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<div class="main_body"> <p> <br>   ~第四十七章~<br>  <br>  <br> 真紅の繰り出した突きと、鈴鹿御前の突き出した皇剣『霊蝕』が交差して、<br> 切っ先は互いの身体へと吸い込まれていった。<br> 鈴鹿御前の剣は、法理衣に遮られて、真紅には届かない。<br> 対して、鈴鹿御前には、もう身を護る障壁がなかった。<br> <br> ――これで終わった。<br> <br> 敵も味方も、誰もが、そう思っていた。<br> その予測が覆ることなど、有り得ないとすら考えていた。<br> <br> しかし、その直後、鈴鹿御前は予想もしていなかった行為に出る。<br> 突如として、右手の皇剣『霊蝕』を手放したのだ。<br> これには、真紅も意表をつかれて絶句した。<br> <br> すんでの所で身を捩り、神剣を躱した鈴鹿御前は、伸びきった真紅の右腕を掴んで、<br> しっかりと右脇に挟み込んだ。<br> 法理衣の防御効果で、鈴鹿御前の手や腕から、白煙が立ち上り始める。<br> だが、真紅の右腕を放したりはしなかった。<br> <br>  「かかったな、真紅っ!」<br> <br> 嬉々として叫び、左手の龍剣『緋后』を逆手に握り直して、真紅に突き立てようとした。<br> 龍剣『緋后』は、精霊の能力を無効化する、特殊な剣だ。<br> 進化した法理衣の防御障壁でも、容易く貫通されるかも知れない。<br> 右腕を捉えられた状態で、この至近距離とあっては、回避など不可能。<br> <br>  「!? しまった! これを狙っていたのね!」<br> <br> まさに、肉を斬らせて骨を絶つ覚悟。<br> けれども、他の娘たちは真紅の援護をせずに、息を呑んで成り行きを見詰めていた。<br> 何故ならば、元々は一心同体だった二人の勝負に水を注すことなど、<br> 誰にも出来なかったのだから。<br> <br>  「消えろぉぉっ! 真紅ぅっ!」<br>  「っ! 貴女なんかに――」<br> <br> 鈴鹿御前の左腕が振り下ろされる直前、真紅は両脚を踏ん張って、<br> 右肩で鈴鹿御前の身体を押した。<br> <br>  「負けないのだわ! 絶対にっ!」<br>  「な、にぃっ」<br> <br> 真紅の気迫が、鈴鹿御前の体躯を押し戻した。<br> そのまま更に押し込むと、鈴鹿御前は脚を縺れさせて、仰向けに倒れそうになった。<br> ここで倒れたら、敗北は必至。<br> 体勢を整えるべく、彼女は捉えていた真紅の右腕を放して、数歩、後ずさった。<br> <br>  「はあぁぁ――っ!」<br>  「うおおぉぉ――っ!」<br> <br> 間髪入れずに、真紅は下段から斬り上げる。<br> 殆ど同時に、鈴鹿御前が大上段から斬り下ろす。<br> どちらの剣撃も、ほぼ等速。<br> 真紅の一撃が、先に鈴鹿御前の息の根を止めるか。<br> それとも、鈴鹿御前の斬撃が、法理衣の防護壁を裂いて、真紅の頸動脈を絶つか。<br> <br> 二人の攻撃に、一切の躊躇いは無かった。<br> 最早、彼女たちの目には、大義も、理想も、世界も、仲間たちも映っていない。<br> <br> ――目の前に立つ、鏡写しの自分を斃す!<br> <br> 極論すれば、目的を果たせるなら、たとえ相討ちでも構わなかった。<br> <br> <br> ぶつかり合う、意地と意地。<br> 相反する水の流れが渦を描くように、二人の気迫もとぐろを巻いて逆巻き、<br> 謁見の間に居る全ての者達――生者、死者の分け隔てなく――を、威圧していた。<br> 誰もが固唾を呑み込み、凝視する中で、空を斬り、肉を斬る音が鳴り響いた。<br> <br>  「あ……っ!?」<br>  「ぬぅ……っ?!」<br> <br> 真紅の右肩がスッパリと裂けて、緋色の飛沫が舞い上がった。<br> そして――<br> <br>  「っぐぅあぁぁぁぁぁ――――っ!!!!」<br> <br> 鈴鹿御前は左腕の肘から先を裁断されて、筆舌に尽くしがたい激痛に苛まれ、絶叫した。<br> 勝敗を分けたのは、利き腕か、そうでなかったかの違いだけ。<br> 左腕で斬り付けた分だけ、鈴鹿御前は真紅に遅れを取ったのだった。<br> <br> 切断面から墨汁を想像させる黒い血を迸らせながら、鈴鹿御前は歯軋りしていた。<br> 真紅に斬り負けた屈辱からか、それとも、激痛に耐えるために、<br> 歯を食いしばっているのだろうか?<br> どちらにせよ、彼女が真紅に目を向けた時にはもう、<br> 突き出された神剣の切っ先が鈴鹿御前の鳩尾を裂き、背中へと突き抜けていた。<br> <br>  「っか……っはぁ……」<br> <br> だらしなく開かれた唇から漏れ出るのは、消え入りそうな吐息と、黒い血液だけ。<br> 双眸を見開き、真紅を睨むが、鈴鹿御前の瞳は、徐々に光を失いつつあった。<br> <br>  「お……のれ。真…………紅ぅ」<br>  「……貴女の負けよ、鈴鹿御前。鬼と言えども……その傷では、長くないわ」<br>  「言われずとも……そのくらい」<br> <br> 神器で斬られては、自力での再生が出来ない。<br> また長い年月、生娘の鮮血に身を浸し、眠りながら力を蓄える必要があった。<br> <br>  「だが、わたしは……怨念の化身。この程度で、滅びたりなど――」<br>  「いいえ。貴女は、ここで滅びるのよ」<br> <br> 真紅は静かに、しかし、はっきりと告げると、神剣を引き抜いた。<br> 唯一の支えを失い、鈴鹿御前は蹌踉めき、膝から崩れ落ちる。<br> そして、遂には仰向けとなった。<br> <br> 鈴鹿御前が斃されたと知るや、穢れの者たちは一体、また一体と、得物を捨てて、<br> その場に座り込んでいく。まるで、敗北を悟り、自害する覚悟であるかの様だ。<br> ほんの僅かな場所から始まった動きは、たちどころに全軍へと伝播していく。<br> 無数に犇めいていた穢れの者どもは、全員が武器を打ち捨て、胡座をかいて項垂れていた。<br> <br>  「もう、誰も貴女を助けようとはしないわね」<br>  「……ふふん。それが、どうした。わたしを憐れむと言うのか?<br>   愚かしいな。穢れの者どもなど、己の欲望にのみ忠実な亡者なのだぞ。<br>   奴等は盲目的に、力ある者に付き従い、忠誠を誓うに値せぬと見なせば、<br>   忽ち離反してゆく。大方、新たなる主君に、お前を選んだのだろうよ」<br> <br> 鈴鹿御前が言葉を発する度に、鳩尾から黒い血が溢れ出した。<br> <br>  「貴女は何故、そんな酷い事を言うの?<br>   四天王も、巴や、めぐも、その他の武将たちも、一兵卒に至るまで、<br>   貴女の命に従い、貴女のために闘ってきたのよ。<br>   それなのに、貴女は忠臣たちを蔑むばかりで、一言だって労おうとしない。<br>   ――どうして?」<br>  「……言ったであろう。状況に応じて、いとも容易く主君を変える連中だ、と。<br>   そんな使い捨ての駒なんかを、わたしが信用すると思うか?」<br> <br> 言って、せせら笑う鈴鹿御前を、真紅は真っすぐに見詰めて、徐に口を開いた。<br> <br>  「信じていなかったら、そもそも手駒に加えようとは、しないでしょう?<br>   それに、ここに居る穢れの者どもが、貴女の言うような連中だったなら、<br>   十八年前に離反されている筈よ。でも――」<br> <br> 真紅は、ぐるりと全周囲を見回した。<br> 穢れの者たちは、真紅たち八犬士と、鈴鹿御前を中心にして車座になっている。<br> 彼女の言うように、新たな主君に対して平伏しているのであれば、<br> 胡座ではなく、正座して平身低頭するのが当然の礼儀である。<br> <br>  「彼らは、貴女が封印されてから、今に至るまで忠誠を誓い続けてきたのよ。<br>   貴女だって、本当は解っているんじゃないの?」   <br>  「……それは、お前の憶測に過ぎん。わたしは……信じていないわ」<br> <br> 鈴鹿御前の言い種は、ただの強がりとして、真紅の耳に届いた。<br> 本当は、信じたいのだろう。<br> けれども、裏切られる恐怖と失望を知ってしまった彼女は、我知らず心を歪ませ、<br> 誰かを信頼する事を拒絶するようになっていた。<br> その歪みが、四天王や、御魂を分けた二人の娘をも生贄としか見なさない狂気となり、<br> 結果的に自身の滅びを早めたのだ。<br> <br>  「解ったわ。だったら、そう言うことにしておきましょう。<br>   但し、これから貴女の命が尽きるまでの間は、私を信じなさい」<br> <br> 突然の発言に、鈴鹿御前は唖然として、次に、嘲笑を浮かべた。<br> <br>  「なかなか面白い戯言だな。何故、わたしに、お前ごときを信じろと?」<br>  「私と貴女は、鏡写しの存在だからよ。それは、どう抗っても逃げきれない事実。<br>   目を逸らしても、鏡を叩き割っても、現実は現実として進んで行くわ。<br>   だから、鏡に写った自分が、どんなに嫌な姿であっても……直視して、<br>   信じて、受け入れなければならないのよ」<br>  「…………なるほど。最後に、お前を信じてみるのも一興かも知れぬな」<br> <br> 鈴鹿御前は、少しだけ楽しげに微笑んで見せた。<br> 真紅と瓜二つの笑顔は、とても魅力的で、何処にでも居そうな普通の娘に見えた。<br> <br>  「それで……この後は、どうするつもり?」<br>  「鬼畜生に身を窶し、数多の穢れの元凶となった貴女を、祓うわ。<br>   そして、貴女を成仏させる。私の……いいえ、私たちの能力でね」<br>  「ほぉう? そんな事が、可能だと思うのか?<br>   わたしを成仏させるだなんて、質の悪い冗談にしか聞こえぬぞ」<br>  「言った筈よ。最後の時まで、私を信じなさい……って」<br> <br> 真紅が軽く睨むと、鈴鹿御前は「そうであったな」と、瞼を閉じた。<br> <br>  「それじゃあ、始めるわよ! 水銀燈、金糸雀、翠星石、蒼星石、雛苺、<br>   薔薇水晶、雪華綺晶。私に、力を貸してちょうだい」<br>  「最初っから、そのつもりよぉ」<br>  「カナたちは一蓮托生かしら」<br>  「どんな事だろうと、私たちは真紅に協力するですぅ~」<br>  「ボクたちは、御魂の絆で結ばれた、姉妹なんだからね」<br>  「みんなで力を合わせれば、きっと大丈夫なのっ!」<br>  「……信じる力が、無限の可能性を生み出すから」<br>  「私たちに、出来ないことなど有りませんわ」<br> <br> 「ありがとう、貴女たち」と呟いて、真紅は左腕を前に突き出し、右手で印を結んだ。<br> 他の七人も、鈴鹿御前を中心にして輪となり、真紅に倣って、左腕を伸ばす。<br> 程なく、全員の手の甲にある真円の痣に『仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌』の文字が、<br> 浮かび上がってきた。<br> <br> しかし、それは次の瞬間『如・是・畜・生・発・菩・提・心』へと変化を遂げた。<br> この急変には、誰もが目を見開いた。<br> <br>  「なっ?! なんなのぉ、これぇ?」<br>  「鬼畜生となった鈴鹿御前に、菩提心を芽生えさせる意味かしらっ!」<br>  「それで、穢れの元凶を静めるんだね」<br> <br> 真紅は頷き、聞き慣れない祝詞を唱えながら、印を切った。<br> 八人の痣から眩い光球が飛び出し、くるくると回りながら、糸を紡ぐように纏まっていく。<br> そして、ひとつになった真っ白な光球は、鈴鹿御前の身体に飛び込んだ。<br> ビクン! と、一度だけ、鈴鹿御前は身震いした。<br> <br>  「調子は、どう?」<br>  「…………温かいな。それに、不思議と気分が安らいでいる。<br>   今までは、常に心の奥底から、不安や怒りの感情が溢れだしていたのに」<br>  「怨嗟は思慮に、憤怒は慈愛に。貴女の魂はもう、鬼ではないわ。<br>   過去の束縛を絶ち、成仏しなさい」<br> <br> 鈴鹿御前は、真紅の諭す声を聞いて、一切の嘘偽りを含まない笑みを見せた。<br> 過去の因縁から解放されて、漸く、手に入れた自由。<br> それを与えてくれた真紅に、鈴鹿御前は一言一言、噛み締めるように話しかけた。<br> <br>  「わたしは今まで、鬼となる為に、お前を切り捨てたのだと思っていた。<br>   でも、違ったのだな。切り捨てられた病巣は、わたしの方だった。<br>   たった今、その事に気づいたわ」<br>  「別に、どっちでも良いことよ。今となっては……ね」<br>  「……そうね。感謝するわ、真紅。わたしを救ってくれて、ありがとう」<br> <br> 穏やかな、春の日射しを想わせる微笑み。<br> それが、彼女がこの世に遺した、今際の表情だった。<br> 身体から抜け出した鈴鹿御前の魂は、赤い蛍となって八犬士の頭上を旋回して、<br> 周囲を取り囲む穢れの者どもに、語って聞かせた。<br> <br>  「皆の者! わたしは、今より遠い地を目指して、旅に出なくてはならぬ。<br>   その土地は、おそらく過酷で、苦難に満ちていよう。<br>   だが、わたしは行かねばならぬ。自ら撒いた種を、刈り取らねばならぬ」<br> <br> 謁見の間は静寂に包まれ、鈴鹿御前の澄んだ声だけが、朗々と響き渡っていた。<br> <br>  「……こんな事を言えた義理ではないと、承知している。<br>   落ちぶれた身の上で、頼める訳がない事は、理解している。<br>   しかし、言わせて欲しい。そして、聞いて欲しい。<br>   いま一度、こんな……わたしに……付いてきては、くれないだろうか?<br>   わたしを、今までと変わらず、支えてくれないだろうか?」<br> <br> 鈴鹿御前は、それだけ言うと、口を噤んだ。<br> 途端、周囲の穢れの者どもは一斉に立ち上がり、鬨の声と共に、拳を天に突き上げた。<br> 謁見の間は、どよめきに支配されて、空気が震えている。<br> 穢れの者どもは、いつの間にか骸骨ではなく、普通の人間の姿に変わっていた。<br> だが、その姿も直ぐに、赤い蛍へと変化してゆく。<br>  <br>  <br>  <br> その光景を、八人の乙女たちから少し離れた場所から見守る、二人の男が居た。<br> 桜田ジュンと、彼に肩を貸しているベジータである。<br> 彼らは、鈴鹿御前と真紅の一騎打ちから、一部始終を見続けていた。<br> <br>  「まったく……凄ぇもんだぜ、あいつら」<br>  「ああ、そうだな。彼女たちは強いよ。僕たちなんかより、ずっと」<br>  「言えてる。俺なんか、ただの一撃で気絶させられたのに、<br>   あいつらは勝っちまうんだからな」<br> <br> 「そうだったな」と、ジュンは笑った。<br> 翼を広げて飛び込んできた鈴鹿御前に、頬を蹴り飛ばされたベジータは、<br> 腫れた頬を撫でながら苦笑した。<br> <br>  「俺は、金糸雀を手助けに来たってのに、ざまぁねえぜ」<br>  「卑下するなよ。お前は立派に、彼女の支えになってたさ」<br>  「……だったら良いんだが」<br> <br> 眉を顰め、言葉尻を濁すベジータに、ジュンは陽気に話しかけた。<br> <br>  「お前、彼女に扱き使われてないか? 雑用を任されたりとかさ」<br>  「おう。それなら、殆ど毎日……」<br>  「それが、頼られてる証拠さ。深く考える必要なんて無いんだ。<br>   彼女たちは強いけど、純粋すぎて脆いところも有る。<br>   僕たちは側にいて上げて、彼女たちが挫けてしまいそうな時に、<br>   黙って支えてあげれば良いんだ。<br>   その程度なんだよ、僕たちの役割なんて」<br> <br> ジュンが、そんな独り言を口にした、丁度その時、穢れの者どもが変じた蛍の群が、<br> 鈴鹿御前の蛍を先頭にして、飛び去るところだった。<br> その様子は、見る者に、まるで夏の夜空を飾る天の川を彷彿させた。<br> <br>  「……綺麗だな」<br>  「ああ。これが、命の輝きってヤツなのか。<br>   人間ってのは、こんなにも光り輝けるものなんだな。初めて知ったぜ」<br>  「僕たちも、命を輝かせながら、良い人生を送るように心がけなきゃな。<br>   それが、生き残った者の努めだよ」<br> <br> ベジータは、ジュンの言葉を聞いて、違いねえ、と頷いた。<br>  <br>  <br>  <br>  <br> ――やっと、終わった。<br> <br> 鈴鹿御前と、穢れの者どもを見送った八犬士の表情にも、漸く、安堵の色が現れた。<br> 辛いこと、悲しいこと……本当に、色々なことが有ったけれど、<br> 八人の娘たちは互いを信じ、協力しあって艱難辛苦を乗り越えてきた。<br> 諺に『艱難、汝を玉にす』と言うが、彼女たちも今度の一件を乗り越えて、<br> ひと回り大きく成長したようだ。<br> <br>  「みんな……今まで、本当によく頑張ってくれたわ。<br>   貴女たちが居てくれなかったら、きっと私は勝てなかった。<br>   十八年前みたいに、引き分けることすら出来なかった筈よ。<br>   だから、何度でも、お礼を言わせてちょうだい」<br> <br> 言って、真紅は、深々と頭を下げた。<br> みんなは彼女の金髪を見詰めて、ふと、何か足りない事に気付いた。<br> <br>  「あれ? 真紅の頭に生えてた狗耳が、無くなってるです」<br>  「そう言えば、尻尾も消えちゃってるのよー」<br>  「えっ? ウソ……」<br> <br> ひょいと顔を上げて、真紅が右手を自分の頭、左手を腰に遣ったところ、<br> 確かに、狗神の徴は消え去っていた。<br> 更に、金糸雀が、素っ頓狂な声を上げて真紅の瞳を指差した。<br> <br>  「眼の色も、元通りに戻ってるかしら!」<br>  「ええっ?! と、言う事は――」<br>  「……まさか」<br> <br> 薔薇水晶と、雪華綺晶が顔を見合わせて、互いの瞳を凝視する。<br> しかし、そこに嘗ての赤目は、存在していなかった。<br> <br>  「これって……私たちが、狗神筋の人間ではなくなったという事なのでしょうか?」<br>  「なんか、ウソみたい。ウソじゃない……よね?」<br> <br> あんなにも苦しめられてきた因縁が、こうも呆気なく消え去ってしまうなんて、<br> 信じられないことだった。<br> けれど、目の前の現実は、紛れもない事実。<br> 薔薇水晶と雪華綺晶の姉妹は、その意味をしっかりと噛み締めて、感涙に咽び泣いた。<br> <br> 二人に優しい眼差しを送っていた蒼星石は、零れそうになる涙を指で拭おうとして、<br> 左手を目元に添えた。手の甲も、自然と視界に入る。<br> そこで、ある事に気づき、驚きの声を上げた。<br> <br>  「?! みんな、見てっ! 痣が消えてるよ」<br>  「なに言ってるです、蒼星石。そんなコトが……って、ホントに消えてるですぅ!」<br>  「これも、真紅の仕業なのぉ?」<br>  「い、いいえ。私じゃないわよ。こんな事って――」<br> <br> 真紅自身、自分の左手を茫然と眺めている。彼女の意図でない事は、確かだった。<br> 御魂と共に、八つに分かたれていた房姫の思念が、ひとつに纏まって、<br> 鈴鹿御前を成仏させる念願を果たした。<br> この奇跡は、彼女から八人の娘たちへ向けた、祝福だったのかも知れない。<br> <br> 誰もが左手の甲を撫でたり、矯めつ眇めつしている時に、<br> 水銀燈は、蒼星石と金糸雀の肩を優しく叩いて、声を掛けた。<br> <br>  「貴女たちには、まだ為すべき事が残っているみたいねぇ」<br>  「え?」<br>  「カナたちが?」<br> <br> いきなり言われて、何のことかと頚を傾げる二人に、水銀燈は「ほぉらね」と、<br> 少し離れた場所を指し示した。<br> そこには、二人の青年が立っている。どちらも満身創痍だが、血色は良い。<br> <br>  「ジュンっ!」<br>  「ベジータ! あなた、無事だったかしらっ!」<br> <br> 水銀燈が、二人の背中を軽く押すと、彼女たちは一斉に走り出した。<br> <br> 蒼星石は、ジュンの元へと全力疾走すると、殆ど体当たりの勢いで抱き付いた。<br> ジュンも蹌踉けたものの両脚を踏ん張り、蒼星石をしっかりと抱き留め、頬を寄せた。<br> 彼女の緋翠の瞳から、忽ち、歓喜の雫が溢れてくる。<br> それは尽きることなく流れ続けて、擦り寄せられた二人の頬を濡らした。<br> <br>  「ジュンっ! ジュンっ! 本当に……本当に、キミなんだね」<br>  「ああ。僕だよ、蒼星石。ゴメンな、辛い想いばかりさせて」<br>  「……いいんだ。そんな事なんか、もう、どうでも良いの。<br>   キミが、キミで居てくれるなら、ボクはそれ以上、何も望まないよ」<br> <br> 嗚咽する蒼星石の背中を、ジュンは力強く抱き締め、彼女の耳元に囁いた。<br> <br>  「そんなに無欲じゃあ、幸せを逃がしちゃうよ。<br>   せめて、ひとつくらいは、望みを持たないとね。君は、なにを願うんだい?」<br>  「え、と……ボクは――」<br>  「僕の望みはね、蒼星石。君が、いつまでも僕の側に居てくれることなんだよ。<br>   この想いを伝えたくて、僕は君を追い掛けてきたんだ」<br>  「…………」<br>  「やっと、蒼星石を捕まえたんだ。もう、絶対に逃がさないぞ。<br>   君を、どこにも行かせないからな」<br>  「……じゃあ、もう放さないでよ。ボクの手を、しっかりと握っていて。<br>   ボクを、しっかりと抱き締めていて。<br>   もう……離ればなれになるのは、イヤだから」<br> <br> 涙声で、消え入りそうに話す蒼星石の頬と耳が、熱を帯びている。<br> 寸分の隙間無く触れ合っていたから、ジュンには、よく分かった。<br> <br>  「言っただろ。絶対に、逃がさない……って」<br> <br> そう囁くなり、ジュンは蒼星石の返事を待たずに、彼女の唇を奪った。<br>  <br>  <br>  <br> 二人が熱烈な口付けを交わす隣で、金糸雀とベジータは、居心地悪そうに肩を竦めた。<br> しかし、折角ここまで来て、ただ向き合っている訳にもいかない。<br> 金糸雀は、自分の頚に掛けられていた純銀の十字架を外して、ベジータの頚に掛けた。<br> <br>  「ありがとう、ベジータ。約束どおり、これを返しに来たかしら」<br> <br> はにかんで、金糸雀は顔を斜に向けた。<br> <br>  「それと、その…………来てくれて、とっても嬉しかったかしら」<br>  「……それだけかよ?」<br>  「はい?」<br> <br> 予想だにしなかった返事に、金糸雀は意味が理解できず、ベジータの顔を見詰めた。<br> ベジータは照れ臭そうにジュンと蒼星石を横目に見ながら、自分の唇を指差して見せた。<br> <br>  「その……俺たちも、どうよ?」<br>  「ばっ! バカぁっ!!!」<br> <br> 顔を真っ赤にした金糸雀は、やおら袖から拳銃を引き抜くと、銃口を彼に向けて、<br> 躊躇なく撃鉄を落とした。<br> 謁見の間に、カチリ……と、乾いた金属音が木霊する。<br> <br>  「あ~ら、残念……弾切れだったかしら。命拾いしたわね、ベジータ」<br>  「勘弁してくれ。一瞬、地獄を見たぜ」<br> <br> 心底、肝を冷やしたらしく、額に滲み出した冷や汗を手の甲で拭うベジータ。<br> らしくなく青ざめた彼を見て、誰もが声をあげて笑った。<br>  <br>  <br>  =終章につづく=<br>  <br>  <!-- yyyy google --></p> </div>
<div class="main_body"> <p> <br>   ~第四十七章~<br>  <br>  <br> 真紅の繰り出した突きと、鈴鹿御前の突き出した皇剣『霊蝕』が交差して、<br> 切っ先は互いの身体へと吸い込まれていった。<br> 鈴鹿御前の剣は、法理衣に遮られて、真紅には届かない。<br> 対して、鈴鹿御前には、もう身を護る障壁がなかった。<br> <br> ――これで終わった。<br> <br> 敵も味方も、誰もが、そう思っていた。<br> その予測が覆ることなど、有り得ないとすら考えていた。<br> <br> しかし、その直後、鈴鹿御前は予想もしていなかった行為に出る。<br> 突如として、右手の皇剣『霊蝕』を手放したのだ。<br> これには、真紅も意表をつかれて絶句した。<br> <br> すんでの所で身を捩り、神剣を躱した鈴鹿御前は、伸びきった真紅の右腕を掴んで、<br> しっかりと右脇に挟み込んだ。<br> 法理衣の防御効果で、鈴鹿御前の手や腕から、白煙が立ち上り始める。<br> だが、真紅の右腕を放したりはしなかった。<br> <br>  「かかったな、真紅っ!」<br> <br> 嬉々として叫び、左手の龍剣『緋后』を逆手に握り直して、真紅に突き立てようとした。<br> 龍剣『緋后』は、精霊の能力を無効化する、特殊な剣だ。<br> 進化した法理衣の防御障壁でも、容易く貫通されるかも知れない。<br> 右腕を捉えられた状態で、この至近距離とあっては、回避など不可能。<br> <br>  「!? しまった! これを狙っていたのね!」<br> <br> まさに、肉を斬らせて骨を絶つ覚悟。<br> けれども、他の娘たちは真紅の援護をせずに、息を呑んで成り行きを見詰めていた。<br> 何故ならば、元々は一心同体だった二人の勝負に水を注すことなど、<br> 誰にも出来なかったのだから。<br> <br>  「消えろぉぉっ! 真紅ぅっ!」<br>  「っ! 貴女なんかに――」<br> <br> 鈴鹿御前の左腕が振り下ろされる直前、真紅は両脚を踏ん張って、<br> 右肩で鈴鹿御前の身体を押した。<br> <br>  「負けないのだわ! 絶対にっ!」<br>  「な、にぃっ」<br> <br> 真紅の気迫が、鈴鹿御前の体躯を押し戻した。<br> そのまま更に押し込むと、鈴鹿御前は脚を縺れさせて、仰向けに倒れそうになった。<br> ここで倒れたら、敗北は必至。<br> 体勢を整えるべく、彼女は捉えていた真紅の右腕を放して、数歩、後ずさった。<br> <br>  「はあぁぁ――っ!」<br>  「うおおぉぉ――っ!」<br> <br> 間髪入れずに、真紅は下段から斬り上げる。<br> 殆ど同時に、鈴鹿御前が大上段から斬り下ろす。<br> どちらの剣撃も、ほぼ等速。<br> 真紅の一撃が、先に鈴鹿御前の息の根を止めるか。<br> それとも、鈴鹿御前の斬撃が、法理衣の防護壁を裂いて、真紅の頸動脈を絶つか。<br> <br> 二人の攻撃に、一切の躊躇いは無かった。<br> 最早、彼女たちの目には、大義も、理想も、世界も、仲間たちも映っていない。<br> <br> ――目の前に立つ、鏡写しの自分を斃す!<br> <br> 極論すれば、目的を果たせるなら、たとえ相討ちでも構わなかった。<br> <br> <br> ぶつかり合う、意地と意地。<br> 相反する水の流れが渦を描くように、二人の気迫もとぐろを巻いて逆巻き、<br> 謁見の間に居る全ての者達――生者、死者の分け隔てなく――を、威圧していた。<br> 誰もが固唾を呑み込み、凝視する中で、空を斬り、肉を斬る音が鳴り響いた。<br> <br>  「あ……っ!?」<br>  「ぬぅ……っ?!」<br> <br> 真紅の右肩がスッパリと裂けて、緋色の飛沫が舞い上がった。<br> そして――<br> <br>  「っぐぅあぁぁぁぁぁ――――っ!!!!」<br> <br> 鈴鹿御前は左腕の肘から先を裁断されて、筆舌に尽くしがたい激痛に苛まれ、絶叫した。<br> 勝敗を分けたのは、利き腕か、そうでなかったかの違いだけ。<br> 左腕で斬り付けた分だけ、鈴鹿御前は真紅に遅れを取ったのだった。<br> <br> 切断面から墨汁を想像させる黒い血を迸らせながら、鈴鹿御前は歯軋りしていた。<br> 真紅に斬り負けた屈辱からか、それとも、激痛に耐えるために、<br> 歯を食いしばっているのだろうか?<br> どちらにせよ、彼女が真紅に目を向けた時にはもう、<br> 突き出された神剣の切っ先が鈴鹿御前の鳩尾を裂き、背中へと突き抜けていた。<br> <br>  「っか……っはぁ……」<br> <br> だらしなく開かれた唇から漏れ出るのは、消え入りそうな吐息と、黒い血液だけ。<br> 双眸を見開き、真紅を睨むが、鈴鹿御前の瞳は、徐々に光を失いつつあった。<br> <br>  「お……のれ。真…………紅ぅ」<br>  「……貴女の負けよ、鈴鹿御前。鬼と言えども……その傷では、長くないわ」<br>  「言われずとも……そのくらい」<br> <br> 神器で斬られては、自力での再生が出来ない。<br> また長い年月、生娘の鮮血に身を浸し、眠りながら力を蓄える必要があった。<br> <br>  「だが、わたしは……怨念の化身。この程度で、滅びたりなど――」<br>  「いいえ。貴女は、ここで滅びるのよ」<br> <br> 真紅は静かに、しかし、はっきりと告げると、神剣を引き抜いた。<br> 唯一の支えを失い、鈴鹿御前は蹌踉めき、膝から崩れ落ちる。<br> そして、遂には仰向けとなった。<br> <br> 鈴鹿御前が斃されたと知るや、穢れの者たちは一体、また一体と、得物を捨てて、<br> その場に座り込んでいく。まるで、敗北を悟り、自害する覚悟であるかの様だ。<br> ほんの僅かな場所から始まった動きは、たちどころに全軍へと伝播していく。<br> 無数に犇めいていた穢れの者どもは、全員が武器を打ち捨て、胡座をかいて項垂れていた。<br> <br>  「もう、誰も貴女を助けようとはしないわね」<br>  「……ふふん。それが、どうした。わたしを憐れむと言うのか?<br>   愚かしいな。穢れの者どもなど、己の欲望にのみ忠実な亡者なのだぞ。<br>   奴等は盲目的に、力ある者に付き従い、忠誠を誓うに値せぬと見なせば、<br>   忽ち離反してゆく。大方、新たなる主君に、お前を選んだのだろうよ」<br> <br> 鈴鹿御前が言葉を発する度に、鳩尾から黒い血が溢れ出した。<br> <br>  「貴女は何故、そんな酷い事を言うの?<br>   四天王も、巴や、めぐも、その他の武将たちも、一兵卒に至るまで、<br>   貴女の命に従い、貴女のために闘ってきたのよ。<br>   それなのに、貴女は忠臣たちを蔑むばかりで、一言だって労おうとしない。<br>   ――どうして?」<br>  「……言ったであろう。状況に応じて、いとも容易く主君を変える連中だ、と。<br>   そんな使い捨ての駒なんかを、わたしが信用すると思うか?」<br> <br> 言って、せせら笑う鈴鹿御前を、真紅は真っすぐに見詰めて、徐に口を開いた。<br> <br>  「信じていなかったら、そもそも手駒に加えようとは、しないでしょう?<br>   それに、ここに居る穢れの者どもが、貴女の言うような連中だったなら、<br>   十八年前に離反されている筈よ。でも――」<br> <br> 真紅は、ぐるりと全周囲を見回した。<br> 穢れの者たちは、真紅たち八犬士と、鈴鹿御前を中心にして車座になっている。<br> 彼女の言うように、新たな主君に対して平伏しているのであれば、<br> 胡座ではなく、正座して平身低頭するのが当然の礼儀である。<br> <br>  「彼らは、貴女が封印されてから、今に至るまで忠誠を誓い続けてきたのよ。<br>   貴女だって、本当は解っているんじゃないの?」   <br>  「……それは、お前の憶測に過ぎん。わたしは……信じていないわ」<br> <br> 鈴鹿御前の言い種は、ただの強がりとして、真紅の耳に届いた。<br> 本当は、信じたいのだろう。<br> けれども、裏切られる恐怖と失望を知ってしまった彼女は、我知らず心を歪ませ、<br> 誰かを信頼する事を拒絶するようになっていた。<br> その歪みが、四天王や、御魂を分けた二人の娘をも生贄としか見なさない狂気となり、<br> 結果的に自身の滅びを早めたのだ。<br> <br>  「解ったわ。だったら、そう言うことにしておきましょう。<br>   但し、これから貴女の命が尽きるまでの間は、私を信じなさい」<br> <br> 突然の発言に、鈴鹿御前は唖然として、次に、嘲笑を浮かべた。<br> <br>  「なかなか面白い戯言だな。何故、わたしに、お前ごときを信じろと?」<br>  「私と貴女は、鏡写しの存在だからよ。それは、どう抗っても逃げきれない事実。<br>   目を逸らしても、鏡を叩き割っても、現実は現実として進んで行くわ。<br>   だから、鏡に写った自分が、どんなに嫌な姿であっても……直視して、<br>   信じて、受け入れなければならないのよ」<br>  「…………なるほど。最後に、お前を信じてみるのも一興かも知れぬな」<br> <br> 鈴鹿御前は、少しだけ楽しげに微笑んで見せた。<br> 真紅と瓜二つの笑顔は、とても魅力的で、何処にでも居そうな普通の娘に見えた。<br> <br>  「それで……この後は、どうするつもり?」<br>  「鬼畜生に身を窶し、数多の穢れの元凶となった貴女を、祓うわ。<br>   そして、貴女を成仏させる。私の……いいえ、私たちの能力でね」<br>  「ほぉう? そんな事が、可能だと思うのか?<br>   わたしを成仏させるだなんて、質の悪い冗談にしか聞こえぬぞ」<br>  「言った筈よ。最後の時まで、私を信じなさい……って」<br> <br> 真紅が軽く睨むと、鈴鹿御前は「そうであったな」と、瞼を閉じた。<br> <br>  「それじゃあ、始めるわよ! 水銀燈、金糸雀、翠星石、蒼星石、雛苺、<br>   薔薇水晶、雪華綺晶。私に、力を貸してちょうだい」<br>  「最初っから、そのつもりよぉ」<br>  「カナたちは一蓮托生かしら」<br>  「どんな事だろうと、私たちは真紅に協力するですぅ~」<br>  「ボクたちは、御魂の絆で結ばれた、姉妹なんだからね」<br>  「みんなで力を合わせれば、きっと大丈夫なのっ!」<br>  「……信じる力が、無限の可能性を生み出すから」<br>  「私たちに、出来ないことなど有りませんわ」<br> <br> 「ありがとう、貴女たち」と呟いて、真紅は左腕を前に突き出し、右手で印を結んだ。<br> 他の七人も、鈴鹿御前を中心にして輪となり、真紅に倣って、左腕を伸ばす。<br> 程なく、全員の手の甲にある真円の痣に『仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌』の文字が、<br> 浮かび上がってきた。<br> <br> しかし、それは次の瞬間『如・是・畜・生・発・菩・提・心』へと変化を遂げた。<br> この急変には、誰もが目を見開いた。<br> <br>  「なっ?! なんなのぉ、これぇ?」<br>  「鬼畜生となった鈴鹿御前に、菩提心を芽生えさせる意味かしらっ!」<br>  「それで、穢れの元凶を静めるんだね」<br> <br> 真紅は頷き、聞き慣れない祝詞を唱えながら、印を切った。<br> 八人の痣から眩い光球が飛び出し、くるくると回りながら、糸を紡ぐように纏まっていく。<br> そして、ひとつになった真っ白な光球は、鈴鹿御前の身体に飛び込んだ。<br> ビクン! と、一度だけ、鈴鹿御前は身震いした。<br> <br>  「調子は、どう?」<br>  「…………温かいな。それに、不思議と気分が安らいでいる。<br>   今までは、常に心の奥底から、不安や怒りの感情が溢れだしていたのに」<br>  「怨嗟は思慮に、憤怒は慈愛に。貴女の魂はもう、鬼ではないわ。<br>   過去の束縛を絶ち、成仏しなさい」<br> <br> 鈴鹿御前は、真紅の諭す声を聞いて、一切の嘘偽りを含まない笑みを見せた。<br> 過去の因縁から解放されて、漸く、手に入れた自由。<br> それを与えてくれた真紅に、鈴鹿御前は一言一言、噛み締めるように話しかけた。<br> <br>  「わたしは今まで、鬼となる為に、お前を切り捨てたのだと思っていた。<br>   でも、違ったのだな。切り捨てられた病巣は、わたしの方だった。<br>   たった今、その事に気づいたわ」<br>  「別に、どっちでも良いことよ。今となっては……ね」<br>  「……そうね。感謝するわ、真紅。わたしを救ってくれて、ありがとう」<br> <br> 穏やかな、春の日射しを想わせる微笑み。<br> それが、彼女がこの世に遺した、今際の表情だった。<br> 身体から抜け出した鈴鹿御前の魂は、赤い蛍となって八犬士の頭上を旋回して、<br> 周囲を取り囲む穢れの者どもに、語って聞かせた。<br> <br>  「皆の者! わたしは、今より遠い地を目指して、旅に出なくてはならぬ。<br>   その土地は、おそらく過酷で、苦難に満ちていよう。<br>   だが、わたしは行かねばならぬ。自ら撒いた種を、刈り取らねばならぬ」<br> <br> 謁見の間は静寂に包まれ、鈴鹿御前の澄んだ声だけが、朗々と響き渡っていた。<br> <br>  「……こんな事を言えた義理ではないと、承知している。<br>   落ちぶれた身の上で、頼める訳がない事は、理解している。<br>   しかし、言わせて欲しい。そして、聞いて欲しい。<br>   いま一度、こんな……わたしに……付いてきては、くれないだろうか?<br>   わたしを、今までと変わらず、支えてくれないだろうか?」<br> <br> 鈴鹿御前は、それだけ言うと、口を噤んだ。<br> 途端、周囲の穢れの者どもは一斉に立ち上がり、鬨の声と共に、拳を天に突き上げた。<br> 謁見の間は、どよめきに支配されて、空気が震えている。<br> 穢れの者どもは、いつの間にか骸骨ではなく、普通の人間の姿に変わっていた。<br> だが、その姿も直ぐに、赤い蛍へと変化してゆく。<br>  <br>  <br>  <br> その光景を、八人の乙女たちから少し離れた場所から見守る、二人の男が居た。<br> 桜田ジュンと、彼に肩を貸しているベジータである。<br> 彼らは、鈴鹿御前と真紅の一騎打ちから、一部始終を見続けていた。<br> <br>  「まったく……凄ぇもんだぜ、あいつら」<br>  「ああ、そうだな。彼女たちは強いよ。僕たちなんかより、ずっと」<br>  「言えてる。俺なんか、ただの一撃で気絶させられたのに、<br>   あいつらは勝っちまうんだからな」<br> <br> 「そうだったな」と、ジュンは笑った。<br> 翼を広げて飛び込んできた鈴鹿御前に、頬を蹴り飛ばされたベジータは、<br> 腫れた頬を撫でながら苦笑した。<br> <br>  「俺は、金糸雀を手助けに来たってのに、ざまぁねえぜ」<br>  「卑下するなよ。お前は立派に、彼女の支えになってたさ」<br>  「……だったら良いんだが」<br> <br> 眉を顰め、言葉尻を濁すベジータに、ジュンは陽気に話しかけた。<br> <br>  「お前、彼女に扱き使われてないか? 雑用を任されたりとかさ」<br>  「おう。それなら、殆ど毎日……」<br>  「それが、頼られてる証拠さ。深く考える必要なんて無いんだ。<br>   彼女たちは強いけど、純粋すぎて脆いところも有る。<br>   僕たちは側にいて上げて、彼女たちが挫けてしまいそうな時に、<br>   黙って支えてあげれば良いんだ。<br>   その程度なんだよ、僕たちの役割なんて」<br> <br> ジュンが、そんな独り言を口にした、丁度その時、穢れの者どもが変じた蛍の群が、<br> 鈴鹿御前の蛍を先頭にして、飛び去るところだった。<br> その様子は、見る者に、まるで夏の夜空を飾る天の川を彷彿させた。<br> <br>  「……綺麗だな」<br>  「ああ。これが、命の輝きってヤツなのか。<br>   人間ってのは、こんなにも光り輝けるものなんだな。初めて知ったぜ」<br>  「僕たちも、命を輝かせながら、良い人生を送るように心がけなきゃな。<br>   それが、生き残った者の努めだよ」<br> <br> ベジータは、ジュンの言葉を聞いて、違いねえ、と頷いた。<br>  <br>  <br>  <br>  <br> ――やっと、終わった。<br> <br> 鈴鹿御前と、穢れの者どもを見送った八犬士の表情にも、漸く、安堵の色が現れた。<br> 辛いこと、悲しいこと……本当に、色々なことが有ったけれど、<br> 八人の娘たちは互いを信じ、協力しあって艱難辛苦を乗り越えてきた。<br> 諺に『艱難、汝を玉にす』と言うが、彼女たちも今度の一件を乗り越えて、<br> ひと回り大きく成長したようだ。<br> <br>  「みんな……今まで、本当によく頑張ってくれたわ。<br>   貴女たちが居てくれなかったら、きっと私は勝てなかった。<br>   十八年前みたいに、引き分けることすら出来なかった筈よ。<br>   だから、何度でも、お礼を言わせてちょうだい」<br> <br> 言って、真紅は、深々と頭を下げた。<br> みんなは彼女の金髪を見詰めて、ふと、何か足りない事に気付いた。<br> <br>  「あれ? 真紅の頭に生えてた狗耳が、無くなってるです」<br>  「そう言えば、尻尾も消えちゃってるのよー」<br>  「えっ? ウソ……」<br> <br> ひょいと顔を上げて、真紅が右手を自分の頭、左手を腰に遣ったところ、<br> 確かに、狗神の徴は消え去っていた。<br> 更に、金糸雀が、素っ頓狂な声を上げて真紅の瞳を指差した。<br> <br>  「眼の色も、元通りに戻ってるかしら!」<br>  「ええっ?! と、言う事は――」<br>  「……まさか」<br> <br> 薔薇水晶と、雪華綺晶が顔を見合わせて、互いの瞳を凝視する。<br> しかし、そこに嘗ての赤目は、存在していなかった。<br> <br>  「これって……私たちが、狗神筋の人間ではなくなったという事なのでしょうか?」<br>  「なんか、ウソみたい。ウソじゃない……よね?」<br> <br> あんなにも苦しめられてきた因縁が、こうも呆気なく消え去ってしまうなんて、<br> 信じられないことだった。<br> けれど、目の前の現実は、紛れもない事実。<br> 薔薇水晶と雪華綺晶の姉妹は、その意味をしっかりと噛み締めて、感涙に咽び泣いた。<br> <br> 二人に優しい眼差しを送っていた蒼星石は、零れそうになる涙を指で拭おうとして、<br> 左手を目元に添えた。手の甲も、自然と視界に入る。<br> そこで、ある事に気づき、驚きの声を上げた。<br> <br>  「?! みんな、見てっ! 痣が消えてるよ」<br>  「なに言ってるです、蒼星石。そんなコトが……って、ホントに消えてるですぅ!」<br>  「これも、真紅の仕業なのぉ?」<br>  「い、いいえ。私じゃないわよ。こんな事って――」<br> <br> 真紅自身、自分の左手を茫然と眺めている。彼女の意図でない事は、確かだった。<br> 御魂と共に、八つに分かたれていた房姫の思念が、ひとつに纏まって、<br> 鈴鹿御前を成仏させる念願を果たした。<br> この奇跡は、彼女から八人の娘たちへ向けた、祝福だったのかも知れない。<br> <br> 誰もが左手の甲を撫でたり、矯めつ眇めつしている時に、<br> 水銀燈は、蒼星石と金糸雀の肩を優しく叩いて、声を掛けた。<br> <br>  「貴女たちには、まだ為すべき事が残っているみたいねぇ」<br>  「え?」<br>  「カナたちが?」<br> <br> いきなり言われて、何のことかと頚を傾げる二人に、水銀燈は「ほぉらね」と、<br> 少し離れた場所を指し示した。<br> そこには、二人の青年が立っている。どちらも満身創痍だが、血色は良い。<br> <br>  「ジュンっ!」<br>  「ベジータ! あなた、無事だったかしらっ!」<br> <br> 水銀燈が、二人の背中を軽く押すと、彼女たちは一斉に走り出した。<br> <br> 蒼星石は、ジュンの元へと全力疾走すると、殆ど体当たりの勢いで抱き付いた。<br> ジュンも蹌踉けたものの両脚を踏ん張り、蒼星石をしっかりと抱き留め、頬を寄せた。<br> 彼女の緋翠の瞳から、忽ち、歓喜の雫が溢れてくる。<br> それは尽きることなく流れ続けて、擦り寄せられた二人の頬を濡らした。<br> <br>  「ジュンっ! ジュンっ! 本当に……本当に、キミなんだね」<br>  「ああ。僕だよ、蒼星石。ゴメンな、辛い想いばかりさせて」<br>  「……いいんだ。そんな事なんか、もう、どうでも良いの。<br>   キミが、キミで居てくれるなら、ボクはそれ以上、何も望まないよ」<br> <br> 嗚咽する蒼星石の背中を、ジュンは力強く抱き締め、彼女の耳元に囁いた。<br> <br>  「そんなに無欲じゃあ、幸せを逃がしちゃうよ。<br>   せめて、ひとつくらいは、望みを持たないとね。君は、なにを願うんだい?」<br>  「え、と……ボクは――」<br>  「僕の望みはね、蒼星石。君が、いつまでも僕の側に居てくれることなんだよ。<br>   この想いを伝えたくて、僕は君を追い掛けてきたんだ」<br>  「…………」<br>  「やっと、蒼星石を捕まえたんだ。もう、絶対に逃がさないぞ。<br>   君を、どこにも行かせないからな」<br>  「……じゃあ、もう放さないでよ。ボクの手を、しっかりと握っていて。<br>   ボクを、しっかりと抱き締めていて。<br>   もう……離ればなれになるのは、イヤだから」<br> <br> 涙声で、消え入りそうに話す蒼星石の頬と耳が、熱を帯びている。<br> 寸分の隙間無く触れ合っていたから、ジュンには、よく分かった。<br> <br>  「言っただろ。絶対に、逃がさない……って」<br> <br> そう囁くなり、ジュンは蒼星石の返事を待たずに、彼女の唇を奪った。<br>  <br>  <br>  <br> 二人が熱烈な口付けを交わす隣で、金糸雀とベジータは、居心地悪そうに肩を竦めた。<br> しかし、折角ここまで来て、ただ向き合っている訳にもいかない。<br> 金糸雀は、自分の頚に掛けられていた純銀の十字架を外して、ベジータの頚に掛けた。<br> <br>  「ありがとう、ベジータ。約束どおり、これを返しに来たかしら」<br> <br> はにかんで、金糸雀は顔を斜に向けた。<br> <br>  「それと、その…………来てくれて、とっても嬉しかったかしら」<br>  「……それだけかよ?」<br>  「はい?」<br> <br> 予想だにしなかった返事に、金糸雀は意味が理解できず、ベジータの顔を見詰めた。<br> ベジータは照れ臭そうにジュンと蒼星石を横目に見ながら、自分の唇を指差して見せた。<br> <br>  「その……俺たちも、どうよ?」<br>  「ばっ! バカぁっ!!!」<br> <br> 顔を真っ赤にした金糸雀は、やおら袖から拳銃を引き抜くと、銃口を彼に向けて、<br> 躊躇なく撃鉄を落とした。<br> 謁見の間に、カチリ……と、乾いた金属音が木霊する。<br> <br>  「あ~ら、残念……弾切れだったかしら。命拾いしたわね、ベジータ」<br>  「勘弁してくれ。一瞬、地獄を見たぜ」<br> <br> 心底、肝を冷やしたらしく、額に滲み出した冷や汗を手の甲で拭うベジータ。<br> らしくなく青ざめた彼を見て、誰もが声をあげて笑った。<br>  <br>  <br>  <a href= "http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/1036.html">=終章につづく=</a><br>  <br>  <!-- yyyy google --></p> </div>

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