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【ゆめまぼろし】最終話 夢幻」(2006/08/20 (日) 11:38:30) の最新版変更点

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<p><br>  ―――ああ。私はまた、此処へやってきたのか。</p> <br> <p>  ここは白い。白くて、何も無い場所。こんなところに一人で居たら、とてもとても寂し<br> いことなのだろうけど……私が此処に来たときにだけ逢える子が居る。</p> <br> <p>  私は……目覚めているときは、多分このことを覚えていないんだと思う。覚醒している<br> ときの記憶は今もある。だけど『この場所』についての話題を、一度もしたことが無いこ<br> とを……今の私は、自覚しているから。</p> <br> <p>  此処にやってくれば思い出す。私が眠っている―――ジュンや"庭師"が、闘っている間。<br> 私はいつも、この白い空間の真っ只中に立ち尽くしているのだ。</p> <br> <p> ……</p> <br> <p>  辺りを見回す。今は誰も居ないけれど、その内やってくる少女もまた、此処に居るから。</p> <br> <p>『真紅……』</p> <br> <p>  この子は私と居るとき、不意にがらりと雰囲気を変えることがあるということに、私は<br> 気付いている。いつもは、無邪気な子供。にこにこと笑っているのに……時々ふと、泣き<br> そうな表情を浮かべて。そんな顔をしたあとは、決まって私の前から姿を消す。</p> <br> <p>  暫くすると戻ってくるのだけれど、その時はまた……いつもの笑顔に戻っている。</p> <br> <p>『……』</p> <br> <p>  そう、今もまた。私の前に姿を現したのは、哀しそうな顔をしている女の子。<br>  姿形は変わらないと言うのに、纏う雰囲気が全く正反対だと言ってもいい。</p> <br> <p><br> 『貴女は……此処に居ちゃだめなの……』</p> <br> <p><br>  そう言い残して、彼女はまた居なくなってしまった。</p> <br> <p>  私はその言葉で、少し考えるのだ。……確かに自分はこんな場所で、のんびりと漂って<br> 居る場合では無いのではないか、と。<br>  だって、私は護られていて……闘うことが、出来ない。私に付き添ってくれている人達<br> は、きっと命懸けで闘ってくれているというのに。</p> <br> <p>  だけど、此処に居ると……そんな感情も、すぐに消えていってしまう。だって、この場<br> 所には何も無い。私と彼女の、二人きり。</p> <br> <p>  私の心の中も、どんどん空っぽになっていって―――思考も意志も、ゆらゆらと漂わせ<br> たまま、何処かへ流されていきたいと思ってしまう。</p> <br> <p><br>  『生きることは、闘うこと』……目覚めているときの私は、そんなことを考えているこ<br> とを知っている。でも今の私は、それに従っていると言えないのだろう。</p> <br> <p>  だから、もうひょっとしたら。私は既に生きることを諦めて、案外と死んでしまってい<br> るのかもしれなかった。何も無いことは、幸せなのだと。そんなことを、頭の片隅に浮か<br> べながら―――</p> <br> <p><br>  気付くと、また眼の前には彼女が居た。そして言うのだ、嬉しそうな表情をして。</p> <br> <p><br> 『一緒に遊ぼう? 真紅』</p> <br> <p><br>  ほら、やっぱり。……一緒に居て欲しいのか、欲しくないのか。<br>  私にはよくわからないけど。</p> <br> <p><br>  今日は何をして遊びましょうか? それともお話がいいかしら?<br>  貴女は絵を描くのが好きですものね……それに付き合ってあげても、いいのだわ。</p> <br> <p><br>  此処は真っ白で何も無くて、私達が望む分だけ必要なものは"現れる"。けれど、そんな<br> ものは必要最低限のものだけでいい。<br>  この場所に漂っているときは、とても穏やかな気持ちで居られるから……</p> <br> <p><br>  今日も私と、一緒に居てくれるのね? だから私も……此処に居るのだわ。</p> <br> <p><br> 私がそう言うと、彼女は本当に喜んでくれるから。そんな彼女を見ると、私も嬉しい。</p> <br> <p><br>  だって、此処には私達しか居ないから……そうでしょう? 雛苺。</p> <br> <p><br>  私が目覚めて、この白い空間に居たことを忘れてしまっても。<br>  きっとまた私は、此処にやってくる。</p> <br> <p>  だから―――何も考えなくていい。多分、それでいいんだろう―――</p> <br> <br> <p><br> 【ゆめまぼろし】最終話 夢幻</p> <br> <p><br></p> <p><br> 「……」</p> <br> <p> 本当に此処は、何も無いところだと思う。<br>  ただただ、白い空間が広がっていて……勿論、普段"庭師"の二人と闘っている"世界"に<br> も、殆ど何も無い。だけど、あそこには翠星石の張った茨や……とにかく誰かしらの『意<br> 志の残滓』のようなものがあるから。そういったもので、"世界"は埋められているのが普<br> 通だ。</p> <br> <p>  真紅の精神と同調して、この場所にやってきてから、それほど時間は経っていない……<br> 筈。時間の感覚も、酷く曖昧で。気をしっかり保っていないと、この白に呑みこまれてし<br> まいそうな感覚さえする。</p> <br> <p> 僕は指輪のついた左手を見つめた。</p> <br> <p>「……っ!」</p> <br> <p>  その途端、風に吹かれた蝋燭の炎のように、左手のかたちが揺らめく。<br>  観念の状態は、もともとかたち無きもの。その状態を今保つためには……力強い意志を<br> 持たなければならない。</p> <br> <p> そうだ、僕は真紅を救う為に、此処へやってきた。<br>  だからまずは、彼女を早く探し出さなければならない。そして、真紅の指輪の"存在"を、<br> 僕が全て引き継ぐ。そうすれば、きっと彼女は自由になれる……!</p> <br> <p><br> 「……それにしても」</p> <br> <p>  確かに彼女の存在を感じているというのに……その『存在』のイメージが、酷く脆いよ<br> うな気がする。</p> <br> <p> ……?<br>  そうだ。なんでもっと早く気付かなかった。真紅の夢の"世界"は、"庭師"が通ったくら<br> い穴からいける場所。だが、其処に真紅が居ることは無かった。<br>  どうして? 自分の夢の"世界"には、その夢を見ている主がが居ておかしいという理屈は無い。</p> <br> <p>  だけど、今まで。そう、恐らくこの『薔薇屋敷』の指輪の主達は……今まで一度も、夢<br> の"世界"に現れたことがなかったのではないか? そしてそれは、当たり前のことになっ<br> てしまっていて……誰も口に出すことが無かった。</p> <br> <p>  "世界"は全て繋がっていると、魔術師の"知"が教えてくれた。よって、恐らく今"庭師"<br> が戦闘している場所からも、巡り巡れば此処に来ることが出来るだろう。だが、そこに<br> 通じるまでに、どれほどの道を通らなければならないかわからない。</p> <br> <p>  今、僕は真紅の存在を感じ、この場所に辿りついた。だから彼女は此処に居る。<br>  だが……これは、真紅の"世界"では無い。<br>  僕は直接、彼女の心に同化して。最短の道を通り、時々流されそうになりながら……</p> <br> <p>「ここは……指輪の持つ"世界"なのか」</p> <br> <p>  指輪の主達は、眠りにつく度にこの場所へやってきていたのかもしれない。</p> <br> <p>  しかし、僕は知っている。指輪の存在そのものは、――――――</p> <br> <p>  思考を巡らせていると、……不意に後ろから、何かの気配を感じた。</p> <br> <p>「……誰だ」</p> <br> <p>  ゆっくりと、振り返る。そこには一人の少女が、居た。</p> <br> <p>『……』</p> <br> <p>  幼い。随分とまた子供子供した奴だ―――こいつは、"異なるもの"か……?<br>  ならば、……闘うしか、ない。</p> <br> <p>『……うゅ……』</p> <br> <p>「……?」</p> <br> <p>  待て。僕はまだ何もしていない。―――何でいきなり泣きそうになる?<br>  ちょっと考えてから、僕は口を開いた。</p> <br> <p>「お前、名前は?」</p> <br> <p>  取り合えず、その存在を明かしてみようと思った。『名前』は、その存在を意味付ける<br> 為の重要なファクターになる。まあ、嘘をつかれる可能性も無い訳だが……なんだかこう、<br> そこまで狡賢いようには見えない。<br>  その仕草すら作戦というのなら……少し恐ろしい。実際、その『存在の在り方』自体は<br> 生半可な"異なるもの"よりも遥かに大きいから。</p> <br> <p> 「ああ、こういうのは先に名乗るべきなのか。……また真紅に怒られそうだな。<br>  僕は桜田ジュン」</p> <br> <p> さあ……どう出る?</p> <br> <p>『……真紅と、知り合いなの?』</p> <br> <p> 「! 真紅を知ってるのか!? あいつはこの"世界"に居るんだろう、……場所はわかるか!?」</p> <br> <p>『! ……』</p> <br> <p>  その途端、ビクッと身体を震わせて、小動物のような怯えを見せる。<br>  なんなんだ、こいつは……?</p> <br> <p>  様子を見ていると、ぽつりぽつりと彼女は話し始める。</p> <br> <p> 『ヒナね……ずっと頑張ってきたの。だけど、もう無理なの……ヒナはもう、……』</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p> 『真紅は、ここに居ちゃいけないの。本当に、何もなくなっちゃうの……!』</p> <br> <p>  そう言うと。ヒナと名乗る少女は、白い空間の遥か彼方……とある方向を、指差した。</p> <br> <p> 『このまま……真っ直ぐなの。ジュンは……指輪を持ってるのね?』</p> <br> <p>「あ、ああ」</p> <br> <p>『なら多分……大丈夫なの。早くしないと……!』</p> <br> <p><br>  そして。何の音も残さず、少女は消えてしまった。<br>  どうする。この言葉を信じるならば、僕は真っ直ぐ飛んでいけばいい。</p> <br> <p>「迷ってる暇は、無さそうだな……」</p> <br> <p>  僕は少女を信じることにする。このまま彷徨っていても、いつ真紅と出会えるかわかった<br> もんじゃない。ならば、少しの可能性にかけてみるべきだと判断した。</p> <br> <p> 腹が決まれば、あとは全速力で向かうのみ。<br>  そして、彼女の物言い。僕は彼女の存在が何であるかを、理解しかけている。<br>  実際に眼にしたことはなかったが、多分彼女は……"魔術師"が残した魔法、一つのシステム。</p> <br> <p><br>  すぐに消えてしまった―――ということは、システム自体に何かエラーが生じているに<br>  違いない。</p> <br> <br> <p>――――――――――――</p> <br> <p><br></p> <p>『どうしたの? 真紅』</p> <br> <p> え? いえ……なんでもないのだわ、雛苺。</p> <br> <p><br>  少し、ぼんやりとしていたようだ。きょとんとした表情で、雛苺は私の方を見ている。<br>  そしてすぐに、彼女は自分の作業へと戻った。今日はお絵かきをしているらしい。生憎<br> 何を描いてるのかはちょっと抽象的すぎてわからないが……</p> <br> <p>『~~♪』</p> <br> <p>  屈託のない、というのはこの子の為にある表現のようにも思える。私には兄弟や姉妹が<br> いないから……もし妹が居れば、こんな感じなのだろうか。<br>  そうすれば、さぞかし楽しい―――</p> <br> <p>『真紅』</p> <br> <p> 何かしら、雛苺?</p> <br> <p> 『真紅は、そんなことを考えなくてもいいのよ。私と、ずっと一緒に居るんだから』</p> <br> <p> ……そうね、ごめんなさい。</p> <br> <p><br> この娘は私が特に何も話さなくても、こうやって時々話しかけてくる。とても不思議な<br> 気分だ。</p> <br> <p>『うん……ずっと一緒よ。多分もう少しで……』</p> <br> <p> 随分と、楽しそうなのね。</p> <br> <p>『楽しいわ、本当に楽しい』</p> <br> <p> そう言って、彼女はころころと笑った。だが、その笑顔が……一瞬の、かげりを見せる。</p> <br> <p> 『でもね、真紅……私が居なくなっちゃったら、貴女は悲しい?』</p> <br> <p>  それはきっとそうね。貴女が居なくなったら、私はここで一人ぼっちだし……</p> <br> <p><br>  私がそう返すと、雛苺はまた笑った。けどほんの一瞬、今までみたことの無いような光<br> が、その眼に宿ったような気がして。少しどきりとさせられる。</p> <br> <p>  ……。何だろう、私はさっき自分で言った言葉に。少しだけ違和感を感じる。<br>  違和感? それはおかしいじゃないか。私はここに居て……彼女が居なくなったら、私<br> は一人になる。それは間違いのないことだ。</p> <br> <p>  そうしてふと、何だか口寂しい気分になった。……? 私はいつも、何かを飲んでいた<br> ような気もする……のだけど。多分私はそれが大好きで、……それは、何だったろうか。</p> <br> <p><br> 『真紅は一人だよ……私が居ないと。だから、ね? 一緒に、遊ぼう……?』</p> <br> <p><br>  いつの間にか私の眼の前に彼女は立っていた。そして、私の方に手を伸ばしてくる。</p> <br> <p><br> 『一緒に居て……? 真紅は、ここに居るの。ここが、貴女の還る場所。そうよね?』</p> <br> <p>  どうして……そんなことを言うの? 『かえる』って……</p> <br> <p> 『はじめから、何も無いのよ。眼を逸らしているわけでもない。気付いていないわけでもないの』</p> <br> <p>  私は、何かを考えようとしている。だけど、……彼女の言葉のひとつひとつが、どうし<br> ようも無い真実であるかのような感覚がしている。<br>  そもそも、私に考えることなどがあろうか?<br>  その言葉そのものが、私に何か想起させようとしているにも関わらず……どうして?<br>  何故彼女は、こんなことを私に語りかけるのか。</p> <br> <p> 『くすくすくす……これだけ言っても、もう駄目なのね?』</p> <br> <p> ……?</p> <br> <p> 『足掻いているわ。もがいているわ。……本当に、楽しいの。<br>  楽しいというよりは、可笑しいのかな? それは無駄なことだから。そういう意味では悲しくも<br>  あるかもしれない……』</p> <br> <p> 誰が、足掻いているの……?</p> <br> <p>『貴女とは、"全く関係のない人たち"よ。<br>  ……"世界"はいつだってそうやって成り立っているし、気付かないことでいっぱいなのよ。</p> <br> <p>  それでいいの。それははじめから、"無かった"。これで全部"無くしてしまう"……貴女も、私も』</p> <br> <p> そして伸ばされた手が――――『私』、に触れた。<br>  ………………</p> <br> <p><br></p> <p> …………声、</p> <br> <p>『…………!』</p> <br> <p> なつかしい、声だ、</p> <br> <p>『…………い………しんく!』</p> <br> <p> 私はこの声を、どこかできいたことがある、</p> <br> <p>「――――――真紅! ……」</p> <br> <p><br>  おかしい。彼女は言った、『そんなものは、はじめから無かった』――――あなたは、だれ、……?</p> <br> <p>  私はもう、自分が眼を開けているのかもわからない……だってここには、何も無いの<br> だから。けど……少しだけわかったのは。<br>  誰かの叫び声がしたということと、――――この光は、きっとやさしい、ということだった。</p> <br> <p><br> 『"神業級の職人(マエストロ)"が命じる――――――』</p> <br> <br> <p><br>  そして、ひかりの糸は。多分、私の"身体だったもの"を、包み込んだのだと思った……</p> <br> <br> <p>――――――――――――――――――――</p> <br> <br> <p> ……見つけた!</p> <br> <p> 確かに、あそこに『居る』。だが……</p> <br> <p>「……!」</p> <br> <p>  その場所には、先ほど僕の前に現れた子供しかいない。それに何だか、様子がおかしい。<br> ――――『あれは本当に、さっき逢った奴なのか?』</p> <br> <p>  そして気付く、違和感。今、奴が手をかざしている先。そこにある、曖昧な空気のもや<br> のようなもの……</p> <br> <p> 『……貴方だったの。"この娘"がまた無駄なことをしようとしたのね』</p> <br> <p>「……お前は、誰だ」</p> <br> <p> 『私は、私。……でも、私は私じゃあ、ないのよ。わかる?<br>  "確かにここに居る、そしてここには居ない"………くすくすくす』</p> <br> <p> 「禅問答をしてる余裕は無いんだけどな。……真紅は、何処だ!」</p> <br> <p> 「"真紅"? くすくすくす。ほら、わからない。ねえ、やっぱり貴女は一人だって言ってるよ?<br>  気付かれなければ、貴女は一人……」</p> <br> <p>  ――――ぞくり、とした。今、僕が話している者は、やはり明らかに……さっき逢った奴とは、<br> 違う。<br>  さっきの子供は、その存在感がはっきりとあり、そしてそれは大きかった。『存在』とは、<br> それがその場に『在る』為の力。しかしこいつは……</p> <br> <p> 『少しだけ、遊んであげる。私、遊ぶのが大好きなの。ほら……"真紅"は、ここよ?』</p> <br> <p>  さぁっ、と。奴が両手を広げ、"もや"が散っていった。<br>  この曖昧な空気のようなもの……まさか。</p> <br> <p>「大丈夫か、おい、真紅!」</p> <br> <p>  なんてこと。今の真紅もまた、器を持たない観念の状態になっている。僕ですら失いそうに<br> なっていた己の形を……彼女が保っていられる筈が無かったということか。</p> <br> <p> 「真紅! お前は、誰よりも自分の意志を強く持っていたんじゃないのか!<br>  考えるお前が、お前である由縁だと――――自分で言ったんだろう!」</p> <br> <p><br>  駄目だ。もう、その魂の色が……希薄になってきている。<br>  ならば――――僕が、何とかするしかない――――</p> <br> <br> <p> </p> <p> 『"神業級の職人(マエストロ)"が命じる――――――指輪の"世界"に取り込まれし指輪の主、</p> <p> その名は"真紅"……失われしかたち、その魂よ。</p> <p>  我が"旋律"に包まれ、呼び戻されんことを欲す――――――――!』</p> <br> <br> <p><br></p> <p>  左手の指輪より、紡ぎだされる"旋律"。僕はこの力を使う度に思った。<br>  これは―――僕の存在そのものから、紡ぎだされる糸なのだと。</p> <br> <p>「くそっ……戻って来い、真紅……!」</p> <br> <p>  僕が幽霊になってからの存在は、彼女が居たから証明されるものだった。<br>  何故なら、彼女が僕の存在に意味をつけたから。あの指輪を通じて――――――<br>  僕があの時の賭けに負けていれば、ただ儚く消えていく運命だったかもしれない。</p> <br> <p><br> 『……がんばるのね。そうそう、そのまま……』</p> <br> <p><br>  織り成す糸は、かたちを作り。そこに漂う残滓を、纏め上げる。<br>  真紅、お前は――――――――</p> <br> <p><br> 「うああああああああっ!!」</p> <br> <p><br>  ――――――僕が、護る―――――――!</p> <br> <p><br>  白い空間を、更に眩しいひかりが包む。そしてその地面に、倒れている……</p> <br> <p>「―――真紅!」</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p>  幽霊の僕でも、その身体を抱き上げることが出来た。やはり……実体を持っていない。</p> <br> <p>「……ジュン……?」</p> <br> <p> 「全く……お前らしくないな。あんなのに呑み込まれるようなやつでもないだろうに」</p> <br> <p>「……」</p> <p>  真紅は僕の言葉に、何も返さなかった。だが、一応『僕が僕であること』を認識して<br> いるようだ。その証拠に、彼女はちゃんと僕の名前を呼んだ。</p> <br> <p>「うっ……」</p> <br> <p>  そして。僕の腕の中で、真紅はぽろぽろと涙を零し始める。</p> <br> <p>「ジュン、私は――――――」</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p>  その様子をよそに、其処に居た子供が、ぱちぱちと手を叩いた。</p> <br> <p> 『すごいの。……貴方、お父様の力が、使えるのね?』</p> <br> <p> 「……なるほど。お父様って言うってことは、お前が指輪の"存在"か。いや……確かにそ<br>  れも、正しくないかな」</p> <br> <p>『……』</p> <br> <p> 「イメージだけを馴染ませても、無駄だ。お前が、そうなんだろう? 姿を現せ」</p> <br> <p> 僕がそういうと、奴は一層可笑しそうに笑った。</p> <br> <p> 『貴方は、わかっているのね……ジュン。お父様から教えていただいたのかしら。<br>  でも、だったらどうして……私の邪魔をするの?<br>  私は、ただ……初めから、無いことにしようとしてるだけなのに』</p> <br> <p>「なんだと?」</p> <br> <p> 『皆、間違ってたのよ。私は奇跡を起こしたんじゃなくて……色んなものを、<br>  "何も無かった"ことにしていっただけ。</p> <br> <p>  奇跡は、生み出されたんじゃないのよ。私が……そこに至るまでの因果の一つ一つを、<br>  切り取っていったの。ここでは、因果は掻き消される……この"九秒前の白"の中では』</p> <br> <p>「"九秒前の、白"……」</p> <br> <p> 『私には元々、かたちが無かったから。"この娘"の身体を使わせてもらったわ。<br>  お父様が送り込んだ観念……指輪の宿主を、守る為の力』</p> <br> <p>  奴が、眼を瞑る。途端、その身体からひかりが溢れ出して……『全く同じ姿形をした<br> 少女が二人』、この空間に現れた。</p> <br> <p>『私は"雛苺"。この娘も"雛苺"……』</p> <br> <p>「―――!?」</p> <br> <p>『ヒナはヒナよ! 貴女は私じゃない……!』</p> <br> <p> 『あら、"雛苺"。それでも、このかたちをしている間は"私"は"私"。<br>  ……貴女こそ、何も出来なかったでしょう。無理矢理自分の意志を覚醒させてるときも<br>  あったみたいだけど。わかってたのよね?もういいでしょう。運命なんてものは――――――』</p> <br> <p>『……そんなことは、許さないんだからっ!』</p> <br> <p><br>  二人の"雛苺"の一人が両手を前に出し……そこに展開される、苺わだちの蔓。それは糸を織り成し、<br> ひかりの紐を作り上げて。もう一人の"雛苺"へと向かっていった。</p> <br> <p> ……が、しかし。</p> <br> <p>「消える……」</p> <br> <p>  その糸は。奴の眼の前まで迫り―――しかし、身体には届かず全て掻き消されてしまった。</p> <br> <p> 『貴女の存在……! 貴女のその姿かたち、それは初めから無かったのっ!』</p> <br> <p> 『そうね……だから貴女の姿を借りたのよ、雛苺。私には……何も無い』</p> <br> <p><br>  姿は、雛苺のかたちのまま。少女は、不敵に笑った。<br>  しかし……その笑みは、さっきまでとは。いや、今までもそうだったかもしれない―――<br>  彼女は、一度も笑ってなどいない。その眼は、少しも楽しそうではないからだ。<br>  むしろその色には、寂しさと虚ろさが入り混じっていて、その存在そのものがそもそも危うい。</p> <br> <p> 『お父様は……幸せを追い求めて、私を作り上げた。私がここに居るのは、何か意味があると<br>  思う……?』</p> <br> <p>  僕は知っている。その、『何者でも無い正体』を。そして僕は伝えなければならない……<br>  "魔術師"の、意志の残滓を。</p> <br> <p> 「……存在が無いことを、実現してしまった存在。至高の矛盾律……」</p> <br> <p>  "魔術師"が作り上げた、幸せの観念を紡ぐ指輪。それは世界を滅ぼせるような、そんな<br> 大層な力を持っているのではない。ただ、それに関わる者達の因果の流れを動かしているだけ。<br>  だけどそれは究極の魔法だった、何故なら……</p> <br> <p> 『そう。お父様は、一つの至高を作ろうとしたけど、そんなものは存在しないの。</p> <br> <p>  お父様が作ったのは……"ゼロ"。"究極"に限りなく近づくことは出来るけど、究極そのものは<br>  存在しないことにお父様は気付いた。だからお父様は、"何も無いこと"を実現してしまったの。<br>  とある少女の観念として、全ての矛盾を孕むもの。……それが私。</p> <br> <p> 私は因果を切り取る……<br>  何かに至ろうとする過程、……この指輪の主の初代が、望んだこと。<br>  成功を求めれば、そこに至るまでに孕んでいた"失敗の可能性"の因果を、悉く切り取っていけば<br>  いいの』</p> <br> <p> 「……だが、それによって因果は乱れる。お前は一つの"ゼロ"である筈。なら何故、切り取ったもの<br>  を『別なかたちで現実に反映させた』?</p> <br> <p>  それこそが、お前の限界なんじゃないのか。どんな因果も、無かったことに出来る筈は無い。<br>  お前はただ、その順番を入れ替えただけだ。<br>  消すことの出来なかった不幸の観念……それはそのまま、指輪を受け継いだ一族に還ってきている」</p> <br> <p> 『一つ間違ってる。出来なかったんじゃなくて、しなかったの。この"九秒前の白"の中に、因果<br>  を留めておくことだって出来るんだもの。それは事実上、無くなってしまったことと同じ。<br>  ここは、誰にも気付かれない場所だから。</p> <br> <p>  私は気付かせようとしただけなの……望めば望むだけ、その上が欲しくなる。<br>  そもそも、幸せや不幸せなんて、……その基準を、誰が決めたの? だけどそんな些細なことで、<br>  足掻いたりもがいたりしているの。それは見てて面白かったし……そして悲しかった。</p> <br> <p>  お父様は結局人間に殺されてしまった……でも、それも自業自得なの。私という"ゼロ"を生み出して<br>  しまったばっかりに。存在の意味すら見当たらない私を。</p> <br> <p>  初めから、何も無ければいいのに。"普通"すら、そこに"在る"限り、波は立つんだから』</p> <br> <p> ……。<br>  言っていることは正しい気がする……しかし、歪んでいる。ただ、奴から言わせて見れば、<br> それすら些細なことでしかないのだろう。</p> <br> <p> 『……でも、それもおしまい。私は所詮、"ゼロ"でしかない。矛盾は矛盾の元に還る……<br>  消さなかった不幸の観念も、もう殆ど滅されてしまった。……とびきり強力な虚像が現れた<br>  筈なのにね……<br>  私はもう因果の流れを"無かったこと"にはしないし、この運命の円環は―――閉じる。<br>  そして私は、それこそ何事もなかったのように消える。私は気付いて欲しかった、ずっと……</p> <br> <p> それを叶えてくれたのは貴女よ、真紅』</p> <br> <p>「私、が……?」</p> <br> <p> 『そう。貴女は、何も無かった筈の私の存在に気付いた……覚えてはいないでしょうけど。<br>  だけど私にはかたちが無いから……"雛苺"の姿に馴染んだ。そうすれば、貴女とお話出来ると<br>  思ったから』</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p> 『雛苺、貴女は良いわ。お父様から与えられた使命―――指輪の宿主を護る、ただそれだけを<br>  していれば良かった。それが正義だったでしょう? 何の疑念も抱かずに』</p> <br> <p>『う、うゅ……』</p> <br> <p> 雛苺は少しひるみ、そして口を開く。</p> <br> <p> 『けど……けど! 貴女は、真紅を連れて行こうとしたの! 何も無い世界に……一緒に還ろう<br>  とした! それはさせないの……だって私は、その為にここにいるんだからっ!</p> <br> <p>  貴女は嘘をついたじゃない……真紅は、一人ぼっちだって。だけど真紅には、ちゃんと別に<br>  帰る場所があるの、待ってるひとが、居るのっ!―――貴女は、寂しかったんでしょっ!?』</p> <br> <p><br> 『……っ! 無駄よ、雛苺。ゼロはもう、一点に収束し始める。私は因果の流れを変えない、<br>  だから私はこのまま消えてなくなる……別に全ての世界が終わらなくても十分。私はその程度<br>  のものだから、それでいいの。</p> <br> <p>  だけどそれだと、私は本当に一人ぼっち。雛苺、貴女も随分頑張ったけど……これは決めら<br>  れたことなのよ? 運命は変わらない。"存在の終わり"は引き起こされる。何処でも無い<br>  場所、この"九秒前の白"からそれは伝達される……<br>  指輪に関わったものを全て、無くしてしまう。そうすれば、気付かない。</p> <br> <p> ……それが一番うつくしいでしょう?』</p> <br> <p><br>  ―――そうか。それが、指輪に囚われるということ。それは『呑みこまれてその一部になる』<br> のではなくて、……その存在の在り方そのものが、消されてしまうということなのか……</p> <br> <p>  誰が正しいのか。確かに、指輪そのものが無ければ、こういう因果の流れは起きなかった筈。<br> それは"魔術師"の……今は僕の存在が、元は引き起こしてしまったこと。<br>  "魔術師"は、指輪を生み出した時点で一つの間違いを犯した。『何も無い存在』である、一人の<br> 少女の観念。それを生み出したときに、たったひとつ必要だったものを、彼は伝えていない―――</p> <br> <p><br> 「―――因果の流れを変えられなくても。運命を変えることに、特別な力は必要ない」</p> <br> <p>『……?』</p> <br> <p> 「一度廻り始めてしまった運命の上に、確かに生きている人間が居る。<br>  それは、それだけで生きていい理由になるんだ……確かに、自分を脅かすものには、抗いたい。<br>  そして出来るなら、自分達が幸せだと思う生活を送っていきたい。<br>  お前からすれば勝手なことかもしれないけど……それが人間なんだ。</p> <br> <p>  さっき雛苺も言った。真紅もまた、指輪の運命に巻き込まれて……それでも、待ってるひと<br>  が居る。その一人一人が、皆意志を持った存在―――誇れる、もの。</p> <br> <p>  意味の無い"個"は存在しない、だから……そのまま消させる訳には、いかない」</p> <br> <p> 『……貴方も結局、私一人がそのまま存在を終わらせればいい、って言うのね。だけどそれ<br>  は無理よ。だってもう、時間は無いから――――――』</p> <br> <p>「―――!?」</p> <br> <p> 突如。白い空間は、激しい揺れを見せ始めた。<br>  何も無い空間に、黒いヒビが入り始めて――――――</p> <br> <p> 『終わるわ。……そうよ、私は寂しいの。何も無くなるのが……真紅だけ連れて行こうと<br>  思ったけど、貴方達も道連れね。全て、夢幻の彼方……</p> <br> <p>  悪夢だって、其処には無いわ。怨念に脅かされることだって無い』</p> <br> <p>  少女は……泣いていた。生み出されてしまったひとつの"ゼロ"は、その意志を以て泣いて<br> いる。<br>  ……僕は思う。少女は指輪を巡る中心に居ながら、しかし自身が『何者でも無い』ことを<br> 理解していた。それはどんなに、辛いことだったのだろう? ―――</p> <br> <p>  揺れはおさまらない。入り始めたヒビはどんどん広がっていき―――果てしなく続いて<br> いた頭上の空間から、壊れたビルのように岩が落ちてくる―――</p> <br> <p><br>  全てが終わる前に。たったひとつ、僕が言われなければならないことは……</p> <br> <p><br> 「"魔術師"の伝言だ。お前に伝えなければならないこと―――」</p> <br> <p> 『……何? 今更何を言われたって、どうしようもならないの』</p> <br> <p> 「……お前は、『何も無い』ひとつの存在だった。だけど、お前の存在には意味があったん<br>  だよ。</p> <br> <p>  だって、お前には名前があるんだ。それは――――――」</p> <br> <br> <br> <p>――――――――――――――――――</p> <br> <br> <p><br></p> <p>「あ、ああ……」</p> <br> <p>  ジュンがここにやってきてから。私がずっと雛苺だと思っていた少女と対峙してから、<br> どれほどの時間が経っただろうか。きっとそんなに時は流れていないのだろう―――<br> でも。私はその間、殆ど言葉を発することが出来なかった。</p> <br> <p>  彼が今、少女に告げた一つの『名前』。それを聞いてから、彼女は膝から崩れ落ちて<br> しまって、動かない。彼女は自分の存在に意味が無いと言っていた……けれど、名前が<br> あった。それは命そのものを、この世界に現す言葉……</p> <br> <p><br>  そして今、この空間が崩れ始めている。"存在の終わり"―――私は、何も出来なかった。<br> ただ、護られているだけで。こんな私こそ、消えてなくなった方が良いのかもしれない。</p> <br> <p>  だってそうすれば、皆苦しまなくても済む――――――</p> <br> <p>「真紅」</p> <br> <p>「……え?」</p> <br> <p> 「また馬鹿なこと考えてるんじゃないだろうな。お前がここで消えちゃったら、僕らの<br>  苦労は台無しだぞ。全くらしくないったら、ないな」</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p> 「お前は、僕が護る。それは前にも約束しただろ。だから……その、指輪の存在。<br>  それを最後に、僕に渡してくれ。……それで、全て終わる」</p> <br> <p><br>  そんな、そんな。だってジュンは幽霊だけど、今も生きていて……</p> <br> <p><br> 「嫌、嫌なの、もう! 私の為に誰かが苦しむのは……! どうしてジュンがそれを<br>  引き継がなきゃいけないのっ!」</p> <br> <p>  泣き叫ぶ。そんなことしたって、どうしようもならないこと位、わかっているのに。</p> <br> <p> 「……さあ、どうしてだろうな。ひょっとしたらこれが夢かなんかで、目覚めたら<br>  いつもの日常が始まって……なんていったら、随分といい話かもしれないな。</p> <br> <p> だけどそれは、もう今の僕らにとっては幻なんだ。</p> <br> <p>  僕が望んだことは……真紅、お前の運命を変えること。変えられた因果は、誰かが<br>  請け負わなきゃいけない……<br>  指輪を受け継ぐには、お前が僕に『指輪を渡す』という意志が必要だ。……頼む、真紅」</p> <br> <p><br>  どうして彼は、こんなに穏やかな顔をしているのだろう。それに比べて私は、もう<br> 涙が流れすぎて酷い顔になっているに違いない。</p> <br> <p><br>  私は思う。何故彼らは、こんなにも私を守ろうとしてくれるのか。確かに、"庭師"達が<br> 所属する組織―――其処にいる人たちは、何かしらの義務感を担ってそれを遂行しようと<br> してくれているのかもしれない。<br>  それでも。翠星石や蒼星石、それに金糸雀やみっちゃん―――彼女達は、私に本当に真<br> 摯に接してくれて。そんな存在に、私は何を応えるべきなのだろうか……<br>  運命。特別な力を持ち、悪夢に囚われた存在を助ける者達。これが運命と言うのならば、<br> もし神が存在したとして―――何故、そのような因果を彼らにもたらしたのだろう。</p> <br> <p>  そして、ジュンは……? 彼は幽霊で。いや、実際は生きているようだけど―――私を<br> 護るために、ずっと傍に居てくれた。<br>  彼という存在を、私は失いたくない。</p> <br> <p>  穏やかな表情を浮かべているジュン。貴方は、自分の運命を……どのように、感じてい<br> るの? ジュン、貴方は……とても、強い。この"世界"に囚われてしまって、闘うことを<br> 諦めようとしてしまった私なんかよりも、ずっと。</p> <br> <p>  私がずっと駄々を捏ねていたところで……彼はずっと、待ち続けるのだろう。この、<br> 残り僅かな時間。私を救う為に、私の決断を待って―――</p> <br> <p> 「……私が決断しなければ、外の世界に居る皆も消えてしまう。……そうなのね?」</p> <br> <p> 「……ああ。多分そうなるな。そういう意味じゃ、多分僕は随分酷いことを言ってる。<br>  お前に全てを託そうとしてるんだから。</p> <br> <p>  けど、僕はお前を救いたいんだ。それが僕の、存在の意味だから……」</p> <br> <p> ―――全てを救うことは出来ないと。頭の中に直接、ジュンの声が響いたような気がした。<br> 私は、……決意しなければならない。</p> <br> <p> 「ジュン……約束して。貴方も必ず、無事でいること……それだけで……いいから……」</p> <br> <p>  私がそう言うと、彼はやはり。穏やかに微笑んで、言った。</p> <br> <p> 「ああ。紅茶の葉を用意しとけよ。とびっきりのを淹れてやるさ」</p> <br> <p>  その声は、あまりにも涼やかに。この空間を静かに震わせる……。</p> <br> <p> 私は、ジュンの左手の指輪に―――口付ける。<br>  その瞬間。パァッ、と指輪から眩しい光が溢れ出た。</p> <br> <p>「……っ!」</p> <br> <p> 熱い。自分の左手の薬指の――――</p> <br> <p>「指輪、が……」</p> <br> <p>  ずっと、私を戒めていた薔薇の指輪。それが無くなっていた。そして指輪は、ジュンの<br> 左手の薬指に―――はめられている。<br>  気付くと私の身体は、徐々にその色を失いつつあった。どうして、私は―――</p> <br> <p>「お前はもう、指輪の運命の輪からは外れたんだ。<br>  ここから居なくなるのは……お前が多分、目覚めようとしているせいだろう。</p> <br> <p> 大丈夫、目覚めたら……全部、終わってるよ」</p> <br> <p>  そんな。私はまだ、話したいことが一杯あって―――<br>  身体が消えていくにつれて、その思考も曖昧になっていく。<br>  待って、待って……</p> <br> <p><br> 「―――じゃあな、真紅」</p> <br> <p><br>  私が最後に聞いたのは……そんな、彼の別れの言葉だった。</p> <br> <br> <br> <p>―――――――――――――</p> <br> <br> <p><br></p> <p>「……さて、と」</p> <br> <p>  崩れ落ちる空間に残された僕と、"雛苺"の姿をした少女が二人。</p> <br> <p> 「これで僕が指輪を継承した訳なんだけどな。あとはここから……」</p> <br> <p> 『……どうするつもり? 確かに真紅は助かったかもしれないけど、私がここに<br>  居る限りは"存在の終わり"は止まらないのよ』</p> <br> <p> 「―――お前が消える場所を、変える。全ての観念の終わる街があるんだ。<br>  別にお前は神様じゃない……あの空間は、そう簡単には壊れないさ。<br>  ……それに、消えるのはお前一人じゃない。僕もついてってやるよ」</p> <br> <p> 『ヒナもついていくのよ。今はジュンに指輪がついてるんだから。<br>  けど、真紅は本当に大丈夫……なの……?』</p> <br> <p>  雛苺は心配そうに言う。ずっと指輪の主を守り続けてきたのだ、気にかかるの<br> は当然のことだろう。僕は彼女の頭に手を置いて言った。</p> <br> <p> 「大丈夫さ。お前はよくやったよ……じゃあ、とりあえず行くか。もう時間がなさそうだ」</p> <br> <p>  僕は少女の手を握り、自分の『肉体』が置いてある場所―――"虚ろなる街"へ<br> 通じている"旋律"の紐を辿り飛び始める。</p> <br> <p><br>  "旋律"を辿り猛スピードで飛びながら、僕は少しだけ考えていた。</p> <br> <p>  真紅、お前とは。もっと普通のかたちで、逢いたかったかもしれないな―――</p> <br> <br> <br> <p>―――――――――――――――</p> <br> <br> <p><br></p> <p> ……</p> <br> <p> 久しぶりにやってくる、"虚ろなる街"。<br>  僕の指輪に関わる運命は、思えばここから始まったのかもしれない。</p> <br> <p>「はは、まだ崩れたまんまだ……あの建物」</p> <br> <p>  最初に水銀燈と邂逅したときに、いきなり放たれた"黒い羽根"によって瓦礫と化した<br> 建物は、まだそこにあった。</p> <br> <p>『ジュン……』</p> <br> <p> 手を握ったまま、話しかけてくる彼女。</p> <br> <p>「なんだよ」</p> <br> <p> 『本当に、良いの? 私と一緒に居なくなっちゃっても』</p> <br> <p>「一人で寂しかったんだろ? 僕も付き合う」</p> <br> <p> 『でも……それだとジュンは、真紅との約束を守れないじゃない。<br>  約束を破る男は、嫌われちゃうよ?』</p> <br> <p>  ……くそ。ここで茶化す余裕があるなら、大したもんだ。<br>  まあ、約束を破ってしまうことになるのは事実だけれど―――</p> <br> <p> 「―――ああ。僕はまだ生きてるけど、肉体の方がもう余命僅かなんだ。<br>  そんなに長くは生きられない―――</p> <br> <p>  それに。僕がお前と一緒に"居なくなれば"、僕も外の世界には最初から存在しなかった<br>  ことになる。思い出して、悲しまれることもないよ。</p> <br> <p>  ところで雛苺―――お前は僕に付き合う必要は無いぞ。あそこに放っておく訳にもいか<br>  なかったから連れてきたけど……」</p> <br> <p> 『うぃ……けど、此処に居てもヒナはお外には出られないの。だったらジュンについていく<br>  の……』</p> <br> <p>『……』</p> <br> <p>  そんな雛苺の言葉を聞いて、同じかたちをした少女は何も答えない。"九秒前の白"は今頃<br> 完全に崩れてしまっただろうけど、そこを抜けさえすれば……彼女には今、『名前』がある<br> から。たとえ観念の存在であるとして、まだ少し余裕はあるようだった。</p> <br> <p>  消えてしまうっていうのは、どれほどの恐怖なのかな。いや、それすらも無かったこと<br> になるし……きっと怖いのは、消えてしまうまでの空白の時間。</p> <br> <p>  『何も無いことは、うつくしい』と。彼女はそう言っていた。それが、何も無い真っ白<br> な空間の中で……長い長い間ずっと独りでいた彼女の出した、一つの答え。</p> <br> <p>  "魔術師"の誤算は……彼の作り上げた一つの魔法が、意志を宿るまでに至ってしまった<br> こと。もっとも、それ故"雛苺"という護る存在も実現することが出来た訳だが……結局<br> それにも、"魔術師"自身の命を使ってしまう結果となった。それはやはり、奇跡の代償だ<br> ったのか。</p> <br> <p>  不思議なほど、今の僕のこころは静かに凪いでいる。<br>  僕は真紅を……その存在を、世界に残すことが出来た。</p> <br> <p> だから―――もう、いいんだ。<br>  何も無いことを存在させてしまった、矛盾の奇跡。<br>  僕はその責任を、取らなければいけないんだろうな……</p> <br> <p> ……?<br>  そんなことを考えていると。胸の辺りが、熱くなってくる。</p> <br> <p>「……なん、だ……?」</p> <br> <p>  幽霊である自分の身体で、鼓動が鳴り響いているとしたら。早鐘を打ちすぎて、息も<br> まともに出来ないくらいだろうと思うほど―――</p> <br> <p>  そして、僕の胸から―――ひとつの輝く塊が、幾重にも重なった光の輪に包まれて<br> 飛び出してきた。これは……石……?</p> <br> <p>  その輝く石は、僕達の前に静止し……やがてひとの形を成し始める。</p> <br> <p>『お父様……!』『お父様なのー!』</p> <br> <p> 驚いた表情でそのひとのかたちを見る少女。<br>  ―――お父様、とは。こいつが、"魔術師"ということか―――</p> <br> <p>『私も居るわよぉ、ジュン』</p> <br> <p> 声と共に、大きな黒い翼を広げて降り立つ人影。</p> <br> <p> 「……水銀燈!? 何でお前がここに……消えちゃったんじゃなかったのか!?」</p> <br> <p> 『あらぁ。貴方のことが心配だったから、ずっと見ててあげてたのにぃ。<br>  私はお父様と一緒に居るのよ? 全部見届けるまでは、消えられないわよぉ』</p> <br> <p>  茶目っ気たっぷりな様子で笑う彼女。―――こんなキャラだったか?<br>  こいつは……思わず額に手をやる。居るんなら手伝ってくれよ……</p> <br> <p> 『まぁまぁ……それよりもねぇ。私が伝えたいのは、お父様の意志……<br>  これはお父様のかたちをしているけど、直接語りかけることは出来ないから』</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p>  納得いかないが、とりあえず耳を傾けることにしようか。</p> <br> <p> 『……ジュン、貴方の下した決断は、その娘と一緒に消えることだったみたいねぇ』</p> <br> <p> 「ああ、そうだよ……こいつ独りじゃ、寂しいじゃないか」</p> <br> <p> 『ほんとにもう……貴方はまだ生きてるんだから……本当、優しすぎるほど優しい<br>  のねえ、貴方は。</p> <br> <p>  だけど……お父様は、それを望まない。もう既に、ジュンの身体からお父様の<br>  魂は離れたの。だから、その娘を連れて"居なくなる"のは……お父様自身だって、<br>  言ってるわぁ。</p> <br> <p>  けれど勘違いしないで……生きるというのは、それだけで辛いことに遭遇する<br>  可能性を孕むのよぉ。</p> <br> <p>  その上でお父様は、その存在を残せと言っているの』</p> <br> <p>「……!」</p> <br> <p>  ……だけど、僕には指輪があるし、その存在を背負う限りは――――――</p> <br> <p>「―――あれ?」</p> <br> <p><br>  指輪が、無かった。代わりに、"魔術師"の左手の薬指に―――それは、つけられている。</p> <br> <p>「これで満足なのか? お前は……」</p> <br> <p>  "魔術師"は、少し悲しそうな眼をしてこちらを見ている。<br>  もうどれほど謝罪をしても仕切れないと―――そんな声が、僕の頭の中に響いた気がした。</p> <br> <p>  そして。口を開けないと言っていた筈の彼が、僅かに唇を動かす。</p> <br> <p><br> 『―――――おいで、"アリス"』</p> <br> <p><br>  紡がれた、言葉。何も無い存在を実現した、一人の少女の名前を―――</p> <br> <p>  少女は"父"の元にかけよる。"魔術師"は雛苺の方も向き、その名前を呼ぼうとしたの<br> だろうが……それを"アリス"が制止する。<br>  そして彼女は、僕たちに語りかけた。</p> <br> <p> 『ありがとう、ジュン。貴方が私と一緒に居なくなってくれるって言ったとき―――<br>  嬉しかった。私がこんな存在じゃなくて、普通の女の子だったら……良かったのにね。</p> <br> <p> あと―――雛苺』</p> <br> <p>『うぃ……?』</p> <br> <p> 『真紅がね……中身は私だったけど、貴女みたいな妹が居たら楽しいだろうって……そう<br>  思っていたのよ。貴女はその願いを……私の代わりに、叶えてくれないかしら。<br>  普通の身体を持って、普通の生活を送っていくの。私にはもう、それをする資格も無い<br>  から。私自身が消えてしまう運命は、もう変わらない。</p> <br> <p> 貴女は、真紅と一緒に居たいでしょう……?』</p> <p><br>  <br>  言われて、何処か戸惑いの素振りを雛苺は見せる。当然のことだろう。いきなりそんな<br> ことを言われても、彼女はまだ子供だ。</p> <br> <p> 『雛苺、この娘が言ってることは……決していいことばかりではないわぁ。それはさっき<br>  私がジュンに言ったのと同じこと……</p> <br> <p>  けれど私も、貴女と言う存在が、消えてしまう必要は無いと思うの。この娘が消えて<br>  しまったら、指輪そのものに関わる全てが"無かった"ことになるだろうけど。<br>  貴女がこの娘の意志を継いで……外の世界に実現するのなら、きっと忘れることは<br>  無いでしょうね。</p> <br> <p>  忘れ形見って言うと縁起でもないけど……それを残したいのねぇ。そうよね、"アリス"?』</p> <br> <p> 水銀燈に言われ、少女は小さく、頷いた。</p> <br> <p> 『うゅ……わかったの。ヒナ、貴女のこと……忘れないから……』</p> <br> <p>  雛苺はそう言って、涙を零す。"アリス"もまた、泣いていた。そして彼女は、恐らくは<br> この"世界"で使う、最後の力を解き放った。因果を無かったことに……いや、その流れを<br> 入れ替える歪みの力を。それは、多分最初で最後の。『彼女自身の願い』を叶えるもの―――</p> <br> <p>『……!』</p> <br> <p>  輝く、ひかり。それに包まれて、雛苺の身体もまた……この"虚ろなる街"から消えていく。<br> 外の世界へと、還っていったのだろう。</p> <br> <p>「―――あ、」</p> <br> <p>  そして気付くと、僕の右手には、……薔薇の紋様はあしらわれていなかったものの。<br> シンプルな銀の指輪が、はめられていた。</p> <br> <p> 『ジュンにも、私からプレゼント……私のこと、忘れないでね』</p> <br> <p> 「また物騒なものを……しかもわざわざ右手か……まあいいか。ありがたく貰っとく。<br>  ……忘れないよ、保障はしないけど」</p> <br> <p>  僕がそういうと、彼女は綻んだような笑顔を見せる。―――ああ、この娘は。その存在に<br> 意味が無いなんてことはない。だって、こんなに嬉しそうな顔をして笑えるのなら……</p> <br> <p><br> 『さて、私もお父様達についていくから……今度こそお別れよぉ、ジュン』</p> <br> <p>「水銀燈……」</p> <br> <p>  はにかんだような笑顔で、彼女は僕に何かを差し出した。<br>  僕が始めてあったとき、"黒き天使"だと感じる象徴になった―――黒い羽根の、一枚を。</p> <br> <p> 『私達は、これから"居なくなる"―――だけど、確かに私達は存在して……それは今、この<br>  娘が言った通りねぇ。知識はお父様のものだったけど、貴方は勇敢に闘い、そして護り抜いたの。</p> <br> <p>  ありがとう、ジュン……その羽根は、私達と、貴方の……存在の、証……』</p> <br> <p><br>  三人が、消えていく。光に包まれて。それに触れると、彼らの身体は光の砂になって<br> 散っていく。</p> <br> <p> 『ジュン。真紅に、伝えておいて―――貴女に逢えて、良かったって。本当に、<br>  楽しかったから……』</p> <br> <p>  最後に少女は、僕にそう言い残す。三人の姿が完全に掻き消えてしまう間際、僕は"魔術師"と<br> 眼があった。</p> <br> <p> そして僕は、最後にこう言ってやる。</p> <br> <p><br> 「いつか生まれ変わったら……今度は間違うなよ、"魔術師"……いや、」</p> <br> <p><br> ――――――ローゼン……</p> <br> <p><br>  その言葉は、この"虚ろなる街"に小さく響いて。彼らの存在は……『無くなった』。</p> <br> <br> <p>「……」</p> <br> <p>  彼らが居なくなってしまったあと、僕は指輪のつけられた右手で……黒い羽根を持ち、<br> それを見つめる。</p> <br> <p>  彼らの存在は、"終わってしまった"。けれど……指輪に関わった者達の記憶。変えられ<br> てしまった因果の流れ。そういったものを含めて、僕は今も覚えている。きっと外の世界<br> に居る人たちもそうだろう……</p> <br> <p>  案外と、彼らのことだから。消えたと見せかけて、また何処かで僕らのことを見守って<br> いるのかもしれない―――そんなことも、考える。</p> <br> <p>  真紅は無事に目覚めただろうか。雛苺は、どうだろう。……きっと、大丈夫だよな。</p> <br> <p> そして、ふと。後ろからひとの気配がした。</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p>「……薔薇水晶……」</p> <br> <p>  そこに居たのは、"虚ろなる街"を展開してやってきた、薔薇水晶だった。</p> <br> <p> 「大分時間かかっちゃったけど……全部、終わったよ。外の世界は、どうだ……?」</p> <br> <p> 「うん……大丈夫。皆頑張ったよ。真紅も目覚めたし……あと、雛苺っていう娘も居たよ」</p> <br> <p>  そうか、良かった。僕はほっと胸を撫で下ろし、そして今度は、これからの自分のこと<br> を考えた。</p> <br> <p> 「さて……本当にありがとな、薔薇水晶。これからじゃあ、"アメジスト"を抜いて元の<br>  身体に戻って―――」</p> <br> <p>「ジュン」</p> <br> <p>「ん?」</p> <br> <p> 「ジュンは……ずっと幽霊のままで居ることは出来ないのかな。だって、元の身体に還っ<br>  ても……ジュンは……」</p> <br> <p>  うん……まあ、それはそうだ。幽霊になっている今は意識していないけど、僕がこの<br> 状態になる直前などは本当に肺が苦しくて大変だった。喀血は茶飯事のこと、ひとと逢<br> っているときはなるべく楽な状態の時を選んで……<br>  そんな状態に、僕はこれから戻ることになる。</p> <br> <p>  普通に寿命で死んだ場合、僕の存在はどうなってしまうのだろう。<br>  またこんな風に、幽霊になってふらふら彷徨うことが出来るのだろうか。</p> <br> <p>  そんなことも少しだけ考えるが、多分それは無理なのだろうとも思う。通常の因果の<br> 流れとして死んでしまったのなら、きっと魂はこの世にかたちを残すことが出来ない。<br>  僕は、水銀燈やあるいは"魔術師"のように、この世に魂を留まらせ続けるような強い意<br> 志を……きっと死ぬ間際には、持っていないに違いない。</p> <br> <p>「……っ……馬鹿だよ……ジュン、は……」</p> <br> <p>  薔薇水晶が、涙を零している。僕はその涙に、なんと応えれば良いのだろうか。<br>  ……僕は、このままの状態でいるわけにはいかない……</p> <br> <p> 「死ぬ運命がわかっていても、僕は僕だ。他の何者でも無い。逃げることも出来ない。<br>  だから……終わってしまうときが来るまで、僕は生きるよ。これが、僕の意志なんだ」</p> <br> <p>  彼女はまだ泣き止まないが、これが僕の言える全て。<br>  消えてしまった三人の分まで、という訳でもないけれど……<br>  桜田ジュンという存在は、まだ終わっていないから。</p> <br> <p>  真紅との約束もあるしな。とびっきりの紅茶を淹れないと、それこそ彼女は納得<br> してくれないだろう―――</p> <br> <p><br>  そして、とある崩れかけた建物の中に横たわっている、僕の実の身体。その胸に突き刺さ<br> っている薔薇水晶の"アメジスト"が―――引き抜かれる。</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p><br>  曖昧になり始める意識。<br>  きっと彼女は、薔薇屋敷へ。そして僕は僕のあるべき場所へ、還るのだろう―――</p> <br> <br> <br> <p>――――――――――――</p> <br> <p><br></p> <p>「う……」</p> <br> <p>  目覚める。其処には、大勢のひとが居た。私は床に倒れている状態から、上半身だけ身<br> を起こした。</p> <br> <p>「真紅っ! 大丈夫ですかっ!」</p> <br> <p>「翠星石……私は――――――」</p> <br> <p> 「……終わったみたいだね、真紅。ほら、左手を見て……」</p> <br> <p>  蒼星石に促され、私は左手を見た。そこには指輪が、……無い。</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p> 私は、薔薇の指輪の戒めを解かれた。だけど……</p> <br> <p>「うっ……」</p> <br> <p>  ぽろぽろと、零れ落ちる涙。私は皆に、何て言えば良いのだろう。<br>  こんなに護って貰って、私は――――――</p> <br> <p>「真紅……あの、ところでですねぇ」</p> <br> <p>「―――え?」</p> <br> <p>「真紅にくっついて寝てるその娘……誰です?」</p> <br> <p>  すると。私の腰の辺りにひっつかまって眠っている少女が一人。</p> <br> <p> 「……この娘は、雛苺と言うの。今まで私を―――いえ、指輪の主を護り続けてきた娘。<br>  今度は私が……この娘を、護るのだわ」</p> <br> <p> 私は目覚める直前、少女の声を聞いた。</p> <br> <p>『この娘を―――護ってあげて……』</p> <br> <p>  それは私があの真っ白い世界で聞いていた、雛苺の声だったけれど。きっとその意志は<br> 指輪の存在であった少女のものであろうと薄々感じていた。</p> <br> <p> すやすやと眠っている雛苺の髪を、そっと撫ぜる。</p> <br> <p> この娘は、あの少女の……意志の残滓。<br>  けど、この現実世界で……生きていくこと自体が、この娘にはきっと厳しいことだ。</p> <br> <p>  姿形は、普通の女の子で。あの不思議な力は、まだ残っているのだろうか。<br>  もう、それも必要ないものだけど……この娘は、ずっと私達を、護り続けてきたのだから。<br>  これからは、ゆっくりとした時を過ごして欲しい。</p> <br> <p><br>  私は、白い空間であった出来事を、皆に話す。<br>  もう早くも、その記憶は断片的なものになってきていたけど……それでも、思い出せる限り。</p> <br> <p>  私は、ジュンと約束をした。だから彼は……きっと無事でいてくれる。<br>  そんなものは、希望的観測だってことはわかってる。私がまだ指輪をつけていたのなら、<br> 彼の無事を一心に願ったに違いない。だけどそれは、もう出来ないから……</p> <br> <p><br>  飛び切りの紅茶の葉を用意して、私は待とうと思う。彼が、ここへやって来るのを―――</p> <br> <br> <br> <p>――――――――――――<br>  </p> <br> <br> <p><br>  私が指輪の戒めを解かれてから、二週間が経とうとしていた。</p> <br> <p>  六月の―――雨。梅雨もいい加減あけて良いような頃合だと言うのに、空は昨晩から<br> 相も変わらず涙を零し続けていて、泣き止む様子が全く見られない。<br>  庭にある薔薇にとっては、もう十分なくらい水分が蓄えられていることだろう。</p> <br> <p>  "庭師"の姉妹は、もうここに住み込むことはやめて……それでもあれからもう四・五<br> 回は、庭の薔薇を手入れするために館を訪れている。私が寂しがってないか、という配<br> 慮であるらしいことを蒼星石から聞いた。</p> <br> <p>  もっともそれを真っ先に言い出したのは姉の翠星石で、私がそのことを知ったあとは<br> 彼女を宥めるのが大変だった。そういう気遣いを人に知られるのは、翠星石にとっては<br> 非常に恥ずかしいことであるらし
<p><br>  ―――ああ。私はまた、此処へやってきたのか。</p> <br> <p>  ここは白い。白くて、何も無い場所。こんなところに一人で居たら、とてもとても寂し<br> いことなのだろうけど……私が此処に来たときにだけ逢える子が居る。</p> <br> <p>  私は……目覚めているときは、多分このことを覚えていないんだと思う。覚醒している<br> ときの記憶は今もある。だけど『この場所』についての話題を、一度もしたことが無いこ<br> とを……今の私は、自覚しているから。</p> <br> <p>  此処にやってくれば思い出す。私が眠っている―――ジュンや"庭師"が、闘っている間。<br> 私はいつも、この白い空間の真っ只中に立ち尽くしているのだ。</p> <br> <p> ……</p> <br> <p>  辺りを見回す。今は誰も居ないけれど、その内やってくる少女もまた、此処に居るから。</p> <br> <p>『真紅……』</p> <br> <p>  この子は私と居るとき、不意にがらりと雰囲気を変えることがあるということに、私は<br> 気付いている。いつもは、無邪気な子供。にこにこと笑っているのに……時々ふと、泣き<br> そうな表情を浮かべて。そんな顔をしたあとは、決まって私の前から姿を消す。</p> <br> <p>  暫くすると戻ってくるのだけれど、その時はまた……いつもの笑顔に戻っている。</p> <br> <p>『……』</p> <br> <p>  そう、今もまた。私の前に姿を現したのは、哀しそうな顔をしている女の子。<br>  姿形は変わらないと言うのに、纏う雰囲気が全く正反対だと言ってもいい。</p> <br> <p><br> 『貴女は……此処に居ちゃだめなの……』</p> <br> <p><br>  そう言い残して、彼女はまた居なくなってしまった。</p> <br> <p>  私はその言葉で、少し考えるのだ。……確かに自分はこんな場所で、のんびりと漂って<br> 居る場合では無いのではないか、と。<br>  だって、私は護られていて……闘うことが、出来ない。私に付き添ってくれている人達<br> は、きっと命懸けで闘ってくれているというのに。</p> <br> <p>  だけど、此処に居ると……そんな感情も、すぐに消えていってしまう。だって、この場<br> 所には何も無い。私と彼女の、二人きり。</p> <br> <p>  私の心の中も、どんどん空っぽになっていって―――思考も意志も、ゆらゆらと漂わせ<br> たまま、何処かへ流されていきたいと思ってしまう。</p> <br> <p><br>  『生きることは、闘うこと』……目覚めているときの私は、そんなことを考えているこ<br> とを知っている。でも今の私は、それに従っていると言えないのだろう。</p> <br> <p>  だから、もうひょっとしたら。私は既に生きることを諦めて、案外と死んでしまってい<br> るのかもしれなかった。何も無いことは、幸せなのだと。そんなことを、頭の片隅に浮か<br> べながら―――</p> <br> <p><br>  気付くと、また眼の前には彼女が居た。そして言うのだ、嬉しそうな表情をして。</p> <br> <p><br> 『一緒に遊ぼう? 真紅』</p> <br> <p><br>  ほら、やっぱり。……一緒に居て欲しいのか、欲しくないのか。<br>  私にはよくわからないけど。</p> <br> <p><br>  今日は何をして遊びましょうか? それともお話がいいかしら?<br>  貴女は絵を描くのが好きですものね……それに付き合ってあげても、いいのだわ。</p> <br> <p><br>  此処は真っ白で何も無くて、私達が望む分だけ必要なものは"現れる"。けれど、そんな<br> ものは必要最低限のものだけでいい。<br>  この場所に漂っているときは、とても穏やかな気持ちで居られるから……</p> <br> <p><br>  今日も私と、一緒に居てくれるのね? だから私も……此処に居るのだわ。</p> <br> <p><br> 私がそう言うと、彼女は本当に喜んでくれるから。そんな彼女を見ると、私も嬉しい。</p> <br> <p><br>  だって、此処には私達しか居ないから……そうでしょう? 雛苺。</p> <br> <p><br>  私が目覚めて、この白い空間に居たことを忘れてしまっても。<br>  きっとまた私は、此処にやってくる。</p> <br> <p>  だから―――何も考えなくていい。多分、それでいいんだろう―――</p> <br> <br> <p><br> 【ゆめまぼろし】最終話 夢幻</p> <br> <p><br></p> <p><br> 「……」</p> <br> <p> 本当に此処は、何も無いところだと思う。<br>  ただただ、白い空間が広がっていて……勿論、普段"庭師"の二人と闘っている"世界"に<br> も、殆ど何も無い。だけど、あそこには翠星石の張った茨や……とにかく誰かしらの『意<br> 志の残滓』のようなものがあるから。そういったもので、"世界"は埋められているのが普<br> 通だ。</p> <br> <p>  真紅の精神と同調して、この場所にやってきてから、それほど時間は経っていない……<br> 筈。時間の感覚も、酷く曖昧で。気をしっかり保っていないと、この白に呑みこまれてし<br> まいそうな感覚さえする。</p> <br> <p> 僕は指輪のついた左手を見つめた。</p> <br> <p>「……っ!」</p> <br> <p>  その途端、風に吹かれた蝋燭の炎のように、左手のかたちが揺らめく。<br>  観念の状態は、もともとかたち無きもの。その状態を今保つためには……力強い意志を<br> 持たなければならない。</p> <br> <p> そうだ、僕は真紅を救う為に、此処へやってきた。<br>  だからまずは、彼女を早く探し出さなければならない。そして、真紅の指輪の"存在"を、<br> 僕が全て引き継ぐ。そうすれば、きっと彼女は自由になれる……!</p> <br> <p><br> 「……それにしても」</p> <br> <p>  確かに彼女の存在を感じているというのに……その『存在』のイメージが、酷く脆いよ<br> うな気がする。</p> <br> <p> ……?<br>  そうだ。なんでもっと早く気付かなかった。真紅の夢の"世界"は、"庭師"が通ったくら<br> い穴からいける場所。だが、其処に真紅が居ることは無かった。<br>  どうして? 自分の夢の"世界"には、その夢を見ている主がが居ておかしいという理屈は無い。</p> <br> <p>  だけど、今まで。そう、恐らくこの『薔薇屋敷』の指輪の主達は……今まで一度も、夢<br> の"世界"に現れたことがなかったのではないか? そしてそれは、当たり前のことになっ<br> てしまっていて……誰も口に出すことが無かった。</p> <br> <p>  "世界"は全て繋がっていると、魔術師の"知"が教えてくれた。よって、恐らく今"庭師"<br> が戦闘している場所からも、巡り巡れば此処に来ることが出来るだろう。だが、そこに<br> 通じるまでに、どれほどの道を通らなければならないかわからない。</p> <br> <p>  今、僕は真紅の存在を感じ、この場所に辿りついた。だから彼女は此処に居る。<br>  だが……これは、真紅の"世界"では無い。<br>  僕は直接、彼女の心に同化して。最短の道を通り、時々流されそうになりながら……</p> <br> <p>「ここは……指輪の持つ"世界"なのか」</p> <br> <p>  指輪の主達は、眠りにつく度にこの場所へやってきていたのかもしれない。</p> <br> <p>  しかし、僕は知っている。指輪の存在そのものは、――――――</p> <br> <p>  思考を巡らせていると、……不意に後ろから、何かの気配を感じた。</p> <br> <p>「……誰だ」</p> <br> <p>  ゆっくりと、振り返る。そこには一人の少女が、居た。</p> <br> <p>『……』</p> <br> <p>  幼い。随分とまた子供子供した奴だ―――こいつは、"異なるもの"か……?<br>  ならば、……闘うしか、ない。</p> <br> <p>『……うゅ……』</p> <br> <p>「……?」</p> <br> <p>  待て。僕はまだ何もしていない。―――何でいきなり泣きそうになる?<br>  ちょっと考えてから、僕は口を開いた。</p> <br> <p>「お前、名前は?」</p> <br> <p>  取り合えず、その存在を明かしてみようと思った。『名前』は、その存在を意味付ける<br> 為の重要なファクターになる。まあ、嘘をつかれる可能性も無い訳だが……なんだかこう、<br> そこまで狡賢いようには見えない。<br>  その仕草すら作戦というのなら……少し恐ろしい。実際、その『存在の在り方』自体は<br> 生半可な"異なるもの"よりも遥かに大きいから。</p> <br> <p> 「ああ、こういうのは先に名乗るべきなのか。……また真紅に怒られそうだな。<br>  僕は桜田ジュン」</p> <br> <p> さあ……どう出る?</p> <br> <p>『……真紅と、知り合いなの?』</p> <br> <p> 「! 真紅を知ってるのか!? あいつはこの"世界"に居るんだろう、……場所はわかるか!?」</p> <br> <p>『! ……』</p> <br> <p>  その途端、ビクッと身体を震わせて、小動物のような怯えを見せる。<br>  なんなんだ、こいつは……?</p> <br> <p>  様子を見ていると、ぽつりぽつりと彼女は話し始める。</p> <br> <p> 『ヒナね……ずっと頑張ってきたの。だけど、もう無理なの……ヒナはもう、……』</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p> 『真紅は、ここに居ちゃいけないの。本当に、何もなくなっちゃうの……!』</p> <br> <p>  そう言うと。ヒナと名乗る少女は、白い空間の遥か彼方……とある方向を、指差した。</p> <br> <p> 『このまま……真っ直ぐなの。ジュンは……指輪を持ってるのね?』</p> <br> <p>「あ、ああ」</p> <br> <p>『なら多分……大丈夫なの。早くしないと……!』</p> <br> <p><br>  そして。何の音も残さず、少女は消えてしまった。<br>  どうする。この言葉を信じるならば、僕は真っ直ぐ飛んでいけばいい。</p> <br> <p>「迷ってる暇は、無さそうだな……」</p> <br> <p>  僕は少女を信じることにする。このまま彷徨っていても、いつ真紅と出会えるかわかった<br> もんじゃない。ならば、少しの可能性にかけてみるべきだと判断した。</p> <br> <p> 腹が決まれば、あとは全速力で向かうのみ。<br>  そして、彼女の物言い。僕は彼女の存在が何であるかを、理解しかけている。<br>  実際に眼にしたことはなかったが、多分彼女は……"魔術師"が残した魔法、一つのシステム。</p> <br> <p><br>  すぐに消えてしまった―――ということは、システム自体に何かエラーが生じているに<br>  違いない。</p> <br> <br> <p>――――――――――――</p> <br> <p><br></p> <p>『どうしたの? 真紅』</p> <br> <p> え? いえ……なんでもないのだわ、雛苺。</p> <br> <p><br>  少し、ぼんやりとしていたようだ。きょとんとした表情で、雛苺は私の方を見ている。<br>  そしてすぐに、彼女は自分の作業へと戻った。今日はお絵かきをしているらしい。生憎<br> 何を描いてるのかはちょっと抽象的すぎてわからないが……</p> <br> <p>『~~♪』</p> <br> <p>  屈託のない、というのはこの子の為にある表現のようにも思える。私には兄弟や姉妹が<br> いないから……もし妹が居れば、こんな感じなのだろうか。<br>  そうすれば、さぞかし楽しい―――</p> <br> <p>『真紅』</p> <br> <p> 何かしら、雛苺?</p> <br> <p> 『真紅は、そんなことを考えなくてもいいのよ。私と、ずっと一緒に居るんだから』</p> <br> <p> ……そうね、ごめんなさい。</p> <br> <p><br> この娘は私が特に何も話さなくても、こうやって時々話しかけてくる。とても不思議な<br> 気分だ。</p> <br> <p>『うん……ずっと一緒よ。多分もう少しで……』</p> <br> <p> 随分と、楽しそうなのね。</p> <br> <p>『楽しいわ、本当に楽しい』</p> <br> <p> そう言って、彼女はころころと笑った。だが、その笑顔が……一瞬の、かげりを見せる。</p> <br> <p> 『でもね、真紅……私が居なくなっちゃったら、貴女は悲しい?』</p> <br> <p>  それはきっとそうね。貴女が居なくなったら、私はここで一人ぼっちだし……</p> <br> <p><br>  私がそう返すと、雛苺はまた笑った。けどほんの一瞬、今までみたことの無いような光<br> が、その眼に宿ったような気がして。少しどきりとさせられる。</p> <br> <p>  ……。何だろう、私はさっき自分で言った言葉に。少しだけ違和感を感じる。<br>  違和感? それはおかしいじゃないか。私はここに居て……彼女が居なくなったら、私<br> は一人になる。それは間違いのないことだ。</p> <br> <p>  そうしてふと、何だか口寂しい気分になった。……? 私はいつも、何かを飲んでいた<br> ような気もする……のだけど。多分私はそれが大好きで、……それは、何だったろうか。</p> <br> <p><br> 『真紅は一人だよ……私が居ないと。だから、ね? 一緒に、遊ぼう……?』</p> <br> <p><br>  いつの間にか私の眼の前に彼女は立っていた。そして、私の方に手を伸ばしてくる。</p> <br> <p><br> 『一緒に居て……? 真紅は、ここに居るの。ここが、貴女の還る場所。そうよね?』</p> <br> <p>  どうして……そんなことを言うの? 『かえる』って……</p> <br> <p> 『はじめから、何も無いのよ。眼を逸らしているわけでもない。気付いていないわけでもないの』</p> <br> <p>  私は、何かを考えようとしている。だけど、……彼女の言葉のひとつひとつが、どうし<br> ようも無い真実であるかのような感覚がしている。<br>  そもそも、私に考えることなどがあろうか?<br>  その言葉そのものが、私に何か想起させようとしているにも関わらず……どうして?<br>  何故彼女は、こんなことを私に語りかけるのか。</p> <br> <p> 『くすくすくす……これだけ言っても、もう駄目なのね?』</p> <br> <p> ……?</p> <br> <p> 『足掻いているわ。もがいているわ。……本当に、楽しいの。<br>  楽しいというよりは、可笑しいのかな? それは無駄なことだから。そういう意味では悲しくも<br>  あるかもしれない……』</p> <br> <p> 誰が、足掻いているの……?</p> <br> <p>『貴女とは、"全く関係のない人たち"よ。<br>  ……"世界"はいつだってそうやって成り立っているし、気付かないことでいっぱいなのよ。</p> <br> <p>  それでいいの。それははじめから、"無かった"。これで全部"無くしてしまう"……貴女も、私も』</p> <br> <p> そして伸ばされた手が――――『私』、に触れた。<br>  ………………</p> <br> <p><br></p> <p> …………声、</p> <br> <p>『…………!』</p> <br> <p> なつかしい、声だ、</p> <br> <p>『…………い………しんく!』</p> <br> <p> 私はこの声を、どこかできいたことがある、</p> <br> <p>「――――――真紅! ……」</p> <br> <p><br>  おかしい。彼女は言った、『そんなものは、はじめから無かった』――――あなたは、だれ、……?</p> <br> <p>  私はもう、自分が眼を開けているのかもわからない……だってここには、何も無いの<br> だから。けど……少しだけわかったのは。<br>  誰かの叫び声がしたということと、――――この光は、きっとやさしい、ということだった。</p> <br> <p><br> 『"神業級の職人(マエストロ)"が命じる――――――』</p> <br> <br> <p><br>  そして、ひかりの糸は。多分、私の"身体だったもの"を、包み込んだのだと思った……</p> <br> <br> <p>――――――――――――――――――――</p> <br> <br> <p> ……見つけた!</p> <br> <p> 確かに、あそこに『居る』。だが……</p> <br> <p>「……!」</p> <br> <p>  その場所には、先ほど僕の前に現れた子供しかいない。それに何だか、様子がおかしい。<br> ――――『あれは本当に、さっき逢った奴なのか?』</p> <br> <p>  そして気付く、違和感。今、奴が手をかざしている先。そこにある、曖昧な空気のもや<br> のようなもの……</p> <br> <p> 『……貴方だったの。"この娘"がまた無駄なことをしようとしたのね』</p> <br> <p>「……お前は、誰だ」</p> <br> <p> 『私は、私。……でも、私は私じゃあ、ないのよ。わかる?<br>  "確かにここに居る、そしてここには居ない"………くすくすくす』</p> <br> <p> 「禅問答をしてる余裕は無いんだけどな。……真紅は、何処だ!」</p> <br> <p> 「"真紅"? くすくすくす。ほら、わからない。ねえ、やっぱり貴女は一人だって言ってるよ?<br>  気付かれなければ、貴女は一人……」</p> <br> <p>  ――――ぞくり、とした。今、僕が話している者は、やはり明らかに……さっき逢った奴とは、<br> 違う。<br>  さっきの子供は、その存在感がはっきりとあり、そしてそれは大きかった。『存在』とは、<br> それがその場に『在る』為の力。しかしこいつは……</p> <br> <p> 『少しだけ、遊んであげる。私、遊ぶのが大好きなの。ほら……"真紅"は、ここよ?』</p> <br> <p>  さぁっ、と。奴が両手を広げ、"もや"が散っていった。<br>  この曖昧な空気のようなもの……まさか。</p> <br> <p>「大丈夫か、おい、真紅!」</p> <br> <p>  なんてこと。今の真紅もまた、器を持たない観念の状態になっている。僕ですら失いそうに<br> なっていた己の形を……彼女が保っていられる筈が無かったということか。</p> <br> <p> 「真紅! お前は、誰よりも自分の意志を強く持っていたんじゃないのか!<br>  考えるお前が、お前である由縁だと――――自分で言ったんだろう!」</p> <br> <p><br>  駄目だ。もう、その魂の色が……希薄になってきている。<br>  ならば――――僕が、何とかするしかない――――</p> <br> <br> <p> </p> <p> 『"神業級の職人(マエストロ)"が命じる――――――指輪の"世界"に取り込まれし指輪の主、</p> <p> その名は"真紅"……失われしかたち、その魂よ。</p> <p>  我が"旋律"に包まれ、呼び戻されんことを欲す――――――――!』</p> <br> <br> <p><br></p> <p>  左手の指輪より、紡ぎだされる"旋律"。僕はこの力を使う度に思った。<br>  これは―――僕の存在そのものから、紡ぎだされる糸なのだと。</p> <br> <p>「くそっ……戻って来い、真紅……!」</p> <br> <p>  僕が幽霊になってからの存在は、彼女が居たから証明されるものだった。<br>  何故なら、彼女が僕の存在に意味をつけたから。あの指輪を通じて――――――<br>  僕があの時の賭けに負けていれば、ただ儚く消えていく運命だったかもしれない。</p> <br> <p><br> 『……がんばるのね。そうそう、そのまま……』</p> <br> <p><br>  織り成す糸は、かたちを作り。そこに漂う残滓を、纏め上げる。<br>  真紅、お前は――――――――</p> <br> <p><br> 「うああああああああっ!!」</p> <br> <p><br>  ――――――僕が、護る―――――――!</p> <br> <p><br>  白い空間を、更に眩しいひかりが包む。そしてその地面に、倒れている……</p> <br> <p>「―――真紅!」</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p>  幽霊の僕でも、その身体を抱き上げることが出来た。やはり……実体を持っていない。</p> <br> <p>「……ジュン……?」</p> <br> <p> 「全く……お前らしくないな。あんなのに呑み込まれるようなやつでもないだろうに」</p> <br> <p>「……」</p> <p>  真紅は僕の言葉に、何も返さなかった。だが、一応『僕が僕であること』を認識して<br> いるようだ。その証拠に、彼女はちゃんと僕の名前を呼んだ。</p> <br> <p>「うっ……」</p> <br> <p>  そして。僕の腕の中で、真紅はぽろぽろと涙を零し始める。</p> <br> <p>「ジュン、私は――――――」</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p>  その様子をよそに、其処に居た子供が、ぱちぱちと手を叩いた。</p> <br> <p> 『すごいの。……貴方、お父様の力が、使えるのね?』</p> <br> <p> 「……なるほど。お父様って言うってことは、お前が指輪の"存在"か。いや……確かにそ<br>  れも、正しくないかな」</p> <br> <p>『……』</p> <br> <p> 「イメージだけを馴染ませても、無駄だ。お前が、そうなんだろう? 姿を現せ」</p> <br> <p> 僕がそういうと、奴は一層可笑しそうに笑った。</p> <br> <p> 『貴方は、わかっているのね……ジュン。お父様から教えていただいたのかしら。<br>  でも、だったらどうして……私の邪魔をするの?<br>  私は、ただ……初めから、無いことにしようとしてるだけなのに』</p> <br> <p>「なんだと?」</p> <br> <p> 『皆、間違ってたのよ。私は奇跡を起こしたんじゃなくて……色んなものを、<br>  "何も無かった"ことにしていっただけ。</p> <br> <p>  奇跡は、生み出されたんじゃないのよ。私が……そこに至るまでの因果の一つ一つを、<br>  切り取っていったの。ここでは、因果は掻き消される……この"九秒前の白"の中では』</p> <br> <p>「"九秒前の、白"……」</p> <br> <p> 『私には元々、かたちが無かったから。"この娘"の身体を使わせてもらったわ。<br>  お父様が送り込んだ観念……指輪の宿主を、守る為の力』</p> <br> <p>  奴が、眼を瞑る。途端、その身体からひかりが溢れ出して……『全く同じ姿形をした<br> 少女が二人』、この空間に現れた。</p> <br> <p>『私は"雛苺"。この娘も"雛苺"……』</p> <br> <p>「―――!?」</p> <br> <p>『ヒナはヒナよ! 貴女は私じゃない……!』</p> <br> <p> 『あら、"雛苺"。それでも、このかたちをしている間は"私"は"私"。<br>  ……貴女こそ、何も出来なかったでしょう。無理矢理自分の意志を覚醒させてるときも<br>  あったみたいだけど。わかってたのよね?もういいでしょう。運命なんてものは――――――』</p> <br> <p>『……そんなことは、許さないんだからっ!』</p> <br> <p><br>  二人の"雛苺"の一人が両手を前に出し……そこに展開される、苺わだちの蔓。それは糸を織り成し、<br> ひかりの紐を作り上げて。もう一人の"雛苺"へと向かっていった。</p> <br> <p> ……が、しかし。</p> <br> <p>「消える……」</p> <br> <p>  その糸は。奴の眼の前まで迫り―――しかし、身体には届かず全て掻き消されてしまった。</p> <br> <p> 『貴女の存在……! 貴女のその姿かたち、それは初めから無かったのっ!』</p> <br> <p> 『そうね……だから貴女の姿を借りたのよ、雛苺。私には……何も無い』</p> <br> <p><br>  姿は、雛苺のかたちのまま。少女は、不敵に笑った。<br>  しかし……その笑みは、さっきまでとは。いや、今までもそうだったかもしれない―――<br>  彼女は、一度も笑ってなどいない。その眼は、少しも楽しそうではないからだ。<br>  むしろその色には、寂しさと虚ろさが入り混じっていて、その存在そのものがそもそも危うい。</p> <br> <p> 『お父様は……幸せを追い求めて、私を作り上げた。私がここに居るのは、何か意味があると<br>  思う……?』</p> <br> <p>  僕は知っている。その、『何者でも無い正体』を。そして僕は伝えなければならない……<br>  "魔術師"の、意志の残滓を。</p> <br> <p> 「……存在が無いことを、実現してしまった存在。至高の矛盾律……」</p> <br> <p>  "魔術師"が作り上げた、幸せの観念を紡ぐ指輪。それは世界を滅ぼせるような、そんな<br> 大層な力を持っているのではない。ただ、それに関わる者達の因果の流れを動かしているだけ。<br>  だけどそれは究極の魔法だった、何故なら……</p> <br> <p> 『そう。お父様は、一つの至高を作ろうとしたけど、そんなものは存在しないの。</p> <br> <p>  お父様が作ったのは……"ゼロ"。"究極"に限りなく近づくことは出来るけど、究極そのものは<br>  存在しないことにお父様は気付いた。だからお父様は、"何も無いこと"を実現してしまったの。<br>  とある少女の観念として、全ての矛盾を孕むもの。……それが私。</p> <br> <p> 私は因果を切り取る……<br>  何かに至ろうとする過程、……この指輪の主の初代が、望んだこと。<br>  成功を求めれば、そこに至るまでに孕んでいた"失敗の可能性"の因果を、悉く切り取っていけば<br>  いいの』</p> <br> <p> 「……だが、それによって因果は乱れる。お前は一つの"ゼロ"である筈。なら何故、切り取ったもの<br>  を『別なかたちで現実に反映させた』?</p> <br> <p>  それこそが、お前の限界なんじゃないのか。どんな因果も、無かったことに出来る筈は無い。<br>  お前はただ、その順番を入れ替えただけだ。<br>  消すことの出来なかった不幸の観念……それはそのまま、指輪を受け継いだ一族に還ってきている」</p> <br> <p> 『一つ間違ってる。出来なかったんじゃなくて、しなかったの。この"九秒前の白"の中に、因果<br>  を留めておくことだって出来るんだもの。それは事実上、無くなってしまったことと同じ。<br>  ここは、誰にも気付かれない場所だから。</p> <br> <p>  私は気付かせようとしただけなの……望めば望むだけ、その上が欲しくなる。<br>  そもそも、幸せや不幸せなんて、……その基準を、誰が決めたの? だけどそんな些細なことで、<br>  足掻いたりもがいたりしているの。それは見てて面白かったし……そして悲しかった。</p> <br> <p>  お父様は結局人間に殺されてしまった……でも、それも自業自得なの。私という"ゼロ"を生み出して<br>  しまったばっかりに。存在の意味すら見当たらない私を。</p> <br> <p>  初めから、何も無ければいいのに。"普通"すら、そこに"在る"限り、波は立つんだから』</p> <br> <p> ……。<br>  言っていることは正しい気がする……しかし、歪んでいる。ただ、奴から言わせて見れば、<br> それすら些細なことでしかないのだろう。</p> <br> <p> 『……でも、それもおしまい。私は所詮、"ゼロ"でしかない。矛盾は矛盾の元に還る……<br>  消さなかった不幸の観念も、もう殆ど滅されてしまった。……とびきり強力な虚像が現れた<br>  筈なのにね……<br>  私はもう因果の流れを"無かったこと"にはしないし、この運命の円環は―――閉じる。<br>  そして私は、それこそ何事もなかったのように消える。私は気付いて欲しかった、ずっと……</p> <br> <p> それを叶えてくれたのは貴女よ、真紅』</p> <br> <p>「私、が……?」</p> <br> <p> 『そう。貴女は、何も無かった筈の私の存在に気付いた……覚えてはいないでしょうけど。<br>  だけど私にはかたちが無いから……"雛苺"の姿に馴染んだ。そうすれば、貴女とお話出来ると<br>  思ったから』</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p> 『雛苺、貴女は良いわ。お父様から与えられた使命―――指輪の宿主を護る、ただそれだけを<br>  していれば良かった。それが正義だったでしょう? 何の疑念も抱かずに』</p> <br> <p>『う、うゅ……』</p> <br> <p> 雛苺は少しひるみ、そして口を開く。</p> <br> <p> 『けど……けど! 貴女は、真紅を連れて行こうとしたの! 何も無い世界に……一緒に還ろう<br>  とした! それはさせないの……だって私は、その為にここにいるんだからっ!</p> <br> <p>  貴女は嘘をついたじゃない……真紅は、一人ぼっちだって。だけど真紅には、ちゃんと別に<br>  帰る場所があるの、待ってるひとが、居るのっ!―――貴女は、寂しかったんでしょっ!?』</p> <br> <p><br> 『……っ! 無駄よ、雛苺。ゼロはもう、一点に収束し始める。私は因果の流れを変えない、<br>  だから私はこのまま消えてなくなる……別に全ての世界が終わらなくても十分。私はその程度<br>  のものだから、それでいいの。</p> <br> <p>  だけどそれだと、私は本当に一人ぼっち。雛苺、貴女も随分頑張ったけど……これは決めら<br>  れたことなのよ? 運命は変わらない。"存在の終わり"は引き起こされる。何処でも無い<br>  場所、この"九秒前の白"からそれは伝達される……<br>  指輪に関わったものを全て、無くしてしまう。そうすれば、気付かない。</p> <br> <p> ……それが一番うつくしいでしょう?』</p> <br> <p><br>  ―――そうか。それが、指輪に囚われるということ。それは『呑みこまれてその一部になる』<br> のではなくて、……その存在の在り方そのものが、消されてしまうということなのか……</p> <br> <p>  誰が正しいのか。確かに、指輪そのものが無ければ、こういう因果の流れは起きなかった筈。<br> それは"魔術師"の……今は僕の存在が、元は引き起こしてしまったこと。<br>  "魔術師"は、指輪を生み出した時点で一つの間違いを犯した。『何も無い存在』である、一人の<br> 少女の観念。それを生み出したときに、たったひとつ必要だったものを、彼は伝えていない―――</p> <br> <p><br> 「―――因果の流れを変えられなくても。運命を変えることに、特別な力は必要ない」</p> <br> <p>『……?』</p> <br> <p> 「一度廻り始めてしまった運命の上に、確かに生きている人間が居る。<br>  それは、それだけで生きていい理由になるんだ……確かに、自分を脅かすものには、抗いたい。<br>  そして出来るなら、自分達が幸せだと思う生活を送っていきたい。<br>  お前からすれば勝手なことかもしれないけど……それが人間なんだ。</p> <br> <p>  さっき雛苺も言った。真紅もまた、指輪の運命に巻き込まれて……それでも、待ってるひと<br>  が居る。その一人一人が、皆意志を持った存在―――誇れる、もの。</p> <br> <p>  意味の無い"個"は存在しない、だから……そのまま消させる訳には、いかない」</p> <br> <p> 『……貴方も結局、私一人がそのまま存在を終わらせればいい、って言うのね。だけどそれ<br>  は無理よ。だってもう、時間は無いから――――――』</p> <br> <p>「―――!?」</p> <br> <p> 突如。白い空間は、激しい揺れを見せ始めた。<br>  何も無い空間に、黒いヒビが入り始めて――――――</p> <br> <p> 『終わるわ。……そうよ、私は寂しいの。何も無くなるのが……真紅だけ連れて行こうと<br>  思ったけど、貴方達も道連れね。全て、夢幻の彼方……</p> <br> <p>  悪夢だって、其処には無いわ。怨念に脅かされることだって無い』</p> <br> <p>  少女は……泣いていた。生み出されてしまったひとつの"ゼロ"は、その意志を以て泣いて<br> いる。<br>  ……僕は思う。少女は指輪を巡る中心に居ながら、しかし自身が『何者でも無い』ことを<br> 理解していた。それはどんなに、辛いことだったのだろう? ―――</p> <br> <p>  揺れはおさまらない。入り始めたヒビはどんどん広がっていき―――果てしなく続いて<br> いた頭上の空間から、壊れたビルのように岩が落ちてくる―――</p> <br> <p><br>  全てが終わる前に。たったひとつ、僕が言われなければならないことは……</p> <br> <p><br> 「"魔術師"の伝言だ。お前に伝えなければならないこと―――」</p> <br> <p> 『……何? 今更何を言われたって、どうしようもならないの』</p> <br> <p> 「……お前は、『何も無い』ひとつの存在だった。だけど、お前の存在には意味があったん<br>  だよ。</p> <br> <p>  だって、お前には名前があるんだ。それは――――――」</p> <br> <br> <br> <p>――――――――――――――――――</p> <br> <br> <p><br></p> <p>「あ、ああ……」</p> <br> <p>  ジュンがここにやってきてから。私がずっと雛苺だと思っていた少女と対峙してから、<br> どれほどの時間が経っただろうか。きっとそんなに時は流れていないのだろう―――<br> でも。私はその間、殆ど言葉を発することが出来なかった。</p> <br> <p>  彼が今、少女に告げた一つの『名前』。それを聞いてから、彼女は膝から崩れ落ちて<br> しまって、動かない。彼女は自分の存在に意味が無いと言っていた……けれど、名前が<br> あった。それは命そのものを、この世界に現す言葉……</p> <br> <p><br>  そして今、この空間が崩れ始めている。"存在の終わり"―――私は、何も出来なかった。<br> ただ、護られているだけで。こんな私こそ、消えてなくなった方が良いのかもしれない。</p> <br> <p>  だってそうすれば、皆苦しまなくても済む――――――</p> <br> <p>「真紅」</p> <br> <p>「……え?」</p> <br> <p> 「また馬鹿なこと考えてるんじゃないだろうな。お前がここで消えちゃったら、僕らの<br>  苦労は台無しだぞ。全くらしくないったら、ないな」</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p> 「お前は、僕が護る。それは前にも約束しただろ。だから……その、指輪の存在。<br>  それを最後に、僕に渡してくれ。……それで、全て終わる」</p> <br> <p><br>  そんな、そんな。だってジュンは幽霊だけど、今も生きていて……</p> <br> <p><br> 「嫌、嫌なの、もう! 私の為に誰かが苦しむのは……! どうしてジュンがそれを<br>  引き継がなきゃいけないのっ!」</p> <br> <p>  泣き叫ぶ。そんなことしたって、どうしようもならないこと位、わかっているのに。</p> <br> <p> 「……さあ、どうしてだろうな。ひょっとしたらこれが夢かなんかで、目覚めたら<br>  いつもの日常が始まって……なんていったら、随分といい話かもしれないな。</p> <br> <p> だけどそれは、もう今の僕らにとっては幻なんだ。</p> <br> <p>  僕が望んだことは……真紅、お前の運命を変えること。変えられた因果は、誰かが<br>  請け負わなきゃいけない……<br>  指輪を受け継ぐには、お前が僕に『指輪を渡す』という意志が必要だ。……頼む、真紅」</p> <br> <p><br>  どうして彼は、こんなに穏やかな顔をしているのだろう。それに比べて私は、もう<br> 涙が流れすぎて酷い顔になっているに違いない。</p> <br> <p><br>  私は思う。何故彼らは、こんなにも私を守ろうとしてくれるのか。確かに、"庭師"達が<br> 所属する組織―――其処にいる人たちは、何かしらの義務感を担ってそれを遂行しようと<br> してくれているのかもしれない。<br>  それでも。翠星石や蒼星石、それに金糸雀やみっちゃん―――彼女達は、私に本当に真<br> 摯に接してくれて。そんな存在に、私は何を応えるべきなのだろうか……<br>  運命。特別な力を持ち、悪夢に囚われた存在を助ける者達。これが運命と言うのならば、<br> もし神が存在したとして―――何故、そのような因果を彼らにもたらしたのだろう。</p> <br> <p>  そして、ジュンは……? 彼は幽霊で。いや、実際は生きているようだけど―――私を<br> 護るために、ずっと傍に居てくれた。<br>  彼という存在を、私は失いたくない。</p> <br> <p>  穏やかな表情を浮かべているジュン。貴方は、自分の運命を……どのように、感じてい<br> るの? ジュン、貴方は……とても、強い。この"世界"に囚われてしまって、闘うことを<br> 諦めようとしてしまった私なんかよりも、ずっと。</p> <br> <p>  私がずっと駄々を捏ねていたところで……彼はずっと、待ち続けるのだろう。この、<br> 残り僅かな時間。私を救う為に、私の決断を待って―――</p> <br> <p> 「……私が決断しなければ、外の世界に居る皆も消えてしまう。……そうなのね?」</p> <br> <p> 「……ああ。多分そうなるな。そういう意味じゃ、多分僕は随分酷いことを言ってる。<br>  お前に全てを託そうとしてるんだから。</p> <br> <p>  けど、僕はお前を救いたいんだ。それが僕の、存在の意味だから……」</p> <br> <p> ―――全てを救うことは出来ないと。頭の中に直接、ジュンの声が響いたような気がした。<br> 私は、……決意しなければならない。</p> <br> <p> 「ジュン……約束して。貴方も必ず、無事でいること……それだけで……いいから……」</p> <br> <p>  私がそう言うと、彼はやはり。穏やかに微笑んで、言った。</p> <br> <p> 「ああ。紅茶の葉を用意しとけよ。とびっきりのを淹れてやるさ」</p> <br> <p>  その声は、あまりにも涼やかに。この空間を静かに震わせる……。</p> <br> <p> 私は、ジュンの左手の指輪に―――口付ける。<br>  その瞬間。パァッ、と指輪から眩しい光が溢れ出た。</p> <br> <p>「……っ!」</p> <br> <p> 熱い。自分の左手の薬指の――――</p> <br> <p>「指輪、が……」</p> <br> <p>  ずっと、私を戒めていた薔薇の指輪。それが無くなっていた。そして指輪は、ジュンの<br> 左手の薬指に―――はめられている。<br>  気付くと私の身体は、徐々にその色を失いつつあった。どうして、私は―――</p> <br> <p>「お前はもう、指輪の運命の輪からは外れたんだ。<br>  ここから居なくなるのは……お前が多分、目覚めようとしているせいだろう。</p> <br> <p> 大丈夫、目覚めたら……全部、終わってるよ」</p> <br> <p>  そんな。私はまだ、話したいことが一杯あって―――<br>  身体が消えていくにつれて、その思考も曖昧になっていく。<br>  待って、待って……</p> <br> <p><br> 「―――じゃあな、真紅」</p> <br> <p><br>  私が最後に聞いたのは……そんな、彼の別れの言葉だった。</p> <br> <br> <br> <p>―――――――――――――</p> <br> <br> <p><br></p> <p>「……さて、と」</p> <br> <p>  崩れ落ちる空間に残された僕と、"雛苺"の姿をした少女が二人。</p> <br> <p> 「これで僕が指輪を継承した訳なんだけどな。あとはここから……」</p> <br> <p> 『……どうするつもり? 確かに真紅は助かったかもしれないけど、私がここに<br>  居る限りは"存在の終わり"は止まらないのよ』</p> <br> <p> 「―――お前が消える場所を、変える。全ての観念の終わる街があるんだ。<br>  別にお前は神様じゃない……あの空間は、そう簡単には壊れないさ。<br>  ……それに、消えるのはお前一人じゃない。僕もついてってやるよ」</p> <br> <p> 『ヒナもついていくのよ。今はジュンに指輪がついてるんだから。<br>  けど、真紅は本当に大丈夫……なの……?』</p> <br> <p>  雛苺は心配そうに言う。ずっと指輪の主を守り続けてきたのだ、気にかかるの<br> は当然のことだろう。僕は彼女の頭に手を置いて言った。</p> <br> <p> 「大丈夫さ。お前はよくやったよ……じゃあ、とりあえず行くか。もう時間がなさそうだ」</p> <br> <p>  僕は少女の手を握り、自分の『肉体』が置いてある場所―――"虚ろなる街"へ<br> 通じている"旋律"の紐を辿り飛び始める。</p> <br> <p><br>  "旋律"を辿り猛スピードで飛びながら、僕は少しだけ考えていた。</p> <br> <p>  真紅、お前とは。もっと普通のかたちで、逢いたかったかもしれないな―――</p> <br> <br> <br> <p>―――――――――――――――</p> <br> <br> <p><br></p> <p> ……</p> <br> <p> 久しぶりにやってくる、"虚ろなる街"。<br>  僕の指輪に関わる運命は、思えばここから始まったのかもしれない。</p> <br> <p>「はは、まだ崩れたまんまだ……あの建物」</p> <br> <p>  最初に水銀燈と邂逅したときに、いきなり放たれた"黒い羽根"によって瓦礫と化した<br> 建物は、まだそこにあった。</p> <br> <p>『ジュン……』</p> <br> <p> 手を握ったまま、話しかけてくる彼女。</p> <br> <p>「なんだよ」</p> <br> <p> 『本当に、良いの? 私と一緒に居なくなっちゃっても』</p> <br> <p>「一人で寂しかったんだろ? 僕も付き合う」</p> <br> <p> 『でも……それだとジュンは、真紅との約束を守れないじゃない。<br>  約束を破る男は、嫌われちゃうよ?』</p> <br> <p>  ……くそ。ここで茶化す余裕があるなら、大したもんだ。<br>  まあ、約束を破ってしまうことになるのは事実だけれど―――</p> <br> <p> 「―――ああ。僕はまだ生きてるけど、肉体の方がもう余命僅かなんだ。<br>  そんなに長くは生きられない―――</p> <br> <p>  それに。僕がお前と一緒に"居なくなれば"、僕も外の世界には最初から存在しなかった<br>  ことになる。思い出して、悲しまれることもないよ。</p> <br> <p>  ところで雛苺―――お前は僕に付き合う必要は無いぞ。あそこに放っておく訳にもいか<br>  なかったから連れてきたけど……」</p> <br> <p> 『うぃ……けど、此処に居てもヒナはお外には出られないの。だったらジュンについていく<br>  の……』</p> <br> <p>『……』</p> <br> <p>  そんな雛苺の言葉を聞いて、同じかたちをした少女は何も答えない。"九秒前の白"は今頃<br> 完全に崩れてしまっただろうけど、そこを抜けさえすれば……彼女には今、『名前』がある<br> から。たとえ観念の存在であるとして、まだ少し余裕はあるようだった。</p> <br> <p>  消えてしまうっていうのは、どれほどの恐怖なのかな。いや、それすらも無かったこと<br> になるし……きっと怖いのは、消えてしまうまでの空白の時間。</p> <br> <p>  『何も無いことは、うつくしい』と。彼女はそう言っていた。それが、何も無い真っ白<br> な空間の中で……長い長い間ずっと独りでいた彼女の出した、一つの答え。</p> <br> <p>  "魔術師"の誤算は……彼の作り上げた一つの魔法が、意志を宿るまでに至ってしまった<br> こと。もっとも、それ故"雛苺"という護る存在も実現することが出来た訳だが……結局<br> それにも、"魔術師"自身の命を使ってしまう結果となった。それはやはり、奇跡の代償だ<br> ったのか。</p> <br> <p>  不思議なほど、今の僕のこころは静かに凪いでいる。<br>  僕は真紅を……その存在を、世界に残すことが出来た。</p> <br> <p> だから―――もう、いいんだ。<br>  何も無いことを存在させてしまった、矛盾の奇跡。<br>  僕はその責任を、取らなければいけないんだろうな……</p> <br> <p> ……?<br>  そんなことを考えていると。胸の辺りが、熱くなってくる。</p> <br> <p>「……なん、だ……?」</p> <br> <p>  幽霊である自分の身体で、鼓動が鳴り響いているとしたら。早鐘を打ちすぎて、息も<br> まともに出来ないくらいだろうと思うほど―――</p> <br> <p>  そして、僕の胸から―――ひとつの輝く塊が、幾重にも重なった光の輪に包まれて<br> 飛び出してきた。これは……石……?</p> <br> <p>  その輝く石は、僕達の前に静止し……やがてひとの形を成し始める。</p> <br> <p>『お父様……!』『お父様なのー!』</p> <br> <p> 驚いた表情でそのひとのかたちを見る少女。<br>  ―――お父様、とは。こいつが、"魔術師"ということか―――</p> <br> <p>『私も居るわよぉ、ジュン』</p> <br> <p> 声と共に、大きな黒い翼を広げて降り立つ人影。</p> <br> <p> 「……水銀燈!? 何でお前がここに……消えちゃったんじゃなかったのか!?」</p> <br> <p> 『あらぁ。貴方のことが心配だったから、ずっと見ててあげてたのにぃ。<br>  私はお父様と一緒に居るのよ? 全部見届けるまでは、消えられないわよぉ』</p> <br> <p>  茶目っ気たっぷりな様子で笑う彼女。―――こんなキャラだったか?<br>  こいつは……思わず額に手をやる。居るんなら手伝ってくれよ……</p> <br> <p> 『まぁまぁ……それよりもねぇ。私が伝えたいのは、お父様の意志……<br>  これはお父様のかたちをしているけど、直接語りかけることは出来ないから』</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p>  納得いかないが、とりあえず耳を傾けることにしようか。</p> <br> <p> 『……ジュン、貴方の下した決断は、その娘と一緒に消えることだったみたいねぇ』</p> <br> <p> 「ああ、そうだよ……こいつ独りじゃ、寂しいじゃないか」</p> <br> <p> 『ほんとにもう……貴方はまだ生きてるんだから……本当、優しすぎるほど優しい<br>  のねえ、貴方は。</p> <br> <p>  だけど……お父様は、それを望まない。もう既に、ジュンの身体からお父様の<br>  魂は離れたの。だから、その娘を連れて"居なくなる"のは……お父様自身だって、<br>  言ってるわぁ。</p> <br> <p>  けれど勘違いしないで……生きるというのは、それだけで辛いことに遭遇する<br>  可能性を孕むのよぉ。</p> <br> <p>  その上でお父様は、その存在を残せと言っているの』</p> <br> <p>「……!」</p> <br> <p>  ……だけど、僕には指輪があるし、その存在を背負う限りは――――――</p> <br> <p>「―――あれ?」</p> <br> <p><br>  指輪が、無かった。代わりに、"魔術師"の左手の薬指に―――それは、つけられている。</p> <br> <p>「これで満足なのか? お前は……」</p> <br> <p>  "魔術師"は、少し悲しそうな眼をしてこちらを見ている。<br>  もうどれほど謝罪をしても仕切れないと―――そんな声が、僕の頭の中に響いた気がした。</p> <br> <p>  そして。口を開けないと言っていた筈の彼が、僅かに唇を動かす。</p> <br> <p><br> 『―――――おいで、"アリス"』</p> <br> <p><br>  紡がれた、言葉。何も無い存在を実現した、一人の少女の名前を―――</p> <br> <p>  少女は"父"の元にかけよる。"魔術師"は雛苺の方も向き、その名前を呼ぼうとしたの<br> だろうが……それを"アリス"が制止する。<br>  そして彼女は、僕たちに語りかけた。</p> <br> <p> 『ありがとう、ジュン。貴方が私と一緒に居なくなってくれるって言ったとき―――<br>  嬉しかった。私がこんな存在じゃなくて、普通の女の子だったら……良かったのにね。</p> <br> <p> あと―――雛苺』</p> <br> <p>『うぃ……?』</p> <br> <p> 『真紅がね……中身は私だったけど、貴女みたいな妹が居たら楽しいだろうって……そう<br>  思っていたのよ。貴女はその願いを……私の代わりに、叶えてくれないかしら。<br>  普通の身体を持って、普通の生活を送っていくの。私にはもう、それをする資格も無い<br>  から。私自身が消えてしまう運命は、もう変わらない。</p> <br> <p> 貴女は、真紅と一緒に居たいでしょう……?』</p> <p><br>  <br>  言われて、何処か戸惑いの素振りを雛苺は見せる。当然のことだろう。いきなりそんな<br> ことを言われても、彼女はまだ子供だ。</p> <br> <p> 『雛苺、この娘が言ってることは……決していいことばかりではないわぁ。それはさっき<br>  私がジュンに言ったのと同じこと……</p> <br> <p>  けれど私も、貴女と言う存在が、消えてしまう必要は無いと思うの。この娘が消えて<br>  しまったら、指輪そのものに関わる全てが"無かった"ことになるだろうけど。<br>  貴女がこの娘の意志を継いで……外の世界に実現するのなら、きっと忘れることは<br>  無いでしょうね。</p> <br> <p>  忘れ形見って言うと縁起でもないけど……それを残したいのねぇ。そうよね、"アリス"?』</p> <br> <p> 水銀燈に言われ、少女は小さく、頷いた。</p> <br> <p> 『うゅ……わかったの。ヒナ、貴女のこと……忘れないから……』</p> <br> <p>  雛苺はそう言って、涙を零す。"アリス"もまた、泣いていた。そして彼女は、恐らくは<br> この"世界"で使う、最後の力を解き放った。因果を無かったことに……いや、その流れを<br> 入れ替える歪みの力を。それは、多分最初で最後の。『彼女自身の願い』を叶えるもの―――</p> <br> <p>『……!』</p> <br> <p>  輝く、ひかり。それに包まれて、雛苺の身体もまた……この"虚ろなる街"から消えていく。<br> 外の世界へと、還っていったのだろう。</p> <br> <p>「―――あ、」</p> <br> <p>  そして気付くと、僕の右手には、……薔薇の紋様はあしらわれていなかったものの。<br> シンプルな銀の指輪が、はめられていた。</p> <br> <p> 『ジュンにも、私からプレゼント……私のこと、忘れないでね』</p> <br> <p> 「また物騒なものを……しかもわざわざ右手か……まあいいか。ありがたく貰っとく。<br>  ……忘れないよ、保障はしないけど」</p> <br> <p>  僕がそういうと、彼女は綻んだような笑顔を見せる。―――ああ、この娘は。その存在に<br> 意味が無いなんてことはない。だって、こんなに嬉しそうな顔をして笑えるのなら……</p> <br> <p><br> 『さて、私もお父様達についていくから……今度こそお別れよぉ、ジュン』</p> <br> <p>「水銀燈……」</p> <br> <p>  はにかんだような笑顔で、彼女は僕に何かを差し出した。<br>  僕が始めてあったとき、"黒き天使"だと感じる象徴になった―――黒い羽根の、一枚を。</p> <br> <p> 『私達は、これから"居なくなる"―――だけど、確かに私達は存在して……それは今、この<br>  娘が言った通りねぇ。知識はお父様のものだったけど、貴方は勇敢に闘い、そして護り抜いたの。</p> <br> <p>  ありがとう、ジュン……その羽根は、私達と、貴方の……存在の、証……』</p> <br> <p><br>  三人が、消えていく。光に包まれて。それに触れると、彼らの身体は光の砂になって<br> 散っていく。</p> <br> <p> 『ジュン。真紅に、伝えておいて―――貴女に逢えて、良かったって。本当に、<br>  楽しかったから……』</p> <br> <p>  最後に少女は、僕にそう言い残す。三人の姿が完全に掻き消えてしまう間際、僕は"魔術師"と<br> 眼があった。</p> <br> <p> そして僕は、最後にこう言ってやる。</p> <br> <p><br> 「いつか生まれ変わったら……今度は間違うなよ、"魔術師"……いや、」</p> <br> <p><br> ――――――ローゼン……</p> <br> <p><br>  その言葉は、この"虚ろなる街"に小さく響いて。彼らの存在は……『無くなった』。</p> <br> <br> <p>「……」</p> <br> <p>  彼らが居なくなってしまったあと、僕は指輪のつけられた右手で……黒い羽根を持ち、<br> それを見つめる。</p> <br> <p>  彼らの存在は、"終わってしまった"。けれど……指輪に関わった者達の記憶。変えられ<br> てしまった因果の流れ。そういったものを含めて、僕は今も覚えている。きっと外の世界<br> に居る人たちもそうだろう……</p> <br> <p>  案外と、彼らのことだから。消えたと見せかけて、また何処かで僕らのことを見守って<br> いるのかもしれない―――そんなことも、考える。</p> <br> <p>  真紅は無事に目覚めただろうか。雛苺は、どうだろう。……きっと、大丈夫だよな。</p> <br> <p> そして、ふと。後ろからひとの気配がした。</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p>「……薔薇水晶……」</p> <br> <p>  そこに居たのは、"虚ろなる街"を展開してやってきた、薔薇水晶だった。</p> <br> <p> 「大分時間かかっちゃったけど……全部、終わったよ。外の世界は、どうだ……?」</p> <br> <p> 「うん……大丈夫。皆頑張ったよ。真紅も目覚めたし……あと、雛苺っていう娘も居たよ」</p> <br> <p>  そうか、良かった。僕はほっと胸を撫で下ろし、そして今度は、これからの自分のこと<br> を考えた。</p> <br> <p> 「さて……本当にありがとな、薔薇水晶。これからじゃあ、"アメジスト"を抜いて元の<br>  身体に戻って―――」</p> <br> <p>「ジュン」</p> <br> <p>「ん?」</p> <br> <p> 「ジュンは……ずっと幽霊のままで居ることは出来ないのかな。だって、元の身体に還っ<br>  ても……ジュンは……」</p> <br> <p>  うん……まあ、それはそうだ。幽霊になっている今は意識していないけど、僕がこの<br> 状態になる直前などは本当に肺が苦しくて大変だった。喀血は茶飯事のこと、ひとと逢<br> っているときはなるべく楽な状態の時を選んで……<br>  そんな状態に、僕はこれから戻ることになる。</p> <br> <p>  普通に寿命で死んだ場合、僕の存在はどうなってしまうのだろう。<br>  またこんな風に、幽霊になってふらふら彷徨うことが出来るのだろうか。</p> <br> <p>  そんなことも少しだけ考えるが、多分それは無理なのだろうとも思う。通常の因果の<br> 流れとして死んでしまったのなら、きっと魂はこの世にかたちを残すことが出来ない。<br>  僕は、水銀燈やあるいは"魔術師"のように、この世に魂を留まらせ続けるような強い意<br> 志を……きっと死ぬ間際には、持っていないに違いない。</p> <br> <p>「……っ……馬鹿だよ……ジュン、は……」</p> <br> <p>  薔薇水晶が、涙を零している。僕はその涙に、なんと応えれば良いのだろうか。<br>  ……僕は、このままの状態でいるわけにはいかない……</p> <br> <p> 「死ぬ運命がわかっていても、僕は僕だ。他の何者でも無い。逃げることも出来ない。<br>  だから……終わってしまうときが来るまで、僕は生きるよ。これが、僕の意志なんだ」</p> <br> <p>  彼女はまだ泣き止まないが、これが僕の言える全て。<br>  消えてしまった三人の分まで、という訳でもないけれど……<br>  桜田ジュンという存在は、まだ終わっていないから。</p> <br> <p>  真紅との約束もあるしな。とびっきりの紅茶を淹れないと、それこそ彼女は納得<br> してくれないだろう―――</p> <br> <p><br>  そして、とある崩れかけた建物の中に横たわっている、僕の実の身体。その胸に突き刺さ<br> っている薔薇水晶の"アメジスト"が―――引き抜かれる。</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p><br>  曖昧になり始める意識。<br>  きっと彼女は、薔薇屋敷へ。そして僕は僕のあるべき場所へ、還るのだろう―――</p> <br> <br> <br> <p>――――――――――――</p> <br> <p><br></p> <p>「う……」</p> <br> <p>  目覚める。其処には、大勢のひとが居た。私は床に倒れている状態から、上半身だけ身<br> を起こした。</p> <br> <p>「真紅っ! 大丈夫ですかっ!」</p> <br> <p>「翠星石……私は――――――」</p> <br> <p> 「……終わったみたいだね、真紅。ほら、左手を見て……」</p> <br> <p>  蒼星石に促され、私は左手を見た。そこには指輪が、……無い。</p> <br> <p>「……」</p> <br> <p> 私は、薔薇の指輪の戒めを解かれた。だけど……</p> <br> <p>「うっ……」</p> <br> <p>  ぽろぽろと、零れ落ちる涙。私は皆に、何て言えば良いのだろう。<br>  こんなに護って貰って、私は――――――</p> <br> <p>「真紅……あの、ところでですねぇ」</p> <br> <p>「―――え?」</p> <br> <p>「真紅にくっついて寝てるその娘……誰です?」</p> <br> <p>  すると。私の腰の辺りにひっつかまって眠っている少女が一人。</p> <br> <p> 「……この娘は、雛苺と言うの。今まで私を―――いえ、指輪の主を護り続けてきた娘。<br>  今度は私が……この娘を、護るのだわ」</p> <br> <p> 私は目覚める直前、少女の声を聞いた。</p> <br> <p>『この娘を―――護ってあげて……』</p> <br> <p>  それは私があの真っ白い世界で聞いていた、雛苺の声だったけれど。きっとその意志は<br> 指輪の存在であった少女のものであろうと薄々感じていた。</p> <br> <p> すやすやと眠っている雛苺の髪を、そっと撫ぜる。</p> <br> <p> この娘は、あの少女の……意志の残滓。<br>  けど、この現実世界で……生きていくこと自体が、この娘にはきっと厳しいことだ。</p> <br> <p>  姿形は、普通の女の子で。あの不思議な力は、まだ残っているのだろうか。<br>  もう、それも必要ないものだけど……この娘は、ずっと私達を、護り続けてきたのだから。<br>  これからは、ゆっくりとした時を過ごして欲しい。</p> <br> <p><br>  私は、白い空間であった出来事を、皆に話す。<br>  もう早くも、その記憶は断片的なものになってきていたけど……それでも、思い出せる限り。</p> <br> <p>  私は、ジュンと約束をした。だから彼は……きっと無事でいてくれる。<br>  そんなものは、希望的観測だってことはわかってる。私がまだ指輪をつけていたのなら、<br> 彼の無事を一心に願ったに違いない。だけどそれは、もう出来ないから……</p> <br> <p><br>  飛び切りの紅茶の葉を用意して、私は待とうと思う。彼が、ここへやって来るのを―――</p> <br> <br> <br> <p>――――――――――――<br>  </p> <br> <br> <p><br>  私が指輪の戒めを解かれてから、二週間が経とうとしていた。</p> <br> <p>  六月の―――雨。梅雨もいい加減あけて良いような頃合だと言うのに、空は昨晩から<br> 相も変わらず涙を零し続けていて、泣き止む様子が全く見られない。<br>  庭にある薔薇にとっては、もう十分なくらい水分が蓄えられていることだろう。</p> <br> <p>  "庭師"の姉妹は、もうここに住み込むことはやめて……それでもあれからもう四・五<br> 回は、庭の薔薇を手入れするために館を訪れている。私が寂しがってないか、という配<br> 慮であるらしいことを蒼星石から聞いた。</p> <br> <p>  もっともそれを真っ先に言い出したのは姉の翠星石で、私がそのことを知ったあとは<br> 彼女を宥めるのが大変だった。そういう気遣いを人に知られるのは、翠星石にとっては<br> 非常に恥ずかしいことであるらしい。</p> <br> <p>  ただ、その配慮は。私にとっては、とても嬉しいことだった。"庭師"もまた薔薇屋敷<br> の主を護り続ける運命から解放され、今は別なところでの仕事を待っている状態らしい<br> けど……</p> <br> <p>  雛苺は、館に一緒に住んでいる。なんだか妹が出来たみたいで……彼女の明るさには、<br> 随分と救われている。随分と懐いてくれているし、とても可愛いと思う。</p> <br> <p>  彼女はかなりアウトドア派だ。雨が降っているというのに、今日も傘を差して遊びに<br> いってしまった。なんでも、私を護ってくれた組織に居る―――巴という娘がお気に入り<br> のようで、ちょくちょく顔を出しているらしい。</p> <br> <p>  雛苺はずっと孤独だった筈だから。楽しいときを過ごしてくれれば、それを越すものは<br> ないと思う。ひょっとしたら、彼女は肉体を持っていても……普通の人間としてのそれと<br> は異なる成長をするかもしれない。寿命一つとっても、そう。</p> <br> <p>  彼女自身は、私よりも何倍も長く『生きている』ことになる。だけど、その中身は……<br> 驚くくらい子供で。だから私が、保護者として、また姉として。彼女の成長を見守ってい<br> くのだ。たとえ、私が先に死んでしまったとしても――――――</p> <br> <p>  もう私は外には自由に出られる身だけど、そんな状態になっても私はあまり外出という<br> ものをしていない。その辺りが、私と雛苺の違うところ。</p> <br> <p>  傘もささずに出かけてみようか、という誘惑も無い訳でもないけれど。今日もやっぱり、<br> 自分の部屋で本を読み、そのうち巴と一緒にここへやってくるであろう彼女を、待ってい<br> るのだ。</p> <br> <p><br> ―――そして。私が館をあまり出ない理由の一つは……</p> <br> <br> <p><br> 「ジュン、紅茶を淹れて頂戴」</p> <br> <p><br>  彼がいつここにやってきてもいいように、待っているから。<br>  こうやって独りで居るときは。もうここには居ないとわかっている存在に、語りかける。</p> <br> <p>「ジュン?」</p> <br> <p>  あたかも、其処にいるかのように。そうすれば、ひょっこりとまた、顔を出してくれる<br> ような気がして――――――</p> <br> <p> 「ジュン、出てきなさい―――早くしないと、怒るのだわ」</p> <br> <p> わかっている、わかっているのだ。</p> <p><br>  <br>  だけど。何故だか今日は、いつにも増して、感傷的な気分になって。</p> <p><br>  空がずっと泣き続けているように……私の両目からも、涙が零れ落ちる。</p> <br> <p><br> 「……っ、今日、は……何処から、出てくるの? ……床? ……それ、ともっ、……天、井?」</p> <br> <p><br> ――――――なんだよ、真紅―――――――</p> <br> <p><br>  姿はおろか。声すら、返ってこない。</p> <br> <p> 「いつもの様に―――あの頃みたいに、出てきて、頂戴……早く、早くするのだわ」</p> <br> <p>  私は、ジュンの存在の消失など……微塵も望んだ訳がない。<br>  だけど結果的に―――彼に、指輪を託してしまったから。<br>  だからこれは……私の望んだ、結末だったということになる……</p> <br> <p><br>  新しい紅茶の葉も、用意してあるのよ。とても良い香りがするの―――</p> <br> <p>「ジュン」</p> <br> <p>  私は、呟く。そしてまた思い出すのだ、彼の言葉を……</p> <br> <p><br> 『今の僕らにとっては、幻なんだ――――――』</p> <br> <p><br>  私は……弱い。両手を顔に当てて、私はずっと泣き続けていた。</p> <br> <br> <p><br>  雨はまだ……やみそうに、無い。</p> <br> <br> <br>

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