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Vivid Survivors(前編) 引き合うように重なる拳 ◆Oe2sr89X.U



 ホル・ホースは喜ばしい気分であった。理由など、改めて語るまでもないだろう。定時放送で呼ばれた二人の忌まわしい名前が、彼を喜ばせていた。
 花京院典明、ジャン=ピエール・ポルナレフ。
 自分にとって目の上の瘤であるジョースター一行の人間が、二人も脱落してくれたのだ。
 承太郎やDIOといった面倒な人間はまだ残っているものの、この分では彼らも案外適当な所で野垂れ死んでくれるかもしれない。
 手を組みたいと考えていた範馬刃牙や、悪魔が次善の策に上げた蒼井晶の死は想定外だったが、それでも特に致命的な事項というわけではない。

「……ッ」

 だが、アインハルトはホル・ホースとは違った。
 彼女は人の死を喜ぶような人間では決してないし、それ以前に、彼女にとっては見逃すことのできない名前が一つ読み上げられたのだ。
 ――桐間紗路。
 ラビットハウスを目指す理由だった少女の一人。喧嘩別れのような形になってしまい、結局謝ることさえ出来なかった。紗路はアインハルトの目が届かない所で、死んでしまった。
 ホル・ホースもすぐにそのことへ気付き、少なくとも表面上は死を悼んでいるような顔をする。心の奥底まではどうにもならないが、それでもせめて表だけは合わせてやるのは、ホル・ホースが心得る女人への礼儀の一つだった。

「しかし、参ったなあ。るう子の嬢ちゃんは今のところ死んではいないようだけどよ……」
「……るう子さんを探しましょう。もしかしたらるう子さんも、危ない目に遭っているかもしれません」

 もっともな意見だ。小湊るう子は桐間紗路を連れていたのだから、紗路に何かがあったということは即ち、るう子にも危険が及んだ可能性は非常に高いと言える。
 アインハルトは現実を受け止められないほど、幼い子供ではなかった。
 紗路が死んだという事実を冷静に受け止め、ショックを受けつつも、今自分にできる最善を尽くすべきだと彼女は考えたのだ。アザゼルが言っていたように、小湊るう子という存在は重大な意味を持つ。
 このままるう子まで殺されてしまう訳にはいかない。どうにかして、彼女を見つけ出さなければ。

 ホル・ホースとアインハルトが移動のために使用していたのは、彼女の支給品にあった高級車――メルセデス・ベンツと呼ばれる品だ。
 アインハルトは当然車を運転することは出来ない……大人モードの状態であればどうにかぶっつけ本番で運転することも可能なのかもしれないが、適任なのはやはり年の功があるホル・ホースであろう。
 彼の運転で今、二人はラビットハウスを目指しているのだったが、放送の時間が近付いてきたのを見て今は路傍に停車、放送内容を確認次第場合によっては今後の移動経路を調整する算段であった。
 が……今後は何はともあれ、るう子の捜索が先決だろう。

「嬢ちゃん、もう出発して大丈夫かい?」
「はい。……大丈夫です、私は」
「それならいいんだけどよ…………ん?」

 アクセルを踏み込みかけたホル・ホースが、訝しげに眉を顰めてブレーキを踏み、発進を中断した。
 どうしたんですか、と問うアインハルトに彼は前方を指差し、人がいるみたいだ、と言う。
 見れば確かに人間が居た。相手もこちらの存在に気付いているようで、こちらへ走って接近してきている。その顔を見たアインハルトの顔色が、見る見るうちに青ざめていくのがホル・ホースには分かった。
 次にどうしたんだと聞くのはホル・ホースの方だ。しかし返ってきたのは返事ではなく、彼女の怒鳴り声だった。

「早く車を出てください! 早く!!」

 その言葉の意味を即座に察したホル・ホースの行動は迅速だ。蹴り開ける勢いでベンツのドアを開き、地面に転がることも厭わず外へ飛び出す。
 アインハルトも同じだ。そしてそれから一秒と間が空かぬ内に、ベンツのフロントガラスを男の飛び蹴りが粉砕していた。能面のような無表情がよく似合う、機械のような冷たさを感じさせる男。
 アインハルト・ストラトスは、その男を知っていた。拳を構え、ゴングも名乗りもなく、リミッターの外れた超人と覇王流の第二戦が幕を開けた――


   ◆  ◆


 範馬刃牙。
 放送で読み上げられたその名を聞いた時、ジャック・ハンマーは心に釘を突き立てられたような痛みを覚えた。
 同じ鬼の血を引いて生まれた兄弟の死に何も思わないほど、彼は心からの冷血漢ではなかったのだ。
 しかしそれでも、彼は止まることなく歩み続ける。見つけた敵を殺すべく、走り始める。


   ◆  ◆


 アインハルト・ストラトスの脳裏に去来するのは半日前、この殺し合いで最初に遭遇した悲劇の記憶であった。
 池田華菜という罪も力もない、只不運だっただけの少女。その最後の言葉と死に顔がブロックノイズのように頭を過り、その度に覇王の集中力をミリ単位ほどの小ささではあるが抉り取っていく。
 内に潜む罪悪感という名の敵は、今ばかりは無視だ。それ以上に倒すべき敵が眼前で、あの時と同じ能面のような仏頂面をして待ち構えている。
 故に今、茫漠と広がる脳髄の大海より拾い上げるべき記憶は被害者ではなく加害者、死者ではなく生者のもの。
 試合と呼ぶには短すぎるが殺し合いと呼ぶには十分であろうごく僅かな時間。アインハルトが、この恐ろしきファイターの底知れない実力を垣間見た十数秒の記憶だ。

 互いの生涯総てを懸けた果たし合いに臨まんとする剣豪が如く、アインハルトもジャックも、不動を貫いている。
 彼であれ自分であれ、どちらかが動いたならその時点で悠長に思考している余裕は消えるだろうとアインハルトは直感的に理解(わか)った。
 一口にファイターと言っても、そこには様々な人種が混在している。無論此処で言う所の意味は国籍や肌、宗教の違いに依るものではない。
 お互いの強さを讃え合いながら磨き上げた技を曲芸のように駆使し、コミュニケーションを取るかのような『魅せる』試合をする者も居れば、逆に多くを語らず、只貪欲に勝利のみを追求する者も居る。
 ジャック・ハンマーは明確に後者だ。その事は先程、迷うことなく不意の一撃に及んだ辺りからも読み取れる。
 池田華菜もそうやって殺したのだろう。現にホル・ホースは彼の行動を全く知覚できていない様子であった。
 そんな彼を相手に、『競技』としての戦いを挑むのは自殺行為だ。殺す殺さないは別としても、殺す気でかからないことには勝負の土俵にすら上がれまい。

 インターミドル・チャンピオンシップの試合は熾烈を極めた。
 かの大会は言わずもがな殺し合いではなく、『競技』の枠組みで行われていた。
 だから戦いの中で思考し、活路を見出し、それを実践して敵を打破するという事が可能だった。
 だが今回はそうは行かない。全く思考するのが不可能と言うのが言い過ぎだったとしても、許される時間が格段に短くなるのは確実だろう。
 今しかないのだ。頭を回し、過去の不覚から敗因を分析できる時間は。
 アインハルトは敵手を睥睨する双眸の光をより鋭く、精一杯の剣呑さで満ちさせ、ジャックに踏み込むことを躊躇させようと慣れない心理作戦に打って出る。

 覇王の名を継ぐ者として褒められた戦法かどうかは別として、最善手なのは間違いない。
 ジャック・ハンマーにもし一瞬でも開戦を躊躇させることが出来れば、歴戦のファイターであるアインハルトはその一瞬の中で常人を遥かに凌駕した思考が出来る。
 其処から戦い方の基礎を編み出し、実践することで切り抜けんと考えた彼女の発想はファイターとしては満点だ。
 だが『殺人者』の思考としては、赤点の誹りを免れまい。

「――シッ」

 誤答であったぞと、伝える言葉の代わりに放たれたのは鋭い踏み込みから放たれる槍のような一撃だった。
 速度で言うなら、決して見切れないものではない。成人さえしていない子供同士の戦いとはいえ、魔法という概念が介入した戦いはジャックの世界で知られる格闘技の平均実力水準を完全に超している。
 そんな中で戦い、身を鍛え上げてきたのだから、アインハルトが弱い筈がない。
 事実彼女はジャックの鋭拳を手慣れた動きで弾き、追撃の膝蹴りも靴底での迎撃で捌き切っている。

「はッ!」

 防御に問題はない。実際、表情にこそ出しはしないものの、ジャックから見てもアインハルトのそれは素晴らしい動きと腕前と言う他なかった。
 にも関わらず、ジャック・ハンマーの余裕はまるで崩れていない。それどころか格下を相手にする時のような軽々しささえ、その動作には同居している。
 何が足りないのか、アインハルトは疑問に思うまでもなく、それを理解していた。

「言ったろう、"遊戯"の域を出ていないと」
「ッ……」

 拳が通らない。何の比喩でもなく、通用していない。要は防ぐことは出来るが、逆に攻めることが出来ていない。
 戦闘とは、攻めと守りの関係を相互に交代しながら繰り返すことで初めて成立するものだ。
 であればアインハルトとジャックのこれは、そもそも戦闘にすらなっていないと言うべき有様だった。
 アインハルトが幾ら守れているとはいえ、肉体を使って防御しているのだから、無限の耐久力など有り得ない。
 一度や二度、十度に届くまでは確かに余裕かもしれない。だがそれが百度、千度と繰り返されれば分からない。
 無論、それはジャックにとっても同じことが言える筈だが――彼はそういう希望を微塵たりとも抱かせない。手強さを通り越して不気味さすら感じさせる拳士(グラップラー)に、アインハルトは早くも押され始めていた。

(受け流されているワケじゃない……ただ単純に、体の強度が堅すぎる……!)

 女性と男性の体格差、筋力差を考慮しても尚異常と呼べるほどの、並外れた強靭さ。
 常人であれば一撃で昏倒させることだって造作もない、魔力の籠もった正拳を通さない程の筋肉の鎧。
 それこそがアインハルト・ストラトスとジャック・ハンマーの間に存在する壁の一つだ。
 そして質の悪いことにこの『壁』は、一朝一夕ではどうすることも出来ない領分の問題でもある。

 となると、アインハルトに残された選択肢は早くも一つに思える。
 最初にやったように、速度に任せての逃亡を試みること。同じ手段が二度通じるとは考えにくいが、それでもやってやれないことはないだろう。
 尤もジャックも、今度はそう易々と逃がすはしないだろうが……しかし生憎と、それは無用な心配だ。
 普通の格闘技の常識で考えれば勝率皆無と匙を投げるより他ない苦境であろうと、アインハルトにはその差を詰めることの出来る便利な力がある。
 ジャックが如何に優れたファイターであろうと、産まれた世界の差という解決し難い問題に阻まれ、決して所有し得ない異能の力――即ち『魔力』。

「覇王――」

 練り上げられた力は拳に伝わり、人間の打力を超えた剛力を其処に宿らせる。
 ……覇王流の奥義の一つであるこの技は、バインドによる拘束を物ともせずに相手を倒せる程の威力を誇る。半日前の邂逅においても初撃で使用し、彼を吹き飛ばしかけるという戦果を生んだ一撃だ。

「断」
「……悪いが」

 攻め手としては文句の付けようもない、洗練され抜いた強烈な一打。
 只一つ其処に問題が有るとすれば、それは。

「空――ごッ!」
「その技は『知っている』」

 ジャック・ハンマーという戦士にとって、この拳技を見るのは二度目であるという事だけ。その問題は唯一の綻びであり、同時に最大の綻びでもあった。
 拳を放たんとした右腕を下からの蹴り上げで逸らし、彼女がそれを"修正しなければ"と考えた一瞬、思考の空白を縫ってその腹腔を打ち抜く。
 胃液混じりの涎を吐き出すアインハルトの首筋を、ジャックの巌のように鍛え上げられた豪腕が掴み上げる。
 みしみしと骨の軋む嫌な音が聞こえ出すにつれてアインハルトの表情は苦悶に染まり、気道を封じられて声をあげることも出来ず、それでも果敢に彼女はジャックを睨んでいた。
 敵意という感情を極限まで込めた、死の淵に瀕した者にしか出来ない、命の輝きをこれでもかと燃やした眼光。それに正面から相対してなお、ジャックの力が緩む気配はまるでない。

「『覇王』か……」

 しかし彼もその心中では、アインハルト・ストラトスという少女が決して只者ではないのだと改めて実感していた。
 単に戦いを重ねただけでは手に入れることの出来ない――歴史の重みとでも呼ぶべきだろうか――、熱さと冷たさを同居させた威嚇の視線。
 覇王の名を冠した技を奮うに足る覇者の気質を、本能的な領域でジャックは感じ取る。

「確かに、間違いではないのかもしれないな」
「がっ、ぐ……うぅ、ぐ……!!」
「――だが、終わりだ」

 惜しいと思ったのは、殺人鬼ではなくファイターであった頃の名残だろうか。もしもアインハルトがもっと老成し、脂の乗ったグラップラーだったなら、きっとその強さは父を超える良き踏み台になったに違いないだろうに。
 だがそれも所詮ありえもしないイフの話だ。アインハルトは此処で殺され、超えるべき父はもう居ない。自分の戦う理由など、父を殺す為に生き返らせるという、子供にも分かる矛盾に満ちている。
 魔力を扱えようが扱えまいが、頚椎を砕けば人は死ぬ。下手に殴り殺すよりも、この局面ならば確実だ。
 敵意の視線を浴びながら、されど微塵も怖じることなく凶行へ及ぶジャック・ハンマー。

 ――瞬間だった。ジャックが瞬時に何かを察知し、アインハルトの首を掴んだままで背後へ飛び退いた。
 同時に響く甲高い音。細い首に込めた力が緩んで、今にも尽きかけていた覇王の命が少しだけ伸び、その証拠に塞がれていた気道が僅かに緩む。不明な展開ではあったが、好都合なことに違いはない。
 そう思っていたアインハルトは、しかし事の次第を理解した途端に瞠目した。
 ジャックの視線が向いている先では西部劇を思わせるダンディな風貌のガンマン――同行者、ホル・ホースが銃を構え、その先端からは一筋煙が昇っている。発砲した証だ。
 弾丸がどこへ消えたのかは、当のジャックが無傷で居ることから推して知るべしであろう。

「銃手(ガンナー)か。良い不意討ちだったが、考えが浅い」

 ジャック・ハンマーに遊びはない。西部劇めいた問答などする間もなく駆け出し、空いている片手の力のみで哀れなガンマンを扼殺、撲殺すべく殺意を迸らせる。
 その傍ら。小物か何かのように片腕で振り回されるアインハルトだけが、正しく事態を認識していた。

「……そいつは手厳しい! けどよ、おれに言わせりゃ『浅い』のはどっちかって話だぜ」

 乱射。ホル・ホースの様子を形容するなら、まさしくその言葉が最も正しい。
 アインハルトの身など顧みず放たれているそれは、ジャックの体はおろか、雑に扱われているアインハルトにも当たることはなく空を滑るばかりだ。
 おかしい。ジャックがその表情に、一抹の翳りを帯びさせる。
 それを確認した瞬間、笑みの浮いていたガンマンの顔面は――これ以上ない満点の喜色に満たされた!

「――何ッ!」

 そこでジャックも気付く。アインハルトが最初から気付いていたその異常に、漸く思い当たった。
 その遅れはひとえに、彼が能力の存在しない世界の住人であったからだろう。日頃からそういったものと関わる機会の多かったアインハルトに比べ、ジャックが異能に対して無知、鈍感であるのは致し方のないことだ。
 銃弾が、明らかに風の動きとは無関係な軌道補正を受け、意図的に自分と覇王を外している。
 全力で疾駆することで風圧を感じ、空気に対する認識が疎かになっていたことも災いし、まんまとジャック・ハンマーはホル・ホースの不意討ちに嵌ってしまった。そう、嵌められたのだ。

「――弾道を操る能力。そこはあんたも気付いてんだろ?」

 ホル・ホースの銃口がジャック・ハンマーへ合わせられる。彼は引き金をまた、乱雑な動作で幾度か引いた。

「オイオイ、見苦しい真似は男らしくないぜぇ?」

 ジャックは片手に掴んだアインハルトを盾にする事でそれを防ごうと考え、実行へと移す。
 それと同時に自身は脇へと飛び退き、撃ち終えた後の間隙を縫ってホル・ホースを殺す。そういう算段だ。だがそれは、『プロ』であるホル・ホースに言わせれば最も分り易い、予想のし易い行動でしかない。
 その程度のことも読めないような阿呆では、先ずこの時間帯まで生き残ることさえ叶わなかったろう。

「――あばよッ! ぶち抜きやがれ、『皇帝(エンペラー)』ッ!!」

 だから予定をなぞるように余裕綽々と彼は弾道を変え、アインハルトのみを綺麗に躱させた。
 三発、四発、五発。降り注いだスタンドの鉛弾がジャックの両手を、右耳を、左の爪先を、止めとばかりにその左目を、血の飛沫する壮絶な音と共に穿っていく。
 撃たれた部位が跳ね上がり、奇妙なダンスにも似た滑稽な動きをする彼の手。そこに籠もる力が緩んだのを見計らい、アインハルトは全力で拘束を振り解いた。
 脱出序でに、ジャックの胴を全力の断空拳で打ち抜き、吹き飛ばすのも忘れない。
 本来であれば彼女はこういった真似をするような人格ではないが、そうせざるを得ないと気高き覇王に思わせる程、ジャック・ハンマーという戦士は恐ろしい相手であったのだ。
 こうでもしなければ何食わぬ顔で追撃し、背を抉られそうだと――本気でそう思った。

 ジャックの体は錐揉み回転をしながら吹き飛び、八メートルは優に離れているだろう向こう側へと落下する。
 その体は動かない――起き上がってくる様子もない。殺した。そんな言葉が浮かび、アインハルトの胸中にどこか暗澹とした気持ちが湧き出てくる。

「全弾命中……いくら腕が立とうと所詮、只の人間ってな。このホル・ホース様が本気になりゃこんなもんよ――って、……あ、ああ、すまねえ。アインハルトの嬢ちゃん、大丈夫かい?」
「……はい。まだ少し酸素が足りない感覚はありますが、動けない程ではありません」
「お、おう。それなら良いんだけどよ、はははは」

 ホル・ホースの目から見て分かるほど、アインハルトは消沈した顔をしていた。
 一対一の戦いに横槍を入れられて拗ねているわけでは勿論ない。あのまま戦えば、アインハルトは確実に殺されていた。それをホル・ホースが助けるのは自然な流れだし、寧ろ感謝すべきことである。
 そう分かっていても、間接的に、或いは直接、人を殺したという事実は十代そこそこの少女には重いものだった。
 彼処で倒れているあの男にも家族や、自分で言う所のヴィヴィオのような友人が居たのかもしれないと要らぬことを考え、胸が締め付けられるような思いに苛まれる。
 そんな心境を察したからこそ、ホル・ホースもばつが悪そうに目を逸らしている。

 彼は世間一般で言う所の汚れ仕事を請け負う人間だし、その生き汚さは人によっては邪悪と断じる程見苦しく、悪い意味で人間的である。
 だが、同時に彼は世界一女性に優しい男を自称してもいる。
 針目のような化け物でない限り女は撃たないし、女性の感情の機微も分からないほど落ちぶれたつもりもない。
 あの場面は確実に、殺さなければならなかった場面だ。それでも小さなアインハルトにはさぞかし衝撃だったろうと考え、彼女に可哀想なことをしたかなと思うくらいの良心は残っている。
 かと言って、殺したことを後悔するような女々しさの持ち主では決してないし、もう一度先の流れを繰り返すことになったとしても、彼は毛ほども躊躇わず引き金を引いただろうが。

「あー、……アレだ。ヘヘ。少し離れた所で休んでからにしようぜ、ラビットハウスへ向かうのはよ」
「いえ。乗っている内にクールダウン出来そうなので、ホル・ホースさんがよろしければ、このまま進みましょう」
「そ、そうかい?」

 アインハルトの首には、ジャックの手形がくっきりと残っている。痛々しいほどだ。
 もし自分があんな風にされていたなら、死にはしなくても確実に意識は飛んでいただろう。
 化け物などという形容はしないにしても、やはり随分と常識離れした少女らしい――ホル・ホースはこの若き同行者の評価をそう改めた。
 ――さて、いざ向かうはラビットハウス。兎の巣だ。余計な邪魔は入ったが、これでしばらくは安全に進めるだろう。そうでないと困るぜオイオイと、心の中で祈りながら歩き出すホル・ホースとアインハルト。

 その時だった。先頭を歩いているアインハルトがカッと目を見開いて、ホル・ホースの方を、より正しくはその遥か後ろの方へと振り返る。
 そこに宿っているのは殺した相手への感傷ではない。純粋な戦慄が、その表情には満ちていた。
 ホル・ホースは頭の良い男だった。アインハルトの表情から、今自分の背後で何が起きているのかを容易く理解してしまえるくらいには、察しも良い男だった。
 だから気付いてしまう、その戦慄の意味に。
 誰もが目を逸らし、必死になって別な理由付けを考えるだろう驚愕の事態に思い当たってしまう。

「じょ……冗談だろ?」

 ホル・ホースが振り返ったその先に、倒れ臥している筈のジャックの姿はどこにもなかった。

「――ホル・ホースさんッ!」
「?」

 アインハルトが眼と口を見開いて手を伸ばしていた。
 その意味を理解するよりも前に、自分の懐に何か大きなものが前傾姿勢で飛び込んできているのが分かり、慌てて『皇帝』の銃身を顕現させようとした時には、全てがもう遅い。
 ドゴォ、と、強烈な衝撃音が響く。ホル・ホースの体がくの字に折れ曲がり、吹き飛んだ。彼の体は近くの木へと叩き付けられ、がっくりと脱力する。

「貴方は……!」

 そこに佇む男の姿は、先程打ち合っていた戦士のものとは既にかけ離れていた。
 両手の指数がそれぞれ一本ずつ欠け、右の耳が痛々しく吹き飛んでいる。片方の爪先が抉れて血を垂れ流している。
 能面のような顔は血で彩られ――右目は潰れ、ゼリー状の物体すら溢れ出している。アインハルトはそのグロテスクな光景に、嘔吐さえしそうになった。
 彼こそは紛れもなくジャック・ハンマー。右目を撃ち抜かれ、それでも死することなく立ち上がってきた不屈の殺人鬼(グラップラー)である。

「指が欠けても拳は握れる。耳も片方残っている。足先が飛んだが、立てるのならば何も問題ない。臓物も破れていないし――」

 潰れた流動体を流し続ける右目に、ジャックは自らの人差し指を躊躇いもなく捩じ込んだ。
 そのまま中で蟠っている目玉の残骸を穿り出し、奥に突き刺さっていた銃弾も摘出する。外科手術の『外』を外法の『外』と勘違いしているのではないかと言う程の常識離れした手術。
 発狂するほどの痛みがあって然るべきであろうに、その顔は笑みすら浮かべていた。
 アインハルトは初めて、こう思う。――怖い。この男があまりにも恐ろしいと、そう感じた。

「視界の半分など、瑣末だ」

 恐怖は人を俊敏にするが、その逆も然りだ。
 この時アインハルトは抱いた恐怖心に足を引かれ、動きを一瞬鈍らせた。反応が遅れてしまったのだ。
 それを逃さず、強烈なフックの一撃がアインハルトの顔面を容赦なく右から殴り飛ばす。宙を舞う体。ボロボロになっている歯が、更に何本か折れて飛ぶ。受け身を取ったアインハルトが最初に思ったのは、威力が明らかに上がっているということだった。
 そのきっかけは彼女には見出せないが、ジャック・ハンマーは理解していた。
 喧嘩部特化型二つ星極制服。彼のような巨漢が学ランなんてものを纏っているのは非常に滑稽な姿であったが、この服こそがジャックを今後押しし、更なる高みへ押し上げようとしているのだ。

 極制服に施された悪燃費という欠点。
 肉体の度重なる酷使によって悲鳴を上げていたのはジャックの体だけではなく、この極制服もまた同じだった。
 彼の極制服はそのオーバーワークに伴って、一時的な活動不能状態に陥っていた。ジャック・ハンマーのストイックなスタイルに彼は耐えられても、服は耐えられなかったのだ。
 平和島静雄との再戦から暫しの時を経て、今、漸くその休眠が解けたのである。
 極制服はジャックに惜しみなくその膨大なパワーを与える――彼の体のことなど考えもせずに。だが、最早それも今更の話だろう。こんな有様で動けるような人間に無理をするなと宣うことの、何と無意味なことか。

「ぐッ」

 ジャックの放つ連撃をいなすアインハルトの動作には、先程までの流れるようなキレがない。
 彼女は疲弊したのではなく、ジャックのパフォーマンスの上昇に伴い、受け切れなくなりつつあるのだ。
 速く、重く、鋭く、容赦のない拳の嵐は少女の肉体を少しずつ、然し確実に壊していく。

(ならば……ッ)

 アインハルトはジャックの拳をわざと受け、最大限に威力を殺して距離を取るためのブースター代わりとした。
 代償が全く無いというわけでは勿論ないが、それでも彼の動きを一瞬でも止めつつ距離を確保できるのは破格だ。
 そのままアインハルトは地へと、自らの鍛え上げられた拳を突き付ける。
 着弾の瞬間、激しい衝撃波が生じ、それは地面を伝わって物理的損害を伴った地震と化しジャックを襲う。

「破城槌ッ!」

 だがそれも、十全以上の力を発揮して突撃してくるジャック・ハンマーの足取りを止めるには役者不足と言う他なかった。腕をX字にクロスして衝撃を受け止めつつ吶喊するジャック。
 その攻撃を止めるためにアインハルトが用いた構えは防御主体の姿勢、『牙山』と呼ばれるものだった。
 ただ、正確には違う。牙山は肘で相手の攻撃を受けつつ、相手にもダメージを与える防御の構えであるが、今のジャックを相手に肘という重要な部位を晒す真似をするのが得策とはアインハルトには到底思えなかった。 
 だから受ける位置を少し変え、安全性を確保する代わりに追加効果を無為にした。
 無論、彼女もそれだけでは終わらない。

「しゃああああッ!!!!」

 鉄槌を思わせる重い拳で、ジャックの胸板を打つ。
 ジャックは一瞬だけ動きを止め、口から微量ではあるが血を吐いた。その手応えに喜ぶ間もなく、アインハルトの細腕――より正しくは手甲の先から露出した指先に異変が起こる。
 女性らしいピンク色をして肉に張り付いていた爪が剥がれ、血を滲ませていたのだ。大きなダメージではないが、これまでの戦いには見られなかった謎の事態に思考が僅かに動転する。
 その隙を逃さずジャックが、今度はアインハルトの腹を蹴り上げた。

 そこで、すっかり聞き慣れた破裂音が響き、ジャックの失われた片耳の辺りを銃弾が通り抜けていく。
 見れば樹の根元に寄りかかったままのホル・ホースは意識までは失っていなかったのか、銃を震える手で構え、ジャックへと向けていた。
 だがそれも、強化されたジャック・ハンマーにとっては単に小煩く邪魔なだけの小細工でしかない。
 受け身を取らんとするアインハルトの側頭部を蹴り付け、その肉体を無様に地面へと転がらせる。彼女が起き上がるまでの隙を利用し、ジャックは踵を返した。
 どこへ向かうのか。言うまでもない。戦いを邪魔立てする、小狡い銃手(ガンマン)の殺害である。

「ちッ……『皇(エン)……  帝(ペラ―)……』!!」

 ホル・ホースは逃げようにも、それが出来ない状態にあった。
 吹き飛ばされた際に腹を強く打たれたこともそうだが、樹へと頭からぶつかってしまったのが拙かった。
 脳震盪でも起こしているのか平衡感覚が異常を訴えており、立ち上がることさえ果たして満足に出来るか怪しい有様。ジャックほどの相手から逃れる逃げ足など、発揮できよう筈もなかった。
 ではこの哀れなガンマンは虫ケラのように殺されてしまうのかと言えば、そうもならない。
 俊敏にダウンから復帰したアインハルトが全力でそれを阻止するべく走り、二人の間に割って入って迎撃の拳を放った。拳と拳がぶつかり合い、びりびりと衝撃波が巻き起こる。
 果たして打ち負けたのは、ジャック・ハンマーの方であった。拳が後ろに跳ね、これまでで最も大きな隙を晒して硬直する。アインハルトは勿論、ホル・ホースにもはっきりと分かる攻め時だった。
 アインハルトの握った拳が顔面目掛け繰り出される。それは奥義の域にこそ届いていないが、それでも匹敵するだけの、乾坤一擲の一撃だ。
 如何に本来の実力に加えて極制服のアシストまで受けていようとも、無傷で凌げる一撃ではなかった。
 ――が、それは裏を返せば、凌ごうと思わなければどうとでも出来るということである。ジャックは頬骨の辺りでアインハルトの拳を受け止め、骨に罅が入るのを感じながら、しかし強靭な脚力を武器に踏み止まった。

 ならば、もう一撃とアインハルトが拳を引こうとするが、それは叶わない。
 彼女の拳はがっちりと固定され、所謂大人モードの腕力をしてもびくともさせることができなくなっていた。
 では何が、アインハルトの拳を掴んで離さないのかと言えば――ジャックの上下の歯、である。

「ぅあ…………!」

 ジャック・ハンマーが晒した隙はあまりにも大きく、ファイターであれば誰もが迷わず突く大きな空白時間だった。
 現にアインハルトはそこで踏み込んだが、その結果としてこのように、彼の両顎に硬く捕らえられてしまった。
 予期するというのがまず不可能。アインハルトが今まで相手をしたこともない奇策めいた戦法、あろうことかそれがジャック・ハンマーというグラップラーの『得意技(フェイバリット)』であるなどと。
 噛み付き攻撃(バイティング)。非常に原始的かつ、一歩間違えれば顎や歯を砕かれるリスクを孕んだ攻撃だが、ジャックのそれは並のファイターが繰り出すそれを遥かに上回って余りある。

「……ッ~~~~~~――――!!」

 ましてそこに極制服の上乗せが施されればどうなるか、語るまでもない。
 ジャックの牙はバリアジャケットを食い破り、アインハルトの肌に達し、その左手首から先を三日月状に食い千切った。溢れ出す鮮血、部位の喪失という精神的ショック、それらが一斉にアインハルトに襲いかかり――

「――――あああぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁあああああ゛あああぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁあああああッッ!!!!」


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137:猿の夢 ジャック・ハンマー 159:Vivid Survivors(後編) 不屈の夢の彼方まで
138:心の痛みを判らない人 アインハルト・ストラトス 159:Vivid Survivors(後編) 不屈の夢の彼方まで
138:心の痛みを判らない人 ホル・ホース 159:Vivid Survivors(後編) 不屈の夢の彼方まで