(ここだ…)
目の前には『茨』と書かれた表札。
広い洋風のお屋敷が広がっていた。
(……………)
昨日からずっと彼女のことが気になっていた。
普段の彼女から思いも点かないような発言をさせてしまった原因は自分なのだ。
彼女にも彼女なりの理由があったのだから、俺が変に焦って答えを急いでしまったことに、少なからずあった罪悪感が昨日からずっと消えなかった。
いや、消えるどころか大きくなる一方だ。
(ちゃんと会って、もう一度話し合おう…お互い納得のいくように)
ゆっくりとチャイムを押した。
―ガチャ
日「あれ」
主「あ…」
ドアを開けて出てきたのはお目当ての彼女ではなく、その弟の日向だった
少し目を見開き、驚いたとでも言いたげな表情をしている。
日「…○○くん、どうしたの?突然」
主「いや、えっと…」
日「遊びにでも来たの?」
日向がにこりと笑った。
主「そうじゃなくて…」
日「だよね」
突如彼の声が冷たいものに変る。
日「何しに来たの?」
主「ちょっと、暁子ちゃんに…」
日「姉さんに?」
主「…今、いる?」
日「何の用なの?」
主「…日向には、関係ないことだから」
棘のある彼の言葉を、まるで気にしてないとでも言うような声をできるだけ出す。
ここで怯んではいけない気がした。
日「姉さんなら、今はいないよ」
そう言う彼には笑顔が戻っていた。
優しそうな、それでいてまるで仮面を貼り付けたような笑顔。
繊細な、作り物のような笑顔。
主「あ…そっか」
日「ごめんね、せっかく来てくれたのに残念だったね」
主「いや…いつ帰ってくるか分るか?また出直してくるから」
日「さあ」
主「……………」
日「何か伝えることがあるなら伝えるけど?」
主「…いや、いい」
日「そう?それじゃ」
―ガチャ
別れの挨拶を告げると、こちらが答えるよりも前に扉が閉められた。
その扉を見ながら、多分、もう今日は暁子ちゃんにはどうやっても会えないだろうな、と何となく思った。
ついつい羽生治と食堂で喋りこんでしまい、遅くなってしまった。
日が落ちるのが早い冬場、もう辺りは真っ暗だ。
それに比例するように気温もどんどん下がる。
帰ろうとする頃には昼間よりも寒さが厳しく感じられた。
主「あ、いけね…」
外に出てその寒さを自らの身で感じ、マフラーを教室に置き忘れたことを思い出した。
羽「どした?」
主「教室にマフラー忘れた」
羽「ったく、ドジだな。まあ明日でもいいじゃん」
主「やだよ寒い。明日の朝だって冷えるだろうし」
羽「ご愁傷様」
主「俺取りに戻るわ」
羽「俺待ってたほうがいいか?」
主「どっちでも」
羽「んー…じゃ、寒いし先帰るわ」
主「何だよ、友達甲斐のない奴だなー」
羽「どっちでも良いっつったのお前じゃん」
主「しゃーねえな、今日は大目に見てやるよ」
羽「はは、何だよそれ。…うー、寒っ!そんじゃ俺帰るわ」
主「ああ、また明日な」
羽「おう、じゃーな」
寒そうに背中を丸め去っていく羽生治を少しだけ見送る。
(さてと…)
肌を刺すような寒さに震えつつも教室へと向かった。
真っ暗な校舎内、すぐに済むし電機のスイッチの位置を探すのも面倒くさいので、そのまま進む。
コツ、コツ、と自分の足音だけがやけ響く。
人の気配のない校舎内、きっと今この階に居るのは俺くらいだろう。
足早に教室へと向かう。
(……………?)
教室に近づくにつれ、何か音が聞こえてくるような気がした。
気のせいかとも思ったが、近づくにつれ大きくなるそれ。
確かにそれは教室の中から聞こえてくるのだ。
何の音かと聞かれれば、それは、分からない。
ただ、何か柔らかいものを殴るようなくぐもった衝撃音。
そして、喉から搾り出すような嗚咽とも呼吸音ともつかないほどの微かな息遣い。
そんな得体の知れない、聞きなれない音。
一体教室の中では何が起こっているのか。
(………………)
怖いのか不安なのか、それとも好奇心から来る期待なのか。
心臓が大きく鳴る。
教室の扉は閉ざされて入るものの、ほんの数センチ、隙間が開いている。
中を覗くには、十分すぎるほどの隙間。
そこから月明かりの光が細長く伸び、廊下を分断している。
ごくり。
緊張の所為か、いつの間にかカラカラに乾いた喉を、唾を飲み込み潤す。
足音が響かないようにと、ゆっくり、ゆっくり近づく。
(え………?)
その隙間から見えた光景に、思わず言葉を失った。
何も出てこず、ヒュ、と息を呑む。
一瞬、ここが何処だとか、今何をしているとか、何を見ているのとか、わけが、全てが分からなくなった。
その隙間から見えたもの、それは、
乱れた髪、汚れた制服、頭を庇うように抱え、這い蹲い、薄く笑みにも似た表情を浮かべた1人の少女と、
箒を握り、ただただそれを叩きつける、顰めた眉に、噛み締める唇、そして目には涙を浮かべたもう1人の少女。
(なん、で………)
そんな非日常的な光景に、悪い夢でも見ているのだ、と思い込もうとするも、その2人の少女の顔は、はっきりと現実で。
よく見知った顔。
そう、今日も、昨日も、一昨日も、ずっとずっとその前も見た、クラスメイトの茨暁子と灰塚リヨ。
(嘘…だろ…)
リヨさんの細い腕が綺麗な孤を描き振り下ろされるたび、暁子ちゃんの身体が鈍い音を立て小さく跳ねる。
(こ…んな…)
―カツッ
(…!)
思わず、まるで倒れこむように後ずさった瞬間、大きく足音が響いた。
その瞬間、リヨさんの視線がゆっくりとこちらへと向く。
目が、あった。
(ッ!!!!!!!!!!!!)
呆然と、まるで焦点が合っていないかのような瞳。
吸い込まれそうなほど真っ暗なその瞳が無性に怖かった。
頭から、離れない。
ふと我に返ると、校門に寄りかかっていた。
あの瞬間、どうやら俺は一目散に走り出したらしい。
どんな風にここへきたのか、あまり思い出せないが。
まだ、気が動転している。
心臓が鳴り止まない。
情けないことに、足も少し震えている。
(なんなんだよ…!)
わけが、分からない。
何とか身体を落ち着かせようと試みる。
(こんなことって…)
今見たことは、本当に現実だったのだろうか。
そうだったらいいのに、いや、絶対そうだ、きっと、疲れてたんだ、幻覚だ。
何とか思いつく限りの言い訳で自分に言い聞かせようとするも、納得のいく答えはそこにはない。
(くそっ…)
未だ、さっきの光景が目に焼きついて離れなかった。
今日は学校へ行くのがひどく億劫に感じられる。
それが何故なのか、理由は明確だ。
やっぱり、昨日の・・・
確かにこの目で見たことなのに、未だに信じられない。
それどころか、あの出来事は夢で、そして俺自身まだその夢の中から覚めていないような、不思議な、そしてひどく不安定な気分だ。
主「はあ・・・」
思わずため息も出るわけだ。
暁「こら、ため息なんか吐いてたら幸せが逃げちゃうぞ!」
主「ぅわっ!?」
突如声をかけられ振り向けば丁度今俺が考えていた人物の片割れがそこには立っていた。
できれば会いたくなかった・・・というか、顔を合わせづらいと言うか・・・
暁「もー、○○君ったら、人をお化けみたいにー」
主「いや、突然だったからさ・・・悪い悪い!」
そう言って少しオーバーに頬を膨らましてみせる彼女はいつもと何も変わりない。
主「・・・・・・」
その分だけ余計に昨日の出来事が嘘のように感じる。
- そう、何もなかったのなら何もなかったで、それが一番良いんだ。
だけどそう簡単に思い込んでしまる代物でもないんだよな、これが・・・
暁「・・・くん?○○くん?」
主「え?」
暁「どうしたの、黙り込んじゃって・・・私、さっきのことなら怒ってないよ?ちょっとふざけただけだから・・・」
主「あ、そうじゃなくって・・・ちょっと考え事してたからさ」
暁「考え事?それじゃ、さっきのため息もその所為なのかな?」
主「うーん・・・まあ、そんなとこだな」
暁「そっかぁ・・・。あ、もし、私で力になれることがあれば何でも言ってね!」
主「ああ、ありがとう」
まるで俺を励ますように優しい笑顔を見せる。
- とても昨日の出来事のことを聞くことのできる雰囲気じゃあないな。
まあ事が事だけに、聞けそうな雰囲気であっても聞きづらい事この上ない用件だしな。
それに情けない事だが、実際こういうときはどうして良いのか分らないのも事実だ。
とりあえず、しばらくあの二人の様子でも伺ってみる事にしよう。
(廊下あたり)
この一週間、できるだけ気をつけて茨暁子、灰塚リヨの二人を見てきた。
が、まったくもって以前と変わった様子は何一つとしてない。
その事実が、本当にあれは夢だったのではないかと思わせる。
いや、夢なら夢でそれが一番良いのだが。
主「はあ・・・」
ここ数日で一生分のため息を吐ききったのではないかというぐらい吐いたのだが、どうやらそれは底なしらしく、未だにつきることがない。
暁「あーっ!○○君ってばまたため息!そんなんじゃ幸せがー・・・」
主「はは、そしたらもう俺の人生に幸せなんて残ってないかもな・・・」
暁「えぇ!?」
俺の笑えもしないおふざけに、暁子ちゃんは目を丸くする。
暁「一体どうしたの?」
主「いやいや、それだけため息ついちゃったんで」
暁「一生分?」
主「一生分・・・あー、もしそうなら俺お先真っ暗じゃん!」
暁「幸せ逃げちゃった?・・・あ、この場合逃がしちゃった、になるのかな?」
主「そーっすね・・・とほほ」
暁「○○くんは、さ・・・人が一生のうちに与えられる分の幸せの量って決まってると思う?」
主「え?」
暁「ううん、なんでもない!」
そう言って彼女はくるりと後ろを向くと一歩踏み出・・・って!
主「危ないっ!」
暁「ひゃっ!」
ズデン
丁度地面が少し段差になっていたのだ。
そこで彼女は思い切り転けた。
暁「ーったたたぁ・・・」
主「大丈夫か!?」
慌てて駆け寄る。
暁「えへへ・・・ドジっちゃった」
主「危なっかしいなあ・・・ケガは?」
暁「平気だよ!ちょっと足擦りむいちゃったけど・・・」
主「どれ?」
庇うようにして抱えている膝を見てみると、たいしたケガではないものの、じんわりと血が滲んでいる。
こういう地味なケガほど痛そうに感じられるから不思議だ。
主「あー・・・痛そう・・・」
暁「これくらい平気だよ」
主「でも血ぃ出てるし、一応保健室で消毒しとこうぜ」
暁「うーん・・・うん、じゃあちょっと行ってくるね」
やはり痛いのだろう、少し顔を歪めて立ち上がる。
主「俺もついてくよ」
暁「そんな、大丈夫だって!」
主「いいからいいから」
ーーーーーーーーーーーーーーー
(保健室)
ガラッ
暁「失礼します」
主「っしまーす」
ツンとした独特の薬品のにおいが鼻を突く。
室内を見渡してみたが、どうやら先生は不在のようだ。
主「あー・・・先生いないな」
暁「いいよ、適当にやるから」
主「そっか、消毒液とかはー・・・」
暁「あそこの棚だよ。取ってきてもらえるかな?」
主「合点承知」
俺が棚の方へ向かうと、暁子ちゃんは椅子へと座る。
えーっと、これが消毒液で、と・・・
カットバン・・・だと小さすぎるよな・・・
少し悩んで脱脂綿と固定する為のテープも持って行く。
主「これで大丈夫だっけ?」
暁「あはは、そんな大げさなものでもないし、消毒だけで大丈夫だよー」
主「そ?」
暁「うん、でもありがとうね!」
暁子ちゃんは消毒液を受け取ると、器用に自分の傷を手当てしていく。
手当てしやすいように、軽く上へ上げた足。
重力に従ってスカートが少しだけ捲れる。
これはおいしい。
良いアングルだ。
このなんとも見えそうで見えないのが・・・って、あ、見えそう・・・。
欲望のまま、足の付け根のの方へと目線をやる。
主「・・・あれ?」
暁「へ?あ、きゃっ!」
俺の目線に気づいた暁子ちゃんはスカートを押さえ、軽くこちらを睨む。
暁「もう!○○くんのエッチ!!」
主「ご、ごめん・・・!」
謝りながらも、今の俺の関心はそこにはなかった。
丁度今見てしまったものに奪われたままだ。
主「あのさ、暁子ちゃん・・・」
暁「○○くんなんて知らないっ!」
主「や、ごめん、でもそうじゃなくって・・・」
自分の心臓の音がだんだんと大きくなるのが分る。
暁「?」
主「その、太腿のところに大きな痣が・・・」
そう、痣が見えた。
赤黒い大きな痣が。
何処かに思い切りぶつけたのだろうか、あるいは・・・
数日前の光景がフラッシュバックされる。
暁「・・・あ・・・多分、きっと今転んだので・・・」
そう困ったような笑顔で答える。
いいや、違う。
できたばかりの打ち身の痣なら、赤くなるか・・・それとも青くなるかのどちらかだろう。
ここまで赤黒く変色させるには、時間がかかるだろう。
そしてそれまで色を消させないほどの強い衝撃も・・・
主「あ、そっか・・・」
そこまで分っているのに俺の口からは彼女の答えを否定するような言葉は出なかった。
最終更新:2008年07月31日 00:37