」と、水銀の君へと目を転じた。<br> <br> 「禍々しい妖気を隠そうともしないで、よく言う。巷を騒がす鬼め!」<br> 「お、鬼っ!? このチビ人間が、鬼なのです?」<br> 「まさか……この男が、噂の慈雲童子?」<br> <br> 童子と呼ばれているから、てっきり悪戯な小鬼みたいな者を想像していた。<br> でも、目の前の男は、違う。そんな可愛らしいものじゃない。<br> 邪気の塊みたいな目をしている。眉ひとつ動かさずに、人を殺める者の目だったわ。<br> 単純に、小柄な体躯で、髷のひとつも結っていないから『童子』なんて呼んだのね。<br> <br> 衛士たちが慈雲を取り囲み、双子の侍女が得物を、水銀の君が呪符を手に、戦闘準備に入る。<br> 周囲の空気が、ぴぃん……と張り詰め、風が止んだ。息苦しくて、全身から汗が滲み出してきた。<br> 独り、慈雲だけは、四面楚歌(もしくは八方塞がり)の状況なのに、涼しい顔で薄ら笑っている。<br> <br> 「僕の目的は、お前たちみたいな雑魚じゃない。今なら、見逃してやってもいいぞ。<br>  あくまで立ち去らないならば、悲劇は繰り返されるけどな」<br> <br> 言って、慈雲は左大臣の屋敷に向かって、顎をしゃくった。<br> あの惨劇は、やはり、こいつの仕業だったのだ。こみ上げてくる怒りで、私の身体が震えた。<br> そして、次の瞬間には、慈雲を怒鳴りつけていた。<br> <br> 「何故? どうして、あんな事をする必要があるのよ!」<br> 「なぁに……簡単な話さ。左大臣に恨みがあった。それ以上の理由が要るのか?」<br> <br> 平然と応えた慈雲を威圧する様に、水銀の君が一歩、進み出た。<br> <br> 「貴様……先の右大臣、菅原道真公に連なる者か。それとも……公の怨念そのものか」<br> 「ふぅん? 流石は、当代随一の誉れ高い陰陽師と、言ったところか」<br> <br> 口調こそ感嘆していたけれど、全ての言葉が、嘲りの色に染まっていた。<br> それは、夕焼けに黄昏た空の、紅い偽りの色。<br> <br> 「だが、僕は違うね。そもそも、怨念だったのかすら判然としないさ。<br>  人の醜い感情は、黒くドロドロした、原油のようなものだからな。<br>  そこに有るだけで臭気を放ち、火を注げば、呆気なく燃え上がる。周囲の物まで焦がして、燃える。<br>  しかし、火を着けなければ、人間どもが吐き出す黒い汚物は寄せ集まり、この世の闇に流れ込む。<br>  その掃き溜めに、ぽこり、ぽこりと浮かび上がった泡……それこそが、僕ら、鬼と呼ばれる存在だ」<br> <br> 慈雲が、人を誑かす物の怪の眼で、自分を取り囲んだ者達を、ぐるり一瞥する。<br> <br> 「お前たちのなかにも、鬼を産み出す汚物が溜まっているんだぜ。<br>  そこの、銀髪の陰陽師だって例外じゃないさ。澄ました仮面の下では、何を考えている?<br>  背に庇っている大納言の娘を、滅茶苦茶に汚してやりたい欲望に駆られているんじゃないのか?」<br> 「くっ?! ガキぃっ!」<br> <br> 水銀の君は、普段の彼女らしからぬ悪態を吐いて、慈雲めがけて呪を込めた『気』を放った。<br> <br> 「はははっ。図星を指されて、頭に血が上ったか!」<br> <br> 飛んできた『気』を、片手で、いとも容易く受け止める慈雲。握った手を離すと、拳の中から黒い羽が舞い落ちた。<br> その羽は、彼の指先から飛んだ稲妻に撃たれて、地に落ちる前に燃え尽きた。<br> 口元に浮かぶ、余裕綽々の冷笑が、なんとも憎らしい。<br> <br> 「大したこと無いな。鬼の血族と言えども、人間の血が混ざれば、こんなものか」<br> 「なっ――」<br> 「あ、貴方っ……この人の出自を知っているの?」<br> <br> 絶句した彼女に代わって訊ねた私に、慈雲の視線が注がれる。<br> 物の怪の冷酷な目に睨まれて、私は総毛立ってしまった。見かけは小さいのに、なんて威圧感なのよ。<br> <br> 「少しは退屈しのぎになるかと思ったんだけどな、幻滅だよ。<br>  余計なお喋りは、ここまでにして……さっさと目的を果たすとしよう」<br> <br> 慈雲は、つまらなそうに吐き捨てて、右腕を天に翳した。<br> 雷を伴う暗雲が、不気味な音を立てながら、私たちの頭上に押し寄せていた。<br> <br> <br> <br> 唐突に、目覚める夢。目に映るのは、真っ白な天井。ああ……ここは、病室なのね。<br> 隣で、もぞもぞと身じろぎする気配。見れば、水銀燈が寝入っていた。<br> …………って言うか、彼女が真ん中に眠っていて、私がベッドの端に追いやられている。<br> 危うく、転げ落ちるところだったのね、私。<br> ちょっとだけ腹立たしかったけれど、そんな事で口論している場合でもない。<br> 私は水銀燈を揺り起こして、寝ぼけ眼の彼女に、夢は見えたかと訊ねた。<br> <br> 「ええ……ちゃぁんと見えたわ。かげろうのように、ぼんやりとだけどぉ」<br> <br> <br></p> <hr> <br> <br> 同じ頃、薔薇水晶は病棟の裏手にある花壇に立ち寄っていた。<br> あまりにも惨めで、すごすごと帰る気には、なれなかった。<br> 見上げれば、めぐの病室が見える。でも、鉄格子の嵌め込まれた窓は、固く閉ざされたままだ。<br> 丁度、目の前で初夏の生暖かい風に揺れている、向日葵の蕾みたいに。<br> <br> 「もう……来ちゃいけない。それは解ってる」<br> <br> <br> ――疫・病・神・さぁん♪<br> <br> <br> 悲しみのリフレイン。先ほどの水銀燈の言葉が、頭の中で木霊している。<br> 胸が、きりきりと痛んだ。その痛みを誤魔化そうとすると、今度は涙が溢れてくる。<br> 熱くなった目頭を、手の甲でこしこしと擦って、薔薇水晶は鼻をすすり上げた。<br> <br> あの娘にとって、自分は疫病神に、なってしまった。生きる意味を失ってしまった。<br> 否…………させられたのだ。奪われたのだ。<br> あの日――<br> あいつに――<br> <br> 「でも、やっぱり私……ずっと一緒に……居たい。めぐちゃんの側を、離れられないよ」<br> <br> だって、それが私の――――存在意義なのだから。<br> <br> <br> 背後で砂利を踏む音がして、薔薇水晶は思考を止めた。<br> こんな所に、誰が? ひょっとして、彼女が迎えに来てくれたの?<br> 淡い期待を胸に、ふわりと振り向いた薔薇水晶の前には――<br> <br> 「よお、やっと戻ってこれたぜ。しかも、お前のお陰で、彼女の居場所が楽に見付かったよ。ご苦労だったな」<br> <br> 眼鏡を掛けた小柄な青年が、悠然と立ちふさがっていた。口元に、冷笑を浮かべて。<br> <br> 薔薇水晶は無意識のうちに、じりじりと後ずさっていた。<br> 彼女が必死に稼いだ距離を、青年は、たったの一歩で踏み越えてくる。<br> 二歩、三歩と、二人の距離は見る間に縮まっていった。<br> <br> 「い、イヤ――」<br> <br> 踵を返して駆け出そうとした薔薇水晶の腕を、青年の手が掴んだ。<br> 万力のように強く握られて、指先が鬱血していくのが感じられた。<br> <br> 「嫌っ! 離してっ!」<br> 「逃げるなよ。静かにしろって」<br> <br> 彼の、低く押し殺した声で命じられた途端、薔薇水晶はビクン! と背を震わせ、<br> 動くことも、喋ることも出来なくなってしまった。<br> こうなることが解っていたから、命じられる前に逃げたかったのに。<br> 薔薇水晶は跪き、恭しく頭を垂れた。無論、本意ではない。<br> 青年は表情を和らげ、彼女を見下しながら満足そうに微笑んだ。<br> <br> 「よーし、いい子だ。可愛いぜ、僕の……忠実な操り人形――」<br> <br> めぐを想うが故に、背負ってしまった業。これが、彼女のために選んだ道の終着駅。<br> 傷付けた枝の先が朽ちゆく運命なら、過ちの代償が破滅であることも、また必定。<br> 悔しくて……悲しくて……。それなのに、彼女の頬を、涙が濡らすことはなかった。<br> 青年の指が、薔薇水晶の顎に添えられ、くいっと上を向かせる。<br> 眼鏡の奥の鋭い眼光が、彼女の隻眼を射抜いた。<br> <br> <br> 「いま一度、働いてもらうぜ。今度こそ、彼女の力を根こそぎ奪い取る為に、な」<br> <br> (ごめん、めぐちゃんっ! 私、もう……あなたの心で永久に輝くことは出来ないっ)<br> <br> 薔薇水晶は、二人で行く筈だった『約束の場所へ』想いを馳せながら、心の奥で、ひっそりと泣き濡れた。<br> <br>
<p> <br>  <br> どうして、私は薔薇水晶を追わないの? 薔薇水晶は、天使のような、大切な親友じゃなかったの?<br> じゃあ、早く追いかけて引き留めなきゃ。解っているのに、動けない。気ばかり焦って……イライラしてくる。<br> 自分への憤りを募らせ、モヤモヤした感情の遣り場の無さに当惑して、結局――<br> <br> 「どうして、あんなコト言ったのよ」<br> <br> 私は、水銀燈に八つ当たりしていた。我ながら、つくづく酷い女だって思う。<br> 向き直った彼女は、心底意外そうに、唇を突き出した。<br> <br> 「嫌ぁね……なに怖い顔してるのよぅ。本当のことでしょぉ?」<br> 「水銀燈が、そう感じただけでしょ。<br>  薔薇水晶が、私の命を縮めている証拠なんて無いじゃない!」<br> 「……私がウソを吐いてる、と?」<br> <br> そう切り返されると、答えに窮してしまう。私だって、確かな証拠を握っているワケじゃないから。<br> 何が――或いは、誰が――正しいのかと問われれば、返す言葉が無かった。<br> 私は……限りなく無知蒙昧だ。そして、自分の命を容易く他人に握られてしまうほど無力で、ちっぽけな存在。<br> 産み出された後は、運命という名の風に翻弄され、狭い世界を漂い続けるだけの、シャボン玉。<br> <br> <br>   シャボン玉 飛んだ  屋根まで飛んだ<br> <br> <br> ぐちゃぐちゃに乱れた感情を鎮めるべく、あまりにも有名な童謡の一節を、私は諳んじていた。<br> この後に続く歌詞は、空へ舞い上がる前に、儚く消えてしまったシャボン玉へのレクイエム。<br> 永遠不滅のものなど無い世界で、今まで生きてこられただけでも幸福だったのだろう。<br> けれど、運良く飛べたシャボン玉にも、消えゆくさだめは付き纏う。それは、今日か。明日か。<br> 私のために、鎮魂歌を謡ってくれる人は……居るの?<br> <br> 私は屋根まで飛べずに『壊れて消える』のか。そう思った途端、身体の芯から湧いてくる震えを、抑えきれなくなった。<br> 水銀燈はベッドの端に座って、私の肩に掛かった髪を、そっ……と払ってくれた。<br> 彼女の指先が、ぴくりと震えたのは、私の震えを感知したからだろう。<br> <br> 「めぐの格好、肌寒そうね」と言って、水銀燈は私の両肩を力強く引き寄せ、両腕で抱き締めてくれた。<br> 蹌踉めいた身体が、彼女の柔らかな胸に、ぽふん……と抱き留められる。<br> <br> 「体温のない私が抱き締めたって、暖めてあげられないけど――」<br> <br> 私の震えを止めることぐらいは出来る……と?<br> 彼女なりに、気を遣ってくれてるのかしら。心臓を奪い取ろうとしてる割には、優しいのね。<br> でも……なんでかなぁ。こうして貰ってると、無性に安心する。水銀燈になら、私の全て(命すらも)を、あげても良いかなって思える。<br> いつしか、私の震えは止まっていた。<br> 私は胸一杯に水銀燈の匂いを吸い込んで、まじまじと、彼女の端正な面差しを見つめた。<br> よく考えたら、昼間の明るさの中で水銀燈の顔を間近に眺めるのは、これが初めてだわ。<br> 柔らかそうな頬の産毛までが、きらきらと輝いて見えた。<br> <br> 「な……なによぅ」<br> 「綺麗だなって、思って。貴女でも、見つめられると照れるのね」<br> 「照れてなんかないわよ。じっとり眺められてると、気色悪いだけ。寒気がするわ」<br> 「そうなんだ? やったね、水銀燈の弱点を見っけ♪」<br> 「…………ばぁか」<br> <br> 水銀燈は小声で吐き捨てると、私の身体を押し戻して、ベッドに寝かし付けた。<br> 私が眠っている間に、薔薇水晶と決着を付ける腹づもりなのかしら。<br> <br> 「私を眠らせて、どうするつもり?」<br> <br> 戯けた調子で訊いたのに、返ってきたのは冗談ではなかった。<br> <br> 「夢を……見て欲しいの」<br> 「夢? 寝てるときに見る、アレのこと? それとも、希望って意味のユメ?」<br> 「前者の方よ。戻り得ぬ記憶を辿るには、夢の導きが必要不可欠だから」<br> <br> 何を言っているのかしら。睡眠中に、過去の記憶を呼び覚まさせようって言うの?<br> 私はエドガー=ケイシーじゃないんだから、アカシック・リーディングなんて出来ないってば。<br> 渋る私とは対照的に、水銀燈はかなり期待している様子だった。<br> <br> 「貴女……最近、不思議な夢を頻繁に見るんじゃなぁい?」<br> 「?! どうして、それを――」<br> 「多分、それの影響よ」<br> <br> 水銀燈は、私の左手で鈍い輝きを放っている『薔薇の指輪』を指差して、言った。<br> <br> 「私の中にも、めぐが夢で辿っている記憶が流れ込んでくるの」<br> 「嘘っ。だったら、私は毎晩、水銀燈に夢を覗かれてるってわけ?」<br> 「覗いてるんじゃないわ。勝手に流れ込んでくるのよぅ」<br> 「だとしても、なんか嫌だわ。精気だけを吸い取るんだとばかり、思っていたのに」<br> 「その筈なんだけどねぇ」<br> <br> どうしてなのかは、水銀燈にも、よく解ってないみたい。<br> それで、原因を突き止めるべく、私に夢を見させようとしてるのね。<br> でも、こんな朝っぱらから、眠れるかな。ちょっと自信ないわ。<br> クラシック音楽でも聴いて、リラックスできれば話は別だけど…………あ、いいコト考えちゃった。<br> <br> 「ね、水銀燈。寝付きが良くなるように、歌……謡ってくれない?」<br> 「はぁ? 嫌ぁよ、子守歌じゃあるまいし。なんだったら、力尽くで寝かせてあげましょうか」<br> 「冗談でも、花瓶を手にするのは止めて。それはともかく、ね? お・ね・が・い♪」<br> 「…………しょうがないわねぇ」<br> <br> 口振りこそ嫌々ながらと言った風だったけれど、水銀燈の表情は、満更でもなさそうだった。<br> <br> <br>  ♪夢魔の吐息は 微睡みの調べ 眠りの森に 私を誘う 霧に霞むは恋の道<br> <br> 意外にも、水銀燈は美しいソプラノの持ち主だった。歌唱力も、かなりのものよ。<br> 普段の会話からしてアルト(もしくはメゾソプラノ)っぽいから、もっと下手かと思っていたんだけど……流石はラクス様ね。<br> <br> <br>  ♪独り森の中 彷徨い続けても 貴方の背中に この指は触れない 切なさが止まらない<br> <br> 水銀燈の妙なる歌声が、羽毛の様に私を包み込んでいく。心が、安らぎで満たされていく。<br> <br> <br>  ♪募る想いを風に乗せ 永久の愛を 貴方に届けたい この気持ち――<br> <br> そして……いつしか、私は夢の世界に旅立っていた。<br> <br> <br> <br> <br> ごとごとごと……。<br> 足元から響いてくる喧しい音が、私の浅い眠りを破る。一体、何の音なのよ。<br> 折角、気持ちよくウトウトしてたって言うのに。<br> <br> 「お目覚め? お寝坊さぁん」<br> <br> とても近くで囁かれて、私は驚いて飛び起き、目を見張った。<br> 密かに想いを寄せる人の――水銀の君の微笑みが、すぐ目の前にあったから。<br> 彼女は、束帯に烏帽子を頂いた正装で、私と向かい合って座っていた。<br> <br> 「もうすぐ、左大臣さまのお屋敷に着く頃よ。しゃんとしなさぁい」<br> <br> 言われて、思い出した。そうそう、今夜は左大臣様の館で宴が催されるから、<br> 私も父に随伴して、出席するんだったわ。<br> 水銀の君は護衛役として父に指名され、私と共に、牛車に揺られていたのよ。<br> 牛車の周囲は、双子の侍女の他、数名の衛士が警護してくれている。<br> <br> 私は居住まいを正すと、改めて、水銀の君の爪先から頭の天辺まで眺め回した。<br> 彼女と私は同い年の筈なのに、彼女の方が、ずっと大人びて見える。<br> それはきっと、彼女が私よりも、ずっと多くのモノ――者、または物――に取り囲まれているから。<br> しかも、それらに対して多大な責任を負っているから。<br> <br> 「なぁに? 私の着付け、どこか変?」<br> 「ううん、ちっとも。寧ろ、凛々しくって素敵よ。とても似合ってるわ」<br> 「……よしてよ。好きで、こんな格好してる訳じゃないわぁ」<br> <br> 彼女が男装する理由は、以前に聞いたことがある。つまりは、家督相続のため。<br> 女の身で、家督は継げない。が、お家断絶となれば、使用人を始め多くの者が路頭に迷う事となる。<br> 故に、彼女は男性として振る舞い、周囲の者にも(時々は、術を駆使して)そう信じさせていた。<br> 私の前でだけは、偽りの仮面を脱いでくれるけれどね。<br> <br> しかし、本当に感心すべきは、彼女の心意気だろう。<br> 当代随一と謳われる実力の持ち主ながら、術に頼り切ることなく、陰で努力を重ねている。<br> その甲斐あって、今や従五位下の官位を戴くまでになっていた。<br> <br> 彼女の昇進は、私にとっても喜ぶべきこと。だって、私たちを隔てる身分の差が、それだけ縮まるのだから。<br> そして、いつか……二人が同じ舞台に立ったときには、私を、あの屋敷から――<br> なに不自由ない監獄から、連れ出して欲しい。こんな私で良ければ、貴女の隣へと迎えて欲しい。<br> それは決して、儚い願いなんかじゃないって、私は信じている。<br> <br> <br> 「そ、蒼星石っ!?」<br> 「な、なんなの、あれっ!」<br> <br> 突然、牛車の外で侍女たちの緊迫した声が放たれた。水銀の君が、それまでの柔和な表情を険しくする。<br> 胸に抱いていた、将来への甘い夢と期待が、黒い影に覆われていくのを感じた。<br> <br> やおら響く轟音。それは、耳を劈く雷鳴。束の間、私の耳は聞こえなくなった。<br> 彼女が私に向かって、何かを叫んでいるけれど、耳鳴りに遮られて理解不能。<br> ただ、足元が大きく傾いだのは感じられた。<br> <br> ――倒れる。<br> <br> 咄嗟に、理解した。突然の落雷に脅えた牛が暴れ出して、牛車が横転するのだ、と。<br> 水銀の君は、身体が竦んで動けない私を抱き上げると、御簾を蹴破って外に飛び出した。<br> そして、まるで羽でも生えているかのように長い滞空時間を経て、ふわりと着地する。<br> 大袈裟かも知れないけど、気持ちが上擦っていた私には無窮の刻に感じられたわ。<br> 実際には、何回か瞬きする程度の時間だったんでしょうけどね。<br> <br> いっそ、このまま蒼い空の向こう側まで連れ去って欲しい。ふしだらな願いが頭をよぎり、耳が熱くなった。<br> でも、彼女は私を降ろしてしまった。一分の惜しげも見せずに、手放してしまった。<br> 名残惜しくて小指を甘噛みした私の元に、双子の侍女たちが走り寄ってくる。<br> <br> 「姫様、怪我はねぇです? 歩けるですか?」<br> 「……え、ええ。平気よ。それより――」<br> <br> 気付けば、左大臣の屋敷の上には真っ黒な雲が渦巻いていた。暗雲が覆い被さっているのは、そこだけ。<br> 何が、どうなったのかと問うより早く、暗雲から閃光が放たれて、左大臣の屋敷に落ちた。<br> 離れていても喧噪が聞こえてくる。どうやら、火の手も上がっているらしい。この分では、死者も――<br> 私の中で、言い知れぬ感覚が芽生えた。無数の昆虫に、身体中を這い回られている様な、おぞましい感覚。<br> どうしようもなく、嫌な予感がする。ここに居ては、いけない。<br> <br> 「みんな、逃げるわよっ! ここから離れなきゃ!」<br> 「くくく…………もう遅いよ」<br> <br> 聞き慣れない男の声が浴びせられたのは、みんなに指示を出して、来た道を引き返そうとした矢先だった。<br> 振り向いた私の真ん前に立ちはだかる、小柄な人影。修験者のような装束に身を包んだ少年だ。<br> 髪の質が固いのだろうか。少年の直毛は、思い思いの方向に飛び出している。<br> 不気味な少年は、好色な感じの目つきで私を眺めて、ニタリと歯を見せた。<br> <br> 「誰なの、キミはっ!」<br> 「なっ、何者です、お前はっ!」<br> <br> 身を挺して私を背に庇いつつ、阿吽の呼吸で狼藉者を誰何する双子姉妹。<br> 威勢のいい彼女たちに、水銀の君が、自制を促す声をかけた。<br> <br> 「貴女たち、気を付けて。そいつは……人じゃない」<br> 「え? なに? 人じゃなかったら、なんなの?」<br> <br> 問い返す私を一瞥して、男は低く笑いながら「よく判ったな」と、水銀の君へと目を転じた。<br> <br> 「禍々しい妖気を隠そうともしないで、よく言う。巷を騒がす鬼め!」<br> 「お、鬼っ!? このチビ人間が、鬼なのです?」<br> 「まさか……この男が、噂の慈雲童子?」<br> <br> 童子と呼ばれているから、てっきり悪戯な小鬼みたいな者を想像していた。<br> でも、目の前の男は、違う。そんな可愛らしいものじゃない。<br> 邪気の塊みたいな目をしている。眉ひとつ動かさずに、人を殺める者の目だったわ。<br> 単純に、小柄な体躯で、髷のひとつも結っていないから『童子』なんて呼んだのね。<br> <br> 衛士たちが慈雲を取り囲み、双子の侍女が得物を、水銀の君が呪符を手に、戦闘準備に入る。<br> 周囲の空気が、ぴぃん……と張り詰め、風が止んだ。息苦しくて、全身から汗が滲み出してきた。<br> 独り、慈雲だけは、四面楚歌(もしくは八方塞がり)の状況なのに、涼しい顔で薄ら笑っている。<br> <br> 「僕の目的は、お前たちみたいな雑魚じゃない。今なら、見逃してやってもいいぞ。<br>  あくまで立ち去らないならば、悲劇は繰り返されるけどな」<br> <br> 慈雲は、左大臣の屋敷に向かって、顎をしゃくった。<br> あの惨劇は、やはり、こいつの仕業だったのだ。こみ上げてくる怒りで、私の身体が震えた。<br> そして、次の瞬間には、慈雲を怒鳴りつけていた。<br> <br> 「何故? どうして、あんな事をする必要があるのよ!」<br> 「なぁに……簡単な話さ。左大臣に恨みがあった。それ以上の理由が要るのか?」<br> <br> 平然と応えた慈雲を威圧する様に、水銀の君が一歩、進み出た。<br> <br> 「貴様……先の右大臣、菅原道真公に連なる者か。それとも……公の怨念そのものか」<br> 「ふぅん? 流石は、当代随一の誉れ高い陰陽師と、言ったところか」<br> <br> 口調こそ感嘆していたけれど、全ての言葉が、嘲りの色に染まっていた。<br> それは、夕焼けに黄昏た空の、紅い偽りの色。<br> <br> 「だが、僕は違うね。そもそも、怨念だったのかすら判然としないさ。<br>  人の醜い感情は、黒くドロドロした、原油のようなものだからな。<br>  そこに有るだけで臭気を放ち、火を注げば、呆気なく燃え上がる。周囲の物まで焦がして、燃える。<br>  しかし、火を着けなければ、人間どもが吐き出す黒い汚物は寄せ集まり、この世の闇に流れ込む。<br>  その掃き溜めに、ぽこり、ぽこりと浮かび上がった泡……それこそが、僕ら、鬼と呼ばれる存在だ」<br> <br> 慈雲が、人を誑かす物の怪の眼で、自分を取り囲んだ者達を、ぐるり一瞥する。<br> <br> 「お前たちのなかにも、鬼を産み出す汚物が溜まっているんだぜ。<br>  そこの、銀髪の陰陽師だって例外じゃないさ。澄ました仮面の下では、何を考えている?<br>  背に庇っている大納言の娘を、滅茶苦茶に汚してやりたい欲望に駆られているんじゃないのか?」<br> 「くっ?! ガキぃっ!」<br> <br> 水銀の君は、普段の彼女らしからぬ悪態を吐いて、慈雲めがけて呪を込めた『気』を放った。<br> <br> 「はははっ。図星を指されて、頭に血が上ったか!」<br> <br> 飛んできた『気』を、片手で、いとも容易く受け止める慈雲。握った手を離すと、拳の中から黒い羽が舞い落ちた。<br> その羽は、彼の指先から飛んだ稲妻に撃たれて、地に落ちる前に燃え尽きた。<br> 口元に浮かぶ、余裕綽々の冷笑が、なんとも憎らしい。<br> <br> 「大したこと無いな。鬼の血族と言えども、人間の血が混ざれば、こんなものか」<br> 「なっ――」<br> 「あ、貴方っ……この人の出自を知っているの?」<br> <br> 絶句した彼女に代わって訊ねた私に、慈雲の視線が注がれる。<br> 物の怪の冷酷な目に睨まれて、私は総毛立ってしまった。見かけは小さいのに、なんて威圧感なのよ。<br> <br> 「少しは退屈しのぎになるかと思ったんだけどな、幻滅だよ。<br>  余計なお喋りは、ここまでにして……さっさと目的を果たすとしよう」<br> <br> 慈雲は、つまらなそうに吐き捨てて、右腕を天に翳した。<br> 雷を伴う暗雲が、不気味な音を立てながら、私たちの頭上に押し寄せていた。<br> <br> <br> <br> <br> 唐突に、目覚める夢。目に映るのは、真っ白な天井。ああ……ここは、病室なのね。<br> 隣で、もぞもぞと身じろぎする気配。見れば、水銀燈が寝入っていた。<br> …………って言うか、彼女が真ん中に眠っていて、私がベッドの端に追いやられている。<br> 危うく、転げ落ちるところだったのね、私。<br> ちょっとだけ腹立たしかったけれど、そんな事で口論している場合でもない。<br> 私は水銀燈を揺り起こして、寝ぼけ眼の彼女に、夢は見えたかと訊ねた。<br> <br> 「ええ……ちゃぁんと見えたわ。かげろうのように、ぼんやりとだけどぉ」<br>  <br>  <br></p> <hr>  <br>  <br> 同じ頃、薔薇水晶は病棟の裏手にある花壇に立ち寄っていた。あまりにも惨めで、すごすごと帰る気には、なれなかった。<br> 見上げれば、めぐの病室が見える。でも、鉄格子の嵌め込まれた窓は、固く閉ざされたままだ。<br> 丁度、目の前で初夏の生暖かい風に揺れている、向日葵の蕾みたいに。<br> <br> 「もう……来ちゃいけない。それは解ってる」<br> <br> <br> ――疫・病・神・さぁん♪<br> <br> <br> 悲しみのリフレイン。先ほどの水銀燈の言葉が、頭の中で木霊している。<br> 胸が、きりきりと痛んだ。その痛みを誤魔化そうとすると、今度は涙が溢れてくる。<br> 熱くなった目頭を、手の甲でこしこしと擦って、薔薇水晶は鼻をすすり上げた。<br> <br> あの娘にとって、自分は疫病神に、なってしまった。生きる意味を失ってしまった。<br> 否…………させられたのだ。奪われたのだ。<br> あの日――<br> あいつに――<br> <br> 「でも、やっぱり私……ずっと一緒に……居たい。<br>  めぐちゃんの側を、離れられないよ」<br> <br> だって、それが私の――――存在意義なのだから。<br> <br> <br> 背後で砂利を踏む音がして、薔薇水晶は思考を止めた。<br> こんな所に、誰が? ひょっとして、彼女が迎えに来てくれたの?<br> 淡い期待を胸に、ふわりと振り向いた薔薇水晶の前には――<br> <br> 「よお、やっと戻ってこれたぜ。<br>  だが、お前のお陰で、彼女の居場所が楽に見付かったよ。ご苦労だったな」<br> <br> 眼鏡を掛けた小柄な青年が、悠然と立ちふさがっていた。口元に、冷笑を浮かべて。<br> <br> 薔薇水晶は無意識のうちに、じりじりと後ずさっていた。<br> 彼女が必死に稼いだ距離を、青年は、たったの一歩で踏み越えてくる。<br> 二歩、三歩と、二人の距離は見る間に縮まっていった。<br> <br> 「い、イヤ――」<br> <br> 踵を返して駆け出そうとした薔薇水晶の腕を、青年の手が掴んだ。<br> 万力のように強く握られて、指先が鬱血していくのが感じられた。<br> <br> 「嫌っ! 離してっ!」<br> 「逃げるなよ。静かにしろって」<br> <br> 彼の、低く押し殺した声で命じられた途端、薔薇水晶はビクン! と背を震わせ、<br> 動くことも、喋ることも出来なくなってしまった。<br> こうなることが解っていたから、命じられる前に逃げたかったのに。<br> 薔薇水晶は跪き、恭しく頭を垂れた。無論、本意ではない。<br> 青年は表情を和らげ、彼女を見下しながら満足そうに微笑んだ。<br> <br> 「よーし、いい子だ。可愛いぜ、僕の……忠実な操り人形――」<br> <br> めぐを想うが故に、背負ってしまった業。これが、彼女のために選んだ道の終着駅。<br> 傷付けた枝の先が朽ちゆく運命なら、過ちの代償が破滅であることも、また必定。<br> 悔しくて……悲しくて……。それなのに、彼女の頬を、涙が濡らすことはなかった。<br> 青年の指が、薔薇水晶の顎に添えられ、くいっと上を向かせる。眼鏡の奥の鋭い眼光が、彼女の隻眼を射抜いた。<br> <br> 「いま一度、働いてもらうぜ。今度こそ、彼女の力を根こそぎ奪い取る為に、な」<br> <br> <br> (ごめん、めぐちゃんっ!<br>  私、もう……あなたの心で永久に輝くことは出来ないっ)<br> <br> <br> 薔薇水晶は、二人で行く筈だった『約束の場所へ』想いを馳せながら、心の奥で、ひっそりと泣き濡れた。<br>  <br>  

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