猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

続虎の威26

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匿名ユーザー

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 たとえ失敗したって、失敗を恐れて何もしないよりはずっといい。
 そう教えられて千宏は育ってきた。
 努力をしたって成功するとは限らないが、努力をしたという事実は必ず力になる。
例え失敗しても大概は何とかなるだろうし、そもそも世の中全てのことがなるように
しかならないのだから、やりたいと思ったことをやればいいのだ、と。
 けれどもし、それで誰かが犠牲になるのだとしたら。
 傷つくのだとしたら。
 血を流すのだとしたら。
 もし――誰かが命を落とすのだとしたら。

 それでもまだ、何もしないよりはましだったと、胸を張って言えるだろうか。

「トラップってぇのは、ようは溜めておいた魔力を放出する仕掛けだ。図面を描いても
そこに魔力を込めにゃあなんにもおきねぇ」
 たっぷりと浴びた返り血を拭い、痛そうに首をさすりながらシャエクは言った。
「だから図面だけ描いておいてよ、血を触媒に魔力を注げば発動するってふうにして
おきゃあ、魔力に敏感なネコでもそこに魔方陣があるとは気付かねぇ。ましてや目の
悪いイヌじゃあ気付きようもねぇさな」
 千宏は声を出すことができないまま、血の海に沈んだハンスの姿を凝視した。
 血が。あんなにも血が流れ出てしまっては――。
 その先を考えるのは恐ろしく、考えてもいないのに体が小刻みに震えだす。鼓動が
激しく暴れ狂い、心臓が脈打つたびに痛みすら覚えた。
 ハンス。
 そう、ただ一言名前を呼びたいだけなのに、どうしても声が出ない。
「なんだ……? 即死じゃねぇのか」
 硬直したまま動けずにいる千宏をちらとも見ずに、シャエクはうずくまったハンスの
体を蹴って仰向けに寝転がした。
 がりがりと床を掻きむしりながら断続的に血を吐くその体を踏みつけて、不快そうに
眉をひそめる。
 生きている。
 思った瞬間、千宏の喉からするりと声が出た。
「ハンス!!」
「頑丈なのか運がいいのか……おいコウヤ!」
「左に一歩ずれていれば――」
 即死でした、とコウヤが答え、千宏は背中に背負った男を愕然と振り返った。
「逃げられないと、言ったでしょう」
 ごく静かな声だった。その顔には再び感情の失せた無表情が張り付き、罪悪感も、
後悔もなく、事実だけを機械的に口にする
「なんで……」
 自分がそう計算したと、確かにコウヤはそう言った。だから逃げられはしないのだと。
 なるほど、確かにそれは事実だったのだろう。だがもしコウヤが屋内にもトラップが
あるのだと教えてくれさえすれば、千宏はハンスに忠告することができたし、結果
トラップを避けることができたかもしれない。 
 それを知っていながら、コウヤはあえてそれを教えなかった。
 助けようとしていたのに。自分はヒトだと明かし、救うつもりだと告げたのに。
「なんで……?」
「そいつぁ俺のペットだからな」
 当然のように言いながら、シャエクはハンスの剣を拾い上げた。持ち主の血に濡れた
刃を夕日に掲げて目を細め、仰向けに倒れたハンスに視線を落とす。
 再び、千宏は喉が引きつるのを意識した。
「や、め――!」
「俺に従う」
 シャエクは人好きのする無邪気な笑みを浮かべ、剣を取り戻そうとするように
ゆるゆると伸ばされたハンスの腕に、深々と剣を突き刺した。
「やめて――ハンス!」
 叫んだのは千宏だけで、ハンスは声一つ上げなかった。それが、逆にひどく恐ろしい。
 千宏はハンスに駆け寄ろうと一歩足を踏み出した。だが恐怖に震える膝では二人分の
体重を支えきることができず、コウヤもろともその場に崩れ落ちる。
 慌てて立ち上がった千宏に、静かな制止の声が飛んだ。
「動くな。そこでじっとしてろ。いい子にな」
 命じられて、千宏は止まった。シャエクがハンスの手から剣を引き抜き、今度は
首に突きつけたからである。
「そうだ、ヒトのお嬢ちゃん。ちゃんと言う事をきけたなぁ。えらいぞ? よく
できたじゃねぇか!」
 こみ上げてくる嗚咽を飲み込み、千宏は唇を噛み締めた。
 こうなってしまうことを、まったく考えなかったわけではない。
 それでも、どうにかなると過信していた。
 今まで何度も、ハンスが再三危険だと忠告したことを平然と無視してやってきた。
それでやってこれたのだから、これからもやっていけるだろうと高をくくっていたのだ。
 ハンスが口にする危険の意味を、千宏は理解していなかった。
 理解しているつもりだったのだ。理解していながら、それでもあえて危険な道を
選んでいるのだとそう信じていた。
 ――何を、馬鹿な。
 覚悟など無かった。
 自分が危険にさらされるということは、護衛であるハンスがより深刻な危険に
さらされるのだと。結果ハンスが死ぬことも十分にありえるのだと。知っていたくせに、
深く考えることをしなかった。
 ハンスの忠告を無視することは、ハンスが死んでしまっても致し方なしと決断を
下すのと同じだと、千宏は理解していなかった。
「さて、さて、さて、さて……」
 歌うように言いながら、シャエクは一歩、千宏に向かって足を進めた。
 瞬間――ハンスが腕を伸ばし、行かせまいとするようにシャエクの足を強く掴む。
シャエクは一瞬ぎくりと体を強張らせ、血の海に沈むハンスを呆れと感心の織り
交ざった表情で見下ろした。
「おー、びびったぁ。おいおい……おまえさん、即死じゃねぇってだけで瀕死
だろうが。のたうちまわる気力もねえせくに、女のとこにゃ行かせねぇって? 
っはは! こいつぁお美しいや!!」
 喉を反らせて哄笑を上げ、シャエクは自由な足でハンスの腕を渾身の力で
踏みつけた。鈍い音がハンスの腕の中で響き、あっけなく解放されたシャエクが
ひょいとハンスから距離を取る。
「さすがはイヌだ、その気色わりぃ情だか絆だか執着だか執念だか……わりと
泣けるね。嫌いじゃねぇ。ああ――即死じゃなくて、むしろ良かった」
 うっすらと笑い、シャエクは再び千宏に向き直った。
 その瞳に、ぞっとする残忍さが宿っていた。獲物をいたぶる猫を前にした
ネズミと言うのは、なるほどこういう気持ちなのかもしれない。
 頭を抱えて丸くなり、泣き叫んでしまいたかった。何もかもを放り出し、
逃げ場を探して走り出してしまいたかった。
 だが、どうにかその場に立っていた。
 自分を律することができたのではない。ただ無防備に崩れ落ちてしまう
ことが何よりも恐ろしかった。
「可哀想になぁ……震えてるじゃねぇか。なあ、ヒトのお嬢ちゃん」
 黄色と黒の長い尻尾をふらふら揺らし、シャエクが哀れむような声を出す。
流れ込む風が生ぬるく、血の臭いで淀んだ空気をかき乱した。
「怖がらなくていい。そりゃ前の飼い主がこの様じゃあ難しいだろうが、
俺はいい飼い主だぜ? けど甘いだけってわけにはいかねぇ……まずは
しつけをしねぇとな。そうだろう? 飼い主を噛むペットじゃ問題だ」
 シャエクが一歩足を進める。それだけで、ずいぶんと距離が詰まった
ように感じた。
 ずきん、ずきんと、心臓が耳元で脈打っているように鼓動が煩い。
 殺される、と。そう思った。
 いや、むしろ――。
 死なせてなどもらえない。
 千宏は震える指でローブの下を探り、ナイフに触れた。
 このナイフを自らの心臓に突き立てれば、このひどく痛む鼓動もきっと
収まるのだろう。痛いことも、怖いことも、何もかも無かったことにして
終りにしてしまえば楽になる。
 誰かのペットに成り下がるくらいなら。あの箱庭に帰れず生きるくらいなら。
 いっそ、誇りを選んで死ぬのがトラではないのか。
 死ぬのは恐ろしかった。だがシャエクと対峙し続けることは、その何倍も
恐ろしい。
 だがバラムは――千宏を拾い、生かし、自由を与えたあの男は、そんな
ことのためにこのナイフを千宏に与えたわけではない。
「あたしは――」
 千宏は奥歯を噛み締め、その存在に縋るようにナイフを強く握り締めた。
「あたしは、誰のペットにもなったりしない。ましてやあんたなんかの
ペットになんか、絶対になってやるもんか!」
 声の限りに叫んだつもりが、ひどく震えて情けない声が出た。一層激しく
涙が溢れ、雫となって乾いた床へと落ちていく。
「奴隷に意思なんざねぇんだよ。チヒロ」
 すうと、シャエクの落とす長い影が千宏にかかった。
 優しい声が振ってきて、千宏は顔色を失ってシャエクを振り仰ぐ。
 いつの間にか、シャエクは目の前に立っていた。一瞬も目を離さずに
見つめていたはずなのに、瞬き一つの間に距離が詰まってしまっている。
「あったとしても関係ねぇ。お前が違うと言ったって、俺がそうだと言ったら
そうなる。おまえが奴隷であることに理由なんざいらねぇ。ヒトだからって
だけで十分だ」
「ち……が……」
「否定したっていいぜ? だが事実は変わらねぇ。だから……前の飼い主にも
よく見てもらえ。安心して死ねるよう。これからはちゃんと、俺のペット
としてやっていけるってな!」
 シャエクが千宏のローブに爪をかけ、そのまま一気に下腹部まで引き裂いた。
 千宏が咄嗟にナイフを引き抜くと同時に視界が回り、背中を床に打ち付け
息を詰める。ナイフが床に放り出され、シャエクがそれを蹴って壁際へと押しやった。
「かっ……は……!」
「さぁ、さっきの続きと行こうじゃねぇか。中途半端なところで邪魔が
入ったからうずいて仕方がねぇ」
「や、だ……嫌だ!」
 圧し掛かられ、破けたローブを左右に開かれて千宏は両手足を振り
回して暴れだした。
「離せ! 離せ、離せよ馬鹿! あんたみたいな糞野郎とするなんて
死んでもごめんなんだよ! シャコやカエルの方がよっぽど上等な
いい男だっての!! あんたみたいなトラの風上にも置けないクズは、
ケツでも掘られてるのがお似合い――」
 鈍い音が聞こえたと、そう思った次の瞬間激痛が全身を引きつらせた。
口の中に見る見ると生暖かい液体が溢れ、それが血だと気付くまでに
随分と時間が要った。
 殴られたのだ。それも、恐らくシャエクからしてみてもかなりの
強い力で、だろう。
「口のきき方に気をつけろ。力加減を間違えちまう」
「ふ……ぐ……ッ」
「まったく……馬鹿にしてくれるぜ。なあ、ヒトのお嬢ちゃんよ。
トラの風上にも置けないだと? じゃおまえさんは、何をもって
トラだと言うんだ。メスヒト風情が、トラの何を語ってくれる?」
 千宏は痛みに歪んだ顔で、それでもシャエクを睨み付けた。
「あんたは――」
 痛みで口が痺れて、上手くろれつが回らなかった。口に溜まった
血を吐き出すと、かろりと白い欠片が血黙りに落ちる。
 歯だ。小さな欠片だが、どうやら折れたらしい。
 ひどく痛かった。だが、どうやらおかげで震えが止んだ。
「あんたは、弱いものをいびって喜ぶクズネコ野郎だ……! 
トラなら強い相手に立ち向かって、負けたって何度でも立ち上がる」
 少なくとも、と千宏は続けた。
「自分より弱い奴を探して、優越感に浸るなんてみっともないことはしない!」
「へぇ……そうかい」
 暗い目をして、シャエクは千宏の首に手をかけた。
「おまえさんは、随分とトラを知ってるみてぇじゃねぇか。ああ、
そういやぁトラの国にいたんだってな。ありゃ嘘じゃなかったか。
トラの変装もそっからか」
「そうだよ。あたしはトラが好きだから」
 プライドが高く、傲慢で、簡単に他人を見下すどうしようもない
馬鹿な連中だと千宏は思う。それが正義だ、理だというような顔を
して他人を傷つけ、傷ついた人間を「弱いからだ」と切り捨てる。
 それでも彼らは、弱さと戦う弱者を決して見下したりはしない。
 マダラであると見下され、それでも国を守るために土地に縛り
付けられた男が居る。千宏が知る中で誰よりも屈強なトラの男が、
そのマダラを「国一番の強者」と評した。
 チビだ非力だと笑われながら、ハンターを続ける男が居る。力の
強さを誇るトラたちの中にあって、それでもハンターを続ける彼を
誰より認める仲間が確かにいた。
「マダラだから――だから他国で盗賊になったって、あんた言ったね。
つまりあんたは逃げたんだ。あの国で認められる努力をしないで、
楽に威張れる場所を探してさ!」
「……黙れ」
「マダラだからって見下してくる奴らの方が悪いのに……そんなこと
分かりきってるのに、逃げ出したら負けを認めたようなもんじゃないか! 
戦っても無駄だって? マダラだから、喧嘩に勝てないからって? 
だけどマダラには魔法があるじゃんよ! トラップがあるじゃんよ! 
一対一の、拳での喧嘩に勝てなきゃ劣ってるわけ? その価値観から
逃げ出して、こんな所で力を振りかざして威張ってたら、そんなの
あんたが嫌った国を丸ごと肯定してるのと同じじゃないか!!」
「黙れっつってるだろうが!!」
 首を締め上げる手に力がこもり、千宏は喘いだ。
「久々に典型的なトラのご高説を聞いたぜ、胸糞悪ぃ! 強い奴に
立ち向かえだ? 馬鹿か! 俺はマダラだ。端から立ち向かって
いったって、あの国じゃ誰にも勝てやしねぇ! 勇気と無謀は別物
だろうが! さんざ泥を舐めさせられた。もうたくさんだ! トラの
風上にも置けねぇって? 構いやしねぇさ! 俺は別にトラでなくたって
構わねぇ。トラとしての誇りなんざ、当のトラたちが根こそぎ
俺から奪いやがった!!」
 シャエクは鋭く吐き捨てる。
「お前にわかるか……? え? マダラとして産まれたトラがどんな目に
あうか想像できるか!? 力づくで誇りを奪っておいて、誇りを持てと
唾を吐かれる気持ちがてめぇにわかるか!!」
 シャエクの瞳に怒りと憎悪が色濃く滲み、抗いようの無い殺意すら見て取れる。
 さらに首が絞まり千宏は完全に息ができなくなった。このまま力が増せば、
窒息するより先に首の骨が折れるだろう。
 千宏は夢中でシャエクの体を殴り、縋るものを求めて激しくもがいた。
「くそ……なんだよ、くそ! 気に入ってたのに! 俺は……本当に、
気に入って……だから怪我だって治してやった。これからだって、
優しくしてやろうと思ってたんだ! なのにお前はなんだって――!」
 俺に媚びないんだ。
 そう吐き出すように言ったきり、シャエクは黙った。
 みしみしと首の骨が軋み、苦痛に床を掻いた千宏の指に何か硬い物が触れる。
 それが何かも分からぬまま夢中で掴み、シャエクの肩口に振り下ろした。
 それは――どうしてかするりとシャエクの体に吸い込まれていった。
鈍い衝撃を思って振り下ろしたというのに、殴った手ごたえはまるで無い。
 一瞬の間を空けてシャエクの手から力が緩み、千宏は激しくむせ返った。
 笛のようにひゅうひゅうと喉が鳴り、口に溜まった血と唾液が気管に
入り込んでまたむせる。
「が……ぐ……」
 シャエクのうめき声に、千宏は顔を上げた。
 肩口を押さえたシャエクの全身に、脂汗が噴き出していた。膝立ちのまま
よろけて下がり、苦痛に顔を歪めて千宏を見下ろす。
「てめぇ……よくも……!」
 つうと血が垂れてくるのを見て、千宏はようやくその肩口に異物が
あることに気が付いた。
 見覚えがある。千宏のナイフだ。
 だがあれは――さっき落として、確かにシャエクが遠くへと蹴ったはずだ。
その場で組み伏された千宏の手がナイフに届くはずが無い。
 思ってナイフが蹴られた方へと振り向いた視線の先に、コウヤが壁に
もたれてぼんやりとこちらを見ていた。
 ――コウヤが、ナイフを?
 そうとしか考えられなかった。だが、どうして――。
「あたし……」
 ようやく自分が何をしたのか気が付いて、千宏は心底凍りついた。
 刺したのだ。この手で、シャエクを。
「よくも……やってくれたなぁあぁ!!」
 怒りに引きつったシャエクの顔が、次の瞬間驚愕に彩られた。
 肩口からナイフを引き抜こうとした手が凍りつき、愕然として目を見開く。
「――嘘だろ」
 その瞳から見る見ると怒りの色が萎え、明らかな恐怖に彩られた。
見れば、ナイフの突き立った傷口にどす黒い痣が見る見る浮かび
上がってくる。
 嫌だ、とシャエクは叫んだ。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ!! やめ――!」
 その痣が文字を形作っていることに千宏が気付くのと、シャエクが
断末魔の悲鳴を上げたのはほぼ同時のことだった。
 ナイフが鮮やかな閃光を青く放ち、シャエクの肩から腕にかけてを
消し飛ばしたのだ。
 高く澄んだ音を立て、シャエクに突き立てたナイフが落ちた。
 半身を抉り取られたシャエクの体が、どうと仰向けに倒れ伏す。
「ぇ……あ……」
 状況が飲み込めないまま、千宏は動かなくなったシャエクを
呆然と眺めた。
 不思議と血は一滴も流れなかった。死んだのだろうか。恐らく、
そうなのだろう。肩から根こそぎ腕を?がれて、生きているとも思えない。
 ――いったい、何が。
 千宏はガクガクと震える体をどうにか引きずり、落ちたナイフを
恐る恐る引き寄せた。
 それは確かに千宏のナイフに間違いなかったが、ふと刀身に
見覚えの無い刻印を見つけて千宏は眉をひそめた。それはたった今、
新たに刻まれたように見える。
「……これ」
 小さな魔方陣のように見えた。
 このナイフを千宏にくれたのはバラムだ。殺されそうになった時だけ
これを抜けと、そう言って渡された千宏の持つ唯一の牙だ。
「バラム……?」
 殺されそうになったときにナイフを抜いて、屈強な獣人に
突き刺したところで、千宏の力で与えられる傷はたかが知れている。
 それは――恐らく、バラムでもそうだったのだろう。弱いマダラの力で
、屈強な筋肉と硬い毛皮を持つ敵を突き刺したとき、確実に
撃退できるようにバラムはナイフになんらかの細工をしていたに違いない。
 それを、そのままバラムは千宏に寄越したのだ。
 胸が早鐘を打つようだった。千宏が刺したのはシャエクの肩だ。
普通のナイフでは殺すどころか、いたずらにシャエクの激昂を
煽っただけだろう。この細工が無ければ、死んでいたのはこちらの方だ。
 どっと全身の力が抜けた。
 その場にへたり込んだ千宏に、死んだはずのシャエクが飛び起き、
掴みかかったのはその時である。
 ――まだ、生きて……!
 高く空を切った千宏の悲鳴を残った片手で押さえ込み、シャエクは
牙を剥いて荒い息を吐いた。血走った瞳にはすでに千宏の姿など映っておらず、
喉の奥からこぼれる唸り声も最早人の物ではない。
 刺した場所が悪かった。腹か、胸か――胴体のいずれかに刺していれば、
即死は免れなかっただろうに。
「殺してやる……殺してやる、殺してやる! てめぇら全員、一人残らず――!」
 今度こそ、殺される。
 そう覚悟した千宏に、しかし死は訪れなかった。
 突如突き飛ばされたようにシャエクが胸を逸らせて天井を仰ぎ、
鮮血をほとばしらせたのだ。
 降りかかる血しぶきの中、千宏はシャエクの胸の中心から突き出た白刃を凝視した。
 すいと上げた視線の先に、シャエクの心臓を貫くハンスの姿がある。
「喚くな――大人しく、座ってろ」
 低く擦れたその声を、シャエクが聞いたか千宏には分からない。
 何かに縋るように微かに上がった腕が虚しく宙をかき、そのまま
だらりと垂れてシャエクは全ての動きを止めた。
 そうして、
「――ハンス!!」
 千宏は弾かれたように立ち上がった。
 朽ちた巨木のようにぐらりと傾いたハンスの体を慌てて支え、しかし支えきれずに
一緒になって崩れ落ちる。
「ハンス、ハンス……!」
 服と毛皮は、大量の血を吸ってぐっしょりと濡れていた。体のいたるところに
穿たれた深い傷から、今もとめどなく血が溢れてくる。
「どうしよう……血、止めないと……!」
「――朝を待って」
 ぐったりとしたまま、ハンスが小さく言って千宏の肩を叩いた。
「行け……シャエクと俺の体を使えば、トラップを抜けられる……」
 千宏は絶句した。
「何、馬鹿なこと――」
「トラップは、死体にも……反応する……だから……」
「馬鹿言わないでよ! あ……あたしにハンスの死体を刻んで使えって……
そんなことできるわけないじゃない!」
「するんだ、チヒロ……」
「やだ、やだやだ! 絶対やだやだやだ!」
「頼む」
「や――」
「頼む……」
 進む先に死体から切り離した手足を放って進めば、確かに安全にトラップ地帯を
抜けることができるのだろう。死体二つ分――あれば十分に足りるはずだ。
 だが、そんなこと。
「あんたが死んじゃったら、あたしは……」
 一体――どうしたらいい。
 ハンスが死んでしまったら。いなくなってしまったら。この先どうすればいいのだ。
 旅のほとんどをハンスと共にすごしてきた。旅のほとんどをハンスに教わって
ここまで来たのだ。
「すまない……」
「何が……!」
「俺が、無能で……俺は……守れなか……」
「何……馬鹿言ってんだよ! そんなん全部あたしのせいじゃん!」
 そうとも、全部。最初から何もかも。
 怪しげなネコの商人になどついていくなとハンスは言った。それを
千宏が無視したせいでこんなところに送り込まれ、コウヤを助けたいと
だだをこね、挙句シャエクを殺すべきだと主張するハンスに生かせと
無理矢理命じた結果がこの様だ。
 ――あたしのせいで、ハンスが。
 千宏はぎゅうとハンスの体を抱きしめ、唇を引き結んで立ち上がった。
「あたし……助けを呼んでくる」
「チヒロ……」
「トラップを抜けて……街道まで走ればすぐでしょ? 役人に頼めば
きっとなんとかしてくれる……!」
 よせ、とハンスが小さく言ったが、千宏は踵を返して真っ直ぐに
コウヤに駆け寄った。
 コウヤは壁に背を預けたまま、どこか眠たげにシャエクの死体を
眺めている。千宏はその正面にしゃがみこんだ。
「外のトラップも、あなたが配置したの?」
 コウヤはゆるやかな動きで千宏を見やり、それからこくりと頷いた。
「逃げ道を教えて……! あるんでしょう?」
 縋るような気持ちだった。無い、と言われる可能性の方がむしろ高い。
 コウヤは目を細めて千宏を見た。
「……縞の平石」
「――石?」
「私は逃げ道のないようにトラップを配置しました。けれど彼は気まぐれに
いくつかのトラップを解除して、通り道を一本だけ作った。そこに縞模様の
平石を置いて、獲物をトラップの中に放す。――それで、逃げる様子を見て
楽しむのが趣味でした」
 悪趣味な、と千宏は罵った。
「点在する平石同士をつないだ直線が通り道です。次の目印が二箇所に
見えたら、必ず基点となる石からより遠くにある石を目指して進む。そうすれば――」
「抜けられるんだね?」
 期待を込めて聞いた千宏に、コウヤは浅く息を吐く。
「五割は」
「五割!?」
「彼は期待が絶望に変わる顔が、たまらなく好きだと」
 だからシャエクは、最後の最後で嘘をつく。
 そう聞いて、千宏は下がった。
 トラップを抜ける道は確かにある。法則もある。だがそれを忠実に
守っても、抜けられる可能性は五分しかない。
「もっと確実な道は無いの……?」
 コウヤはちらと、シャエクの死体に目をやった。それから、ハンスに。
 コウヤが口を開く前に、千宏は立ち上がった。
「もし……トラップを踏んだら……」
「ヒトならほぼ確実に即死します」
 千宏は目を閉じて天井を仰いだ。
 迷っている暇はない。
 ――たとえ失敗したって、失敗を恐れて何もしないよりはずっといい。
 無事にトラップを抜けて助けを呼べるか。自分も死んで、ハンスも死ぬか。
 千宏は倉庫を飛び出した。

 夕日の赤は空の彼方に微かに紫色を残すのみとなり、空は深い藍色に
染まっていた。
 この薄暗さが、あとわずかもすれば一寸先も見通せない宵闇に変わるだろう。
 千宏は無造作に転がる縞模様の平石を見下ろして、それから注意深く
周囲の地面を眺めた。
 他に、縞の平石と呼べるような物は見当たらない。――何より、足跡があった。
 まだ新しいように思える。ふと、千宏は今朝やってきたネコの医者を
思い出した。彼がここを通ったとするのなら、足跡をたどれば楽に
進めるのではないか。
 思って、千宏は勇気を持って一歩足を踏み出した。
 何も起こらず。続いて足跡を追ってもう一歩足を踏み出す。呼吸を整え、
千宏は小走りに駆け出した。
 少し進むとまた平石が落ちていて、足跡は右へと折れていた。それに習って
千宏も右へと進み、次は直進。左へと折れたところでぎくりとして足を止めた。
 遠く離れた地面に、なにかこんもりとした山のような物が見えた。すでに
夜が迫っていたので、それは純粋に黒い塊にしか見えなかったが、不自然に
転がるその塊がひどく恐ろしいものに見えて千宏はじっとそれに目を凝らす。
 その黒い塊に手足らしき物を確認し、千宏は震え上がった。
 ネコの医者だ。おそらく――その、死体。
「ああ、もう……やだやだやだやだ……! やだ、やだ、やだ……!」
 千宏はぐしゃぐしゃと髪を掻き毟り、萎えて崩れ落ちそうになる足を
叱ってその場で世話しなく足踏みした。
 立ち止まっている暇はない。分かっているのに、次の一歩を踏み出した瞬間、
自分もああなってしまうのではないかと思うと体が凍りついた。
 足跡はまた続いていた。少なくとも、ネコの死体がある場所までは安全に進める。
 だがその先で、ネコは道を間違えたのだ。そこにシャエクの嘘がある。
あるいは、単にネコが見誤ったというだけの可能性もあるが、千宏には
その判断が付かない。
 その分かれ道に差し掛かったとき、どう進むか。
 悩んでいるうちに、ネコの死体が間近に迫り千宏は立ち止まった。
「ここで……」
 地面の土が吹き飛んでいる場所があった。その数メートル先に、ネコの
死体が転がっている。
 千宏はこみ上げてくる吐き気を押さえ込み、平石を探して地面に目を凝らした。
 だが、どこにもそんなものは見当たらない。トラップが発動した衝撃で
飛ばされたのだろうかと、千宏は焦ってその場にしゃがみこみ、よくよく
地面に目を凝らした。
 すると、随分と遠くに異質な石が転がっているのがかすかに見えた。
 だが、本当にあれだろうか。暗くてよく見えない。それに、あまりにも
遠い上、倉庫へと大分引き返すことになる。
 千宏はちらと、もう間近に迫っている森の木々を見た。
 急がなくては。
 そう――確かあのネコもひどく急いでいた。――今の千宏と同じように
。遠くに見える平石に向かって用心深く足を進めるのは、気が急く今は
あまりにも苦痛だった。
 千宏は大分苦労して、遠くに見える平石に向かって一歩足を踏み出す。
ネコの足跡を追って駆けて来たときとは比べ物にならないほど、その一歩が
重かった。
 ここで千宏がトラップを踏んでしまっては、ハンスは間違いなく助からない。
そればかりか、コウヤも飢えて死ぬだろう。
 気ばかりが焦った。その視界に、倉庫から近づいてくる小さな影が
飛び込んできた。
 先ほど千宏が駆けてきた道を、ぽんぽんと飛び跳ねながら近づいてくる。
 千宏は目を見開いた。
「ト……トラヤキ?」
 存在を忘れていたが、今の今までずっとハンスの鞄に隠れていたのだろうか。
小さな体に巨大な一つ目の害獣である。
 トラヤキは千宏の足元で一度止まるとじっと千宏を見上げ、それから森の
方へと振り向いた。
 そこから、一飛び。
「ば――馬鹿! あんた何やって――!」
 飛び降りた先で地面が閃光を放ち、小さなトラヤキは軽々と――本当に
驚くほど上空まで弾き飛ばされた。
 放られた縫いぐるみのように地に落ちたトラヤキに駆け寄って、千宏は顔を顰めた。
 ――無傷である。少々体がすすけてはいるが、トラヤキはすぐさま
起き上がって千宏を見上げる。
 はっとして、千宏は昨夜のことを思い出した。ハンスがトラップの存在に気付き、
閉じ込められたと言った時も、トラヤキはこうしてトラップに自ら飛び込もうとしていた。
「……あんた、まさか」
 呆然と呟いた千宏を置いて、トラヤキはまた大きく飛び跳ねた。閃光が弾け、
飛ばされたトラヤキが地面に叩きつけられる。
 トラップとは、すなわち蓄えた魔力の放出である。一度魔力を放出したトラップは、
再び術者が魔力を込めない限り発動しない。
 道を開くつもりか。
 千宏のために――否、ハンスのために。
「トラヤキ、待った!」
 再度飛び跳ね、トラップに突っ込もうとするトラヤキの体をむんずと掴んで、
千宏はネコの死体に向き直った。
 距離にして、ほんの十歩。
 不満そうにもがいていたトラヤキは千宏の考えを読み取ったのか、千宏の手から
飛び降りるとネコの死体に向かって飛び跳ねた。
 ヒトならば即死する威力のトラップに弾かれて、小さな体がネコの死体まで
転がっていく。――恐ろしく丈夫である。
 千宏はトラヤキの後を追って猫の死体に駆け寄り、腰のナイフを取り出した。
 ここから森までならば――死体一つでことたりる。
 恐怖で全身ががくがくと震えた。
 触れたネコの死体は冷たく、驚くほどに硬い。
 だが、覚悟を決めなければ。ハンスのペットが体を張ると言うのなら、
手を汚すことくらい躊躇していられない。
「ごめん……本当に……ごめんなさい」
 懇願するように言って、千宏はネコの腕の関節にナイフをつき立てた。

*


 ネコの道と呼ばれる有料街道の道沿いには、簡単な食事と寝床を提供する
宿屋が点在していた。
 この道を利用するのは、何も商人ばかりとは限らない。少しでも財布に
余裕があれば――無くとも余程のことが無ければ旅人はこの道を通り、
次の町までの旅路を概ね安全に終える。仮にネコの道で盗賊に襲われた
としても、それは道の所有者からいくらかの保証金をもらうことができるからだ。
 盗賊が出ると言われる界隈で有料街道を使わないのは、大手を振って
道を通れない違法な商人か、わずかばかりの金も惜しい、あるいは奪われる
物など自らの命以外ない赤貧の旅人だった。それか、どうしようもない
命知らずか世間知らずである。
 であるので、宿屋に集まる面々は概ね身なりが整っており、思慮深く、
保身と言う言葉を知っている。賑やかに飲んで騒いでも、大きな問題は
起こらないのがほとんどだった。
 客には商人が多いので、宿屋で商談が始まることも少なくは無い。
そこで大きな取引にこぎつけた客達は景気づけに店に金を落とし、
懐が寂しい者も慎ましやかに夜を過ごす。 
 その日、宿の食堂には多くの客がひしめいていた。夕飯時と言うこともあり、
空席はほとんどない。
 顔ぶれはやはりネコが主だが、首都シュバルカッツェが近いこともあり、
イヌやネズミ、キツネやトラなどの姿もあった。
「ここに出るって盗賊の話、聞いたか?」
 この宿に止まる物なら、誰もが一度は耳にする話題である。数時間食堂に
留まっていれば、三度はその話を聞くだろう。
 一つのテーブルに集った商人たちは、全員が顔なじみと言うわけではない。
それでも、誰かが話題を振れば誰かが答えた。
「トラのマダラなんだってな」
「へえ、そいつぁ――なんだ? あんまり怖くねぇなあ」
 ひとしきり笑いが起こった。
 トラの盗賊と聞くと誰もが身を強張らせるが、それがマダラとなるとどこか
緊張が緩む。
 けれども、と誰かが言い刺した。
「マダラと言えどトラはトラ。国外に出て盗賊を始めたトラの悪評は
よく聞くでしょう。マダラは腕力こそ無いが魔法に長けている。もちろん、
ネコには比べるべくもありませんが……」
「トラップだ! トラはトラップが何より怖い。特に魔法で作るトラップは
群を抜いて陰湿なんだ。魔力は微弱なくせにえらく痛い。その上、微弱ゆえに
ネコでもそれに気づき難い。なあおい、そうだろうそこのトラ!」
 呼ばれたトラは鼻の頭に皺をよせ、どっかとテーブルに足を投げ出した。
「知るかよ。ほとんどのトラは魔法なんざ微塵も使えやしねぇんだ。辛うじて
魔法は言葉っつー概念は残ってるがな。魔方陣なんざ遺跡以外じゃお目に
かかったこともねぇ。そもそも殴った方が早いし強い」
「そうとも限らんぞ。トラップ地帯にその身一つで乗り込んでみろ! 力を
振り回すだけならトラも獅子も変わらんが、トラップに精通したトラは本当
に恐ろしい」
 笑い声が上がった。
 先ほどトラの魔法を吐き捨てたのとは、また違うトラである。
「そうだ。俺たちのトラップは怖ぇぞー? けどな、怖ぇことを知ってりゃあ
何も怖かねぇもんだ。俺は魔法は使えねぇがな、機械式のトラップは大概設置できるし
解除も出来る。魔法系のトラップだって、処理するだけなら専用の道具がある」
 へえ、と声を上げたのはネコの商人である。
「それは興味深い。聞いたことが無いぞ、こっちにはそんなもの出回っていない。
トラの使う魔方陣は我々のとは様式が違うから、我々の使う道具は役に立たない
ことが多いんだ。おいトラのお兄さん、そのトラのトラップを解除できる道具とやら、
余分があるなら少し譲ってもらえないか。もちろん金は出す!」
 そもそも、トラの使う魔方陣に遭遇することがめったに無い。なので
そういった物は需要が少なく、流通しない。
 だがトラのマダラが盗賊として出没するこの地域では、これは大きな
需要であった。本来ならば商人たちは、有料街道など使いたくないのだ。
盗賊を撃退することができれば、次が来るまでしばらくは安心して普通の
道を行き来できる。
 次に来る盗賊がどれほど悪逆非道なやからだろうと、トラップを使う
トラのマダラなどという得体の知れない存在よりは、まだしも対応の
しようがあるという物だった。
「そんなご大層なもんじゃねぇよ。あくまで物理的な仕掛けだ。人間の
代わりに小動物の死体放り込むのと大差ない」
 面倒くさそうに答えたトラに、ネコは悄然と肩を落とす。
「ああ……そうか」
「今の盗賊は、正直よくない。荷だけ奪って商人を解放するのがこの
地域の盗賊の決まりごとのような物だが、あいつは時々気まぐれにそ
れを破る。役人がかんでいるにしたって、やり方がえげつないんだ」
 なぶり殺しだよ、と誰かが吐き捨てる。
「……そういや、あの子らはどうなっただろうな」
 ぽつりと、年老いたネズミが呟いた。
 先日盗賊に襲われたというネズミである。無謀にもトラの縄張りに踏み込んで、
トラップに掛かったにも関わらず逃げおおせたという幸運の持ち主だ。
 さすがに一晩寝込んだが、五体満足でここにいる。
「あの子らって?」
 ああ、とネズミはトラを見た。このトラたちがこの宿に来たのは
今日の昼だ。探し人が居ると言い、人が多く行きかうこの宿に数日
身を置くつもりらしい。
「昨日、トラの少女とイヌの男をトラの巣まで運んだんだ。捕まったが、
商人でも傭兵でもないようだから、そう大きな被害も無く逃がして
もらえると思うんだが……」
「トラの女と……イヌ?」
 妙な組み合わせである。トラが不意に声を低くして問い返した。
「悪い商人に騙されたんだ……俺は、てっきり傭兵だと思って……」
「しょげるな、爺さんは悪くない。それに女は逃がすって話だ。
もちろん“頂いた”後だが……ほら、奴はマダラだろう? 相当な
色男って聞くからな、むしろ女どもは喜んでる」
 そうか、とネズミは安堵に肩を落とした。
 見捨てて自分だけ逃げてきたことが気に掛かっていたのだろう。
「いや……だが、ひどい噂も聞いたぞ。馬車に乗っていた夫婦を捉えたとき、
奴は夫を縛り付けて目の前で女房を犯し、その後女房の目の前で夫を殺したと」
 しんと場が凍りつく。
 扉をぶち破るような勢いで何者かが食堂に転がり込んできたのは、
まさにその時だった。

「誰か助けて――! お願い、連れが死にそうなの!!」
 入ってくるなり叫んだ女の姿に、誰もが唖然として顎を落とした。
 ローブが無残に破かれ、下から素肌がのぞいていることなど、誰も
気に止めてはいなかった。ただその女が全身に被った血糊の量――。
 むっとするような血の臭いに、思わず鼻を覆ったのはイヌばかりではない。
 激しく肩を上下させ、血と涙と鼻水で元の顔すらわからなくなっている
その女を遠巻きに眺める人垣の中から、ぽつりと声が上がった。
「――ヒトだ」
 その声に、その場の全員が女の頭に視線を注ぐ。
 確かに、あるべき場所に耳が無かった。尻尾もないし、触角らしき物も
見当たらない。
 それは明らかにヒトの女であった。それが――首輪もつけず、血塗れで
転がりこんできたのだ。
 女は黙りこくって立ち尽くす人々を見回して、叫んだ。
「助けてくれたらなんだってする。お金だって全部あげるし、あたしを
奴隷にしたっていいから――だからお願い……ハンスを助けて!!」
「あんた……昨日のトラの娘さんか!」
 ネズミの老人が驚愕の声に、女は顔を上げた。
 間違いない、とネズミは頷く。
「じゃあ、あんた……まさかトラの巣から」
 ざわめきが人垣に走り、すぐに消えた。女の願いを聞き入れようと
動き出す者も、女を助け起こそうと歩み出る者もいなかった。
「ねえ、お願い……誰か……」
 女の懇願が力なく響く。
 へたりとその場に膝を着き、女は床に手を突いた。
「お願い、です、から……」
 そのまま床の上に丸くなってしまう。
 泣いているようだった。
 居心地の悪い沈黙が流れて数秒――人垣から歩み出る大柄な影が三つある。
「金を払うって? お嬢ちゃん」
 女は弾かれたように顔を上げ、切迫した表情を見る見るうちに呆けさせた。
 信じられない、とその目が言っていた。こんなことが起こるわけがないのだと。
 歩み出たトラ男の何が、ヒトの女をそれ程までに驚愕させたのかは誰にも
分からなかった。だが確かに女は驚愕し――そしてトラは、どこまでも澄んだ
青い瞳を細めて笑った。
「ちぃとばかり借金があってな。返済のためなら何でもするって決めてんだ」
 その後ろから、更に一人が歩み出る。鮮やかなトラ模様の、惚れ惚れするようなトラである。
「何より美女の頼みとあっちゃ無視できねぇ。それがトラの誇りってやつだ」
 そして最後に小柄なトラが駆け出し、女の傍らに膝をついた。
「お前らかっこつけてる場合か! チヒロ、その顔見せてみろ。すげぇ腫れてるじゃねぇか!」
「カブラ……ブルック……カアシュ……!!」
 か細く叫んで、女はくしゃくしゃと泣き崩れた。
 その体を抱きとめた小柄なトラにすがり付き、女は再度懇願を叫ぶ。
「助けて……お願い、ハンスが死んじゃう……! お願い……!!」
 応と答えた次の瞬間、三人のトラはヒトの少女を抱え、一も二もなく夜の森へと
駆け出して言った。

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