守ることと開くこと〜『海と島の思想』(野本三吉著・現代書館)から考える〜


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守ることと開くこと〜『海と島の思想』(野本三吉著・現代書館)から考える〜

(『社会臨床雑誌』16巻2号掲載)


『海と島の思想』

2002年4月、沖縄大学の教員となって、横浜から沖縄県那覇市に居を移した野本三吉さんには、三つの願いがあった。一つは沖縄の島々を歩いてみたいということ、一つは戦後の沖縄のこども史を調べてみたいということ、そしてもう一つは、沖縄のカミンチュの人々のライフストーリーを聞き取りたいということ。その願いのひとつを叶えるべく、野本さんは2002年から2006年までの5年間をかけて琉球弧45島の島々を歩き、その記録を「海と島のある風景—南島民俗紀行」と題して月刊誌に連載した。『海と島の思想 琉球弧45島フィールドノート』(野本三吉著・現代書館刊・2007年)は、その集大成であり、B5版606ページという大部の本である。

中には45の島々を歩いた記録が、「I 人類史の基層文化」「II 戦争の記憶・いのちの記憶」「III 古代信仰と女性原理」「IV 暮らしの思想・祈りの思想」「V 原初的世界との共生」と名付けられた5つの章に納められている。順序は必ずしも島を訪れた順ではなく、章の見出しのもとにテーマに即して並べ直されている。

野本さんと沖縄との関係は深い。かつて野本さんは、大学卒業後に就いた小学校教諭の職を26歳で辞める。二学期が始まったばかりの、学年途中の退職であったという。その理由を野本さんは「ぼく自身にもつかまえることのできない、ぼくの内なる「生命力」のようなものにつき動かされた」(野本1996)と書いている。学校という「体制の維持を目的とした社会的訓練の場」で教える存在として「去勢」されていく自分の内なる生命力」が、「拡大し、深化し、充実したいと強烈に望ん」だゆえだった。国家という体制の中で去勢されつつ生きるのではない、「生きもの」として生き生きと生きてゆくことの出来る場としての“共同体”の原像を求めて放浪の旅に出る。そして1969年—おそらく28歳の時であると思うのだが—沖縄に辿り着く。

この時野本さんは、沖縄ミロク会の神女の人々と20日以上に渡って諸島を廻り歩きながら、彼女らの岩戸開きの儀式に参加している。沖縄での野本さんの三つの願いの一つ、生活史の聞き取りを願うカミンチュの人々とはこの時に出会った神女の人々のことであり、今回の島めぐりの旅にしばしば随行している巫女もまた彼女たちである。

グードルン・ブルクハルトは、人生の21歳から28歳の間を「遍歴時代」、28歳から35歳の間を「死と再生の段階」と呼んでいるが(Burkhard 1992)、まさに遍歴の時代に、野本さんは日本の各地を遍歴し、沖縄を折り返し点として1972年には横浜市民政局に入職、日本三大寄せ場の一つである寿町の中に建つ寿生活館生活相談員として日雇い労働者と共に生きる10年へと出発するのである。

その後野本さんは、1991年、横浜市立大学教員となったのをきっかけに、学生とともに再び沖縄を訪れるようになる。そして2002年、沖縄大学教員として、ついに沖縄での暮らしをはじめることになる。61歳になる年である。ちなみに先のグードルン・ブルクハルトは、42歳以降の人生を人間の「霊的成長期」と呼び、その中でも56歳から63歳の間を「合一的に認識する魂の時代」と呼んでいる。そして、この時代は、人生の最初の7年、世界が肉体の感覚を通して開かれていた時代に対応するとしている。ただし、この「魂の時代」に与えられるのは、肉体の感覚器官に与えられる物理的な光ではなく、霊的な光であり、「霊的本質を内側から認識する、合一的認識」(イントゥイション=直観)の時代なのだとしている。この「合一的に認識する魂の段階」のさなか、野本さんは沖縄での暮らしを始めたのだった。沖縄で暮らし始めたことも、そこでの旅が神を辿る旅になったことも、野本さんにとっては必然だったのであろうと思われてくる。

海と島の旅

この紀行文は5つの章に分けられて納められていると先に書いた。その章の見出しは当然のことながら、この旅のテーマを端的に著している。 「基層」「戦争—いのち」「信仰—いのり」「女性—暮らし」「原初的世界—共生」、これらが野本さんの旅のテーマになっている。

『海と島の思想』を読み進めていくと、幾つかのことに気づくことになる。

まずそのひとつは、この旅が神を巡り、祈りを捧げる旅であるということだ。野本さんは訪れる先々で、その島の御嶽を訪ね、その土地の神に手を合わせる。以前に僕は、別の土地でその土地の氏神を祀る神社の前を通る時は眼をふせそっと通り過ぎるようにと教わったことがあったが、野本さんにとっては沖縄の島々は他所の土地ではなく縁のある土地であるのだろう。あるいは僕がかつて教わったことが間違っているのかもしれない。野本さんは祈るだけではなく、時には神々から力を授かり、あるいは言葉を得、時にはその姿を見る。徳之島の章で野本さんは、郷土研究者松山光秀氏の唱えるコーラル文化圏を紹介しながら、干瀬を共有する文化圏が海の彼方への感謝の祈りを共有する文化圏であり、琉球弧の島々が、それぞれ独立した自給自足可能な共同体でありつつも、同時に信仰を共有する共同体群であることに思いを馳せる。彼らを取り巻く風土は豊かな干瀬、恵みの海、そして海によって作り出される独立性であり、それが内への相互扶助と外への感謝を生み出す。琉球弧は、ニライカナイへの祈りによって連合する共同体でもある。

ちなみにそれでは僕の暮らすヤマト文化圏はどうなのだろう。「徳之島」の章にはヤマト文化圏のことは殆ど触れられていない。現在のヤマト文化圏に生きる僕たちの“宗教”意識は、国家神道と、アジア太平洋戦争への反省に基づくそれへの反発、として形作られているのではないだろうか。神道のみならず仏教や儒教などへの思いも含めて、「科学」「進歩」からの信仰の“否定”と、信仰が政治と結びついた時に起きることへの反省に基づく“忌避”によって、僕たちは信仰を「得体の知れないものを信仰すること」だと思うようになっているし、信仰によって結びつくということも日常として受け入れがたいものになっている。時折マスコミが取り上げる「カルト教団」の話題は、そんな僕らの日常の感覚をより一層補強する。案外にヤマト文化圏は信仰に対する否定と忌避によってまとまっているのかもしれない。

コーラル文化圏の信仰は豊かな自然の恵みへの感謝であり、感謝は人間と自然とを結びつける。言い換えるならば、干瀬という共同的、公共的な圏域を守るためにはそこに信仰という共同的な規範が必要であり、一方のヤマト文化圏の我々はそのような共同的な規範を失い、「われよし、強いもの勝ち」(p.88)の世界に生きている。野本さんがコーラル文化圏に見るのは、「われよし」の世界から脱するあり方のイメージのひとつだ。

気づくことの二つ目は、この島紀行に、しばしば野本さんがお連れ合いの晴美さんと同行しているということだ。読んでいると、折々に晴美さんの人柄によってネットワークが広がり、出会いが広がっているのに気づく。晴美さんが「意気投合し」「話が弾む」ことによって結ばれる縁がしばしば登場する。

野本さん、よく聞いてくださいよ。あなたは、今まで母を探して歩いていたのですよ。 本当の母を、女をね。でも、どこにも見つからなかったはずですよ。だから、あなたは放浪者なのです。いろいろな人にあって、一緒に行動しようともしたでしょう。でも、どれも本物ではなかったですね。父とは〈火〉です。太陽です。行動するエネルギーの源です。あなたは〈父〉にはであいましたね。 だから、あなたは活動的なのです。 けれども、産み育てる母とは出会ってはいないのです。母とは大地です。地面そのもの地球そのものです。あなたの足の下にあるものです。そこに気づかなくてはいけないのです。気がつかずに踏みつけ、ふりむきもしない存在、それが母なのです。母は海です。水なのです。たくさんの微生物や魚を育てる水なのです。沖縄は汐の満引の国、海の国、水の国、だから母の国です。日本は、火山の国、地震の国、日の国、だから父の国です。火は水がなくてはならないのです。それでなくては暴走します。火と水は求めあうのです。反発しつつ求めあうのですよ。 その沖縄を利用するだけ利用して、後は放りっぱなし。野本さん、あなたは、父の国から母を探しに来られたのです。よーくしっかりと母の姿を見ていってください。

これは1969年、日本各地を放浪の果てに宮古島に辿り着いた野本さんに、沖縄ミロク会の比嘉初さんが繰り返し語った言葉として、野本さんの初めての著作『不可視のコミューン』の中で紹介されている言葉である。〈火〉である野本さんは〈水〉である晴美さんとともに、かつて「母」を探して辿り着いた沖縄の島々を歩いている。そこでは、大地に根をはる女性の原理、「あらゆる存在を肯定的に見る世界観」(野本 1996)である女性の原理、包容する原理・繋がる原理が働いて、野本さんの旅を支えている。

そんな野本さんたちは、行く先々でよく食べよく呑んでいる。その土地土地で取れたもの、日常食べられているものを、その土地土地で食べ、呑むことの豊かさが印象に残る。強い日差しの下で疲れた旅人の前に現れる民家、しばしの休息を頼む旅人の前に出される冷たいお茶、そして始まる会話。あるいは、進出してきたスーパーに客を取られ気味の商店の店先に集まって世間話に花を咲かせるオバァたち、天ぷらを食べながらそこに混ざって会話する野本夫妻。

あるいはまた、今回の野本さんの旅は、子どもを訪ねるたびでもある。行く先々の島で小学校を訪ね中学校を訪ねる。学校の教員を訪ね話を聞くこともあるが、休日の学校に出向き校庭を眺めるだけの時もある。多くの島では子どもの数が減り、学校も閉校へと向かっている。ある島では、島外の子どもの受け入れを試みながら、島の将来を模索している。鳩間島では里親制度や「海浜留学」を利用して子どもの減少という事態への対応を試みる。島ぐるみで子どもの受け入れ態勢を整えて子どもを迎える。島の中学校の教室で、授業参観をしていた野本さんは、いつしか子どもと教師の会話に混ざってしまう。野本さんはこの島に「共に生きるという原型が暮らしのすみずみに満ち満ちている」ことを感じ、そこで再生していく子どもたちに思いを馳せている。沖縄大学で学ぶ神谷麻喜乃さんは、かつて大神島の中学校が、子どもがいなくなり廃校になることになった時、そのことを新聞で読み大神島に住むことを決意した神谷里枝子さんの娘だった。島が過去から未来へと繋がっていくためには子どもが必要であり、島に子どもが訪れるためには、島は、島の内だけではなく島の外とも繋がっていかなければならない。島出身者以外の人間が島に住むことへの反対もあったそうだが、中学一年生の麻喜乃さんの入学によって大神中学校は廃校を免れた。

女性、食、子ども、いのちを生み出し、いのちを育み、いのちに育てられる。そのいのちの連鎖が暮らしであり、いのちの連鎖を断つものが戦争であり、いのちの連鎖が繋がっていくためには人と人、人と自然との共生が必要であり、いのちの連鎖が繋がっていることへの感謝は信仰となって人と自然とを支える。僕たち人間の生活の基層にあるいのちの連鎖と信仰という人間の生き方の原型を野本さんは沖縄に見出している。 ただ野本さんは、この人間の生活の原型を、「かつてあった」“原初的世界”と同一視しているのではないかと感じるところもある。あたかもエデンの園信仰のようなその印象への僕の疑問は、この文章の最後に触れさせてもらおうと思う。

「海と島の思想」

「海と島の思想」とは、一体どのような思想であろうか。

今から四十年近くも以前の春、ぼくは強い風に背中を押されるようにして東京晴海埠頭から船にのり沖縄にやってきた。 一九六〇年代の沖縄は、まだ生きものの温もりと戦争の生々しい傷跡が同居して活気あふれた原色の世界であった。 そのコザの街で、また先島の宮古島でぼくはカミンチュの集団と出会った。 六〇年安保の渦の中で学生時代を送り、その余韻の中で生きていたぼくは、そうした暮らしの底流にもう一つの地下水が脈々と生きていることをこの時に実感することになった。 それは、地球の歴史は人間だけのものではなく、土や水、海や山、そして無数の生きもの達、さらには月や星や太陽までも包み込んで存在しているのだという発見であった。(p.1)

沖縄は、ぼくにとって忘れられない島である。二〇代のぼくは、それまで勤めていた小学校の教員生活をやめ、日本列島を放浪して歩いていたのだが、その最後に辿り着いたのが沖縄であった。そこで、ぼくは人類にとってもっとも根源的な生き方の原型をみることになった。自然と人間との共生、生きものと生きものとの共存関係が、実に素直に納得できる暮らしが沖縄には息づいていたのであった。(p.15)

青年時代の野本さんにとって沖縄は、自然と人間の共生、生きものと生きものとの共存関係を実体験として見せてくれた忘れがたい場所なのだ。野本さんにとって、そのような暮らしの在り方は、人間の「根源的な生き方の原型」と捉えられた。そして野本さんにとってその「原型」とは、“過去に存在した”ものであり、“失われてきた”ものとして捉えられている。

あらためて考えてみると、島とは海に囲まれた閉鎖空間ではなく、逆に海という全ての方向に開かれた開放空間であり、さまざまな文化との交流が自由に行えていたのだということが納得できる旅となった。 そして、こうした島には人類史、生命史の最も本質的な原型、母型が豊かに息づいており、島の暮らしには「人類史の基層」に連なるものが眠っていることも感じることが出来たのであった。 その意味では、ようやく「生きものの」地下水と出会えたという実感がある。(p.3)

野本さんは、今回の旅で、沖縄にそのような「原型」が今も息づいているのはそこが島だからであり、島は海に囲まれた閉鎖空間ではなく、海によって繋がり、全方向を海に対して開いた、開かざるを得ない開放空間であるがゆえなのだと捉える視点を見出した。様々な存在に開かれ、交流し合う在り方、それが野本さんの信じる「人類史、生命史の最も本質的な原型、母型」である。

琉球弧はもちろん、日本列島も「島」である。海に囲まれた島には、すべての生きもの、すべての人々と共に生きる「共生の思想」がごく自然に息づいている。 この「共生の思想」こそ、ぼくは「海と島の思想」そのものだと思っている。(p.4)

かつての人類が持っていた共生的な暮らし、「根源的な生き方の原型」が沖縄の、南の島々には息づき続けているという思いは、野本さんが、自らの体験から得、30年以上の間抱き続けてきた思いであり、今回の島めぐりはそれを確かめ、ある意味では理論づけようとする旅であったと言えるだろう。時折触れられる祭りの分布と海洋民族の移動ルートについての話や離島活性化の政策に関する話題は、「根源的な生き方の原型」が何故琉球弧において今もって息づいているのか、それをどのように現代の現実の中で守っていけばいいのかについての実証的な理論への野本さんの期待の現れのようにも読める。

けれども、野本さんの「根源的な生き方の原型」への希求や、それが「過去」への希求であることは、『海と島の思想』以上に、30年前に書かれた小説『太陽の自叙伝』により直裁に描かれている。

[…(引用者、省略)…]古代祭式による部族連合が成立していたことは明らかで、一部族による中央集権化がされておらず、したがって、天皇のような現人神もまだ生まれておらず、相互扶助で連帯しあっていた時代があったということになる。 それが、強力な武力と、呪術の力によって日本各地に生棲していた部族を次々と制圧し君臨した部族があって、これが、日本列島の支配者となったのである。 各地で生き生きとした文化と生活を保ちつづけていた日本各地の地方部族は、この制圧史の中で、その地を追われ、また征服民族に融合させられ、歴史の上からもその存在を抹殺されていったのである。(野本 1976, pp.136-137)

「今の世の中、あまりにも人間中心になりすぎてしもうとる。人間の欲望中心に、世の中がつくり変えられてしもうとる。心のやさしい自然のままの人間いうのは、あちこち追いちらされてしもうたんやな。 卯太平さんは、そうした人たちの末裔とちがうやろうか。部落民いう形で差別された人たちいうのは、実は、日本の原住民やあるまいか。アイヌ人、山窩の人たちもきっとそうや。今、そうして滅ぼされ、追われてしまった人々の魂がよみがえってきているのとちがうやろうか。」(同, p.137)

「わたしは、現代文明の価値観といかに訣別し、自然と人間とがとり結んでいた、自然の循環回路をどうとり戻してゆくか、という問題しか残っていないような気がするのです。 自然の大きな流れの中に人間もくみ入れられ、その流れの中でを手に入れ、自らも死して土になってゆくという循環の中に、もう一度戻ってゆくことしかないと思うのです。万物ことごとく、相互関係の中で互いに生かしあうわけで、その中でこそ、自らも生かされているのだということを納得することだと思うのです。 こういった考え方は、今まで、あたり前でありながら甘い理想主義として排斥されてきましたけれども、この極限的な事態になって、わたしには、こうとしか言いようはないのです。こうした相互扶助の精神の徹底した生き方以外には、人類をも、地球をも救う道はないと思います。(同, p.153)

「ぼくはね、さっきからの話をひっくるめて言うんだけど、摩里ちゃんや、久保君の言ってる神というのは、世界の何大宗教かで言われる絶対神のことだと思うんだ。 […(引用者、省略)…] けどね、そうした、いわば高次宗教が発生してくる以前、各民族のもっていた土着の民族宗教というのは、全ての生物、全ての存在に神性を認めて、それをスピリットとよんでいたわけだな。まあ、精霊といってもいいや。それが、つまり神だったんだ。だから、木や草や水、土そして人間にも、それぞれに精霊が宿っていて、それ自身が神なんだ。[…(引用者、省略)…]」(同, p.155)

「今、ぼくが考えているのは、人間の精霊っていうのは、結局のところ、先祖霊ということじゃないかと思うんだ。 代々、遺伝子をつたわって受けつがれてきた祖先たちのさまざまな体験が、ぼくら一人一人の中には、いろいろな形で記憶され残っていると思うんだ。それが折にふれ、ふっと浮かび上がってくるんだと思う。 だから、ぼくらは一人一人だけど、一人であっても、長い歴史の全て、全生命史を体の中に宿していると思うんだ。」(同, p.156)

「わしは、古代日本の精神風土の中に、何かしら現代の風潮とは異なった本質的なエレメントを探し出そうと、今日まで努力してきた。その中で古神道も見つけたし、日本文化が他の諸民族文化の移入と、その重層によって成り立っていることもつきとめた。 そして、その一番の基底は、南方系の文化だということになってきたんだ。 更に、その南方系文化の原理は何かということになれば、汎神論的共存ということになる。そう考えてゆくと今のわしらが考えているのよりは、ずっと豊かで優れた文化と社会が、古代日本にはあったとしか思えんようになったんじゃ。[…(引用者、省略)…]」(同, p.159)

人は、世紀末の危機的な状況の中で、自ら最も心惹かれる地へ向かってゆく。 それは、自らが生まれた場所であり、同時に死にゆく場所でもある。 自分に最も適した風土の中で、もう一度、最初から生き切ってみたいと人は思うのかもしれない。(同, p.218)

『太陽の自叙伝』は、都会で雑誌の編集に携わる青年九条健と宮古島で生まれ本島で小学校教師をしていた亀川志乃が、それぞれの宿命に導かれ、地球上の新たなアダムとイブ、あるいはイザナギとイザナミとなるまでを描く小説である。上の引用はその本からのものだが、必ずしも実証を必要としない小説であるからこそ、著者の思いが直截に現れているし、その思いが30年の時を越えて『海と島の思想』にそのまま結びついていることも読み取れるのではないだろうか。

2001年9月11日のニューヨーク世界貿易センタービル破壊の事件の直後、野本さんは夫妻で宮古島を訪れている(野本 2007, p.2)。そして2002年には沖縄大学の教員となっている。まさに「世紀末の危機的な状況の中で、自ら最も心惹かれる地へ向かっ」たのであろう。

野本さんの「根源的な生き方の原型」を求める気持ちが、具体的な歴史上の過去へ、古代へと向かっていることもはっきりと見える。『海と島の思想』では、このことは、「時代は今、大きな岐路に立たされている。危機的な状況になればなるほど、人はもっとも奥深い人類史の原点に戻り、そこから生き直すことになる」(p.602)と表現されている。

「ぼくらは一人一人だけど、一人であっても、長い歴史の全て、全生命史を体の中に宿していると思うんだ」というのは主人公九条健の言葉だが、不思議な運命に導かれ、彼は熊野から補陀落渡海の船で海に出る。その場面を『太陽の自叙伝』は次のように描いている。

自らを世界の中心と考え、他を従わせ、反逆する者たちを山中や島に追い込み、協力な呪術によって封じ込めてきた神々による支配[…(引用者、省略)…] 国を追われ、海を渡り、山岳を伝って逃げのびてきた民族移動の流浪史は、山岳民族と海洋民族を長い間、全く異なった文化圏の民族として分断してきた。 しかし、もともとは山岳民族も海洋民族も同じ源流をもつものである。たまたま定着した場所が山中か島や海岸であったという違いが年を経るごとに拡大してきたのである。 だからこそ、人は海を見つめる時、はるばると越えてきた海洋のかなたにあったはずの故郷に思いをはせるのである。 熊野の沖は、海流の交点である。 還流、暖流の交わる地点である。 したがって、この地に多くの民族が流れついたことは間違いない。 健は今、そうした古代海流にのって、故郷を目指しているのである。そうであるにちがいなかった。 そして、健は、この旅によって、両棲類としての人間に戻ろうとしているのであった。(p.220)

「全生命史を体の中に宿し」た健は、ここではついに両棲類へと戻っていく。三木成夫は人間が古代の海水をたたえた母の胎内で魚類から両棲類、爬虫類、そして哺乳類へと向かう三十数億年の歴史を再現する姿を見事に描き出したが(三木 1983)、健は古来より流れ続ける海流の上で進化の歴史を逆に辿っていく。その健が向かうのは宮古島の北、池間島の先に位置する八備瀬であり、野本さんが『海と島の思想』の45番目に据えた「幻の島・八重干瀬」である。そこには、宮古島の巫女となり、雨乞いのためのヒトバシラとして大神島の洞窟へと入った亀川志乃が、大神島の洞窟の奥の水に浸かった細い海底洞窟を抜けて八備瀬の中の筆島に辿り着いていた。志乃は海底洞窟を抜ける間に声を失っていた。

はじめの十数日、志乃はどうにかして、母や慶昌にこのことを知らせたいと思いあせった。しかし、言葉をあやつることのできなくなった志乃にとって、たとえ宮古島へ戻ったとしても、話のできない身体では、どうすることもできなかった。 志乃は、徐々に宮古島へ帰ることをあきらめはじめていた。 そして太陽と共に起き、海中で魚とたわむれ、貝を拾い集め、夜空の星を眺めて暮らす生活が、この上もなく素晴らしいものに思えてきたのであった。 そして、いつの間にか、海中の魚たちともすっかり仲良くなってしまったようであった。志乃が海中に潜ると、魚たちは、待ちかねていたように志乃のまわりに集まり、体をぶつけてきたり、話しかけてきたりした。 志乃は、そうした生活の中で、一つの生きものへと変化していったのである。志乃は、教師であったことも、巫女であったことも、もう忘れていた。 ただ一つの生きもの、一匹の人魚のように自然の中でたゆたいながら生きはじめていたのであった。(p.213)

大神島から筆島へと続く海底洞窟の産道を通って志乃もまた新たな生きものとして生まれ変わっていた。人間であったことを忘れ、陸上と海中とを自由に行き来し、魚たちとも交感するただの一つの生きものとなっていた。この志乃と健が、新しいイザナギとイザナミであり、アダムとイブとなる。八備瀬には八つの島がありその形と位置は、世界の八大州とも日本とも似ていた。「かつて、日本列島の地図をじっと眺めていた時、突然に、日本列島を拡大したものが世界地図に見えてきて驚いたことがある」と『海と島の思想』に野本さんは書いているが(p.27)、『太陽の自叙伝』では世界地図入りで、世界と日本の相似が説明されている。ここで八備瀬は日本の雛形、世界の雛形であり、志乃と健はそれゆえに世界の親となる。

現代文明によって、あるいは人間の歴史によって抑圧されたもの、その自然状態を回復することは、地下に抑圧された「もう一つの文明史」(生命史)を再生させること。 こうした抑圧され、忘れ去られた記憶の層を解放することは、行きづまり、戦争と破壊の頂点にまで来てしまった生きもののエネルギーを未来に向かって解き放つことになるようにぼくには思える。 今回、島々を廻りながら、マルクーゼのいう「エロス的文明」がまだそれぞれの島の中には脈々と息づいているのを感じた。 少なくとも、古代から海は生き続けており、海と向かい合う時、抑圧されていた生きものの鼓動が蘇ってくるし、海に囲まれて生きてきた島の暮らしの中には、生きものの世界が確実に息づいている。生きものが互いに交流し合うユックリとした時の流れの中で、ぼくらのエロスも解放され、いきものの魂が蘇生する。 二〇〇七年四月、ぼくらは那覇からより自然の残っている南風原町津嘉山に転居した。 できうれば暮らしの中にエロスを取り戻し、ひとりの生きものとしていきたい。(野本 2007, p.606)

野本さんは『海と島の思想』の最後にこのように記している。人類再生のためには、人間は一度、「生きもの」であるところまで戻って生き直さなければならない、そのテーマはこの二冊の本の間で一貫している。野本さん自身が、最終章である「幻の島・八重干瀬」で『太陽の自叙伝』を引いているのは、その繋がりを自覚もしているし、読者に気づかせようともしているのであろう。『海と島の思想』にとって『太陽の自叙伝』は原型であり、「海と島の思想」は、単なる共生の思想ではなく、共生のために進化の道をさかのぼり、あるいは古代の社会へと辿り直し、生きものとして生き直すことを指向する思想なのだということが分かってくる。

それにしても、源流へと向かう心性とは一体なんであろうか。

三年ほど前、僕の関わっているある授業で、現在の紙芝居の源流であり、今では滅んでしまった「立絵紙芝居」(これに対して現在の紙芝居は「平絵紙芝居」と呼ばれる)の復活公演を行った学生たちがいた。僕はもう、今の紙芝居の「源流」であり、「現在では滅んでしまった」ものを「復活させた」というだけで感動してしまったのだが、ところが現在、彼女たちの後輩は、その操演の技術を先輩から伝授されつつも、その公演には消極的だ。僕は「源流」とか「復活」とかの単語だけで即すばらしいことと思ってしまうのだが、彼女たちはそうではないらしい。彼女たちにとっては、「立絵」も「平絵」も所詮子どもたちと関わるための道具でしかなく、それが子どもたちにウケるのであれば「立絵」でなく「平絵」であろうとあるいは絵本であろうと、その価値は等価なようである。

自分たちが子どもと関わるための道具という機能性から測る時、「立絵紙芝居」はその操作の難しさや、人形を作る際の手間等から、必ずしも魅力的な道具ではないようだ(そもそも、それが原因で滅んでしまったのだが)。そんな彼女たちの感性に出会う時、僕は改めて、自分の中にある「源流」「伝統」「伝承」といったものに知らず知らずに惹かれてしまい、それを大事と思ってしまう心性に気づかされるのだ。

現在の僕たち人類が直面している危機的状況に対して、僕たちの「源流」あるいは「古層」に存在する心性にこそ救済の道への可能性があるのではないかという野本さんの確信に、僕もまた同意するところがある。けれども同時に、単なる「逆戻り」では何の救済にもならないし、そもそも「逆戻り」は不可能だとも思っている。「再現」は、結局は現在という、様々な過去をくぐり抜けてしまった後の状況においてかつてを演じる「再演」でしかなく、それは決して、それが初めて演じられた時に持っていたリアリティも力も持ち合わせはしない。「立絵紙芝居」は、それがどれだけ忠実に再現されたとしても、それがリアルに街角で演じられていた大正期に持っていたパワーを今現在に獲得することはできないし、それは所詮「文化財」としての価値しか持ち得ない。「立絵紙芝居」が今において力を持つとすれば、それは、映画やテレビやインターネットを日常の中に抱えてしまった時代であるからこそ持ち得る力であり、それはまさに我々が映画やテレビやインターネットを知っているからこそ、「立絵紙芝居」に与えられることになった力なのだ。

ウィルバーは人間の発達という視点から、 “pre/trans fallacy”、「前/超の錯誤」ということを指摘している(Wilber 1983)。彼は意識のレベルを問題にしているのだが、例えば、悟りを得た聖人の意識の状態が幼い子どものようであったとしても、それは決して幼い子どもの意識の状態と同じではない、ひとりの成人として自我が確立したpersonalな状態を折り返し点として、そこに達するまでのpre-personalな意識の状態とそこからより高次の成長をみたtrans-personalな意識の状態とを同じと考えることは錯誤であるという指摘である。

かつて中央集権化される以前に相互扶助的で連帯的な部族連合が成立していた時代があったとしても、中央集権を知ってしまった人間は、それを知らなかった頃のような相互扶助的で連帯的な部族連合を再び生み出すことはできない。中央集権を超えた、新たな相互扶助的で連帯的な人類の連合を生み出していくしかない。それは中央集権という誘惑に耐え、それを退けることのできる相互扶助的で連帯的な人類の連合であり、中央集権に破壊され取り込まれてしまったかつての相互扶助的で連帯的な人類の連合ではない。「失敗に学ぶこと」と「失敗する前に戻ること」は異なることだ。

野本さんは、宮古島について書いた章で、神田孝一さんという神道の研究者の書いた文章を引いている。この人がきっかけで野本さんは沖縄ミロク会の人々と知り合うことになるのだが、1970年に書かれた文章を引きながら野本さんは神田さんが自分に託した願いについて書いている。

神田さんは、『月刊共同体』に書かれた文章のラストを、原始信仰に対する再評価の時期にきているとして締め括っている。 つまり、現在、原始信仰については次のような二つの見方があるとまず指摘する。 「一つは、これらの原始信仰は、沖縄の地が近代文明から取り残された結果、辛うじて残されたものであるから、今後の近代化によって当然滅び去る運命にある—というもので、これが圧倒的である。殆ど定説化しているといってもよい。 もう一つは、これとは反対に、沖縄の原始信仰は人類社会の新しい秩序確立に重大なヒントを与え、方向を示唆する火種ではなかろうか、という立場である」 その上で、近代主義の典型であるアメリカやヨーロッパの合理主義が行きづまりをみせ、東洋の文化、その非合理と素朴さの中に、近代を超える新たな文明の型があるのではないかと感じ始めている。 沖縄は、近代文明の弊害を比較的軽微で免れることができた貴重な島である。 しかし、この沖縄でも都市部である那覇市を中心に公害が発生し、離島開発の名のもとに自然破壊も進行している。 神田さんは、すでに三十数年前に、こうした形で沖縄が近代化すること、日本化することに批判的であった。(p.505)

神田さんは、海洋や河川の水を、人間にたとえて、地球の血液と考え、これをけがしてはならないとする沖縄ミロク会の人々(神女)の考え方[…(引用者、省略)…]を受けとめ、こうした発想を基本にした社会をつくること、その可能性を真剣に考えていたと思われる。(p.506)

[…(引用者、省略)…]この文章の最後に神田さんはこう書きつけてくれている。 「いわゆる〈近代〉から脱却して〈超近代〉にいきる琉球は、経済的にも自立し得る条件を秘めている。ここまで書いてきたとき、新鋭野本三吉君が、いまついた。私はすべてを彼に托し、一行と惜別して予定どおりかえろう。大きな大きな、宿題を抱えて……[この部分の三点リーダーは原文、引用者注]」(p.508)

野本さんは30年前に托された思いを引き受け続けている。沖縄にはまだ、神田さんが希望を托した考え方が残っていた。けれどもそれは、あくまでも人間が進むべき方向を考えるためのヒントでしかない。沖縄そのものは理想郷ではない。

例えば、ある島では子どもが増えない要因のひとつに、島民が土地を売らないことがあることを野本さんは紹介している。「島の風土や生活は魅力的なのだが、島の人々が頑なに守っているものがあるような気がする」(p.225)とだけ書いているが、その頑さが島に保ち続けたものもあるはずだが、その排他性は野本さんが海と島の思想に見出そうとしている開放性や共生とは相反するものではないだろうか。あるいはまた、別の島では、島外からやってきて、その島でもう23年間も喫茶店を経営している店主と出会っているが、彼は「この島で永住なさるのですね」と尋ねた野本さんに「いやあ、これだけ暮らしていても島の一員にはなれませんね」と答えている(p.422)。もとからの島民しか村の祭りに参加できない島もある。この排他性が、島の伝統や考え方を守ってきた一要因であろうし、島内・村内の相互扶助的な関係を維持してきたのであろう。しかしそれは、明らかに開放的で共生的な海と島の思想の目指すところとは相容れない。

僕たちが目指したいと思うのは、相互扶助的なコミュニティ、自らもまた自然の一部であるという意識に基づく自然と人間の共生的な社会であり、なおかつそこに排他性、排除のない社会であろう。

島という地理的条件が、相互扶助的なコミュニティや自然と一体と考える意識を守り続けてきた。けれども交通機関、情報機関の発達した現代においては、徐々に「島」という物理的な障壁はなくなっていく。僕たちが沖縄から学ぶべきものを僕たちは、島という、海で隔てられているという地理的条件の外的な鎧をまとうことなく維持しなければならない。それは、僕たち一人ひとりの自己意識の中で意志と感情と思考の支持の基に選びとられなければならない。そうした自覚の先に、排除なき海と島の思想が存在するのだと思う。

これからの我々の世界が、これまで以上の戦争や環境の破壊や貧困や飢餓に見舞われないためには、人々の精神の支柱となるような思索が必要であろう。我々は科学の時代を体験し、合理主義の時代を体験している。それ以前の時代の信仰ではそれらを越えては行けない。未来を前に原理主義的に守旧するのではなく、未来へと信仰を改鋳していかなければならない。我々の知るすべてを含みつつそれを越えることのできる精神的紐帯となるような新たな意識を生み出していかなければならない。その「ヒント」としてこそ琉球弧は今だ豊穣な精神を抱え続けているのではないだろうか。(2008-05-19)

文献

  • Burkhard, G. 1992 Das Leben in die Hand nehmen. (樋原裕子(訳) 2006 バイオグラフィー・ワーク入門 水声社)
  • 三木成夫 1983 胎児の世界:人類の生命記憶 中央公論新社(中公新書)
  • 野本三吉 1976 太陽の自叙伝 柏樹社
  • 野本三吉 1996(原著は1970) 不可視のコミューン:共同体原理を求めて(野本三吉ノンフィクション選集1) 新宿書房
  • 野本三吉 2007 海と島の思想:琉球弧45島フィールドノート 現代書館
  • Wiber, K. 1983 Eye To Eye: The Quest for the New Paradigm. (吉福伸逸他(訳) 1987 眼には眼を:三つの眼による知の様式と対象域の地平 青土社)