猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

続虎の威28

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匿名ユーザー

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 頭を抱えてうずくまった体に棒切れが振り下ろされ、ハンスは歯を食いしばった。
 逃げて叫べば余計に殴られるだけなのだと、十にもなればさすがに悟る。
 何故殴られているのかは覚えていなかった。悪いことをしたのだ。それは間違いない。
言いつけられた仕事を忘れただろうか。それとも仕事が雑だったのだろうか。先日割った
花瓶のことで、また気まぐれに腹を立てたのかもしれない。大切な物だったのだとひどく
怒っていたから、まだしばらくはあれをネタに殴られる。
 ――どうしてお前はそう、どうしようもなくグズなんだ。
 訪ねられても分からない。不真面目なわけではないのだ。ただどうしようもなく気が
回らない。気を回そうとすると余計に失敗を重ねて不興を買う。
 それで、言われたことだけを忠実にこなそうとすれば怠け者だと罵られる。
 無能なのだ。
 殴ることに疲れたのか、棒切れを放り出して立ち去って行く足音を聞きながら、ハンスは
ようやく息を吐いて力を抜く。
 起き上がれなかったので、そのままごろりと横たわると血がぬめった。
 ――血が出てる。
 驚いて、ハンスは自分の手を見た。
 ――なんだ、これ。
 毛皮がぐっしょりと濡れるほど、大量に出血していた。こんなに血が出ては死んで
しまうのではないかと不安になったが、力が入らず体を起こすことも出来ない。
 とぷんと、ハンスの体は半ば血液に使っていた。錆びた鉄の生臭さが鼻を突き、
その臭いから逃れたくてハンスはもがく。
 ――どうして、こんな。
 必死にもがいてうつ伏せに倒れこみ、床に手を付いて体を起こした。流れ出た血が
部屋を満たし、肘の下まで上がってきている。
 血の海の中顔を上げ、ハンスは目を見開いた。
 もう一人、誰かが血の海に沈んでいる。倒れ付したままぐったりと動かないその少女に
声をかけようとして、ハンスは少女の名前を知らないことに気が付いた。
 だが、どこかで見たことがある。なんと呼びかけようか迷っている間に、少女の体は
完全に血の海に沈み、見えなくなった。
 ――ああ、俺の血が。
 ハンスは慌てた。あれでは溺れてしまう。自分の流した血が彼女を殺してしまうと
思うと恐ろしくて、ハンスは痛む体を引きずって少女に手を伸ばした。
 だが、届かない。
 もはや少女がどこにいるのかも分からなかった。
 ――いやだ、いやだ……!
 自分のせいで死んでしまう。自分が無能だから、失敗したから、自分の流した血で
彼女が溺れているのに、それを救うこともできないなんて。
――死なないでくれ。
 頼むから。と呟いたところで、ハンスは少女の名前を思い出した。

「――チヒロ」

 目を覚ました瞬間、ハンスは全身を貫いた激痛に短く悲鳴を上げた。
 全身を強張らせて痛みをやり過ごしてしばし、ようやく自分がベッドに横たわって
いることに気づく。
「……ここは」
 首を動かすにも痛みがあったが、それでも自分の置かれた状況を知りたくて首を
巡らせる。
 と――人間の物にしてはあまりに巨大な瞳と目が合って、ハンスは驚いて飛びのこうとし、
また激痛に叫んだ。
「おまえ――」
 トラヤキである。巨大な一つ目をぱちぱちと瞬き、黄色と黒のトラ模様を持つ害獣は
長い舌を出してハンスの顔をべろりと舐めた。
 そうしてぽんとベッドから飛び降りて、悠々と部屋を出て行く。
 ――部屋?
 ハンスは顔を顰め、改めて周囲に視線を走らせた。耳をそばだてて音を聞き、
せわしなく鼻をひくつかせる。
 だが嗅覚は役に立たなかった。血と薬の臭いが強すぎて、他の臭いが分からない。
 ――薬。
 では、治療を施されているのだ。
 耳をそばだてると、階下から多くの人々の足音と楽しげな話し声が聞こえてきた。
どうやら宿屋だ。その一室に、ハンスは寝かされているようだった。
「一体……」
 確かに死んだと思ったが、死んだにしてはあまりに傷が痛すぎる。
 だがもしあの状況から生き延びたとするのなら――。
「ッ――チヒロ!」
 叫んで、ハンスは毛布を跳ね除けて飛び起きた。激痛に軋む体を引きずってベッドから
転げ落ち、這うように体を起こす。
 騒々しく廊下を駆けてくる足音に気が付いて、ハンスは這いつくばったままドアを睨んだ。
「どうしたハンス! とうとうくたばったか!?」
 部屋に飛び込んでくるなり、その男はごく真剣な声であまりにふざけた質問を叫んだ。
その小柄なトラの男を、ハンスはどこかで見たことがある。
 唖然として見上げたトラの男もまた、唖然としてハンスを見下ろしていた。
「……カアシュ?」
「ハンス、おまえ――目が覚めたのか!」
カアシュは顔全体を笑みにして、ドアに向かって声を張り上げた。
「おおい――ハンスが生き返ったぞ!!」
 カアシュの叫びに応じ、隣の部屋から転げ出る足音があった。一瞬の後、二人の
トラが競い合うように部屋へと駆け込んでくる。
 ここにいるのがカアシュならば、最早疑いようもない。カブラとブルックだ。
「目が覚めたのか!」
「一時は本気でダメかと思ったが、さすがにしぶてぇな!」
口々に言って笑う二人に遅れて、耳によく馴染んだ軽い足音が一つ。
「ハンス!」
 ――この、声。
 部屋に飛び込んでくるなり高く叫び、トラ達を押しのけて駆け寄ってくる女の顔を
目にした瞬間、ハンスはどっと押し寄せてきた安堵にようやく肩の力を抜いた。
「チヒロ……よかった……」
 生きている。ちゃんと。
 年甲斐も無く目頭が熱くなったが、ハンスが涙を滲ませるより先に千宏の目に見る見る
涙が盛り上がり、ついには大粒の雫となってばたばたとハンスの上に降りかかった。
 そうして、
「この――馬鹿! 馬鹿イヌ!! なんでもっと早く目ぇ覚ませなかったわけ!? 
一週間も意識不明で、もう目が覚めないかもって心配するあたしのことちょっとは
考えられなかったの!?」
 思い切り罵られた。
 千宏はハンスの首周りの毛を乱暴に掴み、ぐしゃぐしゃの泣き顔のまま続けざまに
何事か怒鳴ろうとしたが、結局何も言えず本格的に泣き出してしまう。
 ハンスはどうしていいかわからず、肩を抱いてやろうにも腕がろくに上がらない。
「すまん……その……」
「あんたが、死んじゃったら――!」
 搾り出すように言って、千宏はハンスの肩口に顔をうずめた。
「困るんだから……!」
 忍び笑いが聞こえて、ハンスは視線を上げて居並ぶトラ達を見た。
「その辺にしといてやれ、千宏。ハンスをベッドに戻してやらんと」
 カブラに言われて、千宏は床に転がったままのハンスから慌てて離れる。
 カブラとブルックに助けられて再びベッドへと横たわり、ハンスはようやく落ち着いた。
「何か食えるか」
「ああ……いや……どうだろうな……」
 少なくとも腹は減っている。千宏の言葉が真実ならば一週間も寝ていたことになるのだから
無理もないが、何か食べられそうかと聞かれると、どうも難しい気がする。
「果物をすったのか、柔らかく煮たのかなら食えるだろう。俺、食堂で頼んでくるよ」
 カアシュは部屋を出て行くと、ごく短時間で器を手に戻ってきた。中に入っているのは、
どうやら摩り下ろしたリンゴである。
「あたしが食べさせるよ」
 ハンスの腕がろくに動かないのを知って、千宏がカアシュから器を受け取り、
スプーンをハンスの口元に差し出した。
 一口食べると、砂糖が入っているのかいやに甘い。
 だが一度食べ始めると器はあっという間に空になり、カアシュは苦笑いしながら
追加でいくらか食べ物を運んできてくれた。


 一度心臓が止まったのだと聞いても、ハンスは別段驚かなかった。確実に死んだと
思っていたし、むしろ再び動き出したことこそ驚異であると思う。
 それより驚くべきことは、二年前に分かれたはずのトラたちが揃ってハンスの前に
座っていることだった。
「助けを呼んで戻るとは言ったが……まさかカブラ達と連れてくるとはな」
 千宏は笑う。
「あたしもさすがに自分の正気を疑ったよ。都合のいい幻覚を見すぎだって」
「驚いたのはこっちもそうだぜ? さてこの辺でチヒロの情報でも集めるかと思ったら、
血塗れのチヒロが転がりこんできたんだからよ」
 カアシュは肩を竦めて見せる。
「一年前からチヒロを探してあちこち回ってたんだが、なかなか見つからなくてな」
 イヌとヒトの娼婦の組み合わせなど簡単に見つかると思っていたが、どうしてか誰も
そんな二人組みを見たことなどないと言う。
 ようやく掴んだと思った情報も空振りで、わざわざ数ヶ月かけて追ったのに別人だった
こともあったのだとカブラ達は語った。
「俺達も随分うろうろしたからな……」
 ハンスは頷き、目を閉じる。 
「それに、ここしばらくは客の数も減らしていた」
 目標金額が溜まれば、あとは生活できるだけの稼ぎがあればいい。
 時には店の雑用を手伝うなど、娼婦以外の仕事をこなして日銭を稼いだ。体を売るより
実入りははるかに少ないが、体を売るよりはるかに安全な仕事である。
「それで、チヒロは……大丈夫なのか?」
 ベッドサイドで林檎の皮を剥いている千宏を横目で見やり、ハンスは聞いた。
「あたし? 何が?」
「殴られただろう」
 ああ、と頷き、千宏は口を大きく開けて奥歯を示してみせる。
「かけただけだと思ってたんだけど、あの後根こそぎ抜けたよ。口の中も切れて大出血だったし、
高熱で三日ほど生死の境をさまよったね」
「なんだって!?」
「一時はハンスよりチヒロの方が危なかったんだぜ? まったく、チヒロは死に掛けてるわ
ハンスの心臓は止まるわ、こっちの心臓も止まりそうだったってぇの!」
 カアシュが大げさに両手を挙げて嘆いて見せた。
 本当に、一切余裕が無かったのだろう。トラの巣から逃げおおせてから一週間、ハンス達は
未だにネコの道沿いにある宿屋から動けていないのだ。
「助かった……本当に、感謝している」
 千宏がネコの商人に奴隷として捕らえられ、ハンスは死ぬという結末だって大いにありえたのだ。
カブラ達がもしその場に居合わせなかったなら、むしろその可能性の方がはるかに大きかった。
 それで、とハンスはカブラ達を見た。
「あんたたちは、これからどうするんだ?」
「どうって……まあ、借りを返すつもりで追いかけてきたんでな」
 ああ、とブルックは頷く。
「またしばらく付いて回るさ。ハンス一人に任せておいちゃ、チヒロが好き放題し過ぎる
みてぇだからな」
「余計なお世話!」
 鋭く言って、千宏は皮を剥いた林檎にかじりついた。折れた歯の調子はもう万全らしい。
「余計なお世話だぁ? 誰か助けてくださいお願いしますって、泣いて頼んだのはどこの
誰だったっけなぁ?」
 はん、と鼻で笑い、千宏は横目でカブラを睨む。
「あの時はあの時。これからはこれから。――あたしもさすがにこりたしね。もう興味本位に
変な店に踏み込んだりしないし、ハンスの忠告も半分くらいは素直に聞くよ」
「半分……」
 それでもずいぶんな進歩のような気がしてくる。それくらい、千宏はハンスの忠告を平気で
無視した。それ程に、ハンスが的外れな忠告をする率が高いというのも事実だが。
「まあ……ついてきてくれるなら、正直言えば助かるよ。これからはコウヤさんも一緒だし、
ハンス一人であたしとコウヤを守るのは無理だもの。純粋に人手が足りない」
「コウヤ?」
 ハンスは思わず聞き返した。
 名前が出るまで半ば存在を忘れていたが、そういえばあの虚ろなヒトはどうなったのか。
チヒロが名前を出したということは、この宿に居るのだろう。
「今は隣の部屋で眠ってる。ネコの商人達が寄ってたかって世話してくれたから、彼の
具合も随分よくなったよ。足はどうにもならないらしいけど……」
「連れて行くのは構わんがよ、チヒロ。お前……あいつをバラムんところまで連れて帰る
つもりか?」
「いけない?」
「いけないとは言わねぇが……」
 カブラが渋い声で言った。
 ――バラム。
 最近よく聞く名だ。強く意識しなかっただけで、名前だけならばもっと昔からちょくちょく
耳にはしていたような気がする。
 千宏の主人だと聞いた。トラのマダラなのだとも。――丁度、シャエクと同じような。
 千宏は軽く肩を竦めた。
「まあ……つもりだけはね。どちらにせよまだ帰る気はないし。しばらく一緒に行動して、
それで本人に決めてもらうつもり」
 つもりだけはね、と千宏はもう一度繰り返した。
「本人にって……なぁ」
 カブラの声はあくまで渋い。
「――何か問題でもあるのか?」
 気になってハンスが問うと、カアシュが首を振りながらそれに答えた。
「選択の余地なんぞ、そもそもねぇだろうってことだよ。コウヤは歩けねぇ上、奴隷根性が
叩き込まれてる。否も応もなく、千宏について行く以外まともに生きてく道なんざねえ」
「ああ……まあ……だろうな」
 助け出すと決めた時点で、背負い込むことになる事は確信していた。千宏はコウヤに自立
できる力を与えた上でどうするか選ばせようと言うのだろうが、この世界でどうあがいても
コウヤが自立などできるはずがない。
「けど……あの人はシャエクよりあたしを選んだ」
「――選んだ?」
 ハンスは問うて、朦朧とする意識の中で見た光景を思い返した。
 千宏がシャエクに絞め殺されるその寸前、ハンスはどこかから投げられたナイフを千宏が掴み、
それをシャエクに突き立てる姿を確かに見た。
 だがあのナイフは、誰が、どこから――。
 答えは出ていた。あの状況で、千宏にナイフを渡せたのはコウヤしかいない。
「あの人は、ただあたしを助けようとしてくれたわけじゃないんだと思う……。シャエクとあたし、
どっちが生き延びた方が自分にとっていいかを考えて、それであの人はあたしに手を貸そうって決めたんだ」
「まあ、盗賊のところに居るよりゃあまともな暮らしが待ってそうだもんな」
 カブラがもっともらしく言って頷く。
「だが、妙じゃないか? 今までこちらに協力するどころか、救うと言うなら殺せと言い出した男が、
突然千宏に付こうと決めるなど……もっと早く、安全な局面で協力を決めることは出来たはずだ。
あの状況で仮に千宏の手がナイフに届かなければ、千宏が死んだ上にコウヤもただでは済まされなかっただろう」
 理解できないな、と呟いたハンスの顔をちらと見て千宏は唸る。
「たぶん……確実性を求めたんじゃないかな」
「確実性?」
「あたしはコウヤさんを助けるって言ったけど……彼にはそれが信じられなかったんだ。
あたしがコウヤさんに希望を持たせておいて、それでシャエクと一緒になっていたぶる可能性だって、彼の中では小さくなかったと思うし」
「それは……そうだろうな」
「けどあたしがシャエクに殺されかけて、やっと信じるつもりになってくれたとか」
「それで、一か八かの博打を打ったと言うのか? ナイフを投げたとしても、千宏がそれを
掴むことに成功し、シャエクを殺せた可能性は――正直言って、誰の目から見ても低かっただろう」
 実際、バラムがナイフにトラップを仕掛けていなければ、千宏の一撃などシャエクを煽る
程度の効果しか得られなかった。
 その後だって、ハンスが止めを刺さなければシャエクと千宏は共倒れだっただろう。
「けど……それでも、コウヤさんはあたしを助けた」
 何を思ってかは知らないが、確かにコウヤはナイフを投げた。それだけは間違いない。
「だから、完全に心が死んでるわけじゃないんだ。コウヤさんは自分で考えて、ちゃんと
自分にとっての最善を選ぶことができる。だから――」
 だから、と繋げた言葉の先を、千宏は見つけることができずに口を閉ざした。
「……コウヤさんにとって、一番いいふうにしたい。できるなら一緒にバラムのところに
帰って、それがどうしても嫌なら、とにかくコウヤさんがしたいって思うようにしようって思ってる」
「つもりだけは――か?」
 ハンスが言うと、千宏は苦く笑って頷いた。


 そう、簡単な話ではない。
 一人になったハンスは、ベッドから天井を見上げて目を閉じた。
 コウヤというあのヒトは、明らかに死を願っていた。トラの巣で一瞬言葉を交わしたとき、
コウヤが「救ってくれると言うならば殺してくれ」と言ったのは、シャエクの呪縛から
逃れたくての言葉ではないだろう。そもそもシャエクがコウヤを飼い始めた理由は、
コウヤがシャエクに死を願ったからだとシャエク自身が言っていた。
 ――彼は生から逃れたいのだ。生きている限り付きまとうおぞましい記憶や、不安や、
嫌悪や懐郷。さまざまな重荷から解放されたくて、コウヤは死を願い続けている。
「確信はないが……」
 コウヤの目からは希望や生への執着と言う物がまるで見出せない。
 昔、路地裏で漠然と死を願っていた頃のハンスと同じ目をしていた。それよりも、はるかに――。
「自殺を選ばなかったのは……生かされることが恐ろしいからか……」
 舌を噛んでも、人目があれば救われる。瀕死のハンスがこうして生き延びたのだ。
舌を噛んだ程度では、簡単に救命できる。刃物で心臓を貫いたところで死ねるかどうか曖昧だ。
 そして、生き延びれば罰が下される。
 死を願うが苦痛を恐れる。――それは、何ひとつ矛盾した話ではなかった。
 だからコウヤは千宏にナイフを投げたのだ。
 例え千宏が仕損じて、生き延びたのがシャエクの方だったとしても、コウヤがナイフを
投げたという事実があればコウヤは怒り狂ったシャエクに殺されることができただろう。
 千宏はコウヤの願いに気付いていない。千宏の性格では、コウヤが千宏を選んだのは
死の自由を得るためだなどと想像できるはずもなかった。
「いつ死んでもおかしくないな」
 トラの巣から抜け出して一週間。まだコウヤは生きているようだった。この状況で
自殺を試みたところで、また不本意に生かされることは目に見えているからだろう。
「どうする……?」
 どうしたいかと千宏に問われれば、コウヤは死にたいと答えるだろう。千宏はその
願いを受け入れられない。
 そうして、受け入れられない自分を恥じて千宏はまた泣くのだろう。
「――どうする」
 考えも付かない。
 どこまでも無能な自分に嫌気が差して、気付くとハンスはまた長い眠りに落ちていた。

*


 千宏は夜中に目を覚ました。
 全身がぐっしょりと汗で濡れ、心臓がどくどくと激しく脈打っている。
 瞳だけを動かして自分が宿屋のベッドに居ることを確認し、千宏はゆっくりと
起き上がって滑り落ちてきた汗を拭った。
 その手に、べったりと赤い血がこびりついている。
 ――幻覚。幻覚、幻覚。
 千宏は心の中で繰り返し、きつく目を閉じてからゆっくりと開いた。
 すると血がこびりついた手はどこかに消え去り、震える五本の指が闇の中に
ぼんやりとだけ浮かんで見える。
 千宏はその手で両目を覆い、膝を抱えてベッドの上に丸くなった。
「――仕方なかった」
 声に出して呟き、千宏は深く息を吸う。
「仕方なかった、仕方なかったんだ……」
 人を殺した。
 自分が生きるために、他人の命を奪ったのだ。
 だが本当に、殺さなければ生きられなかったのだろうか。あの局面では、恐らくそうだろう。
だがもっと前に別の選択をしていたら、どうだ。
 違う未来はいくらでも想像できた。そのすべてが現状よりも素晴らしいとは言いがたかったが、
シャエクを死なせずに済む方法はいくらでもあったように思う。
 その未来を、千宏は毎晩夢に見る。目が覚めると全身がべたべたと気持ちが悪く、
むっとする血の臭気が漂ってくる。
 ありえたはずの全ての未来を振り切って自分が選んだ現実は、確かに一人の人間の命を
奪ったのだ。
「ッ……ふ……」
 仕方がなかった。だが、だからと言って許されることではない。
 殺すつもりは無かった。だがシャエクがまだ生きていると知った時千宏は恐れ、
その時確かにシャエクの死を願ったのだ。
 刺そうと思ったわけではない。殺そうと思ったわけでもない。ただ死ぬのが嫌だった。
シャエクが生きていては自分が生きられないと知っていた。だから――。
 殺したのだ。事故などではない。殺したのだ。確かに、この手で。
「バラム……あたし……」
 振るわない事を前提に渡された最後の牙。殺されそうになった時だけナイフを抜けと
バラムは言った。それは、自分の命を守るために他人の命を奪う決意をしろという
意味だったのだと、今更になって千宏は知った。
 死ぬかもしれないと思って箱庭を飛び出してきた。死ぬ覚悟など無かったが、
いつか訪れるかもしれない死を想像して震えた夜ならばいくらでもある。
 だが誰かを殺すことになるなどと――決意どころか、想像だってしていなかった。
「こんなん――」
 千宏は嗚咽を押し殺す。
「辛いよ……」
 ベッドの上で丸まって、擦れた声を絞り出す。
 千宏は眠りに落ちるまで声を殺して泣き続けた。
 もう――バラムのナイフに縋って自分を取り戻すことは出来なかった。

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