猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

続虎の威29

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匿名ユーザー

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「どう? 味、する?」
 甘く煮詰めた果実を一口。口に入れた瞬間、コウヤはかすかに目を見開いた。
「――甘い」
「やった! やったよカアシュ、味わかるって!」
「まあ、まだ少しだろうがな。そのうち普通に味が分かるようになるだろう」
 焼けた石を口に押し込まれ、以来コウヤの味覚は消えた。だが、ただの火傷ならば治療はできる。ネコが寄越した
塗り薬を舌に塗り続けること五日――コウヤはしばらくぶりに味という物を意識した。
「コウヤさん、何か食べたいものある? 落ちる前に好物だった物とか……あたし、できる限り用意するからさ。
何食べたい?」
 コウヤはゆっくりと果物を飲み込み、視線すら動かさぬまま答えた。
「何も」
「な……何もないの? ほんとに? 焼肉とかさ……わりと、すき焼き的なのも作れるんだよ。頑張れば醤油
手に入るし。砂糖は普通にあるから。こっちの魚も結構おいしいから、寿司だってなんとかなるし。ちなみに
あたしはプリンが好きだけど……」
 コウヤは首を振る。
「本当に、何も」
「……そう」
 千宏は肩を落とした。
「そか……うん、じゃあ……うん。何か欲しくなったら、何でも言って」
「――なぜ」
「うん?」
「私に施しを?」
 千宏は軽く表情を引きつらせた。
「ほ……施しって、あたしは別に……ただ、怪我は治すのが当たり前だから……」
「あなたは対価も求めず私に与えてくださる。私を哀れと思って下さるのですか?」
「そうじゃない! 違うよ別に、あなたを哀れんでとかそういうんじゃ……!」
 弁解するように言いかけて、千宏は首を振った。
「いや……ううん、思ってる。確かに思ってるよ、かわいそうだって。それは思ってる。けど、施しとか
そういうんじゃなくて……」
 なんと説明したものかと、千宏は視線をさまよわせて眉根を寄せる。
「ただ、純粋に嫌じゃん。目の前で誰かが怪我したり、苦しんだりしてるのに、自分はそれを治せるのに
、何もしないでいるなんてさ……。だから、ただのあたしの自己満足なんだ。別に施してやってるんだから
感謝しろとかそういう話じゃなくて、全部自分のため」
「自分の……」
「でさ、その……敬語なんだけど。あー、あたしの方が敬語使うべきかな。べき、ですよね。コウヤさん
年上なんだし、元教師なんだし……だからですね! あたしはヒトで、コウヤさんもヒトなんだから、
もっと普通に話してくれたらいいんだと思うんですけど……」
「救っていただいた身で、恐れ多く思います」
 千宏は口を閉ざした。
 カアシュが気まずそうに肩を竦めて部屋を立ち去り、千宏とコウヤだけが残される。
 千宏は小さく息を吐き、ぺたりと床に座り込んだ。ベッドに半身を起こしているコウヤが、視線だけで
それを追う。
「ねえ、コウヤってさ……どんな字書くの?」
「――字?」
「そう。ずっと聞こうと思ってたんだ。名前? それとも苗字?」
 あたしはね、と千宏は笑った。
「千に、面倒くさい方の広いって字を書いて千宏。もちろん名前」
 コウヤは微かに眉をひそめた。
「千に……宏い……」
「コウヤさんは? 高野の線が濃厚だと勝手に思ってるんだけど」
 コウヤは目を伏せ、しばしの沈黙を置いてからすいと顔を上げた。
「幸福の幸に、也と書いて」
 苦いものを押し殺すようにしてコウヤは言った。
 コウヤ――さちなり、と書いて――幸也。
「名前です。苗字はアキザキ――秋の崎と書いて」
「秋崎、幸也?」
 千宏は笑った。
「あたしもアキザキなんだ! 明るく咲くって書いて、明咲」
「そう……ですか……」
 コウヤはぼうとした目で千宏を眺め、かすかに眉をひそめて辛そうに笑った。
「始めまして――明咲さん」
 それは、千宏が始めて見たコウヤの本当の表情だった。
 氏名を名乗り、親しくなる前は苗字を呼ぶ――もとの世界では当然の常識だったその行為が、
この世界では余りにも懐かしい。
 苗字があった。――家があったのだ。家族があった。苗字とは、自分と一族との繋がりを示す
ものだったことを唐突に強く実感し、千宏は知らず苦く笑った。
「始めまして、秋崎さん」
 千宏がそう返すと、コウヤは微かに肩を揺らす。
 笑ったのだと思ったが、コウヤは涙を流していた。
「コウヤさん?」
「ああ――」
 はたはたと流れ落ちる涙を不思議そうに見下ろして、ゆっくりと目を瞬く。
「まだ、涙が」
 残っていたのかと、コウヤは言外に呟いた。
 表情は常と変わらないのに、その瞳から涙だけが溢れ出して止まらない。
 その涙にどんな意味があり、どんな理由があったのか、千宏にはもとよりコウヤにもわから
なかった。
 恐らく、ひと時の懐郷だったのだろう。失ってしまった物は余りにも多く、大きかった。
コウヤも、もちろん千宏も。
 けれど千宏には得た物も多くあり、恐らくコウヤはこの世界で何ひとつ、得たものなど
ないのだろう。
「……コウヤさん」
「はい」
「取引をしようか」
「――はい?」
 千宏は笑ってコウヤを見上げる。
「あたしはコウヤさんを助けたけど、あたしの命を救ったのはコウヤさんだ」
「私は……何も」
「ナイフを投げたでしょう?」
 コウヤは答えない。
「だから、差し引きゼロだと思うんだ。貸し借り無しで、あたしとコウヤさんは対等の関係なの。
そりゃ、あたしはお金ももってるし仲間だっているけど、代わりにコウヤさんはあたしがどうしても
欲しいと思ってる物を持ってる。――だから取引をしよう」
「私が……持っている物……」
「あのね……あたし、子供が欲しいんだ。そのためだったらなんだってする」
 コウヤは千宏を見下ろし、まじまじとその顔を凝視した。
「だから、あたしに子供をちょうだい。そうしたら、あたしはコウヤさんを自由にしてあげる。
足だって治せるようにがんばるし、なんとか人間として生きていけるように手配する。もし
コウヤさんが望んでくれるなら、一緒に旅をして、それで産まれてくる子供の父親になって
くれたら嬉しいけど……」
 ほぼ、その場の勢いだった。
 コウヤから子種をもらおうなどと、千宏は今の今まで思ってもいなかった。例え思ったことが
あったとしても、それを実際に持ちかけようなどとは夢にも思わなかった。長い歳月を性奴隷として
虐げられ続けてきたコウヤに対し、その提案は余りにも下種なように思えたからだ。
 だがどういうわけか気が付くと、その提案はするりと千宏の口から飛び出してきた。
 そうしてそれに対する返答も、思っていたよりよどみなく、するりとコウヤの口から滑り出してきた。
「断ったら」
 千宏は目を見開いた。
「――え?」
「もし、断ったら」
「こ、断ったら……? そんなに即断で断らなくてもって思うんだけど、えっと……! それじゃ、
引き受けてもらえる条件を頑張って探す……かな」
 コウヤは目を細めた。
「――あなたは、私を罰したりはしないでしょう」
「ば、罰するって……! だから、あたしとコウヤさんは対等で――!」
「だから私は言うことができます。――あなたと私は対等ではない」
 コウヤがあまりにも静かに言うので、千宏はそれ以上否定することができなかった。
「私が取引を拒んでも、あなたが失う物はない。けれど私は身の安全を失います」
「失わないよ! あたし、コウヤさんが取引を断ったからって、コウヤさんを放り出したりなんかしないもの」
「ならば一層、私達は対等とは言えないでしょう。あなたは私を庇護し、私はあなたに依存している」
「けどあたし……本当に困ってたんだ……! ハンスは犯罪者だし、あたしはヒトだし、まともな店で
ヒトなんて買えなくて……けど、どうしても子供が欲しくて……」
「それでも、私は世界にただ一人のオスヒトではない」
 他に選べる手段がある者と、他に生きる手段を持たない者。それが、千宏とコウヤの間に
横たわる絶望的な差だ。
 気付いていなかったわけではない。自分とコウヤが対等だと言い張ったところで、それは
独りよがりの暴論でしかないことに。
 恐らく、千宏がコウヤの立場でも同じことを言っただろう。事実、千宏はそう言ってバラムたちを
さんざ困らせてきたのだ。
 一人で生きる力が欲しいと思った。一人で生きられるのだと、誰よりも自分自身に証明したかったのだ。
 けれど結局、自分は一人で生きているわけではないではないではないか。
 ハンスが居なければ旅を続けることなどできなかったし、カブラたちが居なければそもそも旅を
始めることすらできなかった。
 メスヒトがたった一人で、例えどれだけ金を持っていたとしたって、この世界でまともに
生き抜けるわけがない。
 所詮無力だ。その点では少なくとも、千宏とコウヤは対等であると言えるように思えた。
 では千宏とコウヤを隔てている、生きる手段とはそもそも何なのだろう。
 ふと、千宏の頭にある言葉が浮かんだ。それは現在の千宏を表すのに、恐らく最も適切な
言葉だろう。
「――虎の威を借る狐」
 虎を恐れてへりくだる動物達を見渡して、狐があたかも自分が森の住人から恐れられて
いるかのように虎に語る狐の話である。
 転じて、実力も無いのに他者の威光を借り、威張り散らす者を言う。
「その狐なんだ、あたしは。あたし個人にはなんの力もない。ただちょっと、虎を騙す
ずるがしこさがあって、いくらか運が良かったくらいのもんかな。虎がいなけりゃ狐は
無力で、誰にも見向きもされなくなる」
 それでも、と千宏は繋いだ。
「あたしは対等だと思ってるよ。ハンスとも、あのトラ達とも。力でなんてかなうわけないし、
あいつらがその気になったら、あたしなんてすぐに売られちゃう。けどあいつらはそれをしない。
あたしが居なくなったところであいつらに不利益なんてほとんどないけど、それでもあいつらは
あたしをどこかに売り払ったり、無理矢理犯したりとかはしないんだ」
 どうしてだと思う? と千宏は問うた。期待していなかった通りに、コウヤは首をかすかに
傾けるばかりで答えない。
「情があるかだって、あたしは思ってる。もしあたしが死んだり売られたりしたら、あいつらも
嫌な気持ちになるんだ。友達が死んだらショックを受けるでしょ? まあ、ペットが死んでも
もちろんショックだろうけど……どっちにせよ、情って理由であいつらはあたしを殺さない。
さらにあいつらは、それぞれあたしに何らかの形で借りがある」
 その借りが、特別大きいものかと聞かれたら千宏には答えられない。千宏が護衛に雇わなくても、
ハンスは生きていけただろう。千宏が義足を作らなくても、カブラ達はきっとどうにかなって
いただろうとも思う。
 それでも、千宏はそれぞれに少なからず影響を与えたはずだ。よい影響だった
はずだと自負している。
「そりゃもちろん、客観的視点とか社会的観念から見たらあたしとハンスたちが対等な
わけないんだけど、それでもあたし達の中ではお互い対等って認識になってる――と、
あたしは信じてる。それだけで十分だと思うんだ。少なくとも現状では、あたし達の
立場なんてどうでもよくて、お互いがお互いをどう感じるかが重要なんだと思ってる」
 詭弁である。その自覚はもちろんあった。どんなに理屈をこねたところで、ハンスたちが
手の平を返せば千宏はなすすべもなく奴隷に落ちるほか道はない。
 彼らの良心と倫理観に依存した対等とは、真の対等とは言えないかもしれない。だが、
たとえ千宏を殺してもこの世界は彼らを罰することはない――その事実が変えられない限り、
もはや対等などと言う概念は個人の心の中にしか存在しないと千宏は思う。
「個人間での、価値設定……」
 独り言のようにコウヤは零した。実際、独り言だったのだろう。誰かに語りかけた風ではない。
「あたしがコウヤさんに他では補えない重要性を感じていたら、コウヤさんは大勢の
オスヒトのうちの一人じゃなくて、唯一無二のコウヤさんって存在になるんだ。で、
上手い具合にあたしはどうしてもコウヤさんの子供が欲しい。けど断られたからって、
コウヤさんを傷つけるなんてとてもじゃないけどできない。想像するだけでぞっとする」
 実際、千宏は自分がコウヤを打ち据える姿を想像して全身を粟立たせた。
 誰かを奴隷のように扱うなんて、冗談ではない。人間同士に奴隷の歴史があると言ったって、
千宏は現代日本に生まれ育ったのだ。
 何よりコウヤは、千宏がこの世界に落ちて初めてまともに言葉を交わしたヒトなのだ。
単純な話、同族意識も強く出る。
「それに……」
 千宏は一瞬言いよどんだ。
 黒い髪に、黒い瞳。頬はこけて肌もくすみ、無精髭こそ剃ってはあるが、だらだらと
延びた前髪が目にかかってひどく鬱陶しそうに見える。
 それでも、コウヤは整った容姿をしていた。四十がらみの男を間近で眺めて綺麗だと
思うのだから、余程の美形なのだろう。
「コウヤさんはかっこいいもの……。頭もいいし、お金出して買ったらとんでもない
値段になっちゃいそう。でも、できるだけいい遺伝子が欲しいって言うのは、動物の
本能みたいなもんじゃない?」
 千宏は誤魔化すように笑った。
「だから、対等な立場で取引をしよう。反故なら現状維持で……あー。ううん。やっぱ
足を治す努力もするし、必要なら人間として生きていけるように手配もする。っていうか、
あたしがしたいんだ。これは。もちろんあたしと一緒に旅をするって選択肢もあり! 
これあたしの一押しプランね! だから――」
 千宏は恐る恐るコウヤの手に触れた。指に指をそっと絡め、優しく握る。
 その手が握り返されることはなかったが、千宏はそのごつごつとした男の手に額を
寄せて目を閉じた。
「取引の対価はコウヤさんが決めて。望むもの、望むこと、なんだっていい。元の
世界に帰るのは泣いても叫んでも無理だけど、この世界でまかなえることならあたし、
頑張ってみるから。あたしは、コウヤさんから何かを奪う取引は絶対にしない――
それじゃ対等な取引じゃなくて、卑劣な脅しになっちゃうから」
 コウヤが手を動かす気配を感じ、千宏は顔を上げた。千宏の手からするりと自らの
手を引き抜き、コウヤをその手をそっと自らの膝の上に置く。
「私は安らかに死にたい」
 千宏は呼吸を止めた。愕然と顎を落した千宏の瞳を虚ろに見返し、コウヤはその目を瞼に隠す。
「そう望んでも、あなたはお許しにならないでしょう」
 ――それは諦めの目だった。シャエクに対する物となんら代わりのない、途方もない
疲労と落胆に彩られた目だった。
「なんで……? だって、コウヤさん助かったんだよ? もう誰かに売られることも
ないんだよ? 味だって、分かるようになったじゃない! 足も治せる様に努力するし
……これから毎日楽しいことして、美味しいもの食べて、今まで辛かった分取り返せるんだよ!?」
「式の最終項が負の乗数の場合、前項に負数を持ってくるしか解を正数にする術はない」
「……は?」
 単純な算数である。マイナス1にどんな正数をかけたところで、解は永遠にマイナスのままだ。
 だが、どうして突然算数なのだ。千宏が問い返すと、コウヤは静かに付け足した。
「でなければ、ゼロを」
 そうすれば、式の内容に関わらず解は自然数ゼロとなる。
 ――すべての式を無かったことに。千宏はぱっと立ち上がり、コウヤのベッドから飛びのいた。
「……なんで足し算じゃないの?」
 間の抜けた質問だと自分でも思ったが、式の最終項をマイナスの乗数だと定めることが
そもそもの間違いだ。現在の解がマイナスだろうと、後からいくらだってプラスにする
ことはできるはず。
「だって……最終項は普通、これから起こっていくことの積み重ねで、解はどんどん
変わっていくものでしょ? だから解がマイナスだって、あとからプラスを足してけば
いつかはプラスになるわけじゃん」
 人生においての幸福と不幸。それらの収支決算は死んだときに確定する。だというのに
今死んでしまっては、コウヤの人生の収支決算は明らかにマイナスだ。
「得てしまった記憶はゼロにはならない。今後のどれほど私の人生に喜びを重ねても、
それらはすべて過去の苦痛を呼び起こす鍵になるでしょう。苦痛と喜びは独立しない
――この二つが相互に影響し合う以上、幸福が単に加算されるものとは言えません」
「だからって今死ぬって言うの!?」
 激しい眩暈を覚えて、千宏は叫ぶようにしてコウヤを怒鳴りつけた。
 毎日を怒声と蔑みの中で生きてきたコウヤに対し、千宏の怒声などなんの意味も持たないことを、
理解していなかったわけではない。
 けれども、千宏は怒鳴らずにはいられなかった。
 コウヤは千宏を亡羊と見上げ、小さく首を傾ける。
 そうして、初めて千宏と対面した時のような、空虚で空寒い笑顔を見せた。
「あなたはお許しにならないでしょう」
「やめて!!」
 先ほどの言葉を繰り返したコウヤに、千宏は鋭く叫んでその瞳を睨んだ。
 今までの人生で、これほど寒気を覚えた事が果たしてあっただろうか。命の危険が間近に
迫ったときでさえ、これほど血が凍りはしなかったと千宏は思う。
「あたしの前で……奴隷みたいに振舞わないで……あなたはもう、奴隷じゃないんだ」
「私は――」
「奴隷なんかじゃない!」
 心臓が引きつり、よじれるように痛んだ。千宏は胸を押さえて、一歩コウヤから距離を取る。
 そのまま、千宏は部屋を飛び出した。

 開きっぱなしのドアを眺めて、コウヤは静かに息を吐いた。
 ――随分と、喋った。
 しかも、反対意見をだ。
 コウヤは目を閉じて天井を見上げる。
 恐ろしかった。
 反論を口にした瞬間、千宏は青ざめてコウヤを睨み、怒り狂って声を荒げた。次の瞬間にも
鞭を振り下ろしかねない剣幕だったように思う。
 だが、千宏はただ部屋を飛び出して行った。歳相応の少女が誰かと喧嘩をした時にそうする
ように、目に一杯に涙を溜めて肩を震わせ、荒れ狂う感情から逃げるように出て行ったのだ。
 コウヤは千宏を傷つけた。だが今のところ、報復は受けていない。
 今後、トラやイヌが罰を与えにやってくる可能性はいくらでもあるが――。
「チヒロはあんたを助けるために多くの犠牲を払った」
 コウヤの思考を読みでもしたように、開きっぱなしのドアからイヌが静かに姿を現した。
 確か名前はハンスと言ったか。死に掛けていると聞いていたが、どうやら意識が戻ったらしい。
 そして、恐らく会話を聞いていたのだろう。どこの世界でも、イヌとは耳のいい生き物だ。
「結果的に失った物は何も無かったが……チヒロは死に掛け、俺もご覧の有様だ。俺達が勝手に
やったことに対してあんたが義理を感じる必要はないかもしれんが――そこまでして手に入れた
あんたを、死と言う形で手放せと言うのは常識的に考えて難しいだろう」
「あなたのおっしゃる通りです」
 ハンスは鼻の頭に皺を寄せ、気味悪げにコウヤを見た。
「ヒト奴隷の従順さは、身を守るために身についた防衛技術だ。だから機械的な受け答えを
やめろとは言わないが……無駄に同意を示すな。無条件の肯定もいらない。反感を恐れるなら、
必要な時以外は黙っていろ」
 得意だろうと問われて、コウヤは静かに口を閉ざした。沈黙を許されることはありがたい。
失言を恐れずに済む。
「チヒロはあんたを救いたいと言ってる。まあ……同族意識だろうな。だが千宏は、
死に救いを見出せるような性格じゃない。どんなに生きるのが辛くても、生きていれば
幸福がやってくると心底信じているらしい」
 俺には理解できないが、と付け加え、ハンスはひどく重たい足取りでテーブルへと歩み寄り、
椅子を引き寄せて腰を下ろした。
 立っているのが辛いらしい。
「俺はややこしい話は苦手だ。頭がよくないんでな。倫理観なんてものもとうの昔に無くした。
あんたが死んだところで何も感じないが、その結果千宏が泣くのが困るし、そもそもあんたに
“死にたくなければ”なんて脅し文句は利かないだろう?」
 コウヤは返事をしなかった。ハンスも返事を求めてなどいなかったのだろう、沈黙したままの
コウヤに構わず話を続けた。
「だとしても、痛みを純粋に恐ろしいはずだ。俺が脅せばあんたは簡単に俺の命令に従うことは
わかってる。――だが肉体的にせよ、精神的にせよ、あんたを毛程でも傷つけたらチヒロが怒り
狂って俺を殺しに掛かる。だから俺は、あんたに命令する事ができない」
「お役に立てれば幸いです。命じていただければ、何も口外はいたしません」
「口外されたら俺は死ぬ。危ない橋は渡らない」
 千宏に命令されたとき以外はなと付け加え、ハンスは気難しげに顔を顰めた。
 ヒトの少女がイヌの男を殺せるとは思えなかったが、ハンスの目はあくまでも真剣である。
濁った沼色の瞳には、確信と共に恐怖すら滲んでいるように見える。
「つまり、俺があんたに対して起こせる行動は一つしか残っていない」
 死をもって脅せず、暴力を持って脅せず、失う物すら持たない相手に自分の要求を飲ませる
方法は一つしかない。
「――俺と取引をしないか」
 ただ一つ、心底望む物を与えて対価を得る。
 ハンスはコウヤが望む物を知っていた。そしてコウヤもまた、ハンスが千宏のためならば
何でもすることを理解していた。

*


 自殺は許されることではない。などと言う気はさらさらない。
 死よりも辛い苦痛を受ける事が確定しているならば、死んだ方がマシだという状況だって
確かに存在するだろう。
 だが、自殺を平然と許容できるわけでもない。
 何よりこれから希望の満ちた日々が待っている状況で、過去に縛られて死を選ぶなど
馬鹿げていると千宏は思った。
 トラウマは乗り越えられる。そう思いはしても、そう声高に主張できる立場に千宏はいない。
 ――恵まれすぎている。
 この世界に落ちた瞬間から今の今に至るまで、千宏は飢えに苦しんだことなど一度も無い。
暴力の恐怖にさらされた事だって、シャエクの一件を覗けば無に等しい。
 随分昔に、カブラ達に強姦されかけた事があったような気もするが――それすら悪意を
持っての行動ではなかった。
 誰もが千宏に優しかった。それこそが異常なことなのだと、いつも自分以外のヒトを
見たときに気付かされる。
 主人に愛されているヒトも多いと聞いた。一生を安穏として過ごせるヒトだって少なくは
ないのだと。
 だが、どうしたってひどい例に目が行った。むしろ千宏自らそういう場に足を踏み入れて
いるのかもしれない。
「奴隷商の馬車とか……非正規のヒト商人とか……」
 そんな彼らを――コウヤのような人々を――前にして、どうして自分のように甘やかされた
存在が偉そうな口を利けるというのか。
 千宏は毛布に包まって、芋虫のようにベッドの上でうずくまった。
 おまけに、だ。
「死にたきゃ死なせてやりゃあいいじゃねえか。本人の自由だろう、そんなもん」
 トラはどこまでも無神経で馬鹿である。愛すべき性格ではあるとは思うが、その無神経さを
発揮する時と場合を選ぶだけの頭は供えて欲しい心底思う。
 千宏が自分はヒトであると声を大にして宣言してしまったので、千宏は現在安全のために
カブラたちと同じ部屋で眠っている。
 ハンスは昨日まで意識が無かったため、カアシュと共に別室だ。コウヤが一人で部屋を
持っているのは、千宏がコウヤの深刻な自殺願望を知らなかった故の暴挙である。コウヤには
深刻な怪我も無かったし、一人でいられる空間が必要だと思ったのだ。
 コウヤがさらわれるという心配をしなかったのは、カブラ達が最早コウヤにヒト奴隷としての
価値など無いと断じたからだ。
 もちろん売ればいくらかの根は付くだろうが、コウヤがカブラ達の保護下にあることは宿の
住人の多くが知っている。しかも猫の道は左右に伸びる見晴らしのいい一本道で、馬車で
逃げるにしても追われる身としては分が悪い。
 総括して、危険を犯してまでコウヤを欲しがる物好きなどいないということだった。近くで
見ればコウヤは整った顔立ちをしているが、ぱっと見ただけでは気分が悪くなるほどくたびれた
“使い古し”である。
 現状、コウヤの見てくれをことさら小奇麗に整えようとしないのはそういった理由もあった。
髪は長く伸びたまま、服もシャエクのところに有ったものを使っている。
 だがコウヤがいつ自ら命を絶ってもおかしくない状況では、部屋割りと代えた方が無難なように
思えた。せめて千宏がコウヤと同室になるくらいのことはすべきだろう。
 千宏は毛布から頭だけを突き出して、呆れ顔のカブラを睨み付けた。
「……カアシュがハンターやめるって言ったとき、あんたどうしたんだっけ? 本人の
自由だろうって、どうぞどうぞお止めくださいって言ったんだっけ?」
「そ――それとこれとは話が別だろうが!」
「同じだよ」
「カアシュはハンターを続けたがってたんだ! 手段が無いから諦めようとしてただけで、
あのコウヤって兄ちゃんはそもそも生きるのを嫌がってるじゃねぇか!」
「そうだよ。理由があるから諦める。ハンターも、生きることも――理由もないのに止めたい
なんて思うわけが無い。だから回りの人間は、その理由をなんとかしようとするんじゃないか」
「だとしても、重さが違うつってんだ。人一人が生きるの死ぬのを選んだ時点で、他人が口出す
領域じゃねぇだろう。覚悟と理由があるんなら、それを外野がどうこう言って止めるのは
筋違いだって言ってんだよ、俺は」
 千宏は唇を引き結び、恨めしげにカブラを睨んで再び頭から毛布を被る。
 なんだ偉そうに。ヒトのことなんて何もわかっていないくせにと心の中で罵って、千宏は
自分があれほど疎んできた種族差別を、結局自分もやっていることに気付いてますます落ち込んだ。
 ヒトの分際で偉そうに。トラのことなど何も知らないくせにと言われたら、千宏は間違い
無く怒り狂う。
「……誰かが手を差し伸べてくれたら、助かる命だってあるんだ」
 誰かが話を聞いてやれば。誰かがその手を握ってやれば。誰かがその体を抱きしめて、
大丈夫だよと言ってやれば、それで救われる者だっている確かにいるのだ。
「死にたい人なんていない……絶対いない。死ぬのは怖いけど、生きる方がもっと怖いから
死のうと思うんだ。けど、そんなの悲しすぎるじゃない……!」
「生きるのが怖いだぁ?」
 カブラはこの世で最も難解な数式を見せられた文学者のような声を出し、一瞬笑い飛ばそうと
したが千宏の真剣な雰囲気を察して笑いを引っ込めた。
 トラには理解できない感覚なのだろう。そもそもトラには、恐怖と言う間隔がすこぶる薄い。
ハンターなどやっているトラならば余計にそうなる。
「トラには自殺者とかいないわけ……?」
「そりゃあいるにはいるけどよ。自分が死ねば家族の命は助かるとか、余命一年の寝たきりで、
あとは毎日激痛にのたうつだけの毎日ってジジイとかな」
「もっと精神的な理由では?」
「死ぬほど愛した女が死んだら、そりゃ自分も死ぬかもなあ」
 自殺ってーより、衰弱死かもしれねぇが、とカブラは難しそうにもさもさと顎の毛を撫でた。
 過去の悪夢にうなされる毎日を恐れて死を選ぶヒトの気持ちなど、トラには永遠に理解
できないだろう。
 長い年月を虐げられて生きてきて、ただ死だけを願ってきた人間が、自由になった瞬間に
念願の死を望む気持ちなど――。
 お前には分かるのかと問われたら千宏だって全力で頷くことは出来ないが、理解を示す
くらいに繊細な心は持っているつもりである。
「……じゃああたしが自殺したいって言っても、あんた好きにしろって言うの?」
「言うわけねぇだろうが! ぐるぐるにふん縛ってアカブのところに強制送還だ!!」
「ちょっと、あたしの自由はどうなるわけ!?」
「お前が死にたかろうがこっちはお前に死なれちゃ困るんだ。お前にゃ死ぬ権利があるだろうが、
俺にだってそれを阻止する権利がある」
 なるほど、正論である。
 だが、それでは結局弱者は強者の奴隷である。自分の命を手放すことさえ、強者が反対すれば
許されない。
 自分の命くらい実力でもぎ取れと言えば確かにそうだろうが、重装備の騎馬兵が丸腰の村人に、
対等の名の下に傍若無人に振舞うようなものである。
 嫌ならば強くなれ。強くなれないのならば力をつけろ。力がないのなら金を持て。
 どれもが至極ごもっともだが――そんな無茶な、と言うのが村人当人の思いである。
「……あたしにとってのカブラが、コウヤさんにとってのあたしか……」
 そう考えるとますます憂鬱になった。
 自分は力を振りかざし、コウヤの自由を奪っている。
「でも自殺は殺人なんだし……他人を殺しちゃいけないなら、自分だって殺したらいけないんだし……」
 千宏からしてみれば、第三者がコウヤを殺そうが、コウヤが自殺をしようが結果は同じだ。
コウヤは死ぬ。恨みをぶつける相手がいない分、自殺の方が性質が悪いとすら思う。
 だがもし自分が心に致命的な傷を負って、先の人生に何の喜びも見出せなくなったとしたら。
辛い過去の記憶が朝も夜も付きまとい、完全に心の安息を失ってしまったとしたら。
 自分も死を選ぶのだろうか。そして、それを阻止するカブラや他の友人たちを疎ましく思ったり
するのだろうか。
「生きてること事態が拷問ってこと……? もう誰にもひどいことされないのに。おいしい物だって
食べられるのに……? そりゃ今はまだ怖いだろうし、辛いかもしれないけどさ、でも十年後には
すごくハッピーかもしれないじゃない」
 突然カブラが低く吼え、苛立たしげにテーブルに拳を打ちつけた。
「お前はまったく……さっきからなぁにをぐだぐだ悩んでんだ! 後悔しないようにすりゃ
いいんだよ、結局は。お前はコウヤが死んだら、何か後悔するのかってだけだろう!」
「するに決まってるじゃん! けど、個人の自由だってあんたが言ったんじゃないか! 
あたしがコウヤさんが死のうとするのを止めたら……あたし、コウヤさんを奴隷みたいに
扱ってるってことになっちゃうの? 自由を奪ってるって……シャエクと同じになっちゃうわけ?」
 知るかよ、とカブラは吐き捨てる。
「こっちの世界じゃあ……まあ、自殺を止めたって誰も責めやしねぇさ。おせっかいな野郎だとは
言われるだろうが、何度も死のうとする奴を病院に叩き込むって話だってあるにゃあある。
お前の世界では、それは相手を奴隷扱いしてるってことになったのか? だとしてもだ、何をしたって
何を選んだって文句のつけようなんざいくらだってあるんだ。だったらもう、てめぇがどうしたい
のかってだけの話だろう」
 そりゃあ、と千宏は答える。
「コウヤに死んでほしくない……」
 千宏は毛布に包まったまま低く呻いた。
 それが本音で、それが全てだ。
「だったら死なないように見張ってろ」
 簡単に言ってくれる。いや、事実簡単なことなのかもしれない。
 そもそも――シャエクの廃墟でコウヤが死を願ったとき、千宏はすでに決めていたのでは
なかったか。
 誰の希望も意見も聞かない。我を貫いてコウヤを生かすと、そう決めたのではなかったか。
 完全に正しいことなどどこにもない。ならば、間違えても取り返しが付く方を選ぶのが
道理かもしれない。
 コウヤの自殺を阻止して、力を持つ者のエゴだと罵られたとしても、下らない偽善でコウヤを
傷つけていると言われたとしても、何らかの償いはできるだろう。
 だが、死んでしまっては――。
「あたし、コウヤさんの部屋に移るよ」
「はぁ? おまえな、自分が何のために俺達と相部屋してるか忘れたのか?」
「大丈夫だよ。一週間ここに居て、今のところ危険度なことは一度も無いんだし」
「だめだだめだ! お前が奴の部屋に移ったら、奴までまとめてさらわれかねん。高級品を
一箇所にまとめておくなんざ、盗んでくれと言ってるようなもんじゃねぇか!」
「だけど!」
「チヒロ。コウヤが誰か呼んでる」
 顔を上げると、ハンスがドアから半身を乗り出して部屋を覗き込んでいた。
「ハンス! ちょ、だめだよ寝てなきゃ!」
「寝ていたら倒れる音が聞こえたんで、様子を見に行ったんだが……」
 迷惑だったかとハンスは静かに耳を伏せる。全身の包帯もあいまって、その哀れっぽさは
ひとしおだ。
「あー、ごめん。ありがとう! すぐ行くから、ハンスも早く部屋に戻って、ね」
 現状コウヤには松葉杖を与えてあるが、使い慣れていないせいかよく転ぶ。そもそも、
両足共に使えないコウヤにとって、松葉杖などあってないに等しかった。
 一応、足首で体重を支えられる器具も旅の大工に頼んで即席で作ってはもらったが――
早急に車椅子が必要だった。
 本人がなんと言おうと、コウヤには生きていてもらうと決めたのだから。
 だからコウヤが取引の話を持ち出したとき、千宏は驚くよりも肩透かしを食らった
ような気分になった。
「安らかに死にたい」という要求が一転し、「アトシャーマで足の治療を試みたい」という
生きることへの希望に満ちた物へと変わったからだ。
 ――あまりにも突然に。
 たが千宏はただ笑って、コウヤの要求を喜んで受け入れた。

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