フルーツバスケットの中の癒し


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フルーツバスケットの中の癒し
2002-09-15
(社会臨床雑誌, 10 , 1, 17-26掲載)

ストーリー


昨年(二〇〇一年)の暮れ、テレビ東京系で二六回に渡って放送されたアニメ『フルーツバスケット』が最終回を迎えた。
原作は「花とゆめ」に連載中の高屋菜月の同名のマンガである。連載開始(1)当初より女子中・高校生を中心に高い人気を維持し続けているという。
大地丙太郎監督の手によるアニメはほぼ忠実に原作のストーリーと台詞を再現しながらも、原作と一線を画する「大地ワールド」を展開している(2)。とりわけ要所を固める大地監督好みの声優とピアノやバイオリンといったアコースティック系の音を中心に仕上げられた音楽が透明で静かな世界を生み出している。
『フルーツバスケット』の何がファンの気持ちを惹きつけたのか。それはおそらく全編にちりばめられた無数の癒しではないかと思う。『フルーツバスケット』は「癒し」系アニメだ。原作のマンガもそうであるが、大地監督は原作以上に「癒し」の部分をデフォルメして描いた。ここでは『フルーツバスケット』の中に投げ込まれた癒しの言葉の幾つかを見ながら、その魅力に触れてみたいと思う。

主人公の本田透(トオル、女性だ)は高校一年生。突然の事故で母を失い父方の祖父の家に身を寄せていたが(父親は透が三歳の時に病死している)、祖父が娘夫婦と同居するために家を改築することになりそのあいだ家を出なければならなくなる。彼女は親友の魚谷ありさ・花島咲の二人にもそのことを告げぬまま、とある山の中でひとりテント生活を送っていた。
ある朝、透はテントの近くに一軒の家が建っているのに気づく。縁台に「日干し」にされていた小さな十二支の置き物につられて庭に入ってしまった彼女は、そこでその家の主・草摩紫呉(シグレ)に出会う。ねずみにだまされて猫が“宴会”に出られず十二支の仲間に入ることができなかったという物語を母から聞いて、「犬年をやめて猫年になる」と泣いたという幼い頃の思い出を透が紫呉に話しているところに、今度は透の同級生の草摩由希(ユキ)が現れる。「学園のプリンス」と二つ名を持つ女子生徒憧れの君である由希は、いとこの紫呉の家に同居していたのだ。実は、透がテントを張った山の一帯は草摩家の地所だったのだが、そんなことは透は知らない。「近くに住んでいる」という透の言葉を不審に思う紫呉と由希だったが、あえて深く追求はしなかった。
その夜、外での夕食からの帰り道、由希と紫呉は崖の下にひっそりと立てたテントに入ろうとしている透を見つけてしまう。二人が透を家に招いて事情を聞いている間に、折りからの雨で崖が崩れて透のテントは潰れてしまう。その上、透は生活費を稼ぐための連日の深夜のバイトの疲れがたたって熱を出して寝込んでしまう。結局これをきっかけに、透は紫呉と由希の家に同居する事になる。
同居が決まったその日、突然草摩夾(キョウ)が現れる(彼もまた高校一年生だ)。夾と由希は仲が悪い。夾は由希に空手の仕合を挑みに来たのだ。現れるなり由希に襲いかかろうとする夾を止めようとした透に抱きつかれて、夾は猫に変わってしまう。猫を抱いたまま呆然とする透の頭に天井からの落下物が当たり、倒れそうになる透をとっさに抱きとめようとした由希と紫呉が、今度は鼠と犬になってしまう。
実は草摩の一族には昔から、十二支(+猫)の“物の怪”に憑かれた子供が生まれるという呪がかかっていたのだ。物の怪憑きは、体が弱ったり異性に抱きつかれると動物になってしまう。透はこの草摩家の秘密を知ってしまったのだ……。

こんな風に物語は幕をあける。
草摩の秘密を知る「普通の人」である透のことはすぐに他の十二支の中でも話題になり、次々に新しい十二支が透の前に現れる。物語はこの草摩の人々と透との関わりを描いていく。十二支の人々はそれぞれに迷いやトラウマを抱えている。透はかれらの言葉を聞き、記憶の中の母の言葉を語り、時には自らの体験を語る。それはまさにカウンセリング場面のように見える。一方でかれらとの関わりは透自身の成長を支えている。作品は毎回異なる問題を提起し、それに展望を与える。現状を肯定的な未来への展望へと意味付け直していく。

また友達になって下さい


由希がまだ幼い頃、一緒に遊んでいた子供達の目の前で鼠に変わってしまったことがあった。草摩家の当主・慊人(アキト)はやはり十二支の一人はとりに子供達の記憶を消させる。はとりには人の記憶の一部を隠蔽し思い出せなくさせる力があった。草摩の秘密を知った何人もの人が同じように“十二支”の記憶を消されてきた。
紫呉が慊人に透のことを報告に行くことを知り、秘密を知った透の記憶はいつものように消されてしまうことになるだろうと思った由希は、そのことを透に話し、詫びる。しかしそんな由希に透は言う。


心配してくれてありがとうございます。嬉しいです、すごく。
私、大丈夫です。平気です。御当主に連絡しなくちゃいけないほど重大な秘密を知ってしまったなら、しかたないと思ってますから。
だから、草摩君達が一番安心する方法をとってください…。記憶が消されちゃっても、またお友達になってくださいね。

「鼠に変身する」、そんな人間は変な人間で、そのことを知ったら人は皆自分を避けるようになる。そう小さい頃から思い込まされてきた由希は、透の「またお友達になってくださいね。」の言葉に自分の笑顔を取り戻す。「鼠になってしまう自分」であってもいいのかもしれない、そう由希は思い始める。

人付き合いが下手な俺


紫呉は由希や夾よりも一回り年上で、由希や夾の保護者的な役回りでもある。そして自分の同世代が果たせなかった十二支の呪縛からの解放の可能性を由希や夾やなによりも透に見い出そうともしている。
心ならずも透に悪態をついてしまい自己嫌悪に陥っている夾に紫呉が語る。


無理なんだよ。俺は人と関わって暮らしていくのに向いてないんだ。

紫呉
中にはそういう人もいるけどね。君の場合は単に経験が足りないだけだよ。例えばだ、君は拳一つでテーブルを割る事ができる。でもその拳を寸止めすることだって出来る。それは己の拳の力配分を自分で測れるからだろ。・・・人と上手く関わっていくのも同じ事だよ。ただ、その修業は山の中ではなく、人の住む町の中でしなくてはだめだ。人と交わり、傷つけたり傷つけられたりしながら人を学び、己自身をも学ばないと、他人を思いやれるような人間にはならないよ。武闘は黒帯でも人づきあいでは白帯の君なんだ。いつか、君を好きだと言ってくれる子を大切に出来るように、今は逃げずに修業を続けなさい。


そんなやつ、居るもんか。

紫呉
居たらどうするんだい?

人付き合いで悩むなどということはそれこそ日常茶飯事だ。だが日常茶飯事であっても大きなことでもある。人付き合いで悩む若者に向かって、「それは経験が足りないだけだよ」「でも、その修業は町の中で人と関わりながら積んでいくしかないんだよ」と語る紫呉の言葉は、夾を通り抜けて視聴者の一人ひとりに届く。
夾も(僕達視聴者も)そんなことは分かっている。分かっていることを、にも関わらず自分のためにあらためて言ってもらうことが夾の支えになっている。

自己卑下と羨望と


人は誰しも人を羨む、自分を卑下する、嫉妬する。
由希と夾は中が悪い。それは二人が互いに自己を否定し、相手を羨み、嫉妬しているからだ。由希は言う。

由希
実家にいた頃は、本家やに監視された檻の中にいるみたいだった。普通の人に囲まれた普通の生活に憧れた。だから、共学の高校を受けて家を出たんだ。
でも結局俺は檻から出られてない。同じ草摩の者の家にいるし、普通の人とも上手くつき合えない。拒絶してるつもりじゃないけど、やっぱりどこかぎこちないんだ。俺はこんなだから、ひけめや怯えは消えない。
でも夾は違う。人見知りが激しいけど、慣れれば逆に他人を寄せつけるタイプだと思う。十二支の仲間になれなくても自然体で普通の人と向き合える方がいいと、俺は思う。そんなふうに、俺もなりたかった。だからイライラするんだ。自分から草摩に入りたがる夾を見ていると(3)、そこから逃げ出したい俺は、なんなんだろうって。


草摩君にも人を寄せつける力があります。沢山の子が好きだって、優しいって言っています。

由希
好かれたいから優しくしてるだけなんだよ。仲間にいれて欲しいからお菓子をあげるのと同じさ。自分のために優しくしてるだけなんだ。偽善かもしれない。


でも、疑うよりは信じなさいってお母さんが言っていました。人は優しさを持って生まれてこないんだよって。生まれながらに持っているのは、食欲とか物欲とかそういう欲、つまり生きる本能だけなんですって。
優しさは、体が成長するのと同じで、自分の中に育てていく心、良心なんだって。だから人によって形が違うんだって。

母の声(回想)
欲望は誰でも生まれながらに持っているから理解しやすいけど、優しさは個人個人の手作りみたいなもんだから、誤解されたり、偽善だと思われやすいんだよな。

由希は自分を偽善者だと思い、夾のようになれたらと思っている。だが夾もまた由希を羨んでいる。


俺ひとりいなくなったって、由希さえいりゃ事は上手く運ぶだろ。信頼されてるんだ、あいつは。昔っから、頭いいし、要領はいいし、人当たりもいい。まわりは自然にあいつの才能を認めて、敬って。武闘を始めたのだって俺が先なのに、今じゃあいつの方が強いし、……俺だって、成れるもんならなってみてえよ、そんなやつに。

透(独白)
どうして、人は誰かを羨まずにはいられないのでしょう。どうして気づかないのでしょう、自分自身の素敵なところに。

透(夾に向かって)
もしかしたら背中についているのかもしれません。例えば人の素敵というものが、おにぎりの梅干しのようなものだとしたら、その梅干しは背中についているのかもしれません。世界中誰の背中にもいろいろな形、いろいろな色や味の梅干しがついていて、でも背中についているせいで、せっかくの梅干しが見えないのかもしれません。
「自分には何もないよぉ、真っ白なお米だけだようっ」て、そんなことないのに、背中にはちゃんと梅干しがついているのに。誰かをうらやましいと思うのは他人の背中の梅干しなら見えるからなのかもしれませんね。私にも見えます、ちゃんと見えてます。夾くんの背中にある立派な梅干し、草摩くんは素敵です、夾くんは素敵です。

互いに相手を羨みながら相手を拒否している由希と夾。「透は透らしく」という亡き母の言葉のままに透は相手を羨むのではなくそれぞれに「素敵」を見つけ出していく(4)。
互いに自分を否定しながら相手を羨みあう二人に透が見せるのは「自分を好きになる」という自己啓発セミナー的な言葉で表せてしまうことかもしれない。けれども「俺は俺が好きだぁー!」と叫んでも空しいことを『フルーツバスケット』はよく分かっている。

いじめ


杞紗(キサ)は中学に入学してまもなくいじめられるようになった。きっかけは黄色の髪。それが生まれつきで仕方がないのだと説明すると、次にはクラス中が彼女を無視するようになった。無視しながら杞紗が何か言うとクスクスと笑う。無視され何かを口にすると笑われる。杞紗は学校へ行けなくなり、言葉を失う。そしてとうとう家も出てしまう。
同じ十二支の一人溌春(はつはる)が虎になってしまっていた杞紗を見つけ紫呉の家に連れていく。杞紗は、ある出来事から透に心を開くようになる。紫呉の家で透にべったりくっついて過ごす杞紗。そこに杞紗の担任から手紙が届く。
紫呉の家の縁側。担任からの手紙を杞紗が読んでいる。傍らには溌春と由希。溌春が手紙を取り上げ読み始める。

溌春
なんだって?
(杞紗の担任の手紙を読む)「草摩さん、元気ですか。そろそろ学校に来ませんか。クラスのみんなも草摩さんが来るのを待っています。先生も相談にのりますし、もっと積極的に輪の中に入りましょう。そして、何より大切なことは、草摩さんが自分を好きになることですよ。自分のいいところをみつけて自分を好きになることです。だって、自分を嫌っている人間を、他人が好きになってくれるはずないでしょう。」
へっ。ほんとに反吐だった。

由希
自分を好きになるって、どういうことなんだろう。いいところって、どうやって探すものなんだろう。嫌いなところしか分からない。分からないから嫌いなのに。
そうじゃなくて・・・そうじゃない。そういうことじゃなくて、誰かに好きだって言ってもらえて、はじめて自分を好きになれるんじゃないかな。誰かに受け入れてもらえて、はじめて、自分を少し許せそうな、好きになれそうな気がしてくると思うんだ。

杞紗
(透の姿が思い浮かぶ。「大好きです!」と杞紗を抱きしめる透の声が浮かぶ。)

由希
杞紗。オレ達は杞紗が大好きだよ。だけど、それしかできない。オレ達には、杞紗を好きでいることしかできないんだ。

杞紗
……うん。

こうして杞紗は言葉を取り戻す。いじめられて喊黙になってしまった杞紗に、担任は「自分を好きになれ」と手紙をよこす。いじめられて学校に行けなくなってしまうような自分を好きになるなんて出来ない。自分を好きになるということは、自分で自分を好きになるということではなく、誰かに好きだっていってもらえる自分を好きになるということなのだ。誰かがいてはじめて自分を好きになることもできる。彼女にしてやれることはただ好きでいてあげることだけ。杞紗は透や由希や溌春の自分を好きでいてくれる気持ちにようやく自分を許すことが出来た。

自分の生まれてきた訳は


「自分はなんで生まれてきたんだろう」「自分が存在する理由なんてあるのだろうか」。今も昔を変わることなく僕達を捕える疑問。『フルーツバスケット』もこの問いに無縁ではいられない。
申の物の怪憑きの草摩利津(リツ)、彼はいつも女装している。その方が落ち着くからだ。十二支の多くは何かしら秀でているところがある。勉強が出来たり腕っぷしが強かったりする。しかし利津には特別すぐれたところはない。草摩の一族の中で利津の「普通さ」は、利津が幼い頃から折々に取り沙汰された。その度両親は一族の者に詫びる毎日だった。利津はそんな両親の背中を見て育った。自分には何もとりえがない、自分の存在は両親を悲しませる、利津はそう思って育った。女装をしているといくらか気持ちが落ち着くのだが、それはなおさら草摩の一族の嫌気をかった。
そんな利津がある日紫呉の家を訪ねてくる。透に会うためだった。

利津
こんな私は、一体何のためにこの世に生をうけたというのでしょう。そうです、私は何の役にもたたないのに、生に対しては人一倍図太いのです。そんな自分が腹立たしい。いっそ、いっそ私のような人間は世をはかなむべき存在なのかもしれないのに。そんな根性すらありません。


そんなもの、いりません! そんな根性なくていいですよ、だって人は生きてるから、生きてるからこそ、そうやって泣いたり悩んだり喜んだり・・・この世に生まれたわけだって・・・。

利津
私は一体なんのためにこの世に・・・。

(回想シーン、透と透の母・今日子。)

今日子
よかった。透を生んで、本当によかった。透がいるから私、毎日笑って生きてけるわ。


じゃあ私はお母さんに会うために生まれてきたんですよ。

今日子
だったら嬉しいなぁ。


利津
私なんかいない方がよかったのかもしれない。私がこうして生まれた訳も、きっとないのだろうから。たとえあると信じていても、なくしてしまうことだって。……それなのに生き続けている自分はほんとに図太いというか……。


見つけ出そうとしているのですよ、生まれた訳を。自分の力で。だって、だって本当は、初めから理由をもって生まれてくる人なんて、いないかもしれないって思うから。みんな、みんな、自分で見つけていかなきゃいけないものかもしれないって、思うから。生まれた理由、そこにいてもいい理由、存在理由、みんな、自分で見つけていくものかもしれないって、思うから。たとえば夢や仕事や人の中に。
自分で見つける訳は曖昧で不確かかもしれないけれど、なくしてしまうこともあるけれど、それでもやっぱり訳が欲しいです、生きてるかぎり、私も。そしてできることなら私は、人の中に、誰かの中にそれを見つけたいです。誰かのために生きられるような自分に、そう思ってもいいよって言ってもらえるように。めげそうになる時もありますが、がんばっていたりします。だから、だからいいんですよ、図太くったって。だって、図太く生きているって、きっとそれはしっかり生きているっていう証拠だと思うから。

利津
見つけられるかな、こんな私でも、その訳。見つかるとといいなぁ、いつか私も。そして私も誰かのため、がいいなあ。

初めから訳を持って生まれてくる人なんて居ない、訳は自分で見い出していくものなのだ、そしてもしも出来るならば人の中にそれを見つけ出したい、透は自分の気持ちを利津に語る。そんな問いが遠い昔話になってしまっている僕達には当たり前のことかもしれないが、今まさにその問いを抱えている者にとって、自分が生まれてきた訳はどこかに隠されているものではなく自分で作り出すものなのだという答えは新鮮で希望を与えてくれる。

忘れていい思い出なんてひとつもない


草摩紅葉(モミジ)は中学三年生。彼の母は、紅葉を草摩家の誰かの子どもだと思っている。紅葉が自分の子供だという記憶を自ら望んで隠蔽したからだ。
彼女は自分の生んだ子どもを受け入れられなかった。「私の人生の最大の後悔は、あの生き物を自分の身体から出したことよ」。そして遂に、自ら紅葉の記憶を隠蔽してしまうことを望んだ。「パパがその分いっぱいいっぱい愛してあげる」と父は紅葉に母の記憶を消すことの許しを乞う。紅葉のことで病みつつあった母を助けるために紅葉は両親の願いを受け入れる。こうして紅葉は母の記憶の中から消えた。
その紅葉が透に語る。

紅葉
だけど僕は思うんだ。僕はちゃんと思い出を背負って生きていきたいって。例えば、それが悲しい思い出でも、僕を痛めつけるだけの思い出でも、いっそ忘れたいって願いたくなる思い出でも。ちゃんと背負って逃げないでれば、いつか……いつか、そんな思い出に負けない僕になれるって、信じてるから。信じて、いたいから。
忘れていい思い出なんて、ひとつもないって思いたいから。
だから、ほんとはママにも忘れて欲しくなかった……ほんとは。だけど、これは僕のワガママだから……秘密だよ。


私も、私も信じています。どんな思い出も、ちゃんとこの胸に抱いて信じていきたい。>忘れていい思い出なんて、ひとつもないって思いたいから。
いつか……いつか負けない自分になるように。そしていつか、それすらも越えて、貴い記憶となるように。
信じて。

誰にでも忘れてしまいたいと思う記憶がある。例えば、「彼氏に振られた」、そんな記憶だって忘れてしまいたい記憶かもしれない。でも、彼と過ごした時間、楽しいと思った時間、それは確かに存在した。そしてそれを失った、その理由はいろいろだろうけれど、確かに自分がその時間を持ちそして失ったのだ。忘れてしまいたいけれど忘れたくない記憶。そんな思いのひとつやふたつは誰にでもあるはずだ。その記憶に向けて『フルーツバスケット』は語る。「忘れていい思い出なんてひとつもない」、「いつかそんな思い出に負けない自分になりたい」、「貴い記憶となるように」。
一方で紅葉は、母に自分のことを忘れて欲しくなかったということを願うことは、自分のワガママなのだという。自分と他者との距離の置き方という点でこれは過剰ではないかとすら思うのだが、『フルーツバスケット』全体を通して、個であることと共にあることについて微妙なバランスが描かれている。自分に許されるのは自分のことだけなのだという他者への関与の抑制と、自分の現在と未来を決めるのは自分なのだという自己決定が表裏となってひとつのモチーフなのだが、同時にそうした自分であり続けるためには自分を必要としてくれる誰か・自分を認めてくれる誰か・支え合う誰かが必要なのだというテーマも強く打ち出されている。ふたつは対立するものではなく相互に支え合い必要とし合っている。おそらくそこにはこのドラマの視聴者の望む共生の距離のようなものがあるのだろう。

異質との共存


最終回に用意されたエピソードは、隠されていた夾の「本当の」姿にまつわるものだ。夾は猫憑きだが、猫に変身するだけではなく、もうひとつの姿を持っている。身体が醜く折れ曲がり吐き気をおこさせる腐臭を発する異形の姿である。猫憑きは、単に「十二支」ではないからだけではなく、この姿のためにも草摩の中で忌まれていた。
夾の母は、「愛している」「かわいい」「怖くなんかないわ」と繰り返し夾に告げながら、日に何十回となく異形への変身を抑える数珠を息子がつけていることを確かめ、夾を外へ連れ出すことを拒んだ。そのことは、言葉とは裏腹に母が自分のことを受け入れてもいないし怖れ恥じていることを夾に悟らせた。そして母は自殺した。
身寄りを失った夾は、草摩かずまに引き取られる。かずまの祖父は夾の前の猫憑きであり、他の草摩の人々とともにその祖父を疎み蔑んだ体験の記憶がかずまの負い目にもなっていた。
夾は、自分に新しい世界を見せてくれようとするかずまを父として慕い、しかし猫憑きの自分自身を投げやりに否定し、猫憑きがそのようでなければならないのは「鼠」のせいなのだと由希を憎んで、本田透と出会い紫呉の家に同居するようになるまでの日々を送ってきた。
かずまはある日、紫呉の家を訪ねる。既に草摩の間で噂となっていた本田透という人物を自分の目で確かめ、彼女ならば夾の「本当の」姿をも受け入れてくれるのではないかと思う。そして、透の目の前で、夾から封印の数珠を奪う。
最終回の一回前の第二五回で夾の「本当の」姿が描かれる。この回は、夾を拒否しようとする自分とそんな自分を拒否しようとする自分との葛藤の中で、草摩から逃げ出そうとする透と踏み止まろうとする透の迷いの姿が描かれる。
そして最終回。降り続く雨の中に異形の姿で蹲る夾。夾に倒れ込むように歩み寄る透。近づく透に気づき逃げ出そうとする夾。その夾にしがみつく透。

(透、異形の夾の腕を抱いて。)


帰りましょう、お家へ。

(吠えながら透を払い飛ばす夾。その夾の腕にしがみつく透。)


私は、馬鹿です。本当に何の力もない……怖い……今の夾くんは怖いです。でも……でも……これからも一緒に……一緒に……過ごしたいんです。
一緒に御飯食べて、一緒に勉強して、一緒に悩んで、私のワガママ聞いて欲しいです、夾くんの弱音も聞かせて欲しい。だから、一緒に過ごしたいんです。

(雨が止む。夾、人の姿に戻っている。)


全てを……愛してくれなくったってよかったんだ……怖がったって。怖がるのは、ほんとの俺をちゃんと見てくれてる証拠だから……。でも母さんは、愛情って言葉でごまかして見ようとしなかった。俺は、一緒に考えて、悩んで欲しかった。怖がったっていい、醜い姿を愛してくれなくても、それでも一緒に生きていこうって……。馬鹿みたいだ……そんなこと誰も、誰も口にはしてくれないって思ってた……。……透……透……どうしてお前はそうやって、今一番欲しい言葉をくれるんだろう。……

こうして、夾の「本当の」姿は透の言葉の中で受け止められ、夾は自分の「本当の」姿を受け止める。
「怖い、でも一緒に居たい」。たとえ、今はまだ怖れることなく受け入れることのできないもうひとつの姿を持っていたとしても、これまで夾と過ごせてきた時間を思えば、これからも一緒に時間を過ごしていきたい。ここには異形、異質なものと共存しようとする志向が描かれている。その共存を可能とするのは、にもかかわらず共に過ごせた、という事実である。共存できた事実が、受け入れられない異質な部分をも含んでやはり共存し続けることへの希望を生み出している。共に過ごせたことの事実がこれからも共に過ごせるはずだという希望を生み出している。同じ場所で同じ時を過ごせたことを希望に換えようとする透の言葉がここでの癒しを生み出している。
異質と思えるものとの共存の希望は、やはりどこかしら同じ部分を見い出していくことからしか始まらない。それは“同化”とか“融和”とかいうことではなく、どこかしら互いに同じだと思える部分を見い出していくこと。そのためには同じ場所・同じ時を過ごす必要があるだろうし、同じ場所・同じ時を過ごすことはどこかしらに互いに通じ合える部分がなければできない。

これもまた「心の商品化」なのかもしれないけれど…


木曜日の午後六時三〇分という比較的子どもの時間に、バトルやデュエルがあるわけでもなく魔法や宝探しがあるわけでもなくモンスターやロボットが出てくる訳でもなく、かといって日本一や世界一を目指すヒーローがいる訳でもなく、その上恋愛物でもないアニメーションが放送されていて、そこでは毎回のように誰もが思い当たるような悩みや葛藤にひとつの癒しのモデルが提起されていく。もしもそう呼ぶのならば、これもまた「心の商品化」と呼べるかもしれない。見ようによってはカウンセリング的な関係にも見える風景がアニメの物語として語られる。癒しの風景が「商品」になっている。
テレビの前でその風景を見る。すると見ている僕達もまた癒されるような感じを抱く。アコースティックな音楽に誘われながら心地よいカタルシスを感じる。僕もそのひとりだ。
その風景について、もう少しだけ考えてみたい。

十二支の呪とは何か


『フルーツバスケット』の中の風景をカウンセリング場面に見立てれば、本田透がカウンセラーで十二支の由希や夾がクライエントだ。ただし、透が十二支に癒されるという構図もあるのでピアカウンセリングに近い構図かもしれない。が、多くの場合透がカウンセラーで十二支がクライエントだ。
職業的なカウンセリング場面では、カウンセラーとクライエントの立場ははっきりしている。それは一方がカウンセラーの役割を、他方がクライエントの役割を演じることを双方が合意した上で演じられている場面だからだ。
しかし日常の生活の中にそのような関係を持ち込むことは難しい。日常の生活は複数の役割関係が輻輳しているのが通常だからだ。『フルーツバスケット』の透と由希や透と夾のような関係は早々に恋愛関係へと変質していくし、そうすれば三人の関係は恋愛上の三角関係になっていく。よくある夜のテレビドラマのような物語だ。
『フルーツバスケット』は微妙にそれを臭わしながらも恋愛臭を避けている。恋愛という関係を避けることで癒し合うという関係が目立つようになっている。癒す関係、癒し合う関係というのはしばしば恋愛とか友情とかいう名前で呼ばれる関係の中でその一部として必要に応じて構成される。だから親友の言葉に癒されたり恋人の抱擁に癒されたりする。だが『フルーツバスケット』では前提となる関係がぼんやりとして、癒し合う関係だけがくっきりと浮き出ている。そのための装置が十二支の呪である。
十二支の呪のために透と由希や透と夾の間で恋愛は発展しない。なにしろ抱き合った瞬間に鼠や猫になってしまうのだから。その瞬間に構図が変わってしまうのだ。かといって彼等の関係がただの友達かと言えばそうではない。透には親友の魚ちゃんと花ちゃんがいるが、彼女達の間の関係と透・由希・夾の三人の関係はやはり異なるのだ。とりわけ魚ちゃん、花ちゃんも含めて学校の人々は誰も十二支の呪の事実をしらない。彼女らから見れば、由希や夾は透の恋の対象であってもまったくおかしくない。
というわけで十二支の呪は、職業的なカウンセリング関係が成立しにくい舞台設定の中にそのような関係を成立させるための装置になっている。

少女達の抱擁の欲望


しかし十二支の呪の役割はそれだけではない。呪は『フルーツバスケット』の読者である少女達の抱擁の欲望、あるいは征服の欲望をも満たしてもいる。
由希は学園のプリンスと呼ばれる美少年だ。透と彼女の二人の親友を除けば、由希とタメ口をきける女の子は学校にはいない。その由希が突然掌に乗ってしまうような白鼠になってしまうのだ。その鼠を愛おしそうに透は抱く。夾は一時代も二時代も前の硬派の学生そのままのバンカラな奴なのだが、それが腕で抱きかかえられるほどの猫になってしまう。透はその猫を胸に抱き頬ずりをする。影のあるクールな二枚目はとりですらタツノオトシゴになって透に抱きかかえられて運ばれてしまうのだ。「ブラック」になると手のつけられない溌春も透が首を抱きしめている間中黒い斑のかわいい牛である。
羨望の対象や畏怖の対象が一旦変身してしまえば愛らしい動物に変身してしまう。そして多くの場合そこには透の抱擁や癒しの言葉が待っている。透に感情移入しながら見ている視聴者にとってそのシーンは羨望や畏怖の対象を我がものとした場面であり、抱擁への欲望の充足なのだ。母性への欲望と呼んでもいいかもしれない。
『フルーツバスケット』の性役割観はかなり「古風」だ。夾は平気で透に「早くメシつくれや」と怒鳴るし、掃除も洗濯も透の仕事だ。透が紫呉の家に住み込む条件がもともと家事をすることなのだからしかたがないといえばしかたのないことなのだが、その条件そのものが「古風」だ。由希は不器用でネクタイも結べない。すると透が「私の出番ですね」と由希のネクタイを結んでやる。紫呉の家では、男三人はいつもこたつで透が台所だ。そこには僕達にとってはなじみ深い昭和三〇年代頃の日本の家庭の姿がある。透はそこで母的役回りを演じている。

新しい家族


つまりは十二支の呪は、新しい家族を構成する為に用意されたインセストタブーなのだ。透の癒しはしばしば母の癒しのようである。透と十二支の癒しの関係を支えるのは、日常を共に過ごしている時間だ。『フルーツバスケット』の魅力は、その共に過ごす時間を作る為に新しい家族を構成したところだ。何か得体のしれない諦観と目的をもって草摩本家を出て暮らす紫呉、そこにやはり草摩本家を嫌って転がり込んだ由希、人を学ぶ為にイヤイヤ住わされることになった夾、そして自ら彼等を新しい家族なのだと決意し自分の血縁の家と決別した透。自らの選んだ者と新しい家族を構成し、そこでの喜びや苦しみを共有し合い、その積み重ねが再び癒しを生み出していく。『フルーツバスケット』は新しい家族選びのドラマであり、透はそこで母の役割を演じる。そのための装置が十二支の呪だったのだ。
NHKで放送されている人気アニメ『だぁだぁだぁ』も偶然一緒に暮らすことになった中学生男女の間に宇宙人の赤ん坊が転がり込んできて疑似親子三人家族が構成される。家は寺で、ちゃぶ台に御飯である。食事の風景は『フルーツバスケット』に似ている。ここでは新しい家族の構成装置として宇宙からの来訪者が使われている。
新しい家族と言えば、結婚という事態そのものが昔も今もそのものだ。「別々に生まれ育った二人が新しい家庭を築く」というのが大方の人々の結婚観だし、事実でもあるだろう。が、『フルーツバスケット』で新たに構成された家族は(そして『だぁだぁだあ』も同じだが)、結婚というものではない。「生まれ育った家族を出て新しい家族を作る」という意味での「新しい家族」がそこで求められたものではなく、「生まれ育った家族」そのものを代替する意味での「新しい家族」がそこでは求められているのだ。だから『フルーツバスケット』や『だぁだぁだぁ』での「新しい家族」「新しい家庭」は、結婚がそのようにみなされるのと同じ意味での「終局」ではなく、そこから出ていくことが前提とされた家族なのだ。そこから出ていくための家族を作るための血縁に変わる媒介、押しつけられた家族ではなく自らが選びとり作り出す家族のための媒介、それが十二支の呪である。

『フルーツバスケット』の中に僕達が見たのは認め合い支え合える家族の姿だった。それは『フルーツバスケット』の視聴者の若者達の今の家族への諦めと新しい家族への希求の反映なのだろうか。

(1)1998年。
(2)もちろん、ストーリーの省略や再構成がなされている部分はある。また、最終回には原作にはないオリジナルのストーリーが用意された。原作はまだ連載中である。
(3)草摩の一族の中で“猫憑き”はある種蔑まれる存在として位置づけられてきた。それには後に明らかになるある理由がある。
(4)余談だが最近の新聞で『ポリアンナ』が密かなブームだという話を読んだ。ポリアンナのどんな逆境でもよかったと思えることを探そうとする「よかった探し」のゲームが今の人々の気持ちを捉えるらしい。アニメ作品は『愛少女ポリアンナ』(日本アニメーション)。原作の邦訳は角川文庫から出版されている。