猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

続虎の威25

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 物事は明確で、単純であればあるほどよい。
 精巧な機械は小さな衝撃で容易く壊れるが、木製の玩具ならば壊れにくく、
壊れたとしてもすぐに直せるのと同じことで、計画や作戦と言う物もそうある
べきだと千宏は信じていた。
 であるから、千宏とハンスが立てた計画はこの上なく単純だった。
 シャエクの部屋がどこにあるのかを千宏が調べ、姿をくらませていたハンスが
忍び込み、のちに千宏がシャエクを伴い部屋に戻る。
 男が最も油断をするのは女を抱くときだ。あるいは眠っているときよりも、
周囲への注意はおろそかになるだろう。そこをハンスが狙う。
 仮に千宏がシャエクを部屋に連れ込むことに失敗しても、最悪夜まで待って
寝首を抑えられれば事足りる。
 言ってしまえば、ひどく大雑把で適当な計画だった。何もかもが万全とは
言いがたく、それでも実行に移す他この場を脱する道は無いように思われた。
 先手を取る。何にも置いてそれが全てであるとハンスは言った。時間をかけて
だらだらと計画などを練っていたら、端から手段を潰されかねない。
 だから少々乱暴だろうと、逃げると決めたからには千宏はそれを実行せざるを得なかった。
 その結果、恐らく成功したのだろう。
「お楽しみのところ失礼する。命が惜しければ抵抗しようなどとは思わないことだ」
 ハンスの剣がシャエクの首を捉た。
 シャエクは愕然として振り返ろうと身をよじり、首筋に刃を押し当てられ動きを止める。
「忠告を聞け。動くと首と胴が泣き分かれるぞ」
「てめぇ――!」
 憎憎しげに奥歯をきしり合わせ、シャエクはハンスを肩越しに睨み付けた。
鋭い刃はマダラであるシャエクの皮膚を容易く傷つけ、その首からつうと血が一筋伝う。
「俺を騙しやがったな!!」
 その怒号は、おそらく千宏に向けられた物だろう。
 千宏は蒼白になった顔色で目を見開き、怒りに歪んだシャエクの顔を凝視した。
「命を助けてやっただろう……! ベッドと食い物を恵んでやって、医者まで
呼んで怪我を治してやった! その礼が――これか……!?」
「そ――」
 それは、と千宏は声を上げかけたが、ハンスがその声を遮って口を開いた。
「こちらは何も頼んでいない。自分の下心や思惑からした行動に対して感謝
しろと言うのは、結果相手にどれほどの恩恵を与えたとしても筋違いだろう。
そもそもおまえが俺たちを襲わなければ、怪我の治療なんぞ自分たちで
どうとでもできた。――チヒロ。服を着て下に行ってろ」
「え、あ……」
「早く!」
「は、はい!」
 鋭く怒鳴られ、千宏は半ば飛び上がってベッドから転げ落ちた。
もたもたと服を着込み、転びそうになりながら部屋を飛び出してゆく。
 その後姿を見送って、ハンスは小さく安堵の息を吐いた。
 マダラと言えど、シャエクはトラで魔法も使える。純粋な力では
ハンスが勝るが、首を押さえたからと言って完全に安心とは言い切れなかった。
 千宏を気にかけながらシャエクを押さえ込んでおくことは、ハンスには少々荷が重い。
「さて――本題に入らせてもらおう」
「あいつは……ヒトか」
 ハンスは答えなかったが、シャエクは苛立たしげに悪態をついた。無言を肯定と
取ったらしい。
「何が、どうなってる……! イヌとヒトの盗賊なんざ聞いたこともねぇぞ。おまけに、
ヒトは首輪無しでトラに変装してるときた!」
「客観的に聞くと滑稽だが、こちらにも事情がある。死にたくなければ大人しく
トラップを解除して俺たちを解放しろ」
「っは! 朝と同じ要求か……問答無用で殺らねぇところを見ると知ってるんだろうが、
俺を殺してもトラップは残る。どうせ殺せやしねぇだろうが」
「トラップは死体にも反応するだろう。貴様を寸刻みにしてばら撒けば道の
一本くらいなら開けるんじゃないか? でなければ、貴様を先頭にして
トラップ地帯を突っ切る。死ぬ前にはトラップを解除する気になるだろう」
「なるほど……えげつねぇな」
「そこまでの被害をこうむってまで、チヒロをこの場にとどめる理由はない
だろう。売るにしてもメスではそれ程の値もつかん」
 そうは言っても、無条件に手放すには惜しい程度の価値があることは間違い
ない。だがシャエクならば、日々途切れることなく行き交う商人を襲ってメスヒト
を手に入れることも容易いだろう。事実、シャエクはコウヤをそうして手に
入れたのだと千宏が言っていた。
「……あいつの話は」
「何?」
「嘘か。全部」
 旅をしてきた話のことだろう。ハンスも隠れて話を聞いていたが、自分を
トラとして語った以外は事実だったように思う。
 ハンスは目を細め、シャエクの整った横顔を見下ろした。
「本当だと言ったら信じるのか?」
「ヒトが娼婦しながら自由気ままに旅する話をか?」
「無理だろうな。当事者の俺でも信じるのに苦労する」
「――できるわけねぇ、そんなこと」
 低く言って、シャエクは奥歯を噛み締めながらもう一度「できるわけねぇ」
と繰り返した。
 ヒトの分際で――か。
 内心呟き、ハンスは剣を握りなおすとシャエクの体をベッドから引き下ろした。
「協力するか抵抗するか、選ぶのは貴様の自由だ。だが俺達はどんな手を
使ってでもここを出る。どちらが得か考えるのは得意だろう? 群れを離れた
イヌは自分を見失うが、トラは狡猾さを取り戻す」

*

 ハンスに部屋を追い出された勢いのまま、千宏は廊下を走りぬけて階段を
駆け下りた。
 コウヤの部屋を目指してそのまま数歩を駆け、ふと足が止まる。止まって
しまうと、どうしても次の一歩を踏み出すことが出来なかった。
 つま先から震えが這い上がってくる。千宏は咄嗟に己の肩を抱きしめ、
震えを押さえ込もうと背を丸めた。
 血が出ていた。シャエクの首から。
 ハンスが千宏の前で剣を抜いたのは今回が初めてではない。だがあの剣が
他人を傷つけ、血を流させたのを見るのは初めてだった。
 怖かった。ただ一筋に過ぎない流血が、寒気がするほど恐ろしい。なによりも、
あの血を流させたのが自分の意思と決断であるという事実が、どうしようも
ないほどに。
 誰かに傷つけられることも嫌だが、誰かを傷つけることはそれよりはるかに
恐ろしいと千宏は思った。殺されるのはごめんだが、殺すことなど死んでも嫌だ。
 だがもしシャエクがトラップを解除することを頑なに拒んだら――。
 最悪、殺すことになる。
 それでもいいのかとハンスは千宏に繰り返した。無論千宏は嫌だと答えた。
誰かを傷つけることも嫌なのに、殺すだなんてもっての他だと叫んだが、
ならばコウヤを諦めろとハンスは言う。
 千宏とハンスだけならば、シャエクが見逃す可能性はゼロではない。だが
コウヤを連れて行くと知れば、シャエクは間違いなく怒り狂い抵抗を示すだろう。
 コウヤを連れて行くということは、シャエクから奪うということだ。
お互いに出会わなかったことにして、何も奪わず、奪われずに去るのとは
わけが違う。
 それでも、千宏にはコウヤを置いていくことができなかった。
 コウヤは車椅子を持っていない。
 二年間旅してきて、この世界でも車椅子が一般的であることを千宏は知った。
発達した義肢が存在するくらいだ、車椅子ごときごく当たり前に手に入る。
 であるにも関わらず、恐らくコウヤは松葉杖すら所持していなかった。
シャエクはコウヤが立ち上がることで激痛を覚えることを知っている。
その上で、コウヤに自力で立つか這うかする以外の移動手段を与えていないのだ。
 足の悪い人間に、立って歩けと命じて喜ぶような輩は多いとハンスは言った。
千宏が元いた世界にだって、そういった虐待の話は少なくない。
 立とうとあがく様を面白がって眺め、倒れたら折檻し、その虐待を行う
同じ手で食事を与えて身づくろいを整えさせる。
 それを、彼らは「可愛がっている」と言うのだ。大切にしているのだと、
胸を張って言うのだろう。
 吐き気がした。嫌悪でも怒りでもなく、これは純粋な恐怖である。自分と
同じ種であるコウヤが、当然のようにその扱いを受けていること――これから
受け続けることに対して千宏はどうしようもない恐怖を覚える。
 いや。
 いいや、違う。コウヤがヒトであろうと無かろうと関係無い。
 人間が――。
 否、生き物が。
 意思と感情を持ち、恐怖を抱いて苦痛を恐れる存在が苦しめられているのを
知りながら、それをここに捨て置いて、自分だけが逃げ延びることが怖いのだ
。ハンスが千宏を置いて逃げたら生きられないと宣言したのと同じように、
千宏もコウヤを置いて逃げてはこの先正気を保ってはいられない。
 他人の苦痛を無視する恐怖は、千宏が他者を傷つけることに対して抱く
恐怖よりも強かった。
 恐らく、自分ならば誰かに救って欲しいという願望の現われなのだろう。
 辛くて、苦しくて、助けて欲しくて、ようやく助けが来たと思ったのに
背を向けられ、見捨てられる。とてもそんなことには耐えられない。
 だから。
 ――最悪、殺すことになる。
 千宏は込み上げてきた苦い唾液を飲み下した。
 ガタガタと震える肩を強くかき抱き、強く目を瞑る。
「アカブ……パルマ……」
 大きな腕で抱きしめて、大丈夫だと背中を撫でて欲しかった。強引な優しさで
手を引いて、底抜けに明るい笑顔で笑いかけて欲しかった。
 彼らは優しかった。ヒトである千宏を人間として見てくれた。家族の
一員にしてくれた。この世界で生き行こうと、そんな希望を与えてくれた。
 暗い森の中、絶望の中で死を覚悟した千宏の眼前に鮮やかに閃いた、
月夜に輝く銀の髪を思い出す。
「バラム……」
 腰のナイフをすらりと引き抜き、それを胸に抱きしめる。千宏は目を開けた。
「……帰るんだ。絶対。帰るんだ」
 あの、穏やかな箱庭に。
 そのためならば、それを阻止しようと言う者がいるのなら――。
 千宏はナイフを腰に戻すと、表情を引き締めて再び足を踏み出した。

 コウヤはまだ眠っているようだった。
 規則正しい寝息を聞きながらベッドに近づき、千宏はその顔を覗き込む。
「コウヤさん」
 静かに名を呼んで、千宏はコウヤの鬱陶しい前髪をそっとかき上げた。
 頬がこけ、無精ひげの伸びた顔はひどくやつれて見えたが、顔立ちは
随分と整っている。睫毛が長く儚げで、きっと女子生徒に人気があったに
違いない。
 千宏は穏やかに頬を緩めかけ、しかし次の瞬間苦々しげに顔を顰めた。
 その整った容姿が、この世界で彼に何を与えたというのか――。
 コウヤが足を痛めたのは、もう十年以上も前だとシャエクは言っていた。
今のコウヤが四十の半ばか三十の後半かは分からないが、落ちてきた時は
ようやく二十代を終えるか終えたかという程度の年齢だったのは間違いない。
教師をしていたと言うのだから、十代で落ちてきたということはないはずだ。
 とは言うものの、この世界の多くの基準から考えても日本人は総じて童顔
である。三十代の男性の容姿が、悪くすれば十代の少年と大差はないことすらある。
 高く売れただろう。そう思った。
 容姿のいい若い男で――おまけにオチモノである。それは高い値が付いたに
違いない。傷をつけては値が下がる。大切に扱われてしかるべき貴重な商品で
あるはずなのに、コウヤがこうなってしまったのには何か理由があるはずだった。
 想像に難くない――逃げたのだ。奴隷と言う立場を厭い、元の世界に返ろう
とあがいたのだろう。
 そして壊された。体も、その強く健全だったはずの精神も。
 コウヤ――。
 どんな字を書くのだろう、とふと思った。それは恐ろしく日本人的な感覚で
、懐かしさがこみ上げてくる。
 そもそも、コウヤとは名前なのだろうか。それとも苗字なのだろうか。
苗字ならば高谷と書くのか、名前ならば弘也だろうか。
 出身はどこなのだろう。どの学校で教えていたのだろう。
「……聞きたいことが山ほどだ」
 小さく苦笑いして、千宏はできるだけ優しくコウヤの体をゆすった。
「コウヤさん、起きて」
 すうと細く瞼が開き、虚ろな瞳に千宏の顔が映り込む。千宏は苦労して
笑みを浮かべて見せ、ベッドサイドにしゃがみこんでコウヤと視線を合わせた。
「聞いて。今朝言った通り、あたしはあなたをここから連れて行こうと思ってる」
 コウヤの表情は動かない。
「誰もあなたを殴らない、食べるものにも困らない――そういうところに
連れて行くよ」
「犯す危険に見合うほど、私に高い値はつかない」
 静かな、だが力強い断定の言葉だった。千宏はぎくりと身を竦ませ、
相変わらずなんの変化も見出せないコウヤの顔を見返す。
 売るために連れて行こうとしていると、コウヤはそう思っているようだった。
そうでなければ珍しいオスヒトを盗賊から盗み出し、所持しようとしていると、
そう思っているのだろう。
「コウヤさん、あたしを見て」
 言って、千宏は自身の髪に指をさしいれ、パチンと軽い音を立ててつけ耳を
外して見せた。どうせ、シャエクにはもうヒトと知れている。
 二つのトラ耳を外し、隠していたヒト本来の耳を見せると、コウヤの表情が
わずかに動いた。
「あたしもヒト。落ちてきてまだ四年くらい」
 だから――と言って通じるものかどうかわからないが。
「だから信じて。あたしは絶対にあなたを傷つけない」
 千宏はコウヤの手を取って、ベッドの上に起き上がらせた。さしたる抵抗も
なく起き上がった体を引き寄せ、その両手を自らの首に巻きつかせる。
「あたしにおぶさって。ちょっと自信ないけど……大丈夫、落とさないから」
 コウヤの身長は、恐らく百七十そこそこだろう。それほど高い方ではない。
加えて足の筋肉はすっかり削げ落ち、脂肪のたくわえなどあるかどうかも疑問である。
 あって六十キロ――だが恐らく、五十五キロもないだろう。首に強く
巻きつけられた腕に安堵して、千宏はコウヤの体を背負って立ち上がった。
 女の身ではさすがに重いが、無理ではない。
 その、耳に。
「ここからは逃げられない」
 コウヤの囁きだった。その、確信さえこもった言葉に背筋が寒くなり、
千宏はごく近くにあるコウヤの顔を見る。
「逃げるよ。絶対」
「わたしが」
 いったん、コウヤは言葉を切った。
「そう計算した。逃げられないよう、トラップの配置を」
 ああ、そうなのか。そう純粋に思った。神経質なイヌのハンスが逃げられない
と感じるほどのトラップを、トラのシャエクが配置できるものかと疑問に思って
いたが、数学の知識を持った人間が計算したのならばそれも頷けないことではない。
「大丈夫だよ。ハンスがシャエクに解除させるから」
 笑いかけた千宏に対し、コウヤの表情はわずかに沈んでいるように見えた。
 コウヤを背負ってドアを開けると、丁度ハンスとシャエクが階段を下りてくる
ところだった。
 ハンスの剣は相変わらずシャエクの喉を捉えており、傷ついた皮膚から溢れた
血が服に滴り赤黒い染みを作っている。二人が階段を下りてくるのをしばし待ち、
千宏もそっと広間へと足を踏み出した。
「――コウヤ?」
 シャエクが硬く強張った声を上げた。
「おい、待てよ。なんでコウヤをおぶってんだてめぇ? そいつぁ俺のもんだ。
まさか連れて行こうなんて言う気じゃねぇだろうな!」
「……悪いけど」
 二つの巨大な窓から夕日がたっぷりと流れ込み、倉庫全体が色でも塗った
ように朱色に染まっている。眩しかったが、千宏は夕日の中に立つシャエクを
真っ直ぐに見返した。
 濃い蜂蜜色の髪が夕日の赤に鮮やかに映え、それは千宏がよく知る月に輝く
銀髪と同じく、目に痛いほど美しい。
 好きになれたらよかったのに、と。そう思った。綺麗な物は好きだから、
シャエクを好きになれたらよかったのに、と。
 そうしたらきっと、蜂蜜色の髪をしたトラのマダラと、過去に傷ついた
オスヒトの話を明るい土産話に出来たのに。
「連れて行くよ」
 声が震えそうになるのをどうにか押さえ、千宏はできるだけ力強い声で答えた。
「冗談じゃねぇ! コウヤはようやくここに慣れてきたんだ、それをまた
さらってどこかに売り払おうってんなら容赦しねぇぞ!!」
「誰が――売ったりなんかするもんか!!」
 千宏が怒鳴ると、さすがに驚いたようにシャエクが黙った。
「この人は……だって、あんたに怯えてるじゃないか」
 千宏はコウヤを背負う腕に力を込めた。
 この人を、決してここに置いて行ったりなどしない。何があってもと、
そう決めた。
 多くの心無い飼い主に比べれば、シャエクがコウヤを大切にしていること
くらい千宏にだって分かっている。
 だが、それがどうした。
 他に比べてましだからと言って、シャエクの行為を許すことなど千宏には
到底できなかった。許したいとも思わない。
 虚ろな目をした多くのヒトを乗せた馬車。檻で千宏に掴みかかった女の顔。
コウヤの体に残る傷に、生々しい無数の痣。それら全てがシャエクの背後に
見えるようで、千宏はこみ上げてくる抗いがたい感情にゆっくりと唇を震わせた。
「ようやくここに慣れてきたって? 冗談じゃない! 慣れるも、慣れないも
関係ない。何をされたってこの人は、諦めることしかできないだけじゃないか!! 
あんたはこの人を殴ったね? 何度も、何度も! これからも殴るんでしょう? 
しつけって言ってさ。それが当然だって顔してさ! コウヤさんはあんたの
ペットや玩具じゃない。この人だって、あたしだって……! ヒトだって人間なんだ!!」
 一瞬、奇妙な間があった。
 シャエクが大きく目を見開き、まじまじと千宏を見る。
 それから、
「ヒトが――人間?」
 堪えきれないというように噴き出した。
 千宏は表情を強張らせる。
「笑わせるぜ! ヒトは弱くて種族として劣ってる。だから俺たち強い
立場の人間が、温情で飼って守ってやってるんだろうが。仮にヒトが
人間だったら――どうだってんだ? あ? それ相応に扱えってか? 
まともな人間ですら、まともに扱われねぇことがあるってのに? 
そいつぁ虫が良すぎるってもんだぜ、ヒトのお嬢ちゃんよ!」
 ハンスが刃に力を込めるのも構わず、シャエクは続けた。
「分相応ってやつだよ。劣ってる奴は優れてる奴の小便舐めて生きるのが
この世の摂理ってもんだろう? 嫌なら自分が強くなれる場所に行きゃ
いいのさ! そんな場所がないなら、そいつはこの世界で最も劣ってる
存在ってことだろうがよ! 違うか!?」
「違う! 強ければ優れてる、弱ければ劣ってるなんて、そんなことあ
るわけない!」
「いいや、違わねぇな! 強い弱いじゃねぇって? なるほど、
そりゃあそうかもな。だがヒトにしたってよ、なあ。価値のあるヒトは
それなりの生活をしてるぜ? 俺よりいいもの食ってるかもな。言っちまえばよ、
ヒトが人間だろうと道具だろうとどうだっていいのさ。そいつの価値に
見合った扱いを受ける――それだけだ! だからよ、ヒトのお嬢ちゃん。
あんたがこのイヌの娼婦なのとおんなじで、コウヤは俺のペットで玩具だ。
それがそいつの価値だ。居場所だ! むしろそうだ、価値があるからそいつは
俺に拾われたんだ。ゴミみたいに扱われてるのを拾ってやって、毎日飯を
食わせてやってる。しのごの言われる筋合いはねぇし、誰にも連れて行かせやしねぇ!」
「優れてるとか、劣ってるとか――! 価値があるとか、無いとか! 
分相応だとか、不相応だとか!!」
 ぎりぎりと軋むほどに奥歯を噛み締め、千宏は唸るように言った。
「誰が決めるんだよ、そんなもの! 誰が決めたんだって言うの!?
 誰かが決めた価値や優劣に従って、甘んじてやる義理なんて
こっちには無いんだ!!」
 千宏は無理矢理口角を吊り上げて、ひどく不恰好な笑みを唇に刻んで
シャエクを見下すように睨み付けた。
「言っても、あんたにはわからないだろうね」
 シャエクを憮然として口を閉ざし、暗い目で千宏を見る。
「ヒトじゃないもの」
 突然、シャエクが肩を揺らして笑い出した。
「何がおかしいの」
「いや、なに。おもしれぇなあと、思ってな」
 ふと、何か音が聞こえた気がして、千宏はシャエクの足元に目を落とした。
 血だ。血の雫がぱたぱたと音を立てながら、シャエクから滴り落ちている。
 一瞬、千宏はシャエクの首から溢れた血が滴っているのかと思った。
だが首からの出血など微々たる物で、それも全て服が吸収してしまっている。
「おまえとコウヤが同じヒトってのが……どうにもおもしろいじゃねぇか。
ヒトってのはもっとよ……哀れで、惨めで、可哀想な生き物だと思って
たんだが……本来はそういうもんか? それともあんたが特別なのか? 
ああ、答えなくていい。どっちだってかまいやしねぇ」
 そうか、そうかとシャエクは笑う。
「――優れてるとか、劣ってるとか。価値があるとか、無いとか」
 シャエクは先ほどの千宏の言葉を繰り返し、裂けんばかりに口角を吊り上げた。
 笑ったのだと思う。
 千宏は再び、床に滴った血に目をやった。ぱたぱたと散っていた血の雫が
細くくねり、お互いに絡み合い、じわじわとシャエクの足元に広がって行くのが見える。
 手だ、と千宏は思った。
 握り締めた拳の中でシャエクの爪が自らの皮膚を突き破り、そこから血が
滴り落ちているのだ。
「決めるのは俺だ。――少なくとも、ここではな」
 ふと、千宏は寒気を覚えた。
 建物を囲むようにびっしりとトラップがある、とハンスは言っていた。
だが、トラップに使われる魔方陣という物は、そもそも手軽に描けるような
ものでは決してない。
 バラムと暮らしていた千宏は知っていた。ただ一つの魔方陣を描くのに、
どれほど時間と集中力が必要か。
 殺傷能力のない簡単なものならば五分そこそこで描けると、以前バラムが
平然と言ってのけたことがあったが、それはあいつが異常なのだとアカブは
顔を顰めて言っていた。
 それを、この広大な建物をぐるりと囲むほど周到に張り巡らせたシャエクが。
 ――屋内にトラップをしかけないわけがない。
「ハンス、逃げ――!」
「もう遅せぇ!!」
 シャエクの足元が眩く発光し、地面から鋭く延びた赤い光がハンスの
体を貫いた。
 ハンスの手から剣が落ち、その体がシャエクにすがるようにして
ゆっくりと崩れ落ちていく。
 ごぷ、と真っ赤な血を吐いて、ハンスは両膝を突いて床にうずくまった。
 どこもかしこも、見る場所全てが赤かった。
 シャエクも、ハンスも、部屋も千宏も何もかもが夕日に染まっている。
 それとも――これは全部血の赤なのだろうか。
 胸が締め付けられるように痛み、頭が軋んで悲鳴を上げていた。
口の中がからからに渇き、喉が張り付いて引き連れる。
 だというのに、突如溢れ出した涙だけが、意思とは無関係に千宏の
頬を濡らしていった。

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