罪はどこにあるのか、あるいは誰が罪を許すのか〜『りすか』『空の境界』『DEATH NOTE』〜

罪はどこにあるのか、あるいは誰が罪を許すのか〜『りすか』『空の境界』『DEATH NOTE』〜
2005/06/19
(社会臨床雑誌, 13, 1, 62-66掲載)

ここ一年ほどの間に発行された主に若い人たちを読者と想定している三つの物語を眺めながら、罪はどこにあるのか、誰が罪を許すのか、という視点から作品について考えてみたい。そこでは罪も許しも、公共の空間ではなく、公共の空間を踏まえつつもそれを越えた個人的な関係の空間内に定位されている。
『新本格魔法少女りすか』は小学校5年生の供犠創貴(くぎきずたか)と水倉りすかがそれぞれの目的のためにりすかの父水倉神檎(みずくらしんご)を追い求める日々を描いた連作小説である。その第2話で創貴とりすかの二人は影谷蛇之という魔法使いと戦うことになる。ふたりが影谷蛇之の根城に乗り込んだ時、影谷蛇之は創貴の同級生の美少女在賀織絵を誘拐していた。苦戦しながらもふたりは影谷蛇之を倒すのだが、りすかが影谷蛇之と戦っている間に創貴は在賀織絵が捕らえられている部屋に移動し、縛られて自由を奪われている在賀織絵を見つける。

「た—助かった……、のかな」
「みたいだね。おめでとう」
「供犠くん……ひょっとして、わたしを助けに来てくれたのかな……? くれたんだよね?」
「どうしてそう思う?」「だって……」在賀織絵は言う。
「く、供犠くんって……なんか、タダモノじゃなさそうって、そんな感じ、してたから……」
「ふうん……奇遇だね。ぼくも、きみをそんな風に見ていたよ」(西尾, 2004, p.149)

こうして創貴は、自分もある種の思いを寄せていた美少女を無事救いだすことができる場面に遭遇するのだが、彼は、影谷蛇之から奪った投げ矢を彼女の喉元に突き立てて彼女を殺してしまう。そうして、りすかには、彼女は既に殺されていたと告げ、りすかは自分のために在賀織絵が殺されたと自責の念に涙する。
第3話の冒頭では、りすかは在賀織絵が創貴によって殺されたのだという結論に達して創貴を避けている。しかし物語が進むにつれて彼女はこんな結論に達する。

「キズタカが、犯してきた罪と、ついてきた嘘の、その全てを—今、ここで、わたしが、許してあげるの」
「…………」
「これからは、そういうことしちゃ駄目なの」
「……おーけい」
「それで、わたしの気持ち、これからは、もう少しだけ、考えてください」
「それは……面倒だなあ」
「でないと、故郷に帰らせていただきます」
「……わかった」ぼくは言った。「これからは、りすかの気持ちを、もう少しだけ、考える」(同上, p.238)

ことは殺人であるのだが、それも彼らが日頃戦っている“敵”ですらない、敵に捕らえられた被害者である同級生の少女を殺したのであるが、りすかはそのことよりも、創貴が自分を騙していたこと、自分の気持ちを考えてくれないことに憤っている。その憤りを納めてりすかは創貴を許す。そしておそらくはこのシーンにおいて、前話の終末部分でわずかなりとも創貴の行為に抵抗を感じていたであろう読者もまた、りすかとともに創貴の行為を許しているに違いない。前話の終末においては、創貴の行為は読者の日常の倫理観、公共の道徳に抵触し、物語は不穏な気配を読者に残しているはずなのだが、次の話ではその行為は、創貴とりすかの間の不仲の原因という位置に納められていて、読み手としてもふたりの関係の方に気持ちはいってしまう。なんとなれば、強敵の前に文字通り身を張って時間をかせぐ創貴とその背後から「にゃるら!」の呪文とともにあらわれるりすかの登場場面の方が読者としても待ち遠しいからだ。二人の勇姿の前には一美少女の殺害など大した問題ではない……。
ここでは一人の少女への殺人の罪も罪の許しも、公共の中ではなく創貴とりすかのふたりの間に存在している。

『空(から)の境界』の主人公は、殺人嗜好症とおぼしき両儀式という少女である。彼女は17歳の時に交通事故に会い2年間の昏睡からさめた時には、自分のものと実感できない記憶とあらゆるものの死を見ることが出来る“直死の魔眼”を得ていた。彼女は魔眼によって見いだす“死線”を切ることで、どんなものでも殺すことができる。
物語のもう一人の主人公は彼女に想いを寄せる青年黒桐幹也である。彼は式の高校時代の同級生であり、現在は大学を中退し蒼崎橙子という建築家であり人形作家である女性の事務所で働いている。橙子は魔術師で式の“直死の魔眼”の理解者でもある。
両儀式が交通事故にあう直前、彼女達の町では連続殺人事件が起きていた。黒桐幹也は、その犯人が式ではないかと疑わざるを得ない事態に遭遇していた。そして、昏睡から目覚めた後の式は、明らかに殺人嗜好症になっている。それでも彼は式に想いを寄せ続ける。『空の境界』はこの二人のラブストーリーがひとつの軸になっている。
黒桐幹也は、この物語の登場人物の中では至極“常識的”なの感性と倫理観を持った人間として描かれている。両儀式は言うに及ばず、雇い主の蒼崎橙子は魔術師であり、彼らと絡んでくる敵荒耶宗蓮もまた強大な力を持った魔術師である。幹也の妹もまた橙子に弟子入りしてそれなりの実力を示す。彼から見れば彼の回りの人々はみなどこか常軌を逸している。しかし、その常識人であるはずの彼は、恋人の殺人嗜好をそのまま受け入れてしまう。それは、彼自身の中の常識的な倫理観を曲げて彼女の嗜好を受け入れようというのではなく、従来の常識的な社会的規範を踏まえつつも、それ「も」踏まえるという程度にまで相対化し、自分の理性や感性やとともに再構成された彼自身の倫理観において、式の殺人を止めようとはしても受容もしているのだ。

式は突然、倉庫の屋根から出て雨に打たれる。
「幹也はこう言うんだな。常識があればあるほど、罪の意識を覚えるって。だから悪人はいないんだって。でもさ、オレにはそんな上等なものはないよ。そういうヤツを野放しにしていいの?」
言われてみればその通りだ。
式は善人とか悪人とかいう前に、常識ってものが希薄な子だった。
「そっか。じゃあ仕方ない。式の罰は、僕が代わりに背負ってやるよ」(奈須, 2004, p.205)

式の殺人嗜好症は、二人の間に距離を生み出してはいるが、それは絶対的な断絶ではなく、いわば「親の反対」や「身分の違い」といったかつての恋愛物語に登場したような、乗り越えられるであろうと読者によって期待される障害のひとつにすぎなくなっている。その罪も罰も公共の位置から二人の間の関係の中へと位置づけ直されている。
物語は式が連続殺人事件の犯人であるということを色濃く匂わせながらも長い物語のラストに至るまで、2年前に何があったのかを明らかにはしない。それゆえに読者もまた、殺人犯である両儀式と朴訥とまで言える様な“常識人”黒桐幹也との間の恋愛の行方を、自分の中にある殺人は罪であるという常識的な倫理観を相対化しつつ、あるいはその位置づけに共感的快適感を感じながら、見つめ続けることになる。

『DEATH NOTE』は『週刊少年ジャンプ』に連載中のマンガである。現在コミックは5巻まで発行され、勿論連載中の物語は刊行されているコミックよりも進んでいる。
名前を書くことでその人間を殺すことが出来る死神のノート「デスノート」を偶然手に入れた高校生夜神月(やがみライト)と、彼が引き起こした凶悪犯連続殺人事件の解決を求められた世界的な名探偵L(彼もまた月と同じ位の年齢である)の二人の駆け引きを中心に物語は進んでゆく。月は自分が望む理想世界を成就するために、凶悪犯をデスノートを使って殺していく。凶悪犯連続殺人事件の犯人は「キラ」と人々に呼ばれるようになる。キラ=月は犯罪者を殺していくが、自分が危うくなると犯罪者ではない人々も躊躇なく殺していく。
月は、二枚目で爽やかな好青年だ。「好青年のような振り」をしているのではなく、それ自身が彼の一面である。「自分の理想世界成就のためならば殺人も平気で犯す」と言った時に想定される様な狂信的な人物像ではない。一方のLは、全世界においてその類い稀な捜査能力、事件解決能力に信頼が置かれている一方で、その正体はほぼ全くと言っていいほど知られていない謎の名探偵として物語に登場してくるが、実際にあらわれたその姿は、いつも椅子に体育座りをしているどこか“行ってしまった”ような青年だ。事件に対して打つ手と推理能力は卓抜したものだが、事件に望む姿勢(文字通り、その身体の描かれ方)は、まさにゲーム画面を覗き込む“おたく”少年そのものの姿勢として描かれている。名探偵のおたく少年と殺人犯の好青年、『DEATH NOTE』の主人公は読者の人気を二分している。
キラに続いて「第二のキラ」が現れ、Lは月をキラだと疑いつつ、第二のキラを月とともに捜査することになる。
『DEATH NOTE』ではキラはあくまでも殺人犯であり、Lは警察と協力してキラを追う側の人間である。ここでは公共の倫理観が物語を支配している。しかし、コミック5巻では、月は第二のキラをLとともに追う側にあり、Lと共に捜査を続けてきた警察官達は、第二のキラの圧力に屈した警察を辞職し私人としてLとともに捜査を続けることになる。月は、自らを守る為にデスノートを一時放棄し、同時にキラであった時の記憶を失うことで、Lの側に回る。Lと行動を共にする数名の刑事は刑事であることを放棄しつつキラを追う。その捜査陣には、やはり既にその時期の記憶を失っている“元”第二のキラ弥海砂(あまねみさ)が加わっている。今は記憶を失っている“元”殺人者と元警察官がキラを追う。
『りすか』や『空の境界』に較べると「殺人」は罪であるという倫理は物語の原動力になっている。『DEATH NOTE』のストーリーの基本は殺人犯とそれを追う探偵の物語だからだ。だが月も、一時第二のキラであった海砂も幾人もの人間を殺し、Lもまた死刑囚をキラの能力を試す為の実験台に使う。かれらは公共の規範を内化しつつも、自分の行動は自分の規範によって決めてゆく。そのようなかれらがこの物語の主人公である。

挙げてきた三つの物語を読む時、何が罪なのか、罪を許すのは誰なのか、罪が位置するのはどこなのか、ということについてのパーソナル化を見いだす。殺人という行為は公共において罪であり、公共において罰せられなければならない行為であるということが我々の日常的な規範だった。その規範に基づいて我々は殺人は罪と信じていた。既に放映回が400回を越えようという人気TVアニメ『名探偵コナン』に登場する殺人犯は、しばしばその境遇と動機を知れば同情を禁じえず殺人も止む無しと思えてしまう状況におかれて殺人を犯す。けれどもコナンはあくまでも、それでも殺したら終わりなんだと犯人を糾弾する。我々の日常的な倫理観に沿ってくれる。しかし、コナンから数年を経て登場した主人公達は、コナンのように公共の倫理をそのまま自らの倫理とすることが大人であるというような規範では生きていない(『名探偵コナン』のキャッチコピーは「見かけは子供、頭脳は大人」である)。
東浩紀は舞城王太郎の『九十九十九』を論じた評論の中で、舞城が読者に送っているメッセージは「私たちが立脚すべき「リアル」とは、たったひとつの現実=物語(自然主義的リアリズム)でもなければ、無数の虚構=物語たち(まんが・アニメ的リアリズム)でもなく、無限に多様な物語がありうるなか、それでもこの私はつねにひとつの物語を選んでしまっている、という事実性に求められるほかないのだ、との認識[“それでもこの私はつねにひとつの物語を選んでしまっている”の部分傍点……傍点原著者]」(東, 2004, p.340)だと指摘している。
ここに取り上げた三つの物語の主人公達もまた、たったひとつの現実(=旧来からの、公共的規範に従った、唯一と思われていた現実)を相対化し、かといって無数の虚構の世界(=あらゆるものが相対的で併置された、Wilber的な表現でいうならば“フラットランド”)の中でそれを消費しつつ戯れているわけでもなく、自分の選ぶ物語の上に立つことを出発点とすることを自覚的に選択している者達だ。そして読者もまた、その立脚点に共感し承認する。
「それは悪だ」といわれたら「そういう見方もあるかもしれない、でもそれがどうした?」、「それは間違っている」と言われたら「確かにあなたから見れば間違っているかもしれない、でも、それがどうした?」、そう応えるしかない現実の中に読者もまた存在していることを、これらの物語は前提としているが故に、エンターテインメントとして成功しているのだろう。
社会的な常識も、集団的な大義名分も、そこでは優越的な位置を占めない。社会的な常識を、あるいは集団的な大義名分も踏まえた上での、それに勝る自己決定、パーソナルな関係性の中での価値配分だけが自分の立ち得る場所だと踏まえること。
社会の常識や大人的規範の欺瞞は十分すぎるほどに認識し、かといって、それに真向から対立するように見えたオールタナティブも至る処は毒ガスによる無差別殺人でしかなかったことを知ったポストオウム世代。いずれにせよ何かに自分を委譲してしまったところに残るのは自分の判断の範疇外の結末なのだ。そんな責任の持てない場所に立ちたくないと考えるのは当然の行く末だろう。
現代の若い読者に提示される物語の主人公達は、ようやく自分の判断という場所にたどり着いたのかもしれない。殺人は公共的な倫理規範に照らした場合には悪であることを理解しつつも、それを含みつつも越える自分自身の倫理規範に基づいた場合には止む無しとして受け入れる、そんな自己決定の規範が存在するこれらの物語の主人公達は、ポストモダンの価値の戯れの中からようやく自分の価値というものの立ち位置を掴み出した者たちだといえるだろう。読者も又そこに惹かれる。が、この道行きは本当に先のある道なのか、袋小路ではないのか、と不安にもなる。創貴も月も世界の平和のため、みんなの幸せのためを思う。その独りよがりな自己決定に基づく戦いは結局のところ自分の滅亡によって終焉を迎えるしかないのではないか。失敗しても自分が終わるだけ、そんな“責任の取り方”が自己決定の背後にあるように見える。それは無関係な人々に無理矢理に関係を見いだして皆殺しにしようとしたオウムを見てしまった世代が取り得る、唯一とは言わないが、ひとつのあり方なのだろう。けれども、道はほかにないのか。パーソナル化した価値規範をもう一度公共化する主人公は現われることはないのだろうか。とは言え、そんな主人公の登場する物語が面白いと思うか、と問われれば、創貴やりすかほどのことはないだろうとも思うのだが……。

取り上げた本


大場つぐみ(原作)・ 小畑健(漫画) 『DEATH NOTE』 集英社(ジャンプコミックス) 2004年……2005年4月現在第6巻まで刊行されている。各390円。
西尾維新 『新本格魔法少女りすか』 講談社 2004年 880円
奈須きのこ 『空の境界』 講談社 2004年 上巻1100円・下巻1200円

文献

東浩紀 「メタリアル・フィクションの誕生〈第3回〉:動物化するポストモダン2」 『ファウスト』Vol.3, p.330-343 講談社 2004.07
Wilber, K.著 松永太郎訳 『進化の構造1・2』 春秋社 1998年(原著は、Wilber, K. 1995 “Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution” Shambhara Publications, Inc.)
最終更新:2006年12月31日 12:29