行くも地獄・戻るも地獄の自己決定〜『地獄少女』の映し出す今〜


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行くも地獄・戻るも地獄の自己決定:『地獄少女』の映し出す今
2006-10-17
(社会臨床雑誌, 14, 3, 138-141; 2007)

その少女は教師から預けられた金を同級生に盗まれ、そのことで脅されて援助交際まがいのことをさせられ、そのことでまた脅される。昨日まで少女のことを優等生扱いしていた教師は、騙されて取られてしまった男との写真を見て、掌を返したように少女を責める。少女は、仕組んで自分をどん底にまで陥れた同級生への怨みをはらしてもらうために“地獄少女”に依頼する。強い怨みを持つ者だけが深夜12時になるとアクセスできるサイト「地獄通信」。そこに怨みの相手の名前を書き込むと“地獄少女”が現れてその怨みをはらしてくれる。怨まれた人間は地獄に流される。少女は“地獄少女”に怨みをはらしてもらうことを依頼し、“地獄少女”は少女を陥れた同級生を地獄へと流す。
毎回こんなストーリーが展開するアニメが2005年後半から2006年前半にかけてUHF・CSチャンネルを中心に放映された『地獄少女』だ。各回30分、全26回。番組は好評であったらしく2006年10月にはアニメ第2シリーズの放映が始まり、実写版TVドラマの放送も予定されている。
基本は各回完結の連作もので、大筋の筋立ては毎回同様である。まずいわれもなく理不尽な仕打ちを受ける人物が登場する。同級生に陥れられてしまう少女、夫の上司の妻の浮気場面を偶然目撃してしまったためにその女から逆恨みされ家庭を壊されてしまう女性、野球部の先輩に同級生殺しの濡れ衣を着せられてしまう少年、人に騙されて家も土地も畑もそして唯一の肉親であった父親の命も奪われた少女、唯一の家族である愛犬を悪徳獣医に殺されてしまった少女等。彼女あるいは彼らは深夜12時に強い怨みを持つ者だけがアクセスすることの出来るサイト「地獄通信」に怨みの相手の名前を書き込む。その知らせが “地獄少女・閻魔あい”に届き、閻魔あいは怨みの相手を地獄へと流す。
こんなストーリーを聞くと、ある年齢以上の人ならば1970年代に人気を博した時代劇『必殺』シリーズを思い浮かべるのではないだろうか。実際、河鍋暁斎の絵を背景に流れるオープニングのナレーションや音楽を見聞きすると、この作品が明らかに『必殺』を意識して作られていることが分かる。『必殺』シリーズの主人公たち(「仕掛人」「仕置人」などシリーズによって呼び名はいろいろであったが、「仕事人」が最も定着した呼び名ではないだろうか、ここでは「仕事人」と呼んでおくことにする)は、法で裁けぬ悪を闇で裁く者たちである。しかし例えば1980年代にヒットし現代版必殺シリーズと呼ばれた『ハングマン』の主人公たちがボスの命令で正義の名のもとに悪人たちをさらし者にするのとは違って、仕事人は怨みを抱く者から金を貰ってはらせぬ怨みを代わりにはらす、あくまでも対価をもらって人を殺す殺し屋である。普段は江戸の町中で暮らす町人や貧乏役人であり、いわば苦しめられ怨みを抱くことになる人々と同じ町の中で同じ立ち位置で日常を送っている。ただし「金のため」とハードボイルドな素振りをしつつも、その実市井の人々を苦しめる者たちへの怒りが彼らの中には存在する。金を貰えば誰でも殺すのではなく、殺されるべき理由を持っていると彼らが(そして視聴者も)納得できる者だけを仕事の対象とする。江戸の町中で暮らす人々にとっては、“お上の正義”はしばしば自分たちを苦しめるためのだけのものである。仕事人は「正義」などを振りかざしてお上ぶったりはしない。「金のため」とクールに構えるのは、自分たちは正義を振りかざして庶民を苦しめる役人たちとは違うという思いや、所詮法の定める正義など金持ちや権力者を守る為のものであり、自分たちはそんな武士や金持ちに虐げられるだけのちっぽけな存在に過ぎないことの半ば自虐的な表現であり、その後ろにはちっぽけな存在同士の共感と連帯が秘められている。視聴者にとっての、時代劇としての『必殺』シリーズの魅力のひとつも、主人公たちが庶民であって岡っ引きや奉行やお忍びのお殿様のような正義と権力の側の人間ではないところにあるだろう。テレビの前で仕事人を見る我々もどこかしらにちっぽけな存在同士の共感と連帯を感じるのだ。
「地獄通信」に名前を書き込むと、“地獄少女・閻魔あい”が現れる。赤い目、黒く長い髪、前髪は眉毛に揃えて横一線のおかっぱ、セーラー服の美少女。けれども彼女はもう何百年もの間、この世と地獄の間に存在し続けている。
首に赤い糸を括りつけた黒いわら人形を手渡しながら、自分を呼んだ者に閻魔あいはこう告げる。

「受け取りなさい。
あなたが本当に怨みをはらしたいと思うなら、この赤い糸を解けばいい。糸を解けば私と正式に契約を交わしたことになる。怨みの相手は、すみやかに地獄へ流されるわ。」

そう聞いて一瞬顔を明るくする相手に向って閻魔あいは、しかしこう続ける。

「ただし、怨みをはらしたら、あなた自身にも代償を支払ってもらう。『人を呪わば穴二つ』。契約を交わしたら、あなたの魂も地獄へ堕ちる。極楽浄土へは行けず、痛みと苦しみを味わいながら永遠にさまようことになるわ。……死んだ後の話だけれど」

そうして最後にこう告げて、姿を消す。

「あとは、あなたが決めることよ」

“地獄少女”に怨みをはらしてもらうことを依頼する者が払う代償は、自分自身の魂が死後地獄に落ちることだ。毎回の物語の中心はわら人形を与えられた者が赤い糸を引くか引かないかの葛藤となる。そして皆最後には糸を解いてしまう。
『必殺』でも仕事を依頼する金を作るために苦界に身を落としたり、結果的に命を落としてしまう者はしばしばいた。けれども仕事人は、それゆえにこそ、その者の怨み、無念を胸に秘め、しかし一方ではどれだけ同情しても共感しても絶対にその人自身に成り代わることは出来ない他人でしかない自分自身や、そんなふうにしか支え合えない人間の寂しさを充分に分かっているが故にこそ、過剰な正義感を見せることなく、金のためとのポーズをとって、その怨みをはらしていく。そこには、繋がっているけれども繋がりきれない、孤独なのだけれども孤独でありきれない、そして誰もがそれぞれに無念を抱え虐げられて生きているということへのやるせなさや憤り、そんな人間のつながりと、その繋がりの間に垣間見えるわずかな儚い救済の姿が描かれていた。
閻魔あいは、頼まれて怨みの相手を地獄に流す。けれどもそれは、自分の犯した罪のために与えられた、この世と地獄の間で怨まれた者と怨んだ者の両方を地獄に流し続けるという役割を果たしているにすぎない。セーラー服を着ていても、彼女はこの世の中で人々とともに暮らしているわけではない。
『地獄少女』の登場人物たちは、理不尽な不幸に巻き込まれ、傷つき貶められる。特徴的なことは、彼女や彼らの回りには、かれらを救うために手を差し伸べようとするものが現れないことだ(シリーズ後半には閻魔あいの存在に気づき、彼女の地獄流しを止めようとするフリーライターが登場するが、怨むのを止めろという彼の叫びは相手には常に届かない)。学校でも職場でも、登場人物たちは誰も周囲の他者との繋がりが薄い。昨日まで優等生として目をかけてお金すら預けていた学校の教師のその女生徒への信頼は男と並んで移っている写真一枚だけで簡単に失われてしまうし、野球部員の同級生殺しの濡れ衣を着せられた少年の両親は簡単に自分の子供が殺人者だと信じ込んでしまう。登場人物たちは呆気ないほど簡単に窮地に陥り、「地獄通信」に救いを求める。閻魔あいはそんな登場人物に自己決定を迫る、「怨みをはらして地獄に落ちるか、あきらめて地獄行きを免れるか」と。けれどもそれは「地獄通信」にアクセスした者にとっては「今の生き地獄を選ぶのか、死んだ後の永遠の地獄を選ぶのか」という選択肢だ。閻魔あいは淡々とした口調で、「怨むも怨まぬもあなたの自由」と選択を迫る。その結果地獄に堕ちることになっても、やはりそれは「あなたが自分で決めたこと」なのだ。
閻魔あいの行動論理である「人を呪わば穴二つ」は、とても道徳的だ。その原因が何であれ、相手を呪えば、自分も呪いを返される、それゆえに簡単に人を呪ってはならない。それは確かに正論であり、抵抗しにくい規範だ。この規範に従いながら、それでもいいなら怨みをはらしてあげましょうと持ちかけられる。逆らえない規範を持ち出された上で自己決定を迫られた主人公たちは、その結果を自分の責任として自分に還元し、それを引き受けることを納得してゆく。そもそもは理不尽な言いがかりや逆恨みや悪意によって苦境に落ち入ったはずだった、それなのに孤立して追いつめられ閻魔あいに救いを求めることで、いつの間にか人を怨むのか怨まないのかの自己決定を迫られる、自分の倫理観が試される存在へとされてゆく、けれどもその問いは真空の中で課せられた問いではなく生き地獄の中で生きる者に問われた問いだ。問われた者は、今の地獄から救われることを望み、その自己決定によって自分の地獄行きを自分の責任として引き受けてしまう。
孤立した存在、突然振りかかってくる理不尽な苦境、自分の魂を投げ出すことでしか与えられない救済、「自分の魂を投げ出すことでしか救済は与えられない」ということを納得させる強い規範とその強い規範を我がこととして受け入れてしまっている個々人、そして地獄を先送りして担う地獄行きの決定した自分の生。
『必殺』は「法では裁けぬ悪」を“違法に”裁くものだった。『地獄少女』では地獄流しは、あくまでも人を縛る道徳の中で行われる。そして時には悪を裁くのですらない。多くの患者に愛されていた優しい看護婦は、一方的に彼女につきまとった男の逆恨みによって地獄に流される。閻魔あいと怨みを抱かされてしまった人々との間には同じ場所に生きる連帯感も共感も見出せない。救済の希望はなく、あるのは怨みをはらした者の諦観と、地獄少女自身の諦観だけだ。

この救いのないアニメが何故人気なのであろうか。主人公たちのキャラクターの魅力もある。閻魔あいは遥か昔に自分自身の怨みによって多くの人びとを死なせてしまう。その結果彼女は地獄少女となってしまうのだが、かつての怨みは彼女自身の中でなお解決を見ては居らず彼女を捉え続けている。彼女は人の弱さと醜さと自分の内側の怨みを赤い目で見つめ続けている。そんな閻魔あいを「お嬢」と呼ぶ三人の式神、イケメン青年風の一目漣、妖婉な美女風の骨女、好々爺然とした輪入道、彼らは怨みの相手の身辺調査等を行う、閻魔あいの使い魔だが、彼女の指示とは独立して単独行を取ることもあるし、暴走したあいを心配して、あいを追いかけ続けていたフリーの事件記者柴田一に相談をもちかけたりもする。声優陣もいい。能登麻美子演じる閻魔あいの決め台詞「闇に惑いし哀れな影よ、人を傷つけ貶めて、罪に溺れし業の魂(たま)。いっぺん、死んでみる」は、一度聞くと病みつきになる。
しかしやはり、『地獄少女』が今の時代の雰囲気を上手に掬い上げていることが、その人気の理由であろう。
ドラマは毎回、我々と同じこの町に暮らす誰かに視点を定め、クローズアップしてゆく。するとそこには孤立した状況の中で苦境に立たされた一人の人間が存在する。彼女は、あるいは彼は、自らのものとは思えないような理由によって酷い目にあっている、そしてその状況を打破したいがために、閻魔あいを求め、示された選択肢から自己決定を行う。復讐者として自己決定することによって彼女、あるいは彼は自分の人生を手中にする。閻魔あいに頼んだ自分の弱さ故か、その人生には地獄行きが約束されている。けれども今を生き延びるために他にどんな方法があったというのか。しかし、そんな重大な選択によって手に入れた人生ですら、所詮は地獄行きの名前の刻まれた無数のロウソクの中の一本でしかない。新たな地獄行きの者の名前が刻まれたロウソクがその他の無数のロウソクの中の一本としてフェードアウトして、物語は終わる。この出口のない逼塞感と刹那な人生の肌触りは我々の日常のそれではないだろうか。
あるいはまた、こんな類比はどうだろうか。
理不尽な苦境に陥れられた者は自分が怨む者になることを決断することによって閻魔あいに復讐を依頼する。閻魔あいによって復讐が行われ、怨む者は生き延び、怨まれた者は死ぬ。怨む者は、死ねば自分も地獄に行くことを免罪符に生き続ける。
理不尽な病いを得た患者は自分がレシピエントになることを決断することによって医者に移植を依頼する。医者によって臓器移植が行われ、レシピエントは生き延び、ドナーは死ぬ。レシピエントは、ドナーへの感謝とドナーの命をリレーしたという思いを免罪符に生き続ける。
自分が生き延びるために他人の命を当てにすること、自分の生を望むためには相手の死を望まなければならない所にまで追い込まれてしまった人生、けれどもそれは“地獄少女”や臓器移植という仕組みが存在するからこそだったのではないか……。

自分が生き延びるために人を頼んで人を地獄へと流してしまった弱い自分を、胸に刻まれた地獄送りの約束の刻印が生き続ける間中照らし出し続ける。怨む相手を地獄に流してもらって生き続ける自分、地獄行きの約束を免罪符に生き続ける人の弱さ、そんな選択へと人を追い込む得体の知れない仕組みの存在。逃れることの出来ない息苦しさと理不尽さがテレビの画面を鏡として映し出される。そこにはもう、『必殺』のはかない連帯と共感は存在しない。

データ:
『地獄少女』(2005年10月〜2006年4月)
原案:わたなべひろし、原作:地獄少女プロジェクト、監督:大森貴弘、シリーズ構成:金巻兼一、キャラクターデザイン:岡真理子、美術監督:菱沼由典、音楽:高梨康治/水谷広実、アニメーション制作:スタジオディーン、製作:スカパー!ウェルシンク・アニプレックス
配役:閻魔あい/能登麻美子、一目漣/松風雅也、骨女/本田貴子、輪入道/菅生隆之、柴田一/うえだゆうじ、柴田奈々/水樹奈々
(製作スタッフについては、「地獄少女 公式サイト「地獄通信」http://www.jigokushoujo.com/より。また、放映期間についてはWikipedia「地獄少女」の項を参考にした。第1シリーズ全26話が収録された「地獄少女 DVD」(第一巻〜第九巻)も発売されている。」