拉麺people食べ歩記

2011年の総括 part1

最終更新:

hiro

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書いた日:2012/1/4

2012年も三箇日が終わり、落ち着いてきたので、毎年恒例の前年総括を今年も書こうと思います。。。



その1 『杯数』


2010年のトータル杯数は、224杯でした。

掲載自主規制や載せ忘れも少々ありますが、それでも250杯は食べてないでしょう。
もはや仙台という尺度ではラーメンフリークと言えないレベルまで落ち込んでいますが(私的には仙台では年365杯以上、首都圏だと最低500杯以上がフリークかどうかのラインだと勝手に思ってます)、体重増加に人一倍コンプレックスを感じている自分にはいい傾向かと思っています(笑)

ちなみに数え始めてから、2007年は555杯、2008年は510杯、2009年は350杯、2010年は260杯だったので、年々いい感じに減っているんですが、それに反比例して体重が増え続けているのが気になります、、、
まぁそれが【年を取る】ということなのでしょう・・・





その2 『hiro的2011年度ラーメンNEWS TOP3』



第3位:【『ラーメン二郎』ついに仙台上陸!!

仙台出店は、ここ10年近く噂されては消えるということを繰り返してきましたが、つ・い・に!やってきました!!!
他地域とは違い、インスパイア店より本家の方が後にできたという特異的な状態だったので、受け入れられるかどうか注視していましたが、連日大行列と、そんな心配は“黄色い看板”には不要だったようです。

自分もオープン2日目に伺いましたが、その力強いジャンク感と、価格に対しての圧倒的なボリュームに驚かされました!

本家が来たことにより、一般的にはまだまだマイナーだった二郎系ラーメンが市民権を勝ち得てきたようで、相乗効果でインスパイア店の集客も伸びている所が多いそう。
そういう意味でも本家上陸は、宮城のラーメン事情に大きな影響を与えたのではないかなと思っております。
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第2位:【〔麺屋 誠和 featuring “hiro” 第2章〕開催!

2010年の【麺屋誠和 ferturing “hiro”】に続き、2011年も【麺屋 誠和 featuring “hiro” 第2章】と銘打って、麺屋誠和さんの4周年記念イベントで、私hiroがラーメンを作らせていただきました!

ありがたいことに、前年同様オープン前から沢山の人に並んでいただき、言葉では言い表せないくらい感謝感激でした!
2回目ということや、昨年の二郎インスパイアほどメニュー自体に“ヒキ”がなかったからか、ぶっちゃけ昨年より集客は落ちたのですが(苦笑)、作り手としては前年よりもいい物ができたという自信はあるので、自己満足はしております。。。

今回は「タンメン」ということで、鍋振りがあったので、営業中の苦労は目に見えていましたが、仕込みも前年以上にかな~り大変でした(汗)
ただ苦労した分、達成感も非常に大きかったです。
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第1位:【東日本大震災発生

ラーメンに限らず、全体的なことですが、やはりこれが最も心に残ったことと言わざるが得ません。
恐らく全ての宮城県民が、昨年最も大きな出来事として、こちらを挙げることと思います。

まずは東日本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈り致します。
そして愛する人を失われた皆様に謹んでお悔み申し上げると共に、被災により未だ不自由な生活を余儀なくされている皆様にお見舞い申し上げます。


戦後最も大きな災害が東日本を襲いました。

自分は職場であの大地震にあいました。
職場に流れた緊急地震速報では「震度3」というアナウンスだったので、揺れ始めても特に身構えることなく、その場に立っていたのですが、徐々に揺れが強くなっていき、「これは普通じゃない!」と感じ取り、デスクの下に隠れた瞬間、揺れが極端に強くなり、戸棚の扉が全て開き、ファイル等が上からバラバラと自分めがけて落ちてきました。
「弱まってきたかな?」と思うと、また強くなるというサイクルが3,4回くらいあったように思えます。
強さもさることながら、とにかく揺れが長かった、皆様がそう感じたことと思います。

いつもは3階で働いているのですが、たまたま1階にいたので、強い揺れが収まった後、窓から外へ出て、災害時の指定避難場所の駐車場へ向かいました。
数百人いる社員の中で、避難場所に着いたのが一番最後だったので、上司から「よかった、無事だったか!」と本当にホッとした顔で言われたのが今でも覚えています。

ウチの職場は仕事の関係上、高めの温度で室温管理されているので、真冬でもTシャツの上に薄手のユニフォームという恰好なので、大雪が降る中、その恰好で2時間以上震えながら指示が出るまで駐車場で待っていました。

建物内に入る許可が出てからは、余震に怯えながら次の指示を待っている間、ラジオで10m以上の大津波警報と流れたり、窓越しには道路は挟んで向かいの会社から火災による大きな煙が上がっているのを見たりと、とにかくパニックになりそうな自分を抑えるので必死でした。

17時頃にようやく帰宅指示が出て、信号が止まり、所々陥没した道路を悪戦苦闘しながら走り、妻の職場と子供の学校へ迎えに行き、18時過ぎにようやく家に着きましたが、すでに真っ暗の状態で家の中は足の踏み場もないくらい物が散乱していたので、中に入るのは危険と判断し、外靴のまま家の中に入り、毛布等だけ持ってきて車の中で一夜を明かすことにしました。
しかし、よりによってガソリンがランプが点くほどスカスカで、暖房も付けれない状態の中では、厚着をし毛布に包まっても、我慢のできる寒さを超えていたので、最終的にはもうしょうがないと、家の中に布団一枚敷けるスペースだけ何とか作り、そこで家族三人身を寄せ合いながら一夜を過ごしました。


長くなりましたが、震災当日の自分の行動はこんな感じでした。
翌日以降は、食料・水・ガソリン等の不足による苦労が待っていたのは、多くの人が体験したと思います。


自分は沿岸部ではなかった為、幸運にも津波の被害は受けませんでしたが、その他の被害としては少なからず受けることとなりました。
仲間も失いました。

失意ではありましたが、今回の震災によって、家族の絆はもちろんのこと、周りの人たちとの絆が非常に深まりました。
こういうピンチにこそ、その人の本性というか、人間性のようなものが出ると思いますが、皆本当に温かかった!
知り合いだけでなく、全く知らない人たちまで、本当に優しくしてくれました。
本当に日本人でよかった!と初めて思えた瞬間でした。

私を含め、生活も心も完全復活には、まだまだ時間がかかりそうという人が多いと思いますが、自分自身は気持ちだけは前向きに、ラーメンを通じて、皆様と繋がり、皆様に少しでも元気を与えれたらなぁと思っています。
自分にはラーメンしか取り柄がないので、これしかできないんです(笑)




長文にお付き合いくださいまして、ありがとうございます m(_)m
まだまだ書きたいことは沢山あるのですが、part1はこのくらいにして、part2では、こちらも恒例の「hiroが“涙した”一杯」の紹介をしたいと思います。


                                       by hiro



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